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特 集 Okinawa/Nansei Islands 日本研究の道しるべ 必読の一〇〇冊 沖縄 南島 が前近代の た りょう や ら 隼人世界の島々 はや と 屋良健一郎 大林太良ほか 海と列島文化 小学館 一九九〇 よ ろん 学 歴史学 民俗学の論文を収録したものである 薩南諸島は大隅 たね が

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<特集 日本研究の道しるべ : 必読の一〇〇冊>沖

縄/南島

著者

屋良 健一郎

雑誌名

日本研究

57

ページ

155-167

発行年

2018-03-30

その他の言語のタイ

トル

Okinawa/Nansei Islands

URL

http://doi.org/10.15055/00006926

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特   集 日 本 研 究 の 道 し る べ

必 読 の 一 〇 〇 冊   本 稿 に 与 え ら れ た テ ー マ は﹁ 沖 縄 / 南 島 ﹂ で あ る︒ ﹁ 南 島 ﹂ の 捉 え方はいろいろあると思うが︑ここでは南西諸島として捉え︑十点 の書籍を挙げた︒ 1と 2が主として薩南諸島︑ 3から 7が前近代の 沖 縄 ( 琉 球 王 国 ) ︑ 8か ら 10が 近 現 代 の 沖 縄 に 関 す る 書 籍 で あ る︒ ﹁ 沖 縄 / 南 島 ﹂ と い う テ ー マ の も と に は 多 く の 島 々︑ 様 々 な 学 問 領 域 が 含 ま れ る が︑ 筆 者 の 力 不 足 か ら︑ 専 門 と す る 歴 史 学 ( 琉 球 史 ) の分野の本が多くなってしまったこと︑沖縄島以外の島々に充分に 目配りができなかったことをあらかじめ断っておきたい︒なお︑本 稿 で 触 れ ら れ な か っ た 先 さき 島 しま 諸 島 に 関 す る 書 籍 と し て は︑ 新 しん 城 じょう 敏 男 ﹃ 首 里 王 府 と 八 重 山 ﹄ ( 岩 田 書 院︑ 二 〇 一 四 ) ︑ 玉 木 順 まさ 彦 ひこ ﹃ 近 世 先 島 の 生 活 習 俗 ﹄ ( ひ る ぎ 社︑ 一 九 九 六 ) な ど が あ る こ と も 付 言 し て お き た い︒   1   大林太 た 良 りょう ほか﹃海と列島文化 5   隼 はや 人 と 世界の島々﹄ (小学館︑一九九〇)   本書は︑薩摩・大 おお 隅 すみ を中心とする南九州と薩南諸島に関する考古 学・歴史学・民俗学の論文を収録したものである︒薩南諸島は大隅 半島の南に位置する種 たね 子 が 島 しま から︑沖縄島の北方に位置する与 よ 論 ろん 島ま での島 とう 嶼 しょ の総称である︒種子島・屋久島などを含む大隅諸島︑奄 あ ま み 美 大島とその周辺の島々から成る奄美諸島︑そして大隅諸島と奄美諸 島の間に位置し︑前近代には﹁七島﹂と呼ばれたトカラ列島︑これ ら三島嶼群から構成されるが︑本書では主に大隅諸島・トカラ列島 の島々が扱われている︒タイトルにもなっている﹁隼人世界﹂とい

沖縄/南島

 

O

kinawa/N

ansei I

slands

健一郎

キーワード : 琉球王国︑薩摩︑薩南諸島︑境界︑海域史︑交易︑グスク︑琉球文学︑本土︑沖縄戦

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うのはこれらの地域が︑古代に隼人の影響を受けていたと考えられ ること︑中央とは異なる独自の世界を形成していたことを重視した 名称のようだ︒   総論的な性格の大林太良﹁合流と境界の隼人世界の島々﹂は︑大 隅諸島やトカラ列島の島々が﹁九州本土と奄美・沖縄の間にはさま れ た 関 心 の 谷 間 ﹂ に あ た っ て い る と し ( 九 頁 ) ︑ こ れ ら の 島 々 に 対 して日本人が持っているイメージの貧弱さを指摘した上で︑島々の 持つ歴史・文化の豊かさを説く︒大林はこれらの島々の特徴を六つ 挙げている︒①民俗の境界線が認められること︑②中央の統制のお よびにくい地域であったこと︑③島々の文化の違いも大きいこと︑ ④海外との交渉が盛んであったこと︑⑤南九州本土と島々の関係が 中央と辺境の関係であること︑⑥独自の社会組織の在り方を有して いること︑である︒   ①は︑本土の文化と琉球文化の境界線が︑トカラ列島と奄美諸島 の間に存在することを指す︒本土と琉球との文化的な境界︑あるい は両者の移行地域的な性格をトカラ列島がもっていることは︑本書 所収の 下 しも 野 の 敏 とし 見 み 「トカラ列島の民俗文化」 において農具や行事︑信 仰といった観点から考察が深められている︒トカラ列島は歴史的に も 中 世 に は 日 本 ( 薩 摩 ) と 琉 球 の 狭 間 に あ っ て そ れ ら に 両 属︑ あ る いは両者を結びつける役割を果たしていた︒民俗学上の境界は︑ト カ ラ 列 島 の 歴 史 を 考 え る 上 で も 示 唆 的 で あ る︒ ③ に 関 し て い う と︑ 種子島の浦では︑ベンザシという役割の人物が日蓮真筆といわれる ﹁ 御 曼 荼 羅 ﹂ を 引 き 継 い で い た と い う 事 例 が 興 味 深 い ( 川 崎 晃 あき 稔 とし 「 種 子 島 の 漁 撈 習 俗 と 飛 魚 漁 」) ︒ 室 町 時 代 に 法 華 宗 に 改 宗 し て 以 来︑ こ れを深く信仰してきた種子島ならではの習俗であろう︒また︑向 むかいやま 山 勝貞﹁仮面と神々﹂は島々の行事で使用される仮面の類似性と相違 点を述べ︑さらにはそれらの仮面の本質を解き明かそうとしていて 読み応えがある︒④については︑增田勝 かつ 機 き ﹁中世薩摩の海外交渉﹂ ︑ 徳永和 かず 喜 のぶ ﹁島津氏の南島通交貿易史﹂が南九州および薩南諸島と中 国・朝鮮・琉球などとの関係史を述べており︑中央から見ると辺境 に思える地域が実は海外との窓口であったことを改めて感じさせて くれる︒⑤に関しては︑島津氏が始祖の忠久を源頼朝の落 らく 胤 いん として いたのに対し︑薩南諸島では島主や有力者がルーツを平家の落 おちうど 人に 求 め る ケ ー ス が 多 い こ と に 大 林 は 着 目 し︑ ﹁ 本 土 ︱ 中 心 ︱ 源 氏 ﹂ と ﹁ 離 島 ︱ 辺 境 ︱ 平 氏 ﹂ と い う 対 照 的 な 構 図 を 見 出 し て い る︒ 非 常 に 興味深いこの指摘は︑さらに沖縄島の源為朝伝承︑奄美諸島や先島 の平家落人伝説を加えることで︑南西諸島の人々の意識を考える上 での論点となりそうである︒   本書所収の各論文は︑日本と琉球の中間として両者から影響を受 けつつ︑独自の文化を育んだ薩南諸島の島々の個性と︑外の世界と のつながりの豊かさを教えてくれる︒薩南諸島をめぐる研究状況を 概観することができ︑また︑島々の歴史・文化を様々な角度からと

