梶 川 信 行 教科書 の 中 の 万葉歌 ︱ 大伴旅人 の 望郷歌 を 読 む︱

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(1)

1 古代和歌の教材としてふさわしい一首  ﹁大宰帥大伴卿﹂と

は大伴旅人のことだが︑旅人の歌を教材とする国語の教科書

は︑むしろ少数派である︒したがって右の歌も︑必ずしも教科書の定番教材というわけではない︒筆者がかつて︑高等学校﹁国語一﹂の教科書の編集に携わった際には︑当該歌を教材の一つ としたが︑現在では︑高等学校﹁国語総合﹂で一社一種類︵第一学習社・国総

327︶の教科書が採用しているに過ぎない︒

しかし︑当該歌は実に平易な表現によって成り立っている︒

しかも︑題詞も平易で具体的である︒そこには﹁京を憶へる歌﹂

とあるので︑都から遠い大宰府︵福岡県太宰府市︶で︑望郷の念をうたったものだということが︑すぐに理解できる︒それは現代の若者にとっても︑共感できる感情であろう︒﹁ほどろほ ︿研究へのいざない﹀万葉歌を読む

26

梶 川 信 行 教科書万葉歌大伴旅人望郷歌 む︱

    大

だざいの

宰 帥

そち

おほともの

伴 卿

まへつきみ

の 冬

ふゆ

の 日

に 雪

ゆき

を 見

て 京

みやこ

を 憶

おも

へ る 歌 一 首 沫

あわ

ゆき

の   ほどろほどろに   零

り 敷

けば

なら

城 の 京

みやこ

師 し   念

おも

ほゆるかも

(巻八・一六三九)

(2)

定した条件ということになろう︒次に︑﹁平城の京師し﹂の﹁し﹂

は強意の助詞であることを確認する︒﹁沫雪の  ほどろほどろ に  零り敷﹂く様子が︑旅人の脳裏では︑ほかならぬ﹁平城の京師﹂の﹁冬の日﹂の姿と重なった︑ということである︒そう

した確認の後に︑﹁念ほゆるかも﹂の﹁かも﹂は詠嘆の終助詞で

あると答えさせることになろう︒言うまでもなく︑一首の中心は﹁平城の京師し  念ほゆるか

も﹂という心情表現にある︒そして︑その望郷の念を喚び覚ま

させたものが︑﹁沫雪の  ほどろほどろに  零り敷﹂く眼前の風景だった︒本稿の冒頭では当該歌を二行に分けて提示した

が︑一行目が原因となった景観︑二行目がその結果としての心情である︒つまり︑作者の眼には現在の大宰府の風景が映って

いたはずだが︑脳裏には︑かつて見た遠い奈良の都の雪の日の姿が浮かんでいた︒その身は大宰府にあったが︑心は奈良の都

に飛んで行ってしまう状態だったのだ︒まさに望郷の念を詠ん

だ一首であると言ってよい︒

あり得べき学習の姿を求めて  右のように︑文法事項等の確認から一首が読み解ければ︑高校生の古典の学習としては及第

であるとも考えられる︒とは言え︑文法的に正確に読み取りさ

えすれば︑古代和歌の学習として︑それで十分だというわけで

はあるまい︒大伴旅人という奈良時代の文人貴族の歌の世界を

きちんと理解するためには︑学習しなければならないことが多

い︒ましてや︑国文学科の学生ならば︑当然︑もっと深い理解

が求められる︒

そうは言っても︑センター試験にも出題されたことのない どろ﹂とはどんな状態なのかと︑古語辞典で確認する必要はあ

るものの︑和歌の技巧などに関する学習をする必要もない︒﹁よ

くわからない﹂という反応を示す生徒は少ないのではないか︒

また︑旅人は﹃万葉集﹄を代表する歌人の一人である︒﹁平城

の京師﹂という四句目によって︑奈良時代の作品だということ

も明白である︒このように︑右はさまざまな理由で︑古代和歌

の入門教材としてふさわしい一首であると考えられる︒文法的なアプローチを中心とするならば  一首を簡単に口語訳しておこう︒まずは︑題詞である︒大宰府の長官であった大伴卿が冬の日に雪を見て︑平城京を追憶した歌一首︑という意︒

また歌の方は︑淡雪がはらはらと散るように地面に降り敷く

と︑奈良の都のことがしきりに思われることだなあ︑というほ

どの意︒すでに述べたように︑望郷の念をうたった一首である︒

﹁ほどろ﹂とは︑まだらな状態のこと︒﹁雪がぽたぽたと降り︑

まだらにつもるさま﹂︵上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語大辞典  上代編﹄三省堂・一九六七︶とされる︒﹁ほどろほどろに﹂

は︑その状態を強調した擬態語で︑﹃万葉集﹄中唯一の例である︒

ぼたん雪だとする説もある︵﹃セミナー万葉の歌人と作品  第十二巻  万葉秀歌抄﹄和泉書院・二○○五︶︒それ以外の語は︑現代語とあまり大きな違いがないので︑高校生たちにも︑苦も

なく口語訳できるのではないか︒文法を中心とした学習ならば︑まずは﹁零り敷けば﹂の﹁ば﹂

は︑已然形+バの確定条件であるということを確認する︒題詞

に﹁雪を見て﹂ともあるので︑作者の旅人はその時︑﹁沫雪﹂の

﹁零り敷﹂く様子を見ていたのだ︒その眼に映った風景が︑確

(3)

