第 3 章 市場経済体制に対応した社会保障制度の設計
第 2 章で述べたように、1950 年代後半から 1970 年代末まで、中国経済は社会主義公有 制(国有と集団所有)を基礎として計画経済体制のもとで発展してきた。1978 年に、工業 生産総額に占める国有企業の割合は 77.6%、集団企業は 22.4%となっており、国有・集団 経済以外の個人・民間経済はほとんどなかった[『中国統計年鑑 1992』]。重工業優先発展 戦略を遂げるために、高度の中央集権が行われてきたのである。
しかし、1978 年の改革開放政策の実施によって、それまでの中央集権の計画経済は徐々 に地方分権型の市場経済に転換された。公有制中心の経済構造も多所有制に変化した。そ の結果、持続的な高い経済成長が実現し、国民の生活水準も向上した。今日に至る二十数 年間、高成長をもたらした経済政策における重要な政策理念の 1 つは、「放権譲利」であろ う。すなわち、一部の意思決定権と利潤・収入を中央から地方へ、政府から企業へ譲るこ とである。放権譲利という政策理念はさまざまな制度に取り入れられ、農村部と都市部に おいて実施されてきた。
本章においては、市場経済体制への移行過程における制度改革がもたらした社会的・経 済的諸変化を検討する。とりわけ、国有企業改革と財政制度改革に対する分析を通して、
中央政府と地方政府間および政府と国有企業間の財政変化を検討する。その上で、それら の変化が社会保障制度を改革させた重要な原因の 1 つであることを明らかにする。
第1節 改革開放政策の展開と基本理念
1.改革の段階
1978 年に開催された中国共産党第 11 期三中全会で、中国の経済政策は経済改革と対外 開放の 2 大方針に決められた。改革開放が中心となっている市場経済への転換は、おおむ ね 4 つの段階に分けられる。すなわち、1978 年末から 1984 年までの政策の立ち上げと農 村部での実行という第 1 段階、1984 年から 1990 年代初頭までの都市部への展開という第 2 段階、1992、93 年頃から 1997 年までの「社会主義市場経済」綱領の確立と市場経済のフ レームワークの建設という第 3 段階、1998 年から現在までの経済成長を維持できるように 所得再分配機能の強化と社会保障安全網の再構築が行われた第 4 段階である。このような 時期区分を念頭におきながら、さまざまな制度改革およびそれらがもたらしてきた諸変化
を整理してみる。4 段階のうち、特に注目すべきところは、1990 年代後半から財政機能が 所得再分配に転換し、全国規模の社会保障安全網の再構築が本格化した点である。
2.経営管理自主権について
計画経済体制のもとで経営自主権が剥奪されたことによって、企業はインセンティブの 欠如や効率の低下といった問題を抱えていた。また、計画経済体制における地方政府は中 央政府に依存する傾向が強く、インセンティブの乏しい状態を続けていた。企業や地方政 府におけるインセンティブの欠如や効率の低下が経済の停滞につながっていた。そのよう な非合理的な状況を改善するために、1978 年 12 月の第 11 期三中全会では、中国は国の統 一的計画を前提に、地方政府と工業・農業企業により多くの経営管理自主権を与えるとい うことを改革の基本理念として打ち出した。つまり、放権譲利である。「放権」とは、これ までに中央政府に集中してきた生産と経営の意思決定権や資金の使用・割当の権力を企業 と地方政府に譲渡することである。「譲利」とは、これまでに中央政府に吸い上げられてき たほぼすべての企業利潤と地方財政収入の一部を企業と地方政府に割り当てることである。
農業と工業生産における放権譲利は、請負制の方法を通して行われた。1970 年代末から 1980 年代半ばにかけて、農家生産請負制が農村部で実施され、農村経済が活発になった。
農業生産における請負制の効果が確認できたので、企業の生産経営請負制や財政請負制が 1980 年代半ばから 1990 年代初頭にかけて都市部において急速に進められた。
第2節 農家生産請負制と人民公社の崩壊
1.農家生産請負制の展開
農家生産請負制とは、一言でいえば、農家世帯ごとに生産を請け負い、自ら損益に責任 を持つような制度である。農家は政府との契約をクリアすれば、生産余剰を販売したり、農 業生産の余暇を利用して出稼ぎに行ったりすることができるようになった。農家生産請負 制の実施とともに、農産物の政府買い付け価格が大幅に引き上げられた。第 2 章で述べた ような農産物と工業製品の間の価格差がある程度改善された。請負制は、計画経済期にあ った生産利益の統一配分を打ち破り、自らの努力によって多くの利益を獲得することがで きる仕組みを作り上げたため、農家の勤労インセンティブが向上し、収入も著しく増加し た。農家生産請負制は 80 年代の前半に急速に普及していった。1983 年までに農家全体に
占める農家生産請負制の割合は 98.3%に達していた[伊藤(1998)、p.12]。
農村部では、農業生産に対する農家生産請負制の実施にともない、副業生産範囲の拡大 も認められるようになった。農民は農業生産活動の余暇を利用し、小規模の手工業から工 業とサービス業へと副業の範囲を広げていった。郷鎮企業1や農民の集団企業がこのような 背景のなかで誕生し、中国経済になくてはならない勢力にまで成長してきた。郷鎮企業の 成長は、農民が農村地域で農業生産活動のみに従事する制限を事実上打ち破った。そのこ とは二重社会の構造が和らげ始めたことを意味する。郷鎮企業の成長は後の社会保障制度 改革の原動力と必要条件にもなった。郷鎮企業が中国経済および社会保障改革に与えた多 大な影響については後で詳細に検討する。
2.人民公社の崩壊
生産活動に対する農民の積極性を引き出し、農村経済を活発にさせた農家生産請負制は、
個人農を復活させた制度設計とみなすこともできる2。農家生産請負制の急速な普及にとも ない、農業生産の個人農化は 1981 年後半から急速に進み、1984 年頃ほぼ 100%に達した[川 村(1983)、p.42]。第 2 章で述べたが、1980 年代まで、中国の農業は人民公社を通して集 団経営の形をとっていた。人民公社は政府の生産指令を受け、農業のグループ生産を営み ながら、農家の生活上の面倒も見ていた。しかし、個人農の復活や郷鎮企業の急成長によ って人民公社の役割が縮小し、徐々に解体していき、1984 年にはほとんどなくなった。人 民公社の解体は、農村部で末端権力機関のような役割を果たしてきた農村共同体が崩壊し てしまったことを意味している。人民公社の崩壊にともなって、人民公社や生産大隊が出 し合った公益金で支えられてきた農村協力医療保健制度も解体された。そのため、二重構 造の社会保障制度のなかで軽視されてきた農村部の社会保障制度にさらなる空白が生じる ようになった。
第 3 節 国有企業改革による政府と企業の関係変化
1984 年 10 月の中共第 12 期三中全会において採決された「経済体制改革に関する中共中
1 郷鎮企業とは農村部の郷、鎮、村が出資し、経営管理主体となっている企業のことである。その原点と は、昔人民公社や生産大隊が経営していた企業である。
