【研究論文】
在日外国人の中高齢期
(1)における故郷認識
―沖縄在住外国人 2 人のライフストーリーによる予備的考察―
Transnational Migrants in Middle and Older Age and Their Perceptions of Home
−A Preliminary Analysis through the Life Stories of Two Migrants in Okinawa−
前原 直子 Naoko MAEHARA
1.はじめに
現在の日本社会には、約200ヵ国もの国籍をもつ276万人を超える人びとが住んでいる[法務省
2016]。とくに1990年代以降、在日外国人の国籍構成は急速に多様化しただけでなく、国際結婚のた
めの移民や高熟練労働移民など、移民現象がますます多様化している[デブナール2012]。在日外国 人の年齢層もさまざまであり、川村が言うように[川村2009:12]、彼らは日本社会での「妊娠・出産、
育児、就学、就労、結婚、離婚、居住、まちづくりへの参画、老後の生活、病気、死亡、葬儀、弔 い」など多様なライフステージを生きている。こうした在日外国人の多様性―異なる出身地や移動経 路、エスニシティ、および異なるライフステージ―は、彼らの多様な経験を理解することの意義と同 時に、その難しさをももたらせている。
本研究は、現代沖縄社会においても在住外国人の多様化が進展していることを確認しながら、彼ら の中高齢期への移行経験について、2人のライフストーリーから予備的考察を試みる。在日外国人の エイジングや高齢期に関わる研究は、(まだ量的に少ないが、) 主に在日コリアンや中国帰国者を対 象とし、彼らの言葉の壁や生活習慣の違いによるニーズや課題、異文化に配慮した支援の拡充に関す る検討が行われてきた[川村・宣 2007; 金2010]。そのような政策研究が重要であることは言うまで もないが、グローバル化や国境を越える人の移動が、高齢期やエイジングにどう影響を及ぼしている のかという直接的な問いはあまり研究されていない。在日外国人を「支援される者」として一面的に 捉えるのではなく、個々のライフコースを形作るさまざまな要因を多角的に見ていくことが求められ ている。本稿はそのための一歩として位置付けられる。具体的には、国境を越える移住者にとって、
中高齢期に伴う諸変化が、彼らの出身地や居住地に対する愛着や帰属感にどう影響するのかについて、
移住研究における「故郷」をめぐる議論に依拠しながら考察する。
(1)本稿で「中高齢期」という場合、おおむね50代後半以降を指す。
事例として取り上げるのは、沖縄在住外国人のなかでも比較的小規模な人口を有する国籍者(イン ド人・イギリス人)の2人である。後述するとおり、沖縄社会はその地理的・歴史的な背景から日本 本土とは異なる多文化状況を形成しているが、日本本土と同様に近年は移民現象の多様化が進んでい る。在日外国人に関する研究では、これまで在日コリアンなどのオールドカマーや、比較的大規模な 中国やフィリピンからの移住者、南米からの日系人などが主な対象とされてきた。しかし、日本に おける移民現象がますます多様化しているなか、デブナールが指摘するように[デブナール2015:2]、
研究対象を比較的大規模な国籍の移住者に限定せず、「グローバル・ノースからの移動」を含める比 較的少数の国籍者も考慮していく必要があろう。本稿は、これまで移民研究において二項対立的に捉 えられがちであった「リタイア移住者」および「労働移民」の事例を比較しながら、彼らがそれぞれ の社会的・経済的・文化的な文脈をとおして、そして年齢に伴う諸変化のなかで、生活世界を構築し ていく過程を浮き彫りにしたい。
2.在日外国人の中高齢期に関わる研究
国際移住者の増加に伴う社会の多文化・多言語化という認識のもと、過去20年のあいだ、日本の 各地で「多文化共生」への取り組みが教育・医療・防災などの分野を中心に進められてきた。他方、
社会の少子・高齢化に伴い、介護の問題や望ましい高齢期のあり方をめぐる社会的な関心が高まって いる。その二つの領域にまたがり、多元的な老いの諸相や、社会的・文化的な側面を配慮したケアに 関する研究が始まっている。川村[2007]は、「超高齢化社会と多文化社会という、二つの基盤変化が 重なり合う領域の課題」として「異文化間介護」というキーワードを提起する。「異文化間介護」と は「民族や国籍の垣根を超えて、異なる文化の狭間で営まれる介護」である[川村2007:21]。いくつ かの事例研究が在日コリアンや中国帰国者、インドシナ難民を対象とし、彼らの高齢化をめぐる現状 や課題について法制度および福祉社会学的側面から検討してきた。たとえば在日コリアンについては、
1982年まで国民年金制度の加入が認められなかったことから生じる「無年金問題」や、介護保険制 度の利用をめぐるさまざまな壁(経済的な事情や言葉の壁、生活習慣の違い、識字能力に幅があるこ と、家族介護指向が強いことなど)が問題視されている[李2007]。また中国帰国者の場合、2007年 集団訴訟を経て国家責任の認定と賠償が命じられたものの、年金問題の複雑な課題や介護保険の手続 きをめぐる問題などが指摘されている[藤田2007]。
これらの研究において、「当事者側から理解する」ことや「その人の生きてきた歴史を、言語的、
文化的背景とともに理解する」ことなど人類学的な視点の必要性がしばしば指摘されている [黒田 2010:i]。川村は介護を「人間の本質に寄り添う全人的営み」としてとらえ、異文化を内在化してい る高齢者の「アイデンティティの揺らぎやハイブリディティ化を可視化すること」が必要だと述べ
