九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
J.S.ミル資本蓄積論研究 : ミルにおける静態論と動 態論
諸泉, 俊介
九州大学経済学研究科経済学専攻
第四章 ミルの信用理論と「遊休資金」の理論
(ー) はじめに
ミルがその経済学の体系を構想し完成させて行く 1830‑‑1840年代が, 1825年の 過剰生産恐慌を旋回軸とする古典的自由資本主義の形成期であったことは吾々の 既に知るところである。ミルの経済学的問題関心はーこの恐慌と不可分に結び付 いていた。ミルこそ,恐慌に集約され景気変動を不可欠の要素として過程する歴 史的発展段階に対峠し,客観的には,その内的矛盾が生みだす,諸矛盾すなわち 失業と貧困の労働問題および社会主義,周期的に襲い来る商業的苦境という諸問 題に真剣に取り組んだ,当時のイギリスの代表的理性であった。
しかし,ここで見逃してはならないと恩われるのは, こうした経済的諸問題が 十九世紀中頃になると,貨幣および信用といった問題と深く結び付いて議論され るようになるということである。勿論,貨幣および信用といった問題がミルの時 代に初めて現れるというのではない。 J.ステュアートやA.スミスにおける貨 幣・信用の理論を持ち出すまでもなくペ近くはナポレオン戦争前後を見ても,
戦争期間中の物価騰貴と銀行券の過剰発行を巡る諸議論,あるいは戦後イギリス を襲った過渡的恐慌の原因を信用の縮小に求めうるか否かという議論があった。
1825年恐慌以前においても,通貨および信用が一つの経済的問題であったことは 間違いない。しかし,同じ通貨および信用を取り扱うにしても,その議論の比重 の置かれ方が, 1825年恐慌を境に大きく変化することもまた事実である。それが,
まさに恐慌とその背後で進行して行く産業資本の確立と銀行制度の整備・発展と いう事態、を反映しまたそれに規定されてのものであることは言うまでもない。
さて,こうした銀行制度の発展に伴う通貨および信用の問題に, ミルは如何に 対処するのであろうか。彼は三十年代の初頭において既に,如上の問題に深い関 心を寄せ,また従来の経済学がこれらの問題、に不十分な対応しかなし得ていない ことを指摘していた。ミルが r経済学試論集J
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試論四」において,利子率を問 題にしていたことは既に述べたが,そこにおいて彼はこう叙述していた。「貸手および貸付仲立人の機能を営み3 貨幣発行者の機能を有する,あるいは 脅しない銀行の創出とともに利子率における更にそれ以上の変則が生じるが,こ
れは,吾々の知る限りでは,今日に到るまで精密科学の領域内に取り入れられた ことがなかったJZ)。
ミルは,近代的銀行制度が成立して行く過程を腕みながら,銀行制度とそれに よる利子率の新たな変容に問題の所在を認め,これを精密科学として扱わんとす る意思を示している。ミルが「試論四」を執筆する時代は1830年前後であり,銀 行制度と信用貨幣3 物価勝貴,利子率変動という諸問題を巡る議論のますます昂 揚して来る時代が, これ以降であることは確かである。この点は, 1844年のビー ル銀行条例にまで昇華して行く一連の,いわゆる「通貨論争」を想起すれば足り るであろう3)。通貨主義勝利の金字塔として銀行条例が成立する論争過程を,ミ ルがつぶさに観察していたであろうことは想像に難くない。
『経済学原理』第三篇「交換」において, ミルはこうした一連の諸問題を,か なり大きなスペースをさいて折り込んでいる。銀行制度に絡めて,利子あるは通 貨・信用問題を「精密科学の領域内に取り入れ」るというミルの当初の問題意識 は, 『経済学原理』においても充分に貫徹していると思われる。しかしミルがそ こにおいて,
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信用が営む機能という問題は,経済学におけるどの問題にも劣ら ぬほど多くの誤解と,それから多くの観念の混同をひき起こした問題であった」と述べ,更に「通貨論争」当唱者に対する両面批判を展開するとき,吾々はミル が「通貨論争」の諸議論に決して満足してはいないことを知るのである。ミルの 銀行制度あるいは信用を捕捉する視角は,
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通貨論争」に登場する諸論客のそれとは異なるように思われる4}o 何故そうなるのであろうか。
ここで今一つ見逃し得ない点がある。我々は『経済学試論集』の検討において,
ミルの経済現象を捉える固有の理論として「遊休資本」の理論を刻出した5)。
『経済学原理』においては,実はこの「遊休資本」の理論は,第三篇において信 用論と絡められて再現しているのである。
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遊休資本」の理論を信用論と絡めて(一〕ミルの信用理論は,
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通貨論争Jの批判的摂取の上に成り立っていると言 われる。それ故吾々も,この「貨幣信用学説史上見落すことのできぬ空前の出来 事Jb)を概観しておく必要があろう。ここにいう「通貨論争 (CurrencyControverSy) Jとは, 1841年から1842年に かけての,イギリスにおける「発券諸銀行に関する特別委員会」を巡って出てき た論争である。この論争が, 1810年代の「地金論争 (BullionControversy ) J および1817年のピール法(免換再開を決定した法律,実際の免換再開は1821年) を巡る論争,あるいは1832年の銀行条例委員会における諸討議と深く関連し,広 い意味ではこれらを総合して通貨論争と称されることは衆知の処である。ここで は慣例に倣い, 40年代のそれを狭義の意味で通貨論争と呼ぶが,その論争の当事 者は,オーバーストーン3 ノーマン, トレンズ,ピールに代表される「通貨学派 (Currency Schoo 1) Jと3 トゥック,フラ一トン,ウィルソン,ニューマーチ等 に代表される「銀行学派 (BankingSchool) Jである。しかし,広義の意味では,
これにアトウッドに代表される「パーミンガム学派 (BirminghamEconomist) J が入ろう町。
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通貨論争Jおよびそれに到る経緯を少しく振り返っておこう酌。に)イギリスにおける十八世紀から十九世紀への世紀転換期は,産業革命の進 展およびナポレオン戦争の膨響を受け,門金流出に悩まされた時代である。かかる 状況下において,イングランド銀行は1797年,銀行券の免換停止に追い込まれる。
爾来24年間, 1821年に到るまで,イングランド銀行券は不換化された状態にあっ た。免換停止後暫くは安定した状態、が続くのであるが, 1810年前後に到ると,銀 行券増発によって物価騰貴が顕著になってくる。 1809年, リカ ードは r金の価 格』および r地金高価格論』において物価騰貴の原因を不換紙幣の過剰発行に求 め,免換再開の必要を主張する。衆知のようにリカードは,発券の過剰が銀行券
