1 通説的な本文で定番教材を考える 右の歌は現在︑高等学校
﹁国語総合﹂で五社九種類︑﹁古典B﹂では二社四種類の教科書
で教材とされている︒中には︑題詞を省き︑歌のみを載せてい
るもの︵大修館書店・国総
書の﹃万葉集﹄の定番教材の一つとされている︒ 312︶もあるが︑当該歌は現在︑教科 かつては︑四句目に﹁そを負ふ母も﹂や﹁その彼の母も﹂など
といった異訓もあったが︑この半世紀余りは︑﹁それその母も﹂
という訓みで︑概ね落ち着いている︒そこで︑以下は通説的な本文に従って考察を進めて行くが︑異訓の場合も﹁吾を待つ﹂
のが﹁哭く﹂﹁子﹂とその﹁母﹂であることには違いがない︒し
たがって︑仮に異訓に従ったとしても︑以下の論旨の根幹には影響がない︒ ︿研究へのいざない﹀万葉歌を読む
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梶 川 信 行 教科書 の 中 の 万葉歌 ︱ 山上憶良 の 罷宴歌 を 読 む︱
山
やまの上
うへの憶
おく良
らの臣
おみの 宴
うたげを 罷
まかる歌一首 憶
おく良
ららは 今
いまは 罷
まからむ 子
こ哭
なくらむ それその 母
ははも 吾
あを 待
まつらむそ
(巻三・三三七)であろう︒しかし︑︿秀歌選﹀を暗唱するための教材ではなく︑古代和歌としての﹃万葉集﹄の世界を正確に学ばせようとする
ならば︑当然題詞とともに教材としなければならない︒実際︑当該歌を採用する教科書の多くは︑初期万葉の額田王から天平期の大伴家持まで︑各時期の歌々をバランスよく採録してお
り︑文学史的な構成を採っている︒奈良時代における宴席は︑短歌という形式が社交の具として成熟して行くための重要な母胎となっていた︵梶川信行﹃万葉集の読み方 天平の宴席歌﹄翰林書房・二○一三︶︒とりわけ当該歌の場合︑題詞によって︑単に宴席の歌だということばか りでなく︑﹁宴を罷る﹂という目的で披露されたということを知ることもできる︒それを省いてしまうことは︑あえて歌の理解を困難にすることにほかならない︒名前を詠み込むのは謙譲の姿勢 次に︑作者憶良が自らの名前を詠み込んでいる点である︒同様の例はそれほど多くない
が︑そのうちの一つは︑次のような戯れ歌である︒蓮葉は かくこそあるもの意吉麻呂が 家なるものは 芋の葉にあらし
︵巻十六・三八二六︶
﹁意吉麻呂﹂とは︑長忌寸意吉麻呂︒生没年︑経歴などは一切不明だが︑宴席での即興の歌を得意とした人物であったこと
が窺える︒﹁蓮葉﹂は宴席に参加した美人の喩︒それに対して﹁意吉麻呂が 家なるもの﹂とは自分の妻を指す︒奈良時代における﹁芋﹂とは︑サトイモやヤツガシラの類︵上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語大辞典 上代編﹄三省堂・ 定番教材をどう教えるか とは言え︑結句の係助詞﹁そ﹂を
﹁ぞ﹂と濁音にした教科書︵大修館書店・国総
総 312︑明治書院・国 318・ 本古典文学全集﹄もしくは岩波書店の﹃新日本古典文学大系﹄ 320︶は問題であろう︒現在の教科書は小学館の﹃新編日
の﹃萬葉集﹄に準拠しているが︑いずれも結句の﹁そ﹂は清音で
ある︒原文も﹁曾﹂という清音の仮名で︑諸本による異同はな
い︵佐佐木信綱ほか編﹃校本萬葉集 三︹新増補版︺﹄岩波書店・一九七九︶︒平安朝以降の作品をも含め︑係助詞の﹁ぞ﹂を一貫
した形で学習させるための配慮ではないかと思われる︒
しかし︑それは本文の改竄にほかならない︒文法の学習の便宜を優先した本文では︑貴重な文化遺産としての古典を︑若い世代に正確に伝えて行くことは覚束ない︒
その点をも含め︑国語の教科書の﹃万葉集﹄にはさまざまな問題が潜んでいる︵梶川信行﹁古すぎる教科書の万葉観﹂﹃おか
しいぞ!国語教科書﹄笠間書院・二○一六︶︒そうした教科書
の定番教材を︑どのように教えればいいのか︒それを考えるた
めにも︑ここではまず﹁憶良らは﹂という一首をできるだけ詳細に分析することを通して︑教科書の抱える問題点を浮き彫り
にしてみたいと思う︒その上で︑当該歌から高校生たちに何を学ばせるべきか︑という問題も考えてみることにしたい︒
2
題詞とともに教材化する 最初の確認事項は︑当該歌を教材化する際に︑題詞を含めるか否かといった点である︒それは︑当該歌から何を学び取らせるかによって︑判断の分かれること
