1969年度平城宮跡・藤原宮跡発掘調査
1969年度平城宮跡発掘調査部の調査 1
調査部は, 1969年度に第35 ・ 54〜57・60・61次にわたる平城宮跡の発掘調査を実施した。
このうち第35次調査は,第2次大極殿東外郭についておこなったものである。
平城宮跡の規模は,ながらく約lkm四方と考えられてきた。しかし, 1967年に,宮域が東 方にさらに250m張り出すことが判明した。この結果,建設省が当初,推定東一坊大路に建 設を計画した国道24号線バイパス路線は,あらたにウヮナベ古墳・市立一条高校の東側の,
推定東三坊大路を通る位置に変更されることになった。第54次以降の調査はこの路線敷地に ついて実施したものである。
藤原宮跡の発掘は, 1966年以来,奈良県教育委員会が国庫補助事業として実施してきたが,
本年度から本研究所がこれをうけつぐことになり,第1次調査として門跡を発掘した。
各次別の調査面積・期間,遺構の規模・時期については,第1〜3表を参照されたい。
平 城 宮 跡
調F1 次1 35
54 60 55 56
57 61 藤宮 原跡1
調 査 地 区
6AAE N6AAF S
∩
4PUN O・P 4PUN N 6AFB I・J 6A F B F ・ H 6AFB A〜E
第2次大極殿東外郭 ウヮナベ古墳後円部東方外堤 ウヮナベ古墳前方部東南方外堤 平塚1号墳・平塚2号墳 {
左京一条三坊十五・十六坪
6AFE
東三坊大路(一条通以北) H・J・K東三坊大路(一条通以南)
6AJH J〜L 南門か調査期間
1968.12.20〜1969. 4.30
1969. 2.13〜1959. 4. 3 1969.10.22〜1970. 1.13 1969. 3.24〜1969. 5.16 1969. 6. 2〜1969.10.27 1969. 7. 9〜1989.12.17 1969.11.14〜1969.12.14 1969.12.22〜1970. 5.25
第1表 1969年度発掘調査状況
−33−
調査面積
35a
4
10
20
32
24.6
1.5
16.2
34−
−
奈良国立文化財研究所年報
第2次大極殿東外郭(第1図,第1表) 第2次内裏の東外郭一帯にかんしては,これまで数 年にわたって調査を実施し,内裏外郭と大極殿外郭とが築垣で区画されることなどがわかっ ている。本調査によって,さらに,大極殿外郭の東南部分の状況が明らかになった。
検出した遺構は,築垣1・門1・礎石建物1・掘立柱建物9・柵4・井戸1・溝5・暗渠 1などである。 これらは,第2次朝堂院・内裏造営の時期(B期)と,それに先立つ時期
(A期)とにわげることができる。ただし,A期には,北に高く南に向って緩く傾斜する旧地 形面を整地し,掘立柱建物3棟を建てて卜るにすぎな卜。
B期に入ると,A期の整地層のうえに,さらに厚く整地して,外側より1.5m高くし,縁 辺に築垣をめぐらし,大極殿外郭を整備して卜る。
築垣は南面部分(南面築垣)と東面部分(東面築垣)とがら成っており,鈎の手状に大極殿 の東外郭を画して卜る。南面築垣は全長91m(300尺)あって,その西端で大極殿回廊の東南 隅(第1次調査検出)に接続し,また,東面築垣は全長98.4m (330尺)あり,北端で内裏東外 郭の築垣(第33次調査検出)に接続する。今回の調査部分では,築垣外方が削平されて卜たた め,築垣の幅を確認できなかった拡 従来の調査(第26 ・33次)によって南面・東面の築垣 の幅がそれぞれ1.5m, 2.7mである二とがわかって卜る。な執南面築垣の内側には雨落溝 かある。この溝は東面築垣下の石組暗渠を通ってさらに東の溝につづ卜ている。
南面築垣のほぼ中央,刳亘│の調査地区の西端で,築垣にとりっく門の基壇を検出した。桁 行3間・梁行2間,基壇は東西13m ・ 南北10m,と推定される。築垣北側の雨落溝は,門の 部分だけ基壇にそって北に突出して卜る。門から北と南には道がのびており,北の道は凝灰 岩の切り石を敷きつめている。