2 このような考えが多数である。日本語の先行研究のなかで、小島編著(1988)、川村(1983)が代表的 なものである。
央の決定」によって、経済改革の重点は農村部から都市部に移された。都市部の改革では、
最も重要な方針の 1 つとして、行政指令による直接統制の縮小と市場を通したマクロ的間 接統制の拡大が取り上げられる。
都市部の経済改革は、基本的に政府と企業の関係を改善することを中心とする国有企業 改革と、中央政府と地方政府の関係を改善することを中心とする財政制度改革からなって いる。本論文では、国有企業改革と財政制度改革は社会保障改革を促し、社会保障制度に おける財源政策の変化を引き起した主要な原因と考えている。本節では、国有企業改革を 通した政府と国有企業の関係変化について分析を試みる。
1.国有企業改革と社会保障改革の関係
1984 年以降の国有企業改革としては、「放権譲利」、「経営請負制」、「利改税3」、「株式制」
というような改革が実施されてきた。前3つの改革は財政制度改革と緊密な関係がある。
それにひきかえ、株式制改革は 90 年代後半からの試みで、所有制に触れる改革であり、い まだに慎重に進められているものの、財政制度改革とはそれほど緊密な関係ではないので、
本論文ではこれ以上は取り上げない。
国有企業の改革は、まず放権譲利から始まった。放権譲利のもとで、国有企業の経営自 主権がますます拡大されていき、1990 年代に入り、その効果は次のように現われた。1990 年に指令的計画管理されていた製品は 1979 年の 120 品目あまりから 58 品目になり、工業 生産総額に占める割合も 40%から 16%にまで減少した。国家計画委員会が調達・配分する 重要物質と商品は、それぞれ 256 品目と 65 品目から 19 品目と 20 品目に削減され、国が統 括する輸出商品は 900 品目から 27 品目に減少し、輸出商品総額に占める割合は 20%前後 にまで下がった[林他(1999)、p.49]。しかし、1990 年代初頭までは政府による価格規制 が依然として厳しかったため、留保できる利潤は産業や企業によってかなり異なっていた。
後に分析するが、産業ごと企業ごとに異なる留保利潤の存在が、当該産業や企業における 社会保障・福利厚生の格差をもたらすこととなる。
(1)社会保障・福祉給付の多様化
放権譲利のもとで、国有企業の経営自主権が次第に拡大され、資金使用権も徐々に高め
3 「利改税」は 1983 年 6 月から実施された政策である。具体的なやり方としては、すべての国有企業か ら、55%の所得税を徴収するというものであり、実際には 55%の企業利潤が税のかたちに転換された。
納税後の企業利潤は国家と企業の間で配分される。
られた。その過程で、特に留意しておきたいのは企業基金の創設と利潤留保に関する具体 的な規定である。1978 年 11 月に、国務院は「国営企業において企業基金を試行すること に関する規定」を通達した。そのなかで、企業が政府の生産計画を満たせば、賃金総額の 5%を企業基金として、福利施設の建設、従業員の福利厚生、従業員への奨励金に使用する ことが認められた[項主編(1999)、p.304]。この通達により、国有企業は従業員に対して、
福利厚生の自主的裁量権をはじめて持つようになった。さらに、1979 年 7 月に、国務院は
「国営企業の利潤留保に関する規定」を公布した。それに従い、国有企業は国が定めた割 合で利潤の一部を留保し、生産発展基金や従業員福利基金と従業員奨励基金を作ることが できるようになった。利潤留保の割合は次の通りである。①新製品試作基金が利潤総額の 1-2%、②科学研究費および従業員の研修費が財政からの実質支出額、③従業員の福利基 金4が賃金総額の 11%、④従業員の奨励費が標準賃金総額の 10-20%、となっている[項 主編(1999)、pp.304-305]。ここで留意してほしいことは、従業員の福利基金に関する割 合の決定である。新製品試作などの生産発展基金のベースである利潤と比べると、賃金総 額というベースは財源の安定性を意味している。また、従業員奨励基金のベースである標 準賃金総額と比べると、確保できる財源が大きい。つまり、この4つの基金や経費のうち、
従業員福利基金のベースが最も大きくかつ安定的であるということである。企業基金の創 設や企業利潤留保の拡大は、これまでの統収統支の財政制度を破り、企業の経営自主権を 拡大させ、企業および従業員のインセンティブを向上させた。他方、これらの政策は、従 来の全国一律の社会保障・福祉給付を多様なものにした。政府財政の支援が縮小されてい く(または完全になくなる)につれて、このような政策は企業自身の生産コスト増を招い てくる。生産コストを抑制するために、企業が社会保障・福祉給付を縮小したりする動き が見られるようになった。1970 年代末に実施された企業の財政制度改革は社会保障改革を 促した潜在的な要因の 1 つであると思われる。
改革初期では、産業ごとや企業ごとに対する規制の度合が異なっていたので、産業ごと や企業ごとにおける収益は異なっていた。そのため、収益に応じて、従業員に提供した社 会保障・福祉給付に格差が生じるようになった。後に詳細に検討するが、中央政府のマク ロコントロールの弱体化にともない、このような格差は徐々に拡大してしまった。
4 福利基金は 1969 年に作り出された基金であるが、1979 年に 11%に引き上げられた。内訳としては、福 利費 2.5%、奨励金 3%、医療費 5.5%となっていた。さらに、1993 年に 14%に引き上げられ、医療費へ の支出も 7%となった。
(2)企業機能の復元と社会保障改革の要請
第 2 章で分析したように、計画経済期においては国有経済が中国経済の主体となってい た。財政収入の大半は国有経済部門から調達されていた。財政収入構造の特徴として税収 の割合が小さいことが挙げられる。1956 年から 1978 年までの間、税収の財政収入に占め る割合が 46%であったのに対して、企業収入の割合は約 53%となっていた[項主編(1999)、
p.290]。企業から調達する財政収入は課税という形より、政府と企業の間の従属関係に基 づく利潤上納であった。政府の役割としては社会基盤の整備などの公共支出よりも、資本 蓄積および生産投資に重点をおいていた。1950 年代半ばから 1978 年まで、財政による経 済建設5への支出は約 60%を占めており、1978 年時点では 64.1%になっていた[『中国財政 年鑑 2003』、p.347]。
国有企業の役割として、生産任務を遂げることに加えて、従業員の生活安定にかかわる 社会保障機能を果たすことまで拡大されていた。前財務大臣の項懐誠氏は、政府と企業の 関係について次のように述べている。「国有企業は従業員のために、揺りかごから墓場まで の社会保障制度を提供してきた。従業員の住宅、医療給付、年金給付などが企業から支給 されていた。しかし、統収統支の財政制度のもとで、企業が提供していたこれらの社会保 障・社会福祉的な給付は、行政機関や事業単位6の場合と同様に、政府財政資金で賄われて いた」[項主編(1999)、p.292]。このような発言から明らかになったのは、企業が政府財 政資金を用いて、従業員の社会保障・社会福祉給付を行っていたことである。また、その 発言は、国有企業従業員に対する社会保障が「単位保障」のルートを通して行われていた 証ともなっている。国有企業は政府の行政執行機関として、生産活動以外に、従業員の生 活に関する責任も負わなければならなかった。国有企業は政府と一体となり、「政企合一」
