新約聖書中の説教――ケリュグマとディダケー――
(第2回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナー報告)
著者 原口 尚彰
雑誌名 教会と神学
号 48
ページ 127‑146
発行年 2009‑03‑23
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024323/
1
新約聖書中の説教:ケリュグマとディダケー*
原口尚彰
はじめに
「聖書と説教」 という主題には,聖書の中の説教という側面 と,聖書テクストに基づいて説教するという二つの側面があ る。今回は聖書学の立場から,聖書の中の説教,特に,新約聖 書中の説教の問題に焦点を当てて考察してみたい。新約聖書の 中の説教の代表的な例は, イエスがガリラヤの民衆に対して 行った説教(マタ13: 19;マコ1 : 4‑15; 4: 1‑9; 4: 21‑25;
ルカ6: 21‑23; 10: 25‑37; 15: 1‑7 ; 15: 810; 15: 11‑32 他) と,使徒言行録が伝える初代教会の説教(使2: 1441 ; 3: 1226; 10: 34‑43; 13: 1641 ; 14: 1517; 17: 22‑31)で あるが,後に述べるようにパウロ書簡も説教的な機能を果たし ており,考察の対象とする。
1. イエスの説教
イエスの宣教活動について,共観福音書では多くの場合,動 :3K'1p600(,) (「(公に)宣く伝える」マコl : 14, 38, 39, 45他)
* 2008年8月25日に行われた東北学院大学文学部キリスト教学科主催 第2回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナーでの講演を文章化したもので ある。
句当
と6LMoK(U (「教える」マコ1: 21, 22; 2: 13; 4: 1, 2; 6: 2, 6, 34; l1 : 17; 12: 35; 14: 49他)が互換的に使用されてい る。説教とは公に神の支配の使信を語ることであり,特別な事 柄について弟子たちにだけなされた教え(8: 31 ; 9: 31) とは 性格を異にする。説教の聴衆は,ガリラヤの群衆(マコ1 : 14,
38, 39, 45; 2: 13; 6: 2; 10: 1),安息日礼拝の参加者たち (1 : 21, 22),神殿の参拝者たち等(11 : 17; 12: 35; 14: 49) である。
1.1 回心の説教
イエスの宣教は,マコ1 : 15に要約されているように(「時 は満ちた,神の支配は近付いた。回心して福音を信じなさ い」),神の支配(国)の説教であり,神の支配(国)の接近 (急迫) と回心の勧めを内容としている1.宣教の直接の対象 は,ガリラヤの民衆であるが,全イスラエルを射程に入れてお り, そのことは後にエルサレムの神殿の庭で説教することにお いて明らかになる (マコ11: 17; 12: 35; 14: 49)。 この説教 は預言者的であり,神の意思の新たな啓示を内容としている。
旧約聖書の単なる解釈者であるに留まらず, 自己の権威の下に 神の言葉を語ったイエスの説教は,聖書の言葉や伝承された先 人の教えの解釈を内容とする律法学者の説教とは違うので聴衆 は驚いたと福音書は伝えている (マタ7: 28‑29;マコ1 : 22‑
23)。
神の支配の接近を告げて回心を迫る論理構造は,神の裁きを 告げて悔い改めを迫る旧約預言の論理構造に並行する (イザ 1 : 231 ;エレ2: 12‑13; 4: 1‑4 ; ホセ14: 2‑8他)。但し,
!特に断らない限り,聖書翻訳は筆者による原典からの私訳である。
新約聖書中の説教:ケリュグマとディグケー
ワ⑩
イエスの宣教は審判よりも救いの良い知らせということ内容と しており,回心は,マコ1 : 15が述べるように「福音を信じ る」こととほぼ同義であった。 この点において, イエスの宣教 は先行者である洗礼者ヨハネの宣教と性格が異なっている。後 者は,救いよりも,神の怒り (裁き) を専ら強調している (マ タ3二 712;ルカ3: 7‑14)。福音の宣教者であるイエスの生活 態度も洗礼者のような禁欲的性格(マコl : 6並行)はなく,