る[川村2007:25]。しかし、越境する人びとが高齢期やエイジングをどう経験しているのかについて
の研究は、国内において僅かしか見られない。たとえば、川野[2007]は在日コリアンが社会保障や
差別に対する諸活動をとおして自覚的にエスニック集団としての名誉(尊厳)を構築していく過程を 示している。民族的マイノリティ、かつしばしば貧困というような重層的問題を抱える在日コリアン は、生き残りのためにエスニック集団的な共同性を強化・拡大していくが、高齢化がその一つの契機 となっているという[川野2007:138]。また、ブラジル日系高齢者について検討した金本[金本2010]
によれば、日系高齢施設での食べ物や歌、踊り、活動が彼らの「自己の記憶」を想起させ、「人生の 終盤においては、はるか遠い過去の記憶に回帰することで、心地よい老いが実現可能となる」[金本 2010:130]という。これらの研究は、移民が年齢を重ねるなか、出身国に対しての愛着やノスタルジ ックな願望、あるいは出身国に基づいた連帯を強めていく事例を示している。しかし、移住現象の多 様化が進み、必ずしも同じ場所に定住しない移住者が増加するなか、移動経路やホスト社会との関係 をとおして彼らが作り出す複雑な「故郷」のあり方について検討していく必要があろう。
近年の移民研究では、ディアスポラやトランスナショナリズムに関わる分野において、「故郷=帰 るべき場所」というような単純かつ固定化された故郷認識への問い直しが行われ、「起源(roots))よ りも「経路(routes)」[クリフォード2002]を重視した複数かつ多様な故郷のあり方が示唆されてき
た[大川2016]。複数の故郷を持つのは高度専門家や裕福層、あるいは移民二世やダブルの人びとだ
けではない。伊豫谷が言うように「輸送通信技術は国境を越えた空間を生みだし、移動の大半を占め てきた低賃金労働者に対しても、南と北が直接連接される世界が生み出されている」[伊豫谷2013:
22]。これまで自明視されてきた故郷の意味―「静態的で物理的な宇宙の中心」[Rapport and Dawson 1998:27]―は根本的に変容し、故郷とは多くの場合、状況に応じて特定の時間のなかで生きられ、想 像されるものになっている[Rapport and Dawson 1998:27]。高齢期やエイジングが移住者の故郷認識に どう影響するのかという問いは、グローバル・マイグレーション時代における多様な故郷のあり方を めぐる論点の一つである。一般的に過ぎ去った過去への内省は高齢期に高まると考えられているが、
ホスト社会で老いゆく移住者の場合、身体的な衰えや社会的地位の変化を経験しながら異なる場所に 対する理解や感情を複雑に彩っていくと考えられる[Gardner 2002]。また、ヨーロッパや北米、ある いは日本などから南ヨーロッパやアジアに移住する「リタイアメント移住者」の場合、エスニック化 されがちな「労働移民」とは対照的に、「自由に移動するコスモポリタン」のイメージが想定されが ちであるが、彼らにとっても場所への愛着や帰属感は重要な意味を持っていることが近年の事例研究 で示されている[Walsh2016]。
本稿では移住研究における「故郷」をめぐるこれらの議論に依拠しながら、沖縄在住外国人の場所 への帰属感やアイデンティティについて異なる移住経路を持つ2人のライフストーリーをとおして予 備的考察を試みたい。2人の出身および国籍はそれぞれインドとイギリスであり、R氏は父親とテー ラーを営むため復帰後に来沖し、J氏は日本本土での職場を早期退職し、2009年に来沖した。R氏は 58才、J氏は68才であり、2人はそれぞれ「地域で老いてゆく労働移住者」および「リタイアメン ト移住者」と位置付けることができる。在日外国人のエイジングや高齢期に関わる研究では、文化適
ト移住者」が着目されることは少ない。本稿では現代の移民現象の多様性を捉えるため2つのケース を同時に扱う。2人の故郷認識がそれぞれの社会的・経済的・文化的な文脈をとおして、そして年齢 に伴う諸変化のなかでどう構築されるのか、微細な次元に目を配りながら比較検討したい。
3.現代沖縄社会における在住外国人:調査地と対象者について
法務省の統計によると、沖縄には13,214人の外国人が登録している[法務省2016](2)。その数字 は全都道府県のうち26位とそれほど高くない。そのうちもっとも多いのがアメリカ人(18%、2,477
人)、それに続くのが中国人(13%、1,840人)、およびフィリピン人(13%、1,834人)、そしてここ数
年の間に増加したネパール人(11%、1,517人)である(3)。日本本土では有数のオールドカマーとし ての在日コリアンが比較的少ない代わりに、広大な米軍基地を抱える沖縄県には、もともと軍人・軍 属の地位で滞在し、日本人女性との結婚などを経て定住化するアメリカ人が多い[野入2007]。また、
フィリピン人については戦後まもなく在沖米軍基地雇用者として流入し、その後も定住しているオー ルドカマーや、1980年代以降、日本・フィリピン間の往還を経て沖縄に結婚移民してくるフィリピ ン人女性が知られている[鈴木・玉城1996,1997; 野入2016]。さらに戦前に産業振興策の一環として パイン殖産技術を導入するため移住した台湾系コミュニティ[野入2000,2001;八尾2010]の存在が ある。
沖縄在住外国人の国籍の内訳をみると、アメリカや中国、フィリピン以外の国籍者が56%を占め ており、多様な出身地からの移住者が沖縄で生活していることが分かる(図1)。本稿で焦点を当て る2人の国籍はそれぞれ
