<研究ノート>
<Note on Research>
トゥバ人の狩猟採集活動
−モンゴル国北部タイガ地域における一事例−
Changes in Cultures and Activities of Tuva Hunter Gatherers
Since the Pre
- Socialist Society:
Case Study of Taiga District in Northern Mongolia
西 村 幹 也*
Mikiya Nishimura*
In this paper, I summarized the hunting, fishing and gathering activities of the Tuva people living in the Taiga district in the northern part of Mongolia from 1995 to 2018. The Tuva people is famous as the reindeer herders. In fact, however, they were hunters who used reindeer as a means of transport. There are many reports as reindeer livestock breeders in this area, but only a few are written about hunting activities. It was an era when the number of reindeer was extremely decreased around 1995 when I started the investigation. Under these circumstances, they returned to their lifestyle before socialism and began to rely heavily on hunting activities.
However, now the hunting culture is about to disappear, due to the change in lifestyle in Taiga district. So, I thought maybe I should write down their activities what I saw and experienced about hunting activities in Taiga in post socialism era.
This report will be one of the few materials that describes the actual hunting activity being lost in Taiga.
* NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがぁ 理事長(North Asian Culture Center)
キーワード トゥバ、ツァータン、モンゴル、狩猟採集、トナカイ
1.はじめに − ツァータンありきに始まる愚 – 本稿はモンゴル国北部タイガ地域(地図①)に居住するトゥバ人の狩猟採集活動につい て、調査期間に得た見聞を書き記すことを目的としている。 この地域でトナカイを飼育しながら暮らしていたトゥバ人を、社会主義時代にモンゴル 人はツァーチン、もしくはツァータンと呼んでいた。ツァーチンは職業名として使われ「ト ナカイ牧民」を意味するが、ツァータンとは少々侮蔑的な意味合いを持った上で「トナカ イ所有者」を意味する。決して民族名称や氏族名称ではなく、また民族集団を表す言葉で もないにも関わらず、社会主義崩壊直前あたりから、ツァータンという言葉はほぼ確立し、 モンゴル民族の下位集団として使われるようになり、モンゴル民族の中にあるヤスタン(部 族)の一つとして数えられるようになった。戸籍などに記載される際もヤスタン名はツァー タンと書かれるようになっている1)。 社会主義崩壊後は、モンゴル人によって、珍しい家畜トナカイを飼う人々=ツァータン とマスコミなどで改めて取り上げられるようになり、高じては原始的な生活を送る人々= ツァータンなどというようなイメージが共有されるようになった。 本来であればタイガに暮らすトゥバ民族であるにも関わらず、このようにツァータンと 呼ばれるようになったことで、トナカイ遊牧民としての理解が定着してしまったのである。 モンゴル人がトナカイを山羊や羊、牛、馬、駱駝と同様に扱える家畜であると誤解したこ とに端を発し、自分たちが行っている草原での家畜飼育のような大規模群飼育を推し進め たことによって、この地のトゥバ人は社会に大いに翻弄されることになった。トナカイは、 モンゴル人が知る草原地域で飼育する家畜のような生産性を得られる家畜ではなく、また タイガ地域は草原での家畜飼育のように多種類の家畜を飼育が不可能であることをモンゴ ル人は知らなかった。従って、社会主義時代に、社会システムの後ろ盾があったからこそ 維持されていた大規模群飼育は社会主義崩壊後に不可能になり、トナカイの頭数を一気に 減らすことになったのである2)。 現地の友人は「俺たちの本当の姿は父親から受け継いだ銃と母親から受け継いだオソグ (осог.根堀り道具)にあるんだ」と筆者に語った。