紀元7世紀におけるイギリスの宗教事情 : 特にベネ ディクト修道士の活動について
著者 竹内 直良
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 8
ページ 1‑21
発行年 1956‑03
URL http://doi.org/10.15002/00010657
紀 元 七世 紀にお
け るイギ リ ノスの宗教 事 情
ーー特に二ヘネデぷクト修道士の活動について
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良 内 直
序
中世初期(六
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八世紀)ブリグェアとアイルランドの宗教界において︑東方ヨ1ロγバ大陸と密接な関係を持つ著名な伝道家にアウグスティヌス︑コルンパヌス︑ボニファシウスの
三人がいる︒この中コルンパヌスを除く他の二人はロ1
7教皇と常に交渉をもち︑教皇を戴く中世カソリック教会の組織化統制化に貢献をした点において特に重要である︒ア ウグスティチスは教皇の命を受けてイギリスの布教に従事し︑ボニファシウスは教皇の援助を得てドイツの伝道を行っ
ている︒而も両者
共にベネディクト修道院で教育をうけた人物である︒前
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7のベネディクト修道院に育成され
て五九七年イギリスに宣教し︑後者はそのイギリスのベネディクト修道院から出て七一六年ドイツの教化につとめた点
において︑二人の精神的な連関乃至は事業の類似性を認めることが出来ると思う︒
かくの如く二
人を結ぶもりがベネディクト修道院であるとするならば︑この二人の中間期即ち七世紀のイギリスにお
けるキリスト教
会︑特
に
ベネディクト修道院はどのような活動告していたか︑そうしてそれ出中世キリスト教史の上に どのような
意味を持っかという問題について明か検討して見たい︒
周知の如く︑七世紀のイギリスはゲルマン族の一派アングル人︑サクソン入︑ユ1ト人の移住後で統一政権はなく︑
所謂
図︒
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局︒
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!と称せられる蛮族諸玉の割拠時代であり︑同地におけるロlマ文化の衰亡と共にこれら移住民の持つ
異教が横行する時代であった︒
けれどもこれに先立つ二世紀即ち彼等の侵入前︑アイルランド︑スコットランドを中心としてキリスト教は目覚しい
活動を行っていたことは︑当時の歴史危縮く者の等しく認めるところであるo既に五世紀にスコvトランド生れで巳
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修道院や︑南地中
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修道院︑更に﹀己
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アイルランド各地に布教し︑東北隅
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附近
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州市川町などに修道院を建てている︒次レで五
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六世紀にはブレンダン(切百包自己・日∞﹀の
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修道院︑コムガル(めの
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仰げなどの諸修道院はアイルランドにおける学芸の中心地として隆盛に赴いた︒一方スコットランド方面では︑上記のパトリ
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即ち白色の家﹀を建て︑更に先の寸君︒
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という)に修道生活を行い︑之を基地としてブリタニア北部の伝道を開始している︒次に
イングランド地方も一衣帯水のガリア地方から伝道者が渡来し︑回世紀頃には次第に地歩を閉めたようである︒一一一一四
年のブルルの宗教会議に三名の司教(ヨ1クの司教エボリウス︑ロンドン司教レスティトウツス︑任地不明の司教アデルフィワス)
がブリグニアから出席している事実︑或は三六
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年のアリミヌム( h r z s z c B w E
由巳﹀の宗教会議にも同じく三名の
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司教が列席している事実などは
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﹄その証左であろう︒次いで五世紀に入ると四二九年オ
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トルアの司教ルプスがベラギウスの異端を到服するために渡英し︑サクソン人︑ピクト人の来窟に際してブリトン人を 率い関の
声ハレルヤを連呼して遂にこれを撃退したという話も(三︑同地域の信者数が当時僅少ではなかったことを一示す
ものであろう︒然るに以上のうち︑アイルランド及びスコットランドの所謂︒︒言︒富︒
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・はその後も比較的順
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調な発展をつYけ得たのであるが︑これに一反しイングランド地方のキリスト教は五世紀中葉以降アングル人︑サクソン
人︑ュIト人の侵入によって殆んど絶誠し︑唯ウェIルス地方に∞包戸伝ミ
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修道院が僅に過去の繁栄を留めているに過ぎなかった︒
か﹀る背景を持つブリグニアに新しく登場したのがアウグスティヌスである︒けれどもアウグスティヌスの渡来当時
ブリグエアの南部にキリスト教信者が絶無であったと極言することは出来なレのであって︑既に改宗した王室を持つ隣
国フランクからキリスト教は徐々に伝来していたと想像される︒例へばケント王
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の娘
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と結婚したため︑彼女に伴うて口比告∞昆司教が渡英し︑以後カンタベリーの東に聖マルチシ教会が設
けられるようになった
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事実がある︒とは云え︑当時一般庶民の道徳生活はキリスト教精神とは程遠く至って野蛮で)
あったことは︑後︑アウグスティヌスとグレゴリウス教皇との聞に交換された書簡の中にも反映しており︑特に一部の
聞では己れの継母と結婚することさえも平然と行われていたようである(73