イ ン ド と イ ギ リ ス で あ る。インド国籍者は沖縄 県で9位、イギリス国籍 者は12位の人口を有し ており、どちらも少数派 の国籍者である(図1)。
沖縄に在住するインド人 は過去20年のあいだに 来沖したニューカマーと、
戦後まもなく来沖したオ ールドカマーとに分けら
(2)もちろんこの数値には日米地位協定上で滞在している米軍・軍属関係者、日本国籍を取得した異文化を背負った人びと、〇〇系日本人の存 在は含まれていない。
(3)法務省在留外国人統計[2016]。
(4)沖縄のインド人オールドカマーのコミュニティについては堂前[1997]の研究で紹介されている。
୰ᅜ, 1840
㸦14%㸧 ྎ‴, 736㸦6%㸧
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㸦8%㸧
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࣮࣌ࣝ, 245㸦2%㸧
ࡑࡢ, 1549 㸦12%㸧
図 1 沖縄県における国籍別外国人数(法務省 [2016] を元に作成)
れる(4)。前者はIT関係の仕事に就いている者が多く、後者の多くはもともと香港で洋服業を営んで いた会社を経由して、米軍人や軍属を顧客とすることを目的に来沖している。R氏は後者であり、彼 の父親は1961年に来沖し、R氏もその後を追って1977年に来沖している。後者のほとんどがシンド 語を話すシンディーであり、彼らの多くは米軍基地を抱えるA市でかつてテーラー(仕立て屋)の店 を経営していた。彼らによって建てられたヒンドゥー教寺院があり、シンディーの人たちのコミュニ ティがある。1960年〜1970年代にはベトナム戦争の出撃・後方支援基地となり、莫大なドルが落と されたが、沖縄復帰後は米軍基地の経済が低下するなかで、彼らの多くが経営不振となり、インドに 戻った人や、アメリカやフィリピンなど別の場所へ移動した人も多い。バブル経済でビジネスが好転 したものの、90年代以降の不況と大量生産・大量消費の文化が普及していくなかで、多くがかつて メインでやっていたテーラリング(仕立て)に代わり、米軍人だけでなく日本人顧客を対象に既製品 を売るようになっている。
一方、J氏を含めイギリス国籍者は沖縄県に散住しており、彼らの友人関係を中心としたネット ワークは組織化されていない。1980年半ば以降、日本の「国際化」や「グローバル化」への動きは、
英語教育市場をはじめ、ヨーロッパ人移住者が日本で働くことのできる雇用機会を増やしてきた。ヨ ーロッパ人移住者のなかでも圧倒的にマジョリティを占めるのが、J氏のような英語のネイティブ話 者であるイギリス出身者である[Debnär 2016: 48]。「教育」や「教授」ビザの所有者は彼らが多く(5)、 沖縄県においても大学や中高等学校で英語教員を務めるイギリス人は少なくない。彼らのなかには日 本人女性と結婚している者も多い(6)。J氏の場合、日本本土で日本人女性と結婚し、本土の大学で 務めていたが、2009年、彼が60才のとき、早期リタイア制度を使って退職し、沖縄にセミリタイア 移住している。彼のような「リタイア移住者」が沖縄県にどれくらい存在するのか把握することは困 難であるが、2000年代以降の沖縄への「移住ブーム」に伴い、また東日本大震災後に、本土経由で 来沖する欧米人移住者は少なくない。イギリスでは特に中流階級の人びとのあいだで、中高年期あ るいは退職後に田舎や海岸近くに移住することが魅力的なライフコース選択肢の一つになっており [Hall and Hardill 2014]、スペインなど南ヨーロッパに移住するのが主流であるが、移住先の選択肢は 多様化しつつある。また、日本人がアジア諸国など海外で老後を過ごすリタイア移住の現象について も近年指摘されている[渡辺2007]。J氏夫妻の場合は、気候や自然、生活スタイルや文化に惹かれ て沖縄移住が選択されている。
R氏は58才、J氏は68才である。彼らのように沖縄で中高齢期を迎えている外国人はどれくらい いるだろうか。年齢層を見ると、20代と30代が圧倒的に多く(53%)、40代と50代が25%、60代
以降が10%を占めている(図2)。
他方、在留資格の内訳からは、永住者・特別永住者が約36%を占めていることが分かる(図3)。
(5)法務省[2016]。
(6)筆者の知人の少なくとも10人の沖縄在住イギリス人(ほぼ全員が英語教員)が日本人女性と結婚している。
12%を占める日本人配偶者の多くが将来的には永住者に加わることを考慮すると、沖縄に住む外国人 の半分が「一時滞在者」ではなく、将来も沖縄に定住し、そこで年を重ねていく人びとであると言える。
2006年、総務省が地域における外国人住民の支援施策について「多文化共生推進プログラム」を 提言したことを受けて、他の都道府県と同様、沖縄県でも「多文化共生指針」が策定された。いく つかの自治体や国際交流センター、NPOなどのボランティア団体が中心となり、在住外国人を対象
図 2 沖縄県における年齢・男女別外国人数(法務省 [2016] を元に作成)
図 3 沖縄県における在留資格別外国人数(法務省 [2016] を元に作成)
0 1000 2000 3000 4000 5000 0㹼㸷
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ᅜ㝿ᴗົ, 1,175㸦9%㸧 ᢏ⬟, 157㸦1%㸧
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␃Ꮫ, 2,331 㸦18%㸧
