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1. 鉱 山 業 や 製 造 業 さら には 農 林 漁 業 に 至 る 幅 広 い 産 業 を 支 えた 動 力 機 関 発 達 の 歩 み を 物 語 る 近 代 化 産 業 遺 産 群

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■次頁以降の文中凡例 青字:公募で挙がっている遺産 赤字:公募で挙がっていないが、技術史や地域史から見て重要と考えられる遺産 No タイトル 頁 1 鉱山業や製造業さらには農林漁業に至る幅広い産業を支えた動力機関発達の歩みを物語る近代化産業遺産群 1 2 出発点で立ち遅れながらも国産化を達成するまでに発展した工作機械産業の歩みを物語る近代化産業遺産群 3 3 我が国を代表する産業「自動車」の基礎を築いた黎明期の自動車生産・販売の歩みを物語る近代化産業遺産群 5 4 世界に冠たる技術水準まで急速に成長を遂げた戦前の我が国航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群 7 5 産業材としての耐火煉瓦製造の進展と原料開発の歩みを物語る近代化産業遺産群 9 6 先人のベンチャー・スピリットが花開き多岐にわたり発展した化学工業の歩みを物語る近代化産業遺産群 11 7 我が国の建築物近代化と素材産業発展に寄与した板ガラス国産化の歩みを物語る近代化産業遺産群 13 8 我が国の近代土木技術の発展と自立達成に寄与した技術者の情熱と歩みを物語る港湾関連の近代化産業遺産群 15 9 山間地の産業振興を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群 17 10 近代娯楽産業の原点となった旧居留地のレジャー産業の歴史を物語る近代化産業遺産群 19 11 近代の都市に活気と潤いをもたらした大衆レジャー産業の発展を物語る近代化産業遺産群 21 12 陸運と水運の調和点としての可動橋建設の歩みを物語る近代化産業遺産群 23 13 山岳・海峡を克服し全国鉄道網の形成に貢献した土木技術等の発展を物語る近代化産業遺産群 25 14 全国に遍く人と物を運び産業近代化に貢献した鉄道網形成の軌跡を物語る近代化産業遺産群 27 15 北海道に適した建設材料として建造物の近代化に貢献した赤煉瓦製造業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 29 16 道北の過酷な気候を克服して進められた物流インフラ整備と産業振興の歩みを物語る近代化産業遺産群 31 17 道東の果てしない山野を拓いて進められた鉄道等の整備と地域開発の歩みを物語る近代化産業遺産群 33 18 北の物流拠点として近代の北海道経済の成長を支えた函館・小樽の歩みを物語る近代化産業遺産群 35 19 東北地方における陸路・水路のネットワーク整備と都市計画・産業振興の歩みを物語る近代化産業遺産群 37 20 産業革命による商品の大量流通の一翼を担い、人々に夢を与えた百貨店の歩みを物語る近代化産業遺産群 39 21 伝統と革新の融合により独自の食文化を創造した東海地方の食品加工業の発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 41 22 東海地方の河川流域における産業の近代化とそれを支えた水運・治水の歩みを物語る近代化産業遺産群 43 23 「商都から近代経済都市へ」近代産業導入と先進的都市計画による大阪発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 45 24 阪急電鉄を軸とした田園都市構想と生活文化産業展開の歩みを物語る近代化産業遺産群 47 25 松下流革新的経営の展開と大衆消費財たる家電産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 49

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1.鉱山業 や製造 業さら には 農林漁 業に至 る幅広 い産業 を支 えた動 力機関 発達の 歩み を物語 る近代 化産業 遺産 群

蒸気機関、内燃機関、電動機(電気モーター)等の原動機は、多くの産業や輸送に必要不可欠なもの であり、産業の振興を図るうえでは非常に重要な要素である。 幕末から明治初期の工業黎明期にまず用いられたのは、「水車」である。水資源に恵まれ、古来から 水車を動力に用いる術を身につけていたわが国にあって、工場動力として水車が用いられたのも当然の 流れである。しかし、明治20 年頃になると、工場動力の主流は、蒸気に取って代わることとなる。 わが国がはじめて接した蒸気機関は、蒸気船である。薩摩・長州等の諸藩では1853 年のペリー来航 以前から蒸気船、さらには蒸気機関車の研究が進められ、1855 年には薩摩藩島津斎彬によって早くも 国産初の蒸気船とされる「雲行丸」が完成している。また、蒸気機関車も1872 年の新橋・横浜間鉄道 開通にあたりイギリスからの輸入機関車が導入されている。一方、工場用動力としては、明治初期段階 で長崎県高島炭坑や群馬県富岡製糸場などに導入されている。しかし、この時期に蒸気機関を導入した のは、産炭地やその集積地といった好立地を有する工場が中心であり、全国的普及は、同じ蒸気機関を 用いた輸送手段の整備が進んだ明治中期以降となる。なお、1881 年の大阪砲兵工廠を皮切りに、明治 中期以降には蒸気機関の国産化が進み、大型の輸送機器、機械動力を中心に幅広く利用される。 このようにわが国の大量輸送、重厚長大産業に広く浸透した蒸気機関であるが、小型化すると出力低 下が著しいため、小型船舶や自動車、小規模工場などに導入しにくいといった問題があった。これに対 して普及したのが内燃機関、いわゆるエンジンである。わが国に最初に導入された内燃機関は、明治中 期のガスエンジンとされ、当時すでに街灯用として供給されていた都市ガスを用いて、自家発電、工場 用動力として用いられている。また、ガスエンジンは、都市ガス以外にも、石炭や木炭、木くず等から 発生させたガスでも駆動可能なことから、場所を問わず広く普及した。ガスエンジンもまた当初は輸入 品で占められたが、1897 年には東京の池貝鉄工所(現:㈱池貝・㈱池貝ディーゼル)によって石炭ガ スを燃料とするガスエンジンが国産化、以降相次いで横浜船渠、発動機製造㈱、俣野鐵工所等で生産さ れている。ガスエンジンは、後にディーゼル機関が普及するまで第一線で活躍を続け、特に製材所のよ うな小工場においても、水力に代わる動力として重用された。 ガスエンジンに代わって普及したのは石油類を用いる内燃機関である。ガスと比較してタンクでの輸 送・貯蔵が容易な石油類の特長を生かし、「持ち運び可能なエンジン」として小型船舶・自動車等の輸 送機器用、遠隔地等の小型発電用として幅広く利用され、今日に至るまで内燃機関の主流を占めること となる。石油類を用いた内燃機関の国産化を先導したのもまた前出の池貝鉄工所である。1896 年に石 油機関(灯油燃料)、1903 年に焼玉機関*1920 年にエアインジェクション・ディーゼル機関、1926 年に無気噴油ディーゼル機関と、次々に国産初となる製品を開発している。同社の焼玉機関は小型漁船 用機関として広く利用されたほか、船舶用ディーゼル機関は現在でも同社の主力製品となっている。池 貝と時を同じくして開発に力を入れたのが滋賀県の山岡発動機工作所(現:ヤンマーディーゼル)であ る。同社創業者の山岡孫吉は、1921 年、フランス製機関を手本とし、農機での利用を想定した独自改 良を加えた「ヤンマー変量式横型石油発動機」を開発、その後も主に農機向けの小型高効率ディーゼル 機関を生産、世界有数のエンジン・農機メーカーに成長している。また、島根県の佐藤造機(現:三菱 農機)の創業者、佐藤忠次郎は、1931 年に日本古来の燃料である木炭を焼玉の加熱に用いる焼玉機関 を独自開発、その他独創的アイデアで生み出した各種農機とともに、全国的に普及している。なお、今 日ではエンジンの代名詞とも言えるガソリン機関は、自動車用として1907 年に内山駒之助らの手によ って初めて国産化された。実用量産は昭和に入って自動車メーカー各社を中心に行われ、今日では世界 トップレベルの技術を有するわが国の主要産業に成長している。 以上のように小型高効率の内燃機関の開発・普及は、特に製材所や町工場のような小規模な製造事業 所、農機や揚排水施設等の農業分野、漁船等の小型船舶、自動車等他、実に幅広い分野の近代化に大き く貢献したといえる。 *:ガソリンエンジンと同じ、レシプロ内燃機関の一種。始動時に機関上部の「焼玉」を外部から加熱し、燃料に点火する機構 を持ったもの。石油機関より高効率、低価格燃料が利用可能、構造が比較的単純で製造・補修が容易といった特徴を持つ。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 島根県 八 束 郡 東 出 雲町 三 菱 農 機 株 式会社 農 作業 の労 力軽減 に大 き く貢 献し た”サ トー 式 稲麦 こぎ 機”と ”サ トー式炭火焼玉機関” − サトー式稲麦こぎ機 − サトー式炭火焼玉機関 大阪府 大阪市 大 阪 商 工 会 議所 大 阪企 業家 ミュー ジア ム − ヤ ン マー 小 形横 形水 冷 デ ィーゼルエンジンHB形

