Title
浪費の計画
Author(s)
狩俣, 真彦
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 6(1): 1-29
Issue Date
1965-10-15
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10962
Rights
沖縄大学
神 大 論 叢
十
浪 費 の 計 画
ロストウ教授に於ては高度大衆消費時代は経済発展の最高の段階である︒しかもこの最高段階に到達した経済
がア
メリカの経済である︒前節でみた通り︑アメリカ国民は︑自家用車や郊外住宅を頂点とする耐久消費財のもたらす思
恵に充分に浴し︑生活態度も明るい︒西洋的価値観の基礎が高度大衆消費時代の到来でますます固くなっていく︒
だがしかし︑高度大衆消費時代にも︑改善され
るべ
き多くの欠かんを見出すことがないだろうか︒高度大衆消費時
代がもたらした功罪を検討すると云うことは特にアメリカ以外の国々にとっては関心事である
に相
違な
い︒
アメリカに於ては︑生産をこれ以上ふやすことは︑最早やほとんど意味のないことだガルプレイス教授によれば︑
とする疑問が提出されている︒何故そうなのか︒﹁アメリカでは︑食料不足のために死ぬ人よりも︑過食のために死
ぬ人の方が多い︒昔は人口の糟加が食料の不足をもたらすと考えられたのに︑今では食料の供給が冷酷に人口を圧迫
している︒自動車を装飾のために何フィートか畏くするための鋼鉄が緊急に必要であると真面目にいう人はいない︒
多くの婦人や一部の男にとって︑衣服は身体の露出を防ぐためのものではなくなって︑羽毛と同じように全くエロテ
ックなものになった︒﹂
( 注 l)
しかしながら生産力が高度化したとか︑過剰生産になったと云うことはそれだけでただちに望ましき社会の出現に
つながるものではない︒﹁全般的な生産水準が低い場合よりも高い場合の方が福祉はより大きいという仮定はもはや
妥当しない︒どちらの場合でも同じなのかもしれない︒高水準の生産は︑欲望造出の水準が高く︑欲望充足の程度が
高いというだけのことである︒﹂
( 注 2)
むしろ住宅問題や︑教育問題や︑その他の生活の快適の度合は︑北欧ゃ︑オランダ︑イギリスの方が︑生産能力の
より高いアメリカに於けるよりも可成り高いことが観察されるのである︒
( 注 3)
その理由はこうだ︒これまで消費は消費者みづからの欲望にもと︐ついて︑みづからの判断によって決定されると説
関さ
れた
︒
いわゆる消費者主権の行使とでもいうのだろう︒これは比較的レベルの低い経済については妥当性をもと
う︒だが現代アメリカの経済に於ける消費行動の説明としては一面的でしかあり得ない︒そして他の恐らく一層重要
な一面がガルプレイスによって﹁依存効果﹂となづけられるのである︒
依害効果は消費行動が︑消費者みづからの欲望に依害するよりも︑むしろ企業やマ1ケターによってうえつけられ
操作された欲望にもとづくきらいの大きいことぞ指適しているのである︒生産者が生産のみならず︑消費も支配し操
作することになったとすれば︑消費者は生産の側からかきたてられた欲望にかりたてられて︑やむことなき消
費へ
と
追いこまれることになる︒これが望ましい消費者の状況であるとは何人も恐らく首肯しないであろう︒
ガルプレイスに限らずこうした考えはパッカードに於ても同様にみることが出来る︒﹁今日アメリカの平均的市民
は第二次大戦直前に較べると二倍の消費をしている︒彼の持ち物の約五分のこは彼の肉体的な健康のためになくては
ならないというものではない︒それはどうでもい﹀も︑あるいはぜい沢品である︒そして︑身の回りの品物があまり
それを安楽に使いこなすことはできないように見える︒アメリカを訪れる外国人は︑アメリカには
