ふだん着の酒井先生
重 松 玲 子 酒井先生が亡くなられて早くも九年の月日が流 れてしまいました. 学者としての先生の業績は誰 もがよく知るところです. そこで， ここには小学 生時代に初めて先生の存在を意識し，大学時代に 弟子入りしてから先生のおそばにおいて戴いて， ふとした折に垣間見た“ふだん着の顔" をご紹介 したいと思います. 拙文が先生を忍ぶ縁となれば， と筆を執りました . 1. カニ愛づる姫君先生と遭う 「附属鎌倉小中学校ノインザーイ! バンザーイ 1 パンザ ーイ!J
右手を高々と挙げて朝礼台 の上に立って居られ た先生のお姿が今でも日に焼き付いています. そ れは，運動会の閉会式での出来事でした .r
片手 でパンザイ ワ」 と，小学生だ った 私はびっくりし てしまいました. その晩母から，その先生は世界 的に有名なカニ博士であることを聞き，またまた びっくりしてしまいました. 私の仲良しのカニが， 研究の対象になるなんて考えたこともなか ったか らです. 当時，隣家との境の石垣の隙間という隙 聞にはアカテガ、ニがたくさん棲み着いており，雨 上がりの水たまりで脱皮していたり ，時には開け 放した家の仲を横切って行くものもいたくらいで した. 割り箸一本と缶カラひとつを持って，石垣 の隙間で踏ん張るカニと駆け引きをし，ひょいひょ いと掻き出してあっと言う聞に缶を一杯にしてし まう特技を身につけました. 思い返すと，幼稚園 時代から私は通園途中の片瀬川 (境)11) の河口で カニのダンスに見とれて いた り，道を走るカニを 追いかけていたりして遅刻し，r
お祈りを百回し てマリア様におあやまりなさし、」とマス ールに 叱 られることもありました.Reiko SHIGEMATSU・Dr. Sakai as H e is
横浜国立大学の附属鎌倉小学校に通うようにな っ ても，相変わ らずカ ニに親しむ私を，母は，堤中 納言物語の『虫愛づる姫君』になぞらえて ，
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カ ニ愛づる姫君』と呼んでいました. そんな訳です から，酒井先生に弟子入りする下地 は十分にあっ た訳です. 家の周辺も様子が変わりカニが姿を消 して久しくなりますが，今年，た った一匹ですが 立派な赤いハサミを持ったアカテガ ニを石垣に見 つけ， 目が合った途端，思わず「おひさしぶりで す」と声をかけてしまいました.2.
えっ お鰻頭でご飯を食べるのですか? 大学受験の年になり，友人の「まさかあなたが 生物を選ぶとは恩わなかった」の言葉に ，r
私の 本当の姿を知らないのよ」とばかり，兎に角生物 科 に入学しました. 高校時代，放課後連日のよう にフェンシングやモダンダンスの練習に励む私の 周辺には，カニが顔を出さなかったようです. 入 学した当時酒井先生は「陛下が葉山にいらっしゃ る」とか「御進講の準備がある 」など日々大変お 忙し し個人的にお話しする機会はめったにあり ませ んでした. 初めてゆっくりお話しを聞かせて いただいたのは，臨海実習中のある夜のことでし た. 夕方真鶴にいらした先生は私た ちと夕飯を共 にされることになり，みんなで、食卓につきました. 『酒井先生』が同席されるのは初めてのことなの でなんとなく緊張していました. 先生の隣に座る のはなんだか畏れ多いことのようで，まるで椅子 取りゲ ーム のようにみんなでゴチャゴチャ動き回っ ていましたが，や っと落ち着 いて食事が始まりま した . にこにこしながらこの様子を見ていらした 先生は，r
おみやげだよ」とお鰻頭の包みを出さ れ， さっさと開いて一つつまんで二つに割ると ， ご飯の上に載せました. 何をする のかしらと思っ て見ていますと，さらにお箸で割 ってご飯と 一緒に口へ運ばれるではありませんか. ちょうど真向 かいに座ってすっかり見とれていた私ににっこり と笑いかけ .