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2.出発点 で立ち 遅れな がら も国産 化を達 成する までに 発展 した工 作機械 産業の 歩み を物語 る近代 化産業 遺産 群

明治期に国内で生産された工業製品は、その生産初期段階において、主要部品を輸入し、組立を行う、 いわゆるノックダウン生産的な手法がとられたものが多い。これは設計能力はもとより、個々の部品を 要求される精度で製造しうる技術を獲得していなかったためであり、純国産化を目指すうえでは、金属 素材を切削加工し、製品を構成する部品類を製造する高精度の「工作機械」の導入、さらには工作機械 そのものの国産化が不可欠であった。 わが国における工作機械の導入は、1856 年の幕府・長崎造船所が最初とされる。このとき導入され たのは、蒸気船国産のための蒸気機関作成用のオランダ製各種工作機械類であり、このうちの1台であ る竪削盤が現存し、三菱重工長崎造船所に記念物として展示されている。その後薩摩藩・集成館機械工 場、幕府・横須賀製鉄所等で導入された機械類はいずれも輸入品であった。 明治期に入ると、政府の殖産興業政策のもと、官主導で工作機械の国産化が進められ、1871 年に設 立された当時唯一の西洋式機械専門の官営工場であった工部省赤羽工作分局によって、徐々に国産工作 機械が生産されるようになる。 一方、民間による本格的工作機械の生産は、明治中期以降となる。都内で小さな町工場(後の池貝鉄 工株式会社、現:株式会社池貝)を営んでいた池貝庄太郎は、自社工場拡張に際し、工作機械の増設を 検討した。高価な外国製機械を購入するだけの資金を持たない池貝は、工作機械の自製を発案、手持ち の英国製旋盤を手本とし、改良を加えた旋盤を完成させた。なお、1889 年に作成されたこの旋盤は、 昭和初期まで別の町工場で使用したとされ、工作機械としての優秀性を示すものといえる。また、池貝 は1896 年に国産第一号の石油エンジンの製作、1905 年には当時として画期的な池貝式標準旋盤を量産 するなど、日本近代製造業の歴史に名を刻む企業にまで成長している。 工作機械の製造・販売が業として成立するようになるのは、明治後期からである。政府は日露戦争時 の工作機械調達の経験から、民間に対して軍の持つ輸入工作機械に関する情報を提供するなど、工作機 械の増産施策を講じた。 大隈鉄工所(1888 年に大隈麺機商会として創業、現:オークマ株式会社)は、1904 年の日露戦争時、 陸軍からの注文に応じる形で各種旋盤の生産を開始、1918 年には工作機械生産を本格化するとともに、 「OS型普通旋盤」の市販を開始した。同旋盤は、終戦前までの 25 年間に約二千台が販売され、汎用 工作機械の普及に大きく貢献、その後も国内一流の工作機械メーカーであり続けている。 また、竹内鑛業株式会社社長であった竹内明太郎は、炭坑経営の傍ら視察に訪れたパリ万国博におい て機械工業の将来性を見いだした。帰国した明太郎は、事業化構想を立案するが、欧米製品に比肩する 品質が実現するまでは販売をせず、自社鉱山等において研究開発を重ねた後に広く販売を行うことを目 指した。こうした背景から、1909 年、自社炭坑に近く研究に適した静穏な環境を持つ唐津に同社唐津 鐵工所を設置、米国で技術を学んだ新進気鋭の技術者、竹尾年助を所長に迎え、工作機械の開発を開始 する。さらに技術に目処がついた 1916 年には、機械専業メーカー、株式会社唐津鐵工所として独立、 社長に就任した竹尾のもと、第一次大戦の好景気も受け、汎用機械だけでなく、陸海軍の要求する特殊 工作機械など、欧米製に引けをとらない機械類を生産するメーカーに成長、現在も盛業をつづけている。 なお、第一次大戦後の需要低下と海外製品の流入により、国内での工作機械生産力は一時的に減退す る。これに危機感を持った政府は、民間に対して「S形工作機械」と称する各種汎用工作機械の標準設 計図を公開するとともに試作奨励金を交付するなど、さまざまな助成策を施し、生産力と技術水準の向 上を図っている。S形工作機械は、特に鉄道省工場で広く用いられ、当時の大規模な国有化を受けた車 両等の規格化・統一的整備に貢献している。 このようにして第二次大戦前までに一通りの工作機械を国内で製作することが可能となり、各種工業 製品の純国産化の達成に大いに寄与したのである。

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3.我が 国を 代表 する 産 業「自 動車」 の 基礎を 築 いた 黎明 期 の自 動車 生 産・販売 の 歩みを 物語る 近代 化産 業 遺産 群