ホーナー,ソーントン,ハスキッソン等の手によって, リカ ードの主張を受けた 形で提出される。この報告書はリカードおよびマスサスによって支持されるが,
イングランド銀行の理事達は反対にまわり,以後はこの報告書を巡つての論争に 発展していくのである。
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年,ナポレオン戦争が終結するや,イギリスは戦後不況に見舞われる。そ れと同時に,物価と通貨との関係が再度論争の怨上にのぼせられる。戦時中の物 価騰貴は銀行券の増発に基づくという議論は,今度は逆に,戦後不況における物 価下落の原因は信用の収縮に基づくという議論となって出てくる。何れにしても,銀行券発行の多少が物価に影響を及ぼすという論点は維持されている点に注意し なければならない。こうした論争の中で,
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年には免換再開条例 (ResumptionAct) Jが議会を通過するのであるが,ここにアトウッドが登場する。
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アトウッドは, ミルが『経済学試論集J I試論二」において「通貨学派」引の代表として論難し,また『経済学原理』第三篇第十三章「不換紙幣につい てJ10) においてまとまった批判を浴びせる人物である。このパーミンガムの銀 行家アトウッドを領袖とする「パーミンプ~~ム学派」は,
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年の免換再開(実際 の再開は1 8 2 1
年)は大きな誤りであり,それは戦後の不況と失業および困窮を一 層激化させるものである,と主張する。アトウッドの主張はこうである。不況は 流通手段の供給不足から来る物価騰貴が原因である,従って不換紙幣の増発が行 われればs需要が創出され,高価格と高和J i
閣が保障されるのであり,その結果,雇用の増加と産業活動の繁栄がもたらされ,また通貨減価によるインフレーショ ンは僕弱者の負担を軽くし,産業活動を容易ならしめるものである。
以上初Jアトウッドの議論は,
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年のビール銀行条例を巡る,いわゆる「通貨 論争」に直接的に係わるものではない。アトウッドの発想は,物価の下落を恐慌 あるいは不況の原因と看倣し,そこから組織的なインフレーション政策と,政府 が発行し調整する紙幣の形態における統制通貨を要求するものであるが,この考 えは 「リカード派の人々にもトゥークの追従者にも無視されたJ11>のである。ミルが, r経済学原理』においてアトウッドを「通貨論争」当事者から外し,先 に述べた箇所で別個に扱う理由もここにある。しかし注意すべきは,アトウッド が 「通貨学派」および 「銀行学派」から無視されたとしても, ミルにとってアト
ウッドの主張は決して無視しえないものであった,ということである。
アトウッドが,過剰発行を以て銀行券の減価を説明し,それによって物価騰貨 を導出している点は,次に見る「通貨学派Jと同様である。この点においては,
アトウッドはリカードの理論に依拠している。それ故ミルは,最初は彼を「通貨 学派」の代表と評したのである。しかし区別さるべきは,アトウッドが減価によ る物価騰貴を以て利潤の増大と一国の富の繁栄を導出する点である。アトウッド の問題関心は,経済の皮相たる通貨問題を通して生産と消費の次元にまで下向し て来るのである。アトウッドが党換再開に反対する理由は,通貨が金属準備に連 動することで,不況期において通貨が必要とされる時に,通貨はイングランド銀 行に吸い上げられ,流通手段の不足から物価が下落するからである。アトウッド の理解する恐慌の原因はここにあり,また彼が通貨政策として主張する,政府に よる人為的通貨調整論もここに依拠しているのである。従ってアトウッドは景気 循環を認識し経済の皮相における通貨と生産との関連を彼なりに考え,そこか ら通貨の人為的調節論を呈示しているのである。この問題を把握する構造が, ミ ルをしてアトウッドに関税せしめた理由であると思われる。
さて, ミルは r経済学原理』第三篇第十三章「不換紙幣についてJにおいて,
不換紙幣は際限なく減価を惹起せしめるものであり,何のメリットもないとした 上で,あとを絶たない不換紙幣支持者の論拠を二つに分けて論じている。第一の 論拠は,不換紙幣が現実の財産を代表していれば安全であるというものであるが,
これに対してはアッシニア紙幣を例に持ち出して論駁している。アトウッドに対 する批判は第二の論拠において行われているが, これが先にも述べた3 不換紙幣 は産業を鼓舞する,すなわち不換紙幣の増発による物価騰貴は資本の使用を完全 な状態にもたらす というアトウッドの主張である。ミルはこれに対し二つの論 点を以て反駁する。第ーは,物価騰貴はすべての商品に等しく起こるのであるか り,それは多くの富をもたらすものではないというものである。第二は,アトウ ッドが繁栄と考えているのは実は投機であって, この投機の最終段階に紙幣が増 発されて窮地に立つのは,その手中に萎んだ利得を持つ投機家自身であるという 点である。
ミルがアトウッドの批判において論じているのは,貨幣信用の拡大が一般に富 の増大をもたらすのもではないということであり,それによってもたらされる高 価格は,恰も産業的繁栄をもたらしているかにみえるが,実はそれは幻想である
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ということである。ミルは,貨幣信用の拡大と生産の問題とを明確に区別するの である。
(三)さて,地金主義者達の期待にもかかわらず~, 1825年には史上初の循環性過 剰生産恐慌が起こる。販路は閉ざされ,物価は下落し,信用は梗塞する。 1825年 恐慌はー資本制生産に内在して自然にまた必然的に発生せざるをえない,その意 味では以前の過渡的恐慌とは性格を大きく異にする新しい型の一般的過剰生産恐 慌であった。それだけに, この恐慌のもたらした彫響は広汎でありかつ深いもの であり,その把握,あるいは説明には,資本制生産の内的かつ批判的分析を不可 欠とするものであった。しかし,ミルもまたこの傾向を免れ得ないのではあるが,
かかる新たな恐慌に直面して経済学は無力であり,それを資本制生産にとって偶 然的なもの2 あるいは何かしらの改良を加えることで克服しうるものと看倣した。
彼等は,目に映る現象として現れるかぎりでの恐慌をのみ問題とし,流通の皮相 から商業的にあるいは通貨論的にこれを把握した。皮相の皮相たる貨幣的現象を 以てする恐慌把握の生ずる所以である。恐慌は偶然的なものであり,何かしらの 偶然的障碍によって惹起せしめられ,それ故こうした障碍を除去しさえすれば,
恐慌は回避しうる, と把握する人々の目は,当然に涜通の皮相たる物価と通貨に 向くのである。
1819年のピール条例によって免換は再開され,それによって通貨発行が物価に 影響を与える事態は回避されたはずであった。しかし過剰な銀行券は,インクラ ンド銀行の保有する準備とは無関係に発行されている。過剰な銀行券の発行は過 剰な信用を惹起し過剰な取引と投機とを助長し,その反動として恐慌が出来す るという一連の推論がでてくるのである。かかる皮相な把握が「通貨主義」への 道を拓いたことは,従来の諸研究が指摘してきた通りである1Z) 。
