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The Thought of Hung Hsiu-ch'uan (洪秀全) in HisEarly Period

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

The Thought of Hung Hsiu-ch'uan (洪秀全) in His Early Period

佐藤, 震二

https://doi.org/10.15017/2328699

出版情報:哲學年報. 32, pp.1-35, 1973-03-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

洪 秀 全 初 期 の 思 想

一 一

序 中園近代史の序幕と言はれる太平天園の革命運動を思姐史的に理解して行くためには︑その最大の指導者たる洪秀 全の思想が如何なるものであり︑且つ其れが如何に形成されて行ったかを調査する乙とが極めて大切である︒乙の意 味から︑私は近年︑金田起義以前における洪秀全思想の内容及び本質について少しばかり考へてゐるが︑本稿では︑

その基礎的研究の一端として︑洪秀全初期の言論・文献の本文検討を中心に考察し︑乙の結果に基いて︑彼の初期思

想の本質についても若干言及して見たいと思ふ︒

従来

︑ 洪秀全初年における思想形成上の重要契機として︑﹁太平天日﹂その他に記載せられる彼の宗教的幻想と︑

キリスト教停遺書としての﹁勤世良言﹂の意義とが非常に注目されてゐる︒しかし︑乙れらは洪秀全にとって︑飽く 迄も思想形成過程における契機であって決して洪秀全の思想そのものではない︒次に︑文献資料として観た場合︑﹁太

(3)

平天 日﹂

﹁洪 全秀 来歴

﹂﹁ 洪仁 由耳 連﹂

﹁李 秀成 述自

﹂﹁ 太平 天園 義起 記﹂ など は︑ 々夫 確か に優 れた 録記 では ある が︑ 乙れらは概して団組録乃至は供述書の類で︑首時の事件の推移を遁ふのが主眼であって︑必ずしも洪秀全の思想の内 容分析を第一目的とした研究書ではないのである︒

ζのやうな事情から︑本稿の目的に叶った主要文献としては︑先づ何よりも︑洪秀全自身の初期の作品を考へなけ

れば なら ぬで あら う︒ すなはち︑遺光二十五年︵一八四五︶に書かれた﹁原道救世歌﹂﹁原道醒世訓﹂︑翌二十六年の 原﹁ 道畳 世訓

﹂﹁ 正百 歌﹂ がそ 礼司 そ︑ の他 にも

﹁洪秀全来歴﹂﹁洪仁坪自述﹂などに載せられた彼の封聯や詩句の 類が若干存在する︒乙れらの文献は︑量的には決して大きくない︒しかし︑それにも拘らず︑洪秀全の思想の特徴・

傾向が此れらの文献だけからでも一躍確められると思ふし︑また其れなればとそ︑

乙れら主要文献を一段と突込んで 分析する必要が痛切に感ぜられるのである︒

とと

ろで

﹁原 道救 世歌

﹂な ど四 篇の 作品 は︑ 太平天国二年初刻︑同三年改正の﹁太平詔書﹂に蚊められてゐる︒

現在

︑﹁ 太平 詔書

﹂に は通 常︑

H

﹁太

平天

園史

料﹂

本︑

ω

﹁太

平天

国詩

文紗

﹂本

︑ 国﹁太平天園叢書﹂本の三種のテ キストがあって︑同の内容・字句が付及び同のそれと若干異っており︑之を競って︑どのテキストが初刻本であり改 正本であるかについて幾つかの議論がある︒金田起義以前における洪秀全の思想の資料としては︑改正本でなく是非 とも初刻本を用ゐるべきであって︑版本の吟味が疎かにきれではならない︒今乙乙で︑版本に闘する考詮経過ぞ議論

ζの議論について私は︑同が

ω

口に 改正 され て行 った とす る粛 一山 の意 見を 否定 し︑

H

同が に

改正されて行ったとする羅南綱や柴霊源の説を結論的に支持したぺ︒従って私は︑起義以前の思想を代表した付口に す

る徐 裕が ない が︑

(4)

基いた所の﹁中園近代史資料叢刊﹂本による初刻本を底本として使用する︒

以上の諸前提に立って私は︑

﹁太平詔書﹂の初刻本及び初期の洪秀全の封聯・詩句を第一次資料として分析検討 し︑﹁洪秀全来歴﹂その他の一態客観的と見られる記録を第二次資料とし︑更に︑比較的古い時期の作とされる﹁天保 書﹂初札ねを之に併せ考へ︑乙れら諸資料の言説に基いて︑洪秀全初期思想の内容と本質とを探求して行くこととす

洪秀全が﹁勤世良言﹂をはじめて入手したのは︑道光十六年︵一八三六︶における庚州考誌の際であったが︑彼が

﹁勤世良言﹂を賓際に精讃したのは︑可成り後れて道光二十三年︑乙の書物を彼から借りて讃んだ李敬芳の勤めによ

ってである︒また︑有名な洪秀全の宗教的幻想がおこったのは道光十七年︑

乙れまた贋州考試に失敗し︑悲歎の徐り

病に倒れた際であった︒洪秀全は︑

この幻想の中で︑無数の天使に迦へられて天閣に昇り︑天父上主皇上帝に謁し︑

天父の命令で閤羅妖・東海龍妖などと稽する妖魔を退治し︑天父から太平天王大遣君王全に封ぜられ︑四十徐自にし て再び下界に戻って来た︑と述べており︑幻想から醒めた後も︑彼は自己の肉親に向って﹁自分は民命天子である﹂

﹁太平天子である﹂などと語り︑そのため狂人扱ひに注れたが︑しかし此れより︑志操態度が一際立派になった︑と

誌さ

れて

ゐる

︶︒

とこ

ろで

﹁太平天日﹂における洪秀全の此の幻想曹には︑なるほど天使や天兄キリストの行動がい ろい ろと 描嘉 され ては ゐる が︑ それは決してキリスト教民正の姿ではない︒すなはち︑先づ第一に︑其鹿には誤謬異

(5)

洪 秀 全 初 期 の 思 想

端の番を停へた張本人としての孔正が登場するが︑その孔丘が天父及び天兄から強い叱責を受け︑堪り兼ねて逃げ出 す孔正が再び天使に捕へられて天父の命で天使から鞭うたれ︑之に劃して天父は︑天兄の前に脆いて哀願する孔正を ば︑彼の功が其の過を補ふに足ると判断して天閣で福を享ける乙とを許す︑といふ一段などには︑キリスト教の膿罪 の思祖といふより寧ろ中園社舎通有の道教的功過格思想の片鱗がうかがはれる︒次に︑乙の幻想謂中の洪秀全には︑

キリスト教固有の原罪意識が全く見られないし︑更に︑祈り︑忍従︑奉仕などのキリスト教的特徴も出てゐない︒此 鹿で鮮かに描かれてゐるのは︑天閣における妖魔の謹動と︑洪秀全の妖麗撃退︑そして彼が下界を畳醒せしむべく天 父から下界に詮り婦されるくだり等であるが︑

この幻想語全般を通じて見た場合︑洪秀全の救世者としての自畳︑太 つまり︑天父への服従の思想と並んで︑強烈な自己意識・選良意識 平天子としての確信が頗る強く印象づけられる︒

μ

) 

烏向麗令必如我

が此の幻想の記述の裡に穆み出てゐるのである︒省時︵道光十七年︶の彼の詩句に︑

太平天子事事可

身照金烏災嚢消

手握乾坤殺伐擢

眼通西北江山外

展爪似嫌雲路小

風雷鼓舞三千浪

手持三尺定山河 龍虎持軍都補佐斬邪留正解民懸聾振東南日月謹騰身何伯漢程偏易象飛龍定在天

四海露家共飲和

(6)

