2002年出上の木簡
ふじわらきょう
奈 良 ・藤 原 京 跡 右 京 六 条 四 坊 ・ 七 条 四 坊
1 所在 地 奈良 県橿 原市 四分 町 2 調査 期 間 一九 九 五年
︵平 7︶ 一一 月
︱ 一九 九 六年 三 月 3 掘発 機 関 橿 原市 育教 委 員会 4 調査 担当 者 齊 藤 明彦
・平 岩欣 太
・萩 原義 彦 5 遺 跡 の種 類 都 城跡 6 遺 跡 の年 代 弥 生時 代
︑ 七世 紀 末
︱八 紀世 初 頭 7 遺 跡 及び 木簡 出 土遺 構 の概 要 こ の調 査 は︑ 大型 舗店 建設 に伴 う事 前 調査 であ る︒ 調査 地 は藤 原 京跡 右京 六
・七 条 四坊 に相 当 し︑ 古 代 の幹 線道 路 であ る 下 ツ道 の東 側 に隣 接 す る地 域 であ り︑ 下 ツ道 と 六条 大 路 の交 差点 部分 の検 出 予が 想 され た︒ 一九 九 二年 行に な った 右 京 工条 四坊 にお け る下 ツ道 と い
五条 条 間路 の交 差点 部 分 の 請 発掘 調査 では
︑ 下 ツ道 東 側
勝 溝 な ど ら か 多 量 の土 器 や 祭
く 祀 遺 物 が 出 土 し た
︒ こ のた
め︑ 今 も回 下 ツ道 係関 の重 要 な遺 構
︒遺 物 の出 上 が予 想 さ たれ
︒ 調査 は︑ 西 側 の第
一ト レ チン
積︵面 二〇
〇〇 ド︶︑
東 側 の第 ニト レ ンチ
︵一一〇
〇〇
∬︶︑
六条 大 南路 側 溝を 追認 す るた め の第 三ト レ チン
︵約 五〇 だ︶ 2 ニカ 所 に つい て実 施 たし 主︒ な検 出 遺 構 は︑ 六条 大 路
︑ 下 ツ道 西︑ 四坊 坊 間路 掘︑ 立 柱建 物 八棟 井︑ 戸六 基 弥︑ 生時 代 中期 の方 形 周溝 墓 三基 など あで る︒ 六条 大路 は北
・南 の両 側溝 を検 出 たし 北︒ 側溝 は幅 約 一
・五 m深 さ
〇
・三 m︑ 南 側溝 は幅 約 四 m深 さ 一
︒三 m︑ 道 路幅 は溝 心 々間 距 離 約で 二 一m
︵路面 幅約 三ハ m︶ を測 る︒ 南 側溝 内 の土 層堆 積 状態 は
︑ 層下 部分 で砂 の堆 積 が著 くし か︑ なり の水 量 下が ツ道 東側 溝 に流 れ 込 ん で いた うよ であ る︒ 下 ツ道 東 側溝 は︑ 幅約 人
︱ 一二 m深 さ約
〇
・八 mを 測 り︑ 北 へ向 か てっ 流 れ る︒ 路面 幅 は調 査 区外 の西
へ続 く た め不 明 であ る︒ 土層 の堆 積状 態 は砂 と粘 土層 の互 層 で︑ 六条 大 南路 側溝 と同 様 にか りな の水 量 があ
った よう であ る︒ そ のた め西 肩 には 数 力所 で護 岸 が施 さ れ て いた ま︒ た︑ 六条 大 路と 下 ツ道 と を接 続 す る橋 を検 出 たし 橋︒ 脚 と し て柱 状 の角 材
︒九 材を 南 北方 向 に二 列 配置 し︑ これ を 固定 す るた め に両 側 に杭 を打 ち込 み︑ さら に二 m前 後 横の 材 を そ の隙 間 に 入れ 補 強 し︑ 橋脚 内部 の幅 約 一m の間 には 流︑ 出 を防 ぐ ため
の会 大 の石 を 敷き 詰 め て いた 遺︒ 物 と し ては 木︑ 簡 二点 七︑ 世紀 後半