築垣の内方,門の東北には,礎石建物があり,すべての柱通りに根石を検出した。二の建
建 物 柱間数
一 − A 期
√低竺
B 期 B 築1 期 B
外B S B4340 S B4460 S B4550
南南南
柱間寸法 桁行梁行
北棟 3×2以卜 2.4×2.4北棟か
北棟 S A 705 築 地 S B 4500 礎石建物 S B4505 門 S B4450 井戸覆凰 S B4350 S A 4385 S B4370 S B4380 S B4390
棟柵
西西
東東 棟棟棟西西西
東東東
y 5 1 0 2 { 一
第1図 第2次大極殿東外郭遺構配置図
|
2以上×IK h 3.0×2.4 2×9以│二 2.4×2.7
寄柱3.0
3以七×4 2以上×
2×2
OOCO CVJ
×4 ××
りり 4Qり
3×2
S B4360 東西棟か 2以上×3 S A 4365
S A 4375 S A 4395
柵柵柵
北北北
南南南 44CO
3.9×3.3 3.0×
1.8×1.8 2.4×2.4 2.4
2
ln乙
1 4 × 2 . 4
5 × 1 . 8 1 × 1 . 5
8 × 2 . 1
」O 」O aU
・ I IIII
第2表 大極殿東外郭の主要建物
1969年度平城宮跡・藤原宮跡発掘調査
物は発掘地外の北方につづ卜ており,全体の規模はわからな卜牡 基壇の東西幅は18mあ る。周囲には基壇化粧に使用した凝灰岩が散乱して卜た。 この建物は,その位置と規模か ら,楼ふうの建物と推定できる。なお現在この建物の西北方にの二って卜る土壇は,東楼と よばれて卜る。この両者を楼とみとめれば,大極殿東外郭築垣の中に2つの楼が建って卜た ことになる。なお,東面築垣の内側に沿う長さ8m,幅5mの範囲に1,700点以上の完形の 軒平瓦・平瓦をたて並べた状態で検出した(口絵2)。建物撤去の際に放棄したものであろうか。
面てこ蚕築垣の外では掘立柱建物6・柵4を検出した。 これらは,表示したように,さらに BI〜B3期の3段階に区分ができる。南面築垣の外,道路の東側は,道路面より0.5m低くな
って卜る。ここで覆屋をもつ井戸(方1.5m,深さ1.5m)を検出した。井筒組の木枠が3段の こっており,また,内部から櫛と和同開作・隆平永宝が出土した。井戸の北には,玉石を用 卜た溝かあり,その一部に木樋を用卜て卜る。井戸の東側には,小士墳群がある。二の1つ
から陰陽寮に関係する木簡が出土した(42頁参照)。 今回の調査範囲では,井戸・小型建物を 検出したにすぎず,この1画をただちに陰陽寮とむすびつけることは速断にすぎるかもしれ な卜。しかし,平安宮大内裏図で今回の発掘地区に相当する朝堂院東側に陰陽寮が位置して いることは,今後,大極殿東外郭外方の地域の遺構を考える上で興味ある事実と卜えよう。
ウワナベ古墳東外堤部(第2図) ウヮナベ古墳の周濠と外堤部の調査は,同古墳後円部東 方(第54次調査)と,前方部東南方(第60次調査)とにわけて実施した。
後円部東方にお卜ては,周濠から外堤にわたるトレンチを南北2ヵ所にも引胆だ。二の結 果,築造当初の周濠外岸は2段構成で,ゆるやかな傾斜面をなして卜たことがわかった。岸
の上端は,南トレンチにおいては現在のそれとほぼ同位 置に,北トレンチでは4m東で検出した。岸の基底部 は,いずれのトレンチにおいて乱現在の岸の下端から 10m西寄り,今の濠底から4m下で検出した。基底部に は拳大の傑をもちいた葺石が2mの幅でのこって卜た。
濠内の埋上上層(厚さ2m)は周濠を濯漑池に利用し た結果,滞水状態で腐植土がたまったものとみられる。
そして出土遺物からみて平安時代末以後の堆積であるこ とが明らかになった。なお,外岸の位置を確認するため のトレンチを,周濠東岸の南端近くにも設置した。この 結果,現在の岸から2m西に寄った位置で,もとの岸の 上端を検出し,また岸が2段構成であったことをここに お卜ても確認できた。