檎謹妖邪蹄地網

東南西北数皇極

虎噺龍吟光世界 政残姦究落天羅日月星辰奏凱歌

と誌され︑また彼が語ったとされる言葉に 太平一統柴如何

我是太平天子︑天下銭糧蹄我食︑天下百姓蹄我管︒

とあるの託︑全く此の強烈な選良意識の反映である︒而して此れらの語句は︑すべて天上世界でなく地上世界につい て語ったもので︑それだけ此の地上に自己の信ずる理想世界を築かんとする彼の意気込みが強く感ぜられる︒乙とに

﹁易象飛龍定在天﹂﹁四海第家共飲和﹂﹁太平一統梨如何﹂などの句は︑宗教的彼岸的救済の境地といふより寧ろ政治

の所轄と考へると乙ろには︑ 的ユートピア巻語ったものと稽する方が営ってゐるとも考へられるし︑また天下の人民錨糧を轟く太平天子たる自己

周 年

既に現在の社舎秩序を否定する革命思想の萌芽が認められるであらう︒

思ふ

に︑

龍摺海角恐驚天 の︑彼が考詰失敗の憂憤をもらした舟吟詩︵幻想以前の作︶には

暫且倫間躍在淵

等待

風雲

嘱門

家舎

とあって︑科拳の立身出世の塗に再起を期する気持を﹁易﹂乾卦の初九・九四の美僻に託して述べ︑若き洪秀全の強

飛騰六合定乾坤

い自負心を表明してゐるのであるが︑それは飽く迄︑賞時の官僚機構における取士方法といふ俸統的秩序内での建言

自ら乾坤を提げて邪を斬り正を留め︑飛龍の天に在るが如き︵乾卦九であった︒之に反し︑幻想直後の彼の思想は︑

(7)

~

五︶世界を現出せしめんとするもので︑

潜龍に象徴される長い雌伏待機の時闘を始めから棄て去り跳ぴ越え︑天父の 啓示と自己の意志とによって直裁に太平一統に突入しようといふ不敵な精神の護露であったと認められる︒ただ︑乙 のやうな革命思想の萌芽とも言ふべき彼の政治意識は︑専ら衝動的・感魔的なものであって︑決して十分に理論化さ れではゐなかった︒その理論化は︑其ののち十年近く経って︑漸く意識的また組織的に行はれようとするに至るので

ある

乙の宗教的幻想があってより後︑洪秀全は品行頓に改まり︑吸煙飲酒を巌しく避け︑東西雨与の聞に頗 る評判を得たと言はれる︒もっとも︑彼は︑官僚コ

l

スを全く断念してしまったのではなく︑その後も道光十八年︑

二十三年と二回︑慶州の考詰に赴いてはゐ︿向︒しかし︑二十三年︵一八四三︶の考誌に失敗してからは憤然として

こと

ろで

︑ 久困場屋何矯者︑大丈夫要営自行開科取天下士耳︒

と語ったとい⁝叩自ら場屋裏に埋もれるのを屑しとしない昂然たる意気は︑正に革命思組醸成のための一僚件であっ た︒また︑彼は此の時﹁勤世良言﹂を深く検討し︑その内容が嚢の幻想と奇しくも符合するのに感じて︑自ら悔罪の

詩を作って

吾傍罪悪賓治天幸頼耶蘇代膿全

勿信邪魔謹聖誠

惟崇上帝力心田

天堂

柴田

相人

宜慕

地獄幽抗我亦憐

及早回頭蹄正果

菟持方寸俗情牽

(8)

と詠 じ︑ 更に

神天之外更無神何故愚頑偲作民

只露本心揮失仰

とも詠久間︒そとには︑洪秀全の罪の意識︑異神膿拝拒否と上帝信仰︑天園地獄の峻別観などが明確に表明されてゐ 鷲能超出在凡塵

て︑彼のキリスト教への宗教的回心を思はせる︒しかし︑敬鹿なる祈り︑神への犠牲の精神がその中で強調されてな

いの は如 何な るわ けで あら うか

︒思 ふに 洪秀 全は

︑﹁ 新遺 詔聖 書﹂ の中 で︑ マタ イ俸 第五 章に 批し て

一大圏是組天上地下而言︒天上有天園︑地下有天園︒天上地下同是神父天闘︒勿誤認軍指天上天間︒

と言ひ︑パウロのコリント前書第十五章に批して

神圏在天︑是上帝大天堂︑天上三十三天是也︒神圏在地︑是上帝小天堂︑天朝是也︒天上大天堂︑是霊魂踊柴上帝

享福之天堂︒凡間小天堂︑是肉身障柴上帝柴光之天堂︒

と言ってゐ待︒乙の按語は︑明らかに地上に天園の招来を認める思想であり︑恐らく彼の宗教観の一貫した基本的態

度で もあ った らう

︒そ して

乙の現世的宗教思組のなかに︑地上に理想世界をといふ政治革命的考へ方が持ち込まれ

る可能性は︑大いに害すると言はなければならない︒現にハムパ

l

グ︵吋

E o

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四国

m g v R m

は︑

其時秀全在蓮花塘輿李敬芳櫨績研究勤世良言︒書中詞義均自行付度︑但不能分解天上的奥地上的︑及精神的奥物質

的之 辞︒ 彼等 以詩 天間 降臨 郎指 中園

︑而 上帝 選民 乃指 中園 人及 洪秀 全︒

︵太 平一 大関 起義 記︶

と鍍してゐる︒洪秀全のとのやうな態度を察すれば︑﹁勤世良言﹂の洪秀全に興へた影響が︑少くとも彼の革命思想

洪 秀 全 初 期 の 思 想

(9)

/¥  育成を阻止する方向を指してはゐなかった︑といふ乙とが明らかに言へるであらう︒

﹁原

道醒

世訓

﹂ 訓﹂﹁百正歌﹂﹁改邪蹄正﹂などの作品を績々と書き上げた︒そのうち﹁改邪闘正﹂は侠して停はらぬ均残容する他

きて

︑ 道光二十五・六年︵一八四五︑

一八 六四

︶に なる と︑

洪秀

全は

﹁原

道救

世歌

﹁原

道魔

世 の四篇によって︑われわれは︑金田起義以前における確立した彼の思想の姿を考究して行く乙とが出来るのである︒

そζ

で初めに︑洪秀全が最も強く唱道した八神

V

の思 想に つい て考 へて 見ょ う︒ 洪秀全が唯一神を信じ︑之を中心に彼の思想瞳系を構築してゐることは言ふまでもない︒その唯一神を︑彼は名附 けて皇上帝︑天父上帝︑上帝︑天などと言ふ︒名は異るも置は同じい︒それは︑高有の究極的始源者であり︑高物の 創造主であり︑同時に遣の本源でもある︒彼は﹁原道救世歌﹂の冒頭で

道之大原出於天

謹持

天道

畳君

事賢

と詠じ︑董仲静劃策三の句を踏襲して︑遣の成立が天に基くが故に天遣の恒常不襲にして且つ絶劃的なる乙と︑を前

提と

し︑

乙の天遣に則って現世を救済せんとしてゐる︒而してまた︑

五行高物天遁化

量有 神別 宮

T

中︵

救世

歌︶

上皇 帝︑ 天下 凡聞 大共 之父 也︒ 醒︵ 世訓

︶ 予掴夫天下凡間人民雄衆︑総需皇上帝所化所生︒生子皇上帝︑長亦皇上帝︑

一衣一食井頼皇上帝︒皇上帝︑天下凡

(10)

