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葉天蓼とその一家

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

葉天蓼とその一家

松枝, 茂夫

https://doi.org/10.15017/2556573

出版情報:文學研究. 30, pp.27-64, 1941-12-25. The Kyushu Literary Society バージョン:

権利関係:

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私は張岱が山に雁れた後半生の事を知らうとして更に手がかりのないのを残念に思ってゐる︒張岱は半生の心血を

絞って﹁石瞳並﹂を作ったのであったが︑谷雁泰が明史紀事本末を作らんとして五百金を以て﹁禰殴韮哩﹂の原稲を聯

はんことを諸ふや︑彼は慨然として之を了へた︒今﹁明史紀事本末﹂の自序には﹁順治戊成多提粁剛漸學政愈事豊潤

谷朧泰撰﹂と箸してある︒原稲を戒つたのは勿論それ以前の事に祁逮ない︒かりに順治戊戊︵十五年︶の事であった

とすれば︵蜜はそれでは十年位早いやうな氣がするが︶︑張岱は時に六士溌︑山居して既に土一罪目である︒彼は

更にな隆一干餘年を生き抜かねばならぬ︒それがどんなに苦しい生活であったかは我交の想像の外であらう︒越王句

践だとて︑いくら御糯の恥を忘れまいためとはいへ︑まさか誰︵どくだみ︶ばかり食ってゐたわけではあるまい︒鵬

を嘗めるついでに︑時にはロースの一片に舌鼓を打つほどの徐裕は持ってゐたらうと察せられる︒山は同じ會稚山で

も︑張岱は王様でなかったからさうは簡単に参らず︑蕊中の粟は雌々識き︑炊ぎの煙もとだえがちであった︒首陽山

莱天塞とその一家二七舎孟九九︶ ‘’ 葉天蓼とその″一家

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松枝茂夫

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呉江扮湖の葉氏といへば土地の鼈族であり︑その親戚友人は悉く純官世家ならぬはなかった︒葉天塞の商岨葉紳は

明の成化の進士で︑官は澱科左給琲中から術変司少卿に棚んでられて卒したが︑符て大好李炭を獅劾した噛畔有名な

直諫の価であった︒父亜第は萬暦十四年の進士︒家族を華へて北京に赴く途中︑山東臨清まで来た時︑その妻は俄か

に産氣づいて一子を産んだ︒これが後の天塞遥人葉紹哀である︒寓暦十七年十一月一千一日の早暁の事で︑大運河の

水はもう凍ってゐた︒父はやがて北京に近い薊州玉田縣の知縣を授けられ︑生れて二ケ月目の子供は母と共に父の任

文學研究錐一二十斡二八︹一三︿○○︺・

の二老が周の粟を食ふのを恥ぢて餓ゑ死んだなんといふ話は後世の尤もらしい粧鮎語であったとは今にして知った︑

と彼は﹁陶稚夢儒瞠の序に響いてゐる︒自瑚の語としてのみ見るにはあまりに痛ましいことばである︒私は﹁明史紀

事本末﹂を拾ひ誠みしてゐると︑氣のせゐかも知れぬが︑随庭に張岱の息吹きを感じ︑張岱の縄臭を呪ぐことが出來

るやうに恩ふ︒そして生きるためにみすノーこれを金に換へねばならなかった張岱の無念さを思はずにはゐられない︒

張岱の山居の様子をいくらかでも典象的に砿に描けるやうになるためには︑同時代の多くの通此逹の生活逓訓べ︑

をれらによって聯想するより外に方法はないと私は次に忠ひついたのだが︑事にかまけて今に何一つ果してゐない︒ゞ

ただ頃日︑﹁甲行日注﹂外二三の葉天塞の菩作を手にする機愈があったので︑或は何かの暗示が得られるかも知れな

いと思って一通り眼を通してみた︒その結果私の雌初期待してゐたものからは幾分外れてかたけれども︑何しろ文章

は珠玉を速たやうな魂麗さだし︑ことに葉氏一家の美しくも果敢ない運命は私をかなり感動させたので︑いささか

寄り通の感がないでもないが今これを記述してみることにしたのである︒

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地に赴いたが︑さらに叉二ヶ月して隣縣の賓抵といふところへ養子にやられた︒四人の兄がある筈のその四人とも天

死してゐたので︑叉との子にも死なれてはと母は心配し︑他家に養子にやれば子は息災に育つものだといふ故郷での

いひ慨はしに倣ったのである︒養父は郷里も同じ呉江の人︑しかも父とは最も親しい﹁同年﹂l同じ年に試嶮に及

第した人lで當時蜜抵の知縣をやってゐた哀司馬公︑やはり當時の名士であった︒寅砥の地名に因んで﹁寅生﹂と

いふ幼名を與へられ︑養父母には随分可愛がられた︒養家には哀若思といふ同じ年頃の息子がゐて︑これとは経世か

はらぬ親友となった︒誕生は九歳にしてすでに榊童の騨尚く︑哀家を訪れる糊時の名士たち黄洪懸︑鵡夢砿︑並共

昌︑といった人糞をして歎愛措く能はざらしめた︒十歳になって生家に引取られたが︑父は養家の恩を忘れないやう

にと︑﹁紹哀﹂といふ名をつけてくれた︒

紹衷十一歳のとき︑父は尚州提學愈事に陞ったが︑あまり遠い所なので岨母老いたるの故造以て辞して就かず︑・郷

里に悠々閑日月を逢ってゐた︒しかるにその年の八月十二日︑ポックリと死んでしまったのである︒まだ四十二歳で

あった︒一家の心細さは云ふまでもない︒秋風に臨んでは︑明月を仰いでは︑母の袖のかはく暇もなかった︒しかも

かて上加へて︑・支那ではよくある事であるが︑この一家の大黒柱を失った寡婦と孤兒に對して狸宗悴族は他くなき魍

請をなし︑霊枢の上に釣ってある帳までもはづして持って行くといふ飢黎さ︒養父の衷司馬公が見かねて仲に立つと︑

こんどはその養父に向って有るとと無いとと言ひたてて匁向ふ始末で手はつけられぬ︒幸ひ呉江の知縣劉勿所の仲裁

で漸く大事に至らずして濟んだ︒

葉天塞とその一家︲二九︵三六○こ

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十七のとき妻を迎へた︒沈宛君といひ同じ邑の名門の女で︑彼が十族のときからの許嫁であった︒彼女の父は按祭