前方部東南方においては,円筒埴輪列と外濠とを検出
した。円筒埴輪列は周濠外岸基底線の東25mに,それと 第2図
― 35 ―
ウワナベ古墳東外堤の遺構
奈良国立文化財研究所年限
平行して直線に南北につらなっており,溝(幅0.7m,深さ0.15m)を作って約15cm間隔て円筒 埴輪をならべて卜る。 円筒埴輪は,南北96mの調査範囲内(うち25mは未掘)で約120個検出 した。外濠(幅10m,深さ0.5m)は埴輪列の東2mにあり,外堤にそって一周するものとみ られる。滞水の痕跡はなく,空濠であったと考えられる。中から埴輪片が出土した。
ウヮナベ古墳東外堤部で出土した遺物には,埴輪・土師器・須恵器が多量にみられる。埴 輪にはキスガサの破片もある。円筒埴輪は鰭つきで径30〜40cm,凸帯は4条あるとみられ,復 原高は約70〜80cmとなる。なお円筒埴輪には舟の画をえがいたものがある。
ウヮナ4古墳は,現在,長さ254m,周濠をふくめると全長400mにたっするが,今回の 調査結果と,周辺で発見した埴4Jyり,および航空写真・地形図・地籍図とにもとづいて復原 すると,全長約280m,前方部幅約160m,後円部径約150mとなり,水面は低く,くびれ部西 側にある造り出しは,常時水面上にあらわれた状態にあったとみられる。周濠の外には外堤
(幅30m)がめく丿,その内・外両縁には,円筒埴輪をたてならべている。クト堤の外には,さ らに外濠をめぐらして卜る。この外濠は,今回の調査部分では幅10mであったが,古墳の西 方と前方部の南方にお卜ては, 25m内タトらし卜。二のよ引こして,ウヮナベ古墳の外濠をふ くむ全長は,じつに480mに達することになる。この新事実は,ウヮナベ古墳のみではなく 佐紀盾升占墳群の研究にも新たな問題を提起するものと卜えよう。
な牡 ウヮナベ古朧前方部東方の胤査では,2ヵ所の墳丘状の盛土をも調査し,二八がと もに,国鉄関西線工事にともなう排土の堆債であることも確認した。また,外濠の東方では,
奈良時代末期の南北溝(幅2m,深さ0.6m)を検出している。
平塚1・2号墳(第2図・口絵2) 右京一条三坊十五・[‑六坪に相当する地域の調査で,余良 峙代の遺構下に√前方後円墳2基を検出した。両古墳とも西向きで,濠を接して南北に隣りあ って卜る。小字名をとって,北の古墳を平塚1号墳,南の古墳を平塚2号墳と仮称して卜る。
両古墳は,ふるくは奈良時代の整地建設工事,ちかくは国鉄関西線の敷設工事によって,
主体部はもとより後円部の大部分を失っている。しかし,現存する部分では,墳丘基底部の 斜面・葺石はよく原状をとどめて卜る。
平塚1号墳は,全長約70m,前方部長18m,前方部幅30m,後円部径約50mの帆立貝型前 方後円墳である。二のうち前方部の大部分と後円部の一部,および,これをめぐる周濠を検 出した(口絵2)。葺石は基底の裾にやや大型の傑を一列に並べ,墳丘斜面を拳大の小傑で覆
うものである。北側くびれ部には,後円部をめぐる円筒埴輪列の一部をみ卜だした。平塚1 号墳の出土遺物には,濠内から出土した円筒埴輪,水鳥・短甲・盾などの形象埴輪がある。
(2)
平塚2号墳は,全長約70m,前方部幅43mの前方後円墳である。本古墳は平塚1号墳と同 じ西向きであるが,主軸の方向はやx異り,西について僅か南に偏して卜る。前方部の前半
部分20mの範囲と,これをめぐる周濠を検出した。前方部前端での濠幅は7mあり,この部 分で,北濠の北岸と南濠の南岸との距離は60mある。濠は,地山を1.5ni掘りこんでいる。葺
一部−
1969年度平城宮跡・藤原宮跡発掘調査
石に小傑を用卜て卜る点は1号墳と同様である。ただし,南辺部分では削平が著しく具石を とどめて卜ない。周濠埋土から円筒埴輪,水鳥・短甲・盾などの形象埴輪が出土した。