自動車は、さまざまな工業分野に幅広い裾野を持つ製品の集大成であり、今日の工業国ニッポンを象徴す る代表的製品として揺るぎない地位を築いている。世界水準に追いつき、追い越したのは比較的最近のこと であるが、その基盤となる生産・販売システムの基礎は、すでに戦前に確立されている。 我が国における自動車の歴史は、1900 年前後の欧米車の輸入に始まり、1904 年には早くも山羽虎夫によ って日本初の蒸気自動車「山羽式蒸気自動車」が、さらには1907 年には内山駒之助等のオートモビル商会 によってガソリン自動車「タクリー号」が生産されている。この頃、多数企業が自動車製造に取り組んだが、 大半は量産の域には達していない。この背景には、技術・生産水準の低さだけでなく、道路整備が不十分な 状況下で大手資本が自動車に将来性を見いださなかったこと等があげられる。 第一次大戦後、自動車に強い関心を持ったのは軍部である。軍部の主導で1918 年に制定された「軍用自 動車補助法」は、指定メーカーに対する補助金交付、購入者の補助により、生産と保有を促し、有事に軍が 徴発可能なトラックを確保することを目的としたものである。同法の指定を受けた東京石川島造船所自動車 部(後の石川島自動車製作所)、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造(現:日産自動車)の3 社は、それ ぞれ「スミダ」「TGE」「ダット」を年間数百台程度生産した。同法は、大戦後に自動車生産に参入した造船 各社等が不況で撤退する中、上記3 社による生産基盤維持と技術向上に一定の効果を上げた反面、乗用車の 生産を遅らせる原因ともなった。その後1923 年に発生した関東大震災では、鉄道が復興に長期を要したの に対し、アメリカから緊急輸入されたフォードT 型トラックにバス車体を架装した通称「円太郎バス」が市 民の足として活躍、自動車に対する関心は急速に高まりを見せる。また、1929 年には我が国初の純国産量 産車とされる「スミダA4」が生産、翌30年には鉄道敷設法制定により地方の不採算路線運営の責を負った 鉄道省によって、国鉄バス第1号車として採用されている。しかし、需要拡大によってもたらされたのは、 フォード、GM等米国企業の日本参入であり、結果的に国内企業の成長停滞と貿易収支悪化をもたらすもの となった。こうした状況に危機感を持った商工省は、1931 年に「商工省標準型式自動車」を定めて石川島 自動車製作所(後のヂーゼル自動車工業)、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の指定3 社による共同生 産を支援したが、米国系企業に並ぶまでには至らなかった。1931 年の満州事変を契機に、自動車国産化の 行政主導権は軍部に移ることとなる。1936 年には、陸軍の主導により自動車生産の許可制と許可会社の保 護・助成、外資系企業の排除を旨とする「自動車製造事業法」が制定された。同法の指定を受けた豊田自動 織機製作所(現:トヨタ自動車)、日産自動車、ヂーゼル自動車(現:いすゞ自動車)各社は、戦時色が濃 厚になる中、軍部向けトラックを中心に生産し、終戦を迎えることとなる。 以上のように軍用車至上で進められてきた戦前自動車産業ではあるが、このような中にあって1935 年に は「ダットサン」、その翌年には「トヨダAA型」という大衆向け乗用車の生産が開始されている。 「ダットサン」のルーツは、1914 年に橋本増次郎の設立した快進社自働車工業(後にダット自動車製造) が生産した「ダット(DAT・脱兎)号」(出資者である田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字をとって 命名)にある。ダット自動車製造はその後1931 年に鮎川義介の戸畑鋳物によって買収、同社自動車部にお いて小型乗用車「ダットサン 11 型フェートン」の生産を開始している。その後同社は 1934 年に日産自動 車株式会社へ改称し、事業拡大を図るが、その中で大きな役割を果たしたのがアメリカ人技師、ウイリアム・ ゴーハム(後に帰化し合波武克人)である。鮎川はゴーハム設計の米国式最新生産ラインを導入、1935 年 には年産5千台規模の我が国初の自動車一貫生産ラインを稼働させている。 一方、「トヨダ AA 型」は、豊田喜一郎によって生み出されている。喜一郎は、父佐吉が設立した豊田自 動織機製作所で自動織機の開発・生産を行う一方、繊維産業が下火になるとみるや、自動織機生産で構築し たコンベア生産ラインと工作技術を活かした新たな製品として、自動車に着目する。1933 年に同製作所内 に自動車部を設置(後にトヨタ自動車工業として独立)、1935 年には試作車、翌 36年には量産車である「ト ヨダAA型乗用車」と「同GA型トラック」の生産を開始、翌37 年にトヨタ自動車工業として独立してい る。喜一郎は、大量生産・大量販売が求められる自動車に、必要な物を必要な時に必要なだけ生産する、「ジ ャストインタイム(カンバン)方式」を導入することで効率を追求するとともに、販売面では当時日本GM の販売担当であった神谷正太郎を迎え、フランチャイズ方式による全国ディーラー網形成、販売金融を行う 系列会社の設立など、今日と同様の自動車生産・販売システムを完成させている。なお、日産、トヨタと並 ぶ日本三大自動車メーカーである本田技研工業の創業者、本田宗一郎は、戦前、トヨタの下請け工場の工場

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4.世界 に冠 たる 技 術水 準ま で 急速 に 成長を 遂げ た 戦 前の 我が 国航 空機 産業 の 歩みを 物語る 近代 化産 業 遺産 群

ライト兄弟が世界ではじめて有人動力飛行に成功したのは、1903 年のことである。わが国でも早く から航空機の重要性が認識され、1909 年には陸海軍大臣監督のもと、気球及び飛行機の研究を目的と した「臨時軍用気球研究会」が組織、1910 年には、同研究会の徳川好敏大尉によって、フランスから 輸入された「アンリファルマン」機の国内初飛行が行われている。さらに翌 1911 年には、徳川大尉の 式により国産初の軍用機である「臨時軍用気球研究会式一号(会式一号)」機が作成され、同年開設さ れた日本初の飛行場である所沢飛行場(臨時軍用気球研究会所沢試験場)において飛行に成功している。 しかし、「会式一号」は、改良は施されているとはいうもの、基本的には「アンリファルマン」機の 複製であり、その後生産された機も欧米諸国のコピーやライセンス生産の域を出ず、“国産”と呼ぶに ふさわしいものとは言えない状況が続いた。しかし、このことは後の航空機純国産化に向けた技術的習 熟上、大いに寄与することとなる。 航空機の重要性、さらには国産航空機生産の重要性に早くから着目したのが中島知久平である。海軍 に所属した中島は、ヨーロッパ諸国への視察の経験を通じ、当時主流を占めた大艦巨砲主義に対し、航 空機を中心とした国防の必要性を唱え、海軍機関大尉を退役した1917 年、生家に近い群馬県尾島町(後 に現太田市に移転)に「飛行機研究所」(後に中島飛行機製作所に改称、現:富士重工業)を設立した。 設立当初の数々の失敗を経て 1919 年に完成した「中島式四型」は、同年に開催された飛行競技会にお いてアメリカ製機を抑えて優秀な成績を収めるに至った。この成功により、ようやく国産機の性能が認 められるようになり、「中島式四型」は、陸軍から日本人の設計による民間生産機として初めての受注 することとなる。なお、初期の「中島飛行機製作所」を資金面で支えたのは、当時の日本毛織の社長、 川西清兵衛であった。川西はその後独自に「川西航空」を設立、史上最も秀逸な飛行艇とも称される「二 式大艇」など、独特の技術を持つ企業に発展していった。 国内メーカーでは、中島飛行機のほか、三菱造船(後に三菱航空機へ分社、新三菱重工を経て現:三 菱重工業)や川崎航空機(現:川崎重工業)、石川島飛行機製作所(後に立川飛行機株式会社)等であ る。陸・海軍は、これら国内メーカーに対して高い技術水準を要求した競争試作を行わせることで機体・ エンジンともに“国産化”を推進し、昭和初期には欧米機に引けをとらない、純国産と呼ぶにふさわし い傑作機が多数生み出され、生産するメーカーも 10 社以上を数えるまでに成長した。当時傑作機の中 には、1937 年に東京∼ロンドン間の飛行に成功した「神風号(九七式司令部偵察機)」、第二次大戦前 半に米軍に恐れられた「零式艦上戦闘機(零戦、1940 年海軍制式採用)」、卓越した性能から大戦後に 接収した米軍を驚愕させた「四式戦闘機(疾風、1944 年陸軍制式採用)」、さらにはわが国初の国産ジ ェット機である試作機「橘花」など、多数あげられる。 第二次世界大戦の勃発によって、最高潮に達した日本の航空技術であるが、その後の戦局悪化に伴う 資源・燃料の不足、徴兵による工員の不足、工場の空襲などにより、産業は急速に消耗した。さらに戦 後のGHQによる航空機生産禁止措置により、産業としての歩みをいったん止めることとなる。しかし、 1953 年には、早くも国産航空機の製造が再開され、その設計には戦前の航空機設計に従事した技術者 があたっている。また、純国産の名機として著名なYS11の開発には、戦前の航空業界を支えた多く の技術者が参加、さらに生産にはかつて航空機生産を行っていた企業の流れをくむ各社によって行われ、 戦前に培われた技術が大いに継承・活用されることとなる。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 埼玉県 所沢市 所 沢 航 空 発 祥記念館 所 沢航 空発 祥記念 館の 所蔵物 − 九一式戦闘機 広島県 呉市 呉市 呉 市海 事歴 史科学 館所 蔵物 − 零式艦上戦闘機六二型 岐阜県 各務原市 各務原市 か かみ がは ら航空 宇宙 科学博物館所蔵物 − 陸軍乙式一型偵察機 (サルムソン2A-2)

