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33 術数文献を用いた出土資料研究今さら改めて言うことではないが 戦国秦漢時代の出土文献が増加するに従い その中の相当部分が占いに関するものであることが明らかになっている 日書 や 周易 など それらの文献に関する研究は既に充分な蓄積があるが 厄介なのは占いの文献は一定の理論に基づく思想でもあり 現

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今さら改めて言うことではないが、戦国秦漢時代の出土文 献が増加するに従い、その中の相当部分が占いに関するもの であることが明らかになっている。 『日書』や『周易』など、 それらの文献に関する研究は既に充分な蓄積があるが、厄介 なのは占いの文献は一定の理論に基づく思想でもあり、現実 の社会の中で実践された宗教現象でもあるため、文献学はも ちろんのこと、 思想学、 歴史学、 宗教学など、 多様なアプロー チを要求される点にある。本書はそれらの文献を「出土術数 文献」の語で呼んだ上で、その総合的研究を行うための基盤 を整えようとするものである。第一部 「解題篇」 と第二部 「論 文篇」から成る。 解題篇は現在までに出土した術数文献を天文、 五行、 蓍亀、 雑 占、 形 法 の 五 部 門 に 区 分 し た 上 で ( 暦 譜 は 紙 幅 の 都 合 で 省 略

術数文献を用いた出土資料研究

 

池澤

 

Book Review A5判 314頁 北海道大学出版会 [本体 7200円 + 税] さ れ て い る ) 、 そ れ ぞ れ の 出 土 状 況、 内 容、 研 究 状 況 に つ い て 解 説 を 加 え た も の で あ る。 天 文 以 下 の 五 つ の 範 疇 は『 漢 書 』 芸文志や四庫分類を参照して設定されたもので、そのことが 示すように、伝世文献中の「術数」という概念を出土資料に 適用することで、一定の範囲の文献をカテゴライズし、その 内部における性格を明瞭にするというのが、著者の基本的方 法論になる。解題篇は占いに関する概観する上では便利この 上ないが、一点、術数文献と他の文献の関係が分かりにくい 点が気になった。もちろん個々の出土状況の中で、いかなる 文献と同出しているのかは触れられているのであるが、全体 的な状況の総括があっても良かったかもしれない。 論文篇は四つの論文から構成される。この部分は、著者の 博士論文『出土術数文献の研究』から『周易』に関する三章 大野裕司著