聞大

共之

父也

︒︵

鑑世

訓︶

鳴呼

︑天 地之 中︑ 人矯 貴︒ 高物 之中

︑入 居周 璽︒ 人何 貴︑ 人何 盤︒ 皇上 帝子 女也

︒︵ 挺世 訓︶

などと述べて︑唯一神たる皇上帝が天地高物を創浩し︑之を佑育せしめ︑皇上帝以外の他神が比の創遁佑育の働きに

輿り 得な い

ζとを明示してゐる︒それ故︑皇上帝は︑中閣のみならず贋く全世界を通じて支配する所の普遍的主宰神

であり︑同時にそれは︑何者にも限定拘束せらるる乙となき無限杏在である︒従ってわれわれは︑皇上帝を︑キリス

ト教の神観念の如く︑時空の範曙を超えた絶劃的超越者と見てよからう︒洪秀全は︑

﹁天 下一 家﹂ なる 所以 を論 じて

若自人瞳魂論︑其各霊魂従何以生︑従何以出︒皆菓皇上帝一元之集︑以生以出︒所謂一本散篤高殊︑高殊組蹄一

本︒

︵提

世訓

と誌してゐるが︑乙の集一分殊説を思はせる思想も︑決して此慮で言ふ一本が直ちに皇上帝そのものを指してゐるの

では

ない

ζの一本は︑飽く迄時空的始源者としての一元之集であり︑乙の一元之筑を更に費生せしめ且つ操るもの

が︑すなはち高次元に立つ所の超時空的な皇上帝である︒故に︑皇上帝は何者にも拘束せられぬ全く自由な一個の意

志的存在者と看倣すべきであらう︒皇上帝が太陽光線を人聞に奥へぬ乙とも可能であり︑激怒して人閣の霊集生命を

断絶 する 乙と も可 能で ある

︵艦 世訓

︶と 誌し てゐ るが 如き は其 の明 詮で ある

そし

て︑

一本

が高

殊と

なる

と乙

ろ︑

なはち高物現象界の諸様相乙そ︑意志的容在者としての人格神の霊妙・功能||趨感魔的・超理性的なる作用||の

あら はれ なの であ る︒ 而し て︑

喧以日号潤以雨動以雷令散以風

(11)

此皆皇上帝之霊妙

天恩 能報 得光 柴︵ 救世 歌︶

仰親

夫天

︑ 一切日月星辰雷雨風雲︑莫非皇上帝之霊妙︒情察夫地︑

一切山原川津飛漕動植︑莫非皇上帝之功能︒昭 然可 見︑ 灼然 易知

︑如 是乃 調異 神︒

︵魔 世訓

︶ といふ詩文は︑買に此の乙とを遁確に表示したものと認められるのである︒

さて此鹿で︑銀上の神観念をめぐる洪秀全の思考法を考ふるに︑彼は神を高有の究極的根源と考へ︑神を普遍的結 針者として信仰してゐるのであるから︑

凡ゆ る彼 の思 想が

︑ その神観念との闘聯において腐り立つ︒

而して其の神

は︑超時空的な絶封有である︒そこで︑以上の乙とを費生論的に要約すれば︑絶劃有としての神が其の無限定的な意

志によって霊妙な力を働かせ︑

一元之気巻もととして高物を現象せしめ︑殊に人聞については︑神が人聞の父母の肉 韓を通じて子を産出せしめる︑と言ふ乙とになる︒従って︑之を論理的に言へば︑絶針有は自らの力で相謝有を創建 し︑その際に人智を超えた神秘的な力を作用せしめるのである︒勿論︑其鹿にこそ彼の宗教観の基底があるわけであ り︑彼は此の宗教観に安堵して︑それ以上に突き進んだ哲墜的・論理的探究を篤してゐないのであるが︑翻って思ふ に︑かかる思考法・論理は︑極めて直裁簡明であって︑彼としては︑乙の論理過程の中に無・無極・太極・動静・陰 陽・五行などの停統的用語を殊更ら持ち込んで擾雑に考へる必要がなかった︒また︑陰陽二気に基いて天人相闘を説 明することもせず︑簡明に天人一気と割り切って︑それを直ちに人聞の平等︵枇曾階級の否定︶

に結 びつ けれ ばよ い︑ といふ工合であった︒︵救世歌︶乙のやうに見てくると︑洪秀全は︑唯一神を中心として高有世界を建生論的に考察し てはゐるが︑人間としての輿へられた現貰・現献を足がかりとし自らの頭脳で社舎・宇宙の構造を哲率的に整然と思

(12)

索し 遁求 して 行く とい ふ轍 密な 思考 態度 と︑

その論理的意欲とにおいては︑頗る乏しいと言はぎるを得ない︒ただ彼

は︑人聞に本来的に賦興されてゐると考へられる倫理的な﹁正﹂の観念と︑神の意志を賓現させるべき政治的な﹁平

等﹂ の観 念と を堅 持し

ζの爾者を謹入して自己の思想を形成し︑市して之を修飾するのに︑彼の撃んだ中闇古典の

教養と新約奮約雨聖書の知識とを以でしたのだと考へられる︒そ乙で次に︑その思想修飾の態度と方法との分析を温

じて︑供秀全の思想を今一歩進めて考察して行きたい︒

洪秀全の宗教的な神観念は︑﹁勤世良言﹂の言説に由来するもので︑本来的にはキリスト教のそれであるが︑﹁救世

歌﹂以下の四篇では︑必ずしも自己の宗教観を一つ一つ新約聖書・醤約聖書の文に基いて説明してゐるわけでない︒

﹁畳世訓﹂を除いた﹁救世歌﹂﹁醒世訓﹂﹁百正歌﹂の三篇だけについて言へば︑聖書の引用乃至は聖書の文に基いた

明確な説明箇所は全然見られない︒ただ上越の唯一神がキリスト教の神と共通であると考へられ︑また﹁教世歌﹂の

中で︑父母に件らふ不正を戒めて

大犯天保急自更

と詠じたのが︑キリスト教の宗教観を思はしめるだけである︒之に劃し﹁原道畳世訓﹂は︑全瞳としてキリスト教的

表現 が可 成り 濃厚 であ る︒ すな はち

︑ 乙の 文の 中で 聖書 に基 いた 箇所 とし て︑ ー︑ 人聞 が一 祖か ら出 たと と︵ 奮約

創世

記一

・ニ

章︶

2

ノア

の時

の大

洪水

︵創

世記

七章

︶︑

3

神の

天地

創建

︵創

世記

一・

ニ章

︶︑

4

モイ

ゼの

十誠

︵奮

約︑

(13)

洪 秀 全 初 期 の 思 想

出エ

ジプ

ト記

二十

章︶

5

﹁求 得則 之︑ 尊則 遇著

︑拍 門則 開﹂ とい ふ山 上垂 訓の 一節

︵新 約︑ マタ イ停 七章

︶︑ の五 僚を

拳げる乙とが出来る︒しかし其れにしても︑以上の五僚は︑到底ζ

れだけでキリスト教の神観念全般を説明し壷せる ものではない︒そもそも﹁魔世訓﹂全篇の眼目は︑閤羅妖なる邪神を排し︑皇上帝なる絶封的唯一神を躍拝して︑わ れわれが地獄に陥らぬやうにすべきだ︑

とい ふ黙 にあ るが

︑ 乙の作品における表現上の重酷の置き工合から判断する と︑矢張り他の三篇と同じく︑中園経史による説明の方が︑聖書並びに西洋史賓による説明を遥かに塵倒してゐる︒

然らば︑その理由は何か︒いま﹁天保書﹂初刻本を播くと︑洪秀全は其の序に営る部分で︑

又有妄説︑拝皇上帝是従番︒不知中固有鑑史可考︑自盤古至三代︑君民皆敬拝皇上帝︒:::

