目次 1.はじめに
2.ニュー・エディンバラの建設,第一次遠征隊の帰国 3.あとがき
1.はじめに
クリストバル・コロンCristobal Colon(14511506)による1492年の新 大陸の発見とマガリャンイスFerdinand Magellan(c.14801521)による世 界周航によって開始された「大航海時代」は,ヨーロッパ諸国による海外領 土獲得戦を招来し,スペイン,オランダはポルトガルから覇権を奪い,さら に英仏間の海外貿易争奪に勝利した連合王国の黄金時代をむかえることに なった。ただ,海図の作成,測量技術の進歩などがあっても,動力船の登場 にはさらに時間を要し,産業革命を待たねばならなかった。つまり,人力を も含む自然力による航海は,ダリエン地峡に植民地を建設するというスコッ トランドの試みが行われた,この物語の時代にも妥当したことになる。
さて,エディンバラを出発した一行はダリエンに到着後,現地の有様を探 索し,彼らの根拠地ニュー・ディンバラを建設した後,エディンバラへの使 節を送ることになる。その人選にも一悶着があったが,一行はアリグザン
<資 料>
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・
エディンバラの建設,第一次遠征隊の帰国
キーワード:ニュー・エディンバラ,ダリエン地峡,イングランド重商主義,
ウィリアム・パタースン,ライオネル・ウェイファ
渡 辺 邦 博
153
ダ・ハミルトンを選出して,船はダリエンからは1698年の12月29日に出 発,エディバラへは翌年3月25日に到着したが,エディンバラではイング ランドの国王との折衝などでモタつき,第二次遠征隊の出発の決定は年末ま でずれ込むことになる。前回とは異なり,航路は北海を経由して西航するの ではなく,グラーズゴウから大西洋に出る。最初の北回りが余程彼らには堪 えたものと思われる。
さらに,スコットランド帰国後には,スペインとスコットランド植民者た ちとの抗争が開始される。南米での交戦では,戦力だけでなく,厳しい熱帯 性の気候条件の二つを相手にしなければならなかった。いずれの側も現地イ ンディアンたちを徴発しての,消耗戦が繰り広げられる。さらに,植民地の 建設も悪天のために遅々として進まず,さらにすでに船中で見られた,ス コットランド人内部の勢力争いが首をもたげる。パタースンは,カリブ海域 に出没するバッカニーアたちとも,他方で周知のペニクック,ドラモンドた ちによる内部抗争にも対応しつつ,スペインとの戦闘の合間を縫って,ス コットランドとインディアンたちとの協定の誓約に直面したが,先行きは不 透明であった。
2 .ニュー・エディンバラの建設,第一次遠征隊の帰国1)
11月2日の水曜日の朝にセイント・アンドルー号 の船腹を乗り越えてやっ てきた偉大な酋長は,にこりともしない表情をした,がっしりとした小柄なcapta i n インディアンであった。彼の名前はアンドレアス,つまり,その男がその着 衣だけでなく,その顔つきによってスペイン貴族風の威厳をも頂戴したスペ イン人たちにそう呼ばれていたものであった。絵具で描かれた彼の胸は,
ゆったりした赤いジャケットで覆われ,彼のt h i g h s
太腿は,男らしい銀色の円錐体 が突き出た白いパンツに覆われ,さらに〈p.139〉年代物の,広い鍔のある 帽子の陰では,彼の金色の鼻輪が輝いていた。彼は,彼の船体中央部で彼の 周りに険しい表情で屹立し,彼らの褐色の目でスコットランド人たちの好奇
1)本稿は,J.Prebble,Darien Disaster, 1968.のp.138178に相当する。
154 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
心に満ちた視線を振り返っている12人の護衛を伴っていた。彼らは丸裸で,
y a r d s
とヒュー・ロウズはその晩自分の日誌に書き記した。「彼らのペニスの先端 で小さな金属片を固定していたもう片方を硬く結びつけるために,腰の周り に結ばれた一本の糸だけしかなかった」。
ベンジャミン・スペンスは,カスティリア風の丁重な挨拶で彼らをむかえ た。アンドレアスが見たのは,赤や青の上着,人工の髪の毛でできた途方も ない巻き毛で調髪された白い顔,マスケット銃の黒い輝き,さらに鋼の光 沢,漂白した帆布,タールを塗った綱や酢剤の匂いのする甲板であった。こ の来訪者たちは何を欲していたのか?「われわれは答えた」とペニクックは 述べた。「われわれのd e s i g n
計画は,彼らの中に定住することで,もしも彼らが喜 んでわれわれを友として受け入れるなら。つまり,われわれの主たる目的 は,交易であって,われわれは折にふれて彼らの望む諸商品を彼らに,スペ イン人たちやその他ができるよりもずっと手頃な価格で,供給することだ」。
彼らはスペイン人たちの味方だったか?味方ではなかったとこの指揮官は 言った。今は彼らとは戦争状態にはないが,もしも何か無礼なことが起これ ば,彼らに武力も辞さない状態である。アンドレアスは,これに気をよくし た。彼は,スコットランド人たちが
p r i v a t e e r s
私椋船の
p r i v a t e e r s
乗組員達だと結論づけ,彼の2
b u c c a n e e r
人のよき友であった,バッカーニア海賊の船長であったスワン2)とデイヴィ ス3)について捲し立てた。彼はその味方をして,遠い昔にサンタ・マリアへ の陸路を経由した襲撃で戦ったのだった。スペンス氏の翻訳は,ペニクック
c o l d l y
があっさりと終わらせるまで,できるだけこの郷愁を誘う回想に沿ってい
r o g u e s
た。彼の言うには,スコットランド人たちは,ゴロツキではなく,
t r a d e r s
商売人だ と。アンドレアスは,上手なユーモアでこれに非難を加えた。というのも,
それはすぐに贈り物による返礼を受けたのだったから。彼は彼のカヌーの舳 先からスコットランドの旗を靡かせながら立ち去ったが,彼の頭上には,金 色のブレードで豊かに刺繍を施された,素晴らしい新たなビーヴァー帽が
2)不詳。
3)不詳。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 155
あった。
インディアンたちによる交友関係から解放され,彼らが怠惰な盗人たちで はないとは信じてなかったが,ペニクックは,探検を行い,その入江を測深 するためセイント・アンドルー号 を派遣した。次の日,彼は自分たちの発 見のすべてに関する報告を自分の日誌に記し,ヒュー・ロウズには,それを 彼の日誌に忠実に複写するよう命じた。なぜなら,これが可能な限り速やか に理事たちに送付されるべきものだったからである。
その緑の入江は,端から端までおよそ2マイル,6から3.5ファゾム<12 メートルから7メートル>の深さがあり,せいぜいのところ1マイル程度の 幅があった。〈p.140〉それに大砲のrandom cannon-shot
めくら撃ちなら1発程で届く狭い入り 口があった。この水門の中央には黒い岩礁があって波の静かな日には水上3 フィート,風の強い日には飛び上がる波によって隠れた。「この場所をよく 知らない者にはこれが恐ろしく見えたが,両側は大変良好で広い
channel
水路<深水
rock
部>だった」。ほとんどの場合,この岩礁にさらに近づくと第二の岩塊が
あって,船舶やs h i p s b o a t s小船には絶えず障害となっていた。この入江の北側を形成す
manchineels
る狭隘な半島部分が,高い杉,マンチニールと,涙もろい新米船員なら,陽 光<太陽の光の>中で夢想して,
i m m e d i a t e l y
すぐさま「
The Shades of Love
愛の木陰」を呼び起こすように
s w e e t n e s s
優しい調べで風がささやく,
s a p a d i l l o e s
サパジラなどの木々に覆われていた。その半島 の海に向かった広がりのほとんどが,高くよじ登れない断崖となって,深い 海面に落ち込んでいた。どのヨーロッパの要塞であっても,そのような防御 力はなかった。入江の側では,それはあまり急でない登り坂で,水平な地面 と,小舟が安全に引き上げられる砂でできた小さな
promontory
崖があった。「この港 は」,ペニクックは無知なるCourt of Directors
理事会に印象付けようとの彼の願望によってし か説明できない派手な誇張表現で,「この世界中で最良の船舶を1千隻でも 収容できる。さらに,大きな困難もなく,岸壁が突き出され,最大級の積載 量を有する船舶でも横付けにして,荷下ろしができる」と述べた。