平塚1・2け墳は,卜ずれ仁西向きであって,葺石はと仏二小傑を用卜,裾に大型の傑を用 卜る点が共通して卜る。また両古墳の円筒埴輪・水鳥埴輪は酷似して卜る。これらから,両 古墳の築造年代には大きなへだたりはな卜と考え,ほぼ5世紀前半におきた卜と思う。なお 両古墳が周濠を接して卜ること,主軸の方向からかう二とから同時の築造でないとも考えら れる。しかし,両者の先後関係はわからな卜。
また,平塚1号墳が,ウワナベ古墳外堤東南隅から南へ45mの位置にあるところから,両 古墳がウワナベ古墳の陪塚である可能性もある。また,陪塚でな卜場合にはウワナベ古墳と の先後関係も問題となってくる。しかし,卜ま,これらについて積極的に論ずる材料はな卜。
なお,平塚1号墳の墳丘下には,北東から南西に流れる溝(幅2m,深さ1m,断面V字形)
があり,平塚2号墳の前方部の墳丘下には,溝か土墳かと思われる落込みがある。これらの 溝は古墳に先立つ遺構であるが,時期につ卜ては不明である。
左京一条三坊十五・十六坪(第3・4図,第3表) 本調査地域は東三坊大路の西側に沿って,
南は条間大路に,北は北京極大路近くにまでおよぶ,延長250m,幅30mの範囲である。 調 査地域の全域にわたって奈良・平安時代にぞくする遺構を検出した。 おもな遺構は,掘立 柱建物27 ・ 柵4・井戸5・溝8・庭園1などである。ただし,条間大路は確認できなかった。
奈良時代の遺構はA−E期にわけられ,またE期の遺構は,さらにEI−E3期に細別できる。
A期には平塚1・2号墳を削平し周濠を埋めたてて整地し,建物2棟を建てている。2号墳 の濠の西北隅には井戸(方0.9m,深さ3.7m)を作っている。縦板組八万周囲に石敷(方4m)
がある。
B期には溝(幅1.5m,深さ0.5m)と井戸(方1.2m)とを作って卜る。溝は,1号墳南濠の 埋立地にあり,西から東に流れ,東南に流れを変えたのち,さらに転じて南流して卜る。井 戸は溝の北側にあり,底に傑を敷いている。枠はのこしていない。
C期にはB期の溝の東流部分を南につけかえたのち,建物を建てている。溝(幅3m,深さ 0.5m)は,南部分で2つにわかねて,ふたたび合し,2号墳北濠あとの低地に注いで卜る。
溝には小枝をからめて,しカこらみを組み,岸には部分的に杭を打ち二んで卜る。この溝から 多量の土器と木器・木簡が出土した。木簡には「楽毅論 夏」・「霊亀三年六月」と記した ものがある。墨書土器には「コ由加和銅口」と器名と年次を記したもの,「尼家」と古卜た ものがある。なお,調査地域北端にある溝もこの時期にぞくして卜る。
D期はこの地域が最も整備された時期である。すなわちC期の溝を埋め,2号墳の周濠の 低地を再度整地して建物3棟をたて,庭園を作っている。建物のうち2棟は東側妻通りをそ ろえて卜る。その東南にある建物は規模のわりに太卜柱を使用しており,倉庫かもしかな卜。
庭園は,2号墳前方部の前面南部にあり,濠の低地・古墳基底部の斜面・葺石を利用して
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奈良国立文化財研究所年報
けって卜る。本来の葺石に,転落した葺石を加えて,東西に長卜絹円形の浅卜池(6mx4m)
(3)とし,その岸にそって石英質片麻岩・花肖岩・安山岩(三笠山安山岩)などの粗面の自然石6 個(最大のもの0.9mx0.4m,高さ0.6m,最小のもの0.6mx0.3m,高さ0.4m)を配して卜る。
E期は,建物群が発掘区北端と南端とに集中的に作られた時期である。 E1期(建物1 ■w 1・井戸1),E2期(建物4・柵1),E3期(建物6)の3小期が認められる。EI期の井戸は,底 に小磯・木炭を敷きつめ,曲物(径0.7m)を重ねて枠とした丸井戸である。
平安時代に入ると,両古墳の周濠を埋めたてた奈良時代の整地層の上に,さらに厚く盛 土してCO. 4m),建物4・柵1を作っている。他に,2号墳南濠からやや離れて建物1があ
る。これらの建物の廃絶後に作った東西方向の小溝から,灰粕・緑粕陶器片が多数出土した。