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りあげていて︑今後の研究にも示唆的である︒   2   池田榮 よし 史 ふみ 編﹃古代中世の境界領域   キカイガシマの世 界﹄ (高志書院︑二〇〇八)   二 〇 〇 二 年 度 か ら 喜 き 界 かい 島 じま ( 鹿 児 島 県 ) の 遺 跡 の 発 掘 調 査 が 開 始 さ れ︑そこで確認された遺構・遺物は南西諸島の考古学・歴史学に大 きな影響を与えるものとして注目を集めている︒九世紀から十五世 紀 ( 最 盛 期 は 十 一 世 紀 後 半 か ら 十 二 世 紀 後 半 ) の 集 落 遺 跡︑ 城 ぐ す く 久 遺 跡 群である︒二〇一七年六月には同遺跡を﹁城久遺跡﹂の名称で国指 定史跡にするよう文化審議会から文部科学相に答申された︒   その城久遺跡群の発掘調査に関連して二〇〇七年に奄美大島・喜 界島で行われたシンポジウム﹁古代・中世の境界領域

キカイガ シマの位置付けをめぐって﹂の成果を踏まえ︑刊行されたのが本書 である︒歴史学・考古学の十二本の論文を収録している︒   澄田直敏・野﨑拓 たか 司 し ﹁喜界島城久遺跡群﹂は遺跡群に含まれる八 つの遺跡について︑二〇〇七年九月までの発掘調査の成果を紹介す る︒遺構としては︑大型の掘立柱建物跡とその周囲の規格性の高い 建 物 群︑ ま と ま っ た 鍛 冶 炉 跡 の 存 在 が 特 徴 と し て 挙 げ ら れ て い る︒ また︑土 は 師 じ 器 き や須 す 恵 え 器 き ︑滑石製石鍋といった日本本土産遺物や青磁 など大陸系の遺物の割合が大きく︑対照的に奄美諸島の在地土器で ある兼 かね 久 く 式土器の出土がきわめて少ないことから︑この海域におけ る喜界島の特殊性が示唆されている︒   鈴木靖民﹁喜界島城久遺跡群と古代南島社会﹂は︑古代の文献か ら﹁南島﹂の歴史をたどった上で︑発掘成果をもとに喜界島の位置 づけを試みる︒喜界島には︑大 だ 宰 ざい 府 ふ 官人や九州の在地勢力が駐在し︑ はじめは律令国家への南島の朝貢を促す役割を︑のちには交易を掌 握する役割を果たしたのではないかと考察する︒一方で︑奄美大島 は 夜 光 貝 の 出 土 状 況 な ど か ら︑ 朝 貢 品・ 特 産 物 の 生 産 地︑ 供 給 源 だったと推測し︑喜界島とは異なる役割を見る︒南島の古代社会を めぐる議論の流れも整理されていて先行研究も広く見渡せるように なっている論文である︒   永山修一﹁文献から見たキカイガシマ﹂は︑古代・中世史料の記 述を通して︑当初はキカイガシマが大宰府の影響下にあったものの︑ やがて時代と共にキカイガシマに対する認識が境界︑境外︑異国と 移りゆくことから︑日本の国家体制の﹁内﹂から﹁外﹂へ変化して いったと想定する︒さらに︑城久遺跡群の発掘成果を踏まえて︑大 宰府の出先機関が置かれた島が喜界島である可能性を指摘していて 興味深い︒   村井章介﹁中世日本と古琉球のはざま﹂は︑中世の薩南諸島の実 態に日本側の視線︑琉球側からの視線︑双方から迫っている点に特