ᐙ᪘ᅾ, 836㸦6%㸧
≉ูάື, 344㸦3%㸧 Ọఫ⪅,
4,429㸦33%㸧
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462 㸦3%㸧
≉ูỌఫ⪅, 338㸦3%㸧 ࡑࡢ, 407㸦3%㸧
としたさまざまな取り組みが行われている(7)。県の外郭団体による医療通訳ボランティア制度や、
NPO団体の無料日本語サークル、自治体における行政通訳、総合病院の医療通訳など、コミュニケ ーション支援を中心とした活動のほか、地域の外国人との交流事業や、外国人を対象とした防災への 取り組みが成果を挙げてきた。県は2015年から「多文化共生モデル事業」を行い、在住外国人に関 わる事例や課題などを把握しようと試みており、筆者もその事業に関わってきた。自治体職員への聞 き取りや関わりをとおして、在住外国人の高齢化について少数ながらも一部の自治体職員が関心や問 題意識を持っていることが分かった。たとえば、ある自治体では高齢外国人の「孤独死」のケースが 浮上したことから、市役所職員が通訳と協働して地域で中高年期を迎える外国人についての生活実態 調査を始めようと動き出していた。別の自治体職員は、日本人妻に先立たれたアメリカ人男性の成年 後見人をたてる手続きに苦労した経験を語ってくれた。「認知症になり、大人になって習得した日本 語をすっかり話せなくなった」、「身近に身寄りがいない」、「海外にいる親類とのやりとりが年齢とと もに難しくなった」などさまざまな問題が挙げられた。高齢期を迎える外国人(および外国系の人び と)が制度や福祉の面で問題を抱えていることが予想されるが、本稿ではあくまで彼らの沖縄社会や 出身国に対する理解や思いに焦点を当て、彼らのライフステージの移行に伴う主観性や生活世界を理 解することを目的にしている。
筆者は2015年7月と2016年8月、沖縄本島で中高齢期を生きる9人の国際移住者を対象にインタ ビューを行った。知人からの紹介や店舗への飛び込み訪問によって対象者に調査を依頼し、彼らの自 宅や職場、カフェなどで話を伺った。それぞれのインタビューは2時間程度、主に英語(一部は日本 語)で行われ、許可を得て録音され、筆者によって文字起こし・和訳された。対象者の出身地はイン ド(3人)、イギリス(2人)、アメリカ(2人)、台湾(2人)である。本稿では対象者のうち、異なる 移動経路や社会環境、経済的状況を反映したきわめて対照的な故郷認識が浮かび上がった2人のライ フストーリーに焦点を当てている。
移住研究においてライフストーリーは、移住者が自らの経験をどう意味づけるのかなど個々の経 験の曖昧さや複雑さ、動態性を考察するための方法として確立してきた[Gardner 2002]。本研究では 移住者のライフストーリーを彼らの主観的な経験への入り口としてとらえ[Peacock and Holland 1993]、
どのように彼らが特定の時間的・社会的な文脈のなかで自分自身―そして出身国や居住地―について 物語るのかに着目している。本稿で取り上げる2人のストーリーは、もちろんそれらが「語られた」
状況や「聴き手」である筆者との関係によって部分的に制約を受けていたと言える。たとえば、R氏 のインタビュー時に彼の息子が同席していたことは、R氏の「家族は一緒にいて助け合う」という言 説を部分的に促したかもしれない。また、インタビュアーである筆者が女性で年齢的に彼らより若く、
かつ沖縄出身であったことは、彼らのよりポジティブなストーリーを促した可能性もある。さまざま
(7)今回の「モデル事業」への関わりから、在住外国人に関わる取り組みや問題意識は一般的に自治体によって多様であることが分かっている。
人口規模の小さい他の地域では(北部・中部・南部を問わず)外国人住民の支援施策は何も行われていない。
な外的・内的要因に制約を受けながら、特定の時間・場所のなかで彼らの故郷認識がどう立ち現れる のか着目する。
3.R 氏のストーリー
(1) 移住経路:テーラーを営む父を追いかけて
沖縄本島A市にある大通りには、いくつかインド人が経営する服飾店が並んでいる。R氏の店も その一つである。「ここの人たちは自分に『メキシコ人?』とか聞くんだ。そしたら自分は『NO! Iʼm
Indian!』と言う。」流暢な日本語と英語を交えて話すR氏は、もうすぐ60歳である。父親が始めた
店を引き継ぎ、現在は30代の息子と経営している。「(洋服の)仕立ては、私のメイン・ライフ」と 微笑むRさんの店も、かつてメインでやっていたテーラリング(仕立て)に代わり、既製品を売る ようになった。「昔は、人間が気持ちを出してから作っていた。今の世界は変わってきている。安く ないとお客さんは買わないし、安いのはあまりきれいに作られていないさ。」
R氏の父親は1961年に来沖し、R氏もその後を追って1977年に来沖した。R氏は移住のプロセス についてこう語る。
ボンベイ(現ムンバイ)で生まれた。私の父が沖縄にいたから、(インドでは)父の兄とカルカ ッタで生活していた。ボンベイに行ったり来たりしながらカルカッタで育った。父が沖縄に来て私 に言ったんだ。『ビジネスを手伝え』と。以前はシンガポールや香港にテーラーの会社があって沖 縄の人と商品の売買をしていたけど、英語を話せない人もいて。それで父がここにいればビジネス ができるということで。その後、父は自分のお店を始めた。
一人っ子だったR氏は、父が沖縄で働き始めたので、父方の従兄弟たちと「兄弟のように」育った。