司副使にまで升った沈愁所︑三人揃って進士に及第した枇時名騨の三人兄弟中の一人である︒宛飛は天塞より一つ年

下︑囚五歳にして毛詩︑楚群︑長恨歌︑琵琶行︑などを口授されて忽ち荊ん歩るといふ早慧を示した︒輿入した時の

妻の様子を彼は﹁窃窕方に茂く︑玉質始めて盛んなり﹂といひ︑﹁順然として長く︑震澤襲みる可し﹂ともいってゐ

る︒まことに才色兼備とは彼女のことを云ったものであらう︒才子と佳人と︑琴遜相和したことはいふ迄もない︒母

|も喜んだ︒﹁母の數載の愁懐はと上に於てはじめて開けた﹂と年譜にある︒だが礎はこ上にも若い夫婦の悩みがひそ

んでゐた︒母は︑若くして寡婦になった女によく見られるところの一種の女丈夫型の人であった︒彼は母に封してろ

くに言ふととも言へないほど︑幾分母を恐れてゐた︒一人息子の嫁に對する母の嫉妬︑といへば少し言ひすぎかも知

ぬが︑数年の間愁ひに閉されしめやかな明け幕れのみ過してゐた家に美しい若い嫁を迎へ︑家中は一時にバツと花が

開いたやうに恩はれ︑自分まで箔返ったやうな氣がしてぼくノーと嫁の顔琵兄つめながら︑わが腹逓捕めた本営の娘

よりも可愛いと云ひ︑お前の給仕でなければ朝夕の御飯もおいしく戴けないとうちつけに云うたも束の間︑やがて母

文學研究第三十秘三○e一六○二︶

普通ならば二十七ヶ月で喪は明ける︒しかるに﹁孤奨の家︑未だ職制を知らず︑﹂丸三年喪に服し︑彼が十川歳の

八月十二日に始めて雛帷を除き紬素を去った︒三年の間離れずに親しんだ喪宗の峡が捲かれ︑露枢の股いてあった床

が筌になり︑日々宕經してゐた榊たちが悉く去ってし堂ふと︑あとに礎された人々はいよノ︑寂しく︑母子相抱いて

泣くのであった︒︒

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は嫁に封してあまりよい顔を兄せなくなった︒無理もない︒新嫁は詩が大好きでしかも上手に作ったのであるから︑

今や新婚に酔った若い夫姉が盛んに唱和を交したであらうことは大抵察するに難くない︒母の心配はそれであった︒

老先短い母にとって紹衷は唯一の布望であった︒はやく試験に通って役人になって出枇して一家を再典してくれるや

うに︑とただそれのみ産噸ひ︑もどかしがってゐる母には︑折角試験勉弧に身を打込んでゐる息子の氣持が︑嫁の熱

心な詩作によって打飢されはしないかと氣づかはれてならなかったのである︒そこでいつも小間使をスパイに仕立て

上嫁の様子を監脱せしめ︑いま詩を作ってゐないと報告されると悦び︑作ってゐると聞くと怒りを顔に現はすのであ

った︒つひにしとやかな嫁はふつつりと詩作をやめた︒そしてこんどは夫の試雛勉強を手傳ふために︑夫の書いた八

股文をコヅノ︲︑清書した︒字も美しい字であった︒

結婚しても夫婦共々に幕すnは少かつた︒夫は大抵幼友逹の表若思や從弟の葉季若と共に外で勉弧し︑あまり自宅

にはゐなかった︒自宅にゐる場合でも︑紹衷は雌の許しなしに妻の帷に入ったことは一度もなかった︒母の命令が出

ない限り︑冷たい雨が竹の窓を激しく叩くやうな夜でも︑彼はガランとした諜齋に濁り寂しく臥した︒変は妻で︑毎

晩夜中過ぎまで母と共に裁縫をし︑母からも弓引取ってもよいと云び出されるまでは止めなかった︒妻が次第に佛典

へ心を引かれるやうになったのは早くもその頃からであったと思はれる︒︲

宛君は才商く貌美しく︑すべての人に對して優しかったばかりでなく︑義侠心に富んでゐた︒夫の友人がある事で

金の必要に辿られ︑夫がそれを助けたいが母に言ひ出しかねて困ってゐるのを川かされると︑彼女は即座に自分の茜

物や頭の道具を質に入れて四十金を熊出した程であった︒

莱天蓼と﹃ての一家一三三六○一︒

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文學研究節三千卿一三一︵三六○四︶

結婚して六年目︑紹哀二十二歳の六月に︑二人の間に長女が生れたのを最初に︑次盈に八男五女が生れた︒即ち

寓暦三十八年︵紹哀二十二歳︶長女紬統︵芋昭齊︶生る︒

四十一年四月︵二十五歳︶次女小統︵字無綱︶生る︽

四十二年八月二十九日︵二十六歳︶長子世栓︵字雲期︶生る:

四十町年三月八日︵二十八歳︶三女小総↑︵字斑章︶生る

ぺ四士ハ年三月九日︵三十歳︶次子世僻︵字蕊期︶生る

四十七年七月二日︵三十一歳︶三子世俗︵字威期︶生る

四十八年八月二十五日︵三十二歳︶凹子世個︵字附期︶生る

天啓町年二月十九日︵三十六歳︶五子世備︵字諜期︶生る

六年四月︵三十八歳︶五女小繁︵字千理b一宇香期生る︶

七年九月二十九日︵三十九歳︶六子世僧︵字星期︶生る

崇頑二年︵四十一歳︶七子世唾︵字弓期︶生る

四年十一月八日︵四十三歳︶八子世艇生る

右のうち八子世侭が五歳にして天死したのと︑四女の名も生年もわからぬ︵﹁年譜﹂その他にも見総らぬ︒生後間

もなく名も附けられぬうちに死んだのかも知れない︶のを除き︑他はやがてみな︑一人の例外もなく︑その父母に似

て貌美はしく詩才に恵まれた少年少女となった︒

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紹哀は士一のときすでに立派な文章を作って人を驚かした︒十五歳初めて縣の試騒を受けるや︑その答案を見た知