動に関する研究の展望﹂︵﹁地学雑誌﹂一一六号・二○○七︶︒奈良でそれほど雪が積もらないのは︑必ずしも近代における温暖化の影響ではないらしい︒雪国に暮らす人たちには︑﹁ほどろほどろに  零り敷﹂く﹁沫雪﹂など︑イメージできないかも知れない︒実際︑岩手県盛岡市では︑雪は﹁のっつのっつ﹂︵どんどん︶降るもので︑﹁べだ

ゆぎ﹂﹁ぼだゆぎ﹂﹁しばれゆぎ﹂などという語はあるが︑﹁沫雪﹂

という表現は聞いたことがないと言う︵本学通信教育部教授・近藤健史氏︶︒また︑富山県高岡市出身の女子学生も︑﹁沫雪﹂

という語にはピンと来ないようだった︒﹁ばらばら﹂と降る軽

くて細かい雪から︑降ると家が傾く﹁どかっと﹂降る雪まで︑雪の降り方に関する表現がいろいろあるということを教えてく

れた︵国文学科・竹澤遥香さん︶︒一方︑福岡ではかつて︑﹁沫雪﹂

が﹁ほどろほどろに﹂降ることがあったということだが︑観測史上ほとんど降雪の記録のない沖縄の高校生たちは︑いったい

それをどのように受け止めるのか︒日本列島は南北に長く︑その気候はさまざまである︒﹁ほど

ろほどろに  零り敷﹂く﹁沫雪﹂と﹁平城の京師﹂が︑﹁し﹂とい

う助詞で強く結びつくことが︑筆者のように生活実感として素直に肯ける人は︑少数派であろう︒したがって︑この歌に関し

ては︑どのような地域の学校かによって︑理解度に違いが出て来る可能性もある︒その場合は︑自分たちの住む地域と奈良と

では︑雪の降り方がどう異なるのかということについても︑丁寧な説明が必要となる︒旅人に関する脚注は周辺的な知識に偏っている  そこで︑地 ﹃万葉集﹄に︑それほどの時間はかけられない︒高校の教育現場では︑そういう声も聞こえて来るに違いない︒確かに︑それ

は現実的な判断であり︑決して間違いだとは言えない︒そこで本稿では︑教育現場の現実は度外視し︑あり得べき学習の姿を求めて︑当該歌をより深く理解するための方法を考えてみたい

と思う︒

奈良では確かに﹁ほどろほどろに﹂雪が降る  筆者はかつて奈良市に住んでいたことがある︒関東地方では春先︑南岸を低気圧が通過すると︑ドカ雪が降ることもあるが︑奈良では一度

もそういうことがなかった︒京都市内が大雪になっているの

に︑奈良ではうっすらと雪化粧する程度ということが︑何度も

あった︒﹁ほどろほどろ﹂の雪を見ると奈良の都が思い出され

るという旅人の感覚は︑生活実感として共感できるものなの

だ︒近代における気象観測のデータだが︑東京では四六センチ︑横浜で四五センチの積雪が記録されたことがある︒一方︑奈良

では二一センチが最高で︑一○センチ以上積もったことはあま

りない︵気象庁HP︶︒﹃万葉集﹄には︑﹁白雪多に零り︑地に積

むこと数寸なり﹂︵巻十七・三九二二題詞︶という状態だった日︑左大臣以下百僚たちがうち揃って太上天皇のもとに参上し︑雪掻きの奉仕をしたことが伝えられている︒﹁数寸﹂の雪が異例

の事態だったのだ︒万葉の時代の気候は︑現在とあまり大きく違わなかったとする研究もある︵吉野正敏﹁歴史時代の気候変

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︵東京書籍・国総

302・ 304︶ 六六五年︱七三一年︒万葉第三期の歌人︒晩年大宰府の長官として赴任︒多くの歌を残した︒大伴家持の父︒

︵三省堂・国総

306︶ ︵六六五︱七三一︶大伴家持の父︒大宰帥となる︒

︵大修館書店・国総

312︶ 六六五︱七三一年︒万葉第三期の歌人︒晩年大宰府の長官

となり︑任地で多くの歌を残した︒家持の父︒

︵筑摩書房・国総

322・ 家持の父であるという事実も︑必須の知識に準じた形である︒ 生没年と︑晩年大宰府の長官だったという情報が共通だが︑ 323︶

その一方で︑﹁万葉第三期の歌人﹂ということを示すか否かと

いう点に違いが見られる︒

﹁古典B﹂の教科書の﹁大伴旅人﹂についての注も見てみよう︒

大宰帥として赴任し︑山上憶良と親交があった︒︵六六五

︱七三一︶︵教育出版・古B

309︶ ︵六六五︱七三一︶大伴家持の父︒大宰帥として筑紫に赴

き︑山上憶良と交友があった︒︵大修館書店・古B

310・ 312︶ ︵六六五︱七三一︶万葉第三期の歌人︒筑紫歌壇を形成︑漢詩文の知識を踏まえた歌を作った︒︵数研出版・古B

314︶ 六六五︱七三一年︒万葉第三期の歌人︒晩年大宰府の長官

となり︑任地で多くの歌を残した︒家持の父︒

︵筑摩書房・古B

320︶

﹁国語総合﹂と一字一句違わない説明で︑発達段階に応じた学習の深化が配慮されていない出版社もあるが︑中には理解を 域による理解度の違いが少ないと思われる問題について︑考え