と述べ︑皇上帝膿拝の宗教︵キリスト教︶が西洋の宗教だという遁設を排するが篤に︑

その有力な詮擦として︑それが

中園古代の宗教と一致したものなるととを力説してゐる︒

乙の

や−

つに

キリスト教に劃する中間人の遇念乃至は偏見

を打

破し

︑ キリスト教的な上帝信仰の普遍性を中園人に徹底して納得させるためには︑中閤古代の経史に依醸せしめ て之を説明するのが極めて数果的である乙と言ふまでもない︒之に反し︑中園の経典と看倣されてない聖書を頻繁に 引用し︑すべてを聖書に基いて修飾説明するといふキリスト教固有の惇達方法は︑逆に中園知識人の反感巻買ふ憧れ があ った であ らう

﹁太 平詔 書﹂ にお いて

︑ 中園経史による説明が聖書や西洋史賓による説明を遥かに盤倒してゐる 理由は︑以上のやうに考へられる︒従って︑

﹁天保書﹂に先行する﹁救世歌﹂﹁醒世訓﹂﹁百正歌﹂に聖書の引用が認 められないからとて︑それらに盛られた思想とキリスト教との思想的闘聯性を︑

一概に無視し否定することは出来な いのである︒乙れら三篇は︑少くとも先述のキリスト教的神観念を思想的背景として作られた文書であると考へるベ

(14)

きであり︑事実﹁魔世訓﹂を含めた﹁太平詔書﹂各篇は︑

その直接の目標乙そ各篇それぞれ異つてはゐるが︑その内 容及び表現の上から見れば︑神観念を中心とした密接な相互関聯性が其の聞に認められるのである︒

さて

︑上 越の やう に︑

﹁太平詔書﹂の思想背景としてはキリスト教的神観念が無視出来ないとしても︑洪秀全は︑

乙の四篇の文章表現上のテクニックとして中園の古典を大いに・使用し︑一臆それなりの数果を牧めてゐるやうにも見

える︒そして︑かかる技巧上の傾向は︑﹁天保書﹂序に至つでも︑なほ残されてゐる︒

そ乙

で︑

乙れら諸篇における

中国古典引用の仕方を遁じて︑洪秀全思想の特徴︑

ことに停統思想との闘係を検討することとする︒

一種 洪秀 全は

︑伸 老思 想を 喜ば ず︑ 怪人悌老之徒出︑自陥迷途︑貧国射利︑証人以不可知之事︑以信己詐︑誘人作福︑建醗以肥己襲︑余之魔鬼入心︑

途謹 出無 数怪 誕邪 設︑ 迷惑

害累

世人

︒︵ 畳世 訓︶ と攻撃してゐる位で︑従って︑彼が依撮した所の中園古典は︑概ね儒家系統を主とした経書に限られてゐる︒そして 其の 範園 は︑

﹁詩

﹂﹁

書﹂

﹁瞳 記﹂

﹁易

﹂﹁ 論語

﹂﹁

孟子

﹄﹁ 孝経

﹂﹁ 董子 針策

﹂﹁

史記

﹂な どに 及ん でゐ る︒

此れだけを見

ると

﹁春秋﹂以外の経書は一遁り網羅されてゐて︑

彼が如何にも経感の知識を豊富に持ち合はせてゐたかの如く感 ぜられ︑また﹁洪秀全来歴﹂に若き日の彼を 其人自少韻書︑聴明無比︑無警不語︒十五六歳考試︑常居十名内︒

と停へてゐることと全く合致するやうにも思はれるが︑宜は︑洪秀全の倖統思想に劃する墜識は︑それ程深いもので

(15)

はなかったらしい︒そこで︑そのことを考へるに営って︑

づ先

﹁原 道畳 世訓

﹂﹁

﹁天 保書

﹂序 に載 った 経書 の引 用文 の 全部 を︑ 煩を いと はず 掲げ て見 ょう

︒︵

※印 はは 経書 固有 の文 字と の異 同箇 所︶

︹原

畳道

世訓

孔依

︑田 天命 之謂 性︒

︵中 庸︶ 詩目

︑天 皇都 民︒

︵詩

︑大 雅︑ 系民

︒孟 子︑ 台子 上所 引︶ 蒸︑ 詩

作系

3 2 

書目

天︑

降下

民︒

︵孟

子︑

梁恵

王下

所引

の泰

誓︶

霊朝 云︑ 天油 然作 雲︑ 柿然 下雨

︑則 苗融 然興 之失

︵︒ 孟子

︑梁 葱王 上︶ 周詩 云︑ 誠人 間民 雲︑ 雨雲 雰雰

︑益 之震 課︑ 優既 既一 握︑ 既昨 日闘 足︑ 生我 穀百

O

︵詩

︑小

雅︑

信南

山︶

一昨

一ピ

双山

科 5 

︹天

保書

序︺

※ 

詩云

︑股 之未 喪師

︑克 配皇 上帝

︒︵ 大事

︒所 引の 詩は 大雅

︑文 芸

 

書目

︑天 降下 民︑ 作之 君︑ 之作 師︑ 惟︹ 日︺ 其克 相皇 上帝 簡︑ 綬四 方︒

︵孟 子︑ 梁恵 王下 所︒ 引の 書は 泰相 官︶ 雄有悪人︑護休浴︑則可以判長上帝︒︵孟子︑離婁下︶

惟此 文狂

︑小 心翼 翼︑ 昭事 皇上 帝︑ 懐章 多福

︒︵ 詩︑ 大雅

︑大 明︶

※ 

央皇 上帝

︑臨 下有 赫︒ 帝調 文狂 予︑ 懐明 徳︒

︵詩

︑大 雅︑ 皇失

︶ 副主 帝臨

︑爾 無事 関心

︒︵ 詩︑ 大雅

︑大 明︶

※ 

湯降 不謹

︑正 敬日 瞬︑ 昭格 運遁 皇︑ 上帝 是施

︑帝 命式 子九 園︒ 詩︵

︑商 鏡︑ 長護

7  9 

1 0  

11 

1 2  

(16)

1 3  

予畏 叡上

帝︑

不敢 不正

︒︵ 書︑ 湯替

白時

上帝

弗順

︑祝

降時

喪︒

︵書

︑泰

相官

敢括承取王帝︑以遁飢署O

︵書

︑武

成﹀

惟野 上帝 不常

︑作 善降 之百 祥︑

作不

善降 之百 換︒

︵書

︑伊 訓︶ 先伊 以作 禦崇 徳︑ 段薦 之邸 主帝

︒︵ 易︑ 強卦 大象

1 4   1 5   1 6   1 7   1 8  

孟朝 云︑ 夫道 一而 己失

︒︵

孟子

︑勝 文公 上︶

かくの如く︑中園経書からの引用は︑

このご篇において極めて豊富である︒しかし︑右の引用文を通観して感ぜられ

る乙とは︑洪秀全が中間経書の多量の畜積の中に浸り込み︑そのなかから自己の思想・生活の規範を︑よく吟味しな

がら慣重に導き出すといふ態度をとらず︑

概して自己の成見を修飾するために大謄に経書を利用してゐる態度であ

る︒例へば︑右の引用文のーから

3

までは︑人聞が肉瞳上では一祖から出で霊魂上では皇上帝一元の気を菓けて生じ

たものなることを︑示すために引用されたものであり︑

4

5

とは︑東海龍妖が雨を降らすのでなく天が雨が降ちせ

る乙とを詮するために︑蓄約聖書と共に引用したもので︑後世の中園人が良心を失って天恩に叛くのを攻撃する論蟻 にな って ゐる

︒更 に︑

6

から口までは︑西洋においてのみならず︑中闘においても盤古より三代に至るまで君民すベ てが皇上帝を敬拝してゐた詮撮として列奉されたものであり︑国は︑かかる唯一神信仰が閤境を超えた普遍的真理な