タイガに暮らすトゥバ人の生活は狩猟 採集を主生業とし、タイガでの機動力確保の為にトナカイを飼育するというのが本来の姿 であったというのである。 モンゴル国内のトゥバ人はフブスグル県のタイガ地域に限らず、アルタイ山脈他、中央 モンゴル地域にも点在しているが、タイガ地域のトゥバ人をトゥバ人と呼ばず、ツァータ ンと呼ぶようになったことで、彼らの本来の姿を理解しにくくなってしまったのである。 筆者は以前、社会主義崩壊直後のタイガにおける生業活動としてトナカイ飼育、狩猟採 集活動、交易をあげ、それぞれ活動の目的の変化と生業活動全体の中における重要度の変 化について、これらを生業比重の変化として報告した(西村 2003:52-53)。そして、さら に、その後の金鉱山発見によるゴールドラッシュ景気、また平行して発達していった観光
産業への適応の様子やその過程で進むトナカイ飼育集団の変化について報告を続けてきた (西村 2012:60-69;西村 2018:96-99)。 一連の調査の中で彼らがトナカイ飼育、観光産業(宿泊地提供、土産物製作販売、交通 手段提供)、草原家畜飼育、交易、狩猟採集を複雑に組み合わせて行われるに至っているこ とを述べ続けてきたが、狩猟採集活動を重点的に述べたことはなかった。 この地域の狩猟採集活動に関して記述された資料は非常に少ない。Ъадамхатанバダム ハタン(1960:20-25)、山本(1999)、松下(2001:1-19)らがわずかに残したもの以外に詳 細に記載されたものはない。 これは社会主義時代には狩猟活動が大いに制限されていたこと、そして、社会主義崩壊 直後においても、禁猟が続くなど、調査が非常に困難であったことが最大の要因だろう。 社会主義崩壊後においては、密猟者を密告した者に罰金の半額を報奨金として与えるなど していたため、信用のおける者同士でのみ狩りに出かけなければならないなど、厳しい時 代となっていた。また、彼ら自身の生活変化に伴い、漁労活動、採集活動のいずれもがか つてのようには行われなくなってきた。 前掲の友人は先の言葉に続けて、「タマネギもイモも簡単に買える時代になる。自分たち で掘る機会も減り、このオソグもどこかに捨てられるだろう。だから、俺たちが植物を自 分たちで調達して利用していたことの証としてこれをおまえが持っていろ」と筆者にオソ グを託した。そして、彼の死後、残された家族や独立したどこの家でも食用に自生の植物 の利用の頻度は極端に減っていった。3) もはや全面禁止となってしまった狩猟活動はもちろん、漁労活動、採集活動に関しても 実際を観察しての報告は今後、ますます困難になるだろう。しかし筆者は社会主義崩壊直 後の最も狩猟採集活動が盛んに行われた時代に現地の長期滞在を繰り返す幸運を得て、多 くを見聞した。非常にデリケートな問題を含む故に記述することを避けてきたが、この数 年間で、当事者たちは高齢化し、他界する者も増え始めるなど、狩猟採集活動に関する情 報は急速に失われ始めたことを鑑み、1995年から本稿執筆時点までの筆者の見聞をここに 書き残しておきたいと思う。 本稿では、1995年の調査開始時点から伝聞でさかのぼれる時代から、2018年までの狩猟 活動の実際、および、それら活動におきた諸変化を書き残すことを目的とする。採集活動 に関し、樹皮利用などについて紙面が不足してしまったため、別の機会に詳述することと し、本稿では概略を述べるにとどめておく。 調査はモンゴル国フブスグル県ツァガーンノール郡西タイガ地域各所において、以下の 期間に行った。 1995年3月:ツァガーンベルチェール冬営地(цагаан бэлчээр)、1997年5月:ハルオス ト春営地(хар уст)、1997年10/15 ~ 1998年3/17:ジョログ川流域秋営地およびハルオス ト冬営地、1998年7月:ミンゲボラグ夏営地(мэнгэ булаг)、8月末~ 9月半ば:トルゴ川
上流域秋営地(торго гол)、1999年9月半ば~ 10月半ば:ノホイントルゴイ秋営地(нох ойн толгой)およびボルハヤグ秋営地(бор хаяг)、2000年7月初め:ミンゲボラグ夏営 地、2001年9月フルンタイガ秋営地(хүрэн тайга)、2002年9/5 ~ 9/27:ゴーラグ秋営地 (гуулаг)、2003年9/3 ~ 9/12:オラーンタイガ秋営地(улаан тайга)、2004年2/10 ~ 2/27: ハル オスト冬営地、3/20 ~ 3/23:ハル オスト冬営地、9/4 ~ 9/14:フルンタイガ秋営 地、2005年4/28 ~ 5/9:イビディン エヘ春営地(ибидийн эх)、2007年7/17 ~ 7/23:ミ ンゲボラグ、2009年9/7 ~ 9/12:ノゴーン ゴル流域秋営地(нөгөөн гөл)、12/28 ~ 12/31: ウフルティン アム上流域冬営地(үхэртийн ам)、2010年9/3 ~ 9/12:ゴーラグ秋営地、 2011年5/1 ~ 5/5:シャンマグ春営地(шанмаг)、7/23 ~ 7/30:ゴーラグ夏営地、2013年 7/25 ~ 8/3:ミンゲボラグ夏営地、2014年9/5 ~ 9/13:ゴーラク秋営地、2015年8/1 ~ 8/7: ミンゲボラグ夏営地、2016年7/27 ~ 7/30:ミンゲボラグ夏営地、9/3 ~ 9/9:ゴーラグ秋 営地、2017年9/4 ~ 9/8:ゴーラグ秋営地、9/25 ~ 9/30:ソールナグツァガーン(麓への 移動中の宿営地)(суурнаг цагаан)、2017年12/29 ~ 2018年1/5:シャンマグ冬営地、2018 年7/20 ~ 7/25:ミンゲボラグ、8/26 ~ 8/29:ソールナグツァガーン、9/2 ~ 9/6:ゴーラ グ秋営地。 