とまれ︑か
ι﹀る情況のうちに細々ながらも保持されたキリスト教は︑の巴片山のめげ
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の場合の如くガリアから伝来したものであり︒一式わばロIマ直系の
キリスト教ではなかった︒
然るにこの形勢は五九七年アウグスティヌスが同志四十名と共にケント王国の東方寸官
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当時は島)に上陸してから一変した︒広く世間に伝えられた興味深い物語﹁後の教皇グレゴリウスが︑ローマの市場で見た奴隷少年がアングル
人(﹀話回目)であると聞いた時︑それと発音の類似する一六使
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宮回目)を連想して同族に好意を持ち布教を思し立った
定)﹂という事の真偽は別としても︑我々の注
意す べきはアウグスティヌス及びこれに従う一行は以前の様なガリアか
ら渡来した伝道者たもと異り︑すべてロ!?教会から直接の命令をうけて派遣された人々であり︑且いづれもベ︑ネディ
クトの戒律の下に修行した修道士であったということでゐる︒グレゴリウスは先に五七四
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五七八年間修道士となり︑ロ1
7のカェリス山に聖アンドレ修道院を建てベネディクトの戒
律に遵って修行
していたが︑教
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己れの弟子で同院の修道士であったアウグスティヌス等を異教徒のブリグニアに送り︑困難たるこの改宗事業を敢行せ
しめたのであって︑ブリグニアはこ﹀に初めてベネディクト修道士を仲介としてロ1マと直接交渉に入ることLなった
わけである︒けれどもアウグス‑アイヌスはカンタベリーに移住後は以前のような一修道生活に投一顧することなく︑司教と
七て布教に乗り出し︑同志冨己目言明を何回浮
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内︒ロ∞の司教たらしめ(在ロンドン)︑叉し苫吉田をケント司教(在ロ
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1)たらしめたoこの二人はグレゴ
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ウスが第二団派遣隊としてイギリスに送ったへ9)
人で︑同じくアンドレ修道
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院で暮心た修道士︑と推定される︒もとよりこの地に純然たる修道院が設けられなかったのではなく︑カングベ
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の東
壁外に﹁聖ぺ一アロ及び聖ポ1ロの修道院﹂が設立されてはいるが︑その修道院長阿川
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∞はアウグスティヌスの死後第二代のカンタベリーの大司教となりハ六O四U︑ラウレンティウスの死後上記メリト咋スが第三代の大司教となって
いる
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以上の経過を見ればイギリスじおける新しい宗教活動は︑ロ
1
した人々を以って主力としてレるが︑彼等は大陸に見られるような隔離的隠遁的な生活を行っていない︒修道院は大陸 においてベネディクトの戒律による修道生活を体験7
の場合のように俗化した教会に対立するものではなく︑教会活動の原動力である︒勿論彼等自身は修道的戒律に拘束さ
れる︒グレゴリウスがアウグスティヌスに与えた書簡にも
されど貴下(兄弟なる)は修道院の戒律によって教育されたれば︑イギリス人の教会において貴下の聖職者たちよ
り特に離れて居る(暮す)ことは許されず︒│
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にして︑もし禁欲し得ざるものあらば妻帯すベし︒││∞J ε 2 3
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∞ ・と云い︑叉アウグスティヌスが姫娠中の婦人に対して洗礼を行ってよいかという質問に答えて
授胎は全能なる神の前には何等責むべきものに非ざるに︑焼振せる女とは一式へ何故に洗礼さるべきに非ずとするや︒
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即あ︑この民族聞にある偶像の神殿は決して破壊さるべきに非ず︒されどその神殿にある偶像そのものは破壊さる
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何となれば︑最高の地位に登らんとつとむ る考は︑一足跳びすることなく︑徐々に叉は
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と至って着実な而も温和な方法で伝道を奨励したのであった︒これを要するに︑このケントに布教されたキリスト教は 修道士たちによって開始されたけれども︑それは決して大陸のような禁欲的修道思惣の鼓吹ではなく︑ローマ教皇の方
針に従一レつ﹀社会生活を営む庶民を徐々に改宗して行くことゆ‑最大の目的としたものであった︒アウグス一アイヌスの渡来後三十年を経ずしてキリスト教はノ1サンブリアに進出しているハこれは同国主同広君
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がケント主エセルパIトの娘でキリスト信者たるhF2H
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である︒このパウリヌスはさきのメリトゥスやユストゥスと共に第二次派遣隊の一人としてロ1マの聖アンドレ修道院
から来た人物であるが︑伎がノI
サンブリプに来って伝道につとめた結果︑王エドウィンは長ま遼巡の後︑六二七年の
復活祭にヨ1
クで使から洗礼をうけて信仰に入った︒更にこのバウリヌスの野力によってロ包認可地方から多数の新 しい信者が現れ︑こ﹀に北方キリスト教発展の種子が植えられたのである︒尤もこのエドウインは六
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ロを迎えて口門会え
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の荘位時代に追放されてガリアに来り︑こ﹀
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物であるから︑フエリックスは当然ロIマ的制度を身につけていたと考えられる︒然るに一方ファ1シーはアイルラン
ド出身の修道士で王より土地を与えられてのロ︒げ
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の司教たらしめた︒次いでの
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の子︒︒山口話回目︒げが即位した後︑フランス人で長くアイルランドに暮し聖
書 一 を研究していた
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が渡来したが︑