ングを見計らって︑退席の意志を示したに違いない︒何をもって最良のタイミングと判断したのか︒また︑その判断をその場の人たちも適切と受けとめたか否かは不明だが︑憶良は︑宴席の気分を損なわないのは﹁今﹂だと判断したのであ ろう︒宴席歌は︑その内容ばかりでなく︑適切なタイミングで披露されることが重要なのだ︒題詞の敬称法との矛盾 ﹁罷らむ﹂という謙譲語の使用も注意をしておく必要がある︒おいとま致しましょう︑といった
ニュアンスだが︑﹁憶良らは﹂と自称したことと符節を合わせ︑自らを低い位置に置いている︒宴席のメンバーに対して︑敬意
を示しているのだ︒
ところが︑題詞には﹁山上憶良臣﹂とされている︒﹁山上臣憶良﹂という形に対して︑姓を下に書く形は敬称法である︒つ
まり︑歌の表現と矛盾しているのだが︑この歌を書き留めたの
は憶良自身ではなく︑憶良を長上の者として丁重に扱わなけれ
ばならない身分の人だったことになろう︒憶良は当時︑従五位下で筑前守︒筑前国のトップだった︒筑前国は現在の福岡県の北部一帯だが︑職員令によれば︑当時の国守は勧農・裁判・徴税・軍事など︑現在の県知事以上に広範
な権限を持っていた︒また筑前国には︑九州全体を統括する大宰府も置かれていたが︑その長官である大宰帥の大伴旅人が従三位︒次官の大宰大弐紀男人が︑正五位上であった︒それに続
くのが︑山上憶良の従五位下︒しかも︑七十歳ほどの高齢で︑遣唐使の一員として渡唐した輝かしいキャリアもあった︒大宰府と筑前国の役人たちからすれば︑﹁憶良臣﹂と尊称されるの 一九六七︶とされるが︑それらの葉はハスの葉と形が似ている︒
ところが︑右の歌の原文は﹁宇毛﹂とされている︒ウモと訓ま
なければならないが︑﹃倭名類聚鈔﹄︵巻十七︶には﹁芋﹂の和訓
として﹁以毛﹂という例も見られる︒したがって︑﹁蓮葉﹂と形
の似ている﹁芋の葉﹂は﹁妹﹂を寓意している︵多田一臣﹃万葉集全解
愚妻・愚息・弊社などと︑他人の前ではあえて身内を貶める形 6﹄筑摩書房・二○一○︶とする指摘がある︒現代でも︑
で謙譲の意を示すが︑この﹁芋の葉﹂も︑その例の一つである︒
そうした一首の中の﹁意吉麻呂﹂という自称も︑謙譲的な物言
いであったと考えられる︒
もちろん︑当該歌の﹁憶良らは﹂も同じである︒ラについて
は複数とする説もあるが︑﹁卑下したりする感じで使うことが多い﹂︵大野晋ほか﹃岩波古語辞典﹄岩波書店・一九七四︶︒し
たがって︑各教科書が準拠している注釈書はどちらも︑それを
﹁憶良めは﹂と口語訳している︒宴席歌としての当該歌を考え
る上で︑このように﹁憶良らは﹂と︑あたかも下僕のような態度でうたい出されているという点は︑きちんと押さえておかな
ければなるまい︒
﹁今は﹂と詠むこと 周知のように︑﹁は﹂という助詞は︑他 のものと区別して︑それを強く提示する働きを持つ︒額田王の歌に︑﹁潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな﹂︵巻一・八︶という例も見
られるが︑潮ばかりでなく︑すべての条件の整った今こそ最良
の船出の時だ︑というニュアンスである︵梶川信行﹃創られた万葉の歌人 額田王﹄塙書房・二○○○︶︒当該歌の場合も︑
ほかの時ではなく今︑ということになる︒憶良も絶好のタイミ
に﹁哭﹂という字が選ばれていたことが窺える︒
﹁哭﹂とは﹁人の死喪を弔ひ︑大聲で泣きさけぶ﹂︵諸橋轍次
﹃大漢和辞典 第二巻﹄大修館書店・一九五六︶意︒﹃日本書紀﹄
には︑天皇の葬儀の際︑﹁発哭﹂という儀礼が行なわれたこと
が見える︒また﹃古事記﹄にも︑倭建命の死に際して﹁哭﹂した
ことが伝えられる︒憶良の帰りを待ちわびていた﹁子﹂は︑めそめそ泣いていた
わけではない︒号泣していたのだ︒さすがに﹁その母﹂も︑持
て余していたのではないか︒﹁泣﹂と表記するよりも︑憶良の帰宅をより切実な気持ちで待ち侘びていたことになろう︒少な
くとも︑当該歌を記録した者は︑そう理解していたと見ること
ができる︒律令的な家族制度に基づく ﹁哭く﹂﹁子﹂の﹁母﹂とは︑もち
ろん憶良の妻のことだが︑﹃万葉集﹄の場合︑妻に対する一般的な呼称は﹁妹﹂である︒それをあえて遠まわしに︑﹁その母も﹂
と言ったことについても︑きちんと考えてみなければならな
い︒
そこに﹁憶良のどのような気持ちがこめられているか﹂とい
う問いを設定し︑その﹁答﹂として︑﹁宴席を辞する理由として︑妻が待っていることをあげることに対する照れ隠しの気持ち﹂
と説明している教師用指導書がある︵第一学習社︶︒しかし︑﹃万葉集﹄の宴席歌に関する研究史を無視したナンセンスな説明と言うしかない︒後述するが︑宴席歌は自身の﹁気持ち﹂を表明