従兄弟たちのなかはアメリカやフィリピンに渡った者もいる。「私たち(インド人)はあちこちに散 らばっている。あちこちにインド人が必ずいる。中国人みたいさ。人数のせいだね。」多くの余剰労 働力を国内に抱えるインドでは、海外への出稼ぎ移民を多数送り出し続けてきた。実際に海外移民の 道筋を辿っていた父や従兄弟たちの存在は、R氏が沖縄に移住することを後押しした。一方、彼が定 住を決めた背景には、地元沖縄の同僚仲間とのポジティブな交流があった。
初めに来たときは、ここがあんまり好きにはなれなかった。何も分からなかったからね。日本 語も全然分からなかった。すごく大変だった。人に話しかけようとしても、よく『No ENGLISH Please!』と言われたよ。アメリカ人だけと話せた。それから、ゆっくり、一緒に働いている同僚が、
日本語を教えてくれたんだ。一緒にスーツを作っていた人たちが教えてくれた。『これ、間違いよ
〜』とか、『こんなって言いますよー』と。日本語の読み書きはまだできないけど、でも理解はで
きる。ありがたいさ。最初は少しだけ大変だったけど、2年半か、3年くらいかかったかな。自分 はラッキーだったと思う。仲間がいて。ほぼ地元の人だけど、とても良い人たちだった。とてもナ イス。今でも仲良くしているけど。ほんとうに感謝しているよ。『帰らないで、死ぬまで一緒にや れよ、こっちで。』と言われて、自分も『じゃ、帰らん!』って。
R氏の住むA市は米軍の仕事を求めてフィリピンや中国からも多数が働きに来ているほか、南米 からの日系人の移住者も多く、国際色豊かな「チャンプルー(ごちゃ混ぜ)文化」として知られている。
地元の人たちのなかには、仕事や日常生活をとおして、アメリカ人をはじめとする外国人と頻繁に接 する機会を持ち、異質な他者に対する寛容性を培ってきた人も多かったと推測される(8)。R氏は「日 本語を教えてくれた同僚仲間」について繰り返し語る。
自分が来たとき、友達が何人かできてとても良いやつらだった。自分をアメリカ人のように扱っ ていたけど、『日本語上手になって来たね〜』ってよく話しかけてくれた。ほんとに感謝しているよ。
友達が自分にちゃんと話しかけてくれたから。心からありがたいさ。自分たちはみんな同じだから。
同じ人間さ。お互いに敬意を払わないとね。
A市に定住したインド出身者の多くは、R氏のように10代後半から20代という若さで移住し、沖 縄で結婚や育児を経験してきた。19才のとき沖縄に来たR氏は、2年後インドに帰省した際に見合 い結婚し、妻を沖縄に連れてきた。2人の子どもを授かり、現在は父親も含めて3世代が一つの家で 生活している。家族ぐるみで親しくしてきた「近所の友達」との関係も、R氏が周囲の環境に対して 愛着を育む後押しとなった。
みんな1つの家にいる。ばらばらにはならないよ。家族は一緒にいる。ありがとうだよ。外人住 宅を借りている。子どもたちが生まれて以来、30年以上にもなる。ずっとそこにいる。一度決め たら動かないんだ。近所に良い友達もできたしね。お盆のとき、エイサーがまわって来るから、い つも外に観に行って話をして冗談を言って笑って。キッズもこのように育った。今はもう大人にな ったけど、近所にも子どもがいたし。家族みたいなものさ。ありがたいさ。本当の愛さ。人と一緒 にならないと、コミュニケーションとらないと、人間は(何も)できないよ。
「お金じゃなく、愛が大事だよ」とR氏は繰り返し語る。このような考え方を「父から教えてもらった」
(8)もちろん沖縄社会が外国人をはじめ異質な他者に対してオープンかつ寛容であるかどうかは、一般的に思われているより複雑であることが近 年のいくつかの報告からも明らかになっている。たとえば南米出身の日系人によれば沖縄社会は、文化的同化の圧力が強く、「ホスト社会へ の入り込みにくさ」[鈴木2007:70]や、「内面の多文化性を理解されない」[国吉2007:157]と感じている人たちがいる。また、アメリカ人男 性と沖縄女性とのあいだに生まれたアメラジアンの子どもたちが沖縄社会で、反基地感情に根差した否定的なまなざしを経験している[野入 2007:35]。
という。「お金は十分じゃない。父は言っていた。愛が無ければ、何もないさと。」友人や家族、同僚 仲間、近所の人びとなど「とっても良い人たち」と、自身の置かれた社会環境に対してR氏は充足 感を示している。「他に何も要らないよ。インドでもそんなところ見たことない。世界は変わってし まったよね。みんなが競争ばかりしている。それ、だめだよ。大金持ちでも関係ない。私は小さい家 で満足している。」
R氏が沖縄に根付いていくうえで、身近にシンディーのコミュニティがあり、同じ言語や信仰、文 化を共有できる場があったことは重要である。R氏は同じ街に住む他のシンディーの同業者たちと緩 やかにつながり、近所にあるヒンドゥー教寺院でもシンディーの人たちと交流を重ねてきた。R氏が 特に親しいのは近くの通りで雑貨屋を営むVさんである。10才年上のVさんはR氏より5年早く沖 縄に移住し、日本人女性と結婚している。「自分とVも今までずっと一緒さ。自分の妻とVは兄妹み たい(な関係)になっている。Vの奥さんもよく分かるよ、昔から。」ほぼ毎日会ってシンディー語 と英語を交えてお喋りし、時々はインドの食材なども一緒に注文して取り寄せたりする。こうした家 族ぐるみの付き合いや、信仰や文化を共有できる場は、R氏が沖縄を「第二の故郷」と感じるうえで 大きな役割を果たしてきた。
(2) 異なる社会環境のなかで―「みんな同じ人間」