る乙とを﹁孟子﹂の語によって述べたものである︒市して︑これらの移しい引用も︑要するに︑君主・人民・自然諸

現象が天・上帝の意志によって作潟され︑君民が上帝を瞳拝してゐた例として奉げてゐるのに過ぎず︑

乙れ以外の何

洪 秀 会 初 期 の 思 鶴

一五

(17)

物で もな い︒ しか も︑ これらの引用文は︑皇帝諸侯はとも角︑

一般庶民が唯一神を睡拝してゐた翼の詮撮として本宮

に由

術申

的に

役立

ち得

るも

ので

あら

うか

︑頗

る疑

はし

とい

一一

一一

口は

なけ

れば

なち

ない

︒ま

た︑

M

日目では﹁偶古文尚書﹂が

其のまま平然と使用されてゐる︒要するに︑経典引用に首つての拳術的分析検討が極めてルーズであった︒更に︑問 題をぱ︑経書中で最も古いとされる﹁詩

L

﹁書

﹂だ けに 限っ て考 へれ

︑ば

﹁太平詔書﹂四篇と﹁天保書﹂との中での

﹁詩﹂﹁書﹂よりの引用は︑上掲引用文の他には︑﹁救世歌﹂に二僚ばかり||詩の馨義および文王ーーがあるのみで るあ

︒と すれ ば︑ 洪秀 全が 癌典 中の 経典 と一 一一 一は れる

﹁詩

﹁書

﹂か ら拳 ぴ取 った もの は︑ 大部 分が 天の 思想 であ り︑ それ以外の思祖的要素は極めて乏しい︒すなはち︑彼の﹁詩﹂﹁書﹂に閲する教養は︑

乙のやうに著しく限定された

−も ので あっ たと 思は れる

︒か く考 れへ ば︑ われわれは︑洪秀全がかりそめにも高度に洗錬された典型的な儒家的教養 人とは言へない︑と評すべきではあるまいか︒

四 以上のやうに︑洪秀全本来の思想と彼の経率的皐識とは︑

それ程密接に且つ必然的に関聯してはゐなかったと考へ られ るの であ がる

︑し かし

﹁太平詔書﹂の中では︑到る鹿で︑秦漢以後の塵史的現象の断面や人物短評が諒されて おり︑﹁原道救世歌﹂における幾つかの古典の断片的引用︑﹁原道醒世訓﹂における﹁瞳記︑櫨蓮﹂篇の占める重大な 役割などをも考へれば︑彼の思想と惇統思想との関係が無視出来ない乙とも︑また事質である︒そ乙で︑聖書の引用 のなされてゐない︑と同時に上帝信仰が表面に優先して押し出されてゐない所の﹁救世歌﹂﹁百正歌﹂﹁醒世訓﹂の三

(18)

たび たび 述べ たや うに

篇の思想を改めて検討して見ょう︒

﹁太平詔書﹂全瞳の基本思想はキリスト教的神観念を中軸としたものと言へるが︑しかし なが ら﹁ 救世 歌﹂

ので

ある

﹁百正歌﹂においては︑人間倫理に歓くべからざる︿正の徳

V

及び︿正人

V

を主に取り上げてゐる

そ乙

でム

寸︑

乙の正の観念について考へるに︑彼が﹁救世歌﹂で

須作正人勿拝邪神

不正天所悪能正天所親

と詠じてゐるやうに︑正は唯一神としての上帝の意志に基いて人聞に要求せられたものであるが︑﹁百正歌﹂に

正乃古今所敬正乃人禽依分

正乃天爵尊崇

と述べてゐるのによれば︑正が人問調有の倫理観念として︑同時に人聞の本性として把握せられてゐた乙とが解る︒

E

乃人生本性

天道禍淫惟福善 更に︑之を道との関聯において考ふるに︑

及早回頭著祖鞭

道統根源惟一正

享天福莫勝一切俗情牽 匪代同授無後先脱俗縁須

勝一 切妄

念摘

︵救 世歌

(19)

/¥  とあって︑正が天に基いた道の根源であること︑正が超時代的にして異正なる徳︑倫理の中心としての善なる徳であ

る乙

と︑

それが一切の俗情・妄念を却けて天福を享けるべき規範としての最上の徳である乙とが︑明示されてゐる︒

乙のやうに正は︑洪秀全の倫理事における積極的行潟・諸徳目のすべてを包撮してゐるもので︑

﹁百

正歌

﹂で

は︑

身の不正を戒めてゐるだけでなく︑

一家

の不

正︑

一園の不正をも戒めるといふ風に︑正の働きを極めて賢い範園にま で及 ぼし ゐて る︒ いま

︑ 乙の篇の冒頭に

百正歌

歌百 正

同県

正食

天禄

真正畏天命

民正作公作侯真正作善作正

真正鬼服人欽真正民安固定

真正邪謀蓮避真正天心順態

と述べてゐるのを熟語玩味すれば︑同県の正を積むことによって︑人間の完成︑園家世界の安定︑人聞の天に劃する宗 教的障一などが賓現されるとし︑人間世界における嘗篤としての凡ゆる規範的な諸徳を正なる一語によって表はして ゐる︑といふことが理解される︒而して︑かかる正は更に︑とかく倫理の康摘され勝ちな政治の世界をも巌しく内側 から規制するもので︑彼における政治の理組は︑単に物質的・経潤的世界︑共産的制度の世界であるだけでなく︑更 に其の上に正義の強く働く理想世界でなければならなかった︒

﹁醒世訓﹂において︑彼が﹁躍記︑漣蓮﹂の大同設を 引いて理想世界を示してゐるなかで︑

(20)

是故好邪謀閉而不興︑盗縞飢賊而不作︒故外戸而不問︒是謂大同︒

と殊更ら︿好邪

V

の二字を新たに附加し︑好邪の謀計が扉息されて全く護勤し得ない扶態を大同世界の僚件と定めた

ととなどは︑紛れもなく斯かる考へかたの明白な表示と一言ふべきであら問︒

乙のやうに︑洪秀全において︑︿正﹀概念の意味する範園は極めて贋汎であるが︑

﹁救世歌﹂では︑かかる︿正

V

全般についての論議の外に︑現賀社舎における具瞳的な不正排除の要求と︑之に劃する人聞の心構へとを高く掲げて ゐる

︒こ れら の不 正は

ω

荏 ︑

ω

件父

母︑

ω

殺害

ω

呂周

盗賊

ω

居周

座頭

ω

昌周 賭博

︑の 六大 項目 と︑ 乙の 外に

︑ア へ ン︑ 酒︑ 堪輿

︵日 者︶ の三 不正 とで

ある

この

うち

堪輿の不正は削の潟市坐現の項に含めて考へでも良からうが︑何

れに

して

も︑

これらの不正に封する戒めが︑恰も宗教的戒律の如き形で設かれてゐる貼は注目される︒そ

ζで

︑﹁

救世

歌﹂で指摘された不正を︑﹁天保書﹂

の十 款天

保︵

モイ ゼの 十誠 に基 いた もの

︶と 封照 せし めて 見る と次 の如 くに なる

︒ 十 款 天 候

十 款 天 保

救 世 歌

uリ崇奔皇上帝

七日種奔領讃皇上帝恩徳

(2) 

件父

持不好奔邪神

同 孝 順 父 母 骨不好妄題皇上帝之名

例不好殺人害人

(3) 

洪 秀 全 初 期 の 思 想

(21)

O

(附)(5) (4)  (附)(1)

輿

B

f

ア 淫

' " "  

超 貧

(附) (6) 

1 5  

の右 謝照 表に よれ ば︑

﹁救世歌﹂における不正に劃する戒めは︑十款天僚の第五款以下のすべてに行きわたってゐ

(a) 