縣や試験官は難節して感歎の露を發し︑この子が緊人や進士に中るのは襲中の物を探るよりも易いと我人共に見てゐ

た︒豈計らんや︑彼はそれから三土ハの歳まで︑前後二十幾年といふものを受験勉握に苦勢しなければならなかった

のである︒

科畢つまり官吏登用試験には幾つもの階級がある︒まづ登格試験として縣考︑府考︑院考の三つがある︒縣老に合

格した者は童生と呼ばれる︒院考は三年毎に各府城に於てその省の學姦によって行はれ︑これに合格したものは州學

縣學に入學して生員或は秀才と呼ばれ︑はじめて本試験の科畢に應ずる姿格が生歩るc但し秀才が本試験を受けるに

はその都度更に歳考と科考の二試鹸を受けねばならぬ︒本試験は郷試と會試に分れる︒郷試は三年毎に一回中秋八月

に各筍の稀城で︑中央から派過せられた試駿官によって行はれる︒三場九日間に亘る︒これに合格すれば畢人の稻號

を得る︒禽試も三年毎に一回︑郷試の翌年二月︵明制︶に京師で行はれる︒︒やはり三場九日間に亙る︒會試の合格者

を貢士といふ︒貢士は直ちに殿試を受ける︒これは天子親ら貢士の勝次淀定める試験で一日で経る︒殿試を受けて始

めて妓商の學位たる進士の稻號在受けるのである︒

これはトンダ科學の説明・我ながらくすぐったい話となったが︑とにかく葉紹哀は十五歳にして早くも秀才となり︑

眼識ある試験官にして彼の文堆を見て﹁國士無墜﹂と晩じなかったものはなく︑彼が少年にして連捷の名器を岬する

のは造作もないこととは十目の見るところ十指の指さすところであったのに︑不思識にも毎度無念の涙を流さ胆ぱな

紫天塞とその一家一二一g一六○五︶ 41

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文畢研究錐三十脚二一四含芙○六︶

ら厳かつた︒一犀權薗暑行はれる蕊に驚秘風七冊じたわけだI壷を警弗に一驚け鳶なかった

から︒友逹と四人で試験の發表を待ってゐるうちに夜になり︑うす暗い新月の光をたよりに探したが四人ともたぅと

う自分の名前を探しあて赤︑和對して戯湫し︑泣いて別れた年もあった︒五土一茗まで採ったのにたった一番達ひ

の五十四番で落第した年もあった︒細雨冷たく疏花を打つ江上を戦敗れて蹄る舟中︑つれづれに作った小刷の中に

﹁雛腔撚柵背杉袖﹂といふ句のあったの逓斐が見て︑﹁閥年の催識ではなささうな﹂と悲しい顔をする︵郷試は子年︑

卯年︑午年︑閏年に行はれる︑その年は午年であったのだ︶︑さう云はれてハツと胸をつかれた氣持で哲く蝉も出な

かったが︑やつと﹁まさか﹂と答へたものの︐その次の酉年の試験は果して叉駄目だった︑そんな事もあった︒又あ

る年の歳考に︑彼の答案逓兄た提學御史が﹁十年梨花鎗︑海内徴に敵手無かるぺし﹂と最大級の批を下したのに︑い

よノ︑發表されてみると彼の名はやうやく第十八に在った︑どう考へてもこれは﹁不可解也﹂と云ふの外なかった︒

そんな事が毎食だった︒

いふまでもなく賄賂が試駿の及落を左右してゐたのだ︒凡そ明代ほど賄賂の公然と行はれた時代も少からう︒椛締

どもは殆ど取り放題に取ってゐる︒ことに政治上軍事上に絶對的勢力を振ってゐたあの喧官といふ奴原の他くことを

知らぬ慾張り方︒彼等のかき集めた金額を物の本で見た人は︑どうしても天文學的としか思はれない莫大な数字に一

驚を喫したであらう︒袖の下さへたんまり使って少し上手に立廻れぱ︑少友低脳な男でも試験をパスし︑相當な役に

も就くことの出来るやうな七んな時代で明末はあったのだ︒しかし葉紹衷は極端に潔癖な男だったから︑そんな事は

死んでも出来なかった︒だから愛けてもj︑落第するのは︑蜜は不思議でも不可解でもなかったと云へる︒

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と上に一つわからぬ事がある︒一髄試験と受けるのは何のためだ︒勿論役人になって出世して家名を繋げるためだ

らう︒ところで明末といふ時代は外には滿洲人が塞外から虎覗耽糞として中原のスキを伺ってゐる︒張獣忠とか李自

成といった流賊どもは全図的にあばれ廻ってゐる︒しかるにそんな事も知らぬげに︑朝廷の要路には今いった通り弧

慾破脈恥な直官どもがふんぞり返って賄賂をふんだくるとしか知らず︑氣に入らぬ奴は容赦なく東廠に透りどんで間

から間に非ってしまふ︒これに對して東林黛の抗争︒これは聖人の言葉を肝に取り︑蛮際自分は何もしきらんくせに

朝政に一変難癖をつけて大言壯語し︑たうとう國が亡びるまで蕪同伐異をつづけた自稲﹁正人君子﹂たちだ︒さうい

ふ時代である︒だから少しサキの見える人なら︑厄介な試嶮を受けて役人になり雨方の板挾みになって結肋憂目を見

ようよりは︑といふ氣になりさうなものである︒事変︑たとへば當時の名士李流芳︵長衡︶などもそれで︑彼は會試

忙應ずるため京師の近郊まで来ながら︑悔官の横暴の話をきいて︑詩を賊して車を返し︑つひに意を進取に絶った︒

又わが張岱のごときは︑雀だ面白いことには︑八股文を作るのが大好きで叉非常に上手であったに拘らず︑たうとう

一度も試鹸を受けずに一生布衣で経った︒こんな例は他にも随分多いだらうと察せられる℃さういふ鮎から考へて︑

葉紹亥はどうも少し目先の利かぬ人だった︑と云って悪ければ︑少くとも彼は非常に頭のよい優等生ではあったがあ

まりに生眞面目で正直すぎて型破りな事は一切出来ない人であったから︑つひに明といふ時代の枠から一歩も脱け出

しきれなかったのだ︒今日の我だから見れば迷信としか忠はれないやうな夢判断や星命術や交盤術を彼が心から信じ

切ってゐる様子などを老へ合せてどうもさう断言出来るやうに恩ふ︒無論︑その間には或は別に事肪があったかも知

れず︑たとへぱ彼の母の意志に心ならずも從つたといふやうな事も老へられないでもない︒しかし彼は後年致仕して

紫天蓼とその一家三五全天○七︶

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丈鯉研究錐三千岬一三ハ︵三六○八︶

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時代の力といふものが今更ながら恐ろしい︒変.

二十徐年の學子生活がいかに辛かったかは想像に餘りがある︒時には自宅で︑しかし多くは友人や親戚の家で︑或

は家庭教師となって行った家で︑大抵一三の友人と組んでの猛烈な受醗勉強︒無論それは叉それで・しい時だも無く・

はなかったがoある時のごときは我家の小作人からまで蒋弟書生と見くびられ︑小作料を納めぬのみか︑これは本麦

自分の所有田であったのを葉家から枇仙されたのだと屯田御史に訴へ出られた︒仲に立った呉江の知縣といふのが種″

官の息子でお多分に洩れぬ強慾非道な奴︑その田を半分寄越したら助けてやらうと申込んだ︒磯よく謝絶したところ

が知縣はそれを含み︑折からの米価騰蛍に官雑の説の起ってゐたの逓幸ひ︑葉家の割當供出掌ぞ筆頭第一に定めて︑

すんでのところ葉家を破産せしめようと計った︒そんな事もあった︒

三十六歳の天啓四年七月下旬︑郷試に應するため從弟季若と共に南京に赴き︑朝天宮の白道士の家に汕る︒これよ

り先︑遊士の家に帯の二つある蓮の花が開き︑一つの柘榴の花に黄が二つ成った︑また池の中の魚が二足並んで飛ん

だ夢を見た︑そこへ塗一人が見えたのは︑こりやきっとお二人揃って及第なされる先兆でがなありませうと遊士は云

うた︒どうやら道士の作り事としか思へいが︑葉紹哀等は毫もそれを疑った形跡はない︒試験が経ると彼はすぐ十七

日燕子磯から江を下って一千円家に着いた︒そして二十七日︑季若が二人とも及第したといふ吉報を衛らしたのであ

る︒その時の氣持︑彼はただ目を瞳って黙坐するのみ︑妻の頬を涙がほろj︑︑と止め度なく僻はり落ちる︒彼は妻の

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の名公大老たちは悉く演官によって逐はれて去ってゐた︒ の宴に参念︒十一月二十五日︑會試に應ずべく季若と連立って北京へ出發︑翌年正月四日北京に入った︒時に東林黛 した知らせを受けた︒母の喜びはいふ迄もない︒九月六日︑季若と共に南京へ行って新しい畢人百四十八名の及第帆 涙を見るといよ/〜切なく︑つらかった來し方を顧るのであった︒二十八日には衷若恩も表弟の蛎士日も漸江で及第 llllI