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色 が あ る︒ ﹃ 千 ち 竃 かま 文 書 ﹄ な ど を 手 掛 か り に︑ 南 九 州 の 武 士 が 奄 美 諸 島までを自身の所領と捉えていたと指摘する︒一方︑十六世紀の琉 球が︑種子島の領主であり︑その周辺の島々にも影響力を持ってい た種子島氏を主従関係の論理で捉えていたと述べる︒この琉球側の 視線については︑二〇一一年に発表した 「古琉球をめぐる冊封関係 と 海 域 交 流 」 (﹃ 日 本 中 世 境 界 史 論 ﹄ 岩 波 書 店︑ 二 〇 一 三 ) の 中 で 本 格 的に展開され︑琉球史研究にインパクトを与えるものとなる︒   文献と発掘成果の双方から︑喜界島およびそれを含む奄美諸島が︑ 日本・琉球の境界領域というユニークな性格を持つことが明らかに されている︒加えて︑城久遺跡群の発見は︑沖縄島における琉球王 国誕生への歩みを考える上で奄美諸島を軽視できないことを示すこ とにもなった︒   3   沖 縄 県 今 な 帰 き 仁 じん 村 そん 教 育 委 員 会 編﹃ グ ス ク 文 化 を 考 え る

世界 遺産国際 シンポ ジウム︿東 アジア の城郭遺 跡 を比較して﹀の記録﹄ (新人物往来社︑二〇〇四)   琉球文化圏には︑グスクと呼ばれる遺跡が存在している︒その性 格をめぐって︑要塞︑集落︑聖域などといった観点から多くの議論 が 交 わ さ れ て き た︒ ﹁ 琉 球 王 国 の グ ス ク 及 び 関 連 遺 跡 群 ﹂ が 世 界 遺 産 に 登 録 さ れ た こ と で︑ 沖 縄 県 外 で の 知 名 度 も 高 ま っ た︒ 本 書 は 二〇〇四年に行われたシンポジウム﹁グスク文化を考える

東ア ジアの城郭遺跡を比較して﹂の内容と︑グスクに関する論文・コラ ムを収録したものである︒県内外の考古学者や県内各地域の文化財 担当者・学芸員などが執筆を担当しており︑グスクの調査・研究の 最新成果や県内の様々な遺跡の概要を知ることができる︒内容は沖 縄島北部の今帰仁グスクに関わるものを中心としながらも︑奄美や 先島諸島に関する論考も収録しており︑広くグスク研究の現状を知 り︑これからを考える上で有用な一冊であろう︒   シンポジウムに関する論文としては︑千 せん 田 だ 嘉 よし 博 ひろ ﹁日本列島の中の グスク﹂が虎 こ 口 ぐち (城の出入口) ・城郭構造の視点から日本本土の城と 沖縄のグスクを比較していて興味深い︒本土の城郭では外枡形の虎 口が十六世紀後半以降に見られるが︑時期的にそれより早い糸数グ スクにも外枡形虎口と同様の機能を持つ出入口が見られること︑同 グスクの構造に東アジアやヨーロッパの城郭と共通する点が見られ ることを指摘し︑日本列島の中だけではなく︑世界史的な視点で城 郭を捉える必要があると述べる︒また︑本丸と他の曲 くる 輪 わ との関係性 か ら︑ 日 本 の 中 世 城 郭 は 求 心 的 な 城 ( 本 丸 を 最 も 重 要 な 空 間 と し て︑ 階 層 的 な 構 造 を し て い る ) と︑ 並 立 的 な 城 ( 本 丸 と 他 の 曲 輪 の 関 係 に 階 層 性 が な い ) と に 分 け ら れ る こ と︑ そ れ を 踏 ま え て 見 て い く と 沖 縄では前者に首里城が︑後者に今帰仁グスクや中 なか 城 ぐすく グスクが該当す

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ることを指摘する︒他にシンポジウム関連では︑古代・中世の東ア ジ ア の 城 郭 ( 田 村 晃 一 ) ︑ 中 国 の 城 郭 都 市 ( 愛 宕 元 ) ︑ グ ス ク 研 究 史 (名嘉正八郎) に関する論考も収録されている︒これからグスクを考 える上での多様な視角を提言し︑今後のグスク研究の深化を期待さ せる内容と言えよう︒   その他にも興味深い論文が多い︒玉 たま 城 き 寿 ひさし ﹁民俗祭祀からみたグス ク

今 帰 仁 グ ス ク を 中 心 に し て ﹂ は︑ グ ス ク 内 部 に 存 在 す る 聖 域・拝所が周辺集落の祭 さい 祀 し の舞台となっていることを押さえ︑グス クが現代に息づく文化財であることを述べている︒石野裕子﹁今帰 仁グスクが抱えたムラ

今帰仁ムラ・親泊ムラ・志慶真ムラの移 動 に つ い て ﹂ は︑ か つ て 今 帰 仁 グ ス ク 周 辺 に 存 在 し た ム ラ ( 集 落 ) の移動の時期と背景を考察する︒近世史料のわずかな記述をもとに︑ 現在残っている地名や伝承を援用しながら人々の動きに迫っている︒   中山清美﹁奄美・赤木名グスクの時代背景﹂は︑貝製品やカムィ ヤキの出土状況︑奄美のグスクの発掘成果などを紹介し︑中国大陸 との交易を担った拠点が奄美に存在していた可能性︑その勢力が沖 縄 島 を 中 心 と す る 国 家 形 成 に 影 響 を 与 え た 可 能 性 に 言 及 し て い る︒ 本書刊行後︑喜界島の城久遺跡群の調査が進むにつれて︑古代から 中世初期の南島における喜界島やこれを含む奄美諸島の影響力の強 さが明らかになりつつある︒   日本や他の東アジア各国の城郭研究の成果を踏まえてグスクを見 つめ直すこと︑グスクそのものだけではなく周辺の集落も視野にお さめること︑沖縄島だけではなく奄美の存在をもう一度捉え直すこ と︑様々な重要な視点を提示した一冊である︒   4   高 たか 良 ら 倉 くら 吉 よし ﹃琉球王国の構造﹄ (吉川弘文館︑一九八七)   沖縄の歴史を研究する際に直面する困難は︑琉球王国時代︑とり わ け 古 琉 球 ( 十 二 世 紀 頃 か ら 一 六 〇 九 年 の 島 津 氏 の 侵 攻 ま で ) の 時 代 の史料が少ないことである︒そのため︑古琉球期の歴史を知るため には︑日本や中国・朝鮮などの史料の中の琉球に関する記述︑それ らの国々との外交文書︑近世に琉球で編纂された正史や家譜が主と して参照されてきた︒しかし︑正史や家譜は後世の編纂物であるが ゆえにそこから抽出できる情報には限界がある︒また︑アジア諸国 との交易に関する史料は︑琉球の海外貿易・対外関係の研究を深化 させたが︑古琉球の王国内部の状況に関しては充分には教えてくれ ない︒   そ の よ う な 中︑ ﹁ 辞 令 書 ﹂ を 駆 使 し て 王 国 の 諸 制 度 を 明 ら か に し たのが高良倉吉﹃琉球王国の構造﹄である︒ここで言う辞令書とは︑ 官人を任命する際や得 とく 分 ぶん を給与する際に国王が臣下に対して与えた 古文書である︒十六世紀から王国が消滅する十九世紀後半まで発給