その入江の南側は,赤いマングローヴで境界線が形成され,密集して入り 込めない状態で,その向こうには,ほとんど踵を接するように,朦朧とする
156 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
divide
ような暑さの中に,大陸台との境界線をなす青く,緑の山脈が出現してい た。植民地に適した場所かどうかの議論も論争もまったくなかったように思
foot
われる。この入江の周りの土地は,スコットランド歩兵たちがスコットラン
h o l d
ド人たちを導き,彼らの剣が防御できる限り,カレドニアであるべきだった が,この半島の上でなら,ニュー・エディンバラの町が建設されて,その砂
Fort
地の高台の上には,セイント・アンドルー要塞があるはずだった。この歪ん だ指のような土地を選んだことは,少なくとも戦略的な点では,賢明なこと であった。1隻の船であっても1艦隊に対しても,双方の地点で陸上砲台に 助けられれば,水門を守るのが可能であった。この半島は,シダ群からなる 山裾からの溢れるような至福の状態で湧き出る水流によって給水されていた が,それに対して入江の向こう側は,ペニクックによれば,乾いた川床しか なかった。その東端部で,この半島は,せいぜい130歩ほどしかない細い土 地 に 狭 ま っ て い た。も し も こ の 細 長 い 連 結 部<地 峡>が
rampart
城 壁 と か,
<p.142>海水で満たされた溝で遮断されたならば4),一団の果敢な兵士た ちでも,一軍をs t a n d o f f
足止めできたであろう。
「そしてここなら,どの方面も陸地に囲まれているのだから」,とこの指 揮官は楽観的に書き記した。「いかなる風でもお前たちに被害を与えること はまずない」。この時,
prevailing
卓越風は北から吹いており,何週間にもわたってそ
s e a ‐ g a t e c l u m s y
れが海の入り口を閉ざし,不器用な船の出港を妨げることなど,誰も分かっ てはいなかった。この湾は,自然が作り出し,それでいて自然によって
q u i x o t i c a l l y
突拍子もない仕掛けのある
trap
罠であった。
最初の訪問の日に,アンドレアス5)酋長は,この時は,その妻と妹を伴っ て取って返した。女たちは,その腕や首にはビーズでできた首飾り,その
nostrils
鼻口に金のc r e s c e n t s
三日月を着けて,白いリネンのm a n t l e s
マントを羽織っていた。彼らは何
4)次のp.141は第一次遠征隊によって描かれた,海図,略図によるカレドニア,西 方にツバカンチの所在が示されている。掘割や胸壁もカレドニアには存在したよ うだ。
5)インディアンの酋長。キャプテン・アンドレアスは,スコットランド人を最初に 受け入れ,協定によって連携した。Pとは著者プレブルに従ったとの意味である。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 157
も語らず,アンドレアスに従順であったが,恐れを知らぬ眼をしてスコット ランド人たちを凝縮していた。ペニクックの報告では,最初の女はこの酋長capta i n の「trave l l i n g w i f e
旅する妻」で,このlittle man小男には全部で4名おり,インディアンたちは,望 むだけを認められていたと付け加えた。「彼<インディアン>は,われわれ の
d e s i g n
計画に従って,まだ
o n t h e p u m p
仲間だったが,彼がすべてのことの細部にわたってわ れわれの説明を理解した時,彼がわれわれに語ったのは,イングランド人 は,彼らと友好関係にあった後で,何度か彼らの住民たちを連れ去った」
と。このことが示唆することは,インディアンたちはこの
commodore
指揮官以上に,
suspiciouscause
疑念を持つ 理由を持っているということであった。アンドレアスは,彼と 一緒に,ペドロ6)と呼ばれる男の,もう一人の酋長を連れてきても良かったcapta i n が,彼は不安を感じ,「われわれの潔白をさらに確信するまでは」スコット ランド人に接近したくない,と述べた。
その朝,この船団は錨を揚げて湾内に進んだ。ピンカートンの舵手は操作 が不味く,ユニコーン号 を
sunken rock
暗礁に乗り上げ,その船底包板の一部を剥がし てしまった。船は辛うじて脱出したが,そこからひどく水漏れがして,再び 航行可能ではまったくなくなってしまった。評議員会は,議長席を占める
u n e a s y L a n d C o u n c i l l o r s
植民地評議員の
f i r s t
筆頭であった,ジェイムズ・モントゴメリ7)によるぎこちない
h e r presidency
統括の下,その船上のピンカートンの船室で召集され,ペニクックは依然と して,彼の権威がすべてに優先するとの立場を譲らなかったが,渋々なが
soldiers
ら,兵員たちが意見を聴取される権利を有することを認めた。評議員会の残
erecting
りが,トマス・ドラモンドに陸上
defencive wo r k
防衛工事の組織と立ち上げの責任が与えら
site
れるべきだと決定して以来(彼らは,
t h e m a n
この男に彼自身の用地の選定を認めな
for once
か っ た が),understandabl y
明 ら か に,その時は,彼 は ド ラ モ ン ド た ち と サ ミ ュ エ ル・
ヴェッチによるによるc o u r t-m a r t i a l
軍法会議に対して何も要求しなかった。ペニクック
6)インディアンの酋長の指導者,アンブロシオの義理の息子。ターンブルの友人
Toubacanti
で,ツバカンチでターンブルやフォウナブと一戦交えた。P
7)大尉。エグリントン伯爵の親族。第一次植民地の評議員会メンバーで,スペイン との小競り合いに勝利。ペニクックと不和となり,ジョリーと共にダリエンを離 れる。会社の譴責を受ける。
158 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
l o g
は,しかしながら,<p.143>航海日誌にドラモンドの名前を記入する気に
the land Captains
はなれなかった。「 陸上の指揮官たち 全員が意見徴収されたので」と彼は述
battery
べた。「この湾の入り口の西側に砲 台を建設することが決まった」,と。
各船から40名が,ニュー・エディンバラの
g r o u n d
地面を
c l e a r
整地し,
h a d e s o f L o v e
愛の木陰8)から 木材を切り倒し,病人に仮住まいを建設するため,この半島の海岸に上陸さ せられた。別のp a r t y集団は,high water満潮の印の上で,太陽を避けて,墓を掘ることにあ てられた。死がこの遠征を断念させることはなかった。イングリス9)lieutenant中尉は,
新世界の珍しい音に耳を傾けてデッキに身を横たえている時に,発熱によっ て死亡した。カレドニア号 の
gunnerʼs
砲手の少年は,船尾の下の青い海で水泳中に 見失われて水死した。出血性の赤痢は,ジェンナ10)という名のイングランド 人,ヘンリクズ・ガウプ11)という音楽家,そしてジェイムズ・クラーク12)と いう志願者の命を奪った。さらに,印刷業者ウィリアム・シンプスンは,せ めてもお慈悲によって,急な熱で手塩にかけた男子を失った。
そのことについて理事会へ書き送った報告には決して触れなかったが,
ウィリアム・パタースンの失ったものは,突然で悲痛なものであった。彼の 助手が亡くなって数日中に,彼の妻が赤痢で死亡し,ユニコーン号 からの 涙を誘う式砲とともにその半島の上に葬られた。かくして,彼女が何を考え たか,あるいは感じたかについての記録もなく,ウォルター・ヘリスが「赤 い顔をしたコーヒー好きの女性」と呼んだこの誠実な女性は逝った。彼女の 死に関する彼の報告は,なお一層悲痛なものだった。パタースンは彼女をダ
de facto
リエンに導いたが,彼は,「最初の上陸で,ニューカレドニアの事実上の 所 有を
a u t h e n t i c
確かなものとするため,彼女を地下およそ7フィートのところに押し込 んだ」,と述べた。
パタースンは彼の深い悲しみを隠し,植民地の業務に気持ちを転じた。彼
8)Sが大文字なのは,聖書に関係があるか?