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まれ︑筑に代ってフランスで殺任されたサクソン入者宮山が来り当日ロ各
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円の司教となった︒然るにこのウィニは職を追われてマ1シアに逃避し︑以後同国は長期間に亙り(六六三
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無司教となったが︑ア
ギ ル パ I ト の 甥
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の大司教凶げき号
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に殺任されてウインチェスグIに来り布教に尽力した︒従ってこの国のキリスト教はロ1マ的なものに落いてはいるが︑かなり不安定のように
見え
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最後に開思片的百円︒口明即ちエセックスに移れば︑前記のようにメリトゥスがロンドン司教となり聖ポ1ロ教会に住ん
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その後同世紀の半︑王日
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Iサンブリア玉︒明者匂の勧めに従い︑出ロ島の出身でリ
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ンの司教であった古口
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ダが息司白色白を宮町一色︒﹀同記︼
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チヱに任命している︒このペグがノ1サンプリア主オスウィの娘巴回目立ω
令妻らんためにフィナン司教から洗礼をうけ四名の司卸売を伴って帰国したその四名中の一人である︒但し伎には間定の司教座は
なく︑常に旅行し定住しなかったようである︒とにかく右の事実によってエセックスのキリスト教にはケルト的な色彩
が濃厚であることが感ぜられる︒
ニ
以上述べ来ったことを総括すれば︑七世紀中葉のイギリスにおける主要誇国のキリスト教は︑ケントはロ
1 7教皇の 直系として完全なるロIマ的(司教座はカングベリI︑ロチェスグ
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ノ1サンプリアはヨ1
クの司教座を中心とする F
1マ的に対しでリンディスファIン司教座のケルト的なものがあり︑同
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ではロIマ的なグンウィッチの司
教座に対して
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のケルト的修道院があり︑ウェセックスは不安定な経路を辿りつ﹀もロIマ
的なもの
に落着いたが︑ヱセヅクスは初めロ
1
7的なロンドンの司教座があったが後ケルト的なキリスト教と変っている︒元も
こ﹀で云うキリスト信者とは王を含む国民の一小部分に過ぎず︑来だ異教的偶像崇拝者が多数存在していた元)と思わ れる︒叉王室にあっても前記二三の実例に見らる︑如︿信仰の動機が精神的なものでなく︑外国の王女と結婚するため の方便に過ぎなかった場合もあったと考えると︑彼等の信仰は決して深いものではなかったであろう︒倫一方完全にキ
リ只ト教を信ぜず異教徒の固として止っていたものもあった︒
7 1シア及び
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即ちサセックスの両国がこO
れで︑前者はキリスト教を信ずるノI
サンプリアに屡々侵琵した猛族であり︑後者は六八
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げ也自に居たアイルランドの修道士に対して国民は相等の興味も感じなかったよ
うである︒昆)
ところで我々が今注意したいのは右の改宗諸国に流れ込んでいるロ
1マ的︑ケルト的というこつめキリスト教の系統である︒この両者は特に根←
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的に対立し叉は反目していたというわけではなく︑新参のロIマ的布教者は先輩一のアJル ランド修道士に一応の敬意を払い︑新地の伝道事業には相提携して当っていたのであって目立問の如きもその著︑﹁教
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会史﹂の中の随所にアイルランド修道士に並々ならぬ尊敬の意を一示している︒けれどもその半面︑両者には深刻な相異点
があり︑モれが相互の精神的融和を阻害する原因と
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り︑延いfhは今後のJギリスにおけるキリスト教の発展に重大な
支障を来す憂いがあった︒これを総体的に見れば︑
ケルト的キリスト教も元来は大陸から伝来したものであるが︑当時
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マ教
喜 一 の権力は未だ微弱であって
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等の重要でなく︑アイルラン
ド︑スコットランドの信者 たちは自由にエジプトに巡礼して東方的修道生活に魅カを持ち︑直接これを模倣しようとする傾向が強かった︒更に
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山 岳 即 ち
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には山岳海浜などで鍛錬した頑強な身体を持つもの出多く
︑ そ の 禁欲は極め
て熱心厳重であって︑
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片付
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江田
神宮
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は 何 時 し か
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と同義に解せられるようになった︒然るにその後異教徒アン
グル人︑
サタソン人
︑ユIF人などのブリグニア侵
入があり︑大陸との交
通が杜絶するに至って彼等は彼等な
りに自己の生活に適応した特殊なキリスト教を発達させたので占めった内(げ)
ところがその後︑大陸にあっては西方教会は徐々に教皇の下に統制されて行き︑修道院違動においてもべ︑ネディクト
の戒律の如・き温和な而も綿密な内容を持つものが普及し︑一その他聖職者の守るベ台典礼の問頴︑間札制︑殺任浩一︑特に復活
祭の日取りなども古制を墨守するケルト流とは次第に相違するようになった︒そうしてそれらの中︑復活祭の日取り決 定が最大の問題として採り上げられたのである︒周知の如く︑復活祭は現今でもキリヌト教諸祝日中毎年月日を変更す
る唯一のものであり︑A