R氏の語りのなかで頻繁に登場したテーマの一つは、「自分たちはみんな同じ人間」である。日本 語や食文化を含め、移住先での新しい生活様式に対して、R氏はオープンな態度で接してきた。たと えば、ヒンドゥー教徒にとって牛肉を食べることはタブー視され、沖縄に在住するインド出身者のな かにもベジタリアンを実践し続ける者は少なくない。「インドでは牛肉を食べなかった」というRさ んを中華料理屋に連れて行き、最初に牛肉を食べさせてくれたのは父だった。
最初、沖縄に来たときお父さんが中華料理屋に連れて行ってくれた。父は何でも食べていたよ。
ステーキとか。最初にほうれん草とビーフの炒め物みたいなものを食べたとき、父が『何食べたか 分かる?』って。自分が『美味しかったよ』と。とっても美味しかった。インドでは食べたことが なかったから。父が『ビーフ食べたんだよ』と教えてくれた。自分は『美味しいね!もっと食べた い!』と言って。それから父はY食堂にも連れて行ってくれた。
R氏が牛肉を食べ始めた背景には、彼の父親の影響のほか、同僚仲間や近所の友人たちなど地元の 人たちと深めてきた交流があった。沖縄では肉食をタブーとする文化は存在しない。来客にあたかも 強引に食べ物を勧める「カメ―カメ―攻撃」の習慣があることも知られている。そのような沖縄社会 に入り込む上で、R氏がベジタリアンを実践していくことは難しかったことがうかがえる。
国から一歩外に出たら、その場所での生活に変えないといけないさ。自分が間違いを冒したのは 分かるよ。でも誰か日本人の家に行く機会があって、ご馳走を出されたときに「NO、食べれません」
とは言えないよ。それは悪いこと。フレキシブルでないとね。お互いにハッピーにいられるように。
R氏は沖縄の食べものは「大好き」という。「ゴーヤーチャンプルとか。何でも食べるよ。嫌いな ものない。インドの食べ物も日本食も食べる。」R氏はそんな自分自身を「みんなと混ざる人間」と 見做している。「血の色が同じ」だから、エスニシティや文化的な違いは問題ではないと語る。
(子どもの名前を)病院などで呼ばれるとき、よく間違えられる。でも大丈夫さ。僕もわざとカ タカナっぽく呼ぶよ。もう慣れた。大丈夫さ。隣近所も。でも自分はほんとにここの人が好き。文 化も好き。自分はみんなと混ざる人間だから。混ざるのが好き。いいさ、関係ない。お互いに切り 捨てたらだめさ。血の色も同じだろ。黄色じゃないし、青でもないし、みんな赤だろ。何が問題な のさ、黒人とか、白人とか、イスラム教徒とか関係ないです。人間でしょ。『あんたらガイジン』
と言う人がいるけど、ガイジンじゃないよ、みんな一緒。
「みんな同じ人間」というR氏の考え方は、移住後に育んできた社会的環境をとおして培われたも のである一方、彼が生まれ育ったインドの宗教的・文化的な価値観が色濃く反映されている。R氏は インドでヒンドゥー教徒でありながら、学校教育や友人関係をとおしてキリスト教やイスラム教とも 関わりを持ってきた。自らの宗教的なアイデンティティについてこう話している。
インドでは教会にも通っていたよ。インドにある英語の学校に行っていたから、教会にも連れて 行かれたわけ。どこにでも行って大丈夫。イスラム教寺院にも行ったことがあるよ。インドでイス ラム教徒の友達がいて、モスクに行っていたわけ。何も問題ないさ。1つに縛られているわけじゃ ない。みんな人間さ。どっちに行っても大丈夫だよ。これ神様のところだよ。
また、R氏の父親は西パキスタン出身のヒンドゥー教徒である。分離独立したインドとパキスタン(9)
は近年まで戦争を繰り返し、インド国内でも各宗派の過激派による暴動やテロ事件がしばしば発生し てきた。こうしたインドでの社会問題や自分自身の「ルーツ」への意識が、ナショナリティや宗教の 違いの恣意性に彼をより自覚的にそして敏感にさせてきた。
父親はもともと西パキスタンの出身。昔は全部インドだったよ。イギリスが支配してから分割し
(9)歴史的にもともと一つであったインドをイギリスが植民地支配し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で違いを強調して対立をあおる分割統治 が行われてきた場所である。
たんだ。イスラム教徒はそこに行って、ヒンドゥー教徒はここに来てと。それは単に頭脳ゲームさ。
今でも同じことが起きているさ。シリアとかイランで何が起こっているか知っているだろ。同じ人 間が死んでいる。偉い人は上に座って見ているだけ。子どもなんかは可哀想よ。神様は人を殺せと なんか言っていないのに。神様は互いに愛せよとしか(言っていない)。
R氏は国籍やエスニシティ、肌の色や宗教の違いも重要ではないという。「自分はインド人だよ、
日本人でもあるし、沖縄人でもあり、アメリカ人でも…インターナショナルさ。」R氏のこのような 考え方は、移住前のインドで、そして移住後の異なる環境のなかで少しずつ育まれてきた。
(3) 変わりゆく「故郷」 ― インドと沖縄
移住先の沖縄で、新しい言語的・文化的なアイデンティティを育んできたR氏は、10代のほとん どを過ごしたインドを相対的かつ批判的にとらえている。R氏は3年前、娘がインド人と結婚した際、
結婚式のために帰省した。その前は10年ほど前だったというので、それほど頻繁には帰省していな いことがわかる。「フライトも高いし。ここの賃貸も払っているからね。」沖縄で生活するようになっ て考え方も変わったとR氏は話す。「インドに戻ると、これじゃダメだよと思うことがある。」たとえば、
インドにおけるメイド文化がそうである。R氏は移住前インドに住んでいた頃は「自分の手を使って 働いたこともなかった。」「インドではお手伝いさんがいて家のことを全部やってくれたから。掃除し たり、トイレ掃除したり、料理しに来たり。インドでは人を使うのが安いからさ。」日本では一般的 にメイド文化は存在しない。「日本の人は自分でみんなやっていて、そういうやり方が好きになった」