イエスに従う弟子たちもユダヤ教の諸教派が行っていた断食を 実践していなかった(マコl : 18‑20)。 イエスとその弟子たち の生活は,新しい葡萄酒を入れる「新しい革袋」に職えられた (1 : 22)。
1.2哺えによる説教
ガリラヤ宣教における説教の聴衆は,ガリラヤの民衆であ り, イエスは彼らの「聞く力に応じて」職えによる説教を好ん で行った(マタ13: 3435;マコ4: 33‑34を参照)。共観福音 書はイエスの瞼え話を数多く伝えている (マタ13: 1‑9; 13:
24‑30; 13: 31 33; 18: 10 14 ;マコ4 ; 1−9; 4 : 21‑25; 4:
21 25; 4: 26‑29; 4: 3()‑32;ルカ10: 25‑37; 15: 1 7; 15:
8‑10; 15: 11 32他)。噛えは,未知の事柄を既知の事柄に置 き換えることによって理解を助ける語り方であり, イエスは種 蒔きの職えや(マタ13: 1‑9;マコ4: 19),羊鯛いと羊の噛 え(マタ18: 10‑14ギルカ15: 17)等に見られるように,当 時の農村の生活から題材を採っている。噛えは有効に機能する ためには,語り手と聴衆の間に一定の生活に根ざした経験と知 識の共有が前提となる。例えば,種蒔きの哺え(マコ4: 19) において,農夫は畑を耕す前に種を蒔き, その後で畑を耕して いる。日本のような畦を作り,種を蒔いていく労働集約的なや
4
り方では,種が道の上に落ちたり,石地に落ちたり,茨の中に 落ちることはない。当時のパレスチナの粗放な農業のやり方が 語り手と聴衆の間の共通の知識が前提になっていなければ, こ の哺え話しはそもそも成り立たない。他方,失われた一匹の羊 (マタ18: 10 14;ルカ15: 1‑7)の哺え話は,当時のパレスチ ナにおいて羊を飼うことが広く行われ,人々がその光景を常に 目にしていたことと, 旧約聖書の中で神を羊飼いに, イスラエ ルの民を羊に職える文学的伝統に聴衆が親しんでいたことを前 提にしている (詩23: 1; 100: 3;エゼ34: 11‑22を参照)。
噛えのもう一つの問題は,哺えに用いられるイメージは非常に 具体的で分かり易く,聞く者の記憶に強く残るが,哺えが指し 示す意味は一義的には明確ではなく,聞く者の側でそれを解釈 することを要求する。特に, イエスの哺えの多くは目に見えな い神の国の職えであるだけに, その意味するところを正確に理 解することは難しく・時として,哺えが謎として機能すること
もあった(マコ4: 1012を参照)。
1.3 マカリズム(幸いの宣言) と平野の説教
ルカによる福音書の平野の説教の冒頭(ルカ6$ 2023) と マタイによる福音書の山上の説教の冒頭(マタ5: 1‑12)には マカリズム(幸いの宣言)が使用されている。伝承史的に言え ば, より簡潔な平野の説教の前半部に保存されているマカリズ ムの方が史的イエスの言葉をより忠実に伝えていると推定され るので, ここでは平野の説教冒頭のマカリズムを採り上げる2.
「幸いである,貧しい者たち。
2原口尚彰「Q資料における幸いの宣言」 『新約学研究j第36号(20(}8年)
1 15頁を参照。
新約聖書中の説教馬 ケリュグマとディダケー 5
神の国はあなた方のものである。
幸いである,今飢えている者たち。
あなた方は満腹するであろう。
幸いである,今泣いている者たち,
あなた方は笑うであろう。
(幸いである,あなた方は,
人の子のために,人々があなた方を憎むとき, また, あな た方を追放し,罵り, あなた方の名を邪悪なものとして捨 て去るとき。その日には喜び,躍り上がれ。見よ,天にお けるあ惹た方の報いは多いからである。同様のことを彼ら の父祖たちも預言者たちに対して行ったからである。)」
(ルカ6: 2023)
このマカリズム(幸いの宣言)は,平野の説教(ルカ6:
2049)の導入部を構成しており,聴衆に神の国での幸いを4 重に宣言して,演説の基調を提示している。マリアの胎内で祝 福された実であるとされたイエスが(ルカ1 : 42), 30年を経 て開始した公の生涯において人々に幸いを厳粛に宣言するとい う設定である。ルカによる福音書の物語的文脈の中では,ナザ レの会堂説教(ルカ4: 16‑30) において提示された貧しい者 への福音の内容が, 4つの幸いの宣言によって具体的に示され ることになっている3.