﹁これに関する複雑な数学的理由を解明するには特に尊門の智識を必要と寸るが
︑之を要するに
ケルト流と離も元はロIマ式復活祭を採用したものであって︑少くとも︑五世期中頃までは何等の衝突は見られなかった︒
然るに四五七年暦法の改正に伴い︑大陸では以前の日取りを変更したものが実施され初めたコところがアイルランドで はか﹀る新制度を知らず︑父祖伝来の日取りを襲用する︒従って現実的には両者夫々異った祝日を持ち︑外部から見れ
ば一年に二
回復活祭が行われたかの如き奇現象を呈するに至った︒これが最も目立ったのはノ
1サ
ンブリアで︑王オス
ウィはスコットランドで教育された為に旧式︑その子﹀ロユ己(﹀
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片岡山神田︼﹀はウィルフリドの薫陶をうけて新式としう有様であったっケルト側としては長年守りつ
Yけた伝統を棄て決るに忍びぬという理由があり︑反対側としてはアイル
ランド人はキリスト教の統
一を妨げ︑教皇の権威を無視するとする︒こうして両者の対立が表面化した時︑オスウィの
召集命令によってホィットピ1の会議が開催されること﹀なった︒
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六六四)(
さ ﹄ MX 宥は旧名盟諸問ロ
σ岳 包
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・この地には当時学識人格において令名あった修道女出子世の主宰する修道院があ
り︑会場はこ﹀に定められた︒この際ケルト派の主なるものは︑リンJアイスファ1ン司教の巳包函P
エセ
γグス司教セッ
ド︑
ノ
1サンブリア王オスウf
一I修道院長ヒルダなど︑之に対するロ17派はウホィットビセックス司教お﹂アギ︑ 当 ェ
ルパート︑オスウィの子アルフリド及び新に登場したウJ凡フリドであったが︑闘論に当り︑コヰマンがコルンパヌス
以来の諸先輩が遵奉した制度の正当性を主張したのに対し︑ウィルフリドは終始攻勢に出で︑聖ベテロの権威がコルン
バヌスのそれに優る理由を熱弁を以って説き︑そのベテロの葬らる﹀ロIマにおいて︑更にイタリア︑ガリアは勿論︑こ
の極西の頑迷なるピクト入︑ブリトン人の住する地を除く外︑全キリスト教会において実施せられおる新制の正しき所
以を力説し︑最後にオスウィ王の決定を経てロ
1
然らばこのウィルフリド(ヨニ 派の勝利に帰した︒(却)7
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示︒)は如何なる入物であろうか︒伎はノIサンブリアの産︑少年時代オスウィの宮廷にあって王后開
E 2 E m
の寵をうけたが間もなくリンディスファ1
ン修道院に移って修行した︒然し同院に
おけるケルト的な諸慣習に対して伎は共鳴し得ず︑コ一年後こ﹀を去ってカングベリ1に至り︑次いで図︒忠告♀回目
と同道してロ
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1 7に
旅し
︑
教皇の助祭
(目
︒げ
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ギルパートの推薦によって上記の如くホィットピイの会議に活躍した次第である︒六七一年ウィルフリドはアルフリド 明であったと思われ︑ア箸時当識才能は学得したが︑その習及びベ︑ネディクトの戒律をマ的諸制度Iその間彼はロた︒ の弟子となり︑
5
ロ)なる問︒旦官立リヨンに滞在後帰国しでい次g
の命をうけて
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︒ロに修道院を建設し︑の
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の修道院長寸ロロヴ
2
げ仲及び博学在以って知られたの
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巴片 岡正を招轄したが︑このケルフリド(後の当
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目︒
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一宮司の修道院長﹀は同院の司祭として努むると共に︑ケントに旅行して修道生活の実際を修得Lウィルフリド補佐の任を全うしている
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ケン
トは上記の如く
? 1
7
的制度の中心地︑而も同地の修道院はアウグスティヌス直系のものが絶対多数であったと思われるが︑ウィルフリドのリボンの修道院に
おいても間もなくベ︑不ディクトの戒律が採用されること﹀なった︒
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かくの如
く︑
のめ
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のめ
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山口
三宅
の牙技であ
るノ
Iサンブリアが遂にロ1マ的キリスト教の制度を採用する結果と
なったわけであるが︑この為コルマン司教は辞任して郷
里ス
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ドに帰
り︑
凶ピ
阿佐
がこれに代った︒チュIグは勿論E式の復括祭︑脳天の
剃髪 を行
った
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之を要するに︑か﹀る大
転向を可能ならしめ
たの
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不デ
ィ
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修道士ウ
九
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ィルフリドその人であったことに注意されねばならぬと思う︒
尤も我々は︑これを機会としてケルト的修道士がブリグエアから一掃されたとか︑ケルト的な禁欲主義が跡を絶った
とかと簡単
に想像することは出来ぬであろう︒けれども今後︑少くともイングランドにおいては︑キリスト教は二派が
同等の勢力を以って並立することは許きれず︑次第にロ1マ的制度を採り入れ︑又修道生活にはベ︑不ディクトの戒律を
基準とする方向へ進みつL
あったと考えられる︒例へば
当一
時
の宗教界の著名人
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げ2 H (
︒ ・23
の生涯などを見てもこれが明かに現れている︒カスパートが初めて宗教心を
懐いたのは六五一年にリンディスファIンの司教
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の
幻影を見た時であるが︑暫時兵士として活動後︑同州
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を 院 長 と す る 冨
巳
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2 0
の修道院に入った︒ところがリボンの
修道院が創引摂されることになり︑エアグを含む数名の修道士がこL