(政府行政機関と国有企業管理の職能の一体化)という関係を形成していたのである。
しかし、1970 年代末から始まった経済改革は、計画経済期における政府と企業の関係を 変えた。最も目を引く変化は、利改税改革によって、政府が租税を通して企業と結びつく ようになったことである。
1983 年 6 月から実施された利改税は、財政制度改革を通して国有企業改革を促進したと いってよい。利改税が実施された背景には、外資系企業をはじめとする多くの非国有企業
5 経済建設は、予算項目のなかに最も重要な項目である。そのなかに基本建設投資というのは固定資産投 資に相当すると思われる。
6 事業単位とは非営利法人(民間企業以外)の政府関連事業体を指す。例えば、病院、大学、研究所など である。
の成長にともない、従来の国有企業の利潤上納という財政収入の主要手段が現実状況に合 わなくなったことがあった。すべての企業から資金を吸い上げるために、利改税として、
国有企業の利潤上納を企業所得税に置き換えたのである。政府は大中型の国有企業に対し て 55%の所得税を課し、小規模の国有企業に対して 8 級累進税率の所得税を課するように なった[項主編(1999)、pp.331-334]。
1980 年代に入る前、中国には工商税や工商所得税といった流通段階に賦課する数種類の 税しかなかった。利改税が実施されてからの中国の税制は、産品税7(取引高税)・増値税
(付加価値税)・営業税という 3 つの租税から構成される流転税と、国有企業所得税・国有 企業調整税・集団企業所得税・私営企業所得税・個人企業所得税・中外合資企業所得税・
外国企業所得税などから構成される企業所得税を基幹税とするようになった。1980 年代に おいて、この 2 つの基幹税が中国の租税収入に占める割合は約 70%であった[神野(1999)、
p.81]。利改税に基づき、国有企業はこれまでのように利潤をすべて国家に上納しなくて済 むようになった。企業は所得税を納めた上で、税引き後の利潤の大部分を留保し、自主的 に使用することができるようになった。その大半は、生産拡大や新製品開発に使用するよ うに定められた。これは部分的であるが、生産投資が従来の財政支出から企業の利潤留保 に変わったことを意味している。企業の生産活動は徐々に政府の指令と資金関与から離れ るようになった。
利改税と同じ時期に、もう 1 つの制度改革が行われた。それが、企業の生産資金を財政 支出の割当から銀行の貸付に変換する「拨改貸8」といわれたものである。1983 年に実施 された拨改貸は、財政が果たしてきた役割―国有企業に生産資金・投資資本の提供―を銀行 に転換するものであった。これによって、銀行は事実上国有経済を支える組織として、国 有企業に資金を提供する資金源となった。しかし、当初は国有という所有制のもとにおか れた銀行は、自らの経営権が乏しく、政府主管部署の計画通りに国有企業に資金を貸出す ようになっていた。これは国有企業の安易な経営を助長するといわれている。
利改税と拨改貸が実行されてから、企業投資基金は基本的に留保利潤か銀行の融資によ り調達されるようになり、政府予算から分離された。そのことによって、それまでにいわ れていた「政企合一」が徐々に「政企分離」(政府行政機関と国有企業管理の職能の分離)
に変わっていった。2 つの改革は、企業自身による資本蓄積、生産投資という企業本来の
7 1994 年の分税制によって、産品税が取り消されて、新たに消費税が設けられた。
8 「拨」とは「財政拨款」を指しているが、財政支出の意味である。「貸」とは「銀行貸款」を指してい るが、銀行による貸出の意味である。
機能を復活させた最初のきっかけとなった。計画経済期に歪んだ企業機能が従来の姿に復 元されたこと、生産資金が政府財政支出から銀行の貸出に変えられたことを受けて、企業 はそれまで行ってきた単位ルートの社会保障を重荷のように感じ始めるようになった。利 改税および拨改貸という改革は社会保障改革を引き起こす要因となる。
利改税と拨改貸の実施によって、国有企業ははじめて負債という認識を持つようになっ た。1980 年代半ば頃になって、負債額が徐々に拡大していくことによって、はじめて破綻 にまで至る企業が現われた。それを契機として、社会主義計画経済体制でありながらもリ ストラが行われるようになった。そのことが、失業保険が登場してくるきっかけの 1 つと なったといわれている。失業保険制度の登場は、計画経済期の社会保障制度自身における 重大な変革となり、社会保障制度改革の始まりとなる。
さまざまな面から見ると、利改税は成功したとはいいがたいが、放権譲利、経営請負制 とともに、国有企業改革の方向を固めるものであった。それは文字通り「政企分離」であ り、企業経営に対する政府の関与(資金と生産指令など)をなくし、企業が自らの意思決 定により生産活動に集中していく方向を目指したものであった。しかし、計画経済体制の もとで国有企業が政府財政資金を用いて従業員に提供していた社会保障給付という点に着 目するならば、その財源調達の面では危うさが生じてきた。国有企業改革がもたらした政 府と企業間の関係変化、とりわけ政府と企業間の資金関係の変化が、計画経済期の社会保 障制度に対して改革を求めるようになるのである。
2.非国有セクターの成長と社会保障改革の関係
(1)所有制構造の変化
1970 年代末からの経済改革によって、社会主義公有制の基礎は大きく変化してきた。国 有企業改革の進展につれ、非国有経済が急速に成長してきた。企業類型は国有企業と集団 企業といった比較的に単純な構成から、私営・個人企業9、外資10などを含むその他の企業11
9 三菱総合研究所編(1999)によれば、私営・個人企業とは生産手段が公民個人所有に帰属する経済体で ある。私営独自資本企業、私営連合企業、私営有限責任会社などを含む。私有制企業とは、都市、農村の 個人経営企業のことである。このうち、雇用者数が 8 人以上のものは“私営企業”、8 人以下のものは個 人企業や“個体戸”(自営業者)と称される。
10 外資とは外資企業のことである。三菱総合研究所編(1999)による説明では、外資企業とは外国投資家 が中国の対外経済に関する法律、法規に則り、合資、合作、独自資本(100%外資)の形式により中国の国内 に設立した企業のことである。
11 三菱総合研究所編(1999)による説明では、その他の企業とは共同経営、株式、有限、香港・マカオ・
台湾を含む外資といったような企業形態のことである。
などに多様化した。国有企業改革に関する数多くの先行研究を踏まえながら、非国有セク ターの成長ぶりとそれによる社会保障制度改革の必然性を検討する。