調査は定点的に特定世帯に常に滞在し、そこでのフィールドワーク、および氏宅を訪れ る周辺世帯の人々から行った。この家の世帯主をB氏と記載することとする。1997年当時、 最大規模のトナカイを所有し、生まれも育ちもタイガだという生粋のタイガ人、トゥバ人 である。筆者は氏の他界後もその妻宅(下の息子二人と3人暮らし)、および長男宅に通い 続けている。なお、氏をはじめ、狩猟活動をもっとも活発に行っていた男性たちの多くが 他界したが、彼らの子どもたちの中には狩猟当事者もまだ多く、狩猟活動が禁止されてい る現状を鑑み、情報提供者の氏名はすべて伏せさせていただくことを了承願いたい。伝聞 的記載のすべては西モンゴル地域在住の当時の世帯主、およびこの地域で諸活動を行って いた人々である。 2.狩猟採集活動の目的 狩猟採集活動の目的を述べる前に、狩猟採集活動によって得ることが期待される資源を 列挙しておこう。
狩猟対象:ヒグマ(Ursus arctos)、タイリクオオカミ(Canis lupus)、オオヤマネコ(Felis lynx)、 マヌルネコ(Felis manul)、アカキツネ(Vulpes vulpes)、コサックギツネ(Vulpes corsac)、オコジョ (Mustela ermine)、アナグマ(Meles meles)、クズリ(Gulo gulo)、アカシカ(Cervus elaphus)、ノロジ カ(Capleolus pygargus)、シベリアジャコウジカ(Moschus moschiferus)、ヘラジカ(Alces alces)、ヨー ロッパイノシシ(Sus scrofa)、アイベックス(Capra ibex)、野生トナカイ(Rangifer tarandus)、オ オツノヒツジ(Ovis ammon)、クロテン(Martes zibellina)、ユーラシアカワウソ(Lutra lutra)、 ヨーロッパビーバー (Castor fiber)、シベリアマーモット(Marmota sibirica)、キタリス(Sciurus
vulgaris)、オナガホッキョクジリス(Citellus undulates)、シマリス(Tamias sibiricus)、タイリク モモンガ(Pteromys Volans)、ユキウサギ(Lepus timidus)などの動物。
オオハム(Gavia arctica)、オオライチョウ(Tetrao parvirostris)、クロライチョウ(Tetrao tetrix)、 ヤマウズラ(Perdix dauurica)、カモやガンの仲間、アカツクシガモ(Tadorna ferruginea)などの 鳥類(Ъадамхатан 1962:20)。
漁労対象:ダウリアシロマス(Coregonus chadary)、コクチマス(Brachymystax lenok)、アムー ルイトウ(Hucho taimen)、ツァガーンザガス(Coregonus pidschian)、ナマズ(Silurus asotus)、カワ メンタイ(Lota lota)など4)。
採集対象:ゆり(Lilium pumilum)の球根、セッカヤマネギ(Allium senescens)の茎や花、クロ マメノキ(Vaccinium uliginosum)やコケモモ(Vaccinium vitis-idaea)などの木の実、シベリアマツ
(Pinus sibirica)の実、樺類の樹皮など。なお、薪として利用する樹木に関してはここでは扱 わない。 2-1.狩猟活動で得られるものと利用方法 狩猟活動で得られるものは食料、皮、毛皮、そして換金できる部位である。 肉の獲得は狩猟活動における最大の目的である。社会主義時代以降、推奨されたトナカ イ飼育の牧畜化(西村 2003:49-51)によってトナカイへの依存度が強制的に引き上げられ たが、トゥバ人たちは、非常時に食用に回す以外、トナカイを食料とすることは極力避け たいと考える傾向はいつの時代でも変わらない。 前掲した動物たちのうち、いくつかの動物は食用にはそれほど利用しないとバダムハタ ンはしているが、氏が挙げたそれら動物たちのうち、オオヤマネコ、アナグマ、グズリ、 キタリス、アカキツネ、アカジカ、ジャコウジカ、シマリスは1995年以降の調査中に筆者 は食べる機会を得た(Ъадамхатан 1962:20)。 筆者の経験では、タイリクオオカミ、コサックギツネ、アカキツネ、オコジョ、クロテ ン、ユーラシアカワウソ、ヨーロッパビーバー、タイリクモモンガ以外の前掲の動物たち はことごとく食用としていることは確認できている。なお、オオツノヒツジ、アイベック ス、マヌルネコ、ヨーロッパビーバー、タイリクモモンガ、ユーラシアカワウソ、野生ト ナカイに関しては、筆者のフィールドワーク中には出会うことがなかった。アイベックス、 オオツノヒツジはバダムハタンの調査した1960年代にこの地域から姿を消しているようで ある(Ъадамхатан 1962:20)。 また、オオカミ、キツネに関しては、はっきりと食さないとはいいながらも、キツネの 肉は肺病に善いと言われるなど、特殊な目的を持って食すことがあるようだ。鳥類も食用 としてよく利用される。湖畔に多いガンやカモの類いは撃っても回収しにくいため、森林 部を生息地域とするヤマウズラやアビ、オオライチョウを獲物とすることの方が多い。そ してこれら獲物のおおよそすべての皮、毛皮は様々に利用される。