第4の幸いの宣言(6ェ 23)は,先行する三つの幸いの宣言 (6: 20‑22) とは文体上かなり異なっている。第一に,最後の 幸いの宣言は最初の3つに比べ,文章がはるかに長大になって いる4.第二に,最初の3つの幸いの宣言は,文頭に置かれた
3ルカ6: 2U‑26全体の釈義については,原口尚彰『新約聖書釈義入門」教 文館, 2{106年, 97 103頁を参照。
4幸いの宣言の連鎖の最後のものが長大化する傾向は,死海文書の4Q
6
形容詞ILOEKdpLOL (幸い)の後に動詞を欠いているのに,最後 の宣言は"TEという動詞句を伴っている。第三に,文章の後 半が最初の3つは接続詞6TLに導かれているが,最後の幸いの 宣言は6"Iノに導かれている。第四に,幸いの宣言の後に,天 において報いが与えられることを理由として,喜びを勧める命 令文が加えられているのは(Q6: 23),幸いの宣言としては異 例である。伝承史的に言うと,初めの3つの幸いの宣言(6:
20, 21, 22)の方が伝承の古層であり, 4番目の幸いの宣言(6:
22‑23)は伝承の新居であると考えられる5.最初の3つはおそ らく史的イエス自身に遡り,貧しい者たち,飢える者たち,泣 いている者たちの幸いを宣言していた(トマ福54, 69bも参 照)6. これに対して, 4番目の宣言は宣教者たちがキリスト教
525にも見られる。 どの点については, H.Lichtenberger,"Makarismsin MatthewinitslewishCDntexL,'' in刀"S""z"zD〃〃ノE"""〃 ノゴ雄 火雄カノJSE/""g (ed.HJ.BeckerandS.Ruzer; PariS:Gabalda,2(105) 4042 ;原口尚彰「4Q185/4Q525における幸いの宣言」 i教会と神学j第42 号(2006年) 41 68頁を参照。
5JA.Fitzmyer,D"sE""gど""醜〃 ルL""s (EKK3/1‑3;Zurich;
Benzinger/NeukirChenV1Uyn:Neukirchener Verlag, 1989‑2001) 1.
631 ;H.KleinDfTsL"""α"礫"r"〃 (KEK1/3iGOttingen:Vanden hoeck&Ruprecht, 20()6) 245;W.Radl,D"s&'"zgE/""〃""c/zI,"〃"S (l Teil ;Freiburg:Herder, 2003) 1 374;HSchUrmann, D"s LJイ 尚鏑 α樺/""" (HThKNT3/1 2;Freiburg:Herder, 1969J993) 1.326;
W.Wiefel,D"EL'""gC/""〃〃 ルL"""(ThHKNT3 ; BeI、1ill:Evan.
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〃 ルルル"/J""s ("/ Z‑7) (Neuki,℃hen‑VluynFNeukirchenerVerlag, 2002) 271272; S.Schulz,Q."/(? J/"r/zqz""E (!"ELI""gEノ鰄"(Zur.
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Benzinger/NELlkirchen‑VILlyn:Neukirchener Verlag, 19892I)01) 1.
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328, 335.
新約聖書中の説教: ケリュグマとディダケー 房J1
の宣教活動において経験する悪口雑言や迫害を受けるのは幸い であると宣言している (トマ福68, 69: lも参照)。第4の幸 いの宣言には伝承の担い手である初代教会の宣教者たちの自身 の体験が反映している7.
第1の幸いの宣言においては,幸いと宣言する理由を与える 後半部に,神の国の付与という終末的概念が提示されている (ルカ6: 20)。 さらに.平野の説教中の他の3つの幸いの宣言 の後半部には,動詞の未来形が使用されており (6: 21, 22, 23),終末時における運命の逆転が幸いの根拠とされている。
この事情は, これらの幸いの宣言が,終末論的な幸いを語るこ とを示している8.言葉を換えて言えば,平野の説教中の幸い の宣言は,黙示的な性格を持っていることを示している。黙示 文学における幸いの宣言は,現世的な幸福ではなく,来るべき 世における幸いを宣言するからである (エチ・エノ58: 2;
81 : 4; スラ・エノ42: 6; 58: 2; 82: 4;黙14: 13; 19: 9;
20: 6を参照)9。
1.4 内容・表現の斬新性
イエスの説教の他の特色はその内容・表現の斬新性である。
イエスの教えの中には余り通俗性はなく,伝統的な考え方の意 表を突くようなものが多い。例えば,先に挙げた,マカリズム (幸いの宣言)では(ルカ6: 20‑23), この世の通念では不幸 とされる「貧しい者たち」, 「今飢えている者」, 「今泣いている
7Klein, 245i l.Nolland,L"舵(WBC35A‑C;Dallas:Word, 1989 1993)1283;Schneider、 l.152153;原口「釈義入門」 100頁を参照。
"この点を, D̲LBock, LⅣルビ (2voIs;GrandRapids: Baker, 1994 96) 1.572; Bovcn, 1.301 iFitzmyer, 1.6331 Radl, l.376: SchUmlann, 1.