図表Ⅲ-1 は、1978 年前後の企業形態の変化を概略的に表したものである。それを見て わかるように、1979 年以降、国有企業と集団企業は一部が従来のままに残っているが、小 型の国有企業や集団企業のなかには民間資本に買収される形で民間企業に転換したものも ある。計画経済期においては個人経営があったものの、そのほとんどが個人売店の経営や 自転車修理のような自営業者でしかなかった。しかし、1979 年以降、それは私営・個人企 業などの多様な企業形態へと変わった。もちろん新たな自営業者も大量に現われてきた。
各種の所有制企業に対する政府関与は、国有企業、都市部集団企業、大中型私営企業、大 中型郷鎮企業、個人企業の順になっている。政府関与が少ないために、非国有・集団企業 における企業自身の意思決定権が大きい。その反面、社会保障制度というような恩恵は国 有企業と都市部集団企業にとどまる。企業形態の多様化がますます進行していくことによ って、従来の国有企業・集団企業を対象とした社会保障制度の限界が明らかになってきた。
図表Ⅲ-1 企業形態の変化
1978年以前 1979年以後
農村部(公社企業・大隊 企業)
都市部 中央政府 省・直轄市級政府
地区級政府 県級政府
個 人 経 営 集 団 企 業 国 有 企 業
左と同じ
私営・個人企業 外資系企業 その他の企業
左と同じ
私営・個人企業 外資系企業 その他の企業
郷鎮企業
私営・個人企業 外資系企業 その他の企業
出所:小島他(1988)、p.33 を参考にして作成。
(2)非国有セクターの成長
非国有セクターの成長を就業面と経済パフォーマンスなどの指標で把握してみよう。ま ず、就業面について検討してみる。図表Ⅲ-2 を参照されたい。1978 年から 2002 年までの 間、都市部の就業人口は 9,514 万人から 2 億 4,780 万人へと 1 億 5,266 万人増加した。し かし、国有セクターは 7,451 万人から 7,163 万人へと 288 万人減少した。このような事実 から、非国有セクターはすべての新規雇用を提供しただけではなく、国有セクターにおけ る雇用の縮小分も補っていることがわかる。私営・個人企業の正規従業員数は 1978 年の 15 万人に対して、2002 年には 4,268 万人にも上っている。また、1978 年までにほとんど存在 しなかった外資などを含むその他の企業は、2002 年には約2,585万人を雇用している。1978 年から 2002 年までの構成割合を計算してみると、国有部門は 78.3%から 28.9%に激減し、
集団部門も 21.5%から 4.5%に下落した。一方、私営・個人企業は 0.2%から 17.2%に、外 資などを含むその他の企業は 0 から 10.4%に上昇してきた12。明らかに、非国有セクターは 国有セクターを超え、中国経済を支える新興勢力となっており、国有を中心とする公有制 が破れてしまった。新興勢力の急速な成長は、それらの企業の経営内容や経営手段にもよ るが、それらの企業が医療、年金などを含む社会保険に対して負担を負っていないという 優位性を持っていることにもよる。これについては、後に分析する。
一方、農村部における郷鎮企業、私営・個人企業などの非国有セクターの成長も著しい。
郷鎮企業は農村における製造業、サービス業を担っている。図表Ⅲ-2、3 を見てわかるよ うに、郷鎮企業に勤めている従業員は 1978 年の 2,827 万人から 2002 年の 1 億 3,288 万人 まで約 5 倍に増えてきた。また、1978 年から 2002 年までの間、郷鎮企業数は 152.4 万社 から 2,132.7 万社へと増加した13。2002 年に、郷鎮企業が生み出した総生産は 3 兆 2,386 億元で、GDPの 30.9%にも相当する[『中国統計年鑑 2003』]。これらの数値は郷鎮企業が中 国の経済発展に重要な役割を果たしていることを裏付けている。他方、農村部における私 営・個人企業の従業員は 1978 年にはほとんどなかったが、2002 年に 3,885 万人になった[図 表Ⅲ-2]。このように、農村部に第 1 次産業といわれた農業に従事する者以外に、第 2 次 と第 3 次の製造業やサービス業に従事する者も大勢現れてきた。しかし、1980 年代以降、
12 1990 年以降、4 つの経済部門の割合合計は 100 にならないことは、正規従業員以外に、各経済部門に数 多くの農民工や短期アルバイトなどの労働者が存在しているからである。それらの人々は雇用統計に計算 されていない。
13 図表Ⅲ-3 から郷鎮企業の従業員数および企業数が 1990 年代半ば頃に最高を記録したことがわかる。
その後 1997 年のアジア通貨危機が中国の郷鎮企業に打撃を与えたようである。しかし、1998 年以降再び 増大してきている。
このように貢献をしている郷鎮企業や私営・個人企業で働いている従業員に対しては、医 療保険制度をはじめとする社会保障制度がほとんど適用されていなかったのである。労働 生産性に大きく影響する健康にかかわる医療サービスの供給は、従業員の自己負担や企業 の各自の規定によって行われていたのである。
図表Ⅲ-2 就業人口の所有制別構成比
注1:1990 年以降、国有、 個人とその他の合計は都市部合計に一致しなくなったことは、
正規就業者以外に 労働者が雇用統計に計
注2:
出所:『 127。
図表Ⅲ-3 年代別郷鎮企業数と従業員数 都 市 部 合 計 農 村 部 合 計
国 有 集 団
私 営 ・個
人 そ の 他 郷 鎮 ・私 営 ・個 人 の 合 計 郷 鎮 企 業 私 営 ・個 人 絶 対 数 (万 人 )
1978 9,514 7,451 2,048 15 30,638 2,827 2,827
1980 10,525 8,019 2,425 81 31,836 3,000 3,000
1985 12,808 8,990 3,324 450 44 37,065 6,979 6,979
1990 17,041 10,346 3,549 671 162 47,708 10,869 9,265 1,604 1995 19,040 11,261 3,147 2,045 883 49,025 16,387 12,862 3,525 2000 23,151 8,102 1,499 3,404 1,983 48,934 16,893 12,820 4,073 2001 23,940 7,640 1,291 3,658 2,193 49,085 16,902 13,086 3,816 2002 24,780 7,163 1,122 4,268 2,585 48,960 17,173 13,288 3,885
構 成 比 (% )
1978 100.0 78.3 21.5 0.2 100.0 9.2 100.0
1980 100.0 76.2 23.0 0.8 100.0 9.4 100.0
1985 100.0 70.2 26.0 3.5 0.3 100.0 18.8 100.0
1990 100.0 60.7 20.8 3.9 1.0 100.0 22.8 85.2 14.8