皮、毛皮の利用方法は様々である。かつては住居の覆いや敷物、衣類などに利用したと いう(写真①)。特に冬の住居の覆いとして利用したと話には聞くのだが、この利用方法を 1995年以降に調査地で目にすることはなかった。家を覆う材料としては帆布の流通が進み、 重い皮を持ち歩くことを避けるようになり、利用されなくなったという。 衣類の材料としての利用は、かつてであれば、トナカイの毛皮で冬用衣服を作ったとも 言い、水をはじきとても頑丈で暖かかったというが、トナカイの毛皮は毛が抜けやすく、 また重く、固く衣服材料にするには少々難があったとも言われ、特に社会主義時代以降は 羊や山羊の毛皮を使った衣服を着用するようになったという。特に一歳の羊の毛皮を使っ た衣服は暖かく軽いといわれ、好んで利用される。また、綿入りの衣服利用が増えるなど、 狩りで得た皮や毛皮の衣服への利用は現在ではほぼみられなくなった。 また皮、毛皮で靴や帽子を作る。鹿やトナカイのすねの部分の皮は4枚で冬用ブーツを製 作、着用する。この部位は毛が抜けず、水もよくはじくなど利便性が高い。真偽のほどは 確かめようもないが、B氏は「1960年代に俺たちの作ったブーツをみて、モンゴル人たち がまね、一時期ブームになったのだ」と言っていた。かつてであれば、冬用に限らず一年 を通じて利用していたともいうが、彼らが経済的に豊かになるに従って、市販のブーツを 利用することが増えている。 2018年時点においてもキツネ、クズリ、アナグマ、オオヤマネコ、シベリアマーモット の毛皮で帽子を作り利用する。また、キタリス、シマリス、クロテンの毛皮もまた帽子作 りに利用される。キタリス8匹分、もしくはクロテン2匹分で帽子を一つ作れる。これらの 毛皮は襟元や袖口に防寒を目的に縫い付けられることもあった。 皮の利用でもっとも多い制作物は鞍に振り分けて載せる振分鞄(барбыバルバ)である (写真②)。市販の布製の鞄よりも丈夫だと重宝していた。毛皮部分を外側にして撥水、防 水効果も見込め、タイガ生活に非常に適していたのだが、徐々に製作、利用は減っている である。なめし作業が困難であることが原因だという。振分鞄の他、道具入れや小物入れ などの小さなものも皮で作っていたが、これもまた近年少なくなっている。 トナカイ牧畜と関わる皮利用で言えば、トナカイ乳保存袋(хөгөөрフガール)があげら れるが、これもトナカイ乳利用方法の変化に伴って数を減らしている(西村 2018:101-102)。 狩猟活動によって得られるものとして換金可能物資をあげられる。社会主義崩壊直後、 給与収入を絶たれた彼らにとって現金収入を得られる重要な方法だった。ただし、動物の 特定部位だけの獲得を目的として狩猟を行わず、運が良ければ得られる特別なものと考え ていたが、麓からタイガに入ってくるモンゴル人らとともに、一攫千金を得られるとして、 特定の部位の獲得を目的とした狩りを行うように徐々になっていった。 換金出来る物資は、鹿の角、尻尾や睾丸、ジャコウジカの麝香腺、熊の肝や胆のう、ス ネ皮、毛皮などがあげられる。尻尾や睾丸、麝香腺、肝や胆のうは漢方薬の材料として高 額で売買された。クロテンやキツネ、キタリス、ユキウサギなどは毛皮売買が主な目的と
して獲られていた。 1998年当時、クロテンの毛皮が一枚10,000 ~ 15,000tg(tg=モンゴル現地通貨tuglug。1998 年調査当時12 ~ 15円=1tg)、ヤマネコの毛皮が枚25,000 ~ 30,000tgでそれぞれ売買された。 更に保護動物であるジャコウジカやカワウソは闇売買で非常に高く取り引きされていた。 ジャコウジカの麝香線は1g=1,800tg、カワウソの毛皮は一枚で馬3頭分に匹敵した。一方、 キタリスの毛皮は1997年頃には一枚100tgにしかならず、鉄砲玉(50tg)と変わらない値段 だったため、帽子作りなどで自家消費をしていたが、2000年秋以降、値段が高騰し、秋の 初め頃には一枚400tgであったものが一年後の2001年秋には3000 ~ 4000tgとなった5)。 ヘラジカからは肉が300kg以上、角30 ~ 40kgを入手でき、角売買でざっと40,000tg、スネ 部分の毛皮で4,000tgを得られた。ジャコウジカの睾丸は約40 ~ 60gはあるので、72,000tg ~ 100,000tg以上を一頭から得ることになり、かなりの現金収入となった。ツァガーンノー ル郡やオラーンオール郡では、馬が70,000 ~ 80,000tg、ヒツジ、ヤギが15,000tg ~、牛が 30,000tgで売買されており、これと比較すると狩りによる収入は非常に大きな収入源と なったことがわかるだろう。 前述のクロライチョウの羽根はシャーマンの帽子に利用するなどの特別な利用方法があ るほか、肉は滋養強壮に良いとされ、闇で高く売買された。クロライチョウは絶滅危惧種 として保護鳥とされているため、社会主義当時より禁猟対象であった。本稿執筆時におい ても密猟されていると聞くが、もはや話を聞き出すこと自体、非常に困難である。 2-2.