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5.産業材としての耐火煉瓦製造の進展と原料開発の歩みを物語る近代化産業遺産群

「煉瓦」と言えば、一般的には建築用煉瓦である「赤煉瓦」の知名度が高いが、幕末に我が国で初め て本格的に製造された煉瓦は、鉄製大砲を製造するための反射炉に用いられた「耐火煉瓦」であった。 明治以降の産業近代化の過程で、耐火煉瓦は、製鉄だけではなく製鋼、非鉄金属製造、セメント製造等 における炉材として欠かせないものであり、品質向上と生産量拡大に向けた技術開発に力が注がれ、ま た、耐火煉瓦の原料を得るための鉱山開発が進められた。 幕末の国産耐火煉瓦は、従来から陶磁器や瓦の原料として用いられていた陶土や陶石を原料とし、登 窯等の伝統的技法により製造されたものであり、品質は必ずしも良好とは言えなかった。近代製鉄業の 導入に向けて耐火煉瓦の国産化を企図した工部省は、韮山反射炉等の耐火煉瓦原料となった伊豆梨本の 粘土に着目し、1873 年に同地に登窯による耐火煉瓦工場を建設したが、充分な品質が得られなかった。 そこで、1879 年には、セメント工場である深川工作分局内に耐火煉瓦工場を建設し、新たな原料の研 究や平坦地に設置できる平地窯の導入等が行われた。これら官営工場と、後述する品川白煉瓦で製造さ れた耐火煉瓦は、我が国初の鉄鋼一貫製鉄所として 1874 年に操業を開始した中小坂製鉄所の高炉に使 用されたが、一説には依然として十分な品質が得られなかったとも言われている。 一方、反射炉の研究を行う中で耐火煉瓦に関心を抱いた西村勝三は、民間人として初めてガス発生炉 向けの耐火煉瓦製造を開始し、1884 年には、前記の深川工作分局内の耐火煉瓦工場の払い下げを受け て「伊勢勝白煉瓦製造所」(現:品川白煉瓦㈱)を設立した。西村は、技術改良と全国各地への原料探 索に努め、福島県石城郡赤井村(現:いわき市)に広大な耐火粘土産地を発見し、1895 年に小名浜志 工場を完成させて事業の基礎を確立した。また、近畿地方の各地に原料採取地を確保し、1904 年に大 阪工場を建設した。 また、古くから焼物の産地であり、大多羅反射炉が築造された岡山でも、民間による耐火煉瓦製造の 動きが始まった。岡山県三石で蝋石を利用した石筆製造に従事していた加東忍九郎は、農商務省地質調 査所の技術者から、三石の蝋石が耐火煉瓦の原料として適していることを教えられ、1890 年に三石耐 火煉瓦製造所(現:三石耐火煉瓦㈱)を設立して製造に乗り出した。これが契機となり、三石の周辺に 位置する伊部や片上でも耐火煉瓦製造が始まり、今日まで引き継がれる岡山県の耐火煉瓦製造業の基礎 が確立した。 これらの耐火煉瓦製造をさらに活発化させたのは、鉄鋼国産化に向けた動きであった。1901 年に操 業を開始した官営八幡製鐵所には、耐火煉瓦工場が併設されたが、高品質の製品を製造するため、国内 は言うに及ばず朝鮮・中国にまで原料を求めた。また、大正期に入り、製鉄・製鋼工場が全国各地で設 立されると、高炉内壁に適したクロム煉瓦や、製鋼用平炉向けの珪石煉瓦など、より高品質の耐火煉瓦 の需要が高まり、原料採取地の開発が盛んとなった。 こうした中で、明治後期に我が国最古のクロム鉄鉱床が発見された若松鉱山は、当初は鉱石をアメリカ に輸出していたが、1904 年頃に耐火煉瓦原料としての用途が開かれた後は、全量を国内の耐火煉瓦原料 に振り向け、その過程で自ら耐火煉瓦の製造・販売も行うという特殊な鉱山となった。若松鉱山に代表さ れる中国山地クロム鉱山群は、1925∼45 年の全国シェアのうち 47.5%を占める代表的な産地となり、こ の時期の鉄鋼業の近代化に大きく貢献した。 一方、原料の確保と並行して生産技術の近代化も進められ、成型工程は手打ちから機械へ、乾燥工程 は窯の余熱利用から乾燥炉へ、焼成工程は登窯から角窯やトンネル窯へと徐々に移り変わって行き、そ の一方で、国は耐火煉瓦の JES 規格を定めて粗製濫造を防止したことにより、我が国の耐火煉瓦製造 業界は品質と生産量の向上を果たすこととなった。 このように、我が国の耐火煉瓦製造業は、伝統的な窯業技術を出発点として、官民双方が呼応しつつ 技術改良や原料開発に努力し、その末に国産化・品質向上・生産量向上を果たした。耐火煉瓦は素材製 造業の成否を大きく左右する「縁の下の力持ち」とも言える存在であり、このような近代化の道のりは、 我が国の産業史上において重要な意義を持つものと言える。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 群馬県 甘 楽 郡 下 仁 田町 下 仁 田 町 教 育委員会 中小坂鉄山 中 小 坂鉄 山 (製 鉄所 を 含 む ) 坑道 跡 ・ト ロッ コ 道 跡・焙燃炉跡ほか − − 中小坂鉄山製大火鉢 − 中小坂鉄山製石宮の鉄柱 − 中小坂鉄山製鉄瓶 − 中 小 坂鉄 山 製鉄 のイ ン ゴ ット(なまこ) − 建設当初の輸入煉瓦 − 赤羽製作寮製煉瓦(天城の 刻印あり) 鳥取県 日 野 郡 日 南 町 日南町 若松鉱山(クロム鉄鉱) 跡 ディーゼル発電室 − 工作場 − 火薬庫 − 火薬類取扱所 − コンプレッサ室 − 機械選鉱場 − 破砕場 − 貯鉱場 − 沈殿池 − 受電室 − 救護室 − 鉱務所 − 坑 道 ・ 軌 道 ・ 索 道 鉄 塔 (一部) − 索道起動所 − 索道中継所 − 山神社 − 油脂庫 −

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6.先人のベ ン チャ ー・ スピ リ ット が花 開き 多岐 に わた り発 展し た 化学 工業 の歩 みを 物 語る 近代 化産 業 遺産 群