上元の日に關帝廟でお祁銭をいただいたら︑季若のには﹁州剛喜氣事盤盤﹂とあり︑紹衷のには﹁四十年前領報

應﹂とあった︒亡父が進士に及第して丁度今年が四十年目︑奇といふぺしと喜んだ︒二月二十八日發表︑果然二人と

も及鋪してゐた︒さて雌後の殿試lこれ臓前にも云った通り天子親ら太和殿の丹輝に於て行はれる試職で︑貢士の

席次を定めるもの︒首席から三席まで注一甲となし進士及第を賜ふ︵その第一名を状元といひ︑第二名を傍眼︑第三

名逓探花といふ︶︒これに次ぐ者を二甲とし進士出身を賜ひ︑その餘を三甲とし同進士出身を賜はるのである︒とこ

βろで三百人の貢士のうち︑一甲に選ばれるものは眺孟長と侯豫隙と彼であらうとの下馬評専ら向く︑しかも三人いづ

れも蘇州府出身︑これこそ蘇州の名審だと噂されてゐた︒ところが意外にも︑彼の名はやつと三甲に在った︒勿論す

べては袖の下のしわざである︒

進士の巾から特に文乖に秀でたものを健衡し庶吉士として翰林院に入れられることになってゐる︒寅力から云って

彼は常然その選に中るべきであった︒しかし彼は叩込まなかった︒侯豫鵬は應じたがハネられた︒樹時翰林學士の相

場は二千金だった・・﹁君には特に側百金の手数料を錐引いて上げます︒千六百金だけお出しなさい︑きっと世話しま

すから﹂と親切に噛めてくれる友人があったけれども︑紹衷は﹁白分はこれまで一度も寒夜の門を叩いたことはない

葉天謹とその一家三七︵一二ハ○九︺

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試験地獄から解放されて一年牛ばかり休養︒やがて三十九歳の春︑軍身北京に至り南氷武躍教授の宮に除せられ︑

七月一家を幸へて任地に赴く︒十一月北京國子監助教に榮輔︑翌年︑年號も崇祓と改まった元年三月Wび躍身赴任し︑

その年の十月には更に工部虞衡司主事に外任す︒亡父と同じ官であるのも一奇である︒同月二十日江南地方へ注文し

てあった胖衣I塞上防備の兵士に着せる防塞衣lの催促受取方を命ぜられて十一月十五︑南下︑十二川十八日家

に蒲き正月を迎へる︒三月十一日は恰も老母七秩の期であり︑親朋相楽り緋が三十年の苦勢に封し感謝の宴を張った︒

五月使命を完うし︑十月北上する段になって族災がなく︑妻が荒物や叙を瞳に入れて得た二十七余で辛くも出立し

た︒折角かういふ身入りのよい役をつけて曲っても︑彼のやうな腹のきれいな春にか上ってかなはない︒許通の者で

あったら幾百金の上前をハネルのは何でもない事であったらうし︑政府の豫算にもそれ位の金は繰込んである筈であ

らう︒しかし彼にはそんなことは思っても汚らはしいことであったのだ︒ゞ

十二月徳州まで來たとき︑清兵はすでに大畢して塞に入り︐道路は杜絶して行かれない︒仲運の葉呑城が濟寧州に

ゐたのを幸ひ︑一時そこまで引返し︑翌崇頼三年正月︑清兵はすでに北京に辿り永平まで来てゐる︑その危瞼を冒し

文學研究鋪三十榊二八︵三六一○︺

から﹂といって辞り︑﹁あまりに迂﹂と云はれても顧みなかった︒

五月二十六日北京を出發︑途中悠変と名勝古賦を訪ひつつ南下︑六月二十九日家に着く︒今まで寂しかった一家は

念に二人の新しい進士を得て一時に花が咲いたやう︒その年の十一月には妻の胆方の沈君庸家に壷はれてゐた三女遡

章が飾って來た︒時に十歳︑玉のごとき妹顔はすでにたぐひなく︑その砿たけた姿はもう十三四にも見えた︒

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て入都︑十六日陛見︑上奏報告を経へ︑朝陽門城守を仰せつけられた︒役目は備品の検査である︒旅棚︑砲架︑提魅︑ |

蝋燭︑桐油︑綿布︑楊條︑アン・へラ︑銅鈎︑鐵伽︑土瓶︑鉛蕊︑朱砂︑石鑿︑竹舗︑草履の類︑その他土木兵器製造

に必要な材料器具の黙数を帳飾と照合して調べるのである︒ところで噛時の乱脈ぶりといふものはお話にならなかっ

た︒慾の皮の突張った喧官様が何事にも出しゃばり立て︑不急不要の豫弊を要求しては上前をハネようと目の色を愛

へてゐる︒例へぱ紅夷磯︵オランダ大砲︶に︑ちゃんとした砲架がついてゐるのに︑彼等は更に新しいものに造りかヘ

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ねばいかんとあって︑蕊基廠に移牒して香楠の大木を通ぴ來らせ︑數抱へもある奴を小さく幾つにも切てしまふ︒そ

れだけでも惜しいのに︑讃際公けの川に充てるのは十の一で︑あと十の九までは自分の家へ持2﹂行ってしまふので

ある︒さて砲架が出來た︒するとこんどはその饗ひの布が娃非必要だと言ひ出す︒その布も只のぢや駄目である︑赤

・く染めたのでなければ︑︲いや赤く染めただけぢやキョクがござらぬ︑どうせ作るな好瀧の椣様を拙き五釆で飾った方

がよう芦﹄ざらう.lもう清の兵騰がすぐそこ.永平.浬州あたりまで抑寄せて来てゐるといふのに︑圃家の澱川は

一銭一厘といへども無駄にしてならぬ時であるのに︑彼呼はそんな途方もないことを言ひ出して少しでも災朋を大き

くし︑それだけ餘計に上前をハネようといふ算段に浮身を蕊してゐるのだ︒葉紹哀はさういふ有様を見てただ首を垂

れて長太息をするばかり︑一言も發し得ないのであった︒

常時住宅難で彼はやむを得ず朝陽門に近い興武廟の¥.︑ごノ︑したやかましい虚に︑陳瑛といふ心利いたボーイと︑

もう一人髭もじゃの料理人と共に佗しい悪しをしてゐた︒折柄黄沙天を砿ひ︑愁蹄の象は何やら不吉な狸兆を感じさ

職一人友の心はおちノ︑落つかぬ︒敵はもうどこそこまで來たさうなと噂とり人︑で︑いろんな流言輩詔が飛び交って

燕天婁とその一家三九︵一三二己

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丈學研究錐三十韓︑四○︵三六三口

ゐる︒夕方になって下役の春が礎らホ引取ってしまふと︑紹哀は陳瑛を州手に酒を酌むのであったが︑殊に朧川の微

かな光が庭の戸を照すとき︑寂しさはいよ︐11堪えがたかった︒遥か三千里の外なる故郷の筌を望み白髪の老母を思

ひ紅顔の愛妻を偲び︑月に向って妻の名を呼びかけて︑忠はす畷り泣くのであった︒

朝陽川は北京の正東の門︑薊遼へ通ずる山海の要道であって︑敵の來攻の場合まづ第一恭にとLから攻めるのは必

至であり︑こ上の城守の武任は重い︒二月七日の夜︑狼煙が上り︑敵ははや都城から四十里のところまで辿ったとの

諜報が入った︒四十里といへぱ日本里勤で六里餘である︒これには流石の寵官逹も仰天した︒紹衷も無論おどろいて︑

早速部下に命じてそれ小︑部署につかしめ︑自ら城に壷つた︒.と︑忽ち箭城に火事が起ったとの報告︒スハこそと︑

彼は章服のまL馬に打乘D馳せつける︒あわて腐った小内胆どもが柵を閉ぢて入れぬ︒幸ひ火事はボャ程度で大した

事なくて鋲つたが︑やがて東北隅から黄竣湘き起り︑天筌にみなぎるよと見るうち︑烈しい北風がピューノ︑砂石を

吹き捲いて︑天地も爲にくらく︑塞外さながらの景を呈したので︑王城内の人友みな傑然とせぬはなかつた︒翌日城

門を開くと共に︑無数の避難民が緬盈はいって來た︒が午頃になって刑純兵曹文詔が鴉鴻橋︵亡父の任地たりし王田

縣に在り︶に兵を伏せて敵を喋退したとの捷報至り︑ホッと胸を撫で下した︒風雛鶴喉に鵬を驚かされるHが幾日も

綾いた︒遠く外省から派遥されて京師を成ってゐる兵隊達が︑夜宿所がないので城外の居民を掠奪するのを︑浦兵が

攻めて來たものと早呑込みして角怖を吹き狼煙をあげて大騒ぎしたこともあった︒

科憶顔繼祀の献議によって北京の城濠を竣喋するに決し︑都水主事方應明がその任に當つた︒ところが顔と方の間

に前から何か私怨があったものか︑方が偶交現場を離れて私寓に行ってゐる間に顔が突然やって來て︑早速方を以て

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お役目を怠ってゐるとなし之を上奏弾劾したのである﹂その結果︑方は忽ち逮捕せられ︑官服を概奪されて布施小幅