326, 328331 ;Nolland, 1、283が強調する。
gBerger, 189;原口「4Q185/4Q525」 16‑19頁.同「黙示録における幸い の宣言」 「新約学研究」第35号(2007年) 5255頁を参照。
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者」が幸いと宣言されている。他方, レビの召命の記事では,
当時のユダヤ教の主流の常識からは避けるべきとされていた徴 税人や罪人との食卓の交わりを答められた時に, イエスは,
「医者を必要とするのは健康な者ではなく,病人である。私が 来たのは義人ではなく,罪人を招くためである。」 と答えてい る (マコ2: 17)。
平野の説教において, イエスは「烏(toiJSK6PcMK")を観察 せよ」 (ルカ12: 23), 「野の花がどのように育つか観察せよ」
(ルカ12: 27) と勧めるが, この教えも当時のユダヤ人の常識 からするとかなり奇抜であり,聴衆の注意は自ずと喚起された 筈である。 「烏(K6Paと)」はそもそもレビ記には汚れた動物の 一つに挙げられ,ユダヤ人たちは接触を避けるべき対象とされ ている (レビ11 : 15を参照)。そのために,マタイの並行箇所 では, 「空の烏(T&TmELIJiLTOOOfjpU'JOD) を良く見なさい」
(マタ6: 26) と,創世記に用いられているより中立の表現に 変えている (創1 : 20‑21を参照)。しかも, イエスはここで自 然界に生きる生物を観察して学べと言っているが, 目に見える 現象である,蒔きもせず,刈りいれもせず,倉に入れもせず,
一切労働をしない烏が餌を得て,生命を維持している様子と,
働かず,紬もしない野の草が生育している様子の背後に, 目に 見えない天の父の配慮と養いを見るように促している。自然界 の小生物でさえ配慮し養っている天の父がより価値ある生物で ある人間を配慮することがない筈はない。人間の生活上の必要 を神はご存じで配慮して下さるから,思い煩いをする必要はな く,神の国を求めなさいとイエスは語る (ルカ12 ; 28‑31)。
旧約聖書の知恵文学は伝統的に勤勉を勧め(筬10: 4−5; 12:
14; 13: 4; 20: 4),働き者の蟻に習って勤勉に働くことを勧 めているだけに(筬30: 25),働かない動物を観察して学べと
新約聖il}中の説教:ケリュクマとディダケー 9
いうイエスの教えは聴衆の耳に非常に斬新に響いたと考えられ る。
「あなた方の敵を愛し,あなた方を憎む者たちに親切にしな さい。あなた方を罵る背たちのために祈りなさい」 というイエ スの愛敵の教えも (ルカ6: 27‑28; さらに, マタ5: 38も参 照),当時の世界の常識を越えている。旧約聖耆は,隣人を愛 することを勧めているが(レビ19: 18), 「隣人」 とはレビ記 の文脈では, 「同胞」や「兄弟」 と同義であり,隣人愛の対象 は民族同胞に限られ,異邦人は対象外であった。 まして,報い を期待せず, 自分に敵対する者を愛せよという教えは,人間社 会の相互性の原則を破るものであり,他に例はない。その理由 付けは,天の父は寛容であり,善人に対してだけでなく,悪人 に対しても憐れみ深いということにある (ルカ6鳶 3536)。 こ れを聞いた聴衆の反応は蝿きであったと想定される。
2. 初代教会の説教
使徒言行録や新約書簡には,初代教会が行った説教が保存き れており,当時の説教の性格を考察するための材料を提供して いる。特に,使徒言行録の物語にはペトロやパウロらの登場人 物が行う数多くの演説が出て来る。当時の歴史記述は読者を説 得するレトリックの性格を持ち,細部の記述において創作の要 素も許容されていたので,そのまま史実とは言えないが,使徒 言行録中の演説は当時のキリスト教指導者たちが行っていた説 教の幾つかの典型的タイプを示すものとは言える。 この演説の うち説教的性格を持つものには,ユダヤ人聴衆を対象にする伝 道説教と (使2: 14‑41 ; 3: 1226; 13: 16‑41),異邦人聴衆 を対象にする伝道説教(1() : 34‑43; 14: 1517; 17: 2231),