9)不詳。
10)Jenner 不詳。
11)Henrique Ghaup 不詳。
12)James Clerck 不詳。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 159
は,その
presidency
任期を一ケ月延長しようという闘志を失って,今や,その
settlement
村や砦を
s e n s i b l e s e a
もっと気の利いた場所に移そうと試みた。「海上のCounc i l l o r s
評議員たちは」,彼は述べ
p l a n t e d
た。「ただの低湿地のためにいるのであって,守備を固めたり,植樹したり,
l i e o n
するには適しておらず,ましてや頼みにできる人たちでは実際にはない。例 えば,陸上要員たちへの水の提供にはかつては2日か3日必要だったが,一 度に3時間から4時間で済む手間から彼らのボートを1隻でもsave the trouble
省くことでも なければ,彼らは何のためにいるのかその理由が全然ないと私は考える」。2 ヶ月も経験した後,
s c h o o l m a s t e r
愚かな先生は,彼が言うには,評議員たちに,彼らが間 違っていたので,砦は別の土地に移された,と。
労働する一団と一緒に小舟が接岸した最初の日から,町や砦を建設すると 言う尋常でない仕事にとって,この人々は<p.144>あまりに非力であるこ とが明らかだった。十分な食糧の不足が厳しく,長く,健康によくない航海 による
privations
窮状はすべてに影響を及ぼしていた。彼らの糧食は,パタースンに言 わせれば,例の「不十分な割り当て」で,船上では継続して貧弱な状態だっ たが,それでも,少なくとも,ジメジメして,体を消耗させる熱気の中で長 時間働く義務はまったくなかった。新鮮な肉はなく,樽詰めの牛肉や豚肉
g r e e n
は,塩漬けではなく,嫌な匂いがしていた。入江で魚を釣ったり,家禽や猿 を仕留めたり,インディアンたちからプランテーンや果物を買ったりした
s p a r i n g l y
が,そのほとんどが,彼らにケチケチして与えられたもの以上のものではな かった。「そしてこれは」,とウォルター・ヘリスは述べたが「犬が食べる食 糧にも適したものでもなかったが,神の創造物の多くを口にする事を滅多に してこなかった,善良なるハイランダーたちがれわれの一集団に多勢いたこ とは,救いであった」。ペニクックの命により,食糧は船上に保存され,必 要に応じ,または彼が必要とみなした時に,陸揚げされた。「われわれの
m a r i n e m a s t e r s
海上監督たちは,」とパタースンはこぼした。「ひっきりなしに別の忙しい仕 事を申し立て,食料の荷揚げにボートはほとんど使えないから,私の知るか ぎり最も必要なものの多くは,それが船舶用であるのを口実にして,船上に 留められるとしても,上陸の予定となっていたのだった」。
160 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
昔からある水兵たちと見習い水兵たちとの亀裂が,こうして怒りや嫉妬に よってさらに拡大された。不健康な霧や腐敗しつつある野菜の毒を逃れて,
彼らが船の上におれば,食糧の供給は良好で,ペニクックの言う南側の川か らの水の取り入れは干上がっていたから,水兵たちは海辺の人々を悩ませた 熱 病 や 赤 痢 の よ う な 最 悪 の 事 態 を 免 れ て い た。11月 に は16名 以 上 の
L a n d s m e n
見習い水兵たちが亡くなったが,アダム・スコット13)という残留聖職者が含 まれていた。悩めるc o n g r e g a t i o n
会衆たちに対する彼の宗教的な影響力は,人々が彼のつ まらない説教よりももっと刺激的な救いに転じるようになると,ますますと るに足りないものになった。酒に酔うことが,飢え,疲労,そして心を惑わ す怒りからの唯一の逃避などが,当たり前のことになった。ブランデーは,
彼らの回復を助けるのと同様に,彼らの旅立ちにも元気を与えるものとし
P l a n t e r s
て,病人には気前よく与えられた。ある夜入植者たちは,1週間分として配 られたすべてのビールを飲み,サイコロの振りやカードのトランプ遊びに 勝って,病人の泣き声,波のささやき,そして森から聞こえる気を動転させ るような夜のさざめきに背を向け,誰もが茫然自失状態を幸せに過ごしてい た。週に一度,5人分の食事毎に割り当てられた一クォートのワインも供さ れて,<p.145>これもまた賭けとなり,勝ったものによって即座に飲まれ
officers
てしまった。将校たちには,もっとたくさんの割り当てがあって,一層頻繁 に酔っぱらった。ヘリスによると,船長たちは,週に2クォートのワインをCaptains
G h e n t
受け取り,the day of issue
配給の日には,「あたかもヘントやブラッセルでw i n t e r q u a r t e r s
冬期用営舎にで も居るかのように,陽気に床に着いた」。
飲酒はそれ以上に多数のインディアン酋長たちをその半島や船舶へと誘っ た。と言うのも,スコットランド人たちは彼らの受け入れに心が広かったか ら。彼らは,時にこうした無邪気な人々が,子供が甘いものをせがむのに任 されているかのように,ブランデーを強要することもあり,彼らが自分たち のカヌーの外に滑り落ちるように,との悪意ある期待を持って彼らを酩酊さ せたこともあった。アンドレアスは一度ならずやってきて,評議員たちと夕 13)Adam Scott 不詳。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 161
食を摂ったが,その際彼は,頭には新しい帽子を乗せ,傍には,両腕と首に は赤いビーズをたくさん付けた自分の旅行妻を伴っていた。forth occasion
4度目には,木 の葉や羽毛で飾り立てたカヌーからなる船団でやって来たが,彼が大いに敬 意を表しており,彼も明らかにスコットランド人たちが同様に敬意を表する のを期待していた,アンブロシオ14)と呼ばれた酋長を同伴していた。このア
San Blas islands
ンブロシオは,ダリエンの沿岸をthe River Pines
パイン川からサン・ブラス諸島まで支配す
vigorous
る,60歳になるs t r o n g
壮健で,精力的な男であった。彼は生涯を通じてスペイン 人たちと戦ってきており,彼の言うには,もしもペニクックが100名の部下 を彼に委ねるなら,自分の2千人用の武器によって,「わずか3日の旅程で 行ける,あの鉱山からだけでなく,パナマ自体からでさえも」スペイン人を 駆逐するだろうと述べた。彼には,スコットランド人たちが彼の非常に面白 い人生の偉業に参加するのを望む,十分な理由があった。この船団が到着す る1週間かそこら前に,彼は黄金島の小さな聖職者たちの村を攻撃し,彼ら 全員を殺戮した。彼はこのことをペニクックには言わなかったが,アンブロ シオが連れて来た放浪するフランス人からこれを聞いた。ペニクックは,援 助する約束は与えなかった。そして彼は,その殺戮がスコットランド人たち の到着以前に起こったことをひそかに神に感謝した。そうでなければ,スペ インは疑いもなく,彼らに責任を負わせたであろうから。