に移住した時カスパートもこれに加わる一人であ(
たが彼等はメルロ1ズ時代の戒律を
用い諸制度すべて旧式を襲用したのでアルフリド王
は之を
喜ばず
︑佐 一等 を元 のメ ル
ロ1ズに返し︑代って前記ウィルフリドが来院して
建設を完成
し初代の院長となった
次第である
︒この経歴によってカ
スパートはケルト的制度の中に育まれた人物であることが明かである︒然るにホィットピバの会議後ケルト式が一般の 支持を失うようになるとエアグ︑カスパートは直ちに新制を採用し︑更にカスパートはエアグの命をうけてリンデ︐ス
ファIンにおいて根気よく新
制
更を
教育
したのであった︒︿ぜ
か﹀る旧制から新制へという時代の動き営利用
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てイギリスのキリスト教に巧ム六統一政策を実施したのが大司教
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の記載するところを要約すれば︑(戸開
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﹁第六代のカングベリ司教りぬ己丘
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︑ケ ント 王同 町制 ヴ⑦
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Iサンブリア王オスウィの二人が宅百
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なる司祭をロ
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に派して后7
1任を求め一 た︒教皇︿立巳日間口はカンパエアのナポリに程遠からぬ
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町広 宮口 目︒ ロ
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にいる出色ユ∞ロを推す︒ハドリアンは自らその任に非ざるを告げ近くの女子修道院長﹀
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﹃を推薦
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する︒然るにアンドリュ1は病弱で不可能となったためハドリアンは改めてロ1マの修道士テオドlルを推挙した︒テ
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1ルは﹃キリキアのグルススの産︑ギリシア語及びラテン語にて世俗的学問並び陀神学の教育をうけた品性高潔品川
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ロ卑号︑同町民
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戸田:・﹄で当年六十六才であった︒教阜一一はハドリアンがテオドールと同道して慢英することを条件として之を認め
た︒それはハドリアンが旅行に経験があること︑又テオドールが今後主宰すべき教会において﹃ギリシア人の習慣により
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言︒ 同幻
2 0
とある
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月﹄真の信仰に一反‑せぬよう助言せしめるためである﹂illoov
﹂ ﹀
に云うギリシア人の習慣
とは 東方 修道 院( 或は }吉 田町
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の慣習を賢一味するものであろうか︑執れにぜよ殺がベ︑不ディクト修道院の出身でなかったことは確かのように思われる︒然し叉その故にケルト的制度に対
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偏見を懐くことなく冷静着実に宗教問題を処理し得たと考えられる︒テオドールには非凡な政治的才能があり︑且︑教皇の命をうけて赴任した自己の軍資を感じていたので︑就任後︑従来とかぐ分立の傾向あるJギリスの司教管区を整理しつL徐々にこれをカンタベリー大司教の下に服属せしめ︑か﹀る統制化のうちに
P I マ的諸制度の励行普及をはかった︒即ち六七三年同
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己に宗教会議を開き︑開P2
﹀β己目白司教
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サンブリア司教(ウィルフリド)の代理︑ケントの司教司王
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ウェセックス司教何日
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ち召集して不一規復活祭の遵車︑司教相互の不干渉︑司教の修道院干捗厳
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毎年八
月 一 日 に
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(ぎにて宗教会議を開くことなどせ決定した︒次いで六八
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年テオド1ルは出丘
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に宗教会議を聞いて諸司教と会
合し
今(
この
事実は∞
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出・同‑‑‑アコに記されてあるが司教名はない)︑過走大陸において聞かれた諸宗教会議の決
議を確認して今後もの民げ色一江田自を堅持することを誓った︒当時東方教会にあっては何回同片山吉宮凶田の一件一論が拾頭
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︑とかく多事であったに拘らず︑当イギリス教会ではか﹀る扮乱に患わされることなく統一の突が挙ったのは如上のテオドIルの手腕の結果であったことは云うまでもない︒
こうして七世紀におけるイギリスのキリスト教はの巴片山のめゲユ
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ミの持つ地盤に大なる変動を与えることなく︑
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而も巧にその慣習をロIマ的なものに置換せしめつ﹀全教会を統一している︒テオド1ルの時代にはマIシアも∞
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∞ 出
M向︒ロ由即ちサセックスも共に信仰に入ったから今や遂に全イングランドの教会が尚一歩調を取るようになり︑云わば
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が成立すること乙なった次第である︒イギリスの政治的統一は八
二八年ウェセックスによっ