てみることにしたい︒第一学習社の教科書の﹃万葉集﹄の単元には︑﹁大宰帥﹂と﹁大伴旅人﹂についての脚注がある︒そこには︑

大宰帥  大宰府の長官︒﹁大宰府﹂は︑筑前の国︵今の福岡県︶に置かれた役所︒外交や海防などにあたった︒

大伴旅人  六六五︱七三一︒家持の父︒

とされている︒﹁ほどろほどろに﹂の説明もほしいところだが︑歌そのものの理解よりも︑周辺的な知識を優先した形である︒

とりわけ︑﹁家持の父﹂という説明は︑当該歌の理解にとっ

ては︑まったく役に立たない︒当該歌に先立って﹁春の苑  紅 にほふ﹂︵巻十九・四一三九︶という一首が載せられ︑大伴家持  七一八?︱七八五︒旅人の子︒﹃万葉集﹄の撰者と言われる︒

という脚注も付されているが︑それと呼応する形の注である︒

しかし︑家持は﹁旅人の子﹂であり︑旅人は﹁家持の父﹂である

という説明では︑果てしない循環論に陥ってしまう︒また︑﹃万葉集﹄の場合﹁撰者﹂ではなく︑﹁編纂者﹂と言うべきである︒大宰帥が﹁外交や海防などにあたった﹂ということも︑歌を理解するための直截的なヒントにはならない︒そうした周辺的な知識を与えることよりも︑きちんと歌を読み取るための注が必要であろう︒教材としている歌は区々だが︑﹁国語総合﹂の各教科書の﹁大伴旅人﹂に関する脚注を見てみよう︒

︹六六五︱七三一︺晩年︑大宰府の長官である帥となった︒

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のような形になる︒

大伴旅人  ︹六六五︱七三一︺晩年︑大宰府の長官として赴任︒山上憶良との親交の中で多くの歌を残したが︑この歌はその時期の作︒

ほどろほどろに  雪がはらはらと舞い︑まだらに地を覆う様子︒平城京での雪の降り方を思い出させた︒

﹁漢詩文の知識云々﹂︵古B

   一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし︵巻三・三三八︶   験無き物を念はずは 314︶という注は︑

という一首に付されたもの︒﹁大宰帥大伴卿︑酒を讃むる歌十三首﹂︵巻三・三三八〜三五○︶の冒頭に置かれ︑全体の﹁序章で総論﹂︵伊藤博﹃萬葉集釋注二﹄集英社・一九九六︶と言わ

れる一首だが︑その十三首はさまざまな漢籍や仏典などの知識

に基づくものとする見方が通説である︒具体的な出典まで学習

する必要はないものの︑和歌を含め︑多くの古典文学の背後に漢籍の知識があるという事実は︑日本文化の成り立ちを知る上

でも︑学習しておく必要があろう︒﹁国語総合﹂で漢文を学習

した後の﹁古典B﹂の注でもあり︑適当な内容ではないかと思

われる︒ところが﹁国語総合﹂にも︑漢詩文の知識を前提とした讃酒歌や梅花宴の旅人歌︵巻五・八二二︶を教材とする教科書が見ら

れる︒しかし︑酒で鬱情を晴らそうというテーマの歌が︑高校生にふさわしいものとは思えない︒共感されても困る︒旅人の歌を学習するならば︑﹁国語総合﹂では平易な当該歌を︑﹁古典

B﹂では大陸の文化を前提とした梅花宴の一首をといった形 深めることを意識した説明も見られる︒山上憶良との親交の中

から多くの歌が生まれたということと︑漢詩文の知識を踏まえ

た歌々が作られたということである︒とは言え︑﹁筑紫歌壇﹂

という用語は︑昭和の学説の一つ︵伊藤博﹁古代の歌壇﹂﹃萬葉集の表現と方法  上﹄塙書房・一九七五︶に過ぎない︒事実に基づいた説明としては︑﹁憶良と親交があった﹂と言った方が適切であろう︒

また﹁第三期﹂という位置づけは︑現代でも便宜的に使用さ

れてはいるが︑それは戦前の学説である︵澤瀉久孝・森本治吉編﹃作者類別年代順  萬葉集﹄藝林社・一九三二︶︒﹃万葉集﹄

に収録された約四千五百首の歌を︑機械的に四つの時期に振り分けたものに過ぎない︒しかし︑天平期の歌々は確かに事実の記録と見られるが︑初期万葉の世界は伝承歌を含む上に︑奈良時代の歴史認識に基づいて︑最終的に定着した本文にほかなら

ない︒それをそのまま文学史的な事実と見るわけには行かない

︵梶川信行﹁︽天平万葉︾とは何か﹂﹃天平万葉論﹄翰林書房・二

○○三︶︒しかも︑﹁第三期﹂に関して︑教科書には具体的な年代やその文学史的な意義に関する説明が見られない︒つまり︑意味もわからずに丸暗記するしかない形である︒とりわけ﹁国語総合﹂の注としては︑ふさわしいものではあるまい︒発達段階に応じた教材選びとその理解を助ける脚注を  ﹁国語総合﹂の場合︑当該歌に関する脚注には︑大宰府の長官だっ

た晩年の作だということを示しておく必要がある︒しかし︑家持の父であるという記述は不要であろう︒この教科書の脚注は最大六○字ほど︒そこで︑それに合わせて考えてみると︑以下