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おいしいよ . や ってごらん 」 と一 言. 実においしそうに食べ続けながら，岐阜の金 蝶鰻頭，名古屋の納屋橋鰻頭などなどと ，全国の お国自慢の鰻頭談議が繰り広げられました. また， 岡田要先生と ， お鰻頭の食べ競べをして負けたと いう話などもされ，その時岡田先生が「酒井さん， お鰻頭が首まで詰まってもう下を向けませんよ 」 とおっしゃったとか.150
個ぐ らい食べたかなあ」 と思い出すようにおっしゃいました. 薄暗 い電気 の下， アジの干物とみそ汁と漬物ぐらいの食卓も， 先生のお陰でとても楽しくなりました. 子供時代 には嫌いだったお鰻頭ですが，今では名古屋を通 れば納屋橋鰻頭を 買 い，大垣の友人には鰻頭談議 に出て来た金蝶鰻頭を送 ってもらい などするよう になりました . お鰻頭を口にする度に ， この時の 先生の楽しそうなお顔が目に浮かびます. そういえば， お鰻頭にはもう 一つ 思い出があり ます. ある 雪の降った日に交通機関が乱れ，講義 が始まる時間になっても 二三人しか来ていないこ とがあ りまし た. 暖房もない教室で待っ ています と.1
教官室へいらっしゃい」と 酒井先生が呼ん で ください ました. 薬缶の載 ったスト ーブの回 り に座るとす ぐに.1
お鰻頭を買っていらっしゃいJ
と助手の先生 にお金を渡し，話しを始めると間も なく学校の門前の旭屋さん の包みが机 に載りまし た. 包みを開けての第一声 は.1
豆大福じゃだめ だよ . お鰻頭じゃなくちゃ 」でした. 先生がお鰻 頭にこだわる訳は .1
以前はいちごのショ ー トケ ー キが好きだったけれど，最近は年中い ちごがある から季節感が無くなった . それな らお鰻頭の方が よっぽど良しリからなのだそうです. しばらくご無沙汰していた旭屋さんのお鰻頭は， 先頃久しぶりに買いに行きましたら，さすがに明 治三十八年創業の伝統を 今 に伝えるだけあ って昔 懐かしい昧でし た. 実は豆大福の方が人気があ っ て，午前中に売り切れてしまうのですが…. 右上の写真は，三浦半島の真名瀬に漁港を造る ため の埋立て工事が行われる ので， その前に生物 の調査，採集をしていた期間のある 日の スナ ップ です. この 日のハイライ 卜は，ハナガサウ オをお 供に連れたスナイロクラゲで，なかなか立派なも のでした. 水槽に額をくっつけ ， 体をねじり， 「私の写真はう まいと評判なんだよ 」とカメ ラを 握り締めて大激写中のーシ ー ンです. 真ん 中のカ メラを構えてい らっしゃるのが先生，一番左の端 が私です. 先生も私たちも若かった日の記録です. 調査， 採集そして激写 ・真名瀬にて(1964
年) 中央酒井先生，左端筆者 それか ら約半年後の雪の夜， 国大の鎌倉の校舎 が放火に遭 って二棟が焼け落ちると 言 う大変なこ とが起こりました . 夜中の二時に，当時植物学教 室の若手の教官だった宮脇昭先生からの「校舎が 燃えています から来てく ださい リ と 言 う緊急の 電話で起 こされ，や っと たどり 着いたころには火 は衰えていましたが，あの宇治の平等院の鳳且堂 のような造りの校舎はその形を止める事なく黒焦 げの柱がドロドロに汚れて煉 って いました. 三棟 めにあった生物科は難を逃れて焼け残りましたが， やっと運び出した標本の，煤と泥にまみれたのを， 放水で グチャグ チャに解けた泥水 の中にしゃがん で冷たい水で洗うのは，結構つらいものがありま した. 特に 驚くべき ことは，生物教室の後 ろが小 高くなっており ，七八段の階段を上ると生物科 の 四年生に与えられた部屋と寮が続いていたのです が，何と ， その階段の上に，先生の部屋にあった 液浸標本がぎ っしり詰まったロ ッカ ーがデーンと 立っていたのです. 