しかし, これは恐慌の問題が貨幣的側面に集中することの消極的な理由である。
積極的な理由も存する。信用の発展は資本制生産発展の槙粁であるというのがそ れである。産業資本の確立発展過程においては, イングランド銀行の集中的発券 制度と,それを頂点とする広汎な預金銀行の存在という近代的信用制度が前提と なる。 1825年恐慌以降,銀行制度改革の議論が沸騰し3 また数々の改革が実行さ れてきた所以である。こうした銀行制度改革および発展は,理念的には恐慌対策 的な性格を有するのではあるが, しかし実際には産業資本の必要に応じてのもの
であり,従ってむしろ恐慌をますます激しいものとするという性格をも併せて有 するものであった。
かかる二律背反的な性格を有する銀行制度とその理論に対し,当時の経済学者 の関心が集中することは想像に難くない。産業資本の確立と銀行制度の確立とい う事実と,恐慌という事実とが絡みあい,通貨および信用問題が大きくクローズ アップされ,史上に見落とし難い「通貨論争」が出来するのである。 i通貨学 派Jと「銀行学派」との論理を概観しよう。
(四) i通貨学派」は,正貨を最も完全な通貨と認識し,正貨が流通し機能する 純粋な金属貨幣制度を理想とし規範に据える。純粋な金属貨幣制度においては,
物価は貴金属の相対的な量に応じて騰落するが,物価上昇は輸入の増大,貿易差 額逆調,貴金属流出,物価下落,貿易差額順調,貴金属流入という国際的黄金属 移動の自動調整メカニズムによる均衡化作用が働くと考えるのである。すなわち
「通貨学派」は, リカードを数量説的な函において抽象化して受け継いでいる。
しかし彼等が問題とする現実的社会は,鋳貨と銀行券が同時に並存して流通する 混合貨幣制度である。この混合貨幣制度の下においても,彼等は純粋金属流通を 規範に,鋳貨および銀行券の増減を貴金属の増減と一致せしめるべしと主強する のである。彼等は,恐慌の究極の原因を銀行の過剰発行に求める。銀行券が過剰 に発行されれば,それは物価を昂騰せしめ,貴金属の海外流出を招来する。しか しここで現れる金流出は,一国に保有されるべき貴金属の多過に依るものではな い。銀行券の増発という人為的な操作が,貴金属の保有水準は正常であったにも 拘わらそれを派出させ,従って, 自然的な賃金属の国際的移動機構を府藤させ,
遂には恐慌にJtJらしむると考えるのである。従ってここから,正貨準備に基づく 発行規制という実践的な政策が打ち出されてくるのである。
かかる主張の中に,金属流通を一国における貴金属と同一視し, 一国の貴金属 を銀行に保有される金属準備と同一視するという論理的な誤りがあることは言う までもない。彼等の数量的な通貨把握は,本来景気変動に結び付くべきものであ るが,しかし彼等はこの理論を,貨幣・信用の流通の皮相から,経済の在るべき 均衡あるいは構造説明の理論に歪めて位置づけ直しているのである。 i通貨学 派Jの理論が, i近代的恐慌の生起をきっかけに出現し,現存社会の弁護と合理 化をはかり,流通過程に重点をおき説くことにより,その方面から古典派経済学
の解体を促進させた俗流化理論の先鞭の一つJ13) という評価が与えられる所以 である。
これに対し「銀行学派」は,
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通貨学派」の拠って立つ,貴金属存在と銀行の 金準備と通貨との同一視に批判を向け,蓄蔵貨幣の存在とその機能とを指摘する。すなわち「銀行学派」は,園内に存在する金商品,銀行内に保有される金鋳貨,
および貿易決裁のための準備金を考慮すれば,貴金属の流出入がそのまま通貨価 値の騰落および物価の騰落にl 作用するとは言えない, と主張するのであるo
「通貨学派」の主張する貴金属の国際的移動調整メカニズムは,彼等が主張する ようには働かない。更に「銀行学派Jは,貴金属と鋳貨とを区別する。それによ って彼等は銀行券,商業手形,小切手という信用的流通諸手段の存在を認識し,
それらの諸形態、,流通様式の差異を以て,貨幣の具体的把握を行ったのである。
ここから「銀行学派」 は, I通貨学派」は銀行券を信用貨幣として,為替手形や 小切手と同じものと認識する視角がない点を批判し,信用貨幣は産業活動に基づ く取引に応じて発行されるものであり,それは物価に直接影響を及ぼさない,と いう中立的信用観を提示するのである。すなわち「銀行学派」に依れば,過剰に 発行された銀行券は,先換・預金等の経路を通じて,再び銀行に戻って来るので ある。これがスミスの原理に拠るものであることは言うまでもない。従ってこれ
らの論拠から「銀行学派」は,銀行券の発行は全く受動的なものであり,それは 任意に規制しうるものではなし発券規制は有害であるとし, I通貨学派」の政 策論に対する批判を行うのである。
しかし彼等は,結局「通貨学派」の拠って立つドクマの批判に終始したに過ぎ ない。恐慌を,彼等は銀行券の過剰発行ではなく,過剰な取引に基づく過剰な信 用により誘発される信用一般の濫用によって起こると説明するのであり,決して 経済の内的矛盾の展開と捉えるものではなかったのである。
(五)こうした「通貨学派」と「銀行学派」の論争に対して, ミルは如何に対応 するのであろうか。後に詳論するように, ミルの「通貨論争」に対する態度は複 雑である。ミルは両学派の理論を景気循環の視角から組替えて批判し,また摂取 するからである。すなわちミルは,信用的流通諸手段の説明に際しては, I通貨 学派」および「銀行学派Jの各論者の見識を取り込んで行くのであるが,通貨調 節論という政策論展開に到ると,景気の段階を「平静状態」と 「投機的状態」と
に二分し14) ,前者は「銀行学派」の知見が,また後者には「通貨学派」のそれ がそれぞれ妥当する, という折衷主義的な対応を示しているのである。
それ故, I地金論争Jから「通貨論争」にiJlる,貨幣および信用に係わるミル の対応、は二重である。第一層には,流通の皮相から銀行券発行と利潤および一国 の富の生産の問題を提示するアトウッドに対する批判があり,第二層には, I通 貨論争」当時者たる両学派に対する対応がある。この二つの層は当然のことなが ら問題の次元を異にしているo 前者が通貨の問題を介しての資本蓄積の問題であ るとすれば,後者は更に皮相にある通貨と物価とに関連する問題であるからであ る。しかし仮に r経済学原理』第三篇の第十三章「貨幣の代用物としての信用 について」から第二十四章「免換紙幣の調節についてjいわゆる通貨調節論に到 るまでをミルの信用論と捉えうるならば, ミルはこの次元を異にするこ層を問題 を,同じ信用論の枠内において取り扱っていることになる。このことは一体なに を意味するのであろうか。ともかくも, ミルの信用論に立ち入って見てみよう。
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(三) I信用一般」の理論と「遊休資本」の理論
(一) r経済学原理』第三篇において, ミルは交換を取り扱い,価値論から貨幣 論へと進み,第十一章 l管幣の代用物としての信用尽 い てJ15) において信用を 問題とする。ミルは冒頭において,信用が営む機能の問題が経済学に多くの誤解 と観念の混同とを惹起せしめたと述べ,かかる誤解や観念の混同を避けるために は