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また︑後述するように︑教科書では﹃万葉集﹄の特色の一つ

として︑序詞という技法があるということも挙げられている︒

したがって︑その学習も必須の要件とされているが︑﹁多摩川

に  さらす手づくり﹂︵巻十四・三三七三︶という東歌の一首で

それを学習するのが定番である︒ここでは人麻呂の恋歌で序詞

を学ぶ形だが︑評価の高い﹁多摩川に﹂の歌を採らなかったの

は︑それでは人麻呂が抜け落ちてしまうからであろう︒

この単元の﹁学習﹂には四つの課題が示されているが︑当該歌に関わるものは︑次の二つである︒

それぞれの歌を、句切れやリズムに注意して、音読して

みよう。

﹁春﹂﹁夏﹂﹁秋﹂﹁冬﹂それぞれの歌について︑表現技巧

にも注意しながら︑歌風を比べてみよう︒

の課題は︑現行の﹁高等学校学習指導要領﹂でも推奨され

ている﹁音読や朗読﹂︵﹁国語総合﹂

3内容の取扱い⑷のイ︶であ

る︒これについては︑冒頭にも示したように︑三句目の後で小休止するということで間違いはない︒これは歌風の確認の一環

であろう︒

また□に関しても︑﹁学習指導要領﹂では﹁古典に表れた︵中略︶表現上の特色﹂を学ぶことが求められている︵﹁古典﹂

直線的な歌いぶりであるが︑感慨が浮調子でなく真面目な歌い 近代の歌人たちの評を見てみると︑斎藤茂吉は﹁線の太い︑ 形で素直にうたった一首であると言ってよい︒ 万葉歌にしばしば見られる﹁表現技巧﹂がない︒日常語に近い 容の取扱い⑷のウ︶︒しかし︑当該歌には枕詞や序詞といった 3内 が︑教材の難易度から言っても︑適当なのではないかと考えら

れる︒

教科書は当該歌をどう学ばせようとしているか  当該歌を教材としている教科書︵第一学習社・国総

327︶は︑﹁和歌と俳諧﹂

という単元の中に﹁万葉・古今・新古今﹂と題された教材を置

いている︒四期区分説に基づき︑各時期の歌をバランスよく並

べた一般的な教科書︵﹁高校﹁国語総合﹂の教科書︑全二十三種

を徹底解剖﹂梶川信行編﹃おかしいぞ!国語教科書﹄笠間書院・二○一六︶とは異なり︑三大歌風と呼ばれる﹃万葉集﹄﹃古今和歌集﹄﹃新古今和歌集﹄の歌風の違いが学びやすい形で構成され

ている︒教材とされる歌は﹁春﹂﹁夏﹂﹁秋﹂﹁冬﹂﹁旅﹂﹁恋﹂とい

う六つのテーマに分けられ︑それぞれ一首ずつ︑計一八首であ

る︒その中で︑当該歌は﹁冬﹂の万葉歌の代表として収録され

ている︒因みに︑﹁春﹂は大伴家持の﹁春の苑﹂︵巻十九・四一三九︶︑

﹁夏﹂は持統天皇の﹁春過ぎて﹂︵巻一・二八︶︑﹁秋﹂は湯原王の

﹁夕月夜﹂︵巻八・一五五二︶︑﹁旅﹂は有間皇子の﹁家にあれば﹂

︵巻二・一四二︶︑﹁恋﹂は柿本人麻呂の﹁み熊野の﹂︵巻四・四九六︶︒いずれも短歌である︒四期区分説に基づく解説はな

いが︑第一期は有間皇子︑第二期は持統天皇と人麻呂︑第三期

は旅人と湯原王︑第四期は家持というように︑各期の作者をバ

ランスよく集めている︒それは︑一般的な教科書のように︑文学史的な学習もできるように配慮されているからであろう︒

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の注釈書には概ね︑そうした技巧に関する説明が見られる︒一方︑﹃新古今﹄の俊成の歌については︑

﹃新古今集﹄の﹁山川の岩行く水も氷してひとり砕くる峰の松風﹂︵巻十六  よみ人知らず︶を本歌とし︑﹃白氏文集﹄

の﹁滝水凍咽流不得︒﹂︵巻三︶をふまえる︒

というやや詳しい脚注が付されている︒本歌取りという手法を学ぶことを求めているが︑﹁山川の﹂の歌を本歌と認定するか否かについては︑注釈書によって意見が分かれている︒﹁本文

は﹃新編日本古典文学全集﹄によった﹂とされているので︑そ

れに従ったのであろうが︑議論の分かれている問題について︑断定的な解説を付すのはいかがなものか︒ともあれ︑﹁暁の声﹂

と体言止めであることも︑生徒たちの注意を向けるべきポイン

トの一つであろう︒

この教科書には︑﹃万葉﹄﹃古今﹄﹃新古今﹄に関する個別の解説ばかりでなく︑学習の便のため︑三大歌風の特徴を整理した一覧表も載せられている︒そこでは︑﹃万葉集﹄は﹁現実生活の感動を素直に表現して︑直感的・具象的﹂であるとされている︒