以上にあげた遺構のほかに,時代を決定できない建物8・柵1・井戸2・溝3がある。こ のうち3条の溝は,東三坊大路上にあることから,道路廃絶後にできたものである。井戸は と仏二2号墳南濠のあとにある。東方のものは縦板組み(方1.2ni)で底に小磯を敷きつめて いる。西方の仁のは周囲に敷石(方3.5m)を配した浅卜泉ようの遺構である。
A 期 C 期 奈D 良期 時E 1 代期 E 2
平塚2号墳 SX500
0 10 20 30M LLムL‑ゝ‑ぶ  ̄一玉
第3図 平塚古墳と左京一条三坊の遺構
E
3
期
不明
建
SB SB SB
物 柱間数才iツ珍愉陥考
471東西棟 481南北棟カ 482東西棟カ S B470東西棟 S B480東西棟 S B490東西棟 S B510東西棟 S B551東西棟 S A 554東西柵
S B530 S B555 S B561 S B565 S A 558
S B552 S B 556 S B557 S B559 S B560 S B562
S S S S S
S
柵
B476南北棟 B501南北棟 B502南北棟 B550南北棟 A 504東西柵
B4 S B432 S B437 S B 44C S B 441棟
棟棟棟柵
レしレLレしヒ
I \IVIVIV南南南南
CO ^ <xi aU
c≫ 00 Cvl ‑^44﹂O ‑f
BBBA
a^mimn
2×1以上 1以上×4 5×4 4以上×4 4以上×2 3×2 4以上×1
6以上
m 2 . 4 × 2 . 1 2 . 7 × 3 . 0 2 . 7 × 3 . 0 2×2 2.4×2.1
。。。南北㈲,
2.7x2.7のみ梁i
3。0×3.0南北廂 3.0×3.0 3.0×3.0倉庫か廂3
レLり0
j.j
2.7×4.8妻柱なし 2.4
2 2 2 2
2.4×2.4 2.7×3.0 2.4×1.5 2.4×1.2
1.8×2.1間仕切りあり 2.1×3.0
5×2 1×1 3×3 1×1 4以上 1以上×3
1×1 1×2 1×1 6×2 1×1 5×2 2×1 2×1 3×2 4
4×2 2 a. I■X 1 3×2 4×1 3×2 1×1 1×1 1×1以上6以上
4×2.4北2聞分に廂 4×3.0
4×1,5 4×3.0
2.1
2 . 1 × 2 2 . 1 × 3 2 . 1 × 2 1 . 5 × 1 2 . 7
2 . 5 × 2 1 . 5 × 3 1 . 5 × 1 2 . 4 × 3 1 . 5 × 1 1 . 8 × 3 1 . 8 × 3 2 . 1 × 2 . 4
1 0 7 5
」O (」D ﹂O O ﹂O O
第3表 左京一条三坊検出の主要建物
−38−
1969年度平城宮跡・藤原宮跡発根調査
東三坊大路(第4図,口絵1)通称一 竺些鮒 条通り以北の・南北全長240mにわ 二心三
たる地域で,東三坊大路とその東側 溝・築地1・柵2を検出した。一条 通りの南においては,トレンチをも 引ナて,推定一条大路北端から南100 m,および200mの地点で,東三坊 大路東側溝を検出した。しかし,一 条大路南側溝は,後世の氾濫でこわ されたらしく,みいだすことができ なかった。
東三坊大路は,従来,幅24ni(8丈)
と推定している。今回の調査では,
その東部の19m分を検出したが,西 端は,みいだすことができず,遺跡 の上で道幅を確認することはできな かった。大路の東側溝は,調査地域 の北端においては断面V字形(幅2 m),中ほどでは断面U字形(幅4〜
第4図 東三坊大路調査地域付近地形図
5m)を呈し,南端付近では,大きくひろがって氾濫の様相をしめしていた。一条大路と条 間大路との間の条間小路が存在したと推定される位置付近(一条通り北約100m)で,側溝東方の 状況を調査した。側溝の東に接して,南北方向の築地とそれにともなう雨落溝とがある。さ らにその東には,柵が2条ある。このうち,南北ともに調査地域外に連続して卜る,東側の 柵には,柱のない間隔(約9m)があり,この部分を条間小路の位置と推定できる。