漁労活動で得られるものと利用方法 漁労活動の目的は食料獲得にある。タイガで獲った魚を町に運んで売ることはなく、自 家消費が目的である。タイガのトゥバ人の間では魚は子どもが遊び半分で獲ってくること が出来る手軽な食料であった。ただし、獲れる時期や場所が限られるなどの制約はある。 かつては乾燥保存をしたというが、筆者の調査中、保存した魚を食べる機会は一度も無かっ た。内臓を取り出し、腸内の汚物を水で洗い流し、再び腹に戻し、ストーブに直に乗せて 焼く。特に魚卵があった場合は丁寧に洗ってから腹に戻してから焼く。鱗を取るとストー ブに張り付いてしまうので、鱗はとらない。焼く際、尾びれの根元に魚に対して垂直に切 れ目を入れておく。そうすると、焼け上がると身がそり上がり、ストーブから降ろしやす くなる6)。新聞紙がある場合はぬらした新聞紙で魚をくるんでストーブに乗せる(写真⑯)。 塩を振るなどせず、焼けたらそのまま食す。皮は食べない。 2-3.採集活動で得られるものと利用方法 採集活動は食料として自家消費および販売を目的として行われる。 自家消費を目的に採集されていた植物は自生のタマネギ(зэрлэг сонгино,уулын сон гино:ゼルレグ ソンギノ、オーリン ソンギノと呼ばれる。学名・和名ともに不明)とゆ
りの球根(төмс:トゥムス)である。本稿執筆時点においても、条件が整えば自家消費の ためのタマネギ採集は行われているが、その一方でゆりの球根採集はほとんど行われなく なっている。 タマネギもゆりの球根も地面が凍り付いてしまう10月末までに採集する。 タマネギは冷凍保存が可能なため、秋から春にかけて食卓で利用できる。肉を煮たとき やうどんの薬味として生でスライスして利用することが多い。栽培タマネギと比べると小 さく、直径5㎝くらいで、辛味はニンニクに近く、非常に強い。食べ過ぎると腹を下してし まうほどだ。一旦冷凍にしたものは直射日光などで解凍されないように、常に住居の北側 の日陰に保存しておく。 ゆりの球根はトゥバ語ではアイ、モンゴル語ではトゥムスと呼ばれる。トゥムスとはモ ンゴル語でイモを表す単語であり、実際このゆりの球根は味がイモに非常によく似ている ためこのように呼ばれる。秋営地近くに自生地が無い場合は女性及び子供たちがトナカイ などに乗って日帰りで採集に出かける。社会主義時代以前はゆりの球根を乾燥させ、砕き、 粉状にして保存したといい、1998年時点では、そのままをスープに入れる、もしくは炒め る、またトナカイ乳をあえて食べるなど利用されていたが、2018年時点でゆりの球根の利 用はほとんどみられなくなり、代わりに小麦粉がすっかり常用されるようになっている。 木の実は自家利用の他、麓で売買されることもある。採集される木の実は、コケモモ(ул аацгана:オラーツガナ)、クロマメノキ(нэрс:ネルス)、シベリアマツの実(самар: サマル)などである。 コケモモは9月頃に赤い実をつけるが、移動中の休憩時に見かけたら食べる程度で、特に 大量に採集して利用することはない。しかし、クロマメノキは9月半ば頃になると女性や子 どもたちが摘みに出かけ、数リットルから10数リットルもの量を摘んでくる。9月半ばを過 ぎると、水分を含んだ重い雪が降り、熟した木の実を落としてしまうため、10月初めくら いまでしか利用できない。積んだ後は、そのまま食べる他、保存用にジャムにしたり、砂 糖漬けを作る。1999年の調査時は、ジャムにするには木の実の約半分量の砂糖を必要とす るため、あまり作られなかった。当時の彼らの経済状況が砂糖を大量に購入することが困 難であったためであった。砂糖漬けは保存期間はジャムに劣るが、ジャムにするより使う 砂糖の量が少ないため、作りやすいが、甘いものが好きな彼らは500mg瓶1、2本は3 ~ 5日 くらいでを食べてしまう。 シベリアマツの実も移動中などに見かけたら採集し、適宜食用する。売買を目的に採集 するのはクロマメノキとシベリアマツの実であるが、シベリアマツの実売買が盛んである。 クロマメノキは麓のモンゴル人自らが採りに来ることが多い。シベリアマツの実にしても 同様にモンゴル人が採りに来るが、広範囲において移動しているタイガ居住者の方がより 有利に採集できるため、利益になりやすい。 シベリアマツの実は10月初め頃から、取り頃になる。現地ではモンゴル語でサマルと言
う。秋営地から、5 ~ 10キロ付近まで一帯を子供たちがトナカイに乗って取りに行くこと が多い。小麦粉袋(40kg用)一杯に松かさごと持ち帰り、実を取り出す(写真③)。1997年 の同時期には、松の実狩りは殆ど行われていなかったのだが、2002年秋には、買い付け商 人が多く来たため、例年よりもシベリアマツの実狩りに時間をかけていた。松かさのまま だと、1個30tg、実を選別した場合、1キロ300tg ~ 700tgになっていた。 3.主生業としての狩猟採集活動 以上に狩猟採集活動で得るこが期待される資源、およびその利用法について概観してき た。これらより、狩猟採集活動の目的は大きく3つに分けられる。すなわち、これら諸活動 の目的は①食料獲得、②加工材料獲得、③換金可能物資獲得である。これらを獲得する活 動は、おそらく、あらゆる地域の生活において、生活基盤を確固たるものとするためにき わめて重要な活動であることは明白である。 