また﹃古今集﹄の﹁歌風は繊細・優雅で理知的傾向が強く︑掛詞︑縁語︑見立て︑擬人法などの技巧が駆使されている﹂と説明さ

れる︒そして﹃新古今﹄については︑﹁本歌取り︑体言止めなど

の技巧を用い﹂て﹁美的・観念的﹂であるとされている︒六首

のうち四首が本歌取り︑三首が体言止めの歌である︒教師用の指導書︵国総

327︶では︑﹁冬﹂の歌三首の﹁指導目標﹂

として︑﹁表現の特色︑修辞技巧を指摘させ︑歌風を比較させる﹂

としているが︑この目標にまさにピッタリの教材である︒しか ぶりである﹂︵﹃万葉秀歌  下﹄岩波書店・一九三八︶とし︑土屋文明は﹁極めて単純な内容であるが︑︵中略︶実生活から自然

に発する力強さを知るべきである﹂︵﹃萬葉集私注四︹新訂版︺﹄筑摩書房・一九七六︶とする︒また窪田空穂は︑﹁調べが暢び

やかで︵中略︶直ちに気分その物となつてゐる感がある﹂︵﹃萬葉集評釋  第五巻﹇新訂版﹈﹄東京堂出版・一九八四︶としてい

る︒いずれも︑無技巧であることを肯定的に評価しているよう

に見える︒賀茂真淵は万葉歌について﹁いにしへ人の哥は設て

よまず︑事につきて思ふ心をいひ出しなれば︑ひでたるあり﹂︵﹃萬葉集大考﹄︶と述べているが︑まさにそうした歌の典型と見ているように思われる︒三大歌風の特色を効果的に学べる教材である  そこで︑当該歌とともに並べられている﹃古今集﹄と﹃新古今﹄の歌々を見て

みることにしよう︒

雪の降りけるを見てよめる紀  友則 雪降れば木ごとに花ぞ咲きにけりいづれを梅とわきて折ら まし 題知らず藤原俊成

かつ凍りかつは砕くる山川の岩間にむせぶ暁の声

﹃古今集﹄の友則の歌は︑枝に降り積もる雪を梅の花に見立

てた一首である︒上の句では単に﹁花﹂と呼んでいたものを︑下の句では﹁梅とわきて﹂︑すなわちウメと判断して︑︿雪が降っ

て木に花が咲いた﹀という判じ物の答えを示している︒﹁木ご

と﹂は﹁木毎﹂であって︑﹁木﹂と﹁毎﹂を合わせると﹁梅﹂とい

う字になるからである︒漢詩の離合詩をまねた表現だが︑戦後

(8)

が︑かえって難しいのではないか︒少なくとも︑通常の授業の中で行なうには︑時間が足りないのではないかと思われる︒

ともあれ、相当な時間を割かなければならないことは間違

いないが、和歌を深く味読することを、その具体的な方法をも

示しつつ促している。ハードルの高さが気にはなるものの、文

法と口語訳で終わらない古典の学習として、一つの方向性を示

したものとして評価することはできよう。

役人の公式的答弁のような歌もある  三大歌風を学ぶための教材としてではなく︑奈良時代の文人貴族の一人であった大伴旅人という人物の歌として当該歌を学ぶためには︑どんなこと

を確認しておく必要があるのか︒

もちろん︑大伴氏という氏族が︑当時どんな立場に置かれて

いたかということや︑旅人の経歴などを知っておく方が望まし

い︒しかし︑周辺的な知識の獲得よりも︑歌そのものを理解す

るためにはどうしたらいいのか︒

その一つの答えは︑旅人の創作全体を見渡した時︑当該歌が

どのように見えて来るかということであろう︒たとえば︑当該歌について︑日常語に近い形で素直にうたった一首であると述

べたが︑ほかの歌々も読んでみると︑それが旅人の個性であっ

て︑ごく普通の姿であったということがよくわかる︒旅人の歌

は﹃万葉集﹄に七二首も収録されているので︑高校生にそこま

で学習せよとは言えない︒しかし︑あり得べき学習の姿を求め

て︑もう少し掘り下げてみることにしよう︒ も︑友則は﹃古今集﹄の撰者の一人であり︑俊成は﹃千載集﹄の編者であるばかりでなく︑﹃新古今﹄を代表する歌人の一人で

もあった︒彼らは文学史的な知識として︑当然学習すべき歌人

であろう︒よく考えられた教材であることを窺わせる︒

このように︑当該歌は﹃古今﹄﹃新古今﹄との歌風の違いを学習する上で︑最適な教材として選ばれたものであるように見え

る︒脚注について︑歌そのものの理解よりも︑周辺的な知識を優先した内容であると述べたが︑教材全体の構成を見ても︑個々の歌を味わうことよりも︑歌風の違いといった知識の獲得

を優先したものであることが見て取れる︒発展的な学習も用意されてはいるが  とは言え︑﹁言語活動﹂

として俵万智の﹁古典の和歌を現代の言葉で書き換える﹂とい

うエッセイを四頁にわたって載せていることは︑この教科書の大きな特長と言うべきであろう︒和歌を口語訳すると︑だらだ

らと長くなってしまうばかりでなく︑韻律の美しさも失われて

しまう︒そこで︑自分の言葉で三十一文字に直してみようと言

うのだ︒﹃伊勢物語﹄のよく知られた歌三首を︑現代短歌に読

み換えて見せ︑﹁課題﹂でも﹁自分のイメージと言葉で歌を書き換えてみよう﹂と促しているが︑そのような﹁言語活動﹂が︑一首を深く読み味わう機会となることは確かであろう︒