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教会指導者への説教(20: 1835)に分けられ, それぞれ別々 の考察が必要となる。
2」ユダヤ人向け説教
使徒言行録中のユダヤ人聴衆を対象にする伝道説教には,ペ トロに帰されているペンテコステ説教(使2: 14‑41)や神殿 説教(3: 1226) と,パウロに帰されているピシディア.アン テイオキアでの会堂説教(13: 16‑41) とがある。ユダヤ人聴 衆は天地の創り主であり, アブラハム・イサク.ヤコブの神で ある方(使3: 13)への信仰を持っていることが前提であるの で,ユダヤ人向け説教は真の神への回心を改めて説くことな く, イスラエルの歴史を批判的に回顧し (3: 22‑26; 13: 16 25),彼らがイエスを十字架に架けることに関与した責任を問
うことを内容としている (2: 22‑24, 36; 3: 1315; 13: 26‑
29) 」o. このタイプの説教に属するペンテコステ説教は, 「イス ラエルの全家はよく知るがよい。 この方を神が主なるキリスト として立てた。 このイエスをあなた方は十字架に架けたのだ。」
という言葉で結ばれており (2: 36),聴衆は, 「心を刺され て」,ペトロらに対して, 「私たちは何をすれば良いのでしょう か?」 と尋ねた(2堂 37)。ペトロは彼らに即座に, 「悔い改め て,あなた方の一人一人が,罪の赦しを得るために, イエス.
キリストの名によって洗礼を受け,聖霊の賜物を受けなさい」
と勧めている (2: 38)。神殿説教も同様な論理構造を持つが,
ローマ総督の裁判においてユダヤ人たちがイエスを総督に告発 し,無罪として釈放しようとしたピラトに圧力を掛けて十字架
。詳しい分析は,原口尚彰Iロゴス・エートス・パトス:使徒言行録中 の演説の修辞学的研究」新教出版社, 2005年, 363Z&i4 45,97 102頁を参
照。
新約聖書中の説教宮 ケリュグマとディダケー 11
刑の判決を出させた責任を問い(3: 1314), 「いのちの導き手 である方をあなた方は殺したが, この方を神は死人の中から引 き上げた」 と語った上で(3: 15), 「あなた方の罪が取り除か れるように,悔い改めて主に立ち返りなさい」 と勧めている (3: 19)。ピシディア・アンティオキアでの会堂説教は前半部 分で(13: 16‑25),出エジプトから士師時代から王国成立, ざ らには, ダビデ王朝成立に到るイスラエルの歴史を回顧し, ダ ビデの子孫から神がイエスを遣わしたと述べて, イエスのメシ ア性を強調している。説教の後半では, イエスの十字架に際し てのユダヤ人の責任を問うと同時に,神がイエスを甦らせ,復 活の主が弟子たちに現れたことを強調している (13: 2641)。
2.2異邦人向け説教
異邦人を対象にする伝道説教(使14: 15‑17; 17: 2231) は,唯一神への信仰を持っていない聴衆を相手にしているの で,異教の神々に仕えることから離れて,天地の創り主なる神 に立ち返ることを中心的な内容としている]'。例えば, リスト ラでの演説においてパウロは(使14: 15‑17),バルナバをゼ ウス,パウロをヘルメスと呼んで彼らに犠牲の動物と花輪とを 捧げようとした群衆の行動を阻止するために, 「皆さん,何故 こんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じように人間 であり, これらの空しい物から生ける神に立ち返るように宣く 伝えているのです」 と語っている (14: 15)。使徒言行録中の パウロはこう述べた後にさらに言葉を続けて,神が天地とその 中にある万物の創造主であり, 自然を通して恵みを与えている ことに注意を促している (14: 1617)。異邦人聴衆には旧約聖
I ' IFIfl}, 112 114頁。
12
害の知識は前提出来ないので,論証のために旧約聖書を引用す る事はせず, 自然現象の背後に神の業を見るように促してい
る。
