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(1)

阿武隈高原南部における小農複合経営の展開:福島

県東白川郡鮫川村の場合

著者

山本 正三, 石井 英也, 山下 清海, 村山 祐司, 菊

地 俊夫

8

ページ

59- 120

発行年

1984- 03

その他のタイトル

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阿 武 限 高 原 南 部 に お け る 小 農 複 合 経 営 の 展 開

一一一福島県東白)11郡鮫川村' の場合一一一

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本正三・石井英也・

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下清海

村 山 祐 司 ・ 弼 地 俊 夫

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E 地域の概況

l l-l 位 置 と 自 然 環 境 l l-2 土地利用と景観 III 小股複合経営の伝統

I I I - 1 経済活動の変遷

I I I - 2 伝統的生業形態( 1960年以前) IV 小農複合経営の類型 ( 1960年以降〉

IV -1 近年における農業経営の条件 IV - 2 農業生産活動

IV - 3 iJJ域利用 IV - 4 農業経営の類型

V 岩

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草集落における小農複合経営の展開 V- 1 地域の概況

V - 2 土地利用

V - 3 伝統的生業形態 V - 4 現在の農業経営 V - 5 J斐外就業と生活幽 V - 6 家屋景観

百 戸草集落における小農複合経営の展開 V l - 1 地域の概況

¥/ 1- 2 土地利用と景観 V I- 3 伝統的生業形態

1在- 4 現在の農業経営と止l域利用

羽 … 5 農外就業

1司- 6 生活圏 ¥1l- 7 年 間 労 働 配 分 V I - 8 家屋景観 VlI む す び

I は じ め { こ

こ の 報 告 は , 阿 武 │ 摂 高 原 南 部 に お け る 山 村 の 地 理 的 特 質 を , 農 業 に お け る 小 規 模 複 合 経 営 の 形 成 と そ の 存 立 条 件 を 考 察 す る こ と に よ り 明 ら か に し よ う と す る も の で あ る .

らは先に東北や! こ1

:

1央日本や九州、! の高冷地における集落をいくつか事例調査し,次のような傾向 が 一 般 に 認 め ら れ る こ と を 指 摘 し て き た り つ ま り , 高 冷 却1に お け る 伝 統 的 な 生 業 形 態 は , 各 種 の 土 地 資 源 を 活 用 す る

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給性の強い, し か も 生 産 性 の { 郎 、 有 畜 農 業 と , 天 然 産 物 の 採 集 お よ び 加 工 を 加 味 し た も の で あ っ た . こ の よ う な 生 産 形 態 は , 商 業 化 ・ 商 品 生 産 化 す る 過 程 で 地 域 分 化 し , さ ま ざ ま な 生 業 の 類 型 が 形 成 さ れ て き た . こ の 発 展 過 程 は , 農 業 に お い て 自 給 部 門 の 相 対 的 な 縮 小 , 高 品 生 産 部

l

(3)

↓セ ャi@ 人 文 ; 地 理 学 研 究

60

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的 に 多 様 な 様 相 を 呈 し て き た

高冷j世才ミゴよび準高冷地の環t

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vこあり , 以 上 川村は, 標 高400mから70 0 mの 隆 起 準 平 原 上 に 位 置 し ,

に 述 べ て き た 高 冷 地 の 地 理 的 特 質 を 色 濃 く も っ て い る

これまで 筆 者 ら が 行 っ て き た 事 例 調 査 で 強 調 さ れ た こ と の ひ とつ は,

落 の農 業 経 営 が 基 本 的 に 小 農 複 合経 営 で あ り,特に 農 家 の生 業 とし、ぅ面 か らみると ,多 角的 な 農 業 経 ところで ,

日本 の 農 業 が 共 通に もつ性絡で このことLま,

営 に さ ま ざ ま な 就 業 を 加 え て い る と い う 事 実 で あ っ た

これま ことに高冷山村では, ; J ¥}長 複 合 経 営 の 形 成 が 顕 著 で あ る よ う に 忠 わ れ る ・ 筆 者 ら は , あるが ,

で の 事 例 調 査 で と っ た 立 場 と 同 じ 地 域 生 態 論 の 見 地 に立 って対象i也 域 の 調 査 を 進 め るが ,

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そ れ を 支 え る 地 域 それが主に高度経済成長期以降どのように変イ七してきたかを,

複 合 経 営 の 伝 統 と ,

の 全 体 的 な 構 造 の な か で 考 察 す る .

地 域 の 概 況 E

位 置 と 自 然 環 境

1

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南をよ高! 日]

鮫 川 村 は 東 を い わ き市と古殿町ー に ,

と茨城県 j七 茨 城 市 に , 北 を 石 川 町 , 古 殿 町 に

こ の 村 の 中 心 部 か ら 主

それぞれ接? している.

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て,石川町ーと浅川町,棚倉町まで30分 , い わ

白 河 市 や 郡 山 市 ま で は1. 5 き市まで 1 U寺悶 ,

時間で あ っ た . 鮫 川 村 の 人 口 は, 1980年現 在 ,

5,535人 で あ り,1955年の8,256人 を ピ ー クに

減 少 し 続 け て い る. しかし,人口減少率は1975

年頃から低; 下してきており ,人 口 の 増 減 は 安

人 口 構 成 で

は ,20才カミら40才 ま で の 人 口 減 少 が 著 し く, また,

定 状 態 に

i

童 しつ つあ る. 間 に 立 地 し て い る 〈 第l 図〉

5 0才 から60才 ま で の 人 口 が 増 加 す その反面,

い わ ば ,鮫 川 村 は人 口の低位 るイ頃向にある

研 究 対 象 地 域

第1図

安 定 化 と 老 齢 化 が 同 時 に 進 行 す る 典 型 的 な 過 疎 地 域 と い え る の .

鮫 川 村 が 位 置 す る 阿 武 隈 高 原 は 宮 城 県 南 部 か ら 茨 城 県 北 部 に ま で 延 び , 阿 武 ! 鴨川 の 低 地 帯 と 太 平 洋

岸 に 挟 ま れ た 南 北2 0 0 k m,東 西5 0 k mセN 阿 武 隈 高 原 の 高 度 はl隔の広い制

に は 高 く な く , 最 高 峰 の 滝 根 山 (1,193 m) と白山(1 ,0 5 8 m) が1,O O O mを越えるだけであるめ. 鮫川村

全イ本的 には5 0 0 mから600 mの 丘陵

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また ,鮫川村- では阿武隈 高 原 の他地域と! 司オ室,長

あ か き か と う の わ た ら せ

し か し , 南 部 の 赤 坂 東 野 地 区 や 渡 瀬 地 区 に お い て も , い わ き 市 と の 境 に あ る 朝 日 山 ( 797m) が最高峰で ,

が波 浪 状 に並んでい る

(4)

阿武¥ijJ t 高原南部における小農複合経営の展開 61

粘 土 が 混 じ っ て お り , 地 力 は 北 部 に 比 べ て 劣 っ て い る 鮫川村- の主│ ニ平均気温は10. 90

C

で あ り , 青 森 県 の 平 野 部 と ほ ぼ 同 様 の 値 で あ り , い わ き 市 や 郡 山 市 よ りも

2

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低い.

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月 の 平 均 気 濁 は

23. 4

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と冷涼であるが,最寒月の

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とそれほど 厳 し く な い しかし,高度により気温が著しく変化するため,水稲生産力や水稲品種,水稲冷害の被害 率 な ど に 高 度 差 が み ら れ る . ま た , 終 霜 の 時 期 も

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月 下 旬 ま で と 高 度 に よ り 異 な っ て お

り,iセb N Q RYXNX

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1荘 一 主 姿 道 路

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人 文 地 理 学 研 究 ¥qn

mmと少ないが,その6 5 %が5月から 9月 ま で の 作 物 生 育

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に集仁1

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しているため,農業への影響はほ とんどない. 冬の積雪は12月の下旬から2月 下 旬 ま で で , 多 く て20cIl 1 程度である.