アンブロシオは,義理の息子とペドロという副酋長を伴っていたが,この 若者は,アンドレアスが厳かっだったのと同じ位快活な威勢のよい若者だっ た。ペニクックは,ぺドロが彼の村でフランス人
p r i v a t e e r s
私掠船の船長を頻繁にもて なしたことに聞き及んだ時,その訳を理解しながら,それを
disa p p r o v i n g l y
批判的にフラン
g a i e t y
ス的お祭り騒ぎだと呼んだ。彼はかつてパナマ・シティで奴隷だったことが あり,その悲惨な経験を忘れたことも許したこともなかったが<p.146>,
彼の義理の父親と同じくスコットランドの剣によってスペイン人の喉笛をか き切るほど激しいところがあった。彼はフランス語を上手に話し,スペンス
14)Ambrosio酋長。ダリエンにおけるインディアンの指導者。スコットランド人の 盟友。P 既出。
162 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
officers
氏のスペイン語の助けがなくとも,スコットランド人士官たちの多くに語り かけることができた。彼は,明るい心の持ち主で,勇気ある若者だったロ バート・ターンブル15)lieutenant中尉と直ぐに友だちとなって,インディアンの言語の いくばくかを学ぶことに労を惜しまなかった。ペニクックは,ペドロの処遇 の術を知らなかった。強要することはできなくとも,理解はしていた,一夫 多妻がその一つだった。しかし,その男は,アンブロシオの娘と結婚するだ けでなく,彼女との間にできた彼自身の娘とも結婚したが,「それはここで は許されるとは言え,それは罪だと考えられるように思われる。何となれ ば,もしも彼らがその母親の生涯のうちに子供が授かったとすると,おそら く彼らはその子供たちを生きながら焼き殺すのではないかと私は考える」。
こうした酋長たちからスコットランド人たちは,国王の都合で人の首をは ねたり,自分以外に一人以上の妻を持つことを許さないような,野蛮な専制 的支配者の伝説はあったけれども,ダリエンには大王とか皇帝など,パター
O n e
スンがかつてそう考えたような光り輝く支配者などは存在しないことを学ん
pleasure
だ。このわがままを不服とし,この特権に嫉妬心を抱いたその従者たちの一 団によって,ある晩彼は惨殺され,それ以来その土地は,大小からなる多数 の酋長たちの間に不平等に分割され,その者たちの権力や勢力が,スペイン 人との戦場での
success
成果に依存することになったと思われる。ディエゴ酋長は,
カレドニアからカーペット湾に至る東部海岸線を掌握したが,3千名の戦闘 員たちを率いて,アンブロシオに勝る評価を得ていた。彼は,彼とその部族 の幾ばくかが,奴隷として使役されていた鉱山から脱走して以来,スペイン との戦闘状態を継続して来た。アンドレアスの 義 兄 弟 で あ っ た ポ ウ ジ
s h a m a n
ゴ16)は,強力なシャーマンで,それをペニクックは「clergyman僧侶」と呼んだが,彼 の所有する土地は少なかったものの,彼の影響力は大なるものがあった。コ
15)既出。Robert Turnbull,第一次遠征隊の会社役員。ニューヨークからのトマス・
ドラモンドと共にカレドニアに帰還。ツバカンチでフォウナブと共に闘う。ペド ロ船長の友人。P
16)Pousigo不詳。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 163
ウベット17)は,入植者たちが遭遇したこともない人物でありながら,フラン ス人たちの盟友であり,カルタヘナへの最近の攻撃に彼らを糾合させたが,
その他の酋長たちは彼のことには重きを置かなかった。ニコラ18)は,スコッ トランド人たちが彼に贈与を送り,知遇を求める労を取ったなら,役に立つ
ally
盟友だったかもしれない。彼はアンブロシオの競争相手で,賢明で,勇敢,
加えてスペイン語を話せるだけでなく,その読み書きもやれるgood-natured
温厚な人物で あった。さらに彼はヨーロッパの諸事情に関する驚くべき知識の持ち主でも あった。かつて彼はスペイン人たちのお気に入りであったが,ポルトベロの 総督が彼の自慢のマスケット銃を掠め取った時,彼らと袂を分かった。それ 以来彼は,彼がスペイン人たちを発見すれば何時でも何処でもその殺戮をす る,実りのない襲撃に,その腕前を浪費し続けた。
<p.147>この半島の海の入り口の突端には,3つの
promontories
高台があった。その 最大のものは,スコットランド人たちが
フ ォ ー ス ・ ポ イ ン ト
砦と呼んだ,海面からおよそ数
t h u m b
フィートの砂でできた親指状の陸地であった。小さな湾を挟んで,その北方 には,ペリカン・ポイントと名付けられたのがもう一つあった。この半島の 北
escarpmen t
急斜面の端の第3番目が一番高く,これは
ポイント・ルックアウト
見張り番と呼ばれていた。ここ に木製の塔が建てられ,そこには昼夜監視員が配置された。この船舶の到着 の2週間後,監視員は西側に見知らぬ船がいることを報告したが,翌日この 湾の入り口の北西にあったI s l e o f P i n e s
パイン島の沖合にこの船が錨を降ろした。さらに 24時間の後,その船の船長がカレドニア湾に船を漕いで入って来た。彼は
q u a r t e r
セイント・アンドルー号 の船尾甲板をよじ登って乗船し,戦時中に褒賞と して与えられたフランス船名前がルーペ号 だと明かし,船長自身の名前を,
この海域で沈没した財宝を探索する国王の委任状を有するリシャール・ロン グ19)だと述べた。彼らの誰一人として書類に記載するほど不注意ではなかっ たから,ことの真偽は確かでなかったが,ヴァーノン国務大臣閣下は彼らの 17)Corbet不詳。
18)Nicola不詳。
19)Richard Long,ルーペ号のクェーカー教徒船長。ジェイムズ・ヴァーノンに よってスコットランド人監視のため派遣された。P
164 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
起用を有益と考えたのだろう。スコットランド人たちは,そんなにも早くイ ングランド船が訪れたのを快くは思わなかったが,彼に誠意を持って挨拶し た。しかしながら,この船は予期されないものではなかった。数日前,イン ディアンたちがこの沿岸沖で,その密かな集結を報告していたからであっ た。
ロングは旗艦とユニコーン号 の船上で夕食をとり,アンドレアス,ペド ロあるいはアンブロシオなどよりもブランデーやマデイラなどの酒量が多い のを証明した。彼はペニクックやピンカートンと夜遅くまで席に着き,彼が この沿岸を巡航し,上陸はしておらず,イングランドに対してそのいかなる
c l a i m
部分に対しても領有権を主張する意思はないと説明した。彼はこの植民地,
その能力,その目的などについていくつか質問をしたが,彼がペニクックや ピンカートンたちから学んだことをすべてジェイムズ・ヴェーノンに報告す る義務があることを,彼らに告げる必要があるとは考えていなかった。さら に,明らかなことだが,この沿岸を航行中に,もしもインディアンたちが,
上記のようなスコットランド人私掠船からの攻撃を受けた場合には,イング ランド国王がその防衛にあたると,この地のインディアンたちに伝えてある ことは,認めなかった。