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された︒伊 い 波 は 普 ふ 猷 ゆう や東 ひがしおんなかんじゅん 恩納寛惇を始めとする近代の人々も研究の中 で辞令書を用いてはいたが︑本格的な分析までは行われていなかっ た︒ ﹁ 古 琉 球 研 究 の た め の 第 一 級 の 史 料 ﹂ と し て 辞 令 書 の 重 要 性 を 安 あ 良 ら 城 き 盛 昭 が 指 摘 (﹃ 新・ 沖 縄 史 論 ﹄ 沖 縄 タ イ ム ス 社︑ 一 九 八 〇 年︑ 三九頁) ︑高良も辞令書研究を展開していった︒   この﹃琉球王国の構造﹄では︑辞令書の様式について考察を加え た後︑辞令書に記された内容の分析を通して︑古琉球期の王府が三 人 の 大 臣 ( 三 司 官 ) の も と で﹁ こ お り ﹂ と﹁ ひ き ﹂ と い う 組 織 に 編 成されていたことが明らかにされる︒その組織が海船の航海体制を モデルに編成されていた可能性も指摘されており︑琉球の支配体制 の特色を感じさせる︒さらに︑金石文や近世史料も用いて︑官人の 階 層 や 得 分︑ 地 方 役 人 や ノ ロ ( 神 女 ) の 実 態︑ 耕 地 の 種 別︑ 離 島 支 配の在り方なども考察の対象とする︒辞令書には簡潔な記述のもの も多いのだが︑その簡潔な記述にこだわることで︑また︑何通もの 辞令書を広く見渡すことで次々と王国の構造が明らかになってゆく︒ 残存史料が限られている中での︑同時代史料をメインに用いた実証 的な展開が読者を惹きつける︒   と こ ろ で 本 書 の 中 で は︑ 民 俗 学 者 の 仲 松 弥 や し ゅ う 秀 の 琉 球 王 国 否 定 論 ( 古 琉 球 は 独 自 の 国 家 で は な く 日 本 の 一 部 と す る 考 え ) に 批 判 を 加 え て いる︒現在の研究状況では自明に思える琉球王国の存在を否定する 説がかつて存在したことを知ると︑古琉球が日本とは別個の国家で あったことを様々な面から教えてくれる辞令書の史料的価値と︑そ の史料から多くの史実を導き︑王国の姿を堂々と描き出した高良の 研究の大きさに改めて気付かされる︒   辞令書を活用した研究として矢野美沙子﹁辞令書から見る古琉球 社 会 ﹂ (﹃ 古 琉 球 期 首 里 王 府 の 研 究 ﹄ 校 倉 書 房︑ 二 〇 一 四 ) な ど が あ る ものの︑辞令書はまだ多くの研究者に充分に駆使されているとは言 え な い︒ ﹁ 辞 令 書 ﹂ と い う 名 称 の 是 非 も 含 め︑ 古 文 書 学 の 観 点 か ら の研究も︑今後深められるべきテーマの一つであろう︒   5   上 うえ 里 ざと 隆史﹃海の王国・琉球

「海域アジア」屈指の 交易国家の実像﹄ (洋泉社︑二〇一二)   一般書として記された本書は︑先行研究の成果を広く踏まえつつ︑ 著者自身のこれまでの研究も取り入れており︑古琉球の歴史研究の 最前線へと読者を誘う︒   著者の上里隆史は﹁従来の歴史は陸上メインの歴史であり︑海は 外 の 世 界 を 隔 て る﹁ 壁 ﹂ と し て︑ 顧 み ら れ て こ な か っ た ﹂ ( 一 八 頁 ) と い う 問 題 意 識 に 立 ち︑ ﹁ 王 国 の 支 配 と は 実 に 船 に よ っ て つ な が る 海上ネットワークの支配であり︑陸上視点の国家観ではその実態を 充 分 把 握 で き な い ﹂ ( 二 〇 頁 ) と 指 摘 す る︒ 国 境 と い う 線 や 国 家 権

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力同士の外交といったものにしばられずに︑海上を往来する民間の 動きにも注目し︑陸と海双方の動向を視野に入れた歴史の見方とし て近年注目を集めている﹁海域史﹂