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を 除 い た も の で 構 成 さ れ て い る。 『 周 易 』 に 関 す る 議 論 も 読 みたかったというのが正直な感想であるが、先ずは四つの論 文をまとめておきたい。 先ず、 第一章 「睡虎地秦簡 ﹃日書﹄ における神霊と時の禁忌」 は、 『 日 書 』 に お け る 神 霊 の 性 格 を 論 じ た も の で あ る。 日 取 り の 吉 凶 の 占 い ( 択 日 ) の 中 で タ ブ ー が 特 定 の 神 霊 に 関 係 し て い る こ と が 多 々 あ る。 例 え ば、 星 ( 星 神。 大 野 氏 は そ れ を 後 世 の 術 数 文 献 の 用 語 を 用 い て「 神 し ん さ つ 煞 」 と 表 現 す る ) の 位 置 や 天 神 の動きが特定の行為の障りになる場合、それらに祭祀を行う ことなく、 専らタブーを守ることが求められる。一方、 祖先 ・ 土 地 神・ 職 能 神 の よ う な 身 近 な 神 々 は 祭 祀 の 対 象 に な る が、 祭祀の日取りには規程があり、それを犯すと逆に災いがもた らされる。非択日部分 (代表的には ﹃日書﹄ 甲種詰篇) の神霊は、 人がタブーを犯すか否かに関係なく、恒常的に災いをもたら す点で、性格が全く異なる。 大野氏はこの状況に対しロバート・マレットの議論を援用 して理解する。マレットの議論は、エドワード・タイラーの ア ニ ミ ズ ム 説 ( 不 可 視 の 霊 魂 に 対 す る 信 仰 が 宗 教 の 起 源 と す る 説 ) に 対 し、 超 常 的 な 力 ( マ ナ ) に 対 す る 畏 敬 の 念 が 宗 教 の 起 源 で あ る と す る も の な の だ が、 天 神 や 星 神 に 関 す る タ ブ ー は、 神 の 力 ( マ ナ ) に 対 す る も の で あ り、 従 っ て タ ブ ー を 侵 犯 す ればマナの力によって災いがもたらされると考えることがで きる。もちろん祖先や職能神のようなより身近な神もマナを 持ち、故に祭祀によってその力を獲得する必要があるが、両 者は畏敬感に程度の差があり、天神や星神は最も畏敬すべき 存在であるので、 交渉不可能とされ、 祭祀の対象にならなかっ たとする。そして、後世の術数文献の神 煞 には凶神だけでな く吉神が存在し、 後者を利用することで利益を得るという 「功 利的な態度」が見られるのに対し、出土術数文献には吉神が 存在せず、それは神霊に対する畏敬の念を中心とする「原始 的な態度に近いもの」であるとする。 第 二 章「 中 国 古 代 の 神 煞 」 は、 第 一 章 で も 扱 っ た 神 煞 を 通 して、 術数文献における「天」の捉え方を論じたものである。 先ず、出土術数文献を後世の術数文献と比較することで、前 者の神 煞 には吉神に相当するものが存在しないことを改めて 確認し、それは宇宙の運行が法則に基づいているという認識 を反映したもので、天 (自然界の法則性) に対する従順、畏敬 の念に基づくものとする。その上で、それを儒家の「天」観 念 ( い わ ゆ る 天 人 相 関 説 ) と 比 較 し、 儒 家 に お い て「 天 」 意 に か な う と は 道 徳 性 を 体 現 す る こ と に 他 な ら な か っ た の に 対 し、出土術数文献は道徳性を求めることは一切ないことを指 摘 す る。 そ れ は 儒 教 の 天 人 相 関 説 が 為 政 者 ( 君 主 ) を 対 象 と

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するものだったからであり、術数的な天道観は身分にかかわ らず、全ての人が共有するものであったと論じる。 中 国 思 想 の 中 で 最 も 重 要 と 言 え る「 天 」 の 思 想 に つ い て、 「 天 」 理 解 は 実 は 一 様 で は な か っ た ―「 天 」 の 理 法 を 道 徳 性 とする理解と、より物理的法則に近いものという理解が併存 していた―という指摘は極めて貴重であり、本書の最大の達 成であると評しても良いであろう。私事であるが、評者も最 近、或る 事 (注) がきっかけで、この二つは基本的には区別した方 が良いという認識に達したところである。その価値を認めた 上で、更なる研究の進展のために幾つかの指摘を行っておき たい。先ず、 この二つの天道観を区別すべきであるとしても、 それは判然と区別できるのか、両者は地続きではなかったの かという問題である。儒家的天道観における道徳性とは目に 見えるものではないから、道徳的な人格を体現するとは、実 際には礼の規程に従うことになろう。礼が何かをやるべき/ やるべきでないと規程するものである以上、それは結果的に 術 数 的 な タ ブ ー と そ れ 程 遠 く な い こ と に な る の で は な い か。 第 二 に、 大 野 氏 の 所 論 に は 実 は マ レ ッ ト の 畏 敬 感 の 理 論 は フィットしないように感じる。というのは、マレットは“超 自 然 的 ” ( 普 通 で な い ) も の に 対 す る 畏 敬 ( awe ) が 宗 教 の 根 源であるとするが、 術数的な天道観は“超自然的”ではなく、 「 自 然 界 に お け る 規 則 的・ 循 環 的 運 行 」 ( 一 九 五 頁 ) の 法 則 を 中心とするものだからである。出土術数文献の 「畏敬」 は “超 自然”ではなく、 “自然”に向けられていたのではないのか。 そ の こ と と 関 係 す る が、 第 三 に、 著 者 は 神 煞 と い う“ 神 霊 ” をどのように理解するのだろうか。それが例えばキリスト教