ここでは、狩猟採集活動の目的がこれら資源の獲得にあるという点において、主生業と しての位置を占める生業であると考えるのが妥当だと思われるが、主生業として狩猟を捉 えるか、それとも二次的な、生活補完の為の活動とするべきか、タイガ地域での生活にお いて、どのような位置づけがされるべきかという点について、先行研究ではどのように論 じられているかを観た上で、考察したい。彼ら自身が自分たちを「遊牧民ではなく、狩猟 採集民である」、もしくは、「狩猟採集民であった」と語っている以上、そもそも狩猟採集 活動とはなんであるかを、この点ははっきりさせておきたいのだ。 しかし、彼らの狩猟採集活動に関してはほとんど論じている資料は少ない。1962年にバ ダムハタンが記したものと、1999年に山本の修士論文、2001年の松下論文がわずかにある に過ぎない。 バダムハタンの著作がこの地域、集団に関するモンゴルで最初の記述であるが、この著 作の構成を観ると、第一章は「ツァータンの生活、行政、社会状況」とされ、この中で、 まずはトナカイについてその特徴と利用価値を述べ、次に社会状況について報告、次いで 狩猟活動という順に報告が進み、やはりトナカイをもってこの地域、集団を特徴づけてい る。この中でバダムハタンは以下のように述べている。 「ツァータンたちはその昔より、トナカイを家畜として飼育してきたが、彼らの主生業は 狩猟にあり、20世紀初頭までこの状態を保ち続けていた。ツァータンたちの狩猟はおおよ そ一年を通して行われる。人民革命の過程で、政府によってアカシカ、ヘラジカ、クロテ ン、ジャコウジカなどの動物が禁猟となり、ノロジカには禁猟期(3月~ 8月)が法律で定 められてから後、生業にトナカイが占める割合は非常に増えた。」(Ъадамхатан 1962:20) このように狩猟活動を明確に主生業と認め、かつモンゴルとの関わりの中で、その主生 業としての地位がトナカイ飼育に移っていったと述べている。この報告は全体として「狩 りにおける諸習慣が原始共産制時代の古いものであること、男女関係、家族関係、氏族関
係などもまた未開社会の名残を残していること、更に信仰形態がシャーマニズムであるこ となどを証拠としてツァータン社会を原始的で遅れた段階にあると位置づけ、文明化の必 要や、トナカイ飼育を中心とした生業へと発展させる必要を説く」ことを目的としており、 最終的に現地における狩猟習慣を、「原始時代に共働し、生活を支え合った伝統を今に残 し、魂を信仰する呪術信仰、トーテミズム、シャーマニズムの習慣」であると位置づけて 終わっている。狩猟採集活動が行われる理由やその必然性などは全く述べられないが、少 なくとも1960年前後には狩猟活動が主なる生業であったことは間違いない。 バダムハタンが調査した時代から相当下るが、山本は狩猟採集活動をタイガでの生活サ イクルの中に位置づけて論じている(山本 1999:巻末表)7)。東タイガ集団の狩猟サイクル について山本に従うと以下のようになる。山本は獲得物を自家消費するか、交易品とする かに分けて狩猟サイクルをのべた。すなわち、自家消費の為の狩りとして、9月中旬から発 情期に入った鹿を目的とした狩り、10月中旬から6月末まで鹿の仲間、イノシシ、クマ、リ ス、アナグマ、オオライチョウ、アビなどを獲物とした狩りがあるとし、交易品獲得の為 の狩りについては、10月から11月中旬までトラバサミを使ったクロテン狩り、11月下旬か ら2月中旬まで猟犬を使ったジャコウジカ狩り、3月からシカの角集めというように分けて いる。そして、夏期は「毛皮処理、皮ひも作り、狩猟道具の手入れ」に費やされるとある。 狩猟採集活動の目的が自家消費と交易品獲得にあるとし、それらが季節によってそれぞれ の活動が限定的に行われると分析している。すなわち、狩猟活動は冬期に行われるものと され、夏期にはもっぱらトナカイ飼育に従事するとしているのである。 また東タイガ集団の活動全般について、山本は「社会主義時代の生産活動形態によって、 男が狩猟活動のために長期間宿営地を離れ、女がトナカイ飼養や漁業組合の魚の加工作業 に携わる、分業体制や別居生活が習慣となっているため、今日でも男が長期間狩猟キャン プに出かけることが多い。」(山本 1999:34)と結論付けた。すなわち、トゥバ人の狩猟活 動を季節に限定的な活動であるとしながらも、副次的な生業ではなくトナカイ飼育など他 の生業活動と同列に扱っている。当時の東タイガ地域における長期にわたる調査結果とし て大いに評価するべきと思う。 しかし、山本が調査した時代の社会情勢、また東タイガ集団の所有するトナカイ群の規 模が西タイガと比べて小さいことを考慮すれば、狩猟活動が重要な生業活動であったこと は明らかで、東タイガ集団が行政指導に正直に従ってカレンダー通りの狩猟活動を行って いたとは考えにくい。事実、筆者の調査中にも東タイガ集団が一年を通じて、かなりの頻 度で狩りに出かけていることは伝え聞いている。密猟が発覚し逮捕されたという情報はす ぐに広まっており、それだけ狩猟活動が活発であったことは想像に難くない。世帯あたり のトナカイ所有頭数が少なかったことを考えれば、西タイガ集団よりもむしろ活発に行わ れていたのでは無かろうか。8) 2001年に発表された松下論文は1994年に行われた現地調査に基づいており、社会主義崩