ところで,鮫川村歴史民俗資料館の資料によれば,江戸 H寺代の鮫川村- の区域には

1

1

ヵ 村 が あ り , 幕 府 の 塙 代 官 が 富 田 村 と 赤 坂 東 野 村 の 一 部 を , 棚 倉 滞 が 渡 瀬 村 と 赤 坂 中 野 村 , 赤 坂 真 坂 村 , 塚 木 村 , 赤 坂 西 野 村 , 石 神 村 を , 下 総 国 の 小 見 川 藩 が 赤 坂 東 野 村 と 戸 倉 村 , 宝 木 村 , 石 井 草 村 を 支 配 し て い た そ し て , そ れ ら の 村 々 は1889年 ( 明 治22) の町村制の施行により合併し, 鮫川村が成立した. そ れ 以来,合併や分村・がなく,現在に至っている. そのため,江戸時代に分割統治されていたことが,現 在 の 鮫 川 村 の 各 地 に お け る 生 業 形 態 や 周 辺 町 村 と の つ な が り に 影 響 を 及 ぼ し て い る

1

I

- 2 土 地 利 用 と 景 観

阿 武 隈 高 原 南 部 で は , ク ヌ ギ や ナ ラ な ど の 落 葉 広 葉 樹 の 山 林 が 土 地 利 用 の う え で 卓 越 し て い る . 19 80年における鮫川村の地目別面積をみると, 総 土 地 面 積13,120haの71. 7%にあたる9,405haが 林 地 である. 農用地は1,590haで総土地面積の1 2 . 1 %に す ぎ な い . 農 用 地 に お い て は , 水 田 と 草 地 が そ れ ぞれ673haと519haで 卓 越 し , 畑 地 と 桑 園 は そ れ ぞ れ335ha と63haであった. 7. k 回や畑地,桑閣の 分 布 を 第2[翠からみると,それらの分布パターソは5 0 0 mの 等 高 線 を 境 に し て 異 な っ て い る こ と がj

か る . さ ら に , 集 落 形 態 や 道 路 パ タ ー ン も 5 0 0 mの 等 高 線 を 境 に し て 様 相 を 異 に し て い る

標 高5 0 0 m未 満 の 地 域 で は , 谷 密 度 が 著 し く 高 く , そ れ ぞ れ の 谷 底 に 水 田 が 立 地 し て い る . そ の た め,水田の形状は谷に沿って細長く樹校状に伸びたものになっている. 谷の南向き斜面や* ' 向き斜面 には畑地が立地しており,ブ・ルトーザーを用いて平坦化された畑地が多い. 特に,タバコ畑の大部分 は 平 塩 化 さ れ て い る . 桑 園 は 丘 陵 中 腹 の 緩 斜 面 に 立 地パし て い る も の が 多 く , 団 地 化 さ れ て い る も の は 少 な し 小 規 模 な も の が 多 い . 集 落 は 丘 陵 の 南 側 や 東 側 の 麓 に 分 布 し , 大 部 分 は 水 田 と 畑 地 のI'MJに立 地 し て い る . そ の 形 態 は 塊 村 , あ る い は 疎 塊 村 に な っ て い る . ま た , 集 落 と 集 落 を 結 ぶ 道 路 パ タ ー ン

ニ こ エ 道 路

(6)

63 阿武隈高原南部における小成複合経営の展開

比 較 的 椀 密 で あ る . 大 ま か に み る と , 標 高5 0 0 m問、下の地域では集落の 、谷密度に関連して,

4

そ れ ら の 背 後 に 私 有 林 が 配 置 さ れ て お り , 集 落 を 中 心 に に 水

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王lが,集落の背後によ

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地と桑騒が,

して水日:1 とよIII地 , 桑

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盟 , 林 地 が ひ と 続 き の セ ッ ト と し て 存 在 し て い る ( 第3図 - a) .

谷 密 度 は そ れ ほ ど 高 く 高原状の丘陵地が多く分布しているが,

5 0 0 m以! この地域では, 他方,

そ の 形 状 は 谷 頭 に 向 か つ て 細 長 く 伸 び ない. 7]( 回 は 比 較 的1簡の広い谷底を1=1コ心にして分布している.

谷 の 南i向 き 斜 面 や 東 向 そのi備は1 0 0 mから 2 0 0 mと比較的t

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くなっている.

たものになっているが,

これ ブ ル ド ー ザ ー を 用 い て 平 坦 化 さ れ た 畑 地 は 少 な い . き 斜 面 は 綬 斜

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を選んで畑地にされており,

お よ び 東 野 地 区 で は 桑 は 緩 傾 斜 地 に 適 し た コ ン ニ ャ ク

1

1H が多いためである. 青生野j並区や渡瀬地区,

そ れ ら の 大 部 分 は 農 業 構 造 改 善 事 業 に よ り 集 団 造 成 さ れ た も の で あ 留が丘陵中肢の一部に立地し,

丘 陵 の 頂 上 部 で は , 農 業 構 造 改 善 事 業 や 阿 武 隈 南 部 区 域 広 域 農 業 開 発 事 業 に よ り 造 成 さ れ た 草 地 る

集 落 の 大 部 分 は 散 村 形 態 を 呈 し て お り , 農 家 や 牧 野 が 分 布 し て お り , 乳 牛 や 肉 牛 が 放 牧 さ れ て い る .

あ る い は 幹 線 道 路 沿 い に 立 地 し て い る . ま た , 農 家 と 農 家 を 結 ぶ 道 路 パ タ は丘陵の南側や東側の麓,

大 ま か に み る と , 標 高5 0 0 m ー ン は , 低 い 谷 密 度 と 人 口 密 度 に 呼 応 し て , 著 し く 疎 密 に な っ て い る

そ し て , 畑 地 の 背 後 以 上 の 地 域 で は , 農 家 の

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面 に 水 田 が 広 が り , 農 家 の 周 辺 部 に 畑 地 が 分 布 す る

つまり,農家を中心にして水田と畑地, に 共 有 林 野 が あ り , さ ら に 林 野 の 背 後 に 牧 野 が 広 が っ て い る .

き の セ ッ ト と し て 配 列 さ れ て い る ( 第

3

図-

b )

.

共 用 林 野 , 牧 野 が ひ と

そ の 間 取 り は 田 の 字 型 あ る い は 広 間 型 に な っ て い た . 民 鮫 川 村 の 伝 統 的 な 民 家 は 茅 葺 の 入 母 屋 で ,

し か し , 伝 統 家の内部には,複合経営を反映して, J既屋や蚕室兼- 用の広閣が備わっていた〈第4図).

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的 な 民 家 は 瓦 葺 の 入 母 屋 に 変 わ り , 1975年頃から 入 母 屋 本 化 粧 造 り の も の も 現 わ れ て き て い る

〈第5図) . このような家屋景観もまた5 0 0 mの等 特 に , 宅 地 の 広 高 線 を 境 に 様 相 を 異 に し て い る

さ や 民 家 の 大 き さ , 付 属 屋 の 種 類 は 微 妙 に 変 化 し た と え ば , 標 高5 0 0 m以下の地域では, て い る

を 組 み 合 せ て い る 農 家 と

従 来 よ り タ パ コ

が 多 い た め , 宅 地 は 広 く , 民 家 も 大 き く な っ て い る. ! ,五い宅地には数械のタパコ乾燥小屋が建一設さ 一 方 , 楳 高5 0 0 m以 上 の 地 域 で は , 宅 れ て い る

地 は 狭 く , 民 家 も そ れ ほ ど 大 き く な い た め , 畜 舎 は 宅 地 付 近 の 耕 地 に 運 動 場 と 併 せ て 建 設 さ れ て い コ ン ニ ャ ク 培 農 家 が 多 い こ と も あ っ

ひ む ろ fこ ま や

て , 宅 地 に は 火 室 ( 玉 屋 〉 が 建 て ら れ て い る . あ か さ か な か の

鮫 川 村 に お け る 中 心 地 は 赤 坂 中 野 地 区 の 新 宿 ・ まfこ,

る.

第4国 鮫川村福原における伝統的な民家 の一例( 日氏宅〉

数字は畳: 数を示す. ( 1983年7月) 病

お よ び 農 業 協 同 組 合 が 立 地 し て い る だ け で な ここには役場や郵便局,

(7)

6

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人 文 地 理 学 研 究 VllI

o 4fHl 」一一__J一一一一斗 o 3n1 第5図 鮫川村大石草における入母屋本化粧; 造りの民家の一例 ( 8 氏宅)

数字は畳数を示す. (19

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く,小規模な商居街が形成されている. このような商応街は他になく,日用品の貿物は新宿や広: l : l

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の 詣j苫 街 や 農 業 協 同 組 合 の 移 動 販 売 車 で 行 う こ と が 多 い . し か し , 民 回 り 品 の 買 物 は 棚 倉 町 や 塙 町 に 出 か け て い く 場 合 が 多 い . 鮫 川 村 の 農 村 工 業 に 関 し て は , 縫 製 工 場 や 精 密 機 器 お よ び 自 動 車 の 部 品 工 場 が15ヵ 所 に 立 地 し て い る . そ れ ら は 従 業 員20人程度の下請工場であり, 村 内 の 各 地 区 に

2,3

工 場 ず つ 分 散 し て ' " , る . し か し , こ の よ う な 工 場 の 存 在 に よ っ て , 農 家 の 余 剰 労 働 力 が 吸 収 さ れ て お り , 地 域の就業構造に変化が生じて¥. . 、る.

直 小 農 複 合 経 営 の 伝 統

車- 1 経 済 活 動 の 変 遷

鮫 川 村 に お け る 伝 統 的 な 経 済 活 動 は 水 田 で 水 稲 を , 畑 地 で 麦 類 や 大 豆 , 小 豆 , 雑 穀 , 大 根 を 栽 培 し , 農 閑 期 に 製 炭 を 行 う も の で あ っ た . 農 家 で は , 農 耕 や 厩 肥 取 り を 目 的 に ,

1

2

頭 の 馬 が 飼 養 さ れ て い たが, 山域の落葉や若木もそれぞれ堆肥やメリ敷きに用いられていたの. そ の よ う な 経 済 活 動 は 水 田 と 畑 地 , 山 域 を 基 盤 と し , そ れ ら の 利 用 を 組 み 合 せ た も の で あ っ た . こ の 伝 統 的 な 経 済 活 動 が ど の よ う

な 変 遷 を 辿 っ て き た か を 検 討 し よ う

鮫 川 村 に お け る 経 済 活 動 の 変 還 を 辿 る た め , 第1 表 に 示 し た 主 要 生 産 物 の 生 産 額 の 推 移 を み て み よ う.