おもしろい教材なのだが︑プロの歌人が自ら﹁予想どおり︑作業は大変だった﹂と告白している︒そうした﹁言語活動﹂が︑

はたして普通の高校生たちに可能なのだろうか︒たとえ一首だ

けであっても︑夏休みの宿題にでもしない限り︑とうてい無理

であろう︒また当該歌は平易なので︑現代語で読み換えること

(9)

とは正反対の心情が表明されている︒

﹁佐保の山﹂という小地名をうたっているのは︑足人がやはり都から下った人だったからであろう︒現地の人ならば︑旅人は

︿都の人﹀にほかならない︒四句目は﹁平城の京師を﹂という形

になったのではないかと思われる︒つまり︑足人はローカルな小地名を持ち出すことによって︑同じ都の人間としての共感を喚び覚まそうとしたのであろうが︑旅人はそれに応じなかった︒

ヤマトを﹁日本﹂と表記しているが︑八世紀における﹁日本﹂

とは︑この列島全体の呼称ではなく︑天皇を頂点とした大和の王権の名称であったとされる︵吉田孝﹃日本の誕生﹄岩波書店・一九九七︶︒遣唐使が唐に示した正式な国号であった︵﹃続日本紀﹄慶雲元年七月条︑﹃旧唐書﹄倭国日本伝︶︒つまり︑佐保の住人としてではなく︑天皇の命を受け︑﹁日本﹂という国家の官僚として大宰府に下った︑という姿勢である︒そこにも︑中央官僚としての旅人の矜持が窺える︒

もちろん︑その﹁日本﹂が旅人自身の表記であったか否かと

いう問題は残る︒しかし︑それについては︑いわゆる筑紫歌群

に関する詳細な検討を通して︑旅人の歌稿をある程度尊重して

いるとする研究がある︵原田貞義﹁大伴宿祢旅人歌稿﹂﹃万葉集

の編纂資料と成立の研究﹄おうふう・二○○二︶︒また︑﹃万葉集﹄のヤマトの表記として︑﹁日本﹂は決して一般的なものでは

ないが︑旅人は帰京の際︑遊行女婦児島の惜別の歌の﹁倭道

は  雲隠りたり﹂︵巻六・九六六︶に対しても︑﹁日本道の  吉備

の児島を﹂︵巻六・九六七︶と応じている︒それらは旅人の表記

をほぼ忠実に伝えたものであった可能性は高い︒ ﹃万葉集﹄の旅人の歌は︑大宰府に赴任した晩年に集中して

いるが︑その中には次のような歌もある︒

やすみしし  吾ご大王の  御食す国は 日本もここも  同じとそ念ふ︵巻六・九五六︶

という一首である︒﹁やすみしし﹂は枕詞で︑﹁吾ご大王﹂︵天皇︶

を讃える働きを持つ︒主に儀礼的な長歌に用いられた表現であ

る︒偉大な天皇の支配されている国は︑奈良も大宰府も同じだ

と思う︑という意︒﹁そ﹂で﹁同じ﹂ということを強調している点に︑長官としての旅人の立場が現れている︒

これは︑部下であった大宰大弐︵大宰府の次官︶石川朝臣足人の次のような一首に答えたものである︒

さす竹の  大宮人の  家と住む佐保の山をば  思ふやも君︵巻六・九五五︶

﹁さす竹の﹂は枕詞︒佐保は︑平城京の高級住宅街︒﹁佐保の山﹂

は︑そのすぐ北側に広がる丘陵地で︑現在の奈良市法蓮佐保山

とその一帯にあたる︒旅人の邸宅も︑その﹁佐保の山辺﹂︵巻四・四六○︶に営まれていた︒平城京左京の一条大路に面した奈良市法蓮町のあたりである︵川口常孝﹁大伴諸宅﹂﹃大伴家持﹄桜楓社・一九七六︶︒

これは神亀五年︵七二八︶︑足人が帰京する際の送別の宴で

の歌だとする注もある︵伊藤博﹃萬葉集釋注三﹄集英社・一九九六︶が︑詳らかではない︒いずれにせよ︑都のお宅が恋

しくありませんか︵都と違って不自由ではありませんか︶と思

いやる一首である︒それに答えた旅人の歌は︑中央から派遣さ

れた管理職としての公式的な答弁のような歌であって︑当該歌

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いよよ益々  悲しかりけり︵巻五・七九三︶ という歌を詠んでいる︒﹁世の中は  空しきもの﹂とは︑聖徳太子の﹁世間虚仮︑唯仏是真﹂︵天寿国曼荼羅繡帳銘︶という語

を踏まえたものと見るのが通説である︒この世は仮のもの︑仏

の世界こそが真実であるという意︒そう思い知った旅人は︑以後︑繰り返し望郷の歌を詠むようになる︒望郷という語を広い意味で使用すれば︑大宰府時代の旅人の歌は︑そのほとんどが望郷の念を含むものだと言ってもよい︵拙稿﹁大伴旅人の望郷歌││﹁日本﹂からの眼差し││﹂﹃語文﹄一四○輯・二○一一︶︒吾が盛り  また変若ちめやも ほとほとに  寧楽の京を  見ずかなりなむ︵巻三・三三一︶龍の馬も  今も得てしか あをによし  奈良の都に  行きて来むため︵巻五・八○六︶雲に飛ぶ  薬食むよは都見ば  いやしき吾が身  また変若ちぬべし