壊後でありながら、まだトナカイが1170頭いた時代のタイガの様子を知る上で非常に貴重 な情報が多く記載されている。また、この地域における狩猟活動を主テーマとしたおそら く唯一の論文であろう。松下は「狩りに出かける人は、飼養トナカイが少ない森の人と村 に住む狩り専門の人たちである。その人たちは一年中狩りをして生計を立ている。(中略) 毎年10月20日に犬とトナカイをつれて出かける。狩は2 ヶ月間続け、村には12月に帰って くる。村に10日ほど滞在し、狩の準備が出来たら、2回目の狩りに出発し、3月のはじめま で戻らない。」と述べている(松下 2001:10)。これを見る限り、社会主義崩壊直後しばら くはかなり大人数で狩りが行われており、まさに主生業としての位置を占めていたことは 明らかだと言えよう。 なお、山本、松下は積極的に狩猟活動が一年を通じて行われていたとは位置づけていな い。季節に応じて限定的に行われるものとして捕らえている。しかし、筆者は特に1995年 から2000年頃にかけての狩猟活動は、実際には彼らにとって最も重要な主生業の位置を占 めていたと考える。狩猟活動が限定的にしか許可されておらず、活動の観察は困難であっ たが、活動が食料、換金物資の獲得を最大の目的としたこの時代であるからこそ、一年を 通じて適宜行われなければならない主生業だったと考えるのである。 社会主義崩壊直後の彼らの生活を観察すると、年間を通じてトナカイ飼育の日常の世話 は女性と子どもが行い、男性は可能な限り、食料や換金可能物資調達のために狩りに出か ける、もしくは交易に町に出かけることを基本としながらも、特にある程度の年齢に達し た男児は大人が交易に行く間に、食料獲得を目的に狩りに出かけることが期待されていた。 すなわち、可能であれば狩りを行うことが求められていたのである。 活動の一つ一つは山本が示したような季節性があるが、活動が求める本来的な目的を考 えた場合、狩猟活動は一年を通じて行われることが期待される活動なのだ。 社会主義時代以前と社会主義崩壊直後、この両時代は狩猟活動への依存度が最も高かっ た時代である。そして、このいずれの時代においても、世帯主が殆どの時間を狩猟活動に 費やすことからも、狩猟活動は欠くべからざる生業であったのである。 1997年10月から1998年3月までの間、冬期において、筆者が確認できた西タイガ地域での 狩猟活動を列記すると以下のようになる。 10/22 ~ 10/30(8日間)2名、未明~ 11/6(不明) 1名、11/5 ~ 11/10(5日間) 4名、 1/16 ~ 2/9(25日間)1名、2/4 ~ 2/27(23日間)2名、2/6 ~ 2/26(20日間) 1名、2/2 ~ 2/11(9日間)1名、2/9 ~ 2/20(11日間)2名、2/15 ~ 2/24(10日間) 2名 次いで、同じ地域で1999年秋の滞在中(約一ヶ月)に確認できた狩猟活動は以下の通り であった。なお、終了日が()のものは狩りに行った者が予定として告げた期間である。 9/14 ~ 9/29 3名、9/28 ~(約半月)4名、9/21 ~ 10/1 1名、未明~ 10/1 1名 当時の西タイガ地域で生活していた世帯数が9世帯であったことを考えると、それぞれの 世帯の男性がかなりの期間、家をあけて狩猟活動に出ていたことがわかるかと思う。
この地域のトゥバ人にとって、本稿、冒頭部分に紹介したように、狩猟採集活動はアイ デンティティの核として語られるほどに重要な地位を占めていたことは間違いが無い。 4.狩猟採集活動の重要性の変遷 ー 主生業からレジャーへ ー 次に、狩猟採集活動が主生業の一つでありながらも、生活全体においてしめる重要度が 時代によって変化してきたことについて述べたい。社会全体の変化が彼らの生活にいかに 影響しながら、これら諸活動が行われた、もしくは行われなくなっていったかを記してお くこととする。 4-1.社会主義以前 社会主義以前時代の狩猟採集活動の目的はまさに食料確保、加工材料獲得、換金可能物 資獲得にあり、それらの達成は生活全体を支える最も重要なものであった。この時代はト ナカイ飼育の目的が輸送交通手段にあり、食肉利用に供するに十分な群を所有していない 世帯が多かったため、生活の基本はすべて狩猟採集活動によって賄われていたと言ってい いだろう。彼らが「自分たちは狩猟採集で生計を立ててきた」と言うにふさわしい。 この時代、食料としての獲物は、クマ、オオヤマネコ、ヘラジカ、ノロシカ、イノシシ などであり、換金可能物資としてはクロテン、アカギツネ、ユキウサギなどの毛皮をはじ め、おおよそすべての獲物の毛皮が交易の際の元手となっていたという。ダルハド盆地一 帯が1686年にモンゴル初代活仏ジェブツンダンバホトクトの直轄領になった頃より伝統的 に毛皮を納めるようになっているなど、この地域は古くから毛皮の産地であった。 この当時は麓と森の生活境界線は、はっきりしており、麓で草原家畜を飼育する牧民た ちが、狩猟活動のために森に入っていくことはまれであったといわれている。 4-2.社会主義時代 これが社会主義時代になってから大きく様変わりした。タイガ地域に社会主義の影響が および始めるのは、タイガの麓のオラーンオール郡にネグデル(集団農場)が作られた1956 年以降であり、トナカイ専業牧夫が組織されるようになってからである(西村 2003:49-51)。 いつから始まったか正確な時期はわからないのだが、バダムハタンが現地調査を行った 1950年代後半にはすでに狩猟活動の制限はあったようだ。具体的には、アカシカ、ヘラジ カ、クロテン、ジャコウジカが禁猟とされ、ノロジカは3 ~ 8月は禁猟となったいた(Ъа дамхатан 1962:20)。 これに対して漁業に関する状況は少々異なっており、早い時期から非常に積極的に魚資 源を利用しようと漁業に注力していたことがうかがわれる。一般にモンゴル人が魚利用に それほど積極的であったとは考えにくく、多分に当時のソビエトロシアの主導によるとこ