1907年 (

明 治40) の 生 産 額 で は , 米 が

85,

080

円 で 第

1

位 の 地 位 に あ り , 順 次 , 純

( 22,

170円)

, 麦

( 20,

006

円) ,木炭( 18,

600円)

, 仔 馬 ( 14,

319

円) , 大 豆 ( 10,

205円 〉 が 上 位 を 占 め て い た .

こ れ

らの生産額から明治後期には,

7

1

,く田を利用した水稲作,畑地を利用した麦類や豆類栽培, ,lJj域を利用 し た 製 炭 と 馬 産 , そ し て 普 通 畑 と 山 麓 の 境 の 一 部 に 広 が る 桑 園 を 利 用 し た 養 蚕 の 組 み 合 せ が 成 立 し て い た こ と が わ か る . 養 蚕 は

1883年

(明、冶1

6

)

に 奨 励 が は じ ま っ た こ と に よ り 全 村 に 普 及 し , 主 要 な 商 品 生 産 に 発 展 し て い っ た . 馬 産 は 江 戸 時 代 か ら 小 規 模 に 続 け ら れ て い た が , 日 露 戦 争 以 降 , 馬 の 需 要 の 増 大 と 相 ま っ て , 主 要 な 蕗 品 生 産 の ひ と つ に な っ て き た .

1921年(

大l E10) の 生 産 額 で も , 上 位 を 占 め る 商 品 は 米 ( 18

1,

370円 入 木 炭 (

15

1,

528円)

,繭

( 112,

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( 37,

6

7

7

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(8)

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

阿武隈高原南部における小農複合経営の展開

第 1 表 鮫川村における主要生産物の生産額の推移

(1羽治40)

米 i

( 85,0801司) I

l

( 22, 170f T] ) I

安 │

( 20,ω 6 円) I

木 t

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( 18,600円) I ゥmセ

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(14,319 円)

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大 豆

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( 10, 205PJ )

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タ ノ ¥ コ i (4, 4 5 4 P D 1 コンニャク │

( 3, 375円)

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小 豆

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( 6 f 8 9 5 円) I

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( 17,350円)

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19601'1:: (1I{3手1]35)

米 │

( 167,000,000円)

I

タ ノく コ │

( 27, 000, 000 円) I コ ン ニ ャ ク │

( 16, 000, 000円)

I

繭 1

( 15,000,000円) I

麦 │

( 12,000,000円)

I

牛 乳 1

( 9 ,000,000 円)

I

肉 用 牛 │

( 9, 000, 000円)

I

1975年 ( 阿弥1]50) 米

65

( 727,000,000円〉 タ ノ ¥ コ ( 274 ,000. 000 円〉 コ ン ニ ャ ク ( 165. 000. 000 円〉

i夫J J有

4

ニ ( 144, 000, 000円〉

繭 ( 86,000,000円〉

牛 乳

( 86, 0OO,OOOP D 豚

( 50, 000, 000円〉

ジ + ブf イ モ ( 23,000,000丹〉

インゲン

( 23,000,000円)

(鮫 )If 村役場資料により作成〉 を 組 み 合 せ た 複 合 経 営 を 行 っ て い た 様 子 が わ か る .

こ の よ う な 複 合 経 営 は 凶 作 な ど の 危 険 を 分 散 さ せ る こ と で 効 果 が あ っ た り . たとえば, 1 9 3 5年〈昭 和10) の 凶 作 と 繭 価 格 の 停 滞 か ら の , そ の 年 の 生 産 額 で は 木 炭 ( 1 1 5,2 0 0円〉と木材 ( 41,5 7 5円〉がそ れぞれl 位と 4位 を 占 め , 山 域 利 用 の 経 済 活 動 が 米 や 麦 , 豆 類 な ど の 実 取 り 作 物 の 不 作 や 養 蚕 の 不 振 を 補 完 し て い た . さ ら に , 畑 作 で よ り 商 品 価 値 の 高 、 い コ ン ニ ャ ク や タ バ コ の 生 産 が 増 加 し て い た た め , 凶 作 の 被 害 は 比 較 的 少 な く て 済 ん だ .

(9)

刊I 人 文 地 理 学 研 究

66

額は1 億 4,400万 円 に 達 す る ま で に な っ た

お よ び 農 家 経 営 に 変 化 が み ら れ は し た が , 水田とよ!日地 , こ の よ う に , 作 目 や 土地 資 源 の 利 用 形 態 ,

つまり ,鮫 川 村 で は 水 山 域 を 基 盤 と す る 複 合 経 営 と い う 農 業 の 伝 統 は 依 然 と し て 継 続 さ れ て い る

田 ,畑 地 ,

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域 の 利 用 の 伝 統 的 な 組 み 合 せ に 基 づ く 複 合 経 営 が 堅 持 さ れ て き た の で あ る

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1980i 手

第7国 鮫川村に お け る家禽飼義政 数 の推 移 ( 農林

水産: 統計,鮫川村農林業累年統計書および鮫

) 11村役場資料によりf F成)

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1900年

1900年 1920年 19401手 19601手 1980年

第6図 鮫川村における主要農産物の推移( 農林

水産統計,鮫川村農林業累年統計書および

(10)

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1940年 1950年 1960年 1970年 J 980年 r - - -- - - ,

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第8国 鮫川村における主要経済活動の変遷

I I I - 2 伝 統 的 生 業 形 態 ( 1960年以前〉

鮫 川 村 に お け る 商 品 生 産 の 変 遷 を 第

1

表や第

6

図 に 示 さ れ た 主 要 生 産 物 の 生 産 高 の 推 移 お よ び 第

7

図に示された家畜飼養頭数の推移を基にして整理すると, 71<.回利用と山 麓 緩 斜 面 の 利 用 を 含 め た 畑 地 利 用 , お よ び 山 域 利 用 に 基 づ く 伝 統 的 な 生 業 形 態 が 見 出 せ る ( 第8図) ,ここでは, 1960年まで, つ ま り 高 度 経 済 成 長 以 前 の 商 品 生 産 活 動 を 通 じ て , 伝 統 的 な 生 業 形 態 を 考 え る . 以 下 で , 水 田 と 畑 地 , 山 域 の 利 用 の

3

つ に 分 け て 伝 統 的 な 生 業 形 態 を概観しよ う

1) 水 田 利 用

水 田 利 用 の 中 心 は71<. 稲栽j若であった, 71<.稲 の生 産 高 の 推 移 を 第

6

図か らみ る と , 水 稲 の 生 産 高 が 急 増 す る の1950年以降であり,それ以前の生産高は変動が激しかった. たとえば, 1915年 ( 大 正4 ) と 1929年 〈 昭 和4 ) の 水 稲 の 生 産 高 は そ れ ぞ れ955t と1,013t を示しているが, 1905年 〈 明 治38) と 1935年 ( 昭 和10) の 生 産 高 は 凶 作 に み ま わ れ ,それぞれ7 t と418t に激 減 し た り . 鮫 川 村 の 水 稲 栽 培は不安定であったことに加えて,単収が低く, 1929年〈昭 和4 ) の豊作lf寺でも200kgに す ぎ な か っ た さらに, 1905年( 明治38) の凶作 ! 埼では農家l 戸の10 a当 り の 水 稲 単 収 は10kgに激減しため. この よ う な 水 稲 生 産 の 不 安 定 性 と 低 生 産 性 を 克 服 す る た め , 新 た な 水 稲 品 種 や 稲 作 技 術 の 導 入 が は か ら れ るようになった

1930年: (1昭和5 ) 頃 の 水 稲 栽 培 で は , 農 家1戸 当 り の 水 稲 作 付 面 積 は60a程 度 に す ぎ な か っ た . 田 植は6月 中 旬 に 行 わ れ , 稲 刈 は10月下旬になっていた. 田植には, } 度堆 肥 や 過 燐 酸 石 灰 が投入 され , ! 需を用いて代掻きが行われた. それ以前には,ナラの若木を 6月 初 旬 に 刈 っ て 水 田 に 入 れ る 刈 敷 が 盛 ん に 行 わ れ て い た が , 化 学 肥 料 が 昭 和 初 期 か ら 普 及 し は じ め , メU敷 に よ る 施 肥 は 姿 を 消 し て い つ ため. 水稲品種では,亀の尾や愛国が全般的に普及していた. それらは早生種で,耐寒耐病性に優れた

多収穫品種であったが, 1934, QYSUセ Z↓ シ QSR QP

(11)

68 人 文 地 理 学 研 究 噛i

れ,乾由化した水田では馬耕が盛んに行われるようになり,水稲の裏作としてレソゲやI el家用にナタ

ネが栽培されるようになった.