するものではなく︑宴席の潤滑油となるべきものである︒
さて︑﹁それ﹂は﹁詠歎を含みつつ物事を言い定めようとする は︑当然のことであろう︒
ところが︑この宴席では︑それほどの人物が﹁憶良らは﹂と下僕のようにうたい出し︑﹁罷る﹂という謙譲語を使用してい
る︒そのギャップは何を意味するのか︒あるいは︑上司にあた
る旅人に対して辞去の意志を示した歌だったからであり︑別に特別なことではなかったということか︒いずれにせよ︑当該歌
を考える上では︑その点も忘れてはならない問題の一つであ
る︒﹁哭く﹂とは号泣すること ﹃新編﹄も﹃新大系﹄も︑書き下し
では﹁泣く﹂と表記しているが︑原文は﹁哭﹂であって︑﹁泣﹂
ではない︒しかも︑その部分には本文の異同もない︵佐佐木信綱ほか編﹃校本萬葉集三︹新増補版︺﹄︶︒にもかかわらず︑い
ずれの教科書も﹁泣く﹂としているのは︑﹁哭﹂という字が常用漢字表にないので︑教育的配慮として︑あえて﹁泣く﹂とした
とも考えられる︒しかし︑それは単に準拠した注釈書に従った
までのことではないか︒もちろん︑高校生にどこまで深い理解
を求めるかといった問題は残るものの︑より正確な﹃万葉集﹄
を教材とするならば︑原文を無視するわけには行かない︒
﹃万葉集﹄中のナク︵泣く︶の用例は︑﹁奈伎﹂﹁奈久﹂﹁奈気﹂
といった一字一音の仮名書きの例を除くと︑訓字の用例数は
﹁泣﹂と﹁哭﹂がほぼ拮抗している︒しかし︑号泣することを意味するネノミシナクという例では︑訓字の場合︑ネ︵泣き声の意︶に﹁哭﹂の字を当てる方が圧倒的に多い︒また︑ネに﹁泣﹂
を当てた場合︑ナクの方に﹁哭﹂を使用した例も見られる︒﹃万葉集﹄全体の傾向として︑激しく泣くという意味の時は意図的
席の歌は︑必ずしも事実である必要はなかった︒要は︑宴席の雰囲気を壊さず︑円満に退席できればいいのだ︒ウソも方便で
ある︒その時憶良は︑﹁妹﹂が待つという形の﹁宴を罷る歌﹂を披露
することを選択しなかった︒幼子のいる家族︑しかも母親を中心とした待つ家族の存在を退席の理由としている︒
﹃万葉集﹄の憶良の歌々の中には︑家族の姿はあっても︑恋情をうたったものはない︒その点で︑退席の理由を家族にして
いることは︑いかにも憶良らしい選択だと言うべきであろう︒
﹁情理を尽くして説得する﹂という言い方もあるが︑愛する者
を待たせるのは忍びないといった︿情﹀の面ばかりでなく︑家族制度という︿理﹀の面も示して見せたところが︑憶良的だと見ることもできる︒
この歌が生まれた背景として︑大宝律令が施行されて︑妻問
い婚とは異なる新しい家族制度に移りつつあったことを指摘す
る研究者もいる︵辰巳正明﹃山上憶良︿コレクション日本歌人選﹀﹄笠間書院・二○一一︶︒男子である家長が中心となり︑父母・妻子と同居し︑彼らを養う形の家族である︒つまり︑﹁哭く﹂
﹁子﹂がいて︑﹁その母﹂のいる家族の大切さを暗示することは︑律令制に基づく儒教的な︿理﹀を説いていることになろう︒そ
れが退席の大義名分になることは︑言うまでもあるまい︒脚韻的レトリックの効果 ﹃万葉集﹄の題詞には︑﹁宴吟歌﹂
﹁宴誦歌﹂などと明記された例も見られる︒朗々と読み上げる形で披露された宴席歌であることを示している︒近年は歌木簡
の出土によって︑そこに予め書き記された歌を読み上げる形で 推量表現の強調﹂︵﹃時代別国語大辞典 上代編﹄︶であるとさ
れる︒当該歌では︑﹁哭く﹂﹁子﹂の﹁待つ﹂ことを先にうたった
が︑﹁その母も 吾を待つらむそ﹂ということを﹁それ﹂という語で詠嘆的に示していることになろう︒換言すれば︑﹁哭く﹂
﹁子﹂の﹁母﹂も切実な思いで自分のことを待っている︑という
ことの強調である︒宴を辞する時の歌を﹁立歌﹂と呼ぶこともある︵土橋寛﹃古代歌謡の世界﹄塙書房・一九六八︶が︑それにはさまざまな形が
ある︒たとえば大伴坂上郎女に︑
ひさかたの 天の露霜 置きにけり家なる人も 待ち恋ひぬらむ︵巻四・六五一︶
という一首がある︒日が落ちて︑すっかり寒くなって来た時︑
﹁家にいる人も︑きっと私のことを待ち侘びているわ﹂と惚気
る形で︑退席の意志を示した歌である︵梶川信行﹁大伴坂上郎女の歌二首││読みの方法││﹂﹃水門︱言葉と歴史︱﹄二一号・二○○九︶︒親しい間柄だからこそ成り立つジョークの可能性もあって︑本当に待ち侘びている人がいたのかどうかは定
かでない︒単に︑口実に過ぎなかったとも考えられる︒実際︑この歌は二首連作になっていて︑玉守に 玉は授けて かつがつも 枕と我は いざ二人寝む︵巻四・六五二︶