本調査地域の遺物には,土器・瓦・博・土馬などの土製品をけじめ,金属製品・石製品
・木製品,および木簡(43頁参照)があり,その大半は,東三坊大路の東側溝で出土した。奈 良時代の遺物がわずかで,平安時代(9世紀後半〜10世紀前半)にぞくする遺物が大多数を占 めるのは,平安時代初期に溝さら卜をおこなった結果であろう。
この溝の遺物の年代をきめる手がかりとなるのは銅銭と木簡である。溝の堆積土は3層に 区別されるが,このうち下層で検出した銅銭は404枚あり,和同開作から皇朝十二銭の9番目に あたる貞観永宝(870年鋳造)までの全種類がそろっている。しかし,10番目の寛平大宝(890年鋳 造)およびそれ以降の銭は皆無である。中洲出土の138枚の銅銭には,和同開弥はなく,寛平大 宝109枚と延喜通宝(907年鋳造)1枚とをふくんでいた。下層から出土した木簡に,天長5年(828) 銘をもっものがある事実から払下層は9世紀末までに堆積したものとすることができる。
39−
奈良国立文化財研究所年報
須恵器・土師器・黒色十器などのユL器のほか,多数の施粕陶器や越州青磁(第5図10・11)が ある。緑粗陶には椀(16・18)・稜椀(17)・皿(14・15)・耳皿(13)三足盤(12)・薬壷・唾壷
(19)・把手付瓶など約200個体分ある。なお輪花や花文・秋草文の陰刻(17・18・19)をもつも のもみられる(口絵4)。灰粕陶は300個体近くあり,椀(第5図4)・双耳椀(3)・皿(2)・段 皿(1)・耳皿・香炉(5)・把手付瓶(6)・平瓶(7)・双耳壷(8・9)など各種の瓶・壷がある。
黒色土器には,椀・皿・杯・甕のほか,珍しレかのとして硯がある。灰粕皿の裏面には,「新 殿」・「大西」・「酒井」・に川力」などの墨書をもつものがあり,土師器の椀には底に「隅寺」
(海龍王寺の別称)と書いたものがある。
これらの豊富な土器・陶器は,平安時代の土器・陶器研究に多くの問題をなけかけている。た とえば,今回出土した灰粕陶は胎土・技法・粕・器形・器種などが愛知県猿投古窯出土の土 器と類似している。しかし,東側溝下層出土の土器は,前述のように9世紀代にさかのぼる と考えられるのにたいして,猿投窯における灰粕陶は10世紀中葉以降,11世紀代にかかるも (n (5)のと考えられているのでここに1・2世紀の年代差を生じることになる。
瓦類には軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦などがあるcこのうち,重圏文軒丸瓦には「右」の逆字を もち,難波宮跡や長岡宮跡出土と同範のものがある。金属製品には銅銭・帯金具・刀装金具
・鋲・釘・座金具・金銅飾板・針金などがある。銅銭についてはすでにのべたが,皇朝十二 銭のうち最後の鋳造である乾元大宝(958年)を除く総ての種類があり,総計736枚に達して いる。
木製品には,下駄・曲物・折敷・盆・櫛・斎串・しゃもじ・さじ・はし・ざる・紡錘車・
糸巻・きぬた・木釘・桧扇・かんざしなどの日常生活什器が顕著である。このほか人形・剣 形・刀子形木器などもある。また特殊なものとしては,飛ぶ鳥を墨で描いた板や赤彩した火 焔宝珠形の板などがある。漆器には椀・皿・盆・高杯などがある。多くは黒漆であるが,内 面に赤漆をかけたものもあり注目される。
石製品には,石帯・丸玉・砥石などの他に弥生時代の柱状片刃石斧も出土して卜る。な お,一条通りの南方のトレンチでは若干の土器片・瓦片を検出したのみである。
藤原宮の南限(口絵4) 藤原宮の四至のうち,北限・西限・東北隅は,奈良県教育委員会の 調査で明らかとなって卜る。今回の調査は,宮域南限の確認を主目的として実施し,これま で朝堂院の南門と推定されていた門跡から南へ,トレンチ(長さ150m,幅10m)を設げた。