第2次世界大戦後になると ,水稲 の生産高は1955年〈昭和30) で2,881t に急増し, 10 a当り単収も

約430kgl,こ上昇 し た . 1955年 は 豊 作 年 で あ っ た が ,7. K 稲生産性の飛躍的な増加は稲作技術の向上から

も た ら さ れ た も の で あ っ た . た と え ば , 水 稲 品 種 として ,I挽生多収穫品種 の農林10号 を主体に ,耐冷

耐 病 性 の 陸 羽132号 や 早 生 種 の 藤 坂5号などが組み合せて,

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し、られていた. ことに,農林10号は食

糧 増 産 の 目 的 で 普 及 し , 水 稲 の 生 産 性 を 高 め る こ と に 大 き く 貢 献 し た . しかし, 1953年 ( 昭 和28) の

冷 害 を 契 機 に , 農 林10号はフジミノリやレイメイに取って代られた. また苗作りでは, 1950年頃 から

保 混 折 衷 苗 代 が ,そ して1958年頃から 畑苗代が普及したl l ) こ れ ら 苗 代 の 普 及 に よ り , 気 混 が 低 く て

も 苗 作 り が 可 能 な た め , 田 植 時 期 が1カ月程度早くなり ,安 定 し た 水 稲 作 が で き る よ う に な っ た

1960年 ( 昭 和35) の水稲作況指数は129で水稲生産高は2,457t ,単収は377kgであった しかし,

福 島 県 全 体 の10a当り水稲単収は429kgで あ る た め , 鮫 川 村 の 水 稲 栽 培 は 依 然 と し て 低 生 産 性 か ら 脱

し き れ な い 状 態 で あ っ た . こ の こ と は , 鮫 川 村 の 水 田 の9 3 %が楳高4 0 0 m以 上 の 準 高 冷 地 お よ び 高 冷

地 に 位 置 し て い る こ と に 少 な か ら ず 関 係 し て い る

2) 畑地利用

養 蚕 を 含 め た 畑 地 利 用 の 主 要 生 産 物 の 生 産 高 の 推 移 を 第6図 か ら み る と , 畑 地 利 用 の 形 態 は 多 種 多

様 な 畑 作 物 を 栽 培 し て い た 第2次世界大戦前と,作自数が減少し,コンニャクやタパコ,ジャブf イモ

の 商 品 生 産 が 拡 大 さ れ て い く 第2次世界大戦後とに大別できょう.

第2次 世 界 大 戦 前 の 状 況 と し て, 1930年( 昭和5 ) 頃 の 畑 地 利 用 を み て み よう. 農 家 が 畑 地 を 利 用

して栽培する作物は,自給用の粟や黍,稗,ソパ,荏胡麻( ジューネ) , 野菜類, そして大なり小な

り 商 品 化 さ れ る 大 麦 や 小 麦 , 大 豆 , 小 豆 , ジ ャ ガ イ モ , 甘 藷 , コ ン ニ ャ ク , タ パ コ , 白 菜 , ネ ギ な ど

で あ っ た . さ ら に , 畑 地 と 水 田 の 境 や 山 麓 緩 斜 面 に 植 え ら れ た 桑 園 を 利 用 し て , 養 蚕 が 行 わ れ て い

た . 粟 や 黍 , 稗 が1戸当り30a程 度 つ くられ , タ バ コ や 麦 の 収 穫 後 に 播 種 さ れ る ソ バ と と も に 米 の 代

用 と し て 常 食 さ れ て い た12) こ の こ と は , 米 の 低 生 産 性 ゆ え に , で き る だ け 多 く の 米 を 商 品 と し て 販

売 し た い が た め で あ っ た . 宅地付近の10a程 度 の 菜 園 で は 自 家 用 野 菜 と 荏 胡 麻 が 栽 培 さ れ て お り , 荏

古月麻からは自家用の油がしぼられていた13)

商 品 と し て 栽 培 さ れ て い る 作 自のな か で , 麦 類 や 豆 類 は 江 戸 時 代 か ら 栽 培 さ れ て き た も の で あ っ

て , そ れ ら の 農 家l 戸 当 り の 作 付 面 積 は そ れ ぞ れ20aと30a程度であっ た. しかし,それ らの収穫 の

半 分 が 自 家 消 費 に ま わ さ れ て い た た め , 麦 類 や 豆 類 は 商 品 性 の 高 い 作 目 と は い え な か っ た . 商 品 性 の

高い作目はコンニャクとタバコであり,これらも江戸時代から栽培されていたが川, 1905年( 明治38)

の凶作以降 ,そ れらの作付面積は拡大されていった. 1930年頃に はコン ニャクは赤 坂東野 ,富田,渡瀬

にしやま あ か き か に し の

地 区 を 中 心 に , 農 家1戸当り約30 a作付aされ て い た . 一 方 , タ バ コ は 西 111,赤坂西野地区を1:1コ心に,

農 家1戸当り約20 a作付されており,松川葉が生産されていた15) また, 1905年の凶作を 契機に ,ジャ

ガイモと甘藷の栽培が拡大し,次第に麦類や豆類に取って代るようになった. しかし,ジャブ/ イモと甘

(12)

阿武隈高原南部における小農複合経営の展開 69

v

:1l I 地利用の生業形態で,最も重要な商品生産は養蚕である. このことは ,第1表 に お い て 献 の 生 産

額 が 常 に 上 位 にあることからも わか る 1924年 ( 大 正13) の基 本 調 査 に よ れ ば16),鮫川 村 の 養 蚕 農 家

は572戸 あ り , そ の う ち347戸の炭ー家が春蚕と夏蚕,秋蚕の年3回 養 蚕 を 行 っ て い た , 農 家1戸当り

の 桑 図 面 積 は36 aであり,うち夏秋蚕専用桑閣はl Oaであった 蚕 室 は 特 に 設 け ず , 主 屋 の 座 敷 の 畳

を 取 り 除 き , 十 畳 綬j支の蚕室がつくられた そこに約100枚 の 縫 ワ ラ ダ を い れ

J7

¥

そ の な か で 蚕 が 飼 育 さ れ た . 給 桑は: 1日に5{セi N Q ャ

か れ て い た . 養 蚕 農 家l 戸 当 り の 収 納 量 は135kgで,そのうちの7 6 %は 夏 秋 蚕 に よ る も の で あ っ た

こ の よ う な 春 蚕 の 不 僚 は , 桑 鼠 が し ば し ば 晩 霜 の 被 害 を 受 け る こ と や 春 蚕 と 田 植 時 期 が 重 な る こ と に

J出[! l してし、た.

1930年 く 昭 和5 ) の 鮫 川 村 に お け る 主 要 農 産 物 か ら の 粗 収 入 を 第2表でみてみよう. 1kg当 り の 価

格では, タノくコ(0. 76円〉と繭 ( 0. 98

l

: g) , コンニャ ク (0. 57rr- J ) が卓越 し , そ れ ら の 商 品 価 値 の 高 さ が 示

さ れ て い る . しかし, I稿の10a当り

の 収 量 は37. 5k gで,タバコやコンニ

ャクの2 5 %にすぎず, 10 a 当 り の 粗

収 入 は 米 と 同 じ22. 5円 であっ た. 10

第2 表 鮫川村における主要農産物の生産力( 1930年〉

¥ 寸 主 力 ! 単位重 量当りの│単位 面積当りの │ 単位面積当りの ャQ ャ セi l OォァI HォァOャo。I

I

粗収入( 円/10a)

農 産 枕 セャ@ l i l l l TI:T ¥. 1j 1 " 5 /

1

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大 セ]ェM O. 12

タ ノ 、 コ O. 76

コンニャク 0. 57

繭 0. 68

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1

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114. 0

85. 5

22. 5

a当りの来旦収 入においても, タハコ ( 鮫川村現 勢,福 島県史,福島県煙草史および鮫川村役場資料

と コ ン ニ ャ ク は そ れ ぞ れ114. 0円 と により作成)

85. 5円 で 卓 越 し て い た . 一 方 , 麦 や 大 豆 の1 kgの 当 り の 価 格 は そ れ ぞ れ0. 06円とO. 12円 と 低 く , そ れ

らの10 a当 り の 粗 収 入 も18. 6円と10. 8円 で あ り , そ れ ら の 商 品 価 値 は 低 か っ た と い え る

タ パ コ や コ ン ニ ャ ク の 商 品 価 値 が 麦 類 や 豆 類 の そ れ に 優 っ て い た こ と は , 第2次 世 界 大 戦 後 の 畑 地

利 用 の な か で タ バ コ や コ ン ニ ャ ク 栽

J

討 が 拡 大 し た こ と の 理 由 の ひ と つ に あ げ られ る . す な わ ち , 第2

次1立 界 大 戦 後 , 食 糧 増 産 政 策 か ら 麦 類 や 雑 穀 類 , 甘 藷 の 栽 培 が 一 時 的 に 拡 大 され たが , 水 稲生 産 性 の

向 上 と 相 ま っ て , 粟 や 稗 , 黍 の 栽 培 は1953年 頃 ま で に 中 止 さ れ , 麦 類 や 豆 類 , 甘 藷 の 栽 培 は 縮 小 し て

い っ た . こ の よ う な 自 給 的 な 作 物 の 減 少 と そ の 作 付 面 積 の 縮 小 傾 向 に 対 し て , タ バ コ や コンニャク,

そして! [文章

L

価格とも安定していたジャブ] ‘ イモの栽培が拡大し , そ れ ら の 商 品 生 産 に 特 化 す る 傾 向 が

認 め ら れ た

3) 111域利月]

山 城 利j羽のなかで,仔馬生産,製炭,薄葉採取が重要な生産形態、であった. 鮫川村で{ 子馬生産が盛

ん に な っ た の は ,1904年 ( 明 治37) の日露戦争以降であり, 1919年 ( 大 正8 ) には馬の飼養頭数は,

1,671頭 で ピ ー ク に 達 し た 1930年( 昭和5 ) 頃,鮫川村の農家では, 3, 4頭 の 馬 が 飼 養 さ れ て い た

ーセ QQ T )=j まで主 j室内 の肢で 飼養され, 5 月から10月 ま で 放 牧 さ れ て い た . 放 牧 は 部 落 共 有 や

ェ QQ hヲセ ゥj j Uヲャ ゥ

(13)

70 人 文 地 理 学 研 究 明

飼 料 に し て い た . 草 刈 り は2人で行い,

1

1

:EUでl 人4把 ( 約90 kg) の草を「ヤセンマ

J

( 背負い子の 一種〉に積んで運んできたという. 1 誌の館料は!f¥l : 草のほかに, セiセ ᅳ 1j , 稲葉, 粉 糠 , そ し て 大 麦 と 大 豆 を 煮 た も の な ど で , す べ て 自 給 さ れ て い た . 仔 馬 は2才で赤坂仁11野 に 開 設 さ れ た馬市に出され,1930年頃でl 頭106円で売れた18) こ の よ う な 仔 馬 生 産 も , 第2次 世 界 大 戦 後 , 平 j高や農耕: 馬の需要がなくなるにつれて衰退し,その地位は肉牛や乳牛に取って代られていった.