その海域史の視点から古琉 球の歴史を描いたのが本書である︒   特に印象的なのは那覇に関する記述である︒琉球王国が首里城を 王城とし︑その外港として那覇が機能することで︑海外貿易で繁栄 したことはよく知られている︒本書ではさらに踏み込んで︑那覇が 発展した背景や︑古琉球期の那覇の様子について考察を深めている︒ 島の周囲にサンゴ礁が発達している沖縄島では︑前近代には大型船 が入港・停泊可能な港が極めて限定されていたこと︑その限られた 港の中で外来者が滞在する充分な面積を持っていたのは那覇のみで あったことを指摘する︒十四世紀中頃から日本・中国間を往来する 民間商船が南西諸島を航路とするという動きの中で︑那覇が発展し ていったであろうと述べる︒また︑那覇には従来よく知られていた 華 人 居 留 地 ( 久 米 村 ) の ほ か に︑ 倭 人 居 留 地 も 存 在 し て い た こ と も 明らかにされた︒当時の琉球にとって﹁異国﹂であった日本から来 た人々が多く住み︑禅宗寺院や権現社といった日本の宗教施設が存 在する那覇は︑まさに国際都市であった︒そして那覇に居留する華 人・倭人ら外来勢力を外交使節や通訳として活用することで︑琉球 は円滑な海外貿易︑対日外交を展開していったのである︒琉球王国 の形成・展開を考える上での那覇の重要性を︑そして︑海を越えて やって来た人たちの秘めた力と︑陸に存在する王権との関わり合い で展開される歴史のダイナミズムを本書は教えてくれる︒   これまでの研究は︑ともすると王府主導の海外貿易・対外交流が 描 か れ が ち で あ っ た が︑ 海 を 越 え た 人 々 の 動 き に 着 目 し た 本 書 に よって︑琉球の貿易を支えた人々の存在がクローズアップされ︑外 来勢力を活用する古琉球という国家の在り方がより鮮明に見えてき た︒琉球王国の発展は︑王府や地元民だけで実現されたものではな かった︒そのことは琉球の歴史や文化を考える上で非常に重要な視 点であると思われる︒   6   豊 と 見 み 山 やま 和行﹃琉球王国の外交と王権﹄ (吉川弘文館︑二〇〇四)   琉球王国の歴史は一六〇九年に大きな曲がり角を迎える︒島津氏 の侵攻を受け︑薩摩の支配下に入ったのである︒以後︑一八七九年 に琉球王国が沖縄県として日本国の一部になるまで間の時期を近世 琉球と呼ぶ︒この近世期の琉球王国の位置づけについては︑薩摩の 傀 かい 儡 らい 政権とする見解が根強く存在し︑また︑薩摩藩の側から琉球支 配の在 あ り方を検討するという研究が少なくなかった︒そのような状 況 下︑ 近 世 の 琉 球 が ど の よ う な 国 家 だ っ た の か を︑ 琉 球 の﹁ 主 体

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性﹂に着目しながら考察するのが本書である︒琉球の政治と外交に 関わる様々な事項を具体的に検討する中で︑本書は次のような点を 明らかにしている︒   近 世 琉 球 で は︑ 島 津 氏 に よ る 裁 判 権 へ の 介 入 は 見 ら れ た も の の︑ 刑罰を執行する権限は琉球が保持していた︒また︑琉球は年貢や海 船をめぐる薩摩との交渉で︑ある程度は自国に有利な成果を挙げて いた︒なお︑薩摩との交渉の中では︑中国との冊封関係を持ち出す こ と が あ っ た︒ さ ら に︑ 琉 球 は 自 国 へ の 中 国 漂 着 民 を ( 幕 府 の 規 定 に 則 のっと っ て 長 崎 へ 送 還 す る の で は な く ) 直 接 送 還 す る こ と︑ 中 国 へ の 朝 貢品を変更すること︑といった事項を︑薩摩の許可を得る以前に独 断で決定したこともあった︒以上のことは︑琉球が政治的主体性を 発揮していたこと︑その際に冊封関係が重要な役割を果たしていた ことを示している︒従来︑琉球は朝貢貿易という経済的利益のみか ら冊封関係を続けていたとも考えられていたが︑それだけではなく 近世琉球という国家を維持する上でも冊封が大きな意味を持ってい たことを︑本書は教えてくれる︒著者も指摘するように︑これまで の研究では琉球と日本の関係︑琉球と中国の関係のどちらかに傾斜 したものが多かった︒しかし︑本書はそれを同時に視野に入れたこ とが特色である︒著者は︑日本と中国に﹁両属﹂していた国として で は な く︑ ﹁ 従 属 的 二 重 朝 貢 国 ﹂ と い う 概 念 で 近 世 琉 球 を 捉 え る こ とを提唱する︒   本書の﹁序﹂では先行研究の成果と課題が明快に整理されており︑ 琉 球 史 研 究 の 歩 み を 知 る 上 で 有 益 で あ る︒ 近 年︑ 琉 球 の﹁ 主 体 性 ﹂ を追究する研究︑琉日関係・琉中関係を統合的に考える研究が見ら れるようになってきたが︑その動きを牽引したものとして本書は注 目される︒そのような研究動向の中︑ 渡辺美季﹃近世琉球と中日関 係 ﹄ ( 吉 川 弘 文 館︑ 二 〇 一 二 ) ︑ 紙 屋 敦 のぶ 之 ゆき ﹃ 東 ア ジ ア の な か の 琉 球 と 薩 摩 藩 ﹄ ( 校 倉 書 房︑ 二 〇 一 三 ) と い っ た 研 究 成 果 も 出 て い る︒ 渡 辺 の著書では︑中国と日本の﹁狭間﹂の国として中日の関係性を活用 することで存続したことを︑近世琉球という国家の特質として指摘 している︒   7   ﹃池宮正治著作選集﹄ (全三巻︑笠間書院︑二〇一五)   一九七〇年代・八〇年代に 伊波普猷 ・ 東恩納寛惇 ・ 仲原善 ぜん 忠 ちゅう をは じめとして︑沖縄研究をリードした先人たちの全集・著作集が相次 いで出版され︑それらは現在︑沖縄を知る上での必読書となってい る︒そういった中に新たに必読書として加えたいのが︑この﹃池宮 正治著作選集﹄である︒池宮正治は︑琉球大学教授として長く琉球 文学研究を牽引し︑定年退職後も研究会への参加などを通して後進 に示唆を与え続けている︒池宮の研究を踏まえ︑琉球文学研究を深