1995 100.0 59.1 16.5 10.7 4.6 100.0 33.4 78.5 21.5
2000 100.0 35.0 6.5 14.7 8.6 100.0 34.5 75.9 24.1
2001 100.0 31.9 5.4 15.3 9.2 100.0 34.4 77.4 22.6
2002 100.0 28.9 4.5 17.2 10.4 100.0 35.1 77.4 22.6
集団、私営・
、各経済主体に数多くの農民工や短期アルバイトなどの 算されていないからである。
農村部合計に、郷鎮企業と私営・個人企業のほかに、多くの農業労働者が含まれている。
中国統計年鑑 2003』、pp.126-
10624.6
12862.113508.3
9158.3 6979.0
2826.6
7937.1
9545.5 9264.8
12345.3 12536.6
13287.7
1222.5
2336.3
907.5 1515.3
152.4
1888.2 1850.4
2091.6 2452.9
2202.7
2004.0 2132.7
0.0 2000.0 4000.0 6000.0 8000.0 10000.0 12000.0 14000.0 16000.0
1978年 1980年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年
1995年 1996年
1997年 1998年
1999年 2000年
2001年 2002年 万 人
0.0 500.0 1000.0 1500.0 2000.0 2500.0 3000.0 従 業 員 数 (万 人 ) 企 業 数 (万 社 ) 万 社
出所:『中国労働統計年鑑 2003』p.471、p.473 より引用。
企業数や従業員数のほかに、工業生産総額、GDP、財政収入に占める割合など、さまざま な
図表Ⅲ-4 工業生産総額に占める各所有制の割合の変化
表Ⅲ-4 が示しているように、1978 年の経済改革以来、工業生産総額に占める国有企 業
生産総額の増加分に対して、各所有形態の経 済
1978 年の経済改革以降、財政に対する非国有経済の寄与も大きくなっている。
国
指標からも非国有経済の発展ぶりを見ることができる。1999 年以降、企業に関する定義 と統計方法が変更されたことによって、それ以前の統計指標とうまく合致しない。そのた め、工業生産総額などにかかわる統計資料の分析は 1998 年を境にしておく。必要に応じて その後の状況も言及する。
0 1 0 2 03 0 4 0 5 0 6 0 7 0 8 09 0 1 0 0
1978年 1980年
1985年 1986年
1987年 1988年
1989年 1990年
1991年 1992年
1993年 1994年
1995年 1996年
1997年 1998年
%
国 有 企 業 集 団 企 業 私 営 ・ 個 人 そ の 他出所:『中国統計摘要 1999』、p.100 より作成。
図
のシェアが減少している傾向にあるが、その一方で、私営・個人企業と外資などを含むそ の他の企業など新興勢力がシェアを年々伸ばしている。1998 年にはこれらの新興企業の全 国工業生産総額に占めるシェアは合計で 40%を上回るようになっており、国有・集団企業 と匹敵するような勢力になってきている。
また、『中国統計年鑑 1999』に従い、工業
成長による寄与度を測ってみると、非国有セクターは 1980 年代半ばから 1990 年代末に かけて 60-70%も占めている。経済成長に対する非国有セクターによる貢献度が明らかで ある14。
さらに、
家予算収入のうち、非国有経済による収入は 78 年の 13.2%から 93 年の 39.4%にまで上 昇し、年平均 1.8 ポイントで増えている[樊「中国経済体制改革的動態過程」]。
14 『中国統計年鑑 1999』、p.423 の資料に基づき計算した結果である。
(3)非国有セクターの成長と社会保障の関係
障制度にどのような影響をもたらしてい る
競
非国有セクターの成長は中国経済および社会保
のであろうか。中国において著名な経済学者である樊綱氏が提起した「漸進式改革15」 から分析してみよう。中国の経済改革に対して、樊綱氏は、次のように指摘している。「中 国の漸進式改革はストックの改革ができない状況のもとにおいて、フローの改革によって 新体制を確立し、フローの改革の累積にともなった形で次第に経済全般の体制の構造を変 え、ストックの改革の条件作りをしてきたものである」[樊(1996)、p.153]。ここでいう ストックは社会主義計画経済体制に固有の全民所有制(国有制、集団所有制)のもので、
フローは非主流的、全民所有制外部のものを指している。つまり、樊(1996)が指摘した 中国の漸進式改革は旧ソ連、東欧諸国のように、本来の所有制を一括に転換することをし なかったのである。政府は従来の国有経済をはじめとする旧体制を存続させながら、非国 有経済を育成、発展させていった。成長してきた非国有経済は国有経済を取り巻く外部環 境を変え、国有企業の改革を後押しする。これは、中国の経済改革における特徴である。
樊綱氏による漸進式改革の見方は、多くの経済学者に受け入れられるようになっている。
非国有経済の発展によって中国経済が支えられ、成長してきたが、国有企業を取り巻く 争環境は次第に厳しくなった。従来の計画経済体制のもとでは国有企業は容易に生産販 売の寡占的地位を手に入れられたが、非国有セクターの成長により市場競争が激しくなり、
国有企業の独占(寡占)的地位が打ち破られ、収益性が低下した。それにともなって、国 有企業は財務状況が悪化し、赤字が増え、旧体制上の弱点が露呈するようになった。拡大 してきた社会保障・福祉給付がその原因の 1 つであろう。第 2 章で指摘したように、計画 経済期において従業員に対する社会保障の責任と権限は曖昧になっていた。一見、企業が 担っているように見えるが、実際の財政負担は政府財政資金である。経済改革が始まり、
国有企業に対する資金の提供は財政支出から銀行の貸付に変わったが、従業員に対する社 会保障・福祉給付の責任と権限は企業自身に残ったままであった。それは樊綱氏がいう旧 体制の存続そのものである。改革初期にできた企業基金や福利基金は、企業の自主裁量に よる従業員の福利厚生の向上をもたらした。しかし、それは政府財政の支援がますます縮 小していくなかで、非国有セクターの躍進により優位性を失った国有企業にとっては大き な負担となった。激しい市場競争のなかですべての企業が公平に競争し合うために、国有
15 世界における大多数の経済学者は中国の改革は漸進式だという見方を持っているが、「漸進式改革」の 定義についての意見は必ずしも一致していない。
企業における旧制度の 1 つである社会保障制度にかかわる責任および財政負担を修正しな ければならなくなった。
一方、非国有セクターについて 2 つのことを説明しておきたい。第 1 は、非国有・集団経 済
の変化は、計
第 4 節 財政制度改革による中央と地方政府の関係変化