使徒言行録においてパウロに帰されているアレオパゴス演説 の前半は, リストラ演説と同様に異邦人聴衆に対して,天地の 創り主なる神を語ることから始めている (使17: 2229)。パ ウロはアテネ人の持つ宗教心と接点を持つために町に存在した
「知られざる神に」捧げられた祭壇を採り上げて,彼らが知ら ずに拝んでいる神を示すという形で話しを切り出している。聴 衆はアテネの哲学者たちであったので, この演説はより理論的 に偶像礼拝の無意味さを論じており,天地の創り主が,人間の 手で創った神殿に住むことはなく,人間の手によって仕えて貰 う必要はない事を述べ,神を求める者は神を見出すことを強調 している (17: 24‑27)。 しかし,初代教会のケリュグマの真理 性を論理的議論によって説得するには限界があることを, この 演説の後半は示している。パウロが終末の裁きに言及して聴衆 に回心を迫り, その証拠としてキリストの死人の中からの復活 に言及したとき,聴衆の哲学者たちは彼を噸笑してそれ以上話 しを聞こうしなかったために,話しは中断されたと著者は述べ ている (17: 3033)」2。
これに対して,異邦人であってもユダヤ教に関心を持ち,
「神を畏れる者」の域に達していたコルネリウスに対するペト ロの説教は,かなり違った内容を持っている (使10: 3443)。
この説教は異邦人向けの説教とは異なり,異教の神々からの天 地の創り主に回心することを説くことをせず,洗礼者ヨハネに 短く言及した後, イエスの宣教を回顧し, その十字架の死と三
!z詳しくは.同書, 70頁。
新約聖書中の説教:ケリュグマとディタ'ケー 13
日目の復活.顕現の物語に説き及んでいる (10: 34‑40)。ペト ロらはそのことの証人なのである (10: 41‑42)。 しかも,ペト ロが信じる者に与えられる罪の赦しを説いたところで,聴衆に 聖霊が降ったために回心の勧めが語られる前に説教が中断され ている13。
2.3教会指導者への説教
パウロに帰されているミレトス演説は(20: 18‑35),未信者 に対する伝道説教ではなく,信徒の代表である教会指導者たち への勧めであり, ケリュグマよりもディダケーの性格が強い。
使徒言行録の文脈では, この演説は第三宣教旅行を終えて,小 アジア経由でエルサレムへ向かう途上でミレトスにおいてエ フェソ教会の長老たちを集めてなされたという設定になってい る (20: 13‑18)。 この演説の後半において,パウロは自分が 去った後の教会指導の務めを教会の長老たちに委ね,来るべき 時代において予想される教理的混乱における指導者の心得を語 る (20: 25‑35)。使徒後時代の教会指導者は,巡回説教をする 伝道者というより,定住の聖職者であり,牧会者として教会の 群れを守り,育てる責任が強調されている。
パウロはエルサレムで自分の身に及ぶ受難の運命を自覚して おり (20: 2224), この演説はエフェソ教会の指導者たちに対 する別れの説教という性格を持っている'4。 この点において,
この演説はイスラエルの遺訂│ │文学の伝統に立つと同時に(創 49§ 1−27;申32: 1‑44; ヨシユア23: 2−16;サム上12 : 1
3詳しくは,同書, 128‑132頁。
この点についての詳細な議論は, Takaaki Haraguchi, $$ATragic FarewellDiscourse?; InSearChOf aNewUnderstandingofPaul,s MiletusSpeech (Acts20: 18‑35) ,''A""Iイαノ リ/"ifJノ"""sEBib/i"/
/j芯/""/633/34 (2006) 137 154を参照。
14
25;王上2: 2−9他),ギリシア悲劇における訣別の辞の文学的 伝統とも共鳴している (アイスキュロス『アガメムノーンj 1256‑1330; ソフオクレース『アイアース』 815865; 「コロノ スのオイデイプスj l515‑1554; 『アンテイゴネー」 808‑943他 多数)。悲劇的訣別の辞として, この演説には別れの悲しみの 感情が溢れており, それが聴衆と共有されている。
3. パウロ書簡に見る説教