て成就されるが宗教的統一は既に一世紀半前の七世紀後半期に完成しているのであって︑かLる大事業を敢行し得た所
以はテオドI
ルの
優れた政治力によるとは云え︑過去約七︑八十年間アウグスティヌスの渡来以後︑大陸の(ロ
1 7の)
制度を体して活躍したベネディクト修道士の功績を見逃すことは出来ないと思うのである︒
けれども以上の経過から推して直ちに当時イギリスにおけるべネデfクト修道会(所謂O・
s ‑ B )
の活動が積極的
であったと考えることは出来ない︒ベネディクトの戒律そのものとイギリス教会の統一とは何等の関連を持っていない
し︑叉この戒律に従って生活する者と難もO・
s ‑ B
の一員としての明確な自覚があったわけではない︒も︑とよりロー
マ的︑大陸的な諸制度が年を追うて輸入されるにつれてこの島における修道院生活にも大陸において既に広布しつ﹀あ
るベネデJクトの戒律が最も適切なものと見倣されるに至ったであろう︒かのアウグスティヌス渡来以後間もなくカン グベリ1に設
立 さ れ た
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聖
ペテ
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及び聖ポI
ロの修道院﹂はベネディクト修道院であり︑その院長ハドリアンの弟子
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ぴ己弓修道院(六七五年院長となる)にこの生活法を伝え︑叉ベネデプがウィクト・ピスコγJIマス及びジャロIに建てた修道院に
もベネディクト戒律が行われ︑更に上記の如くウィルフリドの如きも同戒律の普
及をつとめるといっ
たよ
うに
︑ 当時の宗教界の大立物は︑殆んどすべてベ︑不ディクトの戒律と何らかの関係を持ってト る
︒ 唯 当 時
八(
世紀)の代表的教会史家(思丘凶の如き)は修道院創立者の人格︑神秘的行為︑遺骸の持つ奇蹟など
に眼を奪われて修道生活の実
状 ︑
様
式︑規律などには全く興味なく︑同戒律を採用した過程の如きは記載していない
から︑この問題に
つい
て 詳細を知り得ぬのは遺憾であるが.これら主要人物がベネデバクトの戒律を知っていた以上︑
彼紘一寸の修道院には当然これが実施されたであろうし︑叉事実においてこの時代に新院を設ける際︑極端にまで禁欲的な
ケ 凡 ト 的 (例 えばコルンパの)
戒律よりも温和にして行き届いた内容を持つベネディクトの戒律の方が︑少くもJ
ング
ランドにおいては好ましかったろうと思われる︒と
は 一 玄
えこれ
ら
ベ︑
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ィク
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道院と称せられるものは︑かの中世中
期に強固な団結カを持ち︑一般社会に対しては勿論のこと︑教会に対しても特殊な権威を以って臨んだ所謂O・
s ‑ B
の修道院とはかなり趣を異にしている︒当一時
の彼
紘
一寸はベ︑不ディクトの戒律を採用しながらも︑これを絶対的なものとし
これに背かざるよう常に己れを律していた程ではなかったと思われる︒例へばかのウィ
1 7 ス︑ジャロ1の修道院は史上ベネディクト修道院として著名であり︑叉その院長ベネディクト・ピスコyプはベネディクト戒律の奨励者として知られているが︑事実においては彼は過去十七の修道院を歴訪の結果︑その経験に基き自ら一編纂した戒律を弟
子に
履行せしめ︑唯重大事例えば院長選出な
どに
際して
はベ
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ディ
ク
トの
戒律
を用
いたに止ったようである(おも従って当
時の
ベネデfクト修道院と称
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れるものも︑その精神と日常の訓練とにおいて后世のそれとはかなりの距りがあったと考え
以上の事実に併行して七世紀のイギリスには学問研究の著しい進展が認められるが︑
密接な関係を持っている3
これ
にも
ベ︑
不一
アィ
クト
修道
院は
てもよいであろう︒然しこのことは却って叉当時のイギリス宗教界における教会と修道院との特殊な関係を一干している︒教会と修道院とは常に交渉があり︑修道士が聖職者に転出して行く例は大陸において屡可児うけられる現象である
が︑
ーも両者は各々明瞭に異った分野に
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一あり︑異った任務を持っている︒この相異はその回発点における夫々の意欲の相異に原因するのであるが︑イギリスにあっては両者の境界線はさほど鮮明ではない︒これは当初においてアウグステ
ィヌスその人が嘗つては世俗的なロ
1
7人から隔離された修道生活をしていたに拘ら︑ず︑渡英後は布教を第一の目標に
か﹀げ︑戒律による禁欲的な生活を強制するよりも︑むしろつとめて多くの信者を獲得することに力を注いだためと思
われる︒そうしてアウグス一アィヌスの配下にあって専ら聖職を奉じ司教に任ぜられた者と雄も︑単に修道的な共同生活
にのみ投頭することなく︑自らは一般信者とは異った修道的な自制を行いつ﹀も(ぎ︑信徒との密接な連絡を忘れなか
ったのであって︑これは夫だ
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巳3
∞2 5
が大陸の如く発達しなしために管区内司祭が行うべき宗教事務でさへ
も司教が行わねばならなかったこと(さにも原因すると思われるが︑要するにイギリスでは修道院が教会と対立の形を
とることが殆んどなかったようであるo尤もこの時代︑修道院はイギリス各地に続々と建設され︑特に女子の主宰する男
女共同修道院︑所語︒︒己ず
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浮号︑が多数あったことは大陸と比較し得る顕著な特色だあるが︑但し当時イギリスにおいて
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と称せられるものは必しもB S
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何回口切を以って構成する特殊な集団を意味するのではなく︑これが次第に司自由岳のげ己宮町として民衆と関係を持つ方向に進んで行く場合もあった︒かの
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号 と 同 意 義 で あ っ た の に
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巳の意味を持つようになったこの地の歴史を見れば両者の関係は自ら推察されると思う︒かくの如くイギリスの修道院が反社会的隔離的な性格を持たず︑教会と不可分の関
係にふめったことは︑当時のベネディクト修道士をしそケルト的教会とカトリック的教会との統一という極めて困難なる
事業をさほどの波潤を起・すことなく遊行し得た重要な原因ではなかったかと思われるι
四
当時の
PA
ギリスの学問には二つの系統があった︒一はアイルランドの学者たちの研究がイギリスに紹介されアングロ
・サクソン人に吸収されて行く径路で︑他はアウグスティヌス以後大陸の文化が続々と輸入されて行く径路である︒然
しこの両者聞に特に対立や論争があったわけではなく︑前者が次第に後
者に席
を譲り遂には統一したイギリスの文芸と