という歌が続いている︒﹁かつがつも﹂は︑不本意ながらの意
だが︑﹁枕と我は いざ二人寝む﹂と言うのだから︑実際には︑家に帰ったところで︑一緒に寝てくれるのは﹁枕﹂だけなのだ︒
﹁立歌﹂の後に︿落ち﹀をつけたような連作だが︑宴における退
言うまでもなく︑学校文法では︑﹁罷らむ﹂の﹁らむ﹂と﹁哭
くらむ﹂﹁待つらむ﹂の﹁らむ﹂は別の品詞である︒﹁罷らむ﹂は
マカルの未然形に︑意志を示すムがついた形︒これだけは現在推量のラムではない︒﹁発問例﹂としてわざわざ︑この点を確認せよと促している指導書もあるが︑マカラ・ムと品詞分解す
ることによって︑歌のリズムに対する意識が希薄になってしま
うことを危惧する︒万葉歌を理解するには︑文法的な分析より
も︑リズム感を感得することを優先すべきである︒原文を見ると︑﹁らむ﹂の反復は︑﹁将ㇾ罷﹂﹁将ㇾ哭﹂﹁将ㇾ待﹂
というように︑同じ形で表記されている︒当然のことだが︑品詞の違いは意識されていない︒同音の反復を表記の統一でも示
していると見るべきであろう︒
ともあれ︑﹁らむ﹂という明るい同音の反復が︑声によって披露されたことで︑宴席の楽しさを阻害しない退出の歌となっ
たのだと考えられる︒それは実に効果的なレトリックだったの
ではないか︒だからこそ︑記録するに値する歌として記録され︑
やがて﹃万葉集﹄の一首となったのであろう︒筑紫歌群の中の一首である 当該歌が﹃万葉集﹄のどの位置
に載せられているかということも︑確認しておかなければなら
ない︒﹃万葉集﹄には︑大宰府とその周辺で︑旅人と憶良の交友を中心に作られた歌が数多く載せられている︒一般に︑筑紫歌群
と呼ばれるが︑それらは巻三・巻四・巻五・巻六・巻八に分散
して載せられている︒そして当該歌も︑巻三の筑紫歌群の中に
ある︒ 披露されたことも想定されている︵犬飼隆﹃木簡から探る和歌
の起源﹄笠間書院・二○○八︶︒長さ六○センチほど︑幅三セ
ンチほどで︑厚さ数ミリといった細長い板が︑その通常の姿で
ある︵栄原永遠男﹃万葉歌木簡を追う﹄和泉書院・二○一一︶︒
この時︑そうした歌木簡が使用されたか否かは不明だが︑誦詠を前提として作られた歌は︑自らの心情を紙の上に吐露する独詠歌などと比べ︑声調がより強く意識されたであろうことは想像に難くない︒当該歌で言えば︑脚韻のように﹁らむ﹂を繰
り返しているところが︑それである︒想像するに︑憶良は﹁憶良らは 今は罷らむ﹂と︑ゆったり
と読み上げたことであろう︒そこで︑小休止︒身分の高い憶良
が急に退席を口にした上に︑下僕のように卑下した形でうたっ
たことで︑その宴席に集う人たちの間には︑戸惑いが広がった
のではないか︒﹁何か不都合でもあったのか﹂と︒戦々兢々と
する下僚もいたことだろう︒すると次の瞬間︑﹁子哭くらむ﹂と︑再び﹁らむ﹂で言い切る形の三句目が披露された︒
奈良時代、七十歳はまさに古来稀な老人であった。「えっ、
あの憶良さんに、そんな小さな子がいたの?」と、不審に思っ
た人も多かったのではないか。ところが、また少し間を置いて、
「それその母も 吾を待つらむそ」と読み上げられた。幼子を
抱えた若い母親の存在が告げられたのだが、今度は「らむ」に
「そ」という強調の助詞を添えている。「待つ」のは「哭く」「子」
ばかりでなく、「その母も」と、きっぱり言い切っている。『万
葉集』の宴席歌では珍しい、家族を口実にした一首を、巧みな
脚韻によって披露して見せたのだ。
試みに︑教師用指導書を見てみると︑それは﹁愉しき宴の﹃お開き﹄を告げる客側の﹃挨拶歌﹄﹂だったと説明されている︵東京書籍︶︒老人がこのようにうたうところに﹁おかしみ﹂があり︑
﹁一座の笑いを誘ったもの﹂だったという理解である︒昭和の
﹃万葉集﹄研究を強力に牽引した一人︑伊藤博の﹁古代の歌壇﹂︵﹃萬葉集の表現と方法 上﹄塙書房・一九七五︶という論文に従った説明である︒これは社交の場における潤滑油としての歌
であり︑笑いを誘うものだったとする理解である︒
しかし︑戦後の研究史をふり返ってみると︑宴席を退出する
ための挨拶歌とする点ではほぼ一致しているものの︑単なる戯歌とする見方の一方に︑憶良の人生観を含むとする見方も有力
であった︵村山出﹁筑紫の宴歌﹂﹃山上憶良の研究﹄桜楓社・一九七六︶︒しかも︑それらは必ずしも戯歌か人生観かといっ
た二者択一的な問題ではない︒戯歌の中に人生観を忍び込ませ
ていると見る注もある︒つまり︑一つの正解に導くような学習