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といふ平人の扮装で血の色さへ失って引かれて行くのを︑町の人達がやれおいたはしいと目に涙を浮べて見送った︒

午門に於て廷杖八十︑総帥の藩護によってやうゃくの事で死罪だけは苑れたが︑lきうした同雌の不幸撞目のあた

りに見せつけられて︑紹衷は心から戦楳逓禁じ得なかったであらうCそれでなくても北京の孤澗な生活にはつくづく︑

嫌氣のさしてゐた彼であった︒﹁あ叉俺はもう役人生活は懲りj︑だ︒早く僻めて故郷に師りたい﹂と彼は陳瑛にも

心中を洩らしたものである︒豈計らんや︑その翌十八日︑方の後任として外ならぬ紹玄自身へ任命壯が下されたので

ある︒間より僻退は許されぬ︒恐腿して拝授する外はなかった︒城守たるはそのま上での兼任である︒十九日現場へ

行ってみると︑葦ぶき小屋を立て上官署と稲してゐる︒股塗逵からねば朝は星を戴いて入り夕は月を戴いて出で︑次

風沙日の中を駈けすり廻り︑わが身をいたはる進もあらばこそ︑ただ人に怨みを取らぬやうに勉勵した︒同役に寵官

が一人ゐた︒これがひどい奴で事毎に紹衷筵製肘し︑我用を多くしようとするのには紹哀も随分手を焼いた︒それで

も幸ひに彼の眞梨な人柄が同役途を動かしたと察せられる︒つひに一人として不正な着服をする春もなかったのであ

ろ︒そして四月十五日工事も大方完成を見ようとしてやれj︲︑と思ってゐる畔︑叉しても彼の上に災難が降りか上っ

た︒いはゆる炸磁の獄である︒微時役人達の洲匹ニッ巴四シ巴の反目があり︑工部王事で喪甲廠︵つまり甲冑を製

鐘する工臓であるきの職播である李逢申なる人が.州手方に陥れられて役目をしくじりlといふのは︑彼が天子

の御前で大砲の發射淡習を行った際︑敵はひそかに細兵の王威といふ男に池じて火薬の中に﹁髪次﹂を混入せしめた

爲︑發射する前に爆發してしまひ︑龍顔獲怒して安民職の監将と共につひに流罪に虎せられ︑雨廠の後任の席が筌い

葉天塞とその一家四一︵三ハニ己

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文畢研究錐三十岬四二2六一四︶

てゐた︒その厄介な因縁つきの盗甲廠監将の役が叉も紹衷に振徴てられたのだ︒彼の﹁同年﹂やⅢ官逹は彼のために・

色を失った︑城守と濠の工事の上に叉この難役︑しかも軍旅の事は書生の智ふ所でない︒殊に大砲は難中の難であ︐

ろ︒一時は途方に葬れたが︑やはり彼の人徳の致す所であらう︑幸ひ髄時砲術の名人といはれた人の協力を得︑叉彼

に同傭した徐光楪等の大官が命同して王城をして手を下す隙なからしめたお蔭で無事役目を果すことが出来た︒

城渋の工事は四月二十日に完了︑崇文門より北︑東直川を越える十里餘︑輻三丈︑深さ一丈︑長さ三百三十丈餘に

亙る壕が見事に出來上った︒しかも五月十九日や經挫計算の紬果︑初めの豫算二十二寓雨の半分にも洲たぬ九斑九千

九百九十五雨で濟んだといふ好成紙であったので︑大司塞は紹衷に對し褒賞を賜る様上疏したのであったが︑つひに

その沙汰はなかった︒例の宜官共が︑紹衷の裁抑によって上前をハネルことの出來なかったのを恨んでの虚世たるは

言ふまでもない︒

六月︑朝賜門城守の役を撤せられ︑功により森叩廠専管となり︑やうやく愁眉を開いた︒しかし同廠の事務は恐ろ

しく面倒で︑まかり達へぱ生命に開はる事であった︒偶登九月九日天子が中宮と共に玉叢に召されて醐歳山に春闘し

給ひ︑叉舵舟に召されるのを拝棚する機禽を得た︒彼は生死榮辱の開の一人の喜怒に操らるるのを今更ながら歎じ︑

一日も早く役人の生活から足を洗ひたい︑早く僻めて癒しい故郷へ肺りたいと︑只管それのみ念するやうになった︒〆

幸ひ彼に同附し中に在って斡旋してくれる人があってつひに僻職噸は叩届けられた︒しかも十一月愈盈肺郷する段に

なると︑族斐がない︒親戚の沈飛脈から五十雨だけ借受けてやうやく旅装を術へる始末であった︒在職中わが手一つ

に川繭九千二百餘雨といふ官金を扱ひながら彼はつひにそれに一文も手を染めなかったのである︒その年の幕も迫つ

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た十二月二十八日に懐しの家に蒲く︒老母や妻子の無事な顔を見た時のうれしさ︑蜜際︑生きて還ったのが不思議に

思はれて相共にただ暖り泣くばかりであった︒去年北行の直後に生れた七子世煙はもう笑ふや弓になってゐた︒次女

慈細は初兇l彼にとっては初孫を儲けてゐた︒ことに三女の瑛章︵小獄︶が盈糞十五歳︑王色人に映するあでやか

な姿を兄ると恩はず鰭し涙がこぼれ︑叉狂って舞ひたい氣がするのであった︒.