物が多すぎて︑屈の陳列棚から溢れ出し︑ 多くなゥてきて︑
ハイウェイにまではみだしていると語っている︒﹂
( 注 4)
だがしかし過剰生産であることは︑ただちに生産を減ずることにはつながらない︒過剰なだけ︑それだけ︑消費を
ふやすことによって制度の繁栄を維持しなければならない︑と云うのがむしろ制度の論理のようだ︒﹁国民としてわ
れわれは︑きわめて富裕である︒わが国の生産物のうちで四
O%
のものを差し当っては購入するに及ばない程である︒
今后数年間︑この割合はいよいよ高まるに違いない︒だが消費者が生産物の相当量を買わないことにきめるならば︑
浪費の計画
沖 大 論 議
大不況は︑遠からずやってくる︒﹂
(注
5)
ニlパーものべる如く︑こhではモlゼの神話はもはや︑節約せよ︑節約せよではなく︑全
く逆
に︑
それこそ︑消
費せよ︑消費せよ︑消費せよ︑と声高かに読みかえられねばなるまい︒
( 注 6)
﹁生産をつづけるために消費を人口的に刺戟しなければならないような社会は屑やむだの上につくられた社会であ
る︒そしてそのような社会は砂上の楼閣である︒﹂これはパッカードが﹁浪費をつくり出す人々﹂の第一章のとぴら
にか
﹀げ
たき
思楽
であ
る︒
福音蓄にも記されている知く︑確かに︑砂の上に楼閣を築くものは︑おろかな者にすぎない︒何故なら︑砂上の楼
閣は
︑
やがて風雨に流されるに相違ないから︒
だがしかし︑現代のアメリカに於ては︑このおろかな試みが続けられねばならないのだ︒不況をさけ︑アメリカ的
繁栄を維持する為に人々の製品に対する食欲は︑もっともっと早められ増大されねばならない道理である︒
ここでは人聞は改造されて︑早晩スーパー浪費者になる以外はないのだ︒﹁もしわれわれアメリカ人がオlトメイ
ション化した工場︑販売促進︑それに広告の一斉射撃がおしつけるものを全部買って消費するとしたら︑われわれは
皆︑よぶんの収入だけではなく︑よぷんな耳と固と︑その他の感覚犠管を持たなければならない︒実際すべての要求
まったく新しい人種をつくり出す以外にないだろ
に応ずる唯一の確実な方法は︑スーパー消費者とでもいった︑
Pフ
︒﹂
( 注 7)
こうした論理はいったい伺処迄発展するだろうか︒浪費埜とでも名づけられるべき︑未来のア〆リカをパッカード
はコニュコピァ市と名づける︒パッカードの描写はおよそ次の通りだ︒
コニュコピァ市では住宅や建物は紙で作られ春秋の大掃除のたびにとりこわされてしまう︒自動車はすべてプラ文
チック製︒四千マイル走ると溶けて使えなくなるように慎重に寿命が設定さ
れて
いる
︒
コニュコピァ市における工場
設立の立地条件に最も合致する場所は断崖のふちと云うことになる︒表には︑消費市場をひかえ︑裏口は海に面して
いる︒製品は需要に応じて前のドアから売り出され
るが
過剰の製品は后のドアから何時でも投げ捨てられる仕くみに
なっ
てい
る︒
毎週一度は人工衛星のうちあげがあるし︑さらに週一回海軍記念日がもようされる︒海軍記念日の行事は余剰軍艦
に満載した余剰物資を海底深く洗めることである︒
コニュコピァ市の人々は生れ出る時に︑電子計算器のしかけで作られた一生分の商品券をわたされており︑この商
品券をふりまわして︑押しボタン式のスーパー‑マー
ケッ
トで男女が買い物にはげむさまは如何にも装観である︒
ス
ーパ
l・マーケットが買い物客に提供するサービスのおもなるものは︑例えば屑入れをそなえつけることで︑その屑
入れには︑﹁古い時計をこれにお捨て下さい︒﹂と書いてある︒叉建物の片すみには礼拝堂もあり︑いそがしくて安
息日のまもれないお客さんの気やすめになるように礼拝の準備がと﹀のえられている︒(注
8)
ガルプレイスに於てもパッカードに於ても︑高度佑した巨大な生産力を達成したとか︑個人的な消費レベルが高い
と云うことだけでは︑例えばロストウ教授に於けるような︑望ましい社会にそのままつながらないと云う自覚だけ