製j支は11月から5月まで行われ,農家にとって冬の重要な収入源になっていた. 鮫川村・では,主に 土 釜 が 普 及 し , そ こ で 黒 炭 が 生 産 さ れ て い た1町 鮫 川 村 の 木 炭 生 産 量 は1935年( 昭和10年〉に2,880t で,その生産額は115,000円に達していた. 農家は関口2 .4 m,奥行き3 .6 m,高さ 1 m程 度 のj支払! とき 釜を所有( ノラ l 白に450kg,年間7. 5 tから 9 t の 木 炭 を 生 産 し て い た . 製 炭 の 原 料 は ク ヌ ギ や ナ ラ な ど で , そ れ ら は 国 有 林 輪 伐 払 下 に よ り 得 て い た . つ ま り , 木 炭 生 産 者 は 愛 林 組 合 を 組 織 し , 営 林 署 か ら約40haの菌有林を払下げてもらい, そ れ を 均 等 配 分 し て い た2 0 ) 1haの 国 有 地 か ら は 約15t の木 炭 が 生 産 さ れ て い た . 生 産 さ れ た 木 炭 は 馬 で4俵 ( 1俵15kg) ずつ運搬され, j高IIl Jの業者にひきとら れ

7

W}H jャセN

取 は ナ ラ や ク ヌ ギ を 主 体 に6月 初 旬 に 部 落 共 有 の 山 域 な ど で 行 わ れ た . 若 木 は 代 扱 きi誌の水田や通し 苗代の跡地にl Oa当り約1l0kg投入されていた. し か し , 馬 耕 や 化 学 肥 料 , お よ び 普 通 苗 代 が 昭 和 初 期から用いられるようになり,メリ敷用の若木採取は衰退していった. 落葉採取は既堆) j 巴や苗床をつく

る た め , 現 在 で も 続 け ら れ て い る . 落 葉 採 取 は12月から3月 ま で の 積 雪 の な い i時に行jつれ,その実質 的 な 日 数 は20日程度であった. 落葉採取の場所は主に私有と部落共有の山域であったが,営林署の許ー 可 を 得 て 国 有 林 野 を 利 用 し て い た 農 家 も あ っ た . 落 菜 採 取 は 普 通2人 で 従 事 し , 落 葉 を ク マ デ で 集 め た 後 , 落 葉 は 「 コ ノ ハ カ ゴ 」 に 詰 め ら れ て 運 搬 さ れ た り , 薬 製 の 「 ピ ク

J

に 詰 め ら れ , そ れ を 「 ヤ セ ンマ

J

につけて運搬されたりしていた21) 1日の落菜採取量は2人 で 約220kgで,落葉は厩舎で馬に 踏 ま せ 厩 堆 肥 に さ れ た . そ し て , そ のj霞堆肥は4月 初 旬 に 水 田 や 畑 地 に 施 さ れ た . そ の 量 を 落 葉 採 取 面 積 に 換 算 す る と , 耕 地10 aに対して20 a以 上 の 山 域 が 必 要 に な っ て い た .

焼 畑 も 山 域 利 用 の ひ と つ で あ る が , 鮫 川 村 で は ほ と ん ど 行 わ れ て い な か っ た . しかし,緩斜面の山 域 を 畑 地 化 す る 際 に , 一 部 で 焼 畑 が 行 わ れ , そ の

d

j

域は「カノヤマ」また,焼よmは 「 カ ノ ヤ キ 」 と 呼 ばれていた. 6月末に濯木などが伐採され, 7月20日頃に火入れが行われた. はじめ,

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カノヤマ」 の上部に火入れをして防火帯がつくられ,その後,下部に火入れされ,

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カノヤマ

J

全体が焼治通れた. 1年呂にはソ/くが, 2年自には大豆と小豆,ジャガイそが作付され, 3年 目 以 降 の 「 カ ノ ヤ マJ は永 久 畑 と し て 利 用 さ れ た . こ の よ う な 「 カ ノ ヤ キ

J

は1953年 以 降 行 わ れ な く な っ た .

I V 小 農 複 合 経 営 の 類 型 ( 1960年 以 降 )

N -

1

近 年 に お け る 農 業 経 営 の 条 件

農 家 と 経 営 耕 地

(14)

阿武11. 民高原伴jヲセQU 71

% と 南jし¥伐 を 示 し て い た . 農 家 人 口 は6,97] 人であり ,農 家 1 戸 当 り の 家 族 は 7 人 と 多 い . こ の こ と

は ,

i

鮫JIli寸の農 家 が 大 家 族 的 性 格 を も っ て い た こ と を 示 し て い る. しかし, 1960年 以 降 , 農 家数と 農

家 人 口 は 減 少 を 統 け ,QYXPセ ZQ X WR T VYT N Q

口も

5

人 に 減 少 し , か つ て の 大 家 族 的 性 格 は 失 わ れ て き た しかし,農 家率は 1980年で 7 7 .3 %とほと

ん ど 変 化 し て い な い ( 第3表) .

第 3 表 鮫川村における農家と経営耕地の推移

年 次

農家数 農家率 i畏家人口 専業別農家数( 戸〕 種家

I

経営耕 地面積と経営規模

( 戸〕 (%) (A ) 1 Z￟↓ エャ Qjセ@ 2 ;j'{111 A =, I 1- P 10 .5ha 10.Uセ@ 11. 0--- 12. oセ@ )3. 0ha

専業農家I第兼業農積家1卸託業農 合 ι日'.1平均コj 1未. 満i 0il . Oha││2. 0hal │20hai l

1960 982 78. 2 6, 971 339 536 107 1141. 2ha 1.16ha 127戸 255戸 547 j=' 51戸 2戸

1965 968 77. 5 6,406 236 538 194 1150. 0 1. 19 100 245 564 59 C

1970 95] 79. 3 5,695 113 621 217 1168. 2 1. 23 108 226 527 13

1975 900 78. 5 5,015 80 336 484 1082. 0 1. 20 109 234 462 14

1980 872 77. 3 4,694 50 401 413 1150. 0 1. 32 101 215 434 33

〈農林業センサスにより作成〉

農 家 数 を 第 3 表から専兼別にみると, 1960年 で は 専 業 農 家は339戸であり3 第l 種 兼 業 農 家 と 第 2

種 兼 業 農 家 は そ れ ぞ れ 536 戸と 107戸 で あ っ た . 兼 業 農 家 の う ち , 製 炭 業 を 営 む 自 営 兼 業 農 家 が 319

戸 で 最 も 多 く , 出 稼 や 人 夫 日 雇 の 兼 業 農 家 は そ れ ぞ れ 15戸と 16戸 に す ぎ な か っ た そ の 後 , 専 業 農 家

は急減し続け, 1980年には 50戸 に な っ て し ま っ た 他 方 , 第l 種 兼 業 農 家 と 第 2 種 兼 業 農 家は 1970年

ま で に 急 増 し , そ れ ぞ れ 621 戸と 217戸 に な っ た . こ のi侍 の 兼 業 農 家 の う ち , 恒 常 的 勤 務 や 出 稼 , 人

夫 日 屈 に 従 事 す る 農 家 が そ れ ぞ れ 167 戸と 17l 戸, 258戸に 増加し , 製 炭 業 を 営 む 兼 業 農 家 は242戸

に 減 少 し た 1980年 に は , 第 1 種 兼 業 農 家 と 第 2 種 兼 業 農 家 は そ れ ぞ れ 336 戸と 413戸に なった そ

の 兼 業 内 容 で は , 恒 常 的 勤 務 と 人 夫 日 雇 に 従 事 す る 農 家 が そ れ ぞ れ386戸と 315戸 で 卓 越 す る よ う に

な っ た

次 Lこ , 経 営 耕 地 面 積 を み る と , 平 均 経 営 面 積 は 1975年 に 一 時 的 に 減 少 し た が , 少 し ず つ 増加 してい

る こ と が わ か る ( 第 3 表). つまり, 平 均 経 営 面 積 は 1960年で1 . 16haであったが, 1980年には1. 32ha

に な っ た . こ の よ う な 漸 増 傾 向 は 経 営 規 模 別 農 家 数 の 推 移 か ら も う か が え る . 2. 0ha未 満 の 農 家 数 は