︵巻五・八四六︶右の三首は︑もっとも直截的に望郷の念をうたったものであ

る︒妻の死を契機として︑心境の変化があったことが明らかだ

が︑当該歌もそうした望郷の歌の一つであったと考えられる︒

﹁変若ち﹂とは︑﹁若返る﹂︵﹃時代別国語大辞典  上代編﹄︶こ と︒﹁龍の馬﹂は﹁龍馬﹂の翻訳語︵小島憲之﹁萬葉集と中國文學との交流﹂﹃萬葉集大成  第七巻﹄平凡社・一九五四︶で︑﹁羽翼をもつ天馬﹂︵多田一臣﹃万葉集全解2﹄筑摩書房・二○○九︶

の意︒﹁雲に飛ぶ薬﹂とは︑空を自由に飛行できる薬︒不老不 一方︑同族の大伴四綱の︑藤浪の  花は盛りに  なりにけり平城の京を  念ほすや君︵巻三・三三○︶

という歌に対しては︑次のような弱気な歌が続いている︒吾が盛り  また変若ちめやも ほとほとに  寧楽の京を  見ずかなりなむ︵巻三・三三一︶若い盛りに戻ることなんぞ︑どうしてあろうか︑どうも奈良

の都を見ずに終わってしまいそうだ︑というほどの意︒﹁平城

の京﹂に対して﹁寧楽の京﹂と応じている点も︑字義を意識し

たものであるように思われる︒時系列を基本とする﹃万葉集﹄巻六の配列によれば︑足人と

の贈答は神亀五年︵七二八︶の作であろう︒とすれば︑大宰府

に赴任してから︑まだそれほど時間が経っていない頃であっ

た︒公式的な答弁のような歌を披露したのは︑足人に対してま

だ胸襟を開いていなかったからか︒具体的な事情は不明だが︑作られた時期によって︑また相手によって︑その内容に違いが見られる︒それはむしろ︑当然のことだと考えられる︒赴任直後の妻の死が望郷の念を強くした  ところが︑大宰府

に赴任して間もなく︑旅人の身辺に大きな変化があった︒それ

は︑﹁神亀五年戊辰︑大宰帥大伴卿の妻大伴郎女︑病に遇ひて長逝す﹂︵巻八・一四七二左注︶と伝えられているが︑妻との死別である︒﹃懐風藻﹄によれば︑その時旅人は六十四歳︒当時

としては︑かなりの高齢であった︒さらには︑身内の死の知ら

せも重なったとされる神亀五年六月二十二日︑旅人は︑世の中は  空しきものと  知る時し

(11)

旅人の大宰府下向についてはつとに︑時の左大臣長屋王を追

い落とすための布石の一つとして︑藤原氏によって企図された左遷であったとする説がある︵川崎庸之﹁長屋王時代﹂﹃記紀萬葉の世界﹄御茶の水書房・一九五二︑野村忠夫﹁長屋王首班体制から藤四子体制へ﹂﹃律令政治の諸様相﹄塙書房・一九六八な

ど︶︒その説に従うか否かは別としても︑旅人が本当に帰りた

かったのは︑権謀術策渦巻く政治の世界であった平城京ではな

く︑﹁吾が盛り﹂を過ごした明日香であったことは間違いある

まい︒少なくとも︑現実的な世界に戻ることを願った歌ではな

く︑穏やかな故郷の自然に抱かれたいという願いをうたったと見た方が適切であろう︒

﹁平城の京師﹂は意図的に選ばれた地名である  ところが︑大宰府に派遣された中央の官人たちの中には︑さまざまな出身地の人がいた︒たとえば︑大弐の石川足人︒もちろん︑平城京

に宅地が与えられ︑大宰府に赴任する前はそこに居住していた

と見られるが︑出身地は河内国石川郡︵大阪府富田林市の東部一帯︶であろう︒少弐は小野老だったが︑小野氏の本拠地は近江国滋賀郡︵滋賀県大津市小野︶であったとされる︒彼らの﹁故

りにし里﹂は︑それぞれ別の場所であったと考えられる︒した

がって︑当該歌で﹁平城の京師﹂とうたっているのは︑単に個人的な心情を正直に吐露したものではあるまい︒当該歌を披露

した際に︑出身地を異にしていても︑誰もが共感できる地名と

して選択されたのが﹁平城の京師﹂であった︑と見た方がよい︒

『万葉集』では、一字一音の仮名書きの歌を中心に、「奈良」

という地名表記が多数を占める。一方、訓字主体表記の歌には、 死の仙薬であって︑その典拠としては︑つとに﹃抱朴子﹄︵金丹編︶という神仙の法を説く漢籍であることが指摘されている

︵契沖﹃萬葉代匠記﹄︶︒いずれも︑現実には存在しないもの︑

あるいは存在しないことをうたっている︒その点からも︑望郷

の念がいかに切実なものであったかということが窺える︒本当に懐かしかったのは明日香である  しかし︑旅人の本当

の望郷の対象は必ずしも︑平城京ではなかったように思われ

る︒旅人は天智四年︵六六五︶の生まれ︒平城京に遷都された

のは︑四十六歳の時であった︒﹁吾が盛り﹂の時期の大半を明日香︵奈良県高市郡明日香村︶と藤原京︵奈良県橿原市醍醐に藤原宮跡がある︶で過ごしたものと考えられる︒奈良盆地の北側に営まれた平城京からは南へ二○キロ余り︒盆地の南側一帯