には不向きな歌なのだ︒筆者も︑社交の場の潤滑油という理解の仕方には賛成であ
る︒また︑伊藤説に基づいて教えることに大きな問題はないと考えているが︑当該歌をめぐる事実関係には︑不確定要素も多
い︒憶良が飲酒を好まない人だったか否かという︑かつてあっ
た議論は措くとしても︑もう少し問題を掘り下げてみる必要が
ある︒題詞を鵜飲みにするわけには行かない 一つは︑題詞の問題
である︒すでに述べたように︑憶良自身が記したものでないこ
とは明らかである︒したがって︑それを無批判に信じていいの 題詞には作歌年月が書かれていないが︑旅人が大宰帥として筑紫に下向した神亀四年︵七二七︶頃から︑大納言として都に戻る天平二年︵七三○︶十二月までの歌々だと考えられている︒当時の憶良は従五位下で筑前守だったが︑それは﹃万葉集﹄の配列から知られる︒つまり︑幼子がいても当然と思える若かり
し日の憶良の作ではなく︑晩年の作だということになる︒
しかし︑作者が若い男の場合と︑老人の場合とでは︑その歌
が披露された時の人々の反応は︑相当に異なったものになるは
ずだ︵梶川信行﹁空気が読めない﹂﹃語文﹄一三三輯・二○○九︶︒題詞と歌から読み取ることはできないが︑当該歌は老人の歌と
して理解しなければならない︒
3
社交の場の潤滑油としての歌だが 当時の憶良に︑本当に幼子がいたのかどうか︑今は知る由もない︒しかし︑筑前国の役人たちの間では︑その長官の憶良が都から家族を伴なって赴任
したのか︑単身で赴任したのか︑それは周知の事柄だったはず
である︒そして︑いずれの場合にせよ︑﹁なるほど︑何かと︿情理﹀を説く憶良さんらしい宴を辞する歌だなあ﹂と︑素直に受
けとめた人もいたのではないか︒
しかし︑高齢の憶良が家族の存在を理由に﹁今は罷らむ﹂と言い放ったことを︑私たちはどのように受け止めたらいいの
か︒憶良の家族構成と︑家族で赴任したのか単身で赴任したの
かが︑私たちにはわからないだけに︑それはなかなか難しい問題である︒
は昭和の特定の説に従った理解を促しているが︑この歌の理解
に関して一つの正解はない︑ということになる︒
もちろん︑高校の古典の授業では︑そこまでの理解を求める
べきではあるまい︒しかし︑発展的な学習としてならば︑下僚
が記録した公的な場の歌であるということを押さえさせた上
で︑その意図を考えることがあっていいのかも知れない︒
どんなタイミングで披露されたか 憶良は本当に退出したい
と思ったその時点で︑この歌を披露したのか︒あるいは︑﹁罷宴﹂
というテーマの歌を作ることを一座の人々から要請されて詠ん
だ︵中西進﹁大宰府の宴歌﹂﹃山上憶良﹄河出書房新社・一九七三︶のか︒また︑それ以外の可能性はまったくないのか︒
たとえば︑宴が始まり︑酒も入って︑これから盛り上がろう
というそのタイミングで︑当該歌を披露したとしたら︑同席し
ていた人たちはどんな反応を示しただろうか︒憶良の表情や声
の様子にもよるが︑冗談だと受けとめる人ばかりでなく︑さま
ざまな反応があったと見た方がよかろう︒当該歌は宴席歌だとは言え︑一首だけなので︑どのようなメ
ンバーの︑どんな雰囲気の宴席で︑どのタイミングで披露され
たものなのかに関する情報がない︒かつては︑前後に収録され
た歌々︵巻三・三二八〜三五一︶と同じ宴席のものと見る説が有力だったが︑作者名に官職を付す前後の題詞とは異なり︑当該歌の題詞には官職名がない︒そうした形式の違いから見ても︑
その蓋然性は低いと言わざるを得ない︒
ところが﹃万葉集﹄には︑天皇臨席の肩の凝る宴席から仲間内の気楽な呑み会まで︑さまざまな宴席が見られる︒気の置け か否かは︑よく考えてみなければならない︒﹁憶良臣﹂とした後の筆録者が︑﹁憶良らは 今は罷らむ﹂という歌句に基づい
て﹁罷宴歌﹂と記したものであって︑題詞は単に筆録者の理解
を伝えたものに過ぎない︑という可能性も捨て切れないから
だ︒当該歌は筑紫歌群の中にあるが︑その次には︑大伴旅人の﹁讃酒歌十三首﹂︵巻三・三三八〜三五○︶が載せられている︒しか
し︑これは酔っぱらうことを礼讃する歌々であって︑必ずしも酒自体を讃えたものではない︒むしろ︑﹁讃酔歌﹂とでも呼ぶ
べき歌群であろう︒この題詞にも﹁大宰帥大伴卿﹂という敬称
が用いられているが︑その題詞とそこに収録された歌々に︑内容的な齟齬も見られる︒その点からすれば︑﹁讃酒歌﹂という捉え方は︑筆録者の理解を示しているに過ぎないのかも知れな
い︒﹁罷宴歌﹂という題詞も素直に信じていいのかどうか︑や