して新しい展開を示すので為って︑この大陸系文化が積極的活動を開始するのは七世紀の中棄と考えられる'︒それはこ
の頃までアングロ・サクソン諸王国は政治的な対立抗争をくりかえしていたが︑その中最も勇猛であったのは異教徒マ
Iシア王ベンダで︑当∞浮∞
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広告
︒﹀
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官従え︑特に熱心なキリスト信仰を持つノ1サンアリアに屡々侵入
し℃脅威を与え︑聖者と称せられるノ1サンブリア王オスワルドは六四一一年にベングの侵露をうけ冨
822
巳己で戦死している︒ところがこのベンダが六五四年(又は六五五)ノ1サンプリア王オスウィ(方スマルドの弟)と戦って陣段
した後︑上記の如く信仰に入っていたその子ベグはり
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を第一代の司教に任命し(司教座は以後三代を経てのげ包
の時ピの毘芯
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に確定)︑更に呂E g E w B 2
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笹 山 ﹃
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げに修道院を起し︑
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門戸 回目 をそ の院 長に 任じ た︒
マIシアのこの改宗は全イギリスを一応平和に向わしむる効果を持ち︑こ﹀に学芸発達の途が聞かれること﹀なったわ
けである︒アウグスティヌスの渡来以後︑カンタベリーにどの程度の学問研究が行われたかは全く知り符ないが︑その学風が︑
開器片﹀ロ吃百に伝ったことについては回︒内宮の記述によって知ることが出来る︒同国では六三一年ごろ
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王位についたが︑王はさきに即位前フランスにいた時既にその地で洗礼をうけた熱心な信者であったので︑アイルラン
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のために上記の如くの口︒ず
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に修道院を建て︑叉晩年退位後︑自ら∞旦立のげ担当日吾(后の
回 口 同 一
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・何色自己ロふる修道院に入って剃髪し修道士としての修行を怠らなかった︒同玉は出立"によれば︑﹁伎は少年たちが学聞を教はるために学校を設立し︑ケントから招謄せる明巳広司教より援助をうけ︑叉彼(フエリックス
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ント人の慣習による教育者たち学者たちを彼等に与へたり
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く司教座のあったロ百三のげに
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置されたと思われるが︑要するにこの頃から大陸風の学聞がケントを
源として次第
に広範囲に広まあんとしつ﹀あった
ことが想像されるのである︒
その後前記の如くマIシアの改宗があり︑次いでテオドールがカングベリ
1の大司教となり(六六八)︑ハドリアンが
之を輔佐した頃︑大司教の威令は全イギリスに及び︑同時にカングくリIの学芸は未だ曾つてなき隆盛期を現出するの
である︒∞
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は云う︑﹁而して‑ 二
人(テオドールとぐドリアン)は神学にも世俗の諸学にも共に深き教養を身につけ て居たれば︑群なす弟子たちを集め︑有益なる知識の川は彼等の心を潤すために日々流れ出たり︒更に叉彼等は聖なる
文書と共に︑作詩法︑天文学︑教会数学などの教育を彼等の聴講者(弟子たち)に伝へたり︒彼等一の弟子のうちに︑ラ
テ ︑
J語とギリシア語とを母国語と同様に知るもの今日に至るまで生存し居るはその証左なり︒(︼凶仲β
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山 口己 目的 凶門 官門 戸詳 山口ω
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昨 日E w
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・﹂ との このような盛祝は恐らくカンタベリー以外の地においても見うけられたと想像される︒例えば﹀
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は初めアイルランドの修道士宮包
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己同の設立した修道院(即ち宮巴E g σ
ロ弓の)の学校で教育をうけたが︑次いで
カングベリIに来りハドリアン(妻︒ヘテロ及び翠ポlロの修道院長﹀の下で研学した後︑再び己れの出身地マ1ムズベリー
に帰り︑ョ.︒
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及び 切一 円白 色︒
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ロに支院を起すと共に︑このマ1ムズベリl修道院の学校経営に最善の努力を
払っている︒(六七0年代の初開院長となる﹀伎は当代最高の学識として知られていたから︑この学校にも多数の青少年が
集り来りその薫陶を受けたことと考えられる︒一方北英においては切︒ロ邑目立回目
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仏 ・
33
の活躍が認められる︒伎は一冗ノIサンブリア王室の臣であるが︑ロ
1 7回目の遊学に第二
後南 仏門 町立 ロ日
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で修行しこ﹀で剃髪をう
け℃亙
規の修道
士となった(六六五どろ
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スの修道院は六
六一年頃旨∞己片がベネデ
Jクトの戒律を採用し
ているから五
)披は当然
ベ︑
不 ディクト修道士となったわけであるが︑そ可後︑かのカンタ
ベリ
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大司教に補せられたテ
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1ル及びハドリアンに従って帰英L︑直ちにカンタベリーの聖
ベテ ロ
及び聖ボーロ修道院長となり二年間過し(そ
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又も やロ
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旅し南仏
︿芯ワロ∞にも立