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化させている 小峯和明 と 島村幸一 の尽力によって出版されたこの著 作 選 集 三 冊 に は︑ そ れ ぞ れ 第 一 巻 ﹃ 琉 球 文 学 総 論 ﹄︑ 第 二 巻 ﹃ 琉 球 芸能総論﹄ ︑第三巻 ﹃琉球史文化論﹄ というタイトルがついており︑ 一九七〇年から二〇一〇年までに発表された六十三編の論考と二編 のエッセイが収録されている︒   池宮は﹁琉球文学総論﹂ (一九九六年) において︑琉球文学は琉球 語による表現を軸とするとした上で︑①古謡︑②物語歌謡︑③短詞 形歌謡︑④劇文学を中心とし︑その外縁に⑤和文学︑⑥漢文学︑⑦ 沖 縄 文 学 ( 明 治 時 代 以 降 の 共 通 語 に よ る 文 学 ) が 存 在 す る と ジ ャ ン ル 分 け し た ( 第 一 巻︑ 五 頁 ) ︒ ① に は 古 琉 球 期 の 歌 謡 で あ る﹁ お も ろ ﹂︑ ③には八八八六の三十音で作られる琉歌︑④には沖縄の伝統芸能と して知られる組踊などがそれぞれ含まれる︒これらのうちで琉球文 学研究の中心となるものは︑やはり十六世紀から十七世紀にかけて 編まれた歌謡集﹃おもろさうし﹄である︒ ﹁﹃おもろさうし﹄にあら われた異国と異域﹂ (二〇〇三年) は︑おもろに異国・異域がどう詠 まれているのかを概観したユニークな論文であるが︑従来はカラパ ( ジ ャ カ ル タ の 古 名 ) と 考 え ら れ て い た﹁ か わ ら ﹂ を﹁ か ら ﹂ ( 韓 ) すなわち朝鮮のことではないかと推論するなど新たな見解を打ち出 し て い る ( 第 一 巻︑ 二 二 八 頁 ) ︒ ま た︑ ﹁ 王 と 王 権 の 周 辺

﹃ お も ろさうし﹄にみる﹂ (一九九一年) の中でも︑古琉球辞令書の文言に 対 し て 高 良 倉 吉 と は 異 な る 独 自 の 見 解 を 提 示 し て い る ( 第 一 巻︑ 二 〇 二 頁 ) ︒ お も ろ の 分 析 を 通 じ て 古 琉 球 の 王 権 や 社 会 に 迫 る 池 宮 の研究は︑沖縄の歴史学研究にも刺激を与えるものである︒   第二巻は組踊を中心に︑琉球舞踊︑三 さん 線 しん ︑エイサー︑さらには近 代演劇にいたるまで様々な芸能に関わる論考を収録している︒第三 巻には王府の儀礼に関する論文も少なくないが︑注目したいのは和 文学︑すなわち近世琉球の官人が日本の言葉で記した作品に関する 論文である︒琉球語で表現された作品を主な研究対象とする琉球文 学研究では︑ともすると和文学にはスポットが当たりにくいのだが︑ それを切り拓いたのが池宮の研究であった︒琉球の人々が記した和 歌や日本語の文章を研究対象とすることで︑日本の文芸を受容する 琉球の官人の姿︑その指導にあたった薩摩の人々の存在が浮かび上 がり︑公的な文書や家譜からは見えてこない琉球と日本・薩摩との 交流の一面が示されたのである︒   三冊の著作選集を前にすると︑池宮の研究というのが﹁琉球文学 総論﹂で示された琉球文学のジャンルのほとんどをカバーするもの だということが分かる︒古琉球のおもろから近代芸能まで︑ジャン ルも時代も超越したその研究の幅広さは︑読む者に琉球文学の世界 の豊かさを示してくれる︒そして︑琉球・沖縄をめぐる研究が細分 化する中で︑広い視野を持つことの大切さを教えてくれるように思 う︒

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  8   仲 なか 程 ほど 昌 まさ 徳 のり ﹃沖縄の投稿者たち