, I信用一般のもつ性格」と「信用の特殊な形態がもっ特殊性」とを区別すべ きことを強調する16) 0 I信用の特殊な形態がもっ特殊性」とは信用的流通諸手 段のそれぞれが有する特殊性のことであろうが, しかしミルの言う「信用一般の
もつ性格」とは何であろうか。
ミルは「信用一般のもつ性格」を次のように説明している。経済学あるいは世 間一般の抱いている混乱した観念とは,信用の持つ偉大な力であり. I信用の拡 張が資本の創造に等しいものであると言われ,あるいは恰も信用が実際に資本で あると言われJ17) る事態である。ミルにとって資本とは生産手段,あるいは少 なくとも生産手段として用いられることを予定されている財貨である。しかるに
「大体,信用は他人の資本を使用することに対する許可であるにすぎないのであ るから,その信用によって生産手段は増加するのではなく,ただそれが移転され るに過ぎないJ1 B) 。ミルのいう「信用一般のもつ性格」とは,いわゆる貸借的 信用のことである。ミルは,貸借的信用と貨幣的信用との彼なりの区別づけを与 えているのである19) 。
しかしミルは,信用が資本を創造しないとはいっても,それが社会的生産に全 く影響を及ぼしえないと主張するのではない。信用は確かに一人の手から他人の 手への資本の移転に過ぎないが, しかしそれは「一般に,かつ当然に,資本を生 産に有効に使用する,より大きな能力も持った人の手への移転であるJ20) 。す なわち,資本が自分の手でその資本の使用を監督することのできない人の手にあ れば, I彼等が所有する資本は,遊休資金(layidle)となっているか,あるい はおそらくそれを使って利益を上げようとする不手際なる企てにおいて浪費され,
破壊されてしまうJ21) のであるが, こうした遊休資金が今日では, I預金銀 行」を介して利子付きで貸し出され, Iその資本を最も有効に使用する生産手段 を備えている生産者あるいは商人の手に吸収されているJZ 2) のである。従って,
「信用によって国の生産的資本が増大せしめられることはないけれども,それは より完全な生産状態の置かれる j ことにより,
r
社会の総生産をそれに応じて増 加せしめるJ23) ,とミルはいうのである。ミルが 「信用の一般的性格」を,実物的資本の再生産と絡めて,貸付取引が媒 介する資本の社会的再配分と捉えている点は注目に値する。信用は遊休資金の有 効利用を介して結果的に資本蓄積を促進するというのである。逆に言えばミルは,
貸付取引を介して運動する資本を遊休資金と捉えている。ミルは信用を,まずは 構造的に把握するのである。ただしかし, ミルはここで,遊休資金として運動す る資本の社会的に独自な性格規定を追究している訳ではなく,利子付き資本の運 動が前提され,その上で運動する遊休資金の果たす結果が,機能的に捉えられて いるに過ぎないのではあるが。
しかしミルは続いて次のようにも言うのである。
「信用は,それなくしては,既に存在している生産諸力を充分に使用すること ができないのではあるけれども,それ自身は生産力ではない。しかし『信用』に 関する理論のうち,もっと複雑な部分は信用の物価に及ぼす影響である。 ‑ 慣習的に多量の信用が授受されている商業状態おいては,ある瞬間における一般 的物価は,貨幣の数量よりもむしろ遥かに多く信用の状態に依存している。とい
うのは,信用というものは生産力ではないけれども一個の購買力であるからであ り,かつ,信用を有し,それを財貨の購買に利用する人は,現金を以てそれと同 じ額の購買をした場合と同じように,財貨に対するそれだけの需要を創造し,そ れだけ物価を高めるカを持っているからであるJ24) 。
また別の箇所ではこうも言っている。
「ある人が行使しうる購買力の総量は,その人が所有している,あるいは請求 しうる一切の貨幣,および彼の一切の信用からなる。彼がこのカの全部を行使し ようという充分な動機を見出すのはただ特別な事情があるときだけであるが,し かし彼はいつもそれをもっているのであって, このカのうち,彼がある時におい て実際に行使するところの部分が,彼が物価に対して及ぼすところの影響の尺度
となる
J
Z目。信用は生産力ではないが, しかし信用は遊休資金の生産的資本としての活用を 介して資本蓄積に結び付いていた。しかしここでは更に,信用は 「ただ特別な事
情があるときだけ」一個の購買力として働き,需要を創造し物価を上昇せしめ るとミルはいう。彼はここでは信用を追加購買力という観点から捕捉し直してい るのである。すなわち,
r
信用の一般的性格J,つまり信用の果たす役割は,敷~ff して言えば,一定の条件下において,それ故「再生産における特殊的な局面と 結びついて現われる機能担当者たちの購買意欲とからんではじめてJ2的 , 再 生 産における追加購買力として発動し,需要を創造し,そして物価ヘ影響を及ぼす と捉えられている。ここから, ミル信用論の基本的性格を,
r
ミルは,信用の本 質をそれが果たす機能でもって説明している」のであり,r
彼の信用論は,機能 面から捉えられた信用観,すなわち機能論的な信用思想J27) であるとする評価 が生まれてくることになる。要するにミルの信用論には,構造論的な信用論と機能論的・競争論的な信用論 とが併置されているのである。しかもミルは,信用論の展開を後者に大きく傾斜 させて捉えんとする意向を示している。こうした機能論的な信用論がミル信用論 の独自的性格だとするならば,それを許す根拠が示されなければならないであろ う。言葉を変えていえば, ミルの構造論的信用論は,何故,機能論的信用論に取 り込まれてしまうのか, ということであるo
r
信用一般のもつ性格」たる 「遊休 資金Jの社会的配分の理論の有する性格が問題となるであろう。(二〕さて,この「遊休資金」の理論において吾々は, r経済学試論集J
r
試論 二Jの検討において刻出した「遊休資本」の理論の発展した姿を見ることができ ょう。r
試論二」において,在庫商品あるいは遊休する資金や借入資金として把 握され,それの生産的資本へ転化する次第が景気循環と絡めて問題にされていた「遊休資本Jの概念が, r経済学原理』のここにおいては, もっぱら貸付取引と 関連づけられ,貸付取引の手段としての運動形態を賦与されて,新たな規定を以 て出現している。すなわち「遊休資本」は信用と結び付けられ,それが生産的使 用に供せられる方法として,預金銀行に吸収され累積され貸付られるという処ま で,特殊化され具体化されているのである。では,信用と資本蓄積との媒介環に 位置し,信用の機能を担う「遊休資本」は, r経済学原理』においてはそもそも 如何なる性格のものと捉えられているのであろうか。この点を,第一篇生産論に おける資本規定にまで立ち戻って確認しておこう。
第一篇 「生産」第四章 「資本について」において, ミルは遊休資本についての
抽象的な考察を行っている。ミルは第二節で 「生産に実際に使用されている資本 を越える余剰」を問題にし,こう言う。
「一国の資本はすべて生産の用に供されるものである。しかしこの 一一命題 は,幾分の制限と説明を加えて理解しなければならない。時としては,資金があ って,生産的用途を探しているが, しかし所有者の意に適う用途が見当たらない ということがあるであろう。この場合にも, この資金はやはり資本であるが,し かし使用せられざる資本である。また蓄財が売れ残りの財貨からなっていて,そ れは生産的用途に直接に使用しえないばかりでなく,さし当たり売却もできない ものであるということもある。これらのものは,販売されるまでは,使用されな い資本の状態にあるものであるJZ8) 。