中国年鑑2015

◎5 月末刊行◎ 中国研究所 編・発行 毎日新聞社 発売 1955 年創刊。現代中国に関 する最新・基本情報満載の、 一国を扱う珍しい年鑑。 B5 判 約 500 頁 価格:18,000 円+税 ◆特集=権力集中を進める 習近平政権 格差の拡大、腐敗の蔓延、 大国外交等、内外で権力に対 する不信が強まる中国。習近 平主席は毛沢東・鄧小平的な カリスマ権力者を目指してい るのか。中国の現状理解に欠 かせない基本情報を提供。 ◆動向 政治、華人社会、対外関係、 経済、対外経済、文化、社会 ◆要覧・統計 国土と自然、人口、国のしく み、軍事、少数民族、国民経 済・国民生活、農業、工業、 資源・エネルギー、交通運 輸、対外経済、知的財産権、 労働、暮らし、社会保障・医 療制度、環境問題、NGO・ NPO、教育、宗教ほか ◆資料 統計公報、重要文献、主要人 事、2014 年日誌ほか ※お問い合わせ・ご予約は 中国研究所事務局まで ================= 一 般 社団法人

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のエホバのように自然から超絶して、意志的に全てを定め得 る存在なら、 “超自然的”と言い得る。しかし、神 煞 が「天」 の 理 法 を 象 徴 す る「 い わ ば 符 号 」 一 七 八 頁 ) で あ る な ら、 全 く性格が異なる。両者を“神霊”という言葉で括ることは妥 当なのだろうか。第四に、出土術数文献の「畏敬」は後代の 術数文献に対しては「原始的」であるかもしれないが、中国 宗教史全体の中では「原始的」とは言えない点である。この 点に関しては、そもそも「原始的」であるとは如何なること なのかという問題があるが、それは措いておくとしても、自 然の中に法則性を見いだして理論化し、それを「畏敬」する 態度は相当に新しいと言えるのではないか。第五に、第一章 において、天神・神 煞 /身近な神/祟る存在を区分したのは 卓見であるが、祭祀するか否かが「畏敬感」の程度により決 まるというのは説明になっていない。というのは、程度の差 であるなら、その程度に見合った祭祀を設ければよいからで ある。祭祀されるかされないかは、 程度ではなく、 質の差 (神 霊としての性格が異なる) なのではないか。最後に、 睡虎地 『日 書 』 詰 篇 の 神 霊 ( 祟 る 存 在 ) を「 畏 敬 感 」 の 視 点 か ら ど の よ うに整理するのか、一言説明が欲しかった。 第 三 章「 ﹃ 日 書 ﹄ に お け る 禹 歩 と 五 画 地 の 出 行 儀 式 」 は、 睡虎地『日書』出邦門篇を始め、著者が「禹歩五画地法」と 呼 ぶ、 出 行 に お け る 儀 礼 を 扱 い、 先 ず、 こ の 儀 礼 が、 禹 歩、 禹 符、 五 画 地 ( 十 字 を 切 る し ぐ さ ) の 要 素 か ら 成 る こ と を 確 認 した上で、その諸要素が後代の資料にどのように継承された のかを明らかにする。もともと禹歩は辟邪法の一つであった が、葛洪が重視したために、道教の中で複雑なものに発展し ていった。そのため一般人向けの唐代の儀礼書では禹歩を省 略 し て、 五 縦 六 横 ( 縦 に 五、 横 に 六 の 十 字 を 切 る ) を 中 心 に し た簡略な儀式を設定し、それが明清時代の速用縦横法という 儀礼に固定化していったとする。その儀礼は基本的にやむを 得ず凶日に出行せざるを得ないときに、邪を祓うために行わ れるものであり、そのため出行の凶日を挙げる占文の後に置 かれるという共通した特徴を有していたのであり、 それは 『日 書』でも同様であると論じられる。 な お、 『 日 書 』 の 出 行 儀 礼 は 工 藤 元 男 氏 が か ね て か ら 研 究 し て お り、 本 誌 で も か つ て 紹 介 し た こ と が あ る (﹃ 東 方 ﹄ 三 七 六 号、 二 〇 一 二 年 六 月 ) 。 本 書 で は 工 藤 説 と の 差 を 四 点 に 要 約 し て い る が ( 二 四 五 ・ 六 頁、 注 ( 67)) 最 も 大 き な 違 い は、 工藤氏が行神祭祀を含めた出行儀礼全体の一部として本儀礼 を位置づけているのに対し、著者は本儀礼は凶日に出行する 場合の辟邪法であり、行神祭祀と別のものと位置づけている ことである。