沖縄近代文学資料発 掘﹄ (ボーダーインク︑二〇一六)   本 書 は 明 治・ 大 正 期 の 雑 誌 に 見 ら れ る 沖 縄 の 人 々 の 短 歌・ 俳 句・ 詩を紹介したものである︒対象となっている雑誌は﹃文庫﹄ ﹃明星﹄ ﹃創作﹄ ﹃スバル﹄ ﹃文章世界﹄ ﹃ホトトギス﹄ ﹃趣味﹄である︒   仲 程 昌 徳 は 沖 縄 の 近 代 文 学 研 究 を リ ー ド し て き た 研 究 者 で あ る︒ 多くの単著があり︑本書が同氏の代表的な著書とは決して言えない であろう︒なぜなら︑本書は雑誌に掲載された作品を列挙すること に主眼が置かれていて︑その作品や作者︑雑誌に関する著者自身の 分 析 は︑ 要 点 の み を 述 べ た 簡 潔 な 記 述 に 留 ま っ て い る か ら で あ る︒ 資料集としての性格が強いと言えよう︒それでも﹁必読書﹂として 挙げたいのは︑本書にこそ仲程のこれまでの研究に対する姿勢︑そ してこれからの沖縄文学研究に望むことが示されていると考えるか らだ︒   ﹁あとがき﹂には︑ ﹁若い研究者に︑大切な時間を︑同じような資 料集めにこれ以上浪費させたくない﹂ ︑﹁それぞれの雑誌について再 調査する必要があると思いながら︑ (中略) することができなかった︒ こ れ か ら で き る か と い え ば︑ と て も で き る と は 思 え な い︒ あ と は︑ 若 い 研 究 者 に ま か せ る し か な い︒ ﹂︑ ﹁ 研 究 者 が 多 く な っ て ほ し い と 願う事切なるものがある︒ ﹂といった言葉が見える︒   周知のように︑沖縄戦は多くの資料を奪った︒それゆえ︑前近代 はもとより︑近代の文学史を明らかにすることも困難であった︒そ のことは︑かつて仲程が大正期の短歌の研究の困難さを﹁闇の中の 沖 縄 短 歌 史 ﹂ (﹃ 琉 書 探 求 ﹄ 新 泉 社︑ 一 九 九 〇 ) と 表 現 し た こ と に 如 実 に 表 わ れ て い よ う︒ 近 代 文 学 研 究 を 進 め る に あ た り︑ 仲 程 は 県 内 外・ 国 内 外 に 残 る 沖 縄 関 係 の 資 料 を 博 捜 す る こ と の 必 要 性 を 感 じ︑ そのことに多くの歳月を費やしたはずである︒そして︑本書のよう に手に取りやすい形で︑後進のために出版したのだ︒本書以外にも︑ 仲程の著書にはこのような資料集的な性格の強いものが少なくない︒ それらは︑彼が後進に託したバトンであり︑闇の中を照らす火であ る︒仲程から受け取った火で︑近代文学史を覆っている闇をどれだ け照らすことができるのか︑時間をかけて収集した資料を惜しみな く読者に差し出す本書を前に︑沖縄文学研究のこれからを考えさせ られるのである︒   9   伊佐眞一﹃伊波普猷批判序説﹄ (影書房︑二〇〇七)   伊波普猷 (一八七六年~一九四七年) は近代沖縄を代表する知識人 で︑ ﹁ 沖 縄 学 の 父 ﹂ と 呼 ば れ る︒ 文 学︑ 歴 史︑ 民 俗 と い っ た 幅 広 い

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視野での沖縄研究は後進に大きな影響を与え続けている︒また︑彼 の学問からは沖縄への深い愛情が感じられて︑聖人君子としての伊 波像を抱く人も少なくないであろう︒その彼の思想と人々の伊波像 に対する批判の書である︒   ﹃ 東 京 新 聞 ﹄ 一 九 四 五 年 四 月 三 日・ 四 日 に 掲 載 さ れ た 伊 波 普 猷 の ﹁ 決 戦 場・ 沖 縄 本 島 ﹂ と い う 文 章 を 見 つ け た こ と が︑ 伊 佐 眞 一 が 本 書 を 執 筆 す る き っ か け と な っ た と い う︒ ﹁ 決 戦 場・ 沖 縄 本 島 ﹂ で︑ アメリカ軍の沖縄上陸を知った伊波は︑沖縄の人々が日本人として の﹁ 真 価 を 発 揮 す る 機 会 が 到 来 し た ﹂ と 捉 え︑ ﹁ 皇 国 民 と し て の 自 覚﹂に立った戦いへの期待を記している︒戦時下において知識人が このような文章を書くこと自体は決して珍しくはないが︑伊波の場 合︑戦時下でも時局に荷担しなかったという固定観念が伊波を論じ る 人 々 の 間 で も 根 強 か っ た た め︑ ﹁ 決 戦 場・ 沖 縄 本 島 ﹂ の 発 見 は 衝 撃的だったのである︒そして従来の伊波像を批判した本書も大きな 話題となった︒   本 書 で は︑ ﹁ 決 戦 場・ 沖 縄 本 島 ﹂ を 書 く に 到 る 伊 波 の 学 問・ 思 想 の軌跡が近代日本・沖縄の歩みと共に丁寧に執筆されている︒伊波 の研究の中身を論じるというよりは︑時代との伊波の向き合い方を 明らかにすることに主眼がある︒伊波の多くの著述に目を通し︑そ の文言にこだわった著者は︑伊波の戦前・戦時下の認識が﹁反ファ シズム・反戦に立脚したものではなく︑実際はもっと体制ににじり 寄 っ た 政 治 的 色 彩 を 帯 び た 思 想 と 行 動 だ っ た ﹂ ( 一 八 三 頁 ) と 結 論 づける︒そのような伊波の言動にもかかわらず︑反戦の学者として のイメージが強い背景として︑戦後に伊波が行った戦争批判の印象 の強さ︑戦後の沖縄の人々の伊波への思い入れの深さなどを挙げて いる︒   充実した註に基づく詳細な記述が圧巻で︑自分の抱いている伊波 普猷像が揺さぶられ︑先入観を排して批判的な思考を持つことの大 切 さ を 教 え て く れ る 書 で あ る︒ 特 に 沖 縄 戦 を め ぐ っ て は︑ 沖 縄 の 人々は本土とは異なって戦争責任を追究することをしなかった︑と いうことがしばしば言われることを思うと︑本書の刊行意義は大き いと思うのである︒また︑長文の﹁おわりに﹂と︑政府や沖縄問題 に無関心な人々への批判をふくむ﹁あとがき﹂を読んでいると︑本 書が単に伊波普猷という過去の人物を論じているのではなく︑現代 の沖縄・日本を取り巻く状況を考えるための一冊でもあることが感 じ取られる︒   伊 佐 眞 一 は︑ 本 書 刊 行 後 も 伊 波 研 究 を 深 化 さ せ 続 け て い る︒ 二 〇 一 〇 年 に は 伊 波 普 猷 が 東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 ( 現 東 京 大 学 ) に 提出した卒業論文を発見したことが大きな話題となった︒また︑伊 波の思想の形成過程を論じた ﹃沖縄と日 ヤ マ ト 本の間で