や不安が残る︒憶良の私家集を基にして形成されたとも言われる﹃万葉集﹄巻五には︑上司の旅人に対して︑書簡の形で贈られた憶良の歌々が残されている︒そこには﹁筑前国司山上憶良謹上﹂﹁筑前国守山上憶良﹂などと自署されている︒一方︑巻五に収録され
た憶良の歌々の題詞は︑﹁山上臣憶良﹂とするのが普通である︒
その点でも︑この題詞を鵜飲みにすることに対して︑不安を覚
えざるを得ない︒
したがって︑﹃万葉集﹄がどのような歌として載せているか
ということと︑憶良がどのような意図で作り︑どう披露した歌
なのかという問題は︑別に考えてみなければならない︒教科書
場合は︑親族の中から養子を取ることも認められている︒つま
り︑高齢の憶良とは言え︑また生真面目な作品群をなした憶良
とは言え︑当時の社会通念として︑﹁哭く﹂ような幼子がいた
としても︑決して不自然でも不都合でもない︒憶良は︑︿帰る詩人﹀の陶淵明のごとき︿帰る歌人﹀であり︑当該歌は﹁隠逸の士﹂としての立場を示したものだとする説も
ある︵中西進﹁罷宴の思想︱︱山上憶良の罷宴歌について︱︱﹂
﹃文学﹄五三巻七号・一九八五︶︒﹁公宴の浮華なる酒﹂の席を辞
し︑﹁家﹂に帰る歌だと言うのだ︒そうした憶良の意図を︑漢籍に堪能な旅人ならば︑正しく受け止めたことだろう︒しかし︑宴席の参加者全員がそれを理解していたかどうかは︑疑問と言
わざるを得ない︒説得力のある説だが︑一座にどんな波紋が広
がったかという問題は︑依然として残されている︒もちろん︑高校生たちにそこまでの理解を求めるわけには行かない︒実際に幼子がいた場合と︑いなかった場合とでは︑憶良の意図や宴席の人々の反応が︑まったく違ったものになった可能性
が高い︒当該歌に関してはやはり︑その両方のケースを考えて
みなければなるまい︒
もっとも︑憶良個人の事情をうたったものではなく︑﹁彼同様宴に招かれ︑謝辞すべき立場の人々をも含むもので︑一首の代弁性を認め得る﹂︵村山出﹁筑紫の宴歌﹂先掲︶という説もあ
る︒これに従えば︑憶良に幼子がいたか否かということは︑まっ
たく問題とならなくなる︒しかし︑大学生の卒論ならば︑研究史を踏まえつつ︑その可能性をも考慮に入れなければならない
が︑高校生の学習にそこまで求めるのは酷であろう︒ ない者同士の宴席ならば︑その最初の方で意図的にボケて見せ
ることも︑その場の潤滑油となろう︒しかし︑大宰府の役人た
ちが上司の肝煎りで集められた宴席だったとしたら︑筑前守の突然の辞去の歌に﹁何か不都合でもあったのか﹂と︑青くなる下僚もいたのではないか︒憶良の意図とは別に︑その宴席にど
のような波紋が広がったのかということも︑考えてみなければ
ならない︒
とは言え︑憶良は﹁世間苦︵中略︶を背負って生きなければ
ならない人間という存在を︑真正面からうたおうとする﹂︵東茂美﹁はしがき﹂﹃山上憶良の研究﹄翰林書房・二○○六︶人で
あった︒まさに正鵠を射た見方だが︑その点からすれば︑当該歌がそうした意表を突くジョークであったとは考えにくい︒自発的にうたったか︑求められて作ったかは別として︑まさ
しく退席の意志を表わす歌だったと見た方が適切であろう︒幼子は本当にいたのか しかし︑この歌には不確定要素が多
い︒すでに述べたように︑その一つは幼子の存在である︒それ
については︑﹁この時期の憶良に︵中略︶幼な子がいるというの
は現実的ではない﹂︵東茂美﹁憶良の帰去来﹂﹃山上憶良の研究﹄︶
というのが︑一般的な理解であろう︒
しかし︑憶良は当時︑従五位下の高官であった︒貴族の一員
である︒律令は重婚を禁じているが︑それは﹁一夫一婦の倫を強制するに在らずして︑妻妾の区別を厳にして嫡庶の争を防止
する﹂︵瀧川政次郎﹁万葉集に見える戸婚律逸文﹂﹃萬葉律令考﹄東京堂書店・一九七四︶ためである︒したがって︑妾は法的に認められた正式な存在とされていた︒また戸令には︑子がない
然である︒宴会好きの上司旅人から声のかかったその日︑運悪く︑幼子
は体調が優れなかった︒しかし︑上司の要請なので︑一応馳せ参じたものの︑憶良は心配で︑子供の泣き声が聞こえて来るよ
うな心境だった︒そこで憶良は︑歌を好む上司には歌で言い訳
をすれば︑円満に早退できるかも知れないと考えた︒それが﹁今
は罷らむ﹂という歌だった︒首尾よく︑憶良はその歌によって退出が認められた︒そして︑それは旅人側近の下僚によって﹁憶良臣罷宴歌﹂と記録され︑やがて﹃万葉集﹄中の一首となった︒以上は妄想である︒しかし︑当時の社会通念からすれば︑決
してあり得ないことではない︒実証的な研究とはならないが︑作品の周辺を深く考えてみる学習としては︑意味があるのでは