ミルがここで述べているのは,市場に存在する過剰な貨幣資本.あるいは在庫 の形態にある商品資本である。しかし注意すべきは,これらの貨幣資本および商 品資本は,再生産の不断の循環のための条件となるべきそれではないことである。
それは一定の条件下において存在する,直接生産過程には使用されていない過剰 な貨幣資本および商品資本である。更に第三節「資本という観念の例証となるべ き若干の考察について」においては,金利生活者の財産が資本と看倣されうるか 否かを問題とし, これを社会的観点から,その資金が他人に貸与され,それが生 産的に使用されるのであれば,その財貨は一国の資本を形成すると言う。 i遊休 資本」には更に,金利生活者の他人に貸付られる資金が加わるZ9) 。
かくしてミルは,再生産に直接使用されている資本以外の,その外側.IJに不断に 存在する過剰な資本,あるいは貸付られうる資金の存在を指摘するのである。
「試論二」 でいえば,社会的分業の対価として不断に存在しなければならないが,
景気の状態に応じて変動する過剰な資本である。何故ミルは,生産に使用されて いる資本に対して,過剰な在庫商品,過剰な貨幣資本を問題とするのであろうか。
そこにミルの生産に対する特異の把握がありそうである。
(三)ミルは第一篇 「生産」の冒頭章において) i生産要件」について論ずる。 彼がまず挙げる生産要件は二つ, i労働と適当な自然対象J30) である。こ こで 彼は自然の能動的エネルギーを強調し) i自然はただ材料を提供するに止まるの ではない。 自然はまた力をも供給する。 ‑‑‑一・それは能動的エネルギーを持ち, それによ って労働と協力し,時にはその代替物として使用されもするJ31) と述
べている。資本を暗黙に前提し,資本の生産力から捉えた自然的要因の持つ能動 的役割の強調である。こうした把握は,労働の機能の消極的把握と対応しているo
! Jレは労働の機能を) i労働は何時の場合も専ら対象を運動に投ずるということ にのみ用いられ,それ以外のことは物質の性格や自然法則がこれをなすJ3Z) と 捉えるのである。ミルが生産と分配を峻別し,分配に歴史的性格を認め,またそ の人為的変容の可能性をも認めることとは対際的に,生産を自然的法則下に服す るもの,人的影響を及ぼし難いものと把握することは衆知の処であるが, ミルに おける自然と労働との関連把握は,まさにかかる基本的な生産の性格把握に対応 しているのである。ミルは自然と労働との関連を,超歴史的・自然的な関係とし て捉えているo
更に第四章に進み, ミルは自然と労働との「第一次的普遍的生産要件」に対し,
第三の生産要件として資本を導入する33) 。彼は資本の存在意義を, iそれなく しては,およそ生産量の少ない未開の原始的産業以上に進歩した生産的作業が決 して行われ得ないJ3引ものと捉えるのである。ミルには資本を歴史的側面を以 て把握する視角が認められるが,しかしその視角も,労働と自然との超歴史的な 把握によって,資本関係の内的分析に向かう芽を捕まれてしまっているのである。
彼は労働と資本とを本質的には分断したまま,機械的に融合しようとする。 ミル は言う。 i吾々は, しばしば r資本の生産力』という言葉を使うが, この表現は 文字通り正しい表現ではない。世にある生産力は,労働と自然的諸要素の生産力 である。 一一一 けれども, これらの物(資本一一一 引用者)が与えられないと,
労働はその生産力を発揮できないJ35) 。それ故ミルの関心は,むしろ 「生産に おいて資本が営む機能J36) の重視へ向かう。すなわちミルは資本を) i以前の 労働の生産物にして予め蓄積されたものJ37) と古典派的な視点を以て規定する のであるが, しかし彼の自然カの強調と労働の機能の消極的把握は, この資本を,
蓄積された労働・過去の労働にして・自然と労働との生産力すなわち 「勤労(In
dustry) Jを機能せしめるものと把握する視点と組み合わされて, ミルをして,
フルジョア的生産力を技術主義的に捕捉する見地を獲得せしめているのである3 日
〉
さて,こうした観点から, ミルは資本を更に具体的に,労働者への支払いに予 定された貨幣および、未だ販売されざる仕上品としての商品を含ませ,資本家の所
有物のうち「再生産的使用に当てられる富J3q) と捉えるのである。ミルは,資 本とは「新規の生産を営むための基金をなすところの部分(それが何であるかは 関わない)であるJが, しかし「その一部が,あるいは全部が,労働者の必要を 直接満たしえざる形をとっていることは,問題ではないJ40) と言う。 r経済学 試論集』の「試論二」において確認したように, ミルの資本観は素材的資本観に 未だ制約されつつも,古典派的な生産資本循環把握からは一歩抜け出していた4 1) 。ミルがこうした資本把握をなしうる根拠は, I資本家の支払いが不生産的 支出から生産的支出へと変化することによる一一一 商品需要の変化の結果として,
その次の年には,食糧の生産が増加し銀器および宝石の生産が減少するJ4 Z)
という,産業構造の柔軟な変化を予定してのものである。ミルは分業の高度に発 展した社会を念頭に置き,そこで生産される多種多様な諸商品の生産的・消費的 連関に止目しているのであるが, しかし諸商品の生産と消費の諸連関が有する制 約弘社会的再生産の困難性としては把握されずに, I (一国の資本を形成す
る)この価値の総額が生産の用途にただちに充てうる形にあるかどうかというこ とは問題にならない。その形がどうであろうともそれはただ一時的偶然的に過ぎ ないJ43) と,極めて楽観的に捉えるのである。こうした再生産の業観的あるい は調和的把握が, ミルの有する生産の技術主義的把握に基礎づけられていること は言うまでもない。更に, I r資本』と『非資本』との間の区別は,商品の性格 に存するのではなくして,資本家の心一一一商品をある目的にではなく,他の目 的に供せんとする彼の意思一一ー に存するJ44) と述べ資本の運動に所有者 の主体的心理的要素を混入させてもいる。このようなミルの資本把握は,資本を,
ブ。ルジョア的生産力の実現という目的に対する手段として位置づけさせるものと なっているのである。
しかし現実的には,ブルジョア的生産力を担うべき手段としての資本は,ー部 は遊休している。だが資本を生産力実現の手段と把握するミルは,資本の遊休が 決定的に不都合であるとは必ずしも考えていない。第五章 「資本に関する根本諸 命題」において, ミルは三つの命題, I勤労は資本によって制限されるJ,
r
資 本は貯蓄の結果であるJ, I資本は統べて消費されるJを提示するのであるが,彼はその第一命題 「勤労は資本によって制限される」を論じて言う45) 。
「勤労は資本によって制限されるものであるが,そうであるからといって,動
労は必ずしも常にこの限界に到達しているというわけではない。資本は,たとえ ば売れ残りの商品や,まだ投資口を見出さない場合にように,一時的に使用され ないでいることがあって, このような期間には, この資本は少しも勤労を動かさ ないでいる」。しかし,資本は多種多様な方法によって増加されうるのであり,
それによって勤労を働かしうる。例えば「技術の改良その他の方法によって資本 ーの生産力が増加したとすれば,それはいつも労働に対する就職の機会を増 加させ」また「資本の増加は労働のための職の増加をもたらし, しかもそれには 明確な限界はないJ4 b) 。