化学工業は、高度の技術水準が必要とされるだけではなく、例えば、イギリスの産業革命期において、 大量生産が可能となった織物の漂白のために塩素製造が工業化されたように、他工業と深く関連する 「総合産業」という性格を持つ。このため、あらゆる近代工業を同時並行的に育成せざるを得なかった 我が国では、化学工業の育成に多大な苦労を強いられた。 我が国の化学工業の幕開けは、貨幣・紙幣の製造に必要な原材料を製造するため、1873 年に大阪の 造幣局に建設された硫酸工場であった。この工場は、造幣局以外に鉱山等への供給も視野に入れた意欲 的なものであったが、充分な国内需要が得られなかったため、1885 年に民間に払い下げられた。硫酸 製造の本格的な発展は、後述の化学肥料製造の成長まで一時的に停滞した。 一方、明治前期に民間が起業した化学工業として、マッチ・石鹸等の生活必需品の製造があった。特 にマッチは重要な輸出産業へと成長し、輸出港を抱える神戸や、後には姫路(今日では国内製造シェア の約8 割を占める)で盛んに製造された。また、マッチの原料である硫黄の需要が増大し、安田財閥が 近代技術を導入して開発した硫黄山や、三井財閥のもとで電気精錬等の近代技術が導入されたイワオヌ プリ硫黄鉱山など、全国各地で硫黄鉱山が開発された。後年になると、硫黄は化学肥料や医薬品等の製 造にも利用されるようになり、我が国の化学工業を支える重要な原料となった。 明治後期を迎えると、化学肥料製造が化学工業の主力となった。高峰譲吉が英国の化学肥料工場を見 学し、我が国に伝えたことを受けて、1887 年に東京人造肥料会社(現:日産化学㈱)が設立された。 また、東大工学部電気工学科で学び、仙台の三居沢で1902 年に我が国初のカーバイド製造に成功した 藤山常一と、彼の同窓生である野口遵は、曽木電気会社と日本カーバイト商会(後に合併して日本窒素 肥料、現:チッソ㈱及び旭化成㈱)を設立した。 一方、染料・医薬品等の高度な技術を要する製品や、硫安・ソーダ等の工業基礎製品は、なかなか欧 州の大企業に太刀打ちできなかったが、これらの国産化の進展は、第一次世界大戦(1914∼1918)に 伴う欧米製品の輸入停止が大きな転換点となった。政府は、1915 年に「染料医薬品製造奨励法」を交 付して民間企業への財政的支援を行うとともに、「工業所有権戦時法」を制定して海外の特許を消失さ せ、化学製品の国産化を促進した。 染料については、和歌山の由良浅次郎が、我が国で初めてコールタールを原料としたアニリンの製品 化に成功し、1914 年にはこれを製造するためのベンゼン精留装置を建設した(現:本州化学㈱)。以降 はこの手法が主流となり多数の企業が生まれた。医薬品については、政府の支援で各種治療薬の国産化 と新規起業がなされ、また、前出の高峰が発見したジアスターゼとアドレナリンを取り扱う三共(現: 第一三共㈱)など、既存企業もこの時期に事業を拡大した。 政府の支援がなかった工業基礎製品についても、民間が技術改良を進め、輸入停止を背景としてよう やく国産化を軌道に乗せた。ソーダについては、中野友礼による「電解法」の工業化が大きな転換点と なり、この手法によって、関西財界の出資による大阪ソーダ(現:ダイソー㈱)や中野自身による日本 曹達等が設立された。また、前出の野口は、従来から製造していた硫安の消費拡大で経営を軌道に乗せ、 ソーダやアンモニア製造等の新規事業にも進出した。 この頃、化学工業に対して消極的であった財閥系大資本も、政府の支援こそ受けられなかったが、本 格的な進出を開始した。三井財閥は、三池鉱山の石炭を利用してコールタールを蒸留し、これを原料と した染料、爆薬、医薬品の製造を開始し、三井大牟田石炭コンビナートの原型を築いた。また、三井と 三菱は、それぞれ1910 年代にプラスチックの先駆けであるセルロイドの製造を開始し、1919 年には両 者を中心として大合同により大日本セルロイド(現:ダイセル化学工業㈱)が発足した。1920 年代か らは、セルロイド玩具や生地の輸出が拡大し、我が国のセルロイド生産量は世界一となった。 こうして軌道に乗った我が国の化学工業は、第一次大戦後の輸入再開により打撃を受けつつも、技 術・経営の改善と政府の支援によってこれを乗り越え、1930 年代には、電気化学工業と石炭化学工業 とを軸として、化学肥料、医薬品、セルロイド、火薬など多様な分野が花開いた。また、ソーダ等の工 業基礎製品の国産化は、紙・板ガラス・人絹等の製造業に材料を供給し、多様な産業の成長を促進した。 このような発展の影には、化学研究に取組み世界的業績を挙げた高峰や、「技術者企業家」として工 業化に取り組んだ藤山・野口・中野など、専門教育を受けた人材が大きな役割を果たした。また、莫大 な設備投資が必要な化学工業においては、他の産業で力をつけた財閥等の大資本が、ビジネスチャンス を捉えて大胆な投資を行ったことも大きかった。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 北海道 虻 田 郡 倶 知 安町 倶知安町 イワオヌプリ硫黄鉱山 イワオヌプリ硫黄鉱山 − 川 上 郡 弟 子 屈町 硫黄山 − − 硫 黄 山レ スト ハ ウス 内 の 展示物 釧路鉄道跡 − 兵庫県 姫路市 兵庫県 姫 路市 の化 学工業 関連 遺産 ダ イ セル 化学 工 業網 干 異 人館 − 山陽色素第二工場 − − 燐寸(マッチ)

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7.我が国の建築物近代化と素材産業発展に寄与した板ガラス国産化の歩みを物語る近代化産業遺産群

「板ガラス」は、今日の建築物に欠かすことのできない材料であるが、宝飾品や食器等の小さなガラ スと比べて、窓ガラス用の大きく・薄く・平たい板ガラスを作ることは技術的に難しかった。西洋では、 17 世紀に「手吹き円筒法」(円筒状にガラスを吹いて平らに切り広げる方法)が確立され、また、18 世 紀にガラス製造の際に添加するアルカリ源として「ソーダ灰」が用いられるようになったことで、板ガ ラスの大量製造が可能となった。 わが国では、江戸時代にオランダから板ガラスが輸入され、また、幕末の薩摩藩では軍艦の舷窓用に 製造されたが、建築用の板ガラスが一般に広まるまでには至らなかった。ところが、開国と明治維新を 経て洋風建築が急増し、板ガラスの輸入が激増すると、官民双方による板ガラス及びソーダ灰の国産化 の試みが始まった。 最初の洋式ガラス工場は、1873 年に民間が東京の品川に設立した「興業社」であった。明治初期の時 点では、技術的に未熟で輸入品に対抗し得る品質の製品を製造できず、また、当時のわが国では需要が 少なかったこともあり、工場の経営は不安定であった。このため、1876 年に工部省に買収されて「品川 硝子製造所」(後に品川工作分局)となり、さらに 1888 年には再び民間の「品川硝子会社」へと変わり、 1893 年にはついに廃業となった。 また、板ガラスの原料の一つであるソーダ灰は、1881 年に大阪の造幣寮(現:(独)造幣局)と 1885 年に東京・王子の紙幣寮(現:(独)国立印刷局)で製造が開始されたが、この時代に採用された製造技 術は、「ルブラン法」という欧米では既に旧式の技術であったため、輸入品に対抗し得るソーダ灰を製 造できず、明治末期には民間が細々と製造を続けるのみとなった。 このような閉塞状況に一石を投じたのは、岩崎俊彌による 1907 年の旭硝子㈱の創業であった。板ガ ラスの国産化を目指した岩崎は、アメリカから「機械吹き円筒法」(機械送風でガラスを筒状に膨らま せて平らに切り広げる方法)、後には「垂直板引法」(溶かしたガラスを垂直に引き上げる方法)を取り 入れ、ガラスの主原料である珪石や炉の燃料となる石炭の入手に都合の良い北九州に工場を建設した。 折しも第一次世界大戦の勃発により板ガラスの輸入が途絶えたこともあり、経営を軌道に乗せることが できた。さらに戸畑工場では、ソーダ灰の自家生産を行うため、他に先駆けてアンモニア・ソーダ法に よるプラントの操業を開始し、昭和初期には本業の板ガラスを売上額で上回るまで成長した。 また、これに追随して、杉田与三郎がアメリカ企業から「水平板引法」(溶かしたガラスを引き上げ てからローラーで水平に引き出す方法)の特許を取得し、1918 年に日米板硝子社(現:日本板硝子㈱) を設立し、旭硝子と同様に北九州に工場を建設した。当初は苦戦を強いられたが、関東大震災を契機と した需要拡大の機会を捉え、昭和初期には旭硝子と2大勢力を築くまでに成長を遂げた。 このように、板ガラス関連産業の近代化は、当初は試行錯誤の繰り返しであり、決して順調と言えな かったが、後に起業した二大企業が海外の最新技術を意欲的に導入し、互いに切磋琢磨することによっ て品質向上と増産が進み、輸入品に対抗し得る板ガラスの国産化を達成した。また、板ガラス工業の発 展は、ガラスを含む幅広い製造業の基礎工業薬品であるソーダ灰の国産化を促し、我が国の化学工業の 発展にも大きく寄与した。