減少を続けている. ことに1 . Oha

J

夕、上 2. 0ha 未満の農家数の減少が著しく, 1960年に547戸 あ っ た 農

家 数 は 1980年に 434戸と 100戸以上減少した. 一方, 2. 0ha以上の 農 家 は 1980年で 全 農 家 の 1 4 %にす

ぎ な い が , そ の 数 は 1960年の 53戸から 1980年の122戸 と 増 加 傾 向 に あ る . こ の よ う な 傾 向 は 後 に 述 べ

るゴ二地基盤の整備などと関連している

2) 労 働 力 と 農 業 装 備

す で に 述 べ た よ う に 1980年 に は , 鮫 川 村 に は 872戸 の 農 家 が あ っ た が , そ の う ち の 4 8 %にあたる 418

戸 で は 世 帯 主 あ るし、は生産年 齢 に あ る 男 子 が 農 業 に 従 事 し て い た . ま た , 後 継 者 が 農 業 に 従 事 し て い

る 農 家 は113戸 と 全 農 家 の 1 3 %で あ り , 世 帯 主 と 後 継 者 の2 U i 代が農業に従事する農家は 55戸 で 全J喪

家 の 6 %にすぎなかった. し た が っ て , 現 時 点 で の 後 継 者 の 定 着 率 は 低 い と い え る . こ の こ と は 男 子

(15)

72 人 文 地 酒 ! 学 研 究 四

け, 1980年には373人 に な っ た . 他 方 , 女 子 の 農 業 専 従 者 数 の 減 少 は 1970年 以 降 に み ら れ た . こ れ は

村 内 に 立 地 す る 農 村 工 業 の 臨 時 雇 用 が 培 え た こ と と 関 連 し てt、る22)

鮫 川 村 の 農 家 は 小 規 模 な 経 営 耕 地 に 多 種 類 の 作 目 を 少 し ず つ 減 培 し て い る た め , 大 型 の 農 業 機 械 を

必 要 と し て い な い . 第 4 表 に よ れ ば , 鮫 川 村 の 機 械 化 は 1960年 頃 からの耕転機導入に始まり, 1970年

第4 表 鮫川村における炭業機械装備の推移

年 次

[

11J

控除率直植議

くインタ

ト ラ y ク

1960

1

セセ セ

0台 O台 4f:二、I

1965 391 1 1 1 19 1 0

。 。

14

1970 834 1 11 1 196 1 1 18 I 0 53

1975 934 1 12 1 296 1 137 210 I 2 85

1980 956 1 115 1 778 1 515 536 I 7 127

( 鮫川村農林業累年統計書により作成〉

ま で に は 耕 転 機 が 農 家 に l 台 ず つ 装 備 さ れ る よ う に な っ た . 来 月

3

トラクターは 1957f

l

三の 農 山 漁 村 振 興 特 別 助 成 事 業 で は じ め て 導 入 さ れ る よ う に な っ た . そ れ ら の 乗 用 ト ラ ク タ ー は 共 同 利 用 の も の で あ

り,個人所有の乗用トラクターは 1970年以降に普及した. 1980年 の 乗 用 ト ラ ク タ ー の 台 数 は 115台 で あ

ったが, 30馬 力 以 上 の も の は 4 戸 に す ぎ な か っ た . 動 力 防 除 機 , 田 植 機 や パ インダ ー な ど の 稲 作 省 力

機 械 の 普 及 は 1970年法降であり, 1970年 以 降 に み ら れ る 農 家 の 農 業 専 従 者 の 減 少 と 関 連 し て い る23)

しかし,経費のかかる自脱型コンバインはあまり普及しておらず, 1980年 で も わ ず か 7 台 で あ っ た

ま た , 農 用 ト ラ ッ ク の 普 及 も 抄 し く な く , 所 有 農 家 は 全 農 家 の 1 5 %に す ぎ な か っ た

農 業 装 備 に は 農 業 施 設 も 含 ま れ て い る . 鮫)11村 の 農 家 は コ ソ ニ ャ ク のj守 政 乾 燥 施 設 で あ る 「 火 室

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あるし、はタパコ乾燥小屋などを従来から個人所有していた. しかし, 1965年以降の! ? 活発事業や構造改

善 事 業 に 関 連 し て , 畜 舎 や 蚕 室 が 建 設 さ れ , 多 く の 共 同 利 用 施 設 も 建 設 さ れ た . そ の な か に は , 稚 蚕

飼 育 所 や 育 苗 施 設 , 集 荷 , 出 荷 所 ,集乳所があり, 1970年 に は そ れ ぞ れ4カ所, 3カ目F,j-

8

カ所, 18

カ所に立地して いた. また ,1977年 頃 か ら 渡 瀬 , 青 生 野 地 区 で ト マ ト の ハ ウ ス 栽 培 が 普 及 し , ビ ニ ー

ル・ハ ウ ス も 重 要 な 農 業 施 設 に な っ て き た . こ の 施 設 は パ イ プ 式 の も の で , 漉 水 施 設 と

i

坊風ネットも 装備され, 1棟当り 130万 円 の 経 費 が 必 要 で あ っ た . し か し , こ の 施 設 導 入 は 稲 作 転 換 事 業 の ひ と つ

と し て 進 め ら れ て お り , そ の 資 金 の 6 0 %は 国 か ら の 補 助 金 で あ っ た

3) 土 地 基 盤 の 整 備

鮫川村における農業の生産基盤は,さまざまな構造改善事業や助成事業,! ? 自発事業に関連して準備

されてきた24) こ と に 水 田 の 闘 場 整 備 や 暗 渠 排 水 の 敷 設 , 大 規 模 な 牧 野 造 成 な ど に み ら れ る よ う に ,

土 地 基 盤 の 整 備 が 全 村 的 に 展 開 さ れ て き た . 第9図 に よ れ ば , 水 田 の

l

苗 場 整 備 や 暗 渠 排 水 の 敷 設 は 鮫

川 村 の 北 部 お よ び 西 部 の 地 区 ( 西 山 , 赤 坂 西 野 , 赤 坂 東 野 , 波 瀬 ) に , 牧 野 造 成 は 南 部 お よ び 東 部 の

地 区 〈 赤 坂 東 野 , 青 生 野 〉 に 集 中 し て い る

(16)

阿武陵高原南部におけるノj、、農複合経営の民間

¥ ¥

セMMGMエQ￘@

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- -

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圏第『次農業制改善¥、

事 業 に よ る 牧 野 道 成 ¥ ¥

日第l次開制改答 ¥

事 業 に よ る ま 匙 国 造 成 仏 へ

Jム ーへ

機阿武隈制限 或 広 域開 ¥

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闇 圏 場 整 備

四 日 暗 渠排水

¥)

3krn

第9図 鮫川村 における土地基盤整備状況( 鮫川村役場資料,および

『阿武隈南部 区域広域農業開発事業』により大倉泰裕作成〉

7

3

ー さ せ , 交 換 分 合 な ど で 水 田 の 団 地 化 を は か る も の で あ っ た . そ の 後 , 各 地 で 園 場 整 備 が 行 わ れ ,第

l

次 山 村 振 興 事 業 の 終 る

1974

年までに は)

I

習場整備 された水田 面 積 は

7

3. 2ha

になっ た . さらに,

1976

年 か ら の 第

2

次i JJ村 振 興 事 業 と

1981

年 か ら の 第

3

次 山 村 振 興 事 業 に お い て も ,水田 の 翻 場 整 備 事 業 は

統 け ら れ た . そ の 受 話 水 田 面 積 は ,現在実施中のものを含めると,

214. 9ha

に達し, 鮫 川 村 の 水 田 の

3 5 . 4 %

が│ 苗場整備されたことになる. 西山地区では

7 9 %

にあた る

83ha

の 水 田 が

1977

年 以 降 に 闘 場 整 備

さ れ て き た .

I

現 場 整 備 と と も に ,暗 渠 排 水 の 敷 設 事 業 も 行 わ れ て お り , そ の 受 益 面 積 は

1983

年 ま で で

26. 7ha

になっ ている

(17)

7 <j 人 文 ; 地 出 学 研 究 明I!