資本と勤労とを結び付ければ,資本制生産は無限の資本蓄積を進行させうる,
とミルは考えるo何故そのようなことが可能なのか。その解答は, ミルが資本を
「貯蓄の結果J47) であると同時に「消費されJ48) 不断に「再生産されるJ4
わものと捉えるところにある。彼は,資本を増加せしむる方法を貯蓄に求める。
しかし注意すべきは,その貯蓄はシーニアのいうような「制欲」によるものでは ないということである。ミルは貯蓄を,労働の生産力の増加により「その中から 多くの貯蓄をなしうるところの追加資金を作りだすJ50) ことと考えるのである。
それ故ミルの言う貯蓄は,個人的消費の減少を伴わず,むしろその増加すら伴い つつ進行する,資本の増大と結び付けられた生産増加の余剰なのである。ミルに とって,この点は決定的に重要である。ミルの資本蓄積観は古典派のそれを超え 出ている。
しかし貯蓄は一般的に退蔵であろう。だがミルに拠れば,貯蓄は退蔵されるも のではなく消費されるものである。日く,
貯蓄されたものは「資本として使用されるならば,すべて消費されるのである。
ただし資本家がそれを(個人的に一一 引用者)消費するのではない。この貯蓄 の一部は道具または機械と交換され, ‑aa‑‑一一 一部は種子または原料と交換され,
それはまた播種または加工されることによってそのものとして破壊され,その最 終生産物の消費によって完全に破壊されるのである。残余は賃銀として生産的労 働者たちに支払われ, 一一ー もし彼等がその一部を貯蓄するとすれば,その貯 蓄も一般的にいってやはり退蔵されず(貯蓄銀行,共済組合または他の機関を経 て)資本として再使用され,消費されるのであるJ51) 0
ミルの貯蓄と投資の考察が,銀行あるいは貸付資本の存在を予定し,それに媒
介されて社会的再生産を調和せしめる機構として描かれていることい注意しなけ ればならない。自然と労働との協働に基づく勤労が,資本に媒介されてその生産 力を無限に高めうるという思考は,
r
資本は保存によって維持されるものではな くて,絶えざる再生産によってJ,すなわち貯蓄する者と消費する者との不断の 交流に基づく消費と再生産との関連によって,r
ある時代から次の時代へと維持 されているJ5 Z) という思考と絡み合わされ,それを以てミルは,現実的な諸資 本の聞に存在すべき諸関連を技術主義的に別出せんとしているのである。ミルが,生産の側面における資本と労働および自然との関係を協調的なものと 捉え,ブルジョア的生産関係を弁護し絶対視する見地に立っていることは覆うべ くもない。しかし, ここでミルが捕捉せんと企図するのは,現実的な社会的分業 と再生産との不断の進行における諸資本の閣に存在する機能的諸関係、であるo ミ ルは生産力の発展に絶対的な信頼を寄せ,一方においては自然と労働と資本とに よる生産過程の調和的再生産を資本制生産の基本的動因として捉えつつ, しかし 他方において,こうした生産過程の外部に,潜在的には資本でありながら,しか し資本機能を体現しえていないものとして「遊休資本」を見出し,それを資本蓄 積の運動と組合わさるべき今一つの動因として位置づけているのである。
(四)さて, こうした機能的に捕捉される生産構造論において,その不可欠の環 として存在する「遊休資本」の理論が,先に述べたように第三篇「交換」論の信 用論に持ち越されているのである。第一篇生産論において捉えられた自然・労働
・資本の協調的な再生産体系と,それと一定の関連を予定されつつも,その外部 に位置する「遊休資本」との二重化された生産構造は,信用によって有機的に結 び付けられ,社会的総生産と資本蓄積とをもたらすものとして具体化されている のである。このミルが捉えた再生産体系と「遊休資本Jの二重構造は,信用を媒 介して始めて結合され,社会的に存在する労働の生産力を実現し,社会的総生産 物を増加せしめ,それ故そこにおいて始めて意味を持つことが可能となる。ミル は,高度な分業と私的所有が支配的な資本制生産の現実的な構造を,信用ないし は貸付取引の媒介を以て説明せんと企図するのである。
しかし, ミルが第一篇生産論で刻出したこの生産の二重構造は,再生産に使用 され,あるいはその外部に遊休する諸資本闘の機能的関係を,技術主義的な視角 から捉えたものであった。自然と労働との超歴史的な把握と,それがもっ生産力
を機能せしめる手段として捕捉された資本とが,そうした把握を必然ならしめて いた。それ故「遊休資本」を完全な生産状態に置くという「信用一般」の果たす 役割は,実は,祉会的に存在する「勤労」の程度それ自体に関与しうるものでは なくて,それをどの程度実現せしめうるかという,言わば第二次的な機能として 位置づけられたものであるのである。
だとすれば,信用は果たして資本蓄積に対し,如何にして,どの程度の役割を 果たしうるのかという点が, ミルの問題関心から必然的に浮かび上がって来ざる をえないであろう。そこに,
r
信用一般のもつ性格」が,構造論的信用の視角か ら,機能論的・競争論的視角に重点を移しつつ論ぜられる理由があるように思わ れる。節を改めて3 ミルが信用を追加購買力と捉える,今一つの側面を検討しょ つ。
ノ
(四) ミルの信用理論と「信用の特殊な形態のもつ特殊性」
(ー)ミルが第十一章「貨幣の代用物としての信用ついて」において強調した,
「信用一般のもつ 性格rJと「信用の特殊な形態、がもっ特殊性」との区別のうち,
前者の内容,および何故これが機能論的・競争論的な信用論にならざるを得ない かという点については,既に述べた。そこで次には, ミルがこうした機能論的・
競争論的信用論を以て,何を如何に説明せんとしているか,を明らかにする段取 りである。しかしミルの信用論は,彼の『経済学体系』の中で特異な位置を占め る交換論の一環を構成するものである。それ故吾々もまず ミルの変換論の位置 づけから見ておかなければならない。
ミルはその交換論を位置づけて次のように言っている。
「ある著名な著述家は,経済学を呼ぶ名称として,交換の科学を意味する rCa tallac tics Jという名称を提唱しており,また他の人達はそれを r価値の科学』
と呼んでいる一一一 (しかし)経済学の性格に関するこのような見方はあまりに も狭い見方である 一一一 。経済学の二大部門,すなわち富の生産および富の分 配のうち, r価値』の考察が関係するのはただ後者だけであり,それも ‑ 競争が分配を左右する要因となっている場合だけである。 一一…今日のような 産業生活の制度のもと,すなわち諸種の事業が細かく分割され,生産に関連して いる統べての人の報酬がある特定の商品の価格に依存している場合さえも,交換 は生産物の分配に関する基本的な法則とはなっておらず(この点は,道路や馬車 が運動の本質的法則でないのと,同じである) ,ただ分配を実行する機構の一部 であるに過ぎないJ53) 。
幾度となく引用されてきたミルの叙述であるが,要するにミルは.交換論ある いは価値論を,全経済理論の基礎に置くのではなく,それを分配論にのみ関係せ しめ,それも高度の分業の発展と私的所有とに基づく,それ故競争が分配を左右 する社会の解明にのみ役に立つもの, しかも更に, こうした分配を実行する機構 の一部としてのみ認められうる性格のものとして規定しているのである。従って,
ミルの場合, i価値論は社会的生産の原理ではなく単なる競争の原理として把握 され,価値を資本制生産の表面に現われた量的な交換比率としてしかとらえぬこ ととなるJ54) , という評価が与えられることになる。