伊波普猷・帝 大卒論への道﹄ (全三巻︑ 琉球新報社︑ 二〇一六) は二〇一七年に ﹁第 四 十 四 回 伊 波 普 猷 賞 ﹂ を 受 賞 す る な ど︑ 高 い 評 価 を 得 て い る︒ ﹃ 伊

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波普猷批判序説﹄は︑これから伊波普猷や沖縄学を研究対象として ゆく者にとっての必読書と言えるであろう︒ 10   岡本恵 けい 徳 とく ﹃現代沖縄の文学と思想﹄ (沖縄タイムス社︑一九八一)   本 書 は︑ そ の タ イ ト ル が 示 す 通 り︑ 沖 縄 の 文 学 と 思 想 に つ い て 扱った論文を収録したものである︒二部構成で︑文学を扱うⅠには ﹁近代沖縄文学史論﹂ ﹁沖縄の戦後の文学﹂など四本の︑思想を扱う Ⅱ に は﹁ 水 平 軸 の 発 想

沖 縄 の﹁ 共 同 体 意 識 ﹂﹂ ﹁﹁ 施 政 権 返 還 ﹂ 期の思想﹂など五本の論文を収める︒   ﹁ 沖 縄 の 戦 後 の 文 学 ﹂ で は︑ 一 九 四 五 年 の ア メ リ カ に よ る 占 領 か ら一九七二年の日本復帰までの戦後沖縄の歴史を確認した上で︑社 会 の 状 況 ( ア メ リ カ に よ る 統 治 ) か ら 大 き な 影 響 を 受 け た 文 学 の 歩 みを叙述する︒著者は戦後沖縄の文学活動を三つの時期に区分する ことを提唱し︑それぞれの時期の特徴を考察している︒戦後文学の 出 発 と な る 第 一 期 ( 一 九 四 五 年 か ら 一 九 五 一 年 頃 ま で ) は︑ 戦 前 か ら 活躍していた表現者たちが中心となって文学活動が展開され︑戦前 の文学への批判や戦争体験の凝視といった営為がまだほとんど見ら れ な い 時 期︒ 第 二 期 ( 一 九 五 二 年 頃 か ら 一 九 六 一 年 頃 ま で ) に は︑ 戦 後に登場した新人たちが活躍︑文学の世代交替が起きて︑新たな表 現が模索される︒それと共に米軍支配に抵抗する文学も見られるよ う に な る 時 期 で あ る︒ 第 三 期 ( 一 九 六 二 年 以 降 ) に は 個 人 の 内 面 を 深化させる表現が増えると共に︑方言や沖縄の民俗を表現しようと する試みが見られるようになるという︒著者は︑戦前の文学が中央 ( 本 土 ) と の 同 質 化 を 目 指 し︑ 沖 縄 の 独 自 性 を 表 現 す る こ と に 乏 し かったこと︑戦後の第三期になってそのようなこだわりから解放さ れて自由な表現が生まれたことを指摘する (一二六頁) ︒沖縄の人々 が 風 土 や 言 葉 ( 方 言 ) を ど の よ う に 表 現 し て き た の か ( あ る い は し て こ な か っ た の か ) と い う 点 は 沖 縄 の 文 学 の 歴 史 を 考 え る 上 で 非 常 に重要で︑これからも研究されるべきテーマであろう︒   ﹁ 水 平 軸 の 発 想 ﹂ は︑ 近 現 代 の 沖 縄 の 人 々 の 思 想 に 迫 る 論 考 で あ る︒本土を先進的と捉え﹁後進的な沖縄の風土や習俗︑生活のあり かたを否定して︑中央と同質化することによって﹂先進性を獲得し ようとする考え方が︑沖縄の人に広くあるのではないかという指摘 ( 二 〇 七 頁 ) ︑ そ の よ う な 考 え 方 が 山 之 口 貘 ばく の 詩﹁ 会 話 ﹂ の 解 釈 に も 影 響 を 与 え て い る の で は な い か と い う 推 論 ( 二 一 七 頁 ) が 興 味 深 い︒ また︑沖縄戦下の渡 と 嘉 か 敷 しき 島 じま で起きた﹁集団自決﹂について︑先行す る論客の見解を踏まえながら︑自決の背景に﹁共同体﹂的なものを 見出そうとする思考が印象的だ︒本来であれば︑共に生きる方向に 働くはずの﹁共同体の生理﹂が︑米軍の包囲による島の孤立︑権力

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の意志や戦争をあらがい難いものと捉える共同体成員の認識などか ら影響を受けることで︑死を共に選ぶという方向に機能したのでは ないかと著者は述べる (二四二頁) ︒さらに︑ 復帰運動の展開も ﹁共 同 体 的 生 理 ﹂ か ら 捉 え る こ と が 可 能 で あ る と 著 者 は 考 え て お り︑ ﹁ 共 同 体 的 生 理 ﹂ は﹁ 沖 縄 の 歴 史 の 中 で︑ 多 く の 沖 縄 の 人 た ち を 規 制 し︑ い ま な お 生 き 続 け て い る ﹂ ( 二 四 六 頁 ) と す る︒ ﹁ 共 同 体 ﹂ を 考えることこそが﹁沖縄の思想﹂を考えることになるのだと指摘し ている︒この﹁水平軸の発想﹂は著者の代表的な論文であり︑沖縄 をめぐる研究が盛んになった二〇〇〇年代に改めて注目を集めた︒   ところで︑著者の文章には﹁沖縄に限らずどこにでもあることな の か も 知 れ な い が ﹂ ( 八 五 頁 ) ︑﹁ 多 分︑ そ れ は 沖 縄 に 限 ら ず﹁ 本 土 ﹂ の 各 地 に み ら れ る も の で あ り ﹂ ( 二 七 五 頁 ) と い っ た 表 現 が し ば し ば見られる︒沖縄を絶対視するのではないこのような姿勢が︑読者 に信頼感を抱かせるように思う︒

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