とR氏はいう。「自分の手を使う仕事は、本当にありがたいさ。自分もできるようになった。」
朝起きて家を掃除して、店に来て店の前を掃除する。掃除して街をきれいにすることは衛生的でも あり、それがインドには欠けている部分だとR氏はいう。インドでのインフラ整備の現状について こう続ける。「24時間の水道ラインは必要だよね。インドではまだいくつかの場所で水タンクがない 人がいる。水を家に運んでいるんだ。」インドでは近年、IT産業を中心にめざましい発展をとげてい る一方で、インフラ整備や公衆衛生の改善、貧困が社会問題であり続けている。インドは経済的に日 本(沖縄)より貧しく、人びとの生活習慣や態度においても「遅れている」部分があるとR氏は見做す。
3年前インドに帰省した際に感じた違和感についてこう話す。
インドは良い場所だよ。でも人びとは変わらないといけない。最近帰省したとき、みんなが(自 分を)ジロジロ見たんだ。ずっとジロジロ見ているんだよ。インドは大好き。自分の国だし。日本 も大好き。でもインドの人は少し礼儀正しさを学ばないといけないと思う。本当に良い場所だけど。
信仰心も厚い。でも詐欺が多い。お金を取ろうとする。それが嫌なところさ。
人びとの「信仰心が厚く」「本当に良い場所」であるインドは、R氏にとって物理的に帰還すべき 故郷ではもうない。それに対して沖縄の居住環境は、インフラが整い、街中は比較的衛生的で、人び とは「礼儀正しく」、そして詐欺も「それほど多くなく」、Rさんにとって快適であるという。沖縄に 住むことは「問題はないです」と宣言する。
アメリカではドラッグ問題とか銃の問題があるでしょ。毎日(テレビで)見るでしょう。日本は 安全なところ。人びともナイス。大事なのはそういう関係だよ。お金は問題じゃない。問題は心。
よく自分の子どもにも教えているんだ。お金が一番っていう考え方はダメだと。天国に持っていけ ないよ。財産を作っても、持っていけないでしょう。あの世に逝くときは、このままの姿でしか逝 けないさ。それならありがたいって毎日言った方がいいさ。自分はこの考え方を父から学んだ。だ から自分の子どもにも伝えている。
前述したように、インド出身者のなかには、沖縄でのビジネスがうまくいかず、アメリカなど別の 場所に移動した人が少なくない。移動の選択肢や可能性を頭の隅に抱えながら、R氏は沖縄に住み続 けてきた。R氏は「安全で安心な」沖縄社会で感謝しながら生きていくことを父から受け継ぎ、子ど もにも受け継いでいる。
沖縄社会に根付きながら、R氏の生活はハイブリッドである。家族間の言語は主にシンディー語で あり、映画やテレビ番組などはヒンドゥー語で観ることが多い。子どもたちはインターナショナル・
スクールを出たため、英語や日本語、シンディー語、ヒンドゥー語を話すマルチリンガルである。一 家は近所にあるヒンドゥー寺院に通い、子どもたちも信仰を受け継いできた。シンディーの言葉や信 仰、文化を共有できる場が身近にあることは、R氏が過去との継続感を持続するうえで重要な役割を 果たしている。インドへの帰省は滅多にできないが、近年の通信技術の発展はR氏の出身地へのつ ながりに貢献してきた。「昔は手紙か電話しかなく、しかもとても高かった。でも今は電話もインタ ーネットもあるしね。コミュニケーションが取れる。」インドに住む娘と頻繁に連絡を取り合い、イ ンドで起きているニュースを頻繁にチェックしている。「インターネットで日本やインド、アメリカ のテレビも観るよ。いろんな種類のニュースを観ている。これは仕事だから。脳を働かせないとさ。
観ないと世界で何が起こっているのか分からないからね。」
(4) 年齢を重ねて ― 介護と病気のあいだで
現在58才のR氏は、洋服店を経営するかたわら、同居している高齢の父親の面倒をみている。父 親は日中家に一人でいるときは、R氏の店に時々電話をかけてくる。「クーラーが嫌い」という父が 熱中症にならないよう、水分補給や室内温度などに気をつけている。シャワーなどの介助が必要で、
R氏は「自分ができることは全部手伝っている」という。「最近は(父の)耳も遠くなったんだ。」ま
た、R氏の妻は糖尿病があり、その合併症で目の治療や透析治療などをしている。R氏自身は、去年 心臓発作を起こし、バイパス手術を行った。夫婦の決して良好とは言えない健康状態にもかかわらず、
R氏は家族だけで父の介護を続けていくことに対して前向きである。「自分なんかインド人は父や母 とか昔の家族から離れていかない。死ぬまで一緒にいるよ。お互いに助け合う。ギブ・アンド・テイ クさ。もし何か必要なときには近所の人も助けてくれる。」子どもに老親の扶養義務が顕著に課され るという文化的背景や、R氏自身や妻の身体的不調などの事情もあり、彼の「家族は助け合う」とい う信念は強くなっているようである。
年齢を重ね、とくに心臓発作を起こして以来、これまでの生活習慣を改めているとR氏はいう。「(
以前)僕はタバコもよく吸っていた。お酒もたくさん飲んでいた。たくさん! でも止めて今はビー ルしか飲まない。ウイスキーは辞めた。タバコもやめた。1ヶ月も入院した。」食生活も変わったと いう。「最近、手術の後からはあまりビーフを食べなくなった。野菜を多めに食べたい。」医者から指 示されたわけではなく「自分の気持ち」だという。
自分の気持ちがさ。もう血管が詰まるのは嫌だし。インドでは多くの人がベジタリアンだよ。豆 がタンパク(源)。豆を食べると肉ほどのパワーは出ないけど、身体にいい。本を読んでいると肉 が身体に悪いと書いてある。まだ肉は好きだけどね。焼き鳥とか!