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8.我が国の近代土木技術 の発展と自立 達成に寄与し た技術者の情熱 と歩みを物語 る港湾関連の 近代化産業遺 産群

明治草創期における近代土木技術の導入はお雇い外国人によってもたらされたものだが、その歩みを 築港の歴史から紐解くならば、オランダ人のファン・ドールンが手がけて失敗に終わった野蒜港(1882 年竣工)、ジョージ・アーノルド・エッセルが計画・設計し、ヨハニス・デ・レーケ工事の指揮・監督 を行った三国港(1885 年竣工)、ローウェンホルスト・ムルデルにより野蒜の失敗を活かして完成され た三角西港(1887 年竣工)の明治三大築港と呼ばれる港湾整備があげられる。これらの港湾整備には、 それぞれ先にあげたオランダ人技術者が深く関わっているが、三国港に建設されたエッセル堤は土砂堆 積と高波対策のために造られた防波堤兼導流堤であり、粗朶沈床工という代表的な西洋技術の導入によ り日本独特の自然特性へ対処していった彼らの挑戦と失敗、その教訓を活かした成功の軌跡をみること ができる。 お雇い外国人の指導によって我が国に近代土木技術が導入された後、日本の技術者による献身的努力 と情熱により我が国の土木技術は驚異的発展を遂げ、世界史上まれにみる早さで技術自立を達成するこ ととなる。しかし、その背景には土木技術の面では、江戸時代の鎖国政策下においても古来からの伝統 と経験を活かして、日本の風土に相応した独自の技術の蓄積がなされていたことを見逃してはならない。 その好例の一つが、在来の左官技術の一つであるたたきの技術を大規模な土木工事等に改良して応用し た「人造石工法」であり、その工法を全国的に普及したのが現愛知県碧南市出身の服部長七である。人 造石工法は明治10 年代から 30 年代にかけて、国産セメントの品質安定と生産量の拡大による価格低下 によるコンクリート工法が普及するまでの過渡期において、全国各地の築港、干拓堤防などの土木工事 に採用されたが、その特徴はコストの安さとセメントに匹敵する強度にあった。人造石工法によって施 工され、現在も残っている代表的な構造物としては、四日市旧港の潮吹き堤防、広島宇品港、名古屋港 護岸などの港湾施設ばかりではなく、弥富市の立田輪中人造石樋門や名古屋市の百々貯木場、明治用水 の頭首工・樋門、高浜市の庄内用水元杁樋等にも残されており、遺構の数の多さが当時の人造石工法の 普及状況を物語っている。服部長七はこの人造石工法により請負師としての地位を確立していき、服部 組という建設請負業の組織を立ち上げて全国数十ヶ所に支店をもつまでに成長するが、彼の国士的性格 が採算を度外視した大工事を請け負うことも多かったため服部組は経営的には厳しい状況が続き、1904 年に彼が突然一切の事業から手を引いて隠棲してしまうと、服部組も解散を余儀なくされる。 その後、日本人技術者による本格的港湾整備は、「近代港湾の父」と言われる廣井勇の出現によって 達成されるが、その代表的功績は日本初のコンクリート製外洋防波堤として名高い小樽港の北防波堤の 完成(1908 年)であり、これを契機として我が国でもセメント工業が定着することとなる。廣井が小 樽港築工に際してまず取り組んだのはコンクリート開発であり、セメントに火山灰を混ぜることで強度 が高く亀裂が生じ難いコンクリートブロックの製造に成功するとともに、コンクリートブロックを斜め に積み重ねていく「スローピングブロック」という独特な工法を採用するなど、独創的な技術の導入を 試みている。廣井は小樽港のみならず函館港の改良工事にも携わるなど北海道全体の港湾建築に力を注 いでおり、さらには東京帝国大学教授として日本の土木工学の礎を築き、多くの土木技術者を世に送り 出すとともに、日本の土木技術を世界的レベルにまで押し上げることに貢献した。しかし、近代的な港 湾建設には膨大な資金と最先端の技術が必要であったことから、その後も官による直営工事が主体とな って進められたため、港湾建設において官から民への技術移転が進み、本格的に民間の土木建設業者の 請負による施工が行われるようになるのは戦後のことである。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 北海道 函館市 函館市 船入澗防波堤 船入澗防波堤 − 小樽市 小樽市 小樽港 小樽港(北防波堤) − 宮城県 東松島市 東松島市 野蒜築港関連遺産 市街地跡 紀功之碑(内務一等属黒澤 敬徳碑) ローラー 野蒜測候所跡 下水道跡(悪水吐暗渠) 新鳴瀬川 新鳴瀬川架橋橋台 突堤 北上運河 東名運河 愛知県 弥富市 弥富市 立田輪中人造石樋門 立田輪中人造石樋門 −

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9.山間地の産業振興を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群