元に戻そうとしても， 二三人 の力ではびくともしませんでした . どさくさ に紛 れて行方不明になっていた鍵をやっと見つけて開 け，おびただしい数の標本を一旦出してからまた 元の場所に治め ました. 先生がお っしゃるには「ここに被害が及ばなかったのは，私が毎日八幡 様にお祈りをしていたので御加護があったのだ」 と. いつも「旅行に行った ら，神社仏閣をひとつ 止めても海へ行っていらっしゃしリと私たちにおっ しゃっていた人とは思えない，信心深いところを 見せられました. 確かに鶴岡八幡宮はすぐ隣です が，誰も先生の祈る姿を見たことがありませんで した. 階段の上に鎮座していたロッカーのことは， 「陛下( 昭和天皇) からお預かりした大切な標本 だから ，何としても助けなければならないと思っ て必死の力を振り絞って担ぎあげましたよ. これ が本当の火事場の馬鹿力っていうんでしょうね
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と真顔でおっしゃるので，I
一人でかつぎ上げる なんですごい IJ とみんな本気で感心しました . ところが最近，当時寮生だった人から 「あのとき 酒井先生に起こされて，天皇陛下の標本だから何 が何でも運び出して欲しいと頼まれて大勢で担い だけれど，なにしろ重いし 雪で滑 るし大変だった よ. 酒井先生には参っちゃったな」と，昔を思い 出して言 うのを耳にしたのです. 先生の言葉をすっ かり信じていたのに ……. 酒井先生には普段の様 子からは伺い知れないこんな 一面もあったのです. 3. 喜寿のお祝い 先生が喜寿 を迎えられるというので，生物科の 同窓会としてお祝 いの会を催すことになり ，各年 度の代表が集まって相談が始まりました. 私にも 幹事のお声がかかり， 三人の先輩と共にお宅へ伺 うと ，先生は外でのお仕事から身を引かれご自宅 にいらしたこともあったからか，先輩方と昔話に 花を咲かせ，終始にこにこして居られました . さて， いよいよその日の目的であるお祝いの品 のご希望を伺う段になると，I
そんな心配はしな くて いいですよ . 安楽椅子なんかくれでも座って いる暇なんてありませんし，中には，“赤いちゃ んちゃんこ" や“帽子" をかぶされて喜んでいる人 もいるけれど， “赤いちゃんちゃんこ" なんて絶 対着 ませんからね」と頑張るのでその日は結局聞 き出せませんでした. 帰り道で，先輩方から「先 生はああおっしゃるけれど女の人ならきっと打ち 解けて話すから 一人で伺って聞いて来てくださしリ と大変な役を仰付かり ， 日を改めて今度は一人で 先生のお宅にお邪魔し，初めて世間話と 言 うもの をしました . 多くの知人の最近の消息などを話し ているうちにすっかり打ち解けられ，学者として の第一歩を踏み出した記念すべき日に ，下回へ向 かつて船出する時に港へ見送りに来てくれた姉妹 からプレゼントをもらったとか，家内にはナイショ ダヨ ! といたづら っぽく目 配せしながら話してく ださいました. 考古学が好きだ ったがカ ニのは さ みが可愛いからカニの研究の道に進んだとか，新 種のカニの話， カニの学名の話，教授時代の話， 等，次から次へとお話しが繰り出され，大変ごき げんよく時間が過ぎてゆきました. 途中か ら奥様 も加わり，またひとしきり昔話に花が咲いて十年 余りの年月が一気 に縮ま ってし まいました. 目的 を果たさなければならない のに ，今度はスケ ッチ を次々と展げて「このカニの学名は，酒井 の日本 とつけてくれた ので天皇陛下より偉くな っちゃっ た困ったね」 と，ますますご機嫌良 くカ ニの話が 続きました. 頃合いを見計らっていよいよ例 のお 祝いの品のことを切り出すと ，I