第 2 章で述べたように、改革前の中国政府は統収統支の財政制度を通して資本蓄積の機 能
地方の間の財政関係も転換させた。本節では、財政制度改革を通した政府間の財政関係の
セクターは従来の社会保障制度に取り込まれておらず、不平等な立場になっていたが、
むしろそれによって生産コストが低く抑えられ、競争力において優位性を持っていたこと である。年金・医療などの社会保障制度における不平等は、「フローの改革」が累積してい く最中であるため、着手する余裕ができていなかったように思われる。しかし、すべての 国民に社会保障を受ける権利を与える考えに従えば、新興非国有セクターの従業員を社会 保障制度の適用対象にすることは当然のことである。また、公平に競争し合う市場理念に 従えば、国有企業であれ、非国有企業であれ、社会保障・福祉制度に同様な対応をするべき であろう。それゆえ、従来の社会保障制度を改革することが要請されていた。第 2 として は、非国有経済の発展が経済成長を支え、所得の増加と新たな経済余剰を生み出したこと である。新規雇用の吸収、工業生産総額および財政収入に対する高い寄与度は、非国有セ クターの実力を示している。政府は非国有セクターによって創出された新たな経済余剰を 用いて国有経済部門改革で損を受けた利益集団を補填することにより、改革の痛みを和ら げ、改革に対する抵抗を軽減することができると考えていたに違いない。
前記したように、政府と企業間の関係変化、特に政府と企業間の資金関係
画経済期の社会保障制度に対して、改革を要求した。他方、非国有セクターの成長による 所有制構造の変化、労働力構造の変化も、計画経済期の社会保障制度に対して、改革を求 めた。続く第 4 節では、財政制度改革がもたらした政府間関係の変化を考察し、それによ る計画経済期の就業・生活保障型社会保障制度の改革について分析してみよう。
を果たしてきた。地方政府は中央政府に対して従属的な関係にあり、中央政府の出先機 関でしかなかった。1980 年代に入り、財政制度改革が行われ、新たな財政制度が形成され た。1994 年の分税制改革は社会主義資産国家16だった中国を租税国家に転換させ、中央と
16 第 2 章脚注 14 に、社会主義資産国家という用語について説明を行った。
変化について分析を試みる。
1.1993 年までの財政制度改革
改革開放政策が実施されてから、財政制度改革は 2 段階に分けて行われてきた。1978 年 財政制度改革の第 1 段階である。そ の
」17、②1985 年から 1987 年までの「划分税種,核定收支,分級包干」18、③1988 年
(
権・集中 モ
換させたのである。地方政府はただの出先機関ではなく、自らの財政収入に従い、支出を の 11 期三中全会から 1993 年の 14 期三中全会までは、
中心は「財政請負制」であった。第 2 段階の改革は、1994 年に行われた分税制改革以降 である。分税制改革において、中央と地方の役割分担が明確にされ、租税国家が確立され た。
財政請負制が中心となっていた第 1 段階の財政制度改革は、①1980 年の「划分收支,分 級包干
から 1993 年までの「包干」(「一括請負方式」)という方式で行われていた。具体的な内 容は省略するが、主に財政収支に関する中央と地方の役割分担についての改革であった。
1951 年 11 月に公布された「各級政府における総予算会計制度の暫定規定」には、中央 と地方の役割分担がすでに定められていた。計画経済期の地方財政について、樊・李他 2001)は「収入と支出の間になんの関係も持っていない」と指摘している[樊・李他(2001)、
p.5]。つまり、すべての税種、税率にかかわる権限は中央政府に集中し、あらゆる支出も 中央政府の指令に従わなければならなかったため、地方政府が自らの財政収入に従い、支 出を行うことができなかった。中央と地方の財政収入と財政支出が定められているとはい え、地方政府は中央政府の出先機関としての徴収機能と中央の指令に従うのみの執行機能 しか果たしていなかった。1980 年代前半の財政制度改革は政府間の財政関係として建国初 期から続いてきた中央と地方との役割分担を微調整しかしなかったのである。
ところが、放権譲利の浸透によって 1980 年代半ばから中央と地方政府の財政収支に大き な転換が生じた[図表Ⅲ-6,7]。中央と地方間の財政関係は第 2 章で説明した「分
デル」(1959 年から 1980 年頃まで)から「分権・分散モデル」に変わった。つまり、財 政収入の機能を地方政府に任せ、財政支出の機能を中央に集中するような財政仕組みから 財政収入の機能と財政支出の機能の両方をともに地方政府に任せるような財政仕組みに転
17 「划分」とは分類することを意味している。「包干」とは請負の意味である。「划分收支,分級包干」と は、財政収支を中央と地方に分けて、中央と地方が決められた収支の枠をそれぞれ請け負う方法である。
18「税種」は税の種類のことである。「核定」とは算定することを指している。「划分税种,核定收支,分 級包干」とは、税収の種類を中央と地方に分け、中央と地方の財政収支を算定し、中央と地方がその枠を それぞれ請け負う方法である。1984 年までの方法より、国税と地方税の導入に進んだ。
行うようになったのである。
2.1993 年までの財政収支状況および社会保障財政
これまでに繰り返し説明してきたように、財政請負制や利改税などの改革の目的は、地 政府と企業に一定の自主権と資金運営の裁量権を与えることによって、インセンティブ 負制は地方分権の風をもたらし た
割合は増加し、財政支出に占める中 央の割合は若干であるが地方より大きかった。この時期に、相対的に中央財政収入が増加
方
を高め、経済を活発化することにあった。確かに、財政請
といえるかもしれないが、結果として、図表Ⅲ-5 に示されているように、GDPに占める 財政の比重が急落した。財政収入と支出の対GDPの比は、1978 年にそれぞれ 30%以上となっ ていたが、1993 年には両方とも 15%未満に下落した。その大きな要因として、神野(1999)
は企業所得税に大きな影響を及ぼす国有企業所得税が著しく減少することによってもたさ れた現象であると指摘している。また、国有企業所得税が激減した原因は、地方保護主義 にあったといわれている。利潤留保を増加させるために、地方政府は所管の国有企業に対 して所得税を過小評価したり、不適切な減税措置をとったりしたことが原因といわれてい る19。さらに、財政制度改革初期に実施された「税前還貸」20などの失策も主因であろう。
図表Ⅲ-5 財政収入・支出の対 GDP 比(1978-2001 年)
0 .0 5 .0 1 0 .0 1 5 .0 2 0 .0 2 5 .0 3 0 .0 3 5 .0
1978年 1979年
1980年 1981年
1982年 1983年
1984年 1985年
1986年 1987年
1988年 1989年
1990年 1991年
1992年 1993年
1994年 1995年
1996年 1997年
1998年 1999年
2000年 2001年