我が国は、「木の文化」とも称されるように、古来から用材として、燃料として、生活の中で木材が 多用されてきた。特に明治期以降の国家近代化に伴う木材需要急伸をうけ、「林業」もより組織的かつ 大規模に行われるようになった。 山林で伐採した木材の搬出作業は、明治 30 年頃まではもっぱら人力(人肩・木馬)や畜力、河川を 利用した流送に頼ったものであった。しかし、こうした搬出手段は、重労働かつ危険性が高く、加えて 大量輸送に適したものではなかった。加えて各地で水力発電用ダム建設が相次ぐと、河川流送も困難な 状況となった。 こうした中で着目されたのが「鉄道」の利用、いわゆる「森林鉄道」である。国内では 1910 年の津 軽森林鉄道(青森)の運行開始を皮切りに、その後戦後にかけて北海道、秋田(米代川流域)、山形(県 北部)、長野(木曽地方)、高知(中芸地方)、宮崎(延岡地方)、鹿児島(屋久島地方)など、全国各地 の林業が盛んな地域の国有林で盛んに導入が進められ、さらに一部の公有林、民有林にも広まっていっ た。森林鉄道は、旅客の輸送を目的とした公共交通機関である通常の鉄道と異なり、本来木材搬出を目 的に敷設される産業施設であり、用いられる車両は純粋な産業用輸送機械である。しかし、山間奥部の 林業集落生活者にとっては、日常の足として、また生活物資の輸送手段としても親しまれ、木材運搬以 外にも盛んに利用された。 大半の森林鉄道では、急カーブや急勾配に対応可能であり、かつ安価に建設するため、線路幅が 762mm のいわゆる“ナローゲージ”が採用された。これにより、用いられる車両も全般的に小型であ り、小さな機関車が木材を満載した運材車を牽引する独特の鉄道風景が全国各地で見られた。機関車は、 戦前においては主にドイツ、アメリカ等から輸入された蒸気機関車が用いられた。その後、当時の実業 家で、「軽便王」とも称された雨宮敬次郎が創設した雨宮製作所等によって国産化されるようになる。 雨宮製作所は、恐慌のあおりを受けて昭和初期には解散するが、その技術は後進メーカーによって引き 継がれ、蒸気に代わってガソリン式の内燃機関車の導入も進められた。なお、戦後に普及したディーゼ ル式内燃機関車の大半は、酒井工作所、加藤製作所、立山重工業、協三工業(社名は当時)等の国内メ ーカーで製造されたが、これらの一部は現在でも建設作業機械メーカーとして盛業を続けている。 蒸気機関車の中には、第二次大戦時の燃料事情悪化の際に森林鉄道ならではとも言える薪が燃料とし て用いられたものがある。これら機関車は、薪を使用することで煙突から多量に発生する火の粉の飛散 による火災を防止するため、ダイヤモンドスタック等と呼ばれるユーモラスな形状の煙突に改造され、 その姿は今日でも北海道遠軽町の森林公園いこいの森で保存される雨宮 21 号、長野県上松町の林野庁 赤沢自然休養林内で保存されるボールドウィン号等で見ることができる。一方、貨客車についても、木 材輸送用の貨車だけではなく乗客を運ぶ一般客車、さらに一部路線では学童の通学専用客車、理髪車な ど、林業従事者とその家族の生活に必要なユニークなものも存在した。 戦後の拡大造林期にかけて全国各地で路線網は拡大、最盛期には国有林だけで1 万 kmに達する総延 長を誇った森林鉄道であるが、昭和 30 年代以降はトラック輸送の発達、ダム建設による水没(車道林 道への付け替え)等により減少の一途をたどり、昭和50 年頃の木曽を最後に実質的に全廃されている。 廃止に伴い、活躍した車両はスクラップにされたり、放置されたりするものが多かった。その一方で、 山間地の産業と生活に密着した愛すべき鉄道遺産として、保存・復元された車両も少なくない。特に保 存車両の一部には、熱心な行政機関や愛好家団体等により動態保存されているものもみられる。 また、路線についても、車道林道への改築や荒廃によって原形をとどめないものが大半であるが、一 部では線路やトンネル、橋梁等の構造物が今日まで保存され、登山道・遊歩道等として活用されている ものがあるほか、木曽の赤沢自然休養林では、当時の路線を活用した動態保存運転が行われ、現在にそ の姿をとどめている。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 北海道 紋 別 郡 遠 軽 町 遠軽町 森 林 鉄 道 蒸 気 機 関 車 「雨宮21号」 森 林 鉄道 雨宮 2 1号 蒸 気 機関車 − 山形県 最 上 郡 真 室 川町 山形県 真室川森林鉄道 真室川森林鉄道 − 長野県 木 曽 郡 上 松 町 上松町 木 曽の 森林 鉄道関 連遺 産 赤沢森林鉄道 − 木 曽 郡 木 曽 町 − 森 林 鉄 道 機 関 車 C-4 型 135 − 森 林 鉄 道 機 関 車 C-5 型 98 京都府 南丹市 南丹市 京 都大 学芦 生研究 林軌 道 京都大学芦生研究林軌道 調査中 高知県 安 芸 郡 安 田 町 中 芸 地 区 森 林 鉄 道 遺 産 を 保 存 ・ 活 用する会 魚梁瀬森林鉄道 オオムカエずい道 − 明神口橋 − 釜ケ谷橋 − 安 芸 郡 馬 路 村 五味ずい道 − 河口ずい道 − 安 芸 郡 北 川 村 堀ケ生橋 − 二股橋 − 小島影橋 − 安 芸 郡 田 野 町 立岡高架・奈半利川橋 − 安 芸 郡 半 利 町 三光院ずい道 − 鹿児島県 屋久島町 鹿児島県 安房森林鉄道 安房森林鉄道 −

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10.近代娯楽産業の原点となった旧居留地のレジャー産業の歴史を物語る近代化産業遺産群

我が国における外国文化の導入は外国人居留地から始まった。居留地の周辺には外国人向けのレジャ ー施設が設置され、居留地の撤廃、外国人との雑居の進展とともに日本人の間にも浸透していく。 日本初の近代的競馬場が建設されたのは 1862 年に発生した生麦事件が発端であった。薩摩藩の行列 を乱した英国人商人らの一行が乗馬したままであったため、1人が斬殺、2人が傷を負ったという事件 である。報復として薩摩はイギリス艦の砲撃を受け、政府は賠償金を支払うこととなった。この事件を きっかけに、外国人居留地の住民は幕府に対し、乗馬や競馬のできる土地を提供するよう要望した。そ の結果、1866 年に我が国初の近代競馬場である横濱競馬場が建設された。当初、横濱競馬場では外国 人だけ組織されたレース・クラブによって競馬が行われていたため、日本人とは無縁の世界であったが、 レース・クラブの再編により、1875 年には日本人もクラブの会員になるようになった。同年、明治天 皇が初めてレースを観戦し、その後も毎年のように足を運び、1905 年には明治天皇にちなんで「皇帝 陛下御賞盃」が創設された。これは現在の天皇賞の前身となっている。 一方、神戸の外国人居留地の欧米人により別荘地として開発された六甲山では、1901 年にはイギリ スの貿易商が私財を投じて六甲山上に日本で最初のゴルフコースである六甲山ゴルフ場を造った。2 年 後には会員制の倶楽部を組織し、神戸ゴルフ倶楽部が誕生した。当初の会員数は120 人ほどで、ほとん どが外国人であったが、地元はもとより、横浜や長崎、さらには香港や上海からもゴルフと避暑を求め て外国人がやってくるようになるなど、我が国初というだけでなく、周辺アジアの国々を含め、モデル のゴルフ場となった。 長崎では、1899 年の居留地制度撤廃を受け、外国人と日本人の社交クラブとして長崎内外倶楽部が 発会し、1903 年にクラブの集会場として、内外倶楽部が建てられた。この建物は、ビリヤード室、バ ー、食堂、読書室を備えており、「日本人と外国人の間で社交を促進し、あらゆる面で同じ制度に基づ いて、友好関係とレクリエーションを促進する」というクラブの目的を果たす場として、我が国の近代 化に多大な貢献を残した内外の知名士会員により華やかな運営がなされた。 こうして外国人によってもたらされた娯楽は、居留地周辺の住民や一部の特権階級の日本人には紹介 されたものの、一般大衆へ浸透するにはさらなる時間の経過を待たねばならなかった。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 長崎県 長崎市 長崎市 長 崎市 内の 旧居留 地時 代 のレ ジャ ー産業 関連 遺産 国 指 定史 跡 出島 和蘭 商 館 跡 内 建造 物 旧 長崎 内 外 クラブ − 「 わ が国 ボ ウリ ング 発 祥 の地」の碑 −

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11.近代の都市に活気と潤いをもたらした大衆レジャー産業の発展を物語る近代化産業遺産群