実はね，顕微鏡 が欲しいんですよ . 今使っているのは，外したレ ンズを失 ってしま って欲し い倍率が作れない ので， レンズを工夫しているんだけれどだんだん見えな くなって来てね，苦労していますよ. 心の目で見 て描いていますよ 」 と小さな声でおっしゃいまし た. そういえば先生の顕微鏡 って… …と，辺 りを 見回すと，今では博物館でしか見られないような 年代物の真総色の顕微鏡が目に入りました. これ は飾 つであるのだとばかり思 って いましたので， まだ使 っていると聞いて少々驚きました. この顕 微鏡は， オリン パ スの国産第二号だそうで，先生 が入手した由来なども聞かせてくださいました. それは，ある日，知らない人から 「科学雑誌で酒 井と 言 う人が顕微鏡を欲しがっていると 言 う記事 を読んだので譲りたい」 という連絡があり，広告 を出した覚えはなかったけれど買 ったのだそうで す. この顕微鏡の元の持ち主は研究者ではないの ですが，平和になれば顕微鏡をのぞく日も来るか もしれないと思 って， 天皇陛下か らの御下賜金で 買ったものなのだそうです. 戦後間もなくから 三 十数年大切に使 って来られ た訳ですが， もう限界 と感じていら っしゃるよ うでした . やっとのことでご希望を聞き 出す事ができて， ホッとすると同 時に ，
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この ことは，あなたが思いついたって皆 さんに伝えてくださいよ」と玄関を出てからも何 回も念を押しては照れて居られる先生にとても親 しみを感じました. 幹事会でも賛成していただけたので， できるだ けご希望に添う内容にすべくレンス、や部品を一つ 一つ選び，双眼の生物顕微鏡を一台お届けする運 びとなりました. 先生が絶対にかぶるのはいやだ とおっしゃった赤い帽子は，“赤いアクリルのカ ノ イ ー" となって，顕微鏡がかぶることになり まし た. しばらくして届いた顕微鏡を先輩方とともに 先生のお宅へお持ちし ，早速部品を組み立てて， テーブルの上にあったパラの葉の気孔を見ていた だいたところ「明るいねえ . きれいだねえ. 良く 見えるねえ」と ，何回も繰り返し繰り返し嬉しそ うにお っしゃるので，満足していただけでよかっ たと安心しました. その後，描画装置の使い方を 教えて欲しい等のお電話をいただき ，度々お邪魔 するようになりました. 4. 再び弟子に 今から十三年ほど前の話しになりますが，私は， 神奈川県立教育センタ ーの長期研修員として生物 学教室に入ることになりました . 生物学教室ばか りでなく ，長期研修員 としては初めて の女性とい うことで所員の先生方は ，I
どんなのが来るのだ ろう困ったな」と 心配していたようですが，身元 調査をしたら酒井先生の弟子だということが解っ たと ，皆さんに 親切 に迎 えて戴きました . それと いうのも ，酒井先生はここでは顧問として講座を 担当されたり講演をされたりで， よくその人とな りが知られてい たか らだと思います. 当時，生物学教室ではボルボ ックスの継代培養 が盛んに行われていましたが，I