ペニクックは,彼がこの男に好感を持たなかったと結論を出し,その夜彼 の日誌には,彼の周りにいる別の人物が起用されても差し支えなかったと,
ロングに対する判断を書き記した。「われわれは,彼が自認するc o n j u r o r
魔術師だと は決して考えることはできなかった」。
11月17日の夜半,ロングと共にユニコーン号 の船上で飲酒して眠った 後,<p.148>評議員会は,アンブロシオの村を訪れるという招待を受け入 れて,その翌日,かのクェーカー教徒が自分の船に帰ってしまった後,誰が ゆくべきかをめぐりつまらない議論が行われた。もちろんペニクックだと,
それに付いて何の論争もなかった。ジョリが選ばれたが,病気ということ で,カニンガム,ヴェッチ,さらにトマス・ドラモンドに提案があった。ペ ニクックは激しく抵抗し,彼の論拠の力よりも,彼の声の強さによって勝ち
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 165
点をとった。最終的に合意がなされたのは,この
m i s s i o n
代表団は提督,ピンカート ン,カニンガムそしてマッカイから構成されるということになった。彼ら は,11月19日午前8時に,4隻の小船,武装した兵隊たちによる強力な部 隊,この会社の旗印,加えてスコットランドの国旗が出発した。彼らはその 日パイン島に
no further than
なんとか到着した。と言うのも,風は北向きの強風に変わり,
彼らはルーペ号 の陰に駆け込み,それに乗船した。
英国クェーカー教徒は,ペニクックの歓待に寛大に応えたが,スコットラ ンド人たちは,彼らの船上と比べると,彼<ペニクック>は,スコットラン ド人たちの船上でよりも,自分の船上での方が,見劣りすると考えた。「イ ングランド国王なり総督なりがロング船長に何を見つけようとも」と,ペニ クックは書いた。「われわれの預かり知らないことである。だが,われわれ にとっては,彼の会話全体からすると,彼は非常にこっけいで,浅はかな輩
officers
で,彼自身の部下たちからでも,その
t o h i s f a c e
面前で嘲笑され,軽蔑され,ひっきり なしに飲んだくれている者だった」。質問と返答とが今や,逆になってし まった。だが,スコットランド人たちは,ロングのcomission使命の本当の目的を発見 することはできなかった。実のところ,彼のロンドンに対するおぼつかない 書簡からは,はたして彼が,財宝を本当に探していたのか,たんにスコット ランド人植民地について報告していたのか,イングランドの所有権を主張し て,カレドニア人たち<スコットランド人たち>に対してインディアンたち をけしかけようとしていたのか,自分でも確かではなかったのは明らかで あった。ジェイムズ・ヴァーノンは,この煩わしい男に最終的に与えられた 船舶と資金の見返りをほとんど手に入れることはなかった。
p i r a g u a
強風が翌日に途絶えた時,ペドロがピラグア20)で到着し,嬉々として彼の 義理の父親のところまで案内した。彼らは正午前に出発し,西海岸に沿って たびたび音を立てながら,広い入江にやって来た。そこは,物事を針小棒大 に言う時のペニクックの何時もの習慣だったが,イングランド海軍の最大級 の船舶でも安全に停泊させられる,深海のサンゴ礁を周りに備えていたの 20)木の幹を繰り抜いたカヌー。
166 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
で,1万隻でも容易に停泊させられるほどのところであった。それは
buccaneers
海賊た
m a s k s
ちの古くからの集結地で,彼らがかつてその船を修理した遮蔽物があった。
しばしの間,<p.149>彼は,カレドニア湾からこのs e t t l e m e n t
入植地をu p r o o t i n g
撤収して,こ こに
transferring
移すとも考えたが,海に面した入り口や,砦のための高い土地がないの で,そこは,防御には好ましくない場所だと結論を出していた。
見張りが一人小舟に残されて,この一団の残りはアンブロシオの村にむ かって1リーグほど内陸を前進した。それはある川の堤にあり,90フィー トの奥行きに,幅が35フィート,高さは30フィートもある,サトウキビと プランテーンの葉っぱで出来た大きな建物からできた,酋長の屋敷に威圧さ れた10から20の小さな小屋があった。アンブロシオは,入り口から50歩 のところで,微笑みながら待ち構えており,全員がフチドリのある白のリネ ンでできたケープを纏い,羽で覆われた槍を携えた,20名の護衛兵たちに 取り囲まれていた。後ろには,演奏者たちの楽団が,
reed pipes
竹笛を優しく奏でる一 方で,別の者たちはハミングをして,さらに評議員たちの周りではそれ以上 のものたちが,彼ら自身にハイランダーたちの優雅な身のこなしを思い出さ せるような動きで舞を踊った。「アンブロシオは,われわれに心優しい挨拶 をした」,とペニクックは語った,「そして,われわれには,まるで子羊の羊
liquor
毛のような瓢箪に入ったリカーを提供したが,それは彼らの呼ぶところの
M i s l o w
ミスロウである。それはトウモロコシとジャガイモで出来たものだった」。
彼らは,アンブロシオとペドロが,彼らの妻たち,子供たち,それに従者た ちと共に住む,大きな家屋の涼しい木陰に通された。ペドロは,誇らしげに アンブロシオの祖母や地域の料理を披露したが,驚くべきほど若く見えるあ る女性がおり,彼女は,120年の間生きていたとのことだった。スコットラ ンド人たちは,失礼にはならないように,彼女の年齢には疑いも持ったが,
そこでアンブロシオが,6世代の代表を,彼女本人から,彼を含むその一族 から,呼び寄せたが,彼女の年齢に意味はないと付け加えた。彼の仲間内で は,30から40年長生きするのはありふれたことであった。「だが,そうは 見えても」とペニクックは天真爛漫に述べた。「ヨーロッパ人たちとたびた
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 167
び会話を交わし,われわれの強いリカーを飲む人たちは,短命なんだよ」。
スコットランド人たちはその夜その村で過ごし,その大きな家屋で眠った が,それを見て彼らは,どうしたものか,教会を思い浮かべたのだった。午 前中に彼らは,プランテーン,ジャガイモそれに野ブタの朝食を取ったが,
そのあとでアンブロシオとペドロは森に入り,スコットランド人たちのこれ までの経験では最も大きな山ウズラを仕留め,愛と友好からなる武装解除の 約束を持って,彼らの賓客に迫った。
この評議員たちは11月23日に入植地に戻った。ルーペ号 は3日前にす でに出航しており,彼の思惑ではその船に速達便を持たせるつもりだったの で,それはぺニクックを激怒させた。彼は間も無く別の問題で怒らされるこ とになった。入植地にはカレドニア湾に勝るところがないという彼の報告に は,<p.150>ヴェッチもドラモンドたちもあからさまに反対の立場を取っ た。可能な限り多弁を尽くして,二人は彼が愚かであると述べた。街や砦の ために選択された土地は危険で,不適当だったが,少ないとはいえ,すでに 行われた作業は,無駄だったことになる。ペニクックは彼らに耳をかさず,
パタースン以外の評議員全員を痛めつけて,建設が従来の計画通りに継続さ れることに同意させた。