実際, ミルの価値論は相対価値論であり,交換比率論である。ミルの言葉で言 えば)
r
交換という言葉は相対的な言葉である。ある商品の価値とは,その物品 が交換される他のある品物,あるいは物一般の数量という意味であるJ55) 。更 にこの交換比率は,購買主体の意識にまで反映されて購買力として観念されるも のとなっている。ミルによれば交換価値は「その物の所有が与えるところの,購 買に対する支配力J,r
一般的購買力J5 b) である。彼は,価値は需給によって 決まるとするが,それは一時的な価値ないし市場価格であり,生産費を回婦の中 心として不断に変動し均衡化するものと捉えている。すなわち,市場の競争過程 に現れる需給変動が価値と観念されているのであり,r
需給論に大きく傾斜した 生産費説J57) となっているのである。この需給関係を現実の市場状況において具体化するものとして,貨幣が説かれ る。特徴的なのは,価値論における需給説が数量的な貨幣の機能把握と結びつき,
その観点から,価値尺度,涜通手段,退蔵貨幣,交換手段,世界貨幣といった貨 幣の諸機能が展開されている点である。すなわち,貨幣価値を生産費説的に,
「貨幣の価値は,永続的には,かつ自由が支配している状態においては殆ど即座 に,その材料となっている金属の価値に合致するJ58) と述べるが,
r
黄金属の 生産貨における変化は,まさにその数量が増加あるいは減少する割合においての み,貨幣の価値に影響するJSq) と数量説的思想を混入し,需給論的に把握する のである。実際ミルは,r
もしも流通界にある貨幣の総額が二倍となったならば,価格も二倍となるであろう。 一一一‑貨幣の価値は,他の事情が同じであれば,
その数量に反比例して変化するJbO) として,貨幣数量説的見解を披漉している。
彼は更に,貨幣の価値が数量と共に,流通速度によっても影響されることを詳細 に論じている。
しかし注意すべきは, ミルが,派通する貨幣と退蔵貨幣との区別を行っている 点である。ミルは言う。
「いかなる商品においても,その価値を決定するものは,それの存在量でなく して,売りに出される数量である。国内にある貨幣の数量がどれ程であっても,
物価に影響するのは,そのうち商品市場に入り込んで,実際に財貨と交換される 部分のみであろう。国内にある貨幣のこの部分の大きさを増加させるものは,何 であれ,物価を引き上げる傾向をもっo しかし退蔵されている貨幣は,万ーの必
要が起こらない場合は,物価に作用しない。イングランド銀行の金庫にある貨幣 や,個人経営の銀行が準備金として保有している貨幣は,引き出されるまでは物 価に作用せず,引き出された場合でも,商品に対して支出されるために引き出さ れるのでない限り,物価に作用を及ぼすものではないJb 1)。
諸研究が指摘するように, ミルの把握の中には)
r
退蔵貨幣に対する感覚的な 認識とともに,不明確ながら貸付うべき貨幣資本と現に貸付られて債権名義で銀 行に保有されている貸付資本との区別がうち出されているJbZ) のである。要するにミルは,交換の問題を,競争が作用する状態において分配を実行する 像機のーっと狭く限定し,価値を相対的価値,交換比率と把握して需給論に大き く傾斜させ,それに加えて,貨幣を数量説的見地から捕捉して行く。こうしたミ ルの思考が,交換論の持つ問題範囲を景気変動論に傾注せしめ,かかる視角から,
価値および貨幣の有する諸問題を機能的に組み替えて捕捉して行く性格のもので あることは明らかであろう。ミルの交換論は景気循環論と関連させて始めて意味 を持つものであり,かかる基本的性格のものとして,価値‑貨幣一信用のトリア ーデ体系が構築されているのである。
かくして,
r
信用一般のもつ性格」において見られたミル信用論の機能論的・競争論的性格への傾斜は, ミルの特異な交換論の位置っ・けから規定された必然的 な方向であるということができょう。先に見たように,構造論的信用論の基本要 素たる「遊休資本」の理論が,そもそも生産論において資本を機能的な観点から 捕捉しつつ,信用論に持ち込まれていたが,それを受ける信用論自体もまた景気 変動を予定し,機能的な諸関連に考察が集中せねばならぬ性格を賦与されている のである。それ故, ミルの信用論は,むしろ追加的購買力としての信用の側面に 傾注されて行き,それと関連して「信用の特殊な形態の特殊性」が大きく問題と
して浮かび上がる性格のものなのである。
(二〕では「信用一般のもつ性質」とは区別されなければならないとされた 「信 用の特殊な形態の特殊性J,すなわち貨幣的信用は, ミルにおいては如何なる位 置づ、けを与えるのであろうか。ミルは第三節「貨幣の使用を節減させる信用の作 用」において)
r
信用一般のもつ性格」が,購買力の創造の問題である点を確認 にた後,r
信用の特殊的な形態 かもつ 特殊性」の考察対象について次のように 述べている。「私たちがここで考察しなければいけない信用は,すなわち貨幣から独立した,
特別な懸賞カとしての信用は,勿論その最も簡単な形態における信用,すなわち ある人が他の人に貸し,その人の手に直接に移譲されるところの貨幣という形態 の信用ではない。というのは,借手がこれを購買に支出する場合,彼は貨幣を以 て購買をなすのであって,信用を以てするわけではなく,かつ貨幣によって与え られる購買力以上の購買力を行使するわけでもないからであるo 購買力を創造す るところの信用の形態は,その取引がそれ以上の多数の取引と共に一個の勘定の 中に包指せられ,差額以外は何ものも支払わないために,当座においては何等の 貨幣も移動せず,多くの場合は貨幣が全く移動しないところの形態である。この
ことは多種多様な方法で行われるJ63) 。
ミルはこれ以降の叙述において, この「多種多様な方法Jとして「為答手形J,
「約束手形J, i預金および小切手」という信用的流通諸手段を順次検討するの であるが,こうした信用的流通手段を, ここでは「購買力を創造するところの信 用jであり,貨幣的貸借的信用ではなく貨幣的信用での取引であり, しかも当座 においては貨幣の移動を伴わない形態であるというのである。すなわち, ミルが
「信用一般のもつ性質」において「特別な事情があるときにだけ」発動するとい う条件を付して提示していた信用の,購買力を創造する機能は,貨幣的貸借的取 引ではなく,信用貨幣を以てする貸付取引において顕在化するものと捉えられて おり,逆に言えば, ミルの「信用一般」は,特殊に近代的に展開された信用貨幣 を以て行われる貸付取引と絡んで,そこではじめて具体化される性質のものであ るということができょう。それ故ミルの信用論は, i貸借的信用は貨幣的信用の もつ性格の中に自己を埋沈J64) させるものとの評価も受けるのである。それに してもミルは, こうした信用的流通諸手段を,貨幣が移動しない形態と言ってい た。それは果たして如何にして物価に影響を及ぼしうるというのであろうか。ミ ルの言う信用諸手段の 「多種多様な方法」を見てみよう。
ミルの信用諸手段についての叙述は,商業貨幣に付いてはソーントンの所説が,
銀行券に関しては通貨主義の認識が,また預金通貨については銀行主義の見解が それぞれ採用されていると言われる。それらを概観すれば次の通りである。為替 手形は,隔地問の送金業務において金輸送費を節約し,内国為替であれば,流通 し通貨機能を営むが,更に手形は割引されるという機能を併せもつo この割引を