開闘民神惟上帝

る︒また﹁救世歌﹂の中で洪秀全が

無分貴臆拝宜慶

天父上帝人人共

ω

上帝営拝

何分西北

ω

五行高物天遺化 ゆ 勿 拝 邪 神

(e) 

順天者容逝天亡

など と詠 じて ゐる はの

︑ すれ ば︑ 十款 天僚 のう ち︑

天下一家自古俸

人人所同

何分南東

量有別神宰其中

須作正人働

時崇

上帝

得柴

﹁救世歌﹂が十款天僚の第一款・第二款を強く要請してゐる乙とを明らかに示してゐる︒と

﹁救世歌﹂の中で主張されてゐない項は︑僅かに第三款・第四款の雨項に過ぎない︒しか

(22)

も第三款の敬へは︑﹁天保書﹂の註によれば︑皇上帝︵エホパ︶の名を妄りに口にしたり天を児罵したりするのを禁じ

たもので︑此れまた上引の

a J

e

凡そ十款天僚のうち︑第四款の思想から必然的に導き出し得る性質のものであ何v

は︑ その 正賞 性が 専ら 神の 啓示

︵昨 日

HO

2

0

︼ 釦 昨 日

0

ロ︶によってのみ確かめられるものであるが︑他の九項目は︑

それ が

神の下した啓示法であると同時に︑

はれ

てゐ

出︒

ζの

やう に考 へれ ば︑

人間理性によって納得される所の自然法︵

Z

W

E E −

Fm

d

にも属してゐると言

﹁原 道救 世歌

﹂は

︑八

V

とい ふ倫 理的 徳目

を中

核と して

モイゼの十誠を︑人

聞理性で理解され得る限り最大限に主張したものと稽することが出来ゃう︒洪秀全の倫理思想のなかで八正

V

の観 念 が果 した 重大 な役 割巻

われわれは十分に銘記すべきである︒

次に

﹁太平詔書﹂の倫理思想を理解する上で留意すべき貼を二三奉げ︑

これ らの 駄を 通じ て︑

その思想の有する

傾向を少しばかり考へたい︒

先づ第一に︑中園停来の重要徳目としての︿孝

V

が ︑

ω

の件父母の戒めの項を中心として極めて強く主張され︑

れが正の倫理観念の重要部門となってゐる鮎である︒すなはち

孝親帥是孝天帝培植本根遁自柴

逆親卸是逝天帝

賊伐 本根 遁自 傾︵ 救世 歌︶ と親への孝が天帝への孝に比擁されてゐる乙と︑父母への孝養を完うし得ないのを怨み詠じた﹁詩︑馨義﹂の一節が

(23)

引用されて︑父母の思の無限性と報思の必要性が設かれてゐること︑三代までの人聞社舎では子が父に仕へる場合︑

賢不肖を問はず﹁躍記︑内則﹂篇に従って行動したといふ乙と︑淫乱の心が改まれば﹁孝経﹂の教へを正しく賀践出 来る あで らう と述 べた こと

︑ 乙れらの論調から︑洪秀全における孝重視の思想が立詮される︒思ふに︑古代の哲人に よって提唱された白畳的観念としての孝は︑

人間存在の本来性に根ざした高選なる倫理的精神の護露であったらう が︑それが秦漢以降の歴史における賓際面においては︑家父長制的な支配意識を帯びた家族社舎の中で歪曲される傾 向が多分に存したであらう︒とすれば︑洪秀全が上帝信仰に基いた孝を乙乙に強く主張した乙とは︑孝思想の歴史的 歪曲に劃する巣敢な攻撃と言へないだらうか︒

﹁醒世訓﹂で︑自己の郷・里・姓を本位とした自己中心の愛憎が否定 されて︑園境を超えた大同世界に眼が注がれてゐる貼からすれば︑彼の言ふ孝は︑決して歴史的家族制度の枠内で萎 縮せしめられたものではなく︑神観念と人間性本来の意識に基いた純粋なる積極的倫理観念であったと恩はれる︒

第二 に留 意す べき 黙は

﹁救世歌﹂の提出する倫理的要求が︑営時の中園社舎の悪弊を痛撃したものであって︑そ れが決して空虚な抽象的要求ではなかった︑といふ貼である︒盛期︑賭博︑洋畑︑酒などに封する禁止の態度が其れ である︒洪仁芹が︑族兄洪秀全のかの宗教的幻想以後の態度を叙して

所到結交以誠以信︑坐立行止粛然︑以身正大人︑戒量畑花酒僻等事︒︵洪仁坪自遮︶

と言 って ゐる 所か らす れば

︑ 乙の頃の洪秀全の言行が一致してゐたことは︑先づ認めて差支へなからうし︑また洪秀 全の 上帝 舎結 成は

︑ それら奮社舎色悪弊攻撃を行動によって詮明したものと思はれる︒モイゼ十誠を中園社舎に遁底 させ之を消化せしめんとする彼の積極的にして買際的な態度と思想とを認めるべきである︒

(24)

第三

の貼

は︑

﹁太平詔書﹂における倫理的要求が︑特定の宗派・敬圏のみの戒律としてでなく︑中閣のすべての人

問︑すべての階層に向けて鷲せられてゐる︑といふ貼である︒例へば

其 盤時 古

狂(以者}下

崇 至

上 三帝 代

君民一瞳敬皇天

諸侯

士庶

亦皆

然︵

救世

歌︶

の四句は︑中園古代社舎のすべての人聞が上帝を信仰してゐた︑と言ってゐるのであり︑また現代社舎への要請とし

ては︑仰の篤賭博を戒めた箇所で

暖爾有家勿謂無妨

無所不潟因賭起英雄何苦陥迷郷

不義之財潟止咽

士農

工商

耐久

長︵

救世

歌︶

と述べて︑人人が不義の財ぞ求める賭博を中止し︑士農工商がそれぞれの本業にいそしひベきを説いてゐるが︑

らの

語調

は︑

﹁救世歌﹂が上帝舎員に限らず康汎多様な中園の諸々の階級隠胞に向って護せられたものであることを思

はせるに十分である︒啓示法のみに基く所の天保第四款の思想が﹁教世歌﹂に歓けてゐるのも︑上帝舎員を主なる封

象とした﹁天保書﹂と︑

ひろく中園人一般を劃象とした﹁救世歌﹂をはじめとする﹁太平詔書﹂との︑書物製作にお

ける動機・目的の相違から来るのではなからうか︒﹁太平詔書﹂は︑洪秀全自身の思想展開を示してはゐるが︑

それ

は同

時に

︑ 一般中園人を劃象とする啓蒙的思想運動としての特徴をも多分に帯びてゐた︑と言ふべきであらう︒

第四に留意すべき貼は︑彼の倫理恩租の裏に︑宗教的・政治的な人間平等の理念が存してゐる貼である︒彼は︑中

(25)

二四

第三不正行殺害 園古代の皇上帝信仰が︑君民一瞳で潟されてゐて君主のみの濁占する所でなかったと考へ︑また殺害を戒めては

自股同類罪之魁

普天之下皆兄弟

上帝視之皆赤子

霊一

叫同

是自

天来

人自 相残 側甚 哀︵ 救世 歌︶

︹玖

は魂

の改

字︺

と四海同胞の観念を以てし︑上帝の赤子たる同胞を殺害する罪を糾弾した︒更に彼は

到底宣能免禍災暗殺人民潟草冠

白起項羽終自刻

黄巣 李闇 安在

︵哉 救世 歌︶ とも言ってゐる︒この句から︑束世激の如く﹁満清反動統治に劃する挑戦のよびかけ﹂を直ちに導出する乙とが出来 るか否かは頗る疑はしい械︑しかし︑人民を平然と殺害する草冠の態度に彼が義憤を感じてゐたことは︑乙の句から 十分うかがへる︒人民殺害に封し︑人間平等の基本的立場から正営防衛の必要性を認めてゐるのであらう︒ただ此鹿

楚漢項滅劉興 で︑白起・項羽・黄巣・李閲︵李白成︶が草冠として隠せられてゐる反面︑他方では

乃以 正勝 不正

︵百 正歌

︶ と誌言れてゐて︑項羽に劃する劉邦の戦が聖職と看倣され︑善玉悪玉的な考へに基く所の︑社舎秩序・園家秩序に封 する思慕の情が漂ってゐる乙とは注意しなければならない︒要するに洪秀全は︑軍純なる既成秩序破壊主義者ではな

正の観念に基く倫理主義者で何十︑更に一個の安定

く︵

のこ

貼︑

専ら

滅漏

興明

を唱

へる

天地

曾の

イデ

オロ

ギー

とや

や異

る︶

︑ した理想的社舎秩序を求めてゐた理想主義者として理解すべきであらう︒

(26)

...&... 