寄り多数の宗教舎
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購入し或は寄贈
されて帰った︒六七四年郷里ノIサンプリアに戻り王同ぬ伊豆(開のぬ
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に土地を得て︑未だ
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スにはなかった石工︑硝子工をガリアから押き壮大な聖ベ・アロ修道院を
建立
し︑次いでロ17に不
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︑使徒殉教者 の遺品︑聖母使徒の聖像などを多数持参した上︑教
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﹀ぬ 忠目
︒か
ら同院︑が外部より永久に
侵 題
されざる特権を受け︑且
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なるんす甘ロを伴い帰国した(号︒六八四年翁)(又は六
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﹀彼 は王 向山 川崎
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広か ら 更 に 新 地 を 賜 り
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司の修道院を起したが︑同院は先のウィ1マスの修道院を離る﹀こと僅か二皇︑両院合して一修道院と見倒され院長も両院を監督する規定でおった︒彼は生涯五回に一日一りロ1マに巡礼したが︑その間常にロ
1
7文化︑ガリアの学芸の輸入に努め︑又ウィ
1マス︑ジャ
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両院のために図書館を設け︑他方ベ
ネディクトの戒律の遵奉を説いている︒(但し必しも同戒律のみに準った生活ではなかったととは前記の通り︒)六九
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年彼が 中 風 で 死 し
民三円山知両院を主宰した頃︑修道士の総数は六百名に達し︑図書館は増築されて二倍の大きさとなり︑
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会史
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し得主のはとの図書館の蔵書のためであったととは一式うまでもないが︑ざlト
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漆殆んど旅行せずとの修道
院で
日を過しているから︑彼の著作に窺われるその参考書を推定し︑とれを通じて当図書館の蔵蓄を察するととが出来る答である︒との方法で調査した
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Dの集︑宗教会議法令集など外書に︑自然科学方面ではプ簡皇ウ一ス教皇の著書︑ヒエロ一ム教エの著作︑中一同教父伝︑η J
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1凡の著作︑その他文学方面ではずィルギDウスは勿論︑ホラティウス︑ォグィデJウスの詩集なども保管主れていVた
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・﹀る修道院における図書蒐集の傾向は︑当然写本術の広範囲に一旦る発達を誘致せしめ︑それが遂にかの叢麗にして 精巧を極めた
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紀末作﹀を産んだわ
けであるが︑之を要するに当代におけるイギリスの学術
は︑ローマを中心とする大
陸的文化がベネディク
ト修道士の
努カによって大量に輸入せられ︑既存のアイルランド系学 芸の基礎の上に展開したものと見ることが出来るのである︒
結
以上述べて来た如く︑六世紀末にイギリスに輸入されたロ
1
F世紀に至って既存のケルト的キ七的キリスト教は︑7
スト教を己れの勢力回叶に抱合しつ﹀異常な進展を一示し︑政治的にま未だ分裂割拠の揮官二吋の時代でありながら︑
宗教的には金イキリコカカンタベリーの大司教を中心として統一を完成したことが認めト
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そうしてこの目覚しい成功は主としてロ1マから渡来したベネディクト修道士によって行われ︑叉同時に彼等を通じてこ﹀に学芸の隆盛を
尾︑而もそれは孤立したケルト風の学問ではなく︑広範囲にわたるカソリック的文化活動の一翼としての事業となった
とが知られるのである︒この新しレ動きは八世紀に入って更に向上発展しつ﹀九世己へと進むべき筈でありながら︑不幸八世紀末から始り九世紀後半期(特K
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O問 ) に お い て 絶 頂 に 達 し た 行 え の 侵 入 の } 修道院は全く壊滋し雲一一世紀に亘って粒々辛苦した彼等
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いパリロの修道院運動は八世紀末に切断され︑ベネディクト修道院の再興はイ世紀後半期
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の時代まで待たね
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いのであるが︑さらばと云ってこの七世紀における彼等の努力は︑決して無意味に終ったわけではなかったの
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スト教安において︑八世紀前半期にイギリスから大陸に進出した一群の偉大な伝道者の名を発見す る
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Iサンプリア人でウィルフリドの弟子としてリボンの修道院で学び︑ベ︑ヰディクトの戒律によって修行した人物︑フランクのピピン(チャlノ
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を受けユトレヒトの司教しし十日︒テ
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アに布教をなし︑次いでフランクの宮宰チャIルス・マルテルの支援を得て に至りグレゴリウス二世に謁し(七一八)︑後︑上記ウィリプロルトの下でフリジ7
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の助力を受けての︒ロ立︼
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七四一一)を開催してベネディクトの戒律の普及実施を期した︒彼は七五四年フリジアのり︒
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で殉教死しているが︑ドイツ伝道の功績は箸しく︑特に弟子宮口円日目的の創建した自己含の修道院は中世文化史上重要一 七