% 財 政 収 入 対 G D P の 比
財 政 支 出 対 G D P の 比
出所:『中国財政年鑑 2002』、p.350、pp.374-377 より作成。
中央と地方の収支状況はどのようになっていたか。図表Ⅲ-6、7 が示しているように、
1978 年から 1984 年頃まで、財政収入に占める中央の
19 財政請負制では、中央と地方の間に個別の税ごとの請負額は規定されていないので、地方政府が地元産 業を繁栄させるために、他の税収を増やし、地方所管の国有企業所得税を過小評価することによって、利 潤留保を増加させた。
20 「税前還貸」とは減価償却の控除を認めた上で、借入金の支払利子だけでなく、元金もコストとして認め ることをいう。
し
支出を減少させたことを意味している。それは地方政府の財政支出に対する中央が財源の 責任を持つ統収統支の原則が崩れてしまったことを意味している。他方、中央財政収入の 激減は中央政府の財政調整機能が低下していることも意味している。中央政府の調整機能 の
ていたのは、改革初期の急成長との関係であろうと考えられる。一方、相対的な中央財 政支出の高止まりは、統収統支の旧体制が存続していたことによるのではないかと思われ る。しかし、1984 年以降、財政収入に占める中央の割合は低下し、財政支出に占める中央 の割合も低下し、中央と地方の関係も逆転してしまった。1993 年に、財政収入における中 央の割合は 20%あまりしかないのに対して、地方の割合は約 80%にもなった。さらに、30%
未満の中央財政支出に対して、地方財政支出割合は 70%を超えた。
図表Ⅲ-6 財政収入に占める中央と地方の構成割合(1978-2001 年)
0 .0 1 0 .0 2 0 .0 3 0 .0 4 0 .0 5 0 . 6 7 0 .0 8 9 0 .0
1978 1979
1980 1981
1982 1983
1984 1985
1986 1987
1988 1989
1990 1991
1992 1993
1994 1995
1996 1997
1998 1999
2000 2001
% 中 央
0 .0 地 方
0 0 .0
出所:『中国財政年鑑 2002』、pp.374-375 より作成。
図表Ⅲ-7 財政支出に占める中央と地方の構成割合(1978-2001 年)
0.0 10.0 20.0 30.0 40.0 50.0 0 70.0
1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001
80.0% 中 央
地 方 60.
出所:『中国財政年鑑 2002』、pp.376-377 より作成。
中央財政収入の激減は、中央財政規模の縮小を示しているだけではなく、地方への移転
弱体化は中国の地域格差の拡大に拍車をかけることになった。
計画経済期において、社会保障財政にかかわる中央政府の指令と資金は統収統支の財政 制度を通して、地方政府と国有企業に流され、中央集権の財政構造のもとで、全国の都市 部に平準的な社会保障給付が行われていた。全国で標準的な社会保障給付が維持できたこ とは、強力な中央財政による支えがあったからである。しかし、1980 年代からの財政制度 改
で採択された「社会主 市場経済体制の確立に関する問題についての決定」を受け、国務院は「分税制財政管理 1993]第 85 号]を全国に通達し、翌 1994 年から分税制 を
いえば、中央財政は、国防費、国務費、武 装
革は統収統支の財政制度を崩し、地方政府に財政収入および支出の権限を与え、中央政 府の財政調整機能を低下させた。それらの変化によって、社会保障財政は中央政府の意思 によって確保することができなくなった。社会保障財政に対する中央財政の支援が縮小し ている状況のなかで、財政支出の自主権が拡大した地方政府は、社会保障よりも地域経済 の発展を優先させた。このような状況のなかで、社会保障財源は政府、特に中央政府のみ に頼ることができなくなり、改革が余儀なくされたといえよう。
3.1994 年の「分税制」改革
低下し続ける財政比重を改善するために、財政制度改革は 1994 年から第 2 段階に入った。
その中心となっているのは分税制である。1993 年第 14 期三中全会 義
体制の実行に関する決定」[国発[
実施させた。分税制によって、中国の財政制度に税制度が明確に取り入れられ、租税が 国税・地方税・中央と地方の共有税に分類された。国税と中央と地方の共有税は国税局が 管理するが、地方税は地方税局が管理する。
「分税制財政管理体制の実行に関する決定」に定めた中央と地方における財政支出の権 限は次のようである。中央政府は主に国家の安全、外交および中央国家機関の運営経費な らびに国民経済構造の調整、地域発展の協調、マクロ経済管理に必要な支出、中央直轄事 業の発展にかかわる支出を負担する。具体的に
警察費、外交と対外援助費、中央行政経費、中央が管轄する基本建設投資、中央が所轄 する企業の技術改造および新製品開発研究費、地質探査費、中央財政による農業支援支出、
中央財政の負担する国内外借款の元本償還、中央財政の負担する公検法支出21、文化、教 育、衛生、科学等の事業費などを負担しなければならない。地方財政は、当該地方の国家 機関の運営経費ならびに当該地方の経済および事業の発展に必要な支出を負担する。具体 的には、地方行政経費、地方財政の負担する公検法支出、武装警察および民兵事業費の一
21 これは警察、検察、裁判所という司法機関への支出である。
部、地方が管轄する基本建設投資、地方所轄する企業の技術改造および新製品開発研究費、
地質探査費、地方財政による農業支援支出、都市の維持と建設費用、価格補填、地方財政 の負担する文化、教育、衛生、科学等の事業費支出、その他の支出である[李(2003)、p.228]。 分税制改革によってもたらされた最も重要な変化は、国税と地方税の創設およびそれに 基づく中央と地方それぞれの支出構造の変化である。分税制によって、支出上における中 央と地方の役割分担がはじめて税収に従って分けられるようになった。上記の役割分担か らわかるように、中央政府より地方政府が管轄する事業単位、行政機関および国有企業の 数とその従業員数が圧倒的に多いため、地方政府は国民生活に直接かかわる各種の社会サ ービス(教育、医療衛生、社会保障など)に関して責任を負うことになった。分税制以降 の財政収支状況および社会保障制度との関連については、次の項で検討する。
4.分税制改革以降の財政収支状況および社会保障財政
分税制導入後、中央と地方財政の変化はどのようになったか。前掲図表Ⅲ-5 に示され ているように、1995 年以降の GDP に占める財政比重は徐々に増えている。また、前掲図表
-6、7 を参照することによって、次の 2 つのことがわかる。第 1 に、財政収入に占める に上昇したことである。今日 ま
Ⅲ
中央の割合が 1994 年に 1993 年の約 20%から 50%半ばまで大幅