J

乙こ で翻 って

﹁原道醒世訓﹂ぞ中心とした洪秀全の政治思想を考察したい︒

私の 見る 所に よれ

ば︑

﹁醒 世訓

﹂は

︑他 の三 篇に 比し

て︑

その文章よく引き緊り︑またその論理よく整ひ︑見事な 思想的作品である︑と言へる︒従って︑

﹁醒世訓﹂の論旨と︑其鹿に表はれた洪秀全の思想とを︑十分に理解しよう とす れば

︑何 より も先 づ︑

﹁醍世訓﹂本文の文脈に沿って︑彼の思想・論理の展開の様相を正直に把へて行くことが

必要

なの であ る︒

﹁醒世訓﹂の官頭には︑次の如く諒されてゐる︒

さて

a︑

h u  

従来福大則量大︑量大則局大人︒福小則量小︑量小則属小人︒是以泰山不僻土壌︑故能成其高︑河海不揮細流︑故

能就其深︑王者不倒衆庶︑故能成其徳︒凡此皆量矯之也︒無如時至今日︑亦難言失︒世道帯輔︑人心議薄︑所愛所 憎 ︑

一出

於私

便宜

上︑

a

では︑人間世界を貫く一個の法則︑すなはち﹁醒世訓﹂の主張の支

へとなる基本的思想原理が示されてゐる︒此鹿で︑量なる語を如何に解韓すべきかは簡箪でない︒しかし︑乙の文は

これ

a b

c

の 三段 に分 けて

見た

が︑ 明らかに︑福の大小が量の大小になり︑量の大小が大人小人の異った結果を生ずるといふ因果論的考へ方に立つ︒そ

して

乙の篇の末尾近くに

況量大則福大︑而人亦典之倶大︒量小則福小︑而人亦典之倶小︒

洪 秀 全 初 期 の 思 想

二五

(27)

一 一 六

と述べてゐるのと劉照して考へれば︑彼は︑福と量とが相互に因となり果となり合ふ闘係であって︑また此の福と量 とが 因と なっ て︑ 之によって大人とか小人とかいふ人格が形成される︑

記︑李斯列停﹂における李斯上書の文を引いて︑

﹁凡

此皆

量矯

之也

︒﹂

と解 てし ゐた 乙と にな る︒

m v

と判定したものである︒洪秀全は︑﹁高きを成

次に

b

は ︑

ー寸

史 し︑

深き を就 し︑ を︑私なる狭い視野に限定拘束された愛情と開輔させて設いてゐる乙とからすれば︑彼は︑包容性のある一視同仁的

徳を成す﹂と乙ろの偉大な扶態を︑

即ち量の詩せるわざと見てゐるが︑﹁更に

c

で ︑

衰へた後の世 理想世界を大人に︑後世潰季の世を小人になぞらでまた︑理想世界を資らすべき計量可能な材質としての個々の福

徳乃至思徳をぱ︑量になぞらへてゐたのであらう︒

量の意味を一腹そのやうに解するとして︑

この官頭の文で洪秀全は︑衆庶を卸けぬ王者の理想世界を最上の姿と看 倣すのであるが︑彼は之に績いて︑

乙の理想の崩れた今日の現貫社舎を痛撃する︒すなはち今日では︑

一園 は他 園を

憎み

︑ 一省 一府 一癖 他は 省他 府他 鯨を 憎み

︑ 一郷一里一姓は他郷他里他姓を憎み︑互に侵陵し合って滅亡への遣を辿 りつ つあ ると し︑ 斯く れ成 る根 本理 由を

︑ 人人の見︵視野︶が狭く限られてゐて彼らの有つ量が小さいからだ︑と設 明するのである︒而してわれわれは︑此鹿における彼の筆法が﹁墨子︑粂愛﹂篇のそれと極めて類似してゐる乙と︑

を見越しては危らない︒後文の 天下多男人︑童是兄弟之輩︒天下多女子︑謹是姉妹之室︒何待存此彊彼界之私︑何可起爾呑我井之念︒

なる表現と考へ合はせれば︑彼が慶大無差別の愛を強く主張してゐたことが極めて明白となる︒同時に︑

乙の 無差 別 愛の殻現乙そ︑彼の言ふ︿量大

V

の民の意味であったと察せられるのである︒

(28)

さて此鹿で︑恰も﹁世道帯稿︑人心境薄﹂なる韓近の社舎に劃比せしめるが如く︑洪秀全は︑唐虞三代の理想社舎 の姿を提示し︑更に﹁躍記︑櫨蓮﹂の大同設の文を引用して︑自己の考へる理想社舎を︑

ζの儒教組典の設に依接せ

しめた︒彼の言ふ理想社舎は︑文質彬彬たる周初の躍築世界でもなく︑また孟子の唱道した仁義に基く王道世界でも

pa n

︑ ︒

JTLV 

莞舜病博施︑何分此土彼土︒再現憂溺機︑伺分此民彼民︒湯武伐暴除残︑何分此閤彼闘︒孔孟殆車煩馬︑何分比邦

彼邦

︒︵

醒世

訓︶

と言ふやうに︑先づ以て園土人民の差別を取り除いた大同和合の世界を︑唐虞三代の世の特徴としたのであり︑之に 加ふ るに

査賓見夫天下凡問︑分言之則有高園︑統言之則貫一家︒皇上帝天下凡聞大共之父也︒︵醒世訓︶

と︑かかる天下一家なる世界を︑上帝信仰といふ絶大な求心力によって統一せしめんとしたのである︒それ故︑彼の 理想とした唐虞三代の世は︑強ひて言へば︑儒家的といふより寧ろ墨家的イデオロギーの立場で考へられたものと判 断す べき であ らう

︒ しか し︑ 洪秀 全は 決し て︑ 乙の理想社舎を︑ただ手の届かぬと乙ろのユートピアとして夢想するに止まってゐたわ

けではない︒彼は槙いて

然而 鋭極 則治

︑暗

極則 光︑ 天之 道也

︒子 今夜 退而 日升 失︒

︵醒

世訓

︶ と述べ︑現在・未来における理想世界再現の可能性を灰めかす︒乙れは︑﹁易︑繋僻下﹂の

洪 秀 全 初 期 の 思 想

二七

(29)

/¥ 

日往而月来︑月往則日来︑日月相推︑而明生鷲︒

などから導かれたものかも知れぬが︑要するに一陽来復的な意味の言葉である︒而して︑

われわれが邪神を離れて上 帝信仰に生き︑天威を重んじて天誠に遵ひ︑自己を正して他人を導いて行けば︑天下一家・太平享受の盛世が賓現す るであらうと言ひ︑更に﹁易﹂同人の卦を設いて 在易同人子野則亨︑量大之謂也︒同人子宗則苔︑量小之謂也︒︵躍世訓︶

と述べ︑贋く人人と和国一致すべき大同の福徳の必要性を強調してゐるのである︒

以上

﹁醒 世訓

﹂の 脈文 に沿 って

︑ その思想の概略を紹介したのであるが︑

いま︑との作品を通語して特に感ぜら れる乙とは︑洪秀全が何よりも先に盟想的政治社舎を高く掲げ︑之を中園古代の社舎の中に見出し︑︿見﹀と︿量

V

との賢大無限なる伸展を其鹿に認めた乙とである︒﹁鵡蓮﹂に依撮した彼の此の理想社舎は︑

尚︑史料

天下有無相個︑患難相救︑門不閉戸︑道不拾遺︑男女別塗︑畢濯尚徳︒︵醒世訓︶本作上?