我が国の都市における大衆レジャーの起源は、近世以前の娯楽が近代化・西洋化の波を受けて形を変 えたものと、殖産興業を目的に明治期に各地で開催された博覧会をきっかけに誕生したものとがある。 これらは、大正から昭和にかけて、農業から工業へと我が国の産業構造の変換と都市化の進行とともに、 現在の大衆レジャーの原型を整えていく。資本主義の発達を支えてきた交通機関の発達は、一方で人口 の都市集中や都市の住環境の悪化を招き、大都市郊外では住宅地開発が行われた。都市化に伴う中産階 級の出現は、週休制の生活リズムを定着させ、余暇生活に変化をもたらした。この時代から、動物園や 遊園地、映画、演劇といった大衆レジャーが大きく発展・普及し、都市の生活文化が形成されていった。 我が国の最初期の遊園地は、近世以前の庭園や郊外の自然を背景としており。我が国初の遊園地は、 江戸時代の植物園である花屋敷を前身として 1886 年に開園した浅草花屋敷だと言われる。利用者は主 に上流階級であったが、徐々に、庶民向けの動物や見世物の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。 また、我が国の近代動物園は、内国勧業博覧会をきっかけとして 1882 年に開園した大日本帝国農商 務省博物館付属動物園(現:上野動物園)であった。これに続いて、大阪や名古屋においても、内国勧 業博覧会や地方の博覧会の会場建設を契機に開園した公園を利用する形で、1903 年に京都市動物園、 1915 年に天王寺動物園、1918 年に鶴舞公園附属動物園(1937 年に移転し東山動物園となる)がそれ ぞれ開園した。こうした公立の動物園は、文化センター的な役割を持った近代都市における社会教育施 設として建設され、利用者は大人が中心であった。しかし、珍しい外国産動物の展示の増加により大き く人気を集めた動物園は、次第に遊園地の一種として見なされるようになっていく。 こうした遊園地や動物園の盛況ぶりに着目した電鉄資本は、沿線の顧客開拓の一環として郊外に遊園 地と動物園が一体となったレジャー施設を次々と開設した。その最初期のものとして、京阪−香里園 (1910 年、1923 年以降に移転し枚方パークとなる)や阪急−箕面動物園(1910 年、後に宝塚に移転) が挙げられ、その後、阪神、近鉄、名鉄、東急、小田急、京成、西鉄が、競い合うように子供や家族を ターゲットにした大衆娯楽的な遊園地や動物園を建設した。 演劇の分野では、江戸時代に大衆演劇として完成された歌舞伎が、明治における急速な近代化の中で 大きく影響を受けた。「西欧に引けをとらない我が国の代表的な舞台芸術を持つべし」という明治政府 の意識から、歌舞伎を西洋風に改良しようとする「演劇改良運動」が生まれた。その中心となったのは 歌舞伎座(1889 年)であるが、この運動は失敗に終わり、歌舞伎は古典芸能として存続することとり、 各地の芝居小屋が衰退した。こうした政府の動きに対し、1911 年、渋沢栄一等の実業家を中心に純洋 風の演劇を行う帝国劇場を開場させた。明治初期に鹿鳴館等において知識階級や上流家族階級の人々が 楽しんだ西洋音楽の演奏会も、帝国劇場等に場所を移し、純洋風の演劇や音楽文化の主導権は資本家に 移っていった。 そして、大正時代前後に洋風演劇や音楽の大衆化がより一層進むと、従来の芝居小屋に代わる舞台と して「公会堂」が利用されるようになった。公会堂は、当初は集会場としての役割が中心の講堂形式の 施設であったが、都市生活の幅広い楽しみを求める市民の声が公共施設にも求められるようになり、多 目的公共ホールとしての機能が重視されるようになった。現存する代表的な公会堂築として、1903 年 に我が国初の公会堂として建築された大阪市中央公会堂や、1928 年に開場すると瞬く間に舞台や音楽 公演の中心的存在となった日比谷公会堂などが挙げられる。 また、1900 年前後から本格的な公開が始まった映画も、同じく大正期のころには大衆娯楽の主流と して躍り出た。当初は小劇場や演芸場が主な上映開場であったが、1903 年に初の映画常設館である浅 草電気館が開館して以降、映画館は増加の一途をたどった。 このような都市型レジャーの普及は、国力の高まりに呼応して大衆の生活が豊かになり、その市場に 向けた新たなビジネスとして、多様な創意工夫により娯楽産業が大きく発展した様子を物語っている。 「近代化」と言うと、とかく「富国強兵・殖産興業」という言葉に代表される国家レベルの事業・産業 に目が行きがちであるが、都市型レジャーの普及に象徴される「民力」の高まりも、紛れもなく近代化 の1 ページを飾る重要な出来事と言える。

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12.陸運と水運の調和点としての可動橋建設の歩みを物語る近代化産業遺産群

「可動橋」は、架橋により水上交通を妨げないよう、一部または全体が移動する構造の橋梁のことで あり、我が国では近代以降に本格的に建設されるようになった。そもそも江戸時代には、防衛等の理由 から架橋が制限されており、また、架橋されていても当時の小型船舶は橋桁の下を通ることができたた め、可動橋建設の必要がなかった。しかし、近代に入り架橋制限が撤廃され、鉄道や道路の整備に伴い 橋梁建設が急がれるようになり、また、河川船舶の大型化が進展すると、各地で陸運と水運の両立が求 められ、その技術的解決策として可動橋の建設が始まった。 近代以降の可動橋建設の背景は上記のように全国共通であるが、橋梁の構造や形状は地域特性を踏ま えて選択されるものであり、多様なバリエーションが存在した。例えば、現存する近代の可動橋の構造 は、橋桁が跳ね上がる「跳開橋」(長浜大橋・勝鬨橋・末広橋梁・名古屋港跳上橋)、橋桁が旋回する「旋 回橋」(和田橋梁・的屋橋)、橋桁が水平に上下動する「昇開橋」(筑後川昇開橋)の3 種類があり、ま た、構造が同じであってもデザイン等にそれぞれ個性が見られる。 現存最古の可動橋は、1899 年に竣工した和田旋回橋である。この橋梁は山陽鉄道(現:JR山陽本 線)の一部として建設され、兵庫運河を跨ぐために可動橋が採用された。今日では現役唯一の鉄道旋回 橋となっており、橋梁は固定されてしまったが、橋梁上を電車が通過している。 1927 年に竣工した名古屋港跳上橋と、1931 年に竣工した四日市港末広橋梁は、ともに伊勢湾の港湾 運河に架橋された鉄道跳開橋である。四日市港と名古屋港は、明治後期に相次いで開港場(国際貿易港) となり、港湾施設の整備が急がれ、その一環として鉄道可動橋が建設された。これらの橋梁は、渡米し て架橋技術を身につけた山本卯太郎の設計によるものであり、我が国における可動橋技術の導入を物語 る事例として、技術史上重要なものである。また、末広橋梁は現役唯一の鉄道跳開橋であり、開閉時間 になると係員が自転車で駆けつける姿が名物となっている。 1931 年に竣工した香川県の的屋橋は、現存唯一の道路旋回橋である。・・・(以下、香川県にから情 報収集中) 1935 年に竣工した愛媛県の長浜大橋は、現存する道路可動橋としては日本最古のものである。橋梁 がある長浜は、肱川の河口に位置する海運と河川水運の中継拠点であり、肱川を利用して木材や生活物 資が輸送されていた。東岸の市街地と西岸の集落との間の交通を改善するために架橋が計画され、水運 を阻害しない可動橋が計画された。当時としては珍しい可動橋の建設は一般にはなかなか理解されず、 実現までは多大な苦労があったが、完成後はその色から「赤橋」と呼ばれて親しまれ、今なお開閉が行 われており、地域のシンボルとなっている。 1940 年に竣工した東京の勝鬨橋は、同年の「皇紀2600 年」を記念して計画された国際博覧会(戦争 激化等の理由で実現せず)へのアクセス道路の一部であったため、格式あるデザインかつ日本の技術力 を示すことができる橋が求められた。また、当時の隅田川には依然として多数の船舶が航行していたた め、可動橋が採用された。橋梁の設計・施工は全て日本人の手で行われ、当時の橋梁技術の粋が投入さ れ、「東洋一の可動橋」と呼ばれる程の評判となった。今日は開かずの橋となってしまったが、それで も東京を象徴する橋梁の一つとして存在感を放ち続けている。 1935年に竣工した筑後川昇開橋は、旧国鉄佐賀線の一部として建設された現存最古の昇降橋である。 橋梁の位置が筑後川の河口に近いため有明海の干満の影響が大きく、しかも、当時は筑後川の船運が盛 んで大型船の往来が多かったため、橋梁の中央部分が大きく昇降する構造が採用された。竣工後は、隣 接する大川で生産された家具や生活物資の輸送に大きく貢献した。また、その偉容は「東洋一の可動式 鉄橋」と讃えられ、1937 年のパリ万博には模型が出展された。鉄道の廃止後も橋梁は保存され、昇降 は行われなくなったものの歩道橋として供用されている。 このように、近代に全国各地で建設された可動橋は、陸運と水運双方の輸送力向上に大きく貢献し、 各地域の開発や産業発展を支えた。また、その印象的な姿から地域のシンボルと目され、竣工当時から 今日まで愛され続けているものも数多い。

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都道府県 市区町村 申請者 名称 (不動産) (動産) 兵庫県 神戸市 兵庫県 和田旋回橋 和田旋回橋 −

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