さらにその後,イーケットのジェイムズ・カニンガム
m a j o r
少佐との問題が存在 した。彼の手に負えない傲慢や非常に几帳面な行動の後で,どの派閥が彼の 義務や彼の関心を彼に仕向けたかは確かでないが,彼はこの評議員会の無力 な構成員の一人であったし,今やグレンコウ一味の一員ではあったが,用心 深く中立的で,通常は,彼にわずかな不都合を引き起こしたかも知れないそ の党派の立場を表明していた。彼は最終的には,最善の関心は自分自身だと して,彼に可能な限りカレドニアからは距離を置くことに結論付けていた。
u n e a s y
「彼は大変危なっかしいことになった,」と,パタースンは書いた。「だから,
説明のつかない考えや意見にあまりにも囚われたので(われわれはそう思っ たのだが),彼はわれわれにはどんな些細なトラブルも与えず,最後には自 分の地位だけでなくこの植民地のための救済を望むことになったのだった」。
168 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
彼は帰国を望み,最初の船によって帰国するのを決めていた。ピンカートン
i n i r o n
やその他の者は,彼を捕縛状態に置くべきだとか,少なくとも自分の義務を 然るべく認めるようになるまでは懲罰に付されるべきだとか考えた。彼は,
すべての議論の瀬戸際で,しつこく小言を述べたり,不平を漏らすのを継続 した。
彼は,この悲惨な土地を断念するという自らの絶望的な願望の中に一人い
つみとが
たのではなかった。11月の終わり,この罪科を一層不名誉なものとしたセ イント・アンドルーの日の夕べ21)に,10名の入植者たちがユニコーン号船上 の
magazine
倉庫を打ち破り,運べるだけの武器をすべて放擲した。1名の
capta i n
大佐と12
C a r e t B a y
名のs u b a l t e r n s
准大尉とが,旗艦のボート1隻でカーリット湾に追手に派遣されたが,
彼らは行方知れずということになった。アンドレアス酋長は楽しんだが,こ の事件のため,ペニクックが評議員のために催したセイント・アンドルーの 日の晩餐との趣向は台無しとなった。彼は,今やスコットランド人たちにポ ルトベロのスペイン人との内通があるのではとの疑いで,意図的に招待され ていた。「われわれはそれについて国内で税を課したのだ」とペニクックは 述べた。その意味は,インディアンたちが,彼が望んだブランデーを全て与 えられ,その後問い質されたことを言いたかったのであった。彼は,彼がス ペイン人たちと友好関係にあったこと,だから彼らが彼を
naitive levies
国内税の
capta i n
監督とし たこと,しかし彼が彼らを恐れたからこの友好関係やその業務を受け入れて きたのだと認めた。<p.151>彼らが最近彼に告げたことは,スコットラン ド人たちは「定住する計画などは持たず,スペイン人たちとインディアンた ちを略奪し,2,3ヶ月もすれば立ち去ってしまう」
privateers
海賊なのだと。ペニ
s t a y
クックが彼に確信させたことは,彼ら<スコットランド人たち>が定住する ためにそこにおり,彼らは彼とその住民を護り,その業務に応じたcommission権限を彼 に渡すのだから,その返礼として彼らが彼から期待することの全ては,「こ の地域のこの部分に対する彼の権限のすべて」なのだ,と。彼は彼らに酔っ
21)祝日,11月30日,アンデレは,イエスによるガラリア湖畔での布教でシモンと 共に最初に「召命」に応じた漁師で,その後「人間をとる漁師」となった。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 169
た挙句の太っ腹でこれを伝えると,自分のカヌーに乗って上機嫌で帰って 行った。
12月1日脱走者たちが連れ戻された。彼らは手枷をはめられ,パンと水 以外には何も与えられなかった。
その後………われわれは自らカレドニアンズ22)と称する。
カレドニア,1698年12月
この約束の土地に恩恵を施すはずだとライオネル・ウェイファが口にした,
素晴らしい天候はどこにあったのか。ただただ雨続きという悲惨な事実以外 に,その日誌に何も記録する意気込みもなくなったヒュー・ロウズ23)の日々 が続いた。度重なる雷鳴,稲光と驟雨,………強風を伴う大量の降雨,……
…仕事を妨げる最悪の天候,………驚異的な量の雨降りが続くこの24時間,
………夥しい風と雨,………例の如く風と雨………
発熱と瀉痢が原因で消耗し,重い憂鬱で意気消沈し,日中の暑さで疲弊
ヤ シ の 葉
し,その小屋のパルメットの屋根に落ちかかる雨音の下で夜間は身震いし,
陸上要員たちは船に横殴りに来るこの雨に身を切られるかに見えた。船長た
jealous of c l o s e
ちは,彼らの乗組員たちの健康に気を配り,油断のない監視がない時以外に は部下の上陸を賢明にも許さなかった。例えそうではあっても,回復の機会 は高かったにせよ,船員たちはたびたび病気になった。ユニコーン号 の船 上では,若きコリン・キャンブルがひどい熱から生き延び,神に感謝した が,彼の兄弟は,字の書き方がぎこちないので疑いもなく見て取れたが,そ
22)いまさらながら,カレドニアとは,スコットランドの古代ローマ名である。
Great Britain南 部 海 岸 のDoverか ら の 眺 め が,白 亜 層 の 絶 壁 が 白 い の で,
whitelandの意味でアルビオンと称するのに対して,古代ローマ人たちがフォー ス・クライド以北の住民をカレドニア人と称したのであった。
23)既出,第一次遠征隊の事務官。公開と上陸に関する公式の日誌作成者。P 170 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
のため腕の調子が悪くなった。船上の生活は単調で,彼が,陸上の連隊の一 員を指揮していたアーガイル<連隊>の一士官で,彼と同名の一族,「コリ
ンcapta i n太尉」のことを羨ましがったことも一度ならずあった。だが,彼には友人
のヘンリ・アースキン24)を残して,半島に上陸する気は実際にはなかった。
<p.152>「そこに任務が全然ありませんし,その上,もしあったとして も,ピンカートン大佐は私を認められることも,私に語りかけられることもcapta i n
ジェントルマン
なかったでしょう。あの方のお世話にと推薦を受けた他のどの諸 君に対し てもそうなのですから」。
多くの人たちがそのような手紙を書き,運命と
against the day
闘って日誌をつけ,───
やがてなるべくなるのを神に祈った─── 一隻の船がスコットランドに向 けて出発する時間を。
評議員会はついに,砦にと選択された場所が条件に満たないのを認め,
フォース・ポイント
砦 の砂地の
promontory
高台に別のものを建設する命令を出した。彼は
engineer
工兵では決してな かったが,トマス・ドラモンドが再度この工事を組織するただひとりの適任 者となって,彼は,パタースンが言うには,「所持する道具によって,彼か ら
r e a s o n a b l y
無理なく期待される以上のことをおこなった。と言うのも,われわれの
m e n