酒井先生の榛名 湖 のボルボックスの思い 出」も， ここで初めて聞 きました . かつて先生が榛名湖へ旅をされたとき， 水がとてもきれいなエメラルド色だ ったので，何 だろうと思ってコップに掬 って光りに透かすと ， 無数のボルボy クスが水中で舞っているのが見え， その美しさにしばらく見とれていたと 言 うのです. その話を聞いて 「先生の造言 だと思って榛名湖へ 行 ってこないといけ ませんね」 と肱いた人があり ました. この頃は先生は まだ まだお元気でしたの で，失礼ながらこんな元談も 言 えたのです. いよいよ自分のテ ーマを決める時が来て，考え たあげ くに室内で扱えるシ オダマリミジンコを材 料にすることにしました. ある程度進んだところ で「顧問の酒井先生に指導助言 を受けるように」 と勧められたので先生のお宅を尋ね恐る恐る 差 し 出しますと ，案の定 「仕事をしなが らじゃ研究は できませんよ」とか「カニじゃなくちゃ 」 とかの 厳しい言葉が返って来て，私のレポ ー トを手にもっ たままで同行してくださった生物学教室の楠本先 生と話しが弾み，その日はそれでおしまいでした. ご自分の研究できる時間の限界がもう迫 ってい ると焦るようなことばかりおっしゃっていたので， 私のミジン コどころではなか ったようなのです. この頃既に腎臓がかなり悪くな っていらしたよう で間もなく入院されました. 病院へ伺って見ると 「こんなに浮腫んじゃ ったよ」と出して見せた脚 が真っ白く膨れていましたが，つやつやして却っ て元気そうにさえ見えました. 次に伺 った時は加療後退院されて自宅で静養し ておいででしたが，帰るころには雪 になっていま した . 寒L、からと申し上げるのも聞かず，門のと ころまで送 って出ていらっしゃり，I
こっちは曙 光，ほんのり紅がさしてきれいだよ」と ，傍らの 椿の枝を二三本折 り，楠本先生に手渡しました. 挿し木のし方そ の他 の注意をされてから，急、に身 を屈め ，I
この枝はね，こ んなに 小 さ く て も (地 面から15
センチぐらい) 来年花が一つだけ咲くよ. 次の年はね，疲れちゃって咲かないの」 この言 い方がひょうきんだ ったので，思わず笑っ てしまいました. ふと見ると ，先生の大分寂しく なった頭に牡丹雪が積もっていました. 今でも先 生のお宅の階段を上がる度に，雪 を頭に載せた先 生の姿が思い出されます. 十年余りの歳月が過ぎ たつい最近，あの小枝がちゃんと根付いて成長し ていると聞きました. 5. 学会への道中 甲殻類学会が設立された時，私は大学生でした がすぐに入会し，赤いエビとカニの絵がついたブルーの会員証をいただきました. 今でも私は大事 に持っています. 高校生のころから研究の道に進 みたいという希望を持っていたのですが，酒井先 生は大反対で「卒業するときにはちゃんと卒業し て先生になるので一番です
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と頑固におっしゃる ので，とうとう反抗出来ずに教師になりました. 「鎌倉市の小学校に勤めた方が良いよ 」と言われ， 内定していた中学を断って先生のお宅から 二 キロ メートルほじのところにある小学校に勤めること になりました. 十数年も後になってから ，当時の 校長先生が，I
あの偉い酒井先生が弟子をよろし く頼みますと挨拶に見えてね…」と話されるのを 聞き，心配してくださったことを初めて知りまし た. 子供達との生活は日々変化に富んでいてなかな かおもしろいものではありましたが，専門は忘れ てくださいと 言 われでも研究に対する想いには断 ちがたいものがありましたまた，学生時代にヨッ トの選手として国体に出場したり ，休みという休 みはヨットハーパーへ通うという暮らしもできな くなり，体調を崩して長いこと辛い思いをしまし た. その頃の気持ちを甲殻類学会の会費の振り込 み用紙の連絡欄に「学会になかなか出席出来なく て残念ですが，カニのことは忘れたことがありま せん」というような意味のことを書 いた処，甲殻 類ニュースに載せてくださったのには驚きました. ただの独り 言 のつもりだったのが大勢の目に触れ ることになってしまい，穴を掘ってでも入りたい 位恥ずかしかったことを良く覚えています. そん な折，先輩の一人が「とにかく来てごらん. 