パウロ書簡は,使徒が伝道牧会の必要に応じて教会に対して 認めた手紙であり,手紙を通して行った勧めという性格を持っ ている。教会で問題が起きて指導の必要が生じたとき,直接に 赴いて顔と顔を合わせて語ることが理想であったが,距離的に 遠かったり,伝道上の他の課題があったりするときは,手紙の 遣り取りによって代用した。手紙は牧会的対話の補助手段で あった。手紙はその当時の習慣では,口述筆記されるのが常で あり,執筆者が受信人に対して語り掛けた言葉が書き留められ た。例えば, ローマ害の末尾では,筆記者のテルティオが読者 に対して自ら名乗りを挙げて挨拶している (ロマ16: 22)。但 し,手紙の末尾だけは例外であり,執筆者自身が筆を執って強 調したいことを短く書き記す習慣があった(Iコリ16: 21 ;ガ ラ6: 11を参照)。手紙は使者によって宛先の教会へ届けられ,
教会の集会で読み̲上げられた。従って,書簡によるコミュニ ケーションと口頭のコミュニケーションと距離は小さく,書簡 は書かれた説教の性格を持っていた15o
パウロは書簡の中で,宛先の教会において彼がかつて語った
串原口尚彰「ガラテヤ人への手紙」新教出版社, 2004年, ] 3頁を参照。
新約聖書中の説教号ケリュグマとディダケー 15
ことを再度想起させた上で, その内容についてさらに深い説明 を与えることを行っている。そうした教えの想起の部分には,
彼が行った伝道説教を再現するものがある。例えば, Iテサ1 : 9‑10はテサロニケ人たちがパウロの伝道説教によって回心し た様子を回顧して, 「偶像から離れて神に立ち返り,生ける真 の神に仕え, (神が)死人のうちから甦らせた神の子,即ち,
来たるべき怒りから私たちを救うイエスを待ち望んだ」 と述べ ている。 この伝道説教は,異教の神々への信仰を離れて天地の 創造主に帰依することと, イエスの死人のうちからの復活と,
来るべき終末の裁きを語っており,主要な構成要素は使徒言行 録が伝える初代教会による異邦人向けの伝道説教と一致してい る (使14: 1517; 17: 2231を参照)。
Iコリント書やガラテヤ書は,第二宣教旅行の途上でパウロ が行った伝道説教がキリストの十字架という強調点を持ってい たことを示している。開攝伝道時のコリントにおいてパウロ は, 「十字架に架けられたイエス・キリスト」しか知るまいと 決意して実践した(Iコリ2: 3)。彼は自分の語った福音をギ リシア人には愚か,ユダヤ人には蹟きであるが,信じる者には 神の知恵,神の力である「十字架の言葉」 と呼んでいる (Iコ リI: 18)。パウロは敢えて人間的な知恵を駆使して福音を語 ることをせず,専らキリストの十字架を語った。彼の説教は当 時のギリシア・ローマの文化的コンテクストからすると反文化 的であったとすら言えよう。ガラテヤにおける伝道説教も同様 であり,彼は宣教の言葉を通してガラテヤ人の前に, 「十字架 に架けられたキリスト」を描き出し,彼らは信じて聖霊の賜物 を受けている (ガラ3: 1‑5)。
他方,パウロは折に触れて受信人に対し,かつて口頭で語り 伝えた教会の教理的内容を再度想起するように促している。例
16
えば,パウロはかつてコリントにおいて,キリストの死と復 活・顕現に関する信仰告白伝承を([コリ15: 3b7), 自分も 先人より継承した最も大切なものとして伝えている (15: 1‑
3a)。最後の晩餐を想起する聖餐伝承についても同様であり,
受信人であるコリント人たちとの共通の理解として,かつて
「主から受けた」大切な教えとして伝えた教会の口頭伝承を忠 実に再現している (Iコリl1 : 23‑26)。 これらの例は,パウロ の説教がケリュグマの性格とディダケーの性格の両方を持つこ
とを示している。
パウロは巡回説教者であり,定住して教会を牧する制度的指 導者ではなかった。彼の使徒職は神の召命に由来し (ガラ1 : 15‑16),人間には一切媒介されていない(1 : 1)。しかし,パ ウロはカリスマ的指導者である自分に対する信奉者を創り出そ うとしたのではなく,宣教の言葉を通してキリストの教会を形 成することに心を砕いた。彼は信徒たちに対して折りに触れて 共同体としての構成員としての自覚を促している。特に,教理 上,倫理上の混乱から,教会が分裂していたコリント教会の信 徒たちに対しては,書簡を書き送って教会の一致の勧めを行っ ている。 これは,パウロの説教のディダケー的側面を表してい る。例えば, Iコリント書12章において,パウロは教会を体 に哺え,多様な賜物,働きからなる共同体であることを強調し ている (Iコリ12: 12‑31)。パウロはコリント人に対して,