118
ミルは「為替手形の重要な機能の一つJ65) として強調しているのであるが,そ の場合,割引手形は銀行において資産として保有され,手許現金(レディ・マネ ー)使用を節約するだけでなく,現金に代位するということを指摘している。約 束手形については,利子付きでない点および一覧払いである点を除けば,為替手 形と同じ価値をもつものであると指摘するのであるが,更に 「商業諸国において このような貨幣の代用物を発行することが一つの業務となる」点を強調し, これ を銀行券に代表させて捉えている。その上で約束手形の貸付は通貨と同様の機能 を果たし同額の貨幣を節約しうることが指摘される66) 。更に預金および小切 手に進み,万一の必要に備えて手許に留めておく予備の現金を銀行に預け,小口 の支払い以外の一切の支払いを銀行に宛てた指図証書によってなす小切手の機能 を説明し,またそれに伴って,支払いは「貨幣の仲介を経ないで,銀行の帳簿の 上で」金額だけが支払人の貸方から受取人の貸方へ移転され,それによって貨幣 が節約されることを指摘するのである日〉。
以上のように, ここでの信用的流通諸手段,すなわち 「種々の信用上の道具」 は,貨幣の節約という観点から考察されており) iイギリスのような一国の廃大 な取引が,驚くほど少額の貴金属を以て処理されているJ68) 次第が,経験的か っ現象的に記述されているのである。しかしここで注意すべきは, こうした 「信 用上の道具」の説明が,銀行信用の観点から,そこに到り着くもの,あるいは銀 行信用の内部で,技術的に,あるいは流通領域的に,区別される機能的な差異に 注目して行われていることである。
さて, ミルが「信用上の道具」を,流通すべき貨幣の節約という観点を以て機 能的に説明した「信用の特殊な形態のもつ特殊性」は, i信用一般のもつ性格」
とは如何に関連づけ理解さるべきなのであろうか。先に見たように, ミルは「信 用一般のもつ性格Jを,預金銀行を介しての追加的購買力の創造として把握して いた。これに対して「信用の特殊な形態のもつ特殊性Jは,銀行信用を前提に,
それと絡んで存在する「信用上の道具」の貨幣節約機能の説明であった。だとす れば,ミルがここで見ているのは,一個の銀行の勘定内部で不断に現金と債権と の形態転換を行いつつ存在する貸付資本の具体的変容態様であり,ミルが当初区 別すべきとした 「信用一般」と 「信用の特殊的形態Jとは,実は 「貸付うべき貨 幣資本(実質的貸付資本)と既に貸付られて流通界に存在しそれぞれの形態、に
119
おいて流通機能をおこなっている貸付資本(名目的貸付資本)との区別Jb9) の ことであったのである。
(三〕以上のように)
r
信用上の道具」の機能的側面を銀行信用の観点から捕捉 しておいて, ミルは第十二章において「信用の物価に及ぼす影響」の検討に入る。ここでミルが信用と物価という場合の物価は) I平均的物価ではなくて直接的か っ一時的な物価J70) である。先に見たようにミルは,物価,すなわち「市場価 格」の変動要因を,
r
流通界における貨幣の数量」を以て捉ていた。それ故ミル は,機能論的側面を以て捉えきたった「信用上の道具」を,具体的な物価の変動 局面に入れ込んで考察せんとするのである。しかし考察に入るやミルは次のように言うのである。
「銀行券や手形や小切手は,そもそもとしては全く物価に作用しない。物価に 真に作用するのものは r信用』である。そして信用がどのような形で与えられる か,また信用が流通界に出うる譲渡可能な道具を作りだすかどうかということは 問うところではないJ71>。
信用的流通諸手段を,貨幣を節約する機能の視点から捕捉するミ Jレの分析視角 は, ここで大きく展開し,そこから,果たしてそれらが物価に影響を及ぼすか否 かという視角がクローズ・アップされてくる。ところがミルは, こうした信用貨 幣は物価に作用しないのであり,物価に作用するのは『信用』であるという。こ こで, ミルが「信用一般のもつ性格」を追加的購買力とした時,それが機能する のは「特別の事情」の下においてのみであると,注意していたことが想起されな ければならない。貸付うべき貨幣資本は,貸付けれた貨幣資本の形態、,すなわち
「信用上の道具」を介して,ある特殊的な状況下において,特殊に物価に作用を 及ぼすというのである。この関連を再度見ておけばこうである。日く,
「貨幣は,商品と交換するために提供されたとき,はじめて物価に彫響を与え る」。ところが,信用的流通諸手段もまた,通貨が存在するか否かに係わりなく 購買に用いられ) Iこのような購買は,すべて,物価に対し,現金を以てなされ た場合と全く同じ影響を与える」。それ故) iある人が行使しうる購買力の総量 は,その人が所有している,あるいは請求しうる一切の貨幣および彼の一切の信 用からなる」。しかし「彼がこの力を全部行使しようという動機を見出すのは,
ただ特別な事情が在る場合だけであるJ (強調は引用者)。だから彼が常に潜在
的に保有している「この力のうち,彼がある時において実際に行使するところの 部分が,彼が物価に対して及ぼすところの彫響の尺度であるJ72) 。
購買主体の意思を加味し,潜在的購買力と実際的購買力との区別をなし特別 の事情の下で信用に結び付いて発動する追加購買力を以て, ミルは市場価格の変 動を,貨幣数量説的に説明している。彼がここでいう特別な事情とは何か。それ は,景気循環過程に現れる投機である。彼は投機を「余剰の需要により,あるい は収穫の不良により,あるいは輸出に対する障碍により一一一 ある商品の価格が 騰貴しそうだという印象が一般的にもたれると,商人たちの間に,その在庫を増 やそう,そして予想される価格騰貴によって利潤を上げようとする意向が生まれ るJ73) と心理論的に説明する。かくして投機は開始されるが, しかし,ある
「最初の根拠が正当とするJ74) 一定の限界を越えると反動が起こり,価格は低 下し,人々は市場に走り,投げ売りが開始され,価格は急落する。商業的反動で ある。しかし, ミルはこうした投機と反落一般を以て信用と物価騰貴との関係を を捉えているのではない。ミルは,単なる投機による市場の加熱とその反動であ れば,それは信用なしでも起こりうるが, しかしその場合は一部の商品について 起こるに過ぎないことを指摘し信用が介在する場合には,投機と反動とが「商 品全般について」惹起こされることを強調するマ5) 。
そこでミルは,信用的流通諸手段を,今度は物価へ及ぼす影響という観点を以 て再度論ずることになる。しかし今度は,当然のことながら,分析の視角は変化 している。ミルは) I信用のある特別な様式あるいは形態が,他のそれよりも物 価に対してより大きな作用を及ぼしうるとすれば,それは明らかに,それが一般 的信用取引の増加に対してより大なる便宜,あるいはより大なる奨励を与える」
からであり) Iそれらの取引自身の中に存在する差異によるものではない」と言 う山。すなわち再論される視角は,信用的流通諸手段の聞の機能を,それが信 用取引の増加に対して果たしうる機能的差異の問題として扱うというものである。
こうした観点からみれば,先には貨幣節約的側面から分析された信用貨幣の特殊 形態が,今度は「物価を投機させる道具」という観点から分析されることとなり,
その結果は「銀行券は手形よりも,手形は帳簿信用よりも有力J75) である,と いう評価が下されるのである。
〔四〕かくして, ミルの「信用一般のもつ性格Jと「信用の特殊な形態、のもつ特