は︑はっきりしている︒
むしろ逆に︑生産力の高いことがそのま﹀浪費の計画と云う現代文明のメッド・テンポの原動力になったり︑消費
レベルの高さがそのま︑生活に追はれるもののあがきにつながったりすると云うアイロニーに行きあたっているので
ある
︒
﹁個人所得の水準が高くても︑大衆がコレラやチブスや無知にならないという保証はなく︑まして大衆外教育
をうける機会をえたり経済的保証をえたりする積極的な利益が保証され
るわ
けではない︒道徳的頚廃と経済的不幸に
浪費の計画
神 大 論 議
四
見まわれるぞという予言も出て来る︒﹂
( 注 9)
要する広高度の生産力を達成したということは経済問題解決の必要な条件をみたすこ
とに
はな
るが
︑
それがロスト
ウ教授におけるような高度大衆消費時代と云うかたちであらはれる限り︑充分な問題解決へ
とつながらないで
あろ
5 0
そこでは高度化した生産力を消化すぺく︑生産者の側では︑ガルプレイスの言葉をつかえば︑消費者の依寄効果
を高めるにやっきとならざるを得ないし︑パッカードの表現に従うならば浪費を作り出す人々は︑浪費の戦略をあく
ことなくおしす︑めぎるを得ないであろう︒以下︑パッカードによる浪費
の諸戦略のい
く
つ か を 考 察 し て
みよ
フ。
もっと買わせる戦略︒消費が高くなるにつれて食べ飽きの状態に落ち入る可能性が高まる︒そういういきずまりを
とりのぞく為のマl
ケタ
iの具体的例を上げてみることにする︒
例へば靴下のメカlは︑もっと買わせる為にカラlの靴下を売り出し︑靴下の色が︑アクセサリーやドレス
にマ
ッ
チしたものであると云う観念をつくりあげた︒明らかに靴下の売り上げは増大し始めた︒
メー
カー
は︑
女性の水着は三着必要である︒午前中︑午後︑夕方用とそれぞれことなっていなければならな
いか
ら︒
或いは他の
そして他の一着は心理的な用心にと説明する︒いづれにしでも今日︑
一着
は水
泳用
︑
一着
は日
光浴
に︑
アメリカの女性が何枚かの水着を持っていることは確かである︒
眼鏡はそのむかし︑眼を助けて読み書きを容易にするために用いられることにあった︒今
日で
は︑
は新しいドレスを作るととに︑それにマッチした新しい眼鏡を買うようになっている︒ アメリカの女性
住宅は︑週日の住居として一つは必要であるし︑週未のレジアに更に一つ必要である︒トイレは各部屋に一つづっ
必要である︒こうしたアイデアを延長することはマlケターにとって限りない希望の根源であることは容易に想像出
来よ
う︒
捨てさせる戦略︒周知の通り︑
(注
目)
インスタントのコップや皿は最早や世界に流行している︒アメ
リカ
では
︑
ピフ
ステ
ーキや肉類がインスタントのフライパンに乗せられて出されることがある︒食後︑フライパンは投げ捨てられるよう
につくられている︒
オムレツ︑菓子︑
ケチ
ャッ
プ︑
ソース等︑投げ捨ての容器につめられたのは非常に多い︒アメリカ人は一家
族で年
間平均五百弗をこうしたパッケージに使ふとパッカードは予想をたてている︒
計画的廃物化の戦略︒計画的な廃物価の例は色々あるが此処ではもっともショッキングにひびく次の例で充分
であ
らう︒ゼネラル・エレクトリック社は連邦政府から訴訟された︒一九三0年代の事件である︒裁判の資料にもとづけ
(注
江)
ばある技師は懐中電灯の寿命をちぢめて売り上げをます為︑これまで三回バッテリーを使いきるまでもった電
球の寿
命を二度バッテリをとりかえる時間しかもたない寿命にちぢめる計画をしていると云うの
だ ︒
だがさらに驚くべき事実は︑こうした寿命の短縮が
マケ
タ
l達にとってはとくにめずらしいことは考えられていな
﹁アメリカの製品のスタイルを作る責任をもっているデザ
イン
︑
(注 ロ)
エン
ジ
ニア