と言ふ如く︑人人が互に相憐れみ︑他を侵さぬ所の︑有徳者寧重の平和な社舎であった︒それは︑

﹁天 下一 家︑ 共享 太平

︒﹂ なる 献態 であ り︑

﹁公 平正 直之 世︒

﹂﹁ 強不 犯弱

︑衆 不暴 寡︑ 智不 詐愚

︑勇 不苦 怯之 世︒

﹂︵ れ何 も醒 世訓 の句

︶と いふ 社舎 でも あっ た︒ 而し てま た︑ 乙の無差別愛に基く大同和合の理想郷描寝のうちには︑

ま乙とに彼の理想主義者 としての面目躍如たるものがあったのである︒

しか

し︑

﹁醒 世訓

﹂の 思組 はに

︑ 乙の理想社舎の人人の心を外側から規制する鵡法的秩序としての力が歓如してゐ

(30)

るととも︑同時に注意すべき乙とであらう︒勿論︑彼は無政府社舎を夢見てゐたわけではなく︑尭費百円程湯武の行局

﹁醒世訓﹂自龍においてではないが︑闘聯文書のなかで

国稜勤労憂餓溺 を理想社舎の枠内に入れて之を讃へ︑更に︑

蛍身

而額

及後

︵鹿

︵救

世歌

高 尭榎 舜

身イ己

顕 日後 光

狂 宝 天

周家麟肱興歌

虞廷替眼底務 由矯君能正由民臣能正白馬父能正

と述べ︑古代盛世における政治的支配者の絶大な徳に封し讃美を惜しまない︒しかしながら︑洪禿全は︑諸政策貫現

由局 子能 正︵ 百正 歌︶

ある

︒ のための王者の政治行局や︑社舎を規制・指導して行くべき具盤的行政措置などについては︑何も述べてゐないので

﹁遺

賢輿

能︑

﹁睡蓮﹂の引用文として示された内容も︑要するに政治行震の結果としての社舎欣態であって︑

﹁醒 世訓

﹂の 政治 思租 は︑

ユートピア思掴とし

講信修睦﹂二旬以外は︑政治行矯そのものとは思はれない︒従って︑

PB

齢 ︑ ︒ ︐

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︼ ︑ −

418 円 ノ

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V

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ロ ワ同 日

ては一腹整った思想形態を成してゐるが︑理想の貰現を目途とする政治的革命思想としては未完成だと言はざるを得

然而飢極則治︑暗極則光︑天之道也︒子今夜退問日升失︒

なる文が政治的革命思想への方向を暗示して丸一日︑その万向が皇上帝信仰と結合するところに︑首時すでに革命母瞳 として成長しつつあった結社としての上帝舎の政治的思想的意義があったと推測されるに止まる︒

洪 秀 全 初 期 の 思 想

(31)

もっとも︑洪秀全の賓際上の気持としては︑彼は官時すでに︑革命への期待の念を多分に抱いてゐたらしい︒

﹁ 太 平天 園起 義記

﹂に

︑は そのころ彼が洪仁耳に秘密に語ったところとして︑

上帝劃分世上各圏︑以洋海矯界︑猶如父親分家産於児輩︒各人賞傘重父親之遺蝿而各自保管其所得之産業︒奈何浦 洲人以暴力侵入中園而強奪其兄弟之産耶︒

如果上帝助吾恢復祖圏︑我蛍教各圏各自保管其自有之産業︑而不侵害別人所有︒我伺持要彼此有交誼︑互通異理及

知識︑而各以櫨相接︒我伺持共拝同一之天父︑而共崇敬同一天兄世界救主之異道︒這是自従我的霊魂被接上天後之

心中

願大

也︒

なる言葉を載せて︑満洲人の中園支配と財産強奪との現献に劃する不満憤激を停へてゐるから︑感情的には排満革命

︵ 幻

闘争への激しい意欲を燃やしてゐたのであらう︒しかし︑以上の考察で明らかな如く︑彼は︑その革命意志を文書に よって一般に停達するという段階までには護展してゐなかった︒何と言つでも﹁太平詔書﹂

は︑政治的軍事的革命断行の明確な意志と思祖とが見られないのでふ成︒われわれは︑人聞の内心に嬬ぶる感情的革

の四 篇そ のも のの 中に 命意志と︑世聞に侍撞開陳

S

れた革命理論とを︑安易に混同して問題を徒らに混胤ちせではならないと恩ふ︒

結 以上︑問題貼がやや多岐に亙り過ぎた嫌ひがあるので︑

こ乙 に本 稿の 結論 を要 約し て置 きた い︒

(32)

洪秀全初期思想における重要作品としての﹁太平詔書﹂﹁天僚書﹂は︑共通の神観念に支へられながらも︑それぞ

れ異っーた目標を指向し︑従って︑また各各濁自の特徴を有ってゐる︒すなはち︑﹁原道援世訓﹂は︑唯一紳としての

皇上帝信仰を唱道した宗教的宣言書であり︑﹁原道救世歌﹂﹁百正歌﹂は︑キリスト教的自然法を根幹とし現代中聞社

舎の悪習を除去しようとする所の︑︿正

V

に基 く人 間倫 理の 書で あり

﹁原道醒世訓﹂は︑粂愛的精神による理想的

政治社舎を標額し︑且つ斯かる理想社合賞現への可能性を示唆した政治撃の書である︒

﹁天 傑書

﹂は

︑皇 上帝 信仰 に 基く各種の宗教儀瞳︑十誠遵守等に闘する上帝舎の宗教的賓践綱要である︒而して此れら諸文書の底には︑唯一神主

張︑不正排除︑戒律遵守といふ彼の潔癖性と巌粛性とが一貫して流れてゐる︒﹁醒世訓﹂で強調された大同和合の主

張も

乙の潔癖性を基本僚件としており︑乙の特徴が金田起義以後の太平天閤革命蓮動にも強く働いてゐる乙とと思

はれ

る︒

次に︑洪秀全の強烈な選良意識や︑宗教観念としての地上主義的考へ方は︑確かに︑宗教と政治革命とを結びつけ

る方向を生かす上では便利であったらうが︑乙の反面︑キリスト教をぱ探似キリスト教的性格に歪め︑延いては︑革

命進行中に欧米キリスト教閣との聞に︑外交上からも軍事上からも︑また文化交流の上からも︑無用の誤解・摩擦を

生ずる遠因となったであらう︒

之を 要す るに

乙れら初期の作品には︑起義以後の革命思組の特徴の可成りの部分が︑一通りは萌芽的に認められ

る︒ただ︑首時の洪秀全は︑満洲支配に針する盆滋の情に臨られてゐたにも拘らず︑革命断行に闘しては極めて慣重

であ

った

﹁太 平詔 書﹂

の四

篇を 通じ て謹 むと

この黙についての彼の思組上・表現上の配慮が十分にうかがはれて

参照

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