の土 器︑ 帝金 具
・金 属製 人形
・鏡 刀・ 子
・釘
・鉄 鏃
・銭 貨
︵和同 開弥
︑
平隆 永宝 高︑ 年通 宝︑ 貞観 永宝 神︑ 功開 宝︶
・耳 環 など の金 属 製 品︑ 斎 串
・人 形
・横 櫛
︒漆 器
︵盤︶
︒曲 物 など
の木 製 品︑ 仏画 を 墨書 たし 板
︵挿図 参昭 じ︑ 爽 結片 砥︑ 石 獣︑ 骨 土︑ 馬 あが げ られ る︒ 第 ニト レ ンチ の東 側 で西 四坊 坊 間 路 の西 側溝 を 検 出 し た︒ 幅 約 一
︒二 m深 さ約
○
・五 mを 測 る︒ こ の溝 から 木簡
一点 が出 上 たし
︒ 掘 立柱 建 物 は︑ ほと んど が 二間
×四 間 の東 西
・南 北 棟 であ る︒ 井 戸 は︑ 藤 原京 期 平と 安 代時
の二 時 期 に分 か るれ 藤︒ 原京 期 は 四本 柱 と横 板 の組 合 せ よに るも ので
︑ 平安 時 代 のも のは 大 小・ の曲 物 を数 段重 ね たも のと 縦︑ 板 組 み のも のと が出 土 たし
︒ 8 木簡 の釈 文
・内 容 下ッ 遭東 側溝
①
︒ ﹁
< 謹 上 請 米 伍 升
□
﹁ ︒ < 甜 梨 γ 日 早 日 日 □ P ︵ こ
∞ X
﹃ X 儲 Φ
︹波 多 と
②
・□
□
□
□・
□ 西四 坊坊 間路 西側 溝 0
﹁< 白 米 五 升
﹂
G e
× 含 じ
×
﹈ o曽 o
∞
× 滓ヽ
×
∞ o∞ Ю
い は 下端 折が 損 し︑ 左 辺 割は れ て るい
︒ 切 り込 み は上 端 か ら約 七 蝕下 に浅 く施 さ れ て いる 楷︒ 好 な やや 大 ぶり
の書 体 で書 か れ︑ 表 裏 で天 地 が逆 にな
てっ いる 書︒ 状 形式
の文 書 使で 用 さ れ る
﹁謹 上﹂
﹁謹 状
﹂ と うい 語句 が認 め ら れ る︒ 個 人
︵某古 九︶ が差 出し とし な てっ 米︑ 五升 を請 求 たし 際 の文 書木 簡 であ ろう
②︒ は上 端
・下 端 と も に二 次 的 に切 断 し た痕 跡 あが り︑ 廃棄 処分 伴に うも ので あ 祐可 能 性 があ る︒ 右 辺 は原 形 を保
つが 左︑ 辺は 割損 す る︒
③ は切 り込 み の 左 上 が欠 損 す るが
︑ ほぼ 完形
の荷 札木 簡 であ る︒ 白米 の荷 札 は
﹁五 斗
﹂単 位 が 一般 的 であ るが
︑ こ の木 簡 は
﹁五升
﹂と み て間 違 いな い︒ 出土 地 点 は異 な るが 米︑ 五升 を請 求 たし
① と の関 連 が注 目さ れ る︒ ω 請は 文求 書 あで るが 米︑ 五升 とと も 差に し出 し 戻に され た こと は 十分 にあ りえ うよ
︒ 9 係関 文 献 橿 原市 千塚 資料 館
﹃か しは ら 歴の 史 を さぐ る﹄ 四
︵一 九九 六年
︶ 橿 原市 教 育委 員会
﹁藤 原京 右 京 六
・七 条 四坊
の調 査
﹂ 翁平 成八 年 奈良 県市 村町 埋蔵 文化 財発 掘調 査報 告会 料資
﹄︑
一九 七九 年︶
︵11 7
・9 齊 藤明 彦︑ 8 市 樹大
︿奈良 文化 財研 究所
︾
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(参考