である︒浅茅原  つばらつばらに  もの念へば故りにし里し  念ほゆるかも︵巻三・三三三︶ わすれ草  吾が紐に付く香具山の  故りにし里を  忘れむがため︵巻三・三三四︶

という歌も見える︒

﹁故りにし里﹂とは︑明日香のこと︒それは香具山︵奈良県橿原市南浦町︶以南︑橘寺︵高市郡明日香村大字橘︶以北の主に飛鳥川右岸一帯を指すとする説︵岸俊男﹁飛鳥と方格地割﹂﹃日本古代宮都の研究﹄岩波書店・一九八八︶が有力である︒香具山は︑藤原京の時代︵六九四〜七一○︶にはその京域に含まれ

ていた小さな山だが︑現在の明日香村からも間近に望むことが

できる︒それは﹁故りにし里﹂の景観の一部であった︒

(12)

らをぶり﹀というレッテルを貼った賀茂真淵は︑﹁いにしへの世の哥は人の真ごゝろ也︑後のよのうたは人のしわざ也﹂︵﹃萬葉集大考﹄︶とも述べている︒古代の人々の心の純粋さと︑技巧に走る後世の歌を対比する形で︑そう述べているのだ︒それ

から二百五十年ほど経っているのに︑教科書の説明は現在も︑

歌風の特色は︑実感に即した感動を率直に表現した︑生命感にあふれた力強さにある︵教育出版・国総

309︶ 上代人の素朴で純粋な生活感情が歌いあげられている︒

︵大修館書店・国総

312︑ 313︶ 雄大︑素朴な歌風が特徴とされる︒

︵数研出版・国総

316︑ 317︶ 歌風は清新︑素朴で︑枕詞︑序詞︑対句︑反復などの技巧

が用いられている︒︵第一学習社・国総

325︑ 326︑ 327︶ 技巧に頼らない素直で力強い歌が多い︒

︵第一学習社・国総

327︶ 素朴で雄大な詠みぶりに特色があるが︑次第に繊細なもの

へと移行している︒︵桐原書店・国総

330︑ 331︶

と︑︿素朴﹀︿率直﹀︿純粋﹀︿雄大﹀がキーワードとされている︒

まさに︿ますらをぶり﹀に対応した説明である︒

しかし︑﹃万葉集﹄に登場する人たちは︑決して無知蒙昧な原始人ではなかった︒とりわけ︑旅人は教養ある知識人だった︒天平二年︵七三○︶正月︑大宰府で旅人の主催した梅花宴︵巻五・八一五〜八四六︶は︑王羲之の﹁蘭亭序﹂などを踏まえた漢文

の序を持つ雅宴である︵契沖﹃萬葉代匠記﹄︶︒大陸的な教養を色濃く反映した催しであったということが︑三百年以上も前に 少数だが、「寧楽」「平城」とする表記も見られる。また、漢文

体の題詞では「寧楽」と表記する例が圧倒的多数であって、「平

城」という表記は例外的である。しかし、『続日本紀』によれば、

「平城」が正式な表記であった。つまり、歌の表記としては例

外的だが、当該歌はあえて「平城」という公式的な表記を選ん

だのだと考えられる。

ともあれ︑旅人は亡妻挽歌群の中で︑京なる  荒れたる家に  一人寝ば旅にまさりて  苦しかりけり︵巻三・四四○︶吾妹子が  植ゑし梅の木  見るごとに情咽せつつ  涕し流る︵巻三・四四二︶

とうたっている︒平城京の﹁荒れたる家﹂には妻との思い出が詰まっており︑そこに一人帰ることは︑むしろ辛いことだった

のだ︒旅人は大宰府で︑山上憶良をはじめ︑さまざまな人たちと歌

の遣り取りをしていたが︑そうした交流の中で歌を披露する際

の望郷の対象は︑誰もが共感できる﹁平城の京師﹂でなければ

ならなかった︒それに対して︑個人的な心情をうたう場合は﹁故

りにし里﹂というように︑使い分けていたのではなかったか︒

したがって︑当該歌は単に自己の心情を素直に詠んだものでは

あるまい︒他者を意識した社交の場の歌として生まれた望郷歌

であったと考えられる︒

︿ますらをぶり﹀はもう終わりにしたい  ﹃万葉集﹄に︿ます

(13)

指摘されている︒﹃懐風藻﹄に収録された漢詩を見ても︑旅人

が漢籍に精通していたということは明白である︒

当該歌の場合、口語訳のレベルではなく、他の歌々をも視

野に入れると、旅人はその場にふさわしい言葉を冷静に選んで

いたということが見えて来る。「ほどろほどろに」という『万葉

集』中唯一の表現も、雪の降り方、積もり方を、自分の言葉で

より適切に捉えようとしたものだったと考えた方がよい。平易

な表現は、心の素直さ・素朴さの証ではなく、むしろ言葉を選

び抜いた結果であったと見ることができる。

︿ますらをぶり﹀とは︑日本の古代を理想化する国学の国粋的なレッテルの一つだが︑三大歌風の学習はそうした︿ますら

をぶり﹀を生徒たちに刷り込む結果となっている︒すでに遅き

に失してはいるが︑次の改訂の際には︑ぜひそうした古いレッ

テルを剥がしてほしいと思う︒現在の研究水準を反映した﹃万葉集﹄を教材とした教科書が出現することを︑切に願っている︒

︵かじかわ  のぶゆき︑本学教授︶

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