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第四章「玉女反閉局法について」は、やはり出行の時に辟 邪のために行われる玉女反閉局法 (日本の陰陽道の場合は反閇) という儀礼を論じる。第三章で明らかにしたように、術数文 献における出行儀礼は途中で禹歩の要素が消失し、五縦六横 を中心としたものになっていくという推移があった。 しかし、 宋代以降の文献に見える玉女反閉局法には禹歩が含まれてお り、それを唐代の文献と比べるなら、もともとの玉女反閉局 法は反閉局という陣を描き、そこの中で算木を動かすもので あったのが、後になってそれ以外の要素を取り込んだときに 禹歩も含められたことが明らかにされる。当該儀礼にかかわ る諸文献の比較、校勘も行われており、地味であるが堅実な 研究であると評し得る。 大 野 氏 は 秦 漢 時 代 の 出 土 文 献 と 後 代 の 術 数 文 献 を 関 係 づ け、 時代的な変化を明らかにすることに最も意を注いでおり、 その点は成功していると言えよう。確かに出土資料の理解に 資するために、術数文献自体の性格を明らかにしていくこと は必要であり、今後も研究を更に精緻にさせていくことは望 ましい。但し、出土術数文献をそれ以外の出土資料の中に位 置づけることも同様に必要であり、今後、その方面にも研究 を発展されることを希望する次第である。 【 注 】 評 者 の と こ ろ の 大 学 院 生 で あ る 馬 場 真 理 子 氏 は、 二〇一四年一二月に東京大学大学院人文社会系研究科に提 出した修士論文 『古代日本における ﹁天﹂ の思想』 の中で、 日本における天命思想の受容を論じ、 術数的な天命観を “機 械論的”と呼称した上で、儒教的な天人相関説とは区別す べきことを指摘した。 (いけざわ・まさる   東京大学) 漢 字 ・ 漢 文 指 導 入 門 講 座 ▼ 期 日 : 8月 3日( 月 ) 10時 00分 ~ 15時 10分( 9時 45分 ~ 受 付 ) ▼ 会 場 : 湯 島 聖 堂 内 斯 文 会 館 講 堂 ( 東 京 都 文 京 区 湯 島 1- 4-25 JR御 茶 ノ 水 駅 下 車   徒 歩 2分 、地 下 鉄 千 代 田 線 新 御 茶 ノ 水 駅 下 車   徒 歩 2分 、 地 下 鉄 丸 ノ 内 線 御 茶 ノ 水 駅 下 車   徒 歩 1分 ▼ 主 催 : 全 国 漢 文 教 育 学 会 ▼ 後 援 : 文 京 区 教 育 委 員 会 ( 申 請 中 ) ▼ 資 料 代 : 一 、〇 〇 〇 円 ( 学 生 五 〇 〇 円) ▼ 定 員 : 60名   * メ ー ル に よ り 、 先 着 順 で 受 け 付 け ま す 。当 日 の 申 し 込 み も 可 能 で す 。 ▼ プ ロ グ ラ ム : 開 講 式   挨 拶   安 居 總 子 ( 本 学会 副 会 長 ) / 「 漢 文 訓 読 入門 」 講 師   塚 田勝 郎 ( 筑 波 大 学 附 属 高 等 学 校 ) / ( 昼 食 、 休 憩 ) / 「 漢 文 の 学 習 指 導 」 講 師   菊 池 隆 雄 ( 前 ・ 鶴 見 大 学 ) / 閉 講 式   挨 拶   本 学 会 役 員 ▼ 申 し 込 み 先 : re sid en ce 90 6k ha ki.p lala .or .jp ( 事 務 局 ・ 真 鍋 )・・ * 申 し 込 み は 、 メ ー ル で お 願 い い た し ま す 。 ▼ 問 い 合 せ 先 : 09 0-1 88 8-9 94 3 ( 事 務 局 ・ 真 鍋 )

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