兵員は,大方の場合壮健ではあっても,食料やリカーの十分な支給が欠けた り,配給の削減が不規則に行われると,大概の場合迫力に欠けてしまうので す」。ドラモンドは,彼の部下たちに対して彼が課す鉄の規律の点で容赦な く,部下たちよりも自分自身の身体にはそうでもなかった。彼は一切の同情 のない,過酷な男だったが,彼の能力や勇気を尊敬しないものはほとんどい なかったし,グレンコウにおける彼の暗い軍役について何が語られたかは,
箝口令が敷かれたままだった。事実,国内での彼の行動で非難されてきたこ とは,ここでは断固たる指導性の証だと見なされてもよかったのだった。彼 が建設を始めた砦は,彼の道具や,利用しうる労力と材料で建設可能な簡素 にして実戦に有用,千名の部下たちと,土で固められた木製の二列の柵から なる星形の防壁を擁するに十分な大きさで,船舶から海岸に運び込まれるは 24)不詳。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 171
ずの40挺の鉄砲のために銃眼が彫られていた。防壁用の土地は,広い堀が 巡らされ,この湾に開かれ,海水が満たされていた。陸地に面した側,さら に堀の向こうには,鉄で固定された傾斜した厚板からなるchevaux de frise
防御柵 があった。
この全ては,望むらくは,地峡を横切って開削された
d i t c h
掘割,水門の上には陸 上要塞,湾内には船舶が配されておれば,どのような
formal siege-train
包囲攻撃からもこの植 民地を防衛するのに十分な強さとなったはずだった。スペイン人たちがその
ようなordnance兵器を持つとは思えなかったからだった。
12月3日,アンドレアス酋長との当てにならない友好関係が条約によっ て固められた。彼は,1名かそこらの妻と,びしょ濡れの白いスモックを 纏った護衛一人を伴って,正午前にセイント・アンドルー号 に乗船して来 た。<p.153>兵士のa platoon一隊も,同じようにずぶ濡れで,船のt h e s h i p ʼs w a i s t
中央上甲板から 挨拶をすると,船尾楼甲板状の天幕の下では,評議員たちが重々しい服装と むずがゆそうなカツラをまとって汗を垂らしていた。この
t r e a t y
条約は,ロウズ氏 によって羊皮紙の上に丁重に書き記され,金の縞模様のあるリボンとこの会
seal
社の印判で飾られ,書記官によって高らかに読み上げられ,ベンジャミン・
スペンスによってスペイン語に翻訳された。それは,アンドレアスをスコッ トランド
serv i c e
業務の
c a p t a i n
統率者に任命し,彼にそのあらゆる敵に対してこの植民地の 防衛を
promise
期待するものであった。それにより,彼には,かご柄が付いた広刃の 刀と,一対のピストルと共に,手渡された。彼は,スペイン人から既に学ん でいた厳粛な会釈でそれを受け入れ,彼がその武器をスコットランドの防衛 に使うことを誓い,その返礼に鮮やかな羽の飾りを施した矢の一束を提供し た。旗艦の7つの中央甲板の大砲から祝砲が放たれると,ワインの一杯を求 めて誰もが後甲板へと慌ただしく引き揚げた。ヘリスによると,次から次へ とグラスが交わされた。「アンドレアスcapta i n酋長は,風になびく彼の旗と彼の名 誉を表す別の意匠を携えて浜に出たが,翌日私が,空の瓶が転がる後部甲板 の戸棚に詰め込まれているのを見つけたあの
Commission
委任状は別扱いだった」。
一週間の後,如才なく配備されたロングボートが海門から現れ,折しもsea-gate
P o i n t L o o k-o u t
見張り台に居合わせた見張りが,一隻ないしは二隻の船が,ゴールデン・アイランド
黄金島近傍の雨 172 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号
l i e u t e n a b t
もやの中に停泊中なのを報告した。1名のフランス人太尉が
with a f l o u r i s h
仰々しくセイン ト・アンドルー号 に乗船して来て,ペニクックに対して,自分は,ルイ国
D u v i v i e r
王によるこの海域での航海と交易のCommission命令を携えたドヴゥヴィエール・トマス
M a u r e p a s capta i n
大佐の指揮する,42門の大砲を備えた商船モウレパ号 からやって来たと告 げた。もう一つの船舶は,22門を備えたオランダ船だと彼は言った。彼が スペインについてもたらした知らせは,急を告げるものだった。風に逆らう
f l e e t
艦隊B a r l i a v e n t o
バラベント25)は,あらゆるヨーロッパ人のp r i v a t e e r s
私椋船に攻撃を加えるべくカ ルタヘナで
f i t o u t
準備中で,その
c r u i s t e r s
巡洋艦隊はすでに,悪天候のため彼らの射程内に 吹き込まれた2隻の鈍速英国船にすでに速射の攻撃を行なっていた。モウレ パ号 とオランダ商船とは,バラベントがポルトベロに接近するまでは,ス コットランドの船舶とこの港の防衛に感謝していた。評議会は,それを歓迎 し,次の日トマス大佐がロングボートでやって来た。彼はリチャード・ロン グに劣らぬ強烈な酒飲みだったが,
c a r r y o n e s e l f w e l l
うまく立ち回って,スコットランド人た
ニューズ
ちに対して「この沿岸に関するすべての情報,つまり,パナマの
president
長官は,カ ルタヘナとポルトベロのG o v e r n o r s
総督たちにわれわれの到着についての説明を与え た」と言うことができた。<p.154>スコットランド人たちの
strength
戦力をやたら と過大評価して,彼らは,この植民地が,メキシコ湾から
t h e M i s s i s s i p p i
ミシシッピ河口に 至る攻撃を意図した橋頭堡であると信じていた。「このためわれわれは,」と ペニクックはその夜書き記した。「われわれのbattery砦に急行し,この湾の入り口 を横切る防衛線にわれわれの船団を配置する」ことを迫られている,と。
雨や,病気や疲弊にもかかわらず,スコットランド人たちは,フランス人 船がもたらしたニューズで元気付けられた。ヒュー・ロウズでさえ,通常な
v a i n g l o r y
ら慎重な人間だが,強い自惚れに転じてしまった。「われわれの武下たちは,
とても親切で,J a q u e王様のお出ましを心待ちにしているように思われるから,彼
p r e t e n c e
らはそれほど遠くない金鉱山に対するちょっと見せびらかしをしたかも知れ ない。」金についての思い,金への,さらに武力によって勝ち取られる膨大 な財宝への希望が,プランテーンの栽培とか,h o d d e n g r e y
グレー生地の取引を育成する 25)ポルトガル語?大地と海が一変し,愛や生活や社会が変貌する激しい瞬間。
翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 173
といった情けない生活よりもスコットランド人たちを奮い立たせた。
f e v e r
熱病や 死亡の危険が大きくなればなるほど,早く金持ちになり速やかに引き揚げる という願望も強くなった。モウレパ号 とオランダ船がこの湾にやって来て,
hold
スコットランド人たちの戦線の背後に錨を降ろすと,フランス人たちの船倉 にはカルタヘナの急襲で分捕られた財宝で一杯だというウワサが広がった。