50代後半になって牛肉を「食べる気持ち」がなくなってきたとR氏はいう。インドの菜食主義文 化へと気持ちが傾いてきた。ヒンドゥー教に関しても同様だ。「若いときは気にしなかった。神様 もいなかった。でも、だんだん年をとると、自動的に変わってくる。大事になるよ。」インドを離れ、
沖縄を「第二の故郷」としながら、身体的な衰えを経験することで再び自らの起源(roots)インドへ と心が傾く。そうやって行ったり来たりしながらR氏は「老い」を迎えようとしている。
4.J 氏のストーリー (1) 音楽の島へリタイア移住
次は2009年に早期退職して妻と沖縄に移住したJ氏のライフストーリーである。「生まれも育ちも N市(イングランド)。26才までそこに住んでいた。大学に入ったのは遅かった。自分の人生のすべ ての出来事が遅かったんだ。大学に入ったのは26才。36才のとき日本に来た。」イングランド東部 の出身であるJ氏は、1984年に来日し、本州のインターナショナル小学校で働いているとき、J氏は 日本人女性と出会い結婚した。インターナショナル小学校や夜間学校で英語を教えながら、語学講師 としての資格を取り、その後も働きながら、アメリカの通信制大学院で修士号を取り、大学で専任教 員となった。日本への移住過程についてJ氏はこう語る。
イングランドでは小学校で英語の先生をしていて、その後、インターナショナル・スクールで働 いた。ロンドンにも2年間だけ住んでいた。ロンドンで生活するのは大変だった。長く住みたくは なかったね。ロンドンではあまり仕事がなくて、常勤の仕事見つけるのは難しかった。それで別の 国に行ってみようと思ったんだ。冒険しようと思って、ほんの短い間ね。それで海外での色んな仕 事に応募し始めて。特に日本というわけでもなかった。初めは南米がいいかなと思っていた。たく さん応募したよ。日本のインターナショナル小学校で仕事が決まって、1984年に来た。そのとき は2年間いるつもりでね。自分は教職員のなかでも若くない方だったし、イングランドに戻るつも りだった。次に何をしようかと考えているときに妻と出会った。もうすぐ2年という頃だった。結 婚して、もう少しだけここ(日本)に住もうかなと思った。彼女は本州出身、オフィスで働いてい たよ。偶然出会ったんだ。
「新しい経験や変化を求めていた」、「特に日本でなくても良かった」というJ氏は、これまでとは 異なるライフスタイルや別のキャリアを求めて日本にやって来た。日本でのヨーロッパ人移住者の増 加について、デブナールは「個人化」の波を指摘する[Debnär 2016:93]。人びとが国家や階級、家族、
エスニシティなど伝統的な社会構造から脱埋め込み化されるなか、ライフスタイルへの選択が促され、
その方法の一つとして日本への移動が促進される[Debnär 2016:93]。「あんまり深くは考えていなかっ たけど、1人で漂流する傾向があった」というJ氏の話からも、彼の日本への移住の背景に「近代的個人」
の価値観が伺える。
しかし、「ほんの短い間冒険するつもりだった」というJ氏は妻と出会い、息子を授かることでし だいに「一人で漂流」することが難しくなっていった。「若いときは心のどこかで思っていた。いつ かはイングランドに帰ろうと。でもそれがだんだん現実的にはなくなってきて。」J氏は2009年、60 才のとき、勤務していた大学の早期リタイア制度を使って退職した。経済的な必要性がないなら、「65 才まで働き続けるよりいいと思った」という。J氏夫妻は退職後の生活拠点をいろいろ話し合った。
イングランドに帰ることもJ氏の頭をよぎった。それは日本で生活しながら何度か考えたことでもあ った。しかし妻も息子もいてそれは現実的に難しかった。J氏は以前のように身軽ではなくなってい た。「息子は日本に残りたがった」し、本州に残る息子から遠くない沖縄への移住が家族の妥協案と して挙がった。
イングランドに戻ろうと思ったこともある。でも結局A県で仕事が決まったから、(日本に)残 ろうと思った。それから、もう(イギリスに)戻るには遅過ぎる感じになってしまって。もう若く なかったし、60才近かった。それで(妻と)2人で決めた。妥協案として沖縄に移住するのがいい と。自分も妻も沖縄が好きだったし、音楽や文化など興味深かったから。日本じゃないみたいだっ たから。移住するにはタイミングがいいと思えた。
J氏夫妻にとって、日本語が通じ、日本の制度が敷かれながらも「日本じゃないみたい」な沖縄 は、リタイア移住するには良い場所であった。NPO関係のキャリアを積みたかったという妻にとって、
そして本州に住む息子や義父母にとっても、沖縄は地理的にも遠くなく、イギリスの妥協案としてベ ストだった。さらに、J氏は「沖縄が好きだった」、「音楽や文化が興味深かった」と話す。彼のライ フワークは音楽であり、日本で生活しながらポップ音楽についての記事を毎月英字雑誌に書いてきた。
「ギターを少し、三線も少しできるけど、自分はミュージシャンではないよ…というより、大の音楽 好きなんだ。聴くのが好き。」彼は沖縄音楽との出会いをこう語る。
A市に住んでいたとき沖縄音楽と出会った。毎月英字雑誌にイングランドのポップミュージック に関する記事を書いていた。音楽がずっと好きだったから。そのとき沖縄音楽と出会って、記事に し始めて、何度も沖縄を訪れるようになった。
沖縄音楽との出会いは妻のおかげ。妻が喜納昌吉&チャンプルーズのテープを持っていて、それ で初めて聞いたんだ。日本の古い音楽は聞いたことはあったけど、あまり好きではなかった。でも、
この喜納昌吉&チャンプルーズのテープを聞いて感動したんだ。沖縄のことは何も知らないと思っ た。それから沖縄のいろんなミュージシャンの音楽を聞き始めて、沖縄に行くようになった。初め は家族で、少なくとも毎年一回は通っていたよ。ついに移住するまでね。
「沖縄の離島は全部行った」とJ氏はいう。最初は石垣島や池間島など離島への移住も考えていたが、
沖縄本島に決め、妻と二人で中部にアパートを借りて、北から南まで家探しを始めた。「妻も私もた だ海の近くであれば良かった」という夫妻は南部を選んだ。「南部の方が比較的安かった」し、「すば らしい眺めもあった。」「バルコニーから海がよく見えるんだ。この場所が好きだったしね。」9か月 間にわたって家を探しまわり、疲れていたこともあった。住んでみると「けっこう便利なところ」だ った。「那覇にもかなり近い。車で30分。」
(2) 異なる社会環境のなかで
沖縄本島南部B市の外れ、海の近くの静かな田舎に妻と生活を始めたJ氏は、大学の非常勤講師 として短時間働きながら音楽関係の執筆を続けている。妻は仕事やボランティア活動などをしている。
夫妻は近くの海でスノーケリングも始めた。まだ10年にもならないその家の近所で、少しずつ知り 合いもできた。「この辺りは、日本人と沖縄人(Okinawan)が混ざっている。日本人が結構多い。8 月に小さな祭りがあるけど、日本のものと沖縄のものが奇妙に混ざっているんだ。通りの向こう側に、
カナダ人も住んでいるらしいけど、会ったことはない。」J氏夫妻の住む地域は、人口規模が小さく、
近くに米軍基地や大学もなく、インターナショナルな雰囲気を感じさせない場所である。住んでいる 地域の場所への帰属感はとくに持っていないようである。他方、ネガティブな感情もない。沖縄に来