造 改 善 事業では, 159. 1haの 牧 野 が 造 成 され25),そ のうち37. 6% に あ た る57. 8haの) { ] 地 は , 国有 林

野 の 払 下げによる も の で あ っ た . 残りの 用 地 は 部 落 共 有 林野 と 国 有 林 野 を 倍 '叉'けたも ので , そ れ ら の

規 模 は そ れ ぞ れ69. 3haと30haで あ っ た . ま た ,牧 野 と は 別 に 放 牧 共 有 林 が 設 け ら れ , その74. 7haの

用 地 の す べ て は 国 有 林 野 を 借 受 け た も の で あ っ た さらに阿武 │喫 南 部 区 域 広 域 農 業 開 発 事 業 で は , 牧

野 造 成 は542. 8ha(,こ達した . そ の う ち の6 0 %にあたる324. 9haは 放 牧 地 と し て 利 用 さ れ , 残 り は 飼 料 よ

n

r

や 採 草地 と し て 利 用 さ れ て い る . この 開 発 事 業 は817. 2haの 土 地 を 要 し た が ,そのうち299haの 土 地

は 国 有 林 野 の 払 下 げによるも の で あ っ た . 払 下 げ 価 格 は1975年 現 在 で10 a当り12万円であり,牧野; 出

成 に は9億3,700万 円 の 費 用 が か か っ た

牧 野 造 成 と と も に , 青 生 野 ,戸 草 , 世 々 麦 , 鍬 木 国 地 区 で は 集 団 桑 原

l

造 成 が 第1 次 農 業 構 造 改 善 事

業 で 行 わ れ た . そ の 規 模 は34 haであり, そ の う ち の28 haの 土 地 は10 a当り 4,000円 で 国 有 林 野 の 払

下 げ を 受 け た も の で あ っ た . ま た 第l 次農業構造改善事業では,プノレドーザーとトラクターが1台 ず

つ 鮫 川 村 農 業 協 同 組 合 に 導 入 され,焔地 造 成 に 利 用 さ れてきた. しかし州地造成は,

7

K

II l の

r

I

出場整備

や 牧 野 造 成 , 桑 密造成に比べ, 1件当りの 造 成 面 積 が 1 ha以 下 と 小 規 模 で あ っ た. こ れ は 個 々 の 農 家

が ブ ルドーザー や ト ラ ク タ ー を 借 受 け て 畑 地 造 成 を 行 っ た か ら で あ る . 以 上 に 述 べ て き た 土 地 基 盤 整

備 事 業 に 関 連 し て , 農 道 の 建 設 や 舗 装 化 も 進 め ら れ て き た 特 に 山 村 振 興 事 業 や 過 疎 地 域 振 興 計 画 で

は , 事 業 費 の8 0 %を国と県の補助金で賄って, 1 . 襲・道整備が進められた. その結果 , 農 林 道 の 舗 装 率 は

1 %か ら2 0 %に向 上した

I¥1 - 2 農 業 生 産 活 動

1980年 の 鮫 川 村 に お け る 作 物 別 収 穫 面 積 を み る と , 全 収 穫 面 積 ( 960. 5ha) の58. 6% ( 562. 9ha) を

水 稲 が 占 め , 以 下 , 工 芸 作 物 が16. 1 % ( 154. 8ha), 飼 料 作 物 が12. 0% ( 115. 4ha) を 占 め て い た 工

芸 作 物 の 収穫 面 積 で は , タ バ コとコンニャ ク が そ れ ぞ れ44. 7% ( 69. 2ha) と5 5 .2 % ( 85. 5ha) を占め

ており,それらは 水 稲 と な ら ん で 鮫 川 村 の 中 心 的 な 栽 培 作 物 に なっている . 飼 料 作 物 は 肉止│ニや乳牛 飼

N QZAセ lZェ

れ て い る . 一 方 , 工 芸 作 物 や 飼 料 作 物 以 外 の 畑 作 物 に は , 豆 類 ( 44. 7ha) や 野 菜 類 ( 38. 9ha), 芋 類

( 28. 9ha) が あ る が , そ れ ら の 生 産 は 水 稲 や 工 芸 作 物 生 産 , お よ び 畜 産 の 補 完 部 門 と し て の 地 位 に あ

る. また , 畑 地 利 用 と し て 重 要 な も の に 桑 園 ( 63. 0ha) が あ り , 鮫 川 村 の 全 農 家 の16. 5%が 養 蚕 に 従

事 し て い る . 以 上 の 農 業 生 産 活 動 に つ い て , そ の 実 態 を以下で 説 明 す る こ と にしよう

1) 水 稲 栽 培

1982年 に お け る 鮫 川 村 の 水 田 面 積 は774haで あ り , 水 田 は 標 高3 5 0 mから700 mのnWjに 閃 か れ て い

る26) そ の た め 水 稲 の 単 収 は 標 高 に よ り 異 な っ て い る . 平 年 作 に お け る 水 稲 の 単 収 を 集 落 別 に 示 し た

第10図 によれば, ? K. 稲の単収は高度の上昇とともに減少する傾向にある . つまり,10 a当 り 水 稲 の 単

収 は 標 高4 0 0 m未 満 で560kg

0

、上, 4 0 0 mから 5 0 0 mの高 度 有,¥:で420kgから 560kg,5 0 0 mから 600m

の 高 度 帯 で300kgから 420kg, そ し て6 0 0 m

J

夕、上の高度帯で300kg未 満 に な っ て い る . こ の よ う な 単

(18)

阿武隈高原南部における小農複合経営の展開

7 5

l

水 稲 収 模 面 積

G

fi i j

10 a 当1)水 稿 単 収 . 560旬 以 上

420- 560同

300- 420旬

300 k¥l 未満

3km

第10図 鮫川村における集落別の

7

J

寸前収穫面積( 1980年〉と10日 当り水稲単i収( 平年〉

( 農林業センサス集落別結果表,鮫川村農業協同組合資 料,および、東白川農業改良普及所資料により作成〉

数 を 標 高 別 に み る と , 作 況 指 数 は

400m未 満 で は

8

9,400m

から

500m

の 間 で

77,500m

から

600m

の 聞 で は

49,600m以 上 で は

4

で あ っ た27) こ の よ う な 高 度 帯 に よ る 水 格 単 収 の 差 異 は , 水 稲 の 栽 培 技 術 に も 影 響 を 及 ぼ し て い る .

1982年 に お け る 水 稲 品 種 を 標 高 別 に 示 し た 第

1

1図 に よ れ ば , 標 高

400m

未満と

400mから

500mで

は, iセェ WUNXE

( 30. 7ha)

と6

0

.

8 % ( 232ha)

を占め, 1 ' r : 付品種の中核になっている28) 一方,

500mから

6 0 0 m では, 早 生 種 の フ ジ ミ ノ リ と ヨ ネ シ ロ が ト

(19)

76

付 100

%

人 文 ; 地 理 学 研 究 明

父 ミ 二

率 50

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アキヒカ1)

_

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コシヒカ1) ⦅NMMMセM ZZZMMNNZZNN⦅BGMMセZGZZ j

P Q] WjT Zセ NセMN

400 450 500 550 600

- ・・・・@フジミノ1)

6 5 0 m

u

票高〉

第11図 鮫川村における標高別の水稲品種( 1982年)

( 東白川農業改良普及所資料により作成〉

になっている. し た が っ て , 標 高 の 上 昇 と と も に , 水 稲 品 種 はi羽 生 種 か ら 早 生 種 に 変 化 し , 水 稲 栽 培

も 危 険 分 散 を は か つ て , い く つ か の 品 種 を 組 み 合 せ る よ う に な っ て い る.

水 稲 の 育 苗 技 術 で は ,1970年頃からの田植機の普及と相まって,箱育苗が行- われるようになった.

箱 育 苗 は 出 芽 ま で 電 熱 線 で 加 温 し , そ の 後 , ビ ニ ー ル と 寒 冷 紗 で 保 j E し て 田 植 機 用 の 苗 を つ く る も の

である . こ の 箱 育 苗 は 全 村 的 に 普及し て い る が , 標 高5 0 0 m以 上の高度; }日: では ペー パ ー ポ ッ ト 育 苗 が

1975年 頃 か ら 導 入 され, 1980年 の 冷 害 を 契 機 に 普 及 しはじめてい る. 田 植 機 がJ=!=l、 ら れ る 標 高し 50 0 m

未満の高度帯では稚苗が用いられているが, 5 0 0 m以 上 の 高 度;jfj:ではl二│コ苗が用いられている . また ,

5 0 0 m以上の高度帯では育苗を成苗まで行い, そ れ を 密 植 す る 手 植 が 機 械 植 と 組 み 合 され て い る . 水

管 理 で は ,鮫 川 村 が 準 高 冷 地 か ら 高 冷 地 に 属 す る た め , 昼 間 止 水 と 夜 間 掛 流 し が 基 本 で あ る . し か

し, 5 0 0 m以 上 の高度帯では ,最近, ビニール温水チ ューブを 設 置 し て 水 温 の 上昇 を は か っ て い る 水

田が増加しつつある.

以上に 述べて きたように ,鮫川村で は 水 稲 の 単 収 と 品 種, 栽 培 技 術 が 高 度 帯 により異なることが,

この地域の特質を示している.