フランス人たちもそれを否定もしなければ,首を縦にもしなかった。彼らは 飲食に忙し過ぎたのである。
彼らの船団がやって来る日となると,ルーペ号 は今一度北西に姿を見せ た。ロングは,バラベント艦隊が今や海上にあり,7隻の大帆船と,兵士を 満載した多数のt e n d e r s
補給船隊から編成されているとの知らせを携えた1隻の船を 送 っ た。彼 は す ぐ に 視 界 か ら 消 え た が,明 ら か に 恐 怖 の 状 態 で,彼 の
l o n g b o a t
ロングボートの帰還を待ってはいなかった。ペニクックからの問い合わせに 対して,その乗組員たちは,クェイカー教徒が非常に奇妙な動きをしている と知らせた。彼は海岸に上陸戦闘部隊を配置し,インディアンたちをポルト ベロの東方にある交易所への分別のない攻撃に参加させ,7名のスペイン人 たちを殺戮した。その後彼はすべてのインディアン集落に通告を送った。曰 く,「彼らに対して,われわれが窃盗と強盗の一味であって,除隊した将校 たちと兵士たちの一団に過ぎないから,誰一人われわれを守るものはないの だと伝えよ」と。指揮官は,フォース・ポイント砦の要塞が完成し,12門のポンド砲が配置さ れたことを喜んだ。「われわれはそうした状態にある」,ドラモンドとヴェッ チをうんざりさせる傲慢さで,彼は言った。「われわれが望んでいたのは,
ただ,スペイン人たちのわれわれに対する攻撃だけだ」。この大言壮語な自 己満足は,これはスコットランド人たちのほとんどが共有していたことだ が,<p.155>アンブロシオが,スペイン人たちはこの地峡を横断の上奥地 に向かって攻撃を行うため,サンタ・マリアとパナマ・シティで600名の老 練兵と200名のインディアンたちを徴集しているとの警告を携えてやって来 た時,増幅された。「それはわれわれには脅威であった」とヒュー・ロウズ は記した。「だから,彼らがやって来ないにせよ,いずれにしても,この工
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事は首尾よく進まなければならない。各人は,一層の精力と
resolution
決意を持って仕 事に励むことだ」。
この評議員会は,紛糾と激論の中で召集をみた。新たなpresident議長はそれぞれ,
その前任者の仕事に何も付け加えることなく,あるいは次の番の目的だと思 われることを脇において,自分の週の仕事の大半を浪費した。パタースン は,スペインによる攻撃を考えることに悩まされるよりも,食糧の不足,
ジャマイカからの追加補給を確保するという緊急の事態に腐心した。彼ら
ブ リ ガ ン チ ン
は,彼に言わせれば,交易に必要なスループ船あるいは二檣帆船26),
costal vessels
沿岸船 の不足していたために拘禁状態にあったのだから,12月20日に一隻のイン グランドのスループ船が湾内に忍び込んできた時には,彼は欣喜雀躍となっ た。ムーン船長27)は,古くからの友人との約束を守り,牛肉と小麦粉の荷を 持たせて,エドワード・サンズ28)なる仲間を派遣した。評議会の感謝は,手 短な表現で,素っ気ない扱いであったが,ムーンの補給に対して取引される べき財貨の適正な価値に関する議論がそれから始まった。
少なくとも,今こそが,スコットランドに書簡や日誌を送る正真正銘の機 会であった。モウレパ号 が遥々ジャマイカまで彼らを送致するという最初 の望みは,その船の船長が,この港または,スコットランド人たちの間で彼 が見つけた陽気な飲み友達を後にすることを素朴に嫌がったことによって,
すぐにぶち壊しとなった。エドワード・サンズが,ジャマイカにはこの書類 を自分が搬送し,同時に書類を運搬するために評議会が彼に指名したmessenger伝令な ら誰でも連れて行くと意見を出した。こうなれば,問題は誰が行くかとなった。
この決定は重大だっただろう,と言うのも,この選択には,残留する評議員 たち全員にとって避けることのできない危険が含まれていたのだから。この 植民地からエディンバラに到着する最初の人間は,Council-General
総会やthe Court of Di r e c t o r s
理事会の面々との
uninterrupted
直接の聴取に出会うことになる。ヒュー・ロウズの日誌や指揮官たちの書簡 26)2本マストの帆船。
27)既出。ムーン,リチャード船長。ジャマイカの船首でパタースンの友人。第一次 植民地に食料を運搬。P
28)ジャマイカの船首,ムーンの仲間。植民地に食料を搬送。P 翻訳:ジョン・プレブル,ニュー・エディンバラの建設,
第一次遠征隊の帰国 175
類に何が書かれていたとしても,その人物の先入見,その
c o m p l a i n o f h i s f a c t i o n
派閥に対する不平,
この植民地に関する彼の説明が,彼のo f f i c e
職務をby virtue of
通じて受け入れられる。ダニエ ル・マッカイ29)は,渡航を切望し,この選考に運動した。カニンガムは,今 や自負心と信念とで耐えられなくなって,彼こそが赴くべきで,選任されよ うがされまいが,彼が行こうと考えていた。ウォルター・ヘリスは,誰もが 彼のことをうんざりしたように,植民地のことが嫌になって,自らモウレパ 号 に移るだけでなく,彼の従者,彼の荷物<p.156>,あげくのはてには,
砂金の入った財布まで,移動させていたが,誰一人彼の立候補資格のことを 真剣には考えてなかった。パタースンは,カニンガムによる
i n t e r e s t e d
意図的な支援を
l a n d O f f i c e r
得て,サミュエル・ヴェッチと2名のランドオフィサーを推薦したが,ペニ
M i l n e S q u a r e a t l a r g e
クックが大声でそれを取り消した。彼はミルン・スクェアでは大体において,
t o p r e v e n t i t
トマス・ドラモンドの友人たちの一人もいなかったし,その手当てとして,
マッカイを支持することを決めた。この若い法律家が彼に悪意を持つと信じ る理由が全然なかったからであった。続く数日の間,彼らの双方が,ピン カートンとロバート・ジョリの支持を表明しながら,できる限り長い時間を ユニコーン号 の船上で過ごした。
やむを得ないことながら,最後に選ばれた人物はどの党派にも属さないこ とになった。もしも彼が一党派を他党派に対して好意を示すことが期待され 得ないとすれば,少なくとも彼はすべてについて公平な報告ができたであろ う。この植民地のthe Accountant of the Colony
主計官アリグザンダ・ハミルトン30)は,この植民地をめぐ るよどちらかと言えば苛烈な議論から距離を保っていた,真面目で,良識あ る人物であった。彼はそれでも,この評議員会の内外の指導者たちのいく人 かから不承不承ながら受け入れられた存在だった。パタースンは,彼ら<評 議員会の指導者たち>が荷物や倉庫などに関するこの男の知識を欠くことが できないと考え,彼が
d e p a r t u r e
出発すると一層の無秩序と混乱とを引き起こすと述べ た。ドラモンドたちとヴェッチとは,彼が,彼らが目下のところ嫌悪する,
29)既出,緊急文書の運搬人となり,第二次遠征隊にも随行。P 30)不詳。
176 桃山学院大学経済経営論集 第63巻第1号