のあるものは︑彼らに
期待されていることに対して︑急性の罪悪感症状を呈するようになった︒彼らは︑大学時代の理想主載の雰囲気の中 いということだ︒
で︑適当な期間使用されたならば︑
(注
目)
バラバラになってしまうような製品の作り方をおしえられたわけではないのだ︒
欲望の計画的な廃物佑︒ポール・マHジュールにしたがえば︑品物の効用が損なわれていなくても︑そのスタイルが
その価値をまったく破壊することが出来ると云うのである︒叉他の論者にしたがえば︑デザインとは変化による
貢献
と説明される︒なんの貢献6しないときあるいはできないときに︑変佑の錯覚を与えるための唯一の仕方はスタイリ
浪費の計画
五
沖 大 論 叢
一六
ングである︒アメリカのように︑社会全体が変化というものに取りつかれているところでは︑現実が不可能ならば︑
錯覚を顧客に提供しなければならない︑とも説明される︒
いづれにせよ︑大部分のデザインの変化は︑製品を美的あるいは機能的に改善するよりも︑廃物化する為の動機と
目的にしたがっているようである︒
( 注 M)
かつて流行というのは婦人の身のまわりの品物に限られたものであったが︑現在では︑全産業に拡まっている︒現
代のマlケッテングを理解する鍵はこhにめるといわれている程であ
る ︒
ところで今日こうした浪費の諸戦略が・もっともエネルギッシュに試みられる分野は皮肉
にも
︑ロストウの高度大衆
消費時代を象徴する自動車や其の他の耐久消費財の分野に於てである
︒こ
うした戦略にかかって四千弗の車は毎年廃
物化とまではいかなくても流行おくれにされてしまうのである︒自動車が売れる理由は︑アメリカではスタイル以外
にないとさえ云われるのである︒
た︒品物は悪くなる一方﹂と判定している︒
コン
スマ
lヅ・ユニオンのローレンス・クルックスは自動車のテストの結果︑﹁全体として質はどんどん低下して来
五年前のもののほうが︑今回のものよりも︑その当時の技
﹁自
動車
は︑
術の条件を考えても︑ずっとすぐれています︒その頃は自動車ももっと正直に製造されたものでした︒﹂とものべて
いる
ので
ある
︒
(注
目)
一方
では
︑
フォードのA型車が二O年も年の若い自動車をスクラップ・ヤードまで引っぱるに用いられたという話
もある︒技術的には︑一O万マイルを︑修繕の必要が全くなくはしる自動車を作るのは可能だという時代なのだが︒
(注
目)
耐久消費財に於ても浪費の戦略はいきわたっている︒其の結果︑﹁耐久消費財というものはもうありません︒
そ れ
はみんな半耐久消費財で︑その半と云うほうに力が入っています︒﹂と云われるのであ
る ︒ (注 口)
或る調査にもとずくと入手後︑数週間から数ヶ月間で故障をおこした製品の順序は次の如く
であ
る︒
一︑洗濯機二︑電気冷蔵庫︑三︑乾操機
四 ︑
テレ
ピ ︑
セット五︑レ
ンジ
︑六
︑
エア・コンデイシヨナl︑
八︑フリザ1︒
したがってウイリl・ローマンが叫ぶのも決して不忠義ではない︒
﹁俺
は︑
いつもゴミ捨て場
と 競 争 し て い る ん
だ︒やっと自動車の月賦巻払い終ると︑もうそれは片輸者なんだ︒冷蔵庫は︑気ちがいのようにベルトを食いやが
る︒あいつらは品物に短い寿命を
つけ
やが
って
︑
その月賦が払い終った
ころ
には
︑
6う寿命がきれるように作つであ
るん
だ︒
﹂
(注
氾)
オルダス・ハックスレーがその昔︑次のようにのべたと伝えられている︒﹁産業文明は自制のあるところには成り
たたないものだ︒衛生学と経済学とを援用して極限にまで高められた欲望主
義 ︑
それがなければ働きがとまってしま
ぅ︒
﹂
(注
目)
残念なこ
とに
伝統的アメリカ人は倹約で勤勉で神を恐れる典型的ピュlリlタシ精神のもち主たちだっ
た ︒
ベンヂ
ヤ︑
ミン
︑
フラ
ンクリンの教える勤勉︑労働︑信用︑節約プラスプロテ