ないか︒当該歌の場合︑答えを一つに決めて記憶させるよりも︑
どういう状況で披露された歌なのか︑自由に話し合わせてみた方が︑能動的な学習になるように思われる︒
もちろん︑通常の高校では︑そんな時間は取れないだろう︒
とりわけ︑必修の﹁国語総合﹂の授業で学習する場合︑そこま
で踏み込むことは無理だと思われる︒しかし︑選択科目の﹁古典B﹂の場合ならば︑憶良の生活にまで踏み込んで考えさせて
みることも可能なのではないか︒せめて︑文系の大学に進学を希望している生徒たちには︑文学作品を深く読み味わう経験を
させてほしいと思う︒幼子がいなかったとしても 宴席歌は社交の場の潤滑油であ
る︒したがって︑子煩悩な父親を装う憶良の歌も︑当然歓迎さ
れたに違いない︒それが古来稀な老人の歌ならば︑その意外性 戦前までは概ね︑実際に幼子がいたとする前提で考えられて
いたが︑この半世紀ほどは︑幼子がいたか否かということが︑特に問題とされることがなくなったように思われる︒宴席にお
ける表現行為とする理解が広がって来た結果として︑多くの研究者が︑作者の実人生を問題にすることなんぞ時代遅れだと︑考えるようになったからだと言うべきかも知れない︒
しかし︑実際の宴席で機能した﹁立歌﹂ならば︑作者の人生
と完全に無縁な表現行為であったとは断言できない︒そこであ
えて︑実際に幼子がいた場合と︑いなかった場合とでは︑どの
ように違うのかを考えてみたい︒本当に幼子がいたとしたら たぶん︑幼子はいなかったと思
う︒しかし︑それは決して︑実証的に裏づけられる事柄ではな
い︒すでに述べたが︑研究の深化とともに︑作者の実人生と歌
の表現を短絡するような読みが否定されて来た結果である︒筆者もそれが正しい方向性であると考えている︒しかし︑この時
の憶良に幼子がいたか否かは︑将来にわたって︑誰にも証明で
きないことであろう︒仮に︑憶良は家族を伴なって筑前国に赴任していたとする︒正妻はすでに死去していたか︑あるいは高齢のため僻遠の地に赴任するのは無理だったのか︑幼子のいる若い妾が憶良の身の
まわりの世話をするために︑遠い筑前国に赴いていた︒憶良は
﹁子等を思ふ歌一首﹂︵巻五・八○二〜八○三︶もなしており︑子煩悩であったことは想像に難くない︒都を離れていても︑日々無邪気な幼子に心を癒されて︑まさに目の中に入れても痛くな
い心境だった︒その子が激しく泣けば︑心穏やかでないのは当
ることはほとんどなかった︒﹁世間苦︵中略︶を背負って生きな
ければならない人間という存在を︑真正面からうたおうとす
る﹂︵東茂美﹁はしがき﹂先掲︶憶良の歌が︑花鳥風月をうたう王朝的な和歌の世界と︑相容れなかったからであろう︒憶良の歌の社会性や思想性が評価されるようになったのは︑明治のこ
とであった︒
また︑国語の教科書に﹃万葉集﹄が取り上げられるようになっ
たのは大正期のことであり︑昭和の初期にほぼ定着したのだと言う︒そして︑憶良の歌が取り上げられるようになった背後に
は︑﹁父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ﹂と﹁臣民﹂の徳目を説
いた教育勅語の影があるとも指摘されている︵品田悦一﹁忘却
された起源︱︱憶良の歌が定番教材となったわけ︱︱﹂梶川信行編﹃おかしいぞ!国語教科書﹄︶︒
この指摘はきわめて重要である︒教科書の中に潜む︿刷り込み﹀の危険性︵梶川信行﹁国語教科書の中の富士山︱︱高等学校﹁国語総合﹂の危うさ︱︱﹂﹃富士学研究﹄一二巻一号・二○一四︶に気づかせてくれるからである︒昭和の戦時体制の中で︑文部省が国民訓導のために編纂した﹁日本精神叢書﹂の中に︑武田祐吉著﹃萬葉集と國民性﹄︵文部省教学局・一九四○︶
という小冊子がある︒﹁臣民﹂としての徳目を説く中に︑﹁家族愛﹂という項目が立てられ︑その筆頭に当該歌が紹介されてい
る︵梶川信行﹁戦時体制下の﹃万葉集﹄一斑││佐佐木信綱と武田祐吉││﹂﹃史聚﹄五○号・二○一七︶︒
しかし︑今その問題を掘り下げる紙幅はない︒また当該歌は︑奈良時代の宴席における歌文化を知るという形での教材化が可 によって︑より和やかな雰囲気を創ることに貢献したはずであ
る︒旅人と見られる宴席の主人は︑ウソを承知で︑フフッと笑
いながら︑﹁それはご心配ですね︒それじゃあ︑早くお帰りな
さい﹂と︑快く中座を認めたのではないか︒
﹃万葉集﹄によれば︑神亀五年︵七二八︶から天平二年︵七三○︶
までの旅人と憶良は︑大宰府で頻繁に歌の遣り取りをしてい