2) タ バ コ と コ ン ニ ャ ク の 栽 培

タ バ コ と コ ン ニ ャ ク は 鮫 川 村 の 主 要 な 商 品 作 物 で あ る . そ れ ら の 栽 培 は 広 く 分 布 す る 水 は け の よ い

砂 質 土 壌 ,安定し た 商 品 価 格 , 乾 燥 や 家内加工による軽量化 と運搬しやすさ などを 背 景 に 発 達 してき

た . タ1' ¥コの収穫 面積は1960年に 52. 8ha,1970年で67. 9ha,1980年 に お い ても 69. 2ha と停滞 してい

る. こ れ は , 葉 タ バ コ の 生 産 調 整 が1973年 か ら 行 わ れ てい るためである . しかし , タバコ栽培農ー家1

戸 当 り の 収 穫 面 積 は1960年に21. 8a, 1970年に38. 5 a, 1980年 で53. 7 a と増加傾向にある. このこ

とは,タパ コが 労 働 集 約 的 な 作 物 で あ る た め30),農 業 労 働 力 の 少 な い 農 家 が タ バ コ栽培を中止し , 農

業 労 働 力 に 余 裕 の あ る 農 家 が タパコ 栽 培 を 拡 大 し て き た 結 果 である

1980年 の 鮫)11村 に お け る タ バ コ の 収 穫 面 積 を 集 落 別 に み る と , タ バ コ 栽 培 は 北 西 部 の 凶 山 , 赤 坂 西

(20)

阿武隈 高原南部における小農複合経営の展開

収 穣面 積

3

1

1;

。 コンニャ ク 3km

第12臨 鮫川村に おけ る集落別 のタ バ コ収穫 面積とつン

ニャグl収穫 面積 ( 1980年〉

( 農林業セソサス集落別結果表により作成)

77

石 , 落 合 と い っ た 集 落 の タ パ コ栽 培 は 大 規 模 で あ り,そ れ ら の 集 落 のタバ コ栽 培 面 積 は 全収 穫 面 積 の

3 2 %

を 占め, タバ コ栽 培 農 家

l

戸 当りの タパコ 収 穫 面 積 は

63. 7

aに達 し て いる 。 ま た ,それ らの集 落

の タ バコ栽 培 農 家 は

78

戸で , 全 農 家 の

5

7. 4 %

を 占 め て お り , そ の す べ て が タ バ コを 農 産 販 売 収 入 の

l

位 に し てい る,

鮫 川 村 のタλ コ栽j :吉では ,在 来 種 の 松 川 莱 が 用 い ら れ て お り3 タパ コの 苗 は 共 同 育 苗 セ ンタ ー で仕

立 て ら れ て い る . 播 種 は ジ ョ ウロを 用 い た 水 播 き で ,3月 下 旬 に 行 わ れ て い る . 苗 の 定 植 は4月 下 旬

で: l J ), 定 植 後 ,霜 害 防 止 や 生 育 促 進の目 的 で ビ ニ ー ル ・ マ ノレチ が 施 される .

7

月 初 句 に 芯 止 めが 行 わ

れ , 収 穫 は7月 中 旬 か ら8月 中 旬 ま で で あ る . 収 穫 さ れ た 葉 タ バ コは 連 干 し と 幹 干 し の2つ の 方 法 で

自 然 乾 燥 さ れ て い る め

gl

然 乾 燥 で は , 火 力 を 用 い た 人 工 乾 燥 よ り も 広 い タ パ コ乾 燥 室 が 必 要 に な っ

て く る . こ のこと は, 宅 地 内 に 建 てられ た2棟 程 度 のタ バ コ乾 燥 小 屋 や 宅 地 付 近 に つくられ たヒニー

(21)

78 人 文 地 理 学 研 究 明

他 方 , コ ン ニ ャ ケ の 栽 培 面 積 と 収 穫 量 は1973年の148haと1,230 t をピ一次に減少傾向にあり, 1980 年 に は そ れ ぞ れ110haと728エ N QYXPセZQ RXU QYVP

約5 7 %に な っ て し ま っ た . そ の 反 面 , コ ン ニ ャ ク 栽 培 農 家l 戸 当 り の 栽j者面積は, 1960年の10. 3 aか ら拡大して1980年には38. 6 aに な っ て い る . こ の よ う な 傾 向 は , 近 年 の 市 場 価 格 の 低 迷 と 連 年 の 気 象 災害などにより33,) 10 a程 度 の コ ン ニ ャ ク 栽 培 を 行 っ て い た 農 家 の 多 く が コ ン ニ ャ ク を 他 作 物 に 転 換 したために生じてきた. さらに,コンニャクは収穫までに

3

年 を 要 し , 収 穫 後 の 地 力 は 著 し く 疲 弊 す る た め , 新 た に コ ン ニ ャ ク を 導 入 す る 農 家 は ほ と ん ど 現 わ れ な か っ た .

1980年の鮫)11村 に お け る コ ン ニ ャ ク の 収 穫 面 積 を 集 落 別 に み る と , コ ソ ニ ャ ク 状j者は北西部のタパ コ栽培地帯を除いて,全村i杓 に 分 布 し て い る こ と が わ か る 〈 第12図) . 特に収穫面積の大きい集落は, 北 東 部 の 戸 倉 ( 7. 5ha) と馬場 ( 8. 2ha), 東 部 の 遠 ケ 滝 ( 4. 6ha) と戸車 ( 5. 5ha), 南 西 部 の 江 竜

E

B

( 4. 9ha) と南部の大犬平( 6. 4ha) で あ る . そ れ ら の な か で , 北 東 部 の2集 落 に お け る 栽 培 農 家 l 戸当 りのコンニャク収穫面接は58aであり,

f

也集落の27aVこ比べ大規模なものになっている

鮫川村のコンニャク栽培では,

I地玉

j と呼ばれる在来種が用L、られ; ; 4),種いもは自給されており, 主に2年 生 に 着 生 し た 生 子 が 使 用 さ れ て い る . 植 付 け は5月上旬に行われ, 1セZャ R 植え, 2年生以上のものは1条植えで植付けされる. 植付け後, r宇和! と除草剤散布が6月中旬に行わ れ , 土 壌 の 乾 燥 と 病 害 の 発 生 , お よ び 産 射 日 光 を 避 け る た め , 敷 わ ら が 施 さ れ る . 収 穫 は10月中旬か

ら11月 中 旬 に か け て 「 コ ン ニ ャ ク 掘 取 機j を用¥. ,¥て行われる35) . コンニャクは「火室

J

あるいは 倉

J

I

玉屋」と呼ばれる土壁造りの小屋で貯蔵され,小屋のなかは埋薪? 去により15

0

C

程 度 に 保 混 さ れ ている35) 3年生,ある¥. ,、は4年 生 の コ ン ニ ャ ク は 天 白 で10日以上乾燥させて,鮫)11村 農 業 協 同 組 合 内 の 「 コ ン ニ ャ ク 加 工 組 合j に 出 荷 さ れ る . そ の 加 工 工 場 で , コ ン ニ ャ グ 芋 は 薄 く 切 断 さ れ , 矢 祭 町 や古殿町の業者に販売されてい石.

以 上 述 べ て き た よ う に , そ し て 第12図 か ら も 明 ら か な よ う に , 鮫 川 村 に お け る タ パ コ と コ ン ニ ャ ク 栽 培 は 地 域 的 に 分 化 し て い る こ の こ と は , 栽 培 の 技 術 体 系 の 違 い や 専 売 公 社 に よ る タ バ コ 耕 作 地 の 限 定 化 な ど に 起 因 す る も の で あ る が , 自 然 条 件 も 重 要 で あ る . す な わ ち , タ パ コ の 定 植 は4月下旬に 行 わ れ る が , 標 高5 0 0 m以上の場所は5月 中 旬 ま で 降 霜 が あ る た め , タ バ コ 栽 培 に 向 い て い な い . ま た,コンニャク栽培の適地は, 7月と8月 の 平 均 気 温 が230

Cから270

Cで, 日照の少ない排水良好なi JJ 関 斜 面 と さ れ て い る . そ の よ う な 場 所 は 標 高4 0 0 m以上に広く分布している.

その他の畑作物栽培

(22)

阿武! 嬰高原南部における小成複合経営の展開

7

9

J

に さ れ た も の で あ っ た . しかし,

1

0

a

当 り の 収 量 が

320kg

と 低 い た め38),

1982

年 に お け る

1

0 a

当り

のヰ主主主は約

25

万 円 に す ぎ な か っ た .

野 菜 類 で は 大 根 と 白 菜 の 作 付 面 積 が 目 立 ち ,

1980

年 で そ れ ぞ れ

18ha

15ha

に な っ て い る . しかし,

そ れ ら の 収 穫 量 の 約

8 0 %

は 自 給 用 で あ る た め , 商 品 性 は 低 か っ た 商 品 性 の 高 い 野 菜 は ト マ ト と ニ ラ

で あ る . トマトは

1977

年 頃 に 露 地 栽 培 と し て 導 入 さ れ た が , 収 量 が 少 な い こ と も あ っ て ,

1980

年 に は

す べ て ハ ウ ス 栽 培 に 転 換 さ れ た そ の 際 , 農 家 は 稲 作 転 換 事 業 か ら

6 0 %

の補助を得て,

1

180

万 円

の パ イ プ 式 ビ ニ ー ノ レ ハ ウ ス を 建 設 し た . ト マ ト 栽 培 の 施 設 面 積 は

1982

年 で

2. 6ha

に 増 加 し て お り , 栽

培 の 中 心 は 青 生 野 地 区 に な っ て い る . ト マ ト 栽 培 に よ る

1

0 a

当 り の 収 益 は

1982

年 に お い て 約

170

万 円

と 夏 作 物 の な か で 最 も 高 い . ニ ラ の 栽 培 も 高 冷 地 と い う 気 候 条 件 を 利 用 し て

1975

年 頃 に 導 入 さ れ

た3 9 ) ニ ラ 栽 培 のI中 心 は 富 田 地 区 と 渡 瀬 地 区 で あ る . ニ ラ 栽 培 に は , 8月 上 旬 か ら 9月 上 旬 に か け て

収 穫 さ れ る 夏 ニ ラ と ,

1

1

月 中 旬 か ら

2

月 下 旬 に か け て 収 穫 さ れ る 冬 ニ ラ が あ る .

1982

年 に お い て , 夏

A

l

i

t

-つ

1

1

1

1

1

9

6

0年

o

1

9

8

0年

3km

1

3図

鮫川村における集活別の桑閣の分布( 1

9

6

0

年,

1

9

8

0

年)

Figure

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