スタ ン
ト流の禁欲主義では︑現代のマlケタ1
が提供しようと熱心に準備している驚くど豊かな新しい生活様式も︑実現のしょうがない︒と云うことで︑ピュリl
タニズムがマl
ケタ
l達の攻撃の目標となるわ
けだ
︒ (注 泊
)
やがてアヌリカの女の子は九才からブラジァのうりこみの対象になっ
た ︒
ティ
ーン
︑ エィ ジ
アlともなれば︑わき
がの治療薬︑乳房を大きくするホルモン︑染髪剤︑家庭
用パ
l
マ液
︑
一キ
ピ
取り
︑
の上得意にな
る ︒
マl
ケタ
lが描いた理組の消費少女スlジの消
費生活
は次の通りだ︒カリフォルニアの中間層
の娘
︒
一年
間で着物
浪資
の計
画
七
沖 大 論 叢
i¥
に一
五OO
弗︑誤楽に五
O
O弗 ︑
美容
院に
一
Oニ弗使ふ︒彼女は七着の水着を持っている
し ︑
電話は専用だ︒
青年男子にも変化がみられる︒アメリカの青年は野心的で︑献心的︑独立白尊の風があって︑よりよい世界の建設
をねがっている個人主義にめざめた理想家だと伝統的に理解されて来た︒だが現代アメリカ青年
の話
題は
︑
イ・セットとパlベキユとゲl
ムル
lムであり︑利己的で社会問題に首をつっこむことはあり得
ない
と観察されてい ハ
イ
フア
る。
アメリカ法務省の一職員は青年の変化についてこう語
る ︒
間違いがあったからだ︒成人の聞では欲望主義と快楽の原則︑しかもそれが義務に先行するとい5のがあたりまえの
ことになっている︒これこそ︑全世界の歴史を通じて数多くの文明の預廃の原因となったデカダンス病の徴候群なの
﹁こ
のよ
うな大事にいたった
のは
︑われわれの価値観に
である︒﹂
(注
泣﹀
そしてこうした変化に歩調を合せて︑
ロス
ア
ンゼ
ルス
︑
マイアミ︑ラスヴエガスとい
った
快楽主誌の精神を支える
地域が急速な発展をとげることにな
る︒
借り
よ︑
使え買え︑欲しがれ︑浪費せよというビ
ジネ
ス
の教えにしたがって
﹁ア
メリ
カ
人は第二次大戦以来︑歴史上始めての大きな価値体系の変転をよぎなくさせられて遂に快楽主義と
物質文
明がその処を確立するにいたったといえる︒﹂
(注 沼
)
﹁われわれは柔弱でデカダントな人聞になり︑ちょうどロ!マと同様に哀亡のどろ沼にめりこ
ん で い く こ と に な
る︒﹂と云うちがった見方も
ある
︒
(注幻)
﹂れはあるいは行き過ぎた見方かも知れないが︑ニlパ!の次の観察
には
これまでの分折からして同意せざ
るを
得
: ︑
oeJ一'LV
﹁私
ども
は
l生産過程に隷属した文化を発達さ
せ ︑
その結果︑生産と消費の正常な関係を覆してしまう危険に陥っ
てい る︒
﹂ 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注 注
二 十 十 十 十 十 十 十 十 十
十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 (鈍
J‑K ﹀
・ガルプレイス著豊かな社会 ガルプレイス著前掲一一四頁
ガルプν
ィ ス 著 前 掲 二 三 八 頁
パヅカl
ド 著 浪 費 を つ く り 出 す 人 々 一
O頁
パ ッ カ ー ド 者 か く れ た 説 得 者 二 三 頁 パ7カl
ド 著 前 掲 二 二 頁
パッカード若浪費をつくり出す人々
パッカード著前掲四
l七頁
ガルプ
vf ス 著 前 掲 二 三 ニ 頁 パッカード著前掲三一頁 パyカ
! "
著r
前 掲 四 九 頁 前 掲 番 六 五 頁 前 掲 香 六 七 頁 前 掲 書 七 五 頁 前 掲 書 一
O八頁
前 掲 書 一 一 一 二 頁 前 掲 喬 一 一 五 真 前 掲 書 五 七 頁 前 掲 喬 二 六 八 頁 前 掲 喬 一 八 二 頁
浪費の計画
二 三 頁 二
頁
九