「あなた方はキリストのからだであり,部分からなる肢体であ る」 と述べている (Iコリ12: 27)。 このキリストのからだな る教会について,パウロはさらに, 「からだは一つでも多くの 部分を持ち,からだの部分は多くてもからだは一つであるの と, キリストも同様である。一つの霊によって私たちはすべて 洗礼を受けて一つのからだとなり,ユダヤ人であろうとギリシ
新約聖書中の説教: ケリュグマとディダケー 17
ア人であろうと,奴隷であろうと自由人であろうと,すべての 者は一つの霊を注がれたのである。」 と述べている (12: 12‐
13)。からだの職えによって彼は,共同体としての教会を構成 する働きの多様性と一体性の両方を表現しようとした。一致の 根拠は,信徒が入信時に与えられた同一の聖霊であり,多様な 機能を果たすために与えられた多様な賜物はすべて同一の聖霊 の働きに帰された(12: 1‑11)。からだとしての教会の職えは,
パウロの教会論の中心的な主題となり, ローマ書後半の勧告的 部分においても,再度繰り返されている (ロマ12: 3‑8)。
4. 結論と展望
新約聖書の説教を概観すると, イエス・キリストの福音につ いて語る言葉ということでは同一であるが,内容的に多様で あった。イエスの説教は,神の支配(国)の説教であり,神の 国の到来と回心の勧めを構成要素としている (マコ1 : 14‐
15)。初代教会の説教は, イエス・キリストに於ける救い,就 中, その死と復活を語ることに集中していた(使2写 2224, 36; 3: 13−15; 13: 2629; Iコリ15: 39)。 また,初代教会 の説教は人々を回心に導く伝道説教という性格が強い。
イエスの説教にはその場の聴衆に合わせた状況的性格があ る。屋外や(ルカ6: 20‑23)湖畔や(マタ13: 1‑52;マコ4 : 134)神殿の庭に(マコ11 : 17; 12: 35; 14: 49)集まって 来た群衆に向かってイエスはしばしば説教しており,会堂説教 の例は(マタ13§ 53‑58;マコ6: 1‑6;ルカ4: 1630)むし ろ少ない。用いる表現手法も哺えであったり (マタ13: 152;
マコ4¥ 1 34),屋外に見えている烏や野の草に注意を促した り (ルカ6¥ 2023),即興的な創作性を持っており,多分に奇
I8
抜である。
初代教会の説教は聴衆に応じて強調点が大きく異なってい た。ユダヤ人向けの説教は, イエスの十字架に対する責任を問 い,悔い改めを勧めた(使2: 22−24, 36; 3: 13‑15; 13: 26 29)。 これに対し,異邦人向けの説教は,創造主なる神を語り,
異教の神々を拝むことから唯一の真の神に立ち返ることを勧め ている (使14: 15‑17; 17: 2231 ; Iテサ1 : 9‑10)。説教は 聴衆との出会いの出来事の中で新しく語られる言葉という性格 が強い。
パウロ書簡から見て取ることが出来るパウロの説教は,開拓 伝道時に行った回心の勧めの説教と (Iテサl : 9‑10; Iコリ 2: 3;ガラ3$ 1 5),内外の様々な課題を抱える教会の会員た ちに向けた勧めの言葉とがある (Iコリ12: 1‑15: 57;ロマ 12: 1‑15: 6他)。前者にはケリュグマ的な性格が強いが,後 者にはディダケー的な性格が強い。パウロの信徒向け説教は,
キリスト教信仰の核心を説き明かす教理的な性格のものもある が(ロマ3: 21‑28; Iコリ1 : 1331;ガラ2: 16‑21他),多 くは建徳的な教会形成的な内容を持っている (Iコリ12: 1‑
31;ロマ12: 38他)。
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