元旦︑久しぶりに諸兄弟子姪悉く一堂に集って水入らずの裳を張る︒二日には長女昭齊も絲付先から飾って來た︒

北京に於ける役人生活の苦しさ︑辛らさ︑孤猫の悲しさを回想すれば︑丘に陥世の感があり︑夢ではないかと思はれ

るのであった︒殊に褒章の傾國傾城の姿にはわが子ながら夢中になってしまった︒聰明たぐひないのはいふまでもな

く︑話す言葉さへ香を生じ口を突いて出る一言共たが詩を成してゐた︒理輩を一時も彼は膝から雛さうとしなかっ

た︒朝な夕な︑この子と琴警を共にし︑一詠一鱸するその楽しさ︑世にこれほどの梁しさがあらうかと思はれた︒

坐して食へぱの俗諺の如く︑その年の七月には早くも葉家の經濟状態は逼迫して︑從弟の季藷から米三十石を借り

︑ず

ればならなかった︒しかし彼はなほその樂しみを改めようとはしなかった︒八剛彼が李流漢に倣って﹁秋川村朏詩﹂

八首産作ると︑妻の宛君が早速その原訓に即いて和し︑昭齊︑慈細︑理章の三女︑及び長子世栓等︑みな脇和した︒

﹁物候雑新架︑流光憶献桃﹂﹁鑑集秋裳色︑香分楚伽來﹂︵宛飛︶︲

﹁難茱新堪寄︑家風五柳偏﹂﹁風刈逵秋美︑村睦入夜悠﹂﹁但恐井峡際︑自識綺羅閑﹂︵昭齋︶

﹁水無金鈴椀︑月即夜光杯﹂﹁敲砧新月夜︑吹笛断雲天﹂︵悲綱︶

莱天蓼とその一家四三︵三六一否

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丈畢研究錐三十稗四四︵一三ハニc

﹁日靜披雲巻︑衣香饗調杯﹂一︲軍關深鎖川︑敞開斐飛雲﹂﹁清收秋水映︑芳袖露華塞﹂﹁竹梢枕白日︑水面洗背山︑

臨鏡花常暁︑薫香韻自間﹂︵瓊章︶

﹁野花常入硯︑悶雨又催杯﹂﹁鐙花地衝撚︑木葉舞諜塞﹂︵世佳︶.

これらの句︑いづれも麗語雅語奇語ならぬはない︒

翌年の哀は大半魅で︑水の柵れた太湖の湖底から蝋たたる太湖石が無数に現はれた︒故老の話によるとそれは百年

前某家の卿亭であったとのことであった︒子供達は零℃の石を取って來てみな﹁記﹂を作ったが︑時に世佳は年十九︑

世僻は十五︑世俗は十四︑理末は十七︑いづれも立派な文潅であった︒↓それを見た世人達は葉家を以て古への謝家劉

家に比し︑一家學って文才に恵まれてゐることに驚喚の目を腱つた︒まことに葉家のあまりにも大きな脈に對して造

物者も忌む所があったのであらうか︑lその時早くも死祁はこの幸禰な愛の一家の門口へ忍び寄ってゐたのである︒

彼等夫婦は妓愛の三女理章を嫁かすた心に日夜顕を悩ましてゐた︒堵がね勝込山の張泰符方伯の長子立半︑塗章が

十歳の時から婚約してゐた人である︒乏しい中から漸く遥繰算段をして蛎費をととのへ︑あと五日でいよ﹄︑輿入と

いふ十月十一日︑何といふことであらうか︑明珠忽ち限ち笂鏡は突如その光を氷へに失ってしまったのである︒もっと

もその前から二十五日ほどかりそめの病の床に就いてゐたので︑卿く輿入の日取を延ばしたいと堵家へ叩込んだけれ

ども︑故更に口蛮をかまへて婚期を延ばさうとしてゐると疑った塔側ではこれを承知しなかった︒しかしこの病氣が

まさかに命取りにならうとは葉夫婦の夢にも恩はいことであった︒年わづかに十七︒晴天の癖潅といはうか︑全く以

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て信じられず諦められないのも無理はなかった︒七日目の入棺の日︑口E以珠を含ませる時︑瓊牽のあくまで赤く丹

のやうな唇︑眞白い雲をあざむく顔︑ふっくらとしてしなやかにまた玉のやうに潤ひを帯びかぐはしい香さへ放って

ゐるその肌を見た人にはどうしても彼女が死んだとは信じられなかった︒宛湫は悲しみにたへず死薪の右腕に﹁理

章﹂の二字を朱謝した︒もしや來世で出逢った時にはこの腕の字を目印に親子の名乘をあげようといふのであった︒

その腕は蓮根を伽いだやうに腫白かつた︒これが仙徴でなくて何であらう︒柑に入れるときその身髄があまり嘘かつ

たので︑これはあたり前の死ではあるまい︑仙化したのに連ひないと皆交言ひ合った︒少くとも紹衷は心からそれを

信じた︒信じないでは居られなかった︒いや︑信じなければやり切れなかったと云った方がよいかも知れぬ︒

やがて瓊章の堵となるぺかりし人が見舞に來た︒見るからに感じのよい頭のよささうな藻々しい青年であった︒こ

のやうな理想の婿を得てゐながら︑佳人はもはやこの世にない︒生かしたかった︒もう少しでい上から生かしたかっ

た︒我家は代凌清規を守り撲徳を徳へてゐる家である︒父は世渡りの道にこそ拙なけれ︑何一つ悪い事をした兇えは

ないのだし︑母は深く内典に心と潜め日食維躍を訓してゐるではないか︒お前を死なせねばならぬ程のいかなる罪を

我だが犯したといふのだ︒死が我々に免れがたき迩命であったといふなら︑父われこそそれを受くべきものである︒

.詔顔榔曲の瓊章に何の筈があったといふのだ︒Iすべては詮なき愚痴であった︒

死の刺はなほも犠牲を要求してゐた︒ねらはれた人は長女昭齊︑その年の十二月二十二日の邪であり︑攻章の死か

ら七十日も經ってゐない︒彼女は三妹の結婚を呪ふ﹁催粧緋﹂を作り経った時︑思ひがけない悲報を受取ったのであ

った︒あまりの驚きに胸つぶれ︐課凌士二日生家に馳せ肺り︑三妹の床にすがって蕊も出なくなるまで突いた︒と処

莱天蓼とその一家四五g天一も

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文皐研究姉三十艸四六︵一三︿一︾ひ

る間に彼女の頬の肉が落ち肌の色つやが念に恐ろしいまでになり行くのを見て父母は大いに驚いた︒二ケ月程前から

少し身慨の加減がよくなかったのが︑この時俄かに悪化したのであらう︒以後慨全病休に在ること月隙︑なぼ三妹の

挽章を賦すべく華を離さぬのであったが︑つひに土万二十二日の子刻︑父母に見取られ︑合単念佛した永上安らか

に息を引取った︒時に年二十四︒

昭齊の結婚は︑よくわからぬながら︑進だ不幸であったと推最し得べきふしがある︒彼女は生れて幾何もなくして

哀箔思の塾一手に許字された︒﹁初生の女は夜光の王より量い鳥といはれるのに︑敢てこれを衷氏に許したのは︑葉

衰二家の二世にわたる重縁美談として叩き知る人々の喚孵する所であった︒しかるに紹衷はその婚について何等記す

所なく︑た唾若思の餡一手とのみで殊史に名さへ記してゐないし︑叉昭齊の死を以て獅屈の致す所と一室つてはごから

ぬあたりから見ると︑彼女の夫なる人は佳人と偶するにふさはしからぬ人物であったことが考︿られる︒彼女が成婚

したのは六年前の十月︑鴬時亥若思は厭西の役人となってゐた時で︑可愛い娘をはる人︑数千里の地へ娘を送ってや

ったのであった︒しかしその翌年若恩がボックリ死に︑一家は呉江に蹄ってゐたから︑折々生家に蹄ることも出来た

やうであるが︑その間何か言ふに言はれぬ不幸な事附が潜んでゐたのではなからうか︒彼女の詩集を名づけて﹁愁

言﹂といふ︒まことに一首として愁言怨語でないのはない︒その﹁秋日神懐﹂に云ふ︑

落晩長如夢︑憂來哨浦胸︑衆人皆若畔︑畢世更難澄︑紺髪向秋暮︑白雲無路盗︑惟懐對揺落.臨眺一冊噸︑

父紹亥はこの詩に注して.時として愁ひざるは無く一語として怨みざるは無し︑賓交諺死︑傷しい哉﹂と云って ゐるのである︒

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死祁はまだ葉家を見捨てたわけではなかった︒一年越えて崇祓七年の正月︑吹雪の荒れ狂ふまい日であった︒次子