る︒身分の差を超えた﹁歌友﹂だったと評されることも多い︒単身赴任であったとしても︑若い妾とともに赴任していたとし
ても︑当時の憶良に﹁子等を思ふ歌﹂で﹁眼交に もとな懸か りて 安眠し寝さぬ﹂︵巻五・八○二︶とうたっているような幼子がいなかったということは︑上司の旅人は百も承知だったと
いうことになろう︒一方︑大宰府や筑前国の下僚たちも同席していたとしたら︑彼らはいったいどのような反応を示しただろうか︒憶良はおそ
らく︑真顔で﹁哭く﹂﹁子﹂の﹁待つ﹂ことをうたったはずである︒
したがって︑中には﹁えっ︑ほんと?﹂と︑驚いた下僚がいた可能性も否定できない︒しかし︑そうした形で驚きを与えるこ
とも︑宴の潤滑油としての一つの形である︒当該歌はまさに︑宴席での﹁立歌﹂としての機能を十全に果たし得たということ
になろう︒
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教育勅語と憶良の歌 実は︑なぜこの歌を教材としなければ
ならないのか︑という根本的な問題が残されている︒周知のこ
とだが︑平安朝以後の和歌の伝統の中で︑憶良の歌が称揚され
﹁古典B﹂では少し掘り下げた学習を 一方︑﹁古典B﹂で学習する場合には︑大宰府における社交の場の歌であったこと︑憶良は筑前守という高官であり︑しかも七十歳ほどの高齢者で
あったことなど︑具体的な背景もある程度確認した上で︑どの
ような意図で披露された歌だったのかを考えさせる︒その際︑一つの正解を導く形の学習ではなく︑話し合いなどを通じて理解を深めて行く形の学習の方が望ましい︒事実確認ができない
ので︑答えは出ないということを前提として︑憶良に幼子がい
たのかどうかと議論させることも効果的な学習となろう︒大学の専門科目においては︑本文の異同を視野に入れた場合︑どのように理解の仕方が変わるのかも考えなければなるま
い︒また︑研究史の中で理解の仕方が変わって来たという事実
も︑学ばなければならない︒考えなければならないことは非常
に多いのだが︑当然のことながら︑高等学校の国語の授業では
そこまで踏み込むべきではあるまい︒教職を目指す学生たちへ 国文学科の学生たちの中には︑教職を目指す者も多い︒そうした学生たちは︑﹃万葉集﹄に限らず︑古典について深く学び︑十分な知識を蓄えた上で教壇に立つこ
とが望ましい︒しかし︑大学で学んだことをそのまま中学校や高校の教室に持ち込むことはできない︒生徒たちにはどんな学力が必要なのか︒彼等の実情を冷静に見据えつつ︑何をどう教
えるべきか︑またどこまで教えるのが適当かを考えなければな
らない︒現在も文法中心の古典の授業が横行しているようだ
が︑文法的な分析に習熟することが学習の目的になることだけ
は︑絶対に避けなければならない︒ 能である︒そこで︑教材として何を選んだかといった問題は別
の機会に譲り︑現在教科書に採られている万葉歌をいかに教え
るかという問題に議論を限定しておくことにしよう︒
﹁国語総合﹂における当該歌の学習は 本稿のように︑その外堀を埋めて行くような作業によって︑当該歌に対する理解を深めることはできる︒しかし︑唯一の正解を導くことは難しい︒
ほとんど不可能に近いと言った方が正しいのかも知れない︒
それでは︑そうした当該歌を高等学校で古典の教材とする場合︑どのように扱ったらいいのか︒
まずは︑﹁国語総合﹂でも﹁古典B﹂でも︑題詞を含めて作者憶良の意図を反映した歌とする前提で考えさせることであろ
う︒題詞や表記は︑下僚の記録者や﹃万葉集﹄の編者のもので
あった可能性も捨て切れないが︑高等学校の教室に︑そうした問題を持ち出すべきではあるまい︒そのような細かい分析は︑大学における専門科目の中で行なうことであろう︒
﹁国語総合﹂では︑奈良時代においては︑短歌という形式が宴席における社交の具となっていた︑ということを学習させ
る︒また︑朗唱することを通して︑﹁らむ﹂の繰り返しによる
リズム感が︑明るい雰囲気を醸し出していることに気づかせ
る︒退出を申し出ても︑宴席の気分を阻害しない一首だったと
いうことである︒教師用指導書の設定する配当時間からすれば︑一首の歌にそ
れほど時間を割くことができない︒ほかの作者の歌々も学ばな
ければならない︒したがって︑当該歌については︑その程度で抑えておくしかないと思われる︒
本稿では︑﹁憶良らは﹂の歌をさまざまな角度から考えてみ
たのだが︑それが教材研究の参考となることを願っている︒
︵かじかわ のぶゆき︑本学教授︶