知っ ている人が一杯いるから」と誘ってくださったの で恐る恐る学会に出席してみたところ，とても収 穫が多く充実した時をもつことができましたので， 以後はほとんと欠かさず出席するようになりまし た. 先生の健康が気遣われるようにな ってからは 荷物持ちでお供していましたが，鳥羽の学会へ行 く時に新幹線のホ ームで 「駅弁は上等のがいいね. お茶もいるよ」と，指さすものを買いましたが， 自分の荷物に加え先生の荷物と駅弁とお茶二つを 苦労して持っている私に，I
ほら，お茶がこぼれ るよ」等と他人事のように言 いながら駅弁談議が 始められました. やっと車中に収まり名古屋に着 きましたが，途中2 - 3
回胸を押えて立ち止ま ら れたので少し休んで行こうと思 ったのですが，そ こは頑固で 「予定通り行くんだ」 と言っ て頑とと して聞かず，近 くなった近鉄の乗り換え階段を無 視して， 元からの遠まわりの コース へどんどん歩 き出してしまいました. 大分お疲れの様子で会場 に着きましたが，到着を待っていた方が持参した 頭が二重になった奇型のカニの標本を見たとたん に眼が輝き出し，学会終了後和具に一泊して本当 に久しぶりに港のエビ網で採集されるく らいすっ かり元気になってしまわれました. 6. 沖縄の旅 「私は若いころにマラソンの選手だったから丈 夫だ」と，常々お っしゃっていた先生も，健康を 害されてからは弱気になられたようで「片付けな ければならない仕事がたくさんあるのに間に合わ ない」とか「沖縄に行かな くてはならないが一人 では行けない. 誰か一緒に行ってくれる人はし、な いだろうか」等と， しきりに口にされるようにな りました. 二 ・三の方にそれ を話したところ，お 供しでもいい し代りに採集に行って来てもいいと いう返事をくれましたが，肝心の先生が首を縦に 振らず家族の方や医師の止めるのも聞かず宿や航 空券の手配をしてしまいました. 役に立たない私 なのに一緒に行こうとおっしゃるので，先生，四 王天さん，私の夫，私の四人で沖縄に出発するこ とになりました. 航空券を手にして驚いたことに 私は旧姓でした. 那覇に着いてすぐにタクシーで 本部に行き， 早速キャサリン ・ミュージ ックさん に連絡して来ていただいて歓談し，翌日は水族館 でジンベイザメの餌付けを見，イルカのオキちゃ んと遊びしてのんびり過ごしました. 三 日目には 石垣島に飛び，河口の干潟のシオマネキの大群の 中に座 り込んでスコップで砂を掬っては捨て掬つ ては捨てしなが ら「何しろ小さし、か らねえ. 簡が ないと見つからないなあ」とつぶやく背中が寂し げでした. この数カ月間新種のカニ数種類につい ては何回も話を聞いていましたが，何のお手伝い もできませんでした. 明日は黒島の海中公園事務 所へ行 く事になっているとおっしゃるので翌朝の 船で出掛けたところ， 尋ねて行った先には誰も居らず戸は開けたまま，カメラも顕微鏡も今使って すよ」と快く引き受けて下さいました . “カラッ いますという感じで置いてあり ，肌色のヤ モリ が あわてて走ると 言 う情景に 戸惑ってしまいました. 連絡をせず突然来たのでこのようなことになった ようですが，先生は落ち着いたもので，黒板に書 いてあった「石垣島にオニヒトデ退治に行ってい ます」と 言う伝言 にちらつと目をやってから壁の パ ネルや展示物をゆっくりと眺め始めました . こ れは写真と説明が違っているから 掛 け替えよ うと か， これは名前が違っているから書き変え よ う， とかおっしゃりながらあれこれ直し始め ました. そして「ではメッ セー ジを書こう」とぞ こにあっ た紙に何やら書き，酒井恒( カニ) ， 続いて嶋 田 玲子( 少し考えて)