世僻が突然血数升を吐いた︒彼はその前年の春︑長兄世栓︑三弟世俗と共に蘇州の童子試に雁じ︑兄も弟もパスした

のに︑試聡官の﹁昏狂錯謬﹂に災ひされて彼一人その選に洩れた︒以來鯵々として途にこの病を得たのである︒三月

になって漸く快方に向ったかと喜んでゐたら︑こんどは入れ替りに妻の宛君が病淋に臥する身となつ↑も無論二人の

娘に先立たれて悲しみ過ぎたのが病因である︒秋に入つ︲て漸く平復した︒と︑又しても世僻が疵を病み︑翌年二〃つ

ひに価を去った︒時に十八歳であった︒

泄僻の未婚の妻の職氏紘l連山の顧漢石累赦土皐の繼古の女で太陣蹴文康公卯邑の玄孫女lは堅く

婦節を守って未婚の夫の魚に服喪し︑葉家から再三辞退したが聴かす︑三月十七日凶服して典入をなしたのである︒

その日は陰雨が暗く立ち徳めてまことにいやな日であった︒平生多くの孫の中でも別して枇僻を愛してゐた老母は︑

術くその早天を悲しんでゐたから︑この円は自ら堂に登って饗を受け︑貞節な厭氏の手を取って且つ歎き且つその点

をた上へてゐるうち︑突然卒倒してしまった︒あわてて内に助け入れた時はもはやこと切れて醤者も間に合はなかっ

た︒七十六歳であった︒

j四月︑服喪中に五戒になる八子枇催が叉祗母の後を追った︒亜なる打撃に麥宛君は愈為弱り︑俄かに略血した︒世

莱天蓼とその一家︐四七︵墨ハ一九︶

紹衷は瓊章の詩文集﹁返生香﹂と昭齊の詩文菜﹁愁一亘各一巻を涙ながらに細んで刊行した︒別して﹁返生香﹂の

哀腕極りなき文怖は世人を驚嘆せしめ︑天才少女葉小講の名を文學史上不朽にした︒.︽

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偶とそっくり同じ症状であった︒中元すぎると愈々衰弱する一方︑人蓼を服ませるために.衣類変石等を質に入れ箪

笥を空にしてしまった甲斐もなく︑九月五日の夕︑妻も又この世の人ではなくなった︒時に年四十六︒

平生金鑓の出し入れはみな妻の手でなされ︑紹衷は全然興り知らなかった︒金叩を改めてみると︑中にあるのは質

札ばかり︒詩稿と一しよくたになってをり︑金といっては零銀がタッタの七嬢嬢ってゐるきりであった︒叉介仰には

米が六石あるきりであった︒打綻く葬式の後とて無理はなかった︒親戚や友人が和班って助けてくれたお蔭でやうや

く葬ひをすませた︒

交鯉術は東西共に在り︑今日の文明國民の間でも往盈にして信ぜられてゐるらしいが︑殊に葉紹衷の如き立場に世

かれた人がさうした嬢魂との交通の可能を信ずるやうになる氣持には多少同怖出來る所があるやうにも恩はれる︒女

々しいと云へぼあまりにも女々しいが︑一概に笑ひ去るわけにも行かぬ︒彼の﹁窃開﹂及び﹁綾窃聞﹂の二記は彼の

奇怪なる交霊の記録である︒彼の甥︑つまり姉の子に常る蘇州の厳仲口の家に厳永といふ僅僕がゐた︒この男はいは

ゆる﹁兵役﹂であった︒此世と彼世との間を自由に往来し︑冥間にある諏の役目を持ってゐる人間のことで︑榔迅の

﹁朝花夕拾﹂の中に出て來るところの﹁走無常﹂と同じものであらう︒崇祓七年八月紹衷はこの男を螺媒とやらいふ

ものにして色々と冥間の車を聞き訊し︑また峻交夢枕に立った亡女とも直接問篠して瓊章が天上の仙境に在って玉呈#

に仕へ修文女史となってゐることを益交信歩るに至った︒また彼は自分の家で扶乱一種の降盤術を行ひ︑勅推大・

師といふ古への名僧の霊を迎へて︑死んだ妻や子女たちの死後の事情をたづね︑種交の奇怪な因果話を記述してゐる︒

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天雲と池誌大師の降嬢との問答の一部分を學げてみよう︒1 '4 i

l私の亡女小驚は一柵何者だったのですか︒

1月府の侍書だ︒︑

1月府といふのは世にいふ厩塞宮のことでせうか︒

Iいや︑それとは別だ︒

Iではなぜこの世に下りて来たのでせうか︒

llなに遊びに来たまでだよ︒

l遊びに?ではなぜ特に私の家に來なければならなかったのでせう︒

l祁仙の遊びは︑必ず清節の家を鐸ぶのだ︒それにあんたとは昔禽ったことがあるからだ︒

︒私といつ含つたのですか︒

lあんたの前生は秦太虚なのだ.その前の前は梅耐だった︒その時一度遡章と御った筈だ︒理章はその時は女子

で︑・松徳といふ名だった︒その前の前は榔仲連で︑その時も一度御ってゐる︒あんたの夫人は案太虚夫人︑つまり蘇

東波の娘であった︒その前の前には薬經の妹であって︑衝時一度理章と禽ってゐる筈だ︒あんたの家の春蹄はみなそ︑

れ人︑奇跡を持ってゐるよ・今はっきり調尋へきれないがね︒

l小講は今どこへ行ってるのですか︒

I維山仙府にゐる︒

葉天塞とその一家四九g二︿ここ︑

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1』 −可

丈學研究錐三十輯五○︵一三︿一三︶

lそれは河南省にある鐡尚維繊のことですか︒

lちがふ︒雲瑛の外︑月府に在るのだ︒

︒ざっとこんな風である︒また大師が宛君︑褒章︑昭齊の三人と聯句をやる記事などは一寸かの﹁西青散記﹂詮思ひ

出させる︒﹁錨聞﹂の雌後に彼はこんな意味のことを書き添へてゐる︒﹁自分は生れつき迂直な人間で︑人を欺かう

などといふ氣は敢て持ち得ないし︲またこれを人に信じて欲しいと祓ってゐるわけでもない︒人がこれを以て興漉有

ったことLなし$口盈に羨んでくれたところで︑私の娘が生返って來るわけではないし︑また人がこれを假託である

と見たとしても︑蘇東波が云ったやうに︑﹃子姑く妄りに之を言へ︑商人玄士の座尾諏末に炎する︑亦可ならずや﹄

である︒されば夢に遇ったとと目で見たことを筆げて悉くこれを殺青に付したわけである︒﹂

妻の死後︐彼が浮世を捨てたい氣持になったことは寧ろ横然であったと云へよう︒彼は妻の死ぬこた月ほど前に︑

自分がある物寂ぴた小さな古寺にた瞥凋り僧となり︑名も﹁天婁﹂となってゐるといふ夢を見た︒妻の死の豫兆であ

ったとは後に恩ひ知った︒彼が﹁天婁遊人﹂と號するやうになったのはそれかちである︒

翌年九月﹁午夢堂集﹂成る︒沈宛君の詩文集﹁職吹﹂三巻︑昭齊の詩文集﹁愁一面﹂一巻︑理章の詩文集﹃返生香﹂

一巻︑天塞の﹁窃聞・綾窃州﹂一怨︑沈宛君の蝿に係る名媛詩文集﹁伊人思﹄一巻︑世僻の詩文集﹁百妥草﹂一巻︑

天婁の詩集﹁案齋怨﹂一巻︑葉一家の挽棚を集めた﹁乢雁芒一巻︑諸家から鯆られた挽什を錐めた﹁彫種綾些﹂二

︑巻︑共に九種を含むoその後に死ん道一手世熔の遺文を集めた﹁霊謹集﹂を入れて十種と爲した︒

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九十になった年︑三子世俗のために妻を要ってやる︒沈君晦の女で︑名は悲英︑字は蘭支とよぶ詩を善くする歴人︑