この門跡の遺構は,日本古文化研究所によって1943年に検出されて卜るレ調査は,まずこ の一部を再検出する二とから始めた。遺構は,礎石すえっけのための掘りかたの最下部と,
根固めのための玉石とがわずかに残存する程度であって,基壇施設のほとんどは失われ,ま た特別の基坦地業の痕跡は認められなかった。調査地域が制限されていたため,門の完令な 規模は確認できなかったが,桁行3間分(柱間寸法5.1m等問)を検出した。梁問(柱間寸法4.5 m等問)は2間であった。この北側柱列の北約3mのところに,雨落溝の残存部とみられる
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第5図 平城京東三坊大路東側溝出土陶器(1〜9灰釧胴乱10 ・11越州窯陶器,12〜19緑和陶器)
傑 敷 ( 幅 約 1 m ) の 一 部 を 検 出 し た が , 南 側 で は 不 明 で あ っ た 。 こ の 門 の 中 心 か ら 南 へ 約 2 0 m
離 れ た 地 点 で , 東 西 方 向 の 溝 1 条 ( 幅 約 5 m ・ 深 さ 約 1 m ) を 検 出 し た 。 も と は 玉 石 積 だ っ た
ら し く , 一 部 に 玉 石 が 残 存 し て い た 。 こ の 溝 か ら 南 の 地 域 に つ 卜 て は , 諸 般 の 事 情 に よ り 十
分 な 精 査 を 行 な え な か っ た の で 断 言 は さ し ひ か え る が , 特 に 顕 箸 な 遺 構 が 存 在 す る 様 相 は み ,
ら れ な か っ た 。
し た が っ て , 今 回 の 調 査 で 藤 原 宮 の 南 限 を 確 認 し た と は い え な 卜 。 た だ 門 と そ の 南 の 溝 と
の 位 置 関 係 が , 宮 域 西 限 ・ 北 限 の 柱 列 と 外 側 の 溝 と の そ れ に 類 似 す る こ と , 溝 以 南 に 顕 著 な
( O 遺 構 が 存 在 し な か っ た こ と な ど を 考 え る と , こ の 門 を 宮 域 南 面 中 央 門 と す る 岸 俊 男 氏 の 説
に , か な り の 蓋 然 性 を 認 め る こ と も で き よ う 。
註 1 前 方 部 南 方 ・ 後 円 部 西 北 方 の 2 ヵ 所 で 外 堤 の 内 縁 に な ら べ た 埴 幅 列 の 存 在 を 確 認 し て い る 。
2 本 調 査 の 後 に 実 施 し た 不 退 寺 境 内 緊 急 調 査 ( 6 9 年 1 2 月 ) で 存 在 を 確 認 し た 後 円 部 の 周 濠 の 位 置
か ら 本 古 墳 の 全 長 の 値 を 推 定 し た 。
3 奈 良 教 育 大 学 梅 田 甲 子 郎 氏 に よ る と , 配 石 は 黒 雲 母 石 英 礼 片 麻 岩 ・ 粗 粒 両 雲 母 花 こ う 岩 ( 石 英
質 片 麻 岩 か ら 成 っ て い る 。 こ れ ら の 岩 類 は , 奈 良 付 近 一 帯 の 基 盤 岩 で あ る 領 家 式 岩 類 に 属 す る 。
4 楢 崎 彰 一 「 猿 投 山 須 恵 器 の 編 年 」 ( 『 世 界 陶 磁 全 集 』 第 1 巻 , 1 9 6 1 . 1 0 ) 。
5 稲 田 孝 司 「 左 京 三 坊 大 路 東 側 溝 の 施 和 陶 器 」 ( 奈 良 県 観 光 第 1 6 3 号 . 1 9 7 0 . 6 ) 。
6 岸 俊 男 「 京 域 の 想 定 と 藤 原 京 条 坊 制 」 ( 『 藤 原 宮 』 , 奈 良 県 史 跡 名 勝 天 然 記 念 物 調 査 報 告 第 2 5 冊 。
1 9 6 9 . 3 ) 。 ( 松 下 正 司 ・ 佐 藤 興 治 ・ 猪 熊 兼 勝 )
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