でわずかであるが、50%を超える水準を維持してきている。第 2 に、1994 年以降、財政 収入に占める地方の割合が約 80%から 50%に下落したが、支出に占める割合が依然として大 きいことである。このような構造は、中央の財政収入が強化されたとともに、中央から地 方への財政移転が行われているものと考えられる。また、地方政府の持つ強い徴収機能が 転換させられたと理解することもできる。つまり、以前のように、徴収してからすべてを 上納し、必要に応じて中央から受け取るという地方財政の仕組みではなくなったというこ とである。分税制以降、地方政府は自らの徴収能力に基づき財政支出を行い、不足分を中 央政府の財政移転から受け取るようになったのである。このような構造は現代の先進諸国 の財政構造により近づくようになったといえよう。実際に、2002 年の中央財政支出が 1 兆 4,118 億元であったのに対して、移転支出は 7,363 億元で、52%の割合となっている。統収 統支の財政制度と異なって、分税制以降、中央政府と地方政府間の財政関係が明確にされ、
中央政府の財源調達能力を高めるとともに中央から地方への財政移転システムが確立され たといえるだろう。
それでは、社会保障への支出はどのようになっているか。社会保障予算は独立の分野と
して、国家財政予算に組まれていないのが現状である。しかし、既存の収支類別を整理し てみると、社会保障にかかわる支出は以下のようになる。まず、中央ないし地方政府の経 常予算から支出されている社会保障関係の部分である。それは、①衛生経費支出(衛生事 業費、中医事業費、公費医療経費が含まれる)、②撫恤および社会福利救済費支出(撫恤事 業
社会保障給付に関して中央政府より多く支出しているに 違
業単位などを含む国有経済部門の保険料は、実は政府財政資金から賄われて い
費、退役軍人の安置費用、退役軍人の年金給付費、社会福利救済事業費、災害救援支出、
民政事業費、障害者事業費が含まれる)、③行政機関および事業単位退職者の年金給付費(公 検法の分も含まれる)、④社会保障補助支出(財政により社会保険基金への補助、社会保険 事務機関の経費、その他の社会保障への補助が含まれる)、⑤労働事業費、⑥障害者就職保 障費、⑦住宅補助費22。これらの支出のうち、どれが中央財政の支出か、どれが地方財政 の支出かについて、部分的にはわかるが全体的には把握することができない。明らかにな っていることは、これらの支出は以前と同様に各級政府との従属関係に従い当該政府から 支出されているが、計画経済期の状況と大きく異なる点があるということである。それは、
1994 年以降、地方の支出が中央から資金を受け、中央の指令や許可に従うのではなく、地 方財政収入で賄うことになっているということである。もちろん、不足分に関しては中央 からの移転支出が活用される。
次に、社会保険基金から支出する社会保険給付の部分である。それは主に企業およびそ の従業員が参加した年金保険、医療保険、失業保険、労災保険、生育保険(行政機関、事 業単位の従業員も含まれる)である。前の項でも述べたが、地方政府が管轄する事業単位、
行政機関および国有企業の数とその従業員数は中央政府より圧倒的に多いため、具体的な 金額がわからないが、地方政府は
いない。
興味深いことは、分税制が導入された 1、2 年前から、社会保険制度改革が各地で実験さ れ始めたことである。その実験を経て、1990 年代末に新しい社会保険制度が創設された。
後の章で述べるが、新しい社会保険制度における保険料収入の構成について、非国有経済 部門の割合が大幅に増加し、国有経済部門の保険料収入は減少し続けている。国有企業、
政府機関、事
たことを繰り返して主張してきた。そのため、社会保険制度改革における保険料構成の 変化は、政府財政における社会保険制度の負担を軽減したと考えられる。社会保険改革の
22 財政資金で賄われる社会保障給付について論じた先行文献はほとんどない。筆者は、『中国財政年鑑』、
『全国地市県財政統計資料』、『地方財政統計資料』、項主編(1999)などを参考にして整理してみたが、
誤解があるかもしれない。
目的にはいろいろあるが、1993 年までの財政比重の下落に対する対策の 1 つとしても考え られるのではないか。
分税制以降、社会保障支出は明確に地方政府の責務になっているようである。前述した 支出に関する規則だけではなく、先行研究においてもこのような指摘がある。例えば、張
(1999)は、社会保障支出における政府間財政関係では、中央の割合が小さく、地方が主 体として行っていると指摘している[張(1999)、p.320]。さらに、図表Ⅲ-8 を参照するこ とによって、社会保障支出における地方財政の役割が大きいことがわかる。
図表Ⅲ-8 衛生事業費および社会救助支出における中央と地方の構成
関
繰り返しになるが、1950 年代から 1978 年の改革開放の実施まで、計画経済期における 集権体制のもとにあった。すべての財政収入は中央政府に 帰
いた。つまり、上海や北京のような豊かな地方は徴収し た
単 位 : 億 元
年 合 計 中 央 財 政 地 方 財 政 合 計 中 央 財 政 地 方 財 政 9 4 . 2 1 1 4 . 7 1 9 9 6 3 4 8 . 9 7 . 0 3 4 1 . 9 1 2 8 . 0 1 . 3 1 2 6 . 7 1 9 9 8 4 1 4 . 9 8 . 6 4 0 6 . 2 1 7 1 . 3 6 . 3 1 6 4 . 9 1 9 9 9 4 4 5 . 7 7 . 2 4 3 8 . 5 1 7 9 . 9 2 . 2 1 7 7 . 7 2 0 0 0 4 8 9 . 7 7 . 3 4 8 2 . 4 2 1 3 . 0 2 . 2 2 1 0 . 8 2 0 0 1 5 6 9 . 3 1 1 . 8 5 5 7 . 5 2 6 6 . 7 1 . 9 2 6 4 . 8 1 9 9 3 2 0 1 . 8 4 . 3 1 9 7 . 4 7 5 . 3 0 . 7 7 4 . 6 1 9 9 4 2 5 7 . 3 5 . 6 2 5 1 . 7 9 5 . 1 1 . 0
1 9 9 5 2 9 7 . 3 6 . 0 2 9 1 . 3 1 1 5 . 5 0 . 8 衛 生 事 業 費 社 会 救 助 支 出
1 9 9 7 3 9 0 . 7 7 . 8 3 8 2 . 9 1 4 2 . 1 1 . 1 1 4 1 . 1
出所:『中国財政年鑑』2001、2002 年版より作成。
5.中央と地方の財政関係
経済改革とともに、政府企業間の財政関係、政府間の財政関係は激しい変換を迫られた。
上述の検討が明らかにしたように、財政制度改革によって中央政府と地方政府の間の財政 係は明らかに変わってきた。
中国の財政制度は、高度の中央
属するものと規定され、地方政府の予算も中央政府の予算も総予算に含まれていた。実 際の財源徴収機能は地方政府が担っていたものの、財政支出は中央の指令に基づき、移転 支出を通して決まるようになって
収入から中央の指令で認められた支出予算額を差し引いた残りを上納し、青海や貴州の ような貧しい地方は徴収した収入が中央の指令で認められた支出予算に満たない不足額を 中央から移転支出として受け取った。これは一見、日本の地方交付税制度に似た所得平準