化兒の爲に化婦を得たことを喜んだ︒がそれとて束の間の喜びであったとは脚ならぬ身の知る曲もない︒その翌年の

七月︑泄倦は常然及第すべかりし試験に落ち︑その醗服と過鍔とが原因となって肺を悪くし︑いやな嗽をするやうに

なった︒長子世栓は親身になって弟をいたはり︑腹糞自ら附添って蘇州や嘉善の購者に就き︑或は恋に求めたが︑一

向に嶮なく︑病は進む一方である︒その頃の天雲の心を慰めるものが唯一つあった︒それは五女干理で︑その六月に

彼女が父に呈した一詩に云ふ︑

風動雄開日影渚︑絲梢朋坐午香經︑銀牌寂寂棡花藩︑遙迭流鴬第幾雛︑

これが十四歳の少女の作った詩である︒清拙秀冊︑眞にその人の如きものあり︑母がなくなった時この子は十族で

葉天蓼とその一家五一︵一三︿三s

崇祓十年︑天婁四十九歳︑悼亡の思ひは益麦深く︑経円窓を閉し旅人のやうな氣持で暮してゐる︒六月︑母の喪があける︒八月には自宅に近い蜜生悲の前の湖に放生柵を設けた︒十二月亡妻二十七ケ月の喪が明け︑子供逹は喪服を除いた︒しかし彼の心中の喪はもはや永遠に明けやらぬ︒

彼の﹁自撰年譜﹂は一先づことで絡ってゐる︒この年譜は五十歳の非に番かれたもので︑かの蓮伯玉が五十にして

四十九年の非を知るとの義によったのである︒文章はあくまで華やかな四六餅礎文︑しかも一hに女たしいと云へる

までに極端に感傷的である︒こた言目には悼亡の字句が出て來る︒さすがの私もいささか食傷氣味になって︑そんな

文字はつとめてどんj︑抹殺して行ったが︑それでもなほ相犠センチメンタル文章になったかと恐れる︒ ■■■■︒■■ⅡⅡⅡⅡ911も

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丈祭研究錐二一十岬五二︵三︿二四︺

あった母の残後誰も記訓を課してくれる春もないのに夙悲かくの如しと︑天謬は今更ながら彼女の亡き母や姉逹の

ことを追惚して涙を辨すのであったoかう涙多くしてはいくら看經念佛しても佛様は反ってうるさがり給ふのではな

からうかと心配される︒蘇州の刑稚大師の降嬢は峻盈書を致して人生の無常を説き佛の通に入らんことを勅告した︒

天鎭一といへども理屈の上からはそれ位のことがわからぬわけではなかった︒しかし中盈蛮践はむつかしかったらう︒

名僧に瓶んで加持祇礁をして貰った叩斐もなく︑世怖は翌年の二月.生れて一ヶ月にも漁たぬ一女を残してたぅと

う死んでしまふ︒年二土一︒︵その辿女も叉幾何もなくして父の後を追った︒︶

天婁はその半生を試験のために苦み抜いた筈である︒しかも今尚子供達にその苦しみを嘗めさせて慨らぬのはどう

いふ了見であらうか︒時代の通念を超越することの如何に困難であるかわかる︒世栓はじめ世佃︑世倫みな述年試験

を受けてゐるがいづれも落第つ宮き︒﹁賄賂公然行はれ︑上は官筬を失ひ下は廉恥を亡ふ︑遇と不遇は天なり︑今は

不遇が反って幸である﹂と天塞は悟ったやうなことを言うてゐるが︑笈はこれも例の懸痴︑泣き言に外ならぬ︒五子

世傭も丁度その兄の轍を踏み︑落飾を悲観してやっぱり血喋を見るやうになり間もなく死んでしまふ︒これは叩申の

前年のこと︒年二十であった︒天婁は二人の枕を賀ふためにその都度田を喪らねばならなかった︒

甲申の年︑天婁五土ハ鼓︒その四月になって一二月十九日の悲劇を附き知った︒五月一日︑甥の厳仲日からかの言ふ

に忍びざる事︵天子煤山に縊り給ふの事︶を知らせられ︑鋤尖して﹁挽駕詩﹂十首を作った︒・

世を鶏げて騒然鼎の沸くが如くである︒六月安撫祁彪佳の美江に至るや彼は入城して之に謁した︒︑徴時天塞を以て

人倫道徳に於いて最もすぐれた人材なりとして︑多数の人糞の椎蕊する所となり︑一駐脹建提學に擬せられたことが

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あったが︑それもつひに沙斌止となった︒一寓金の賄賂が出せなかったからであった︒彼は︑今更役人となっても始

まらぬと云ってゐる︒︵しかしその口占からさう悪い氣はしてゐなかつ・たらうと察せられる︒少くとも私にはさう誼

み取られる︶

明くれば乙酉年︑五十七歳︒一二月︑世棺は嘉警の童子試に名第一に在った︒四月︑科學の成絞發表︑世佃はパスし

たが世栓の文章があまり緒遼深遠であったため避に洩れた︒六月四日︑清兵蘇州に入り︑士民は香を執って迎へた︒

蘇州の紳士連は降伏状を上り之に媚を献じた︒十九日︑服漢石︵死んだ世僻の里︶が杭州から難を避けて故郷妃山へ

の師途葉家に立寄り︑二十一日立った翌日︑清兵がその跡をつけて葉家へ乘込んで來た︒天寒一は之を溌知して家族と

共にその前夜︑暗にまぎれて他に避難してゐたので掠奪逓蒙つただけで危く生命は免れた︒漢石は途中で捕へられた︒

閏六月土一百︑親戚の沈君晦が陳湖に義兵を畢げた︒世ハ日には嘉興城陥ち︑彼が知己の感を抱いてゐた徐虞求が

之に殉じた︒什七日︑山左の宋王仲及び玉叔の一見弟︑王敬哉︑謝徳修︑左懲弟の夫人等が家族を從へて葉家に避難

して來た︒天峯は家を開放してこれらの人盈を湫待した︒やがて呉Ⅱ生が義師を典した︒

七月︑南京の大盗徐復なる者がどさくさ紛れに中山王の商と假稚してゐるのを︑哀若思の子四雁が誤って之を信じ︑

徐を上客として箪敬し︑士衿を抽縛殴打するやうな事をやって︑そのため衷家は火を放たれて全焼した︒中元の日に

若思未亡人は諸孫を革へて葉家に投じ︽卜︒ついで徐復も來り保誰逓乞ふたので︑これを斬った︒

二十日︑呉日生の軍は梅家柵で大敗し︑清兵紛為どして南下し︐薙髪令は益左厳しい◎八月二十五川︑天塞はつひ

に意を決して諸子と共に通れて傭となった︒

莱天蓼とその一家五三︵一二︿二五︶

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