ろが大きいのではないだろうか。1910年頃にはこの地にロシア人の商店があったという記 録があることからも、魚好きなロシア人たちにはツァガーンノール湖が非常によい漁場で あることはよく知られていた9)。 ツァガーンノール湖畔に漁業基地(ツァガーンノール漁業センター Цагааннуурын загас агнуурын цэх)が1943年に作られ、その後、1956年には漁業組合(Загас агнуурын аж ахуй)となり食料省の管轄下に組み入れられ、専業漁師が組織された。 そして、1960年代に入ってから、新聞紙上にツァータン、タイガ関連の記事の掲載は増 えた。フブスグル県で発行されたエルフチョロー紙に掲載された記事見出しを概観すると 1960年代前半は漁業関連およびツァータンの文明化を目的とした定住政策関連の記事が多 く見られる。トナカイに関する記載は所有頭数、乳製品利用に関する紹介記事にとどまっ ており、モンゴル人側がトナカイの積極利用を模索している様子はみられない。タイガで トナカイと暮らす奇妙な生活を送るトゥバ人の様子と資源としての魚が主な関心事であっ たようだ。ツァータンの文明化は住居の供与から推し進められるが、1960年には郡の中心 地に約70のトゥバ世帯が暮らしていたと記録がある。 この地域の自然環境やタイガでの生活、トナカイの生態などが明らかになるにつれ、ト ナカイの積極利用や狩猟資源開発へと関心事は徐々に移っていったようだ。1972年には閣 議決定により漁業組合は国営狩猟組合に再編され、林野庁の管轄下に移される。この地域 の狩猟資源の再評価がされ、1975年から1979年にかけてはツァガーンノール郡にクロテン 飼育場が作られるに至った。ノルマとして、リスやクロテンの毛皮を一定量獲得すること が求められ、リス猟、クロテン猟が組織的に行われるようになっている。当時の話として 聞いたところによれば、社会主義時代には毎年、10月1日に地方政府の許可を得た上で、ク ロテン、リス猟に出かけたという。得たクロテン15匹、キタリス20匹を納めれば残りは自 分のものになったらしい。鹿猟においては、一人あたり150tgを支払って、4人で一頭のシ カを獲ることが許可されていたという。1970年代後半には猟銃所有に関する警告や猟師た ちに対する勧告などが新聞紙上に掲載されるなど、狩猟活動再評価と軌を一にして啓蒙活 動も活発になった様子が窺える。 トナカイの積極利用が話題になるのは1960年代末から1970年代にかけてであり、この頃 からトナカイ専業牧夫化が進められた。特に1969年の新聞紙上(エルフチョロー no73 1969 5/12)には「トナカイは有益な家畜である」という見出しで、当時のソビエトにおけるト ナカイ利用が紹介され、モンゴルにおいても有効利用の方法を積極化するべきだとする記 事が掲載される。70年代半ばには、当時のソビエトにならってトナカイを食肉利用するこ とを目指し、大規模トナカイ群飼育が始まるなどトナカイ飼育に転換期が訪れる(西 村 2003:49-50)。さらに1979年からはトナカイの袋角を公式に利用することとなり、計画 的な角の切断が始まるに至った。 このような流れを受け、1984年にはツァガーンノール狩猟組合の更なる発展をめざし、
トナカイ牧畜と狩猟活動を生産の二本柱にした行政区を創設することを閣議決定し、1985 年にリンチンルフンベ(Ренчинлхүмбэ)、オラーンオール(улаануул)両郡のトナカイ をすべて移動させ、ツァガーンノール郡を設立させた。ここに集められたトゥバ人は1980 年代半ばには、トナカイの再分配を受けてトナカイ専業牧夫となるか、国営企業(製材所、 漁業センター)労働者になった。現在、西タイガ地域の世帯の多くはオラーンオール郡居 住時より、トナカイ飼育に携わってきた世帯たちであるのに対し、東タイガ地域の世帯の 多くはツァガーンノール郡設立時にトナカイの再分配を受けた世帯であるという。 国営企業労働者、もしくは集団農場労働者となり給与所得者となった彼らにとって、狩 猟採集活動を複合的に行って生計を立てる必要はもはや無くなり、主食は小麦粉が中心と なり、貨幣経済下における既製品購入、換金可能物資の計画的な流通などが進む中、タイ ガの中に受け継がれてきた関連技術や知識、経験の喪失を招くこととなった。 ところが、社会主義崩壊後、狩猟採集活動は重要な位置に返り咲くこととなる。1990年 末の社会主義崩壊によって、給与支給が止まり、社会混乱の中で各種物資が困窮したため、 食料、生活必需品や日用品の確保、製作、そして現金獲得などおおよそ生きて行くに必要 なすべてを個人が賄わねばならなくなったのである。 4-3.社会主義崩壊後~ 2000年頃まで 社会主義崩壊直後、タイガに暮らしていたトナカイ専業牧夫にはトナカイだけが残され、 多い世帯で80頭前後、少ない世帯では数頭から十数頭だったと聞く。草原家畜と比較して 数を増やしにくく、群性が低いため管理に手間がかかり、搾乳量も時期も限られるトナカ イを大規模群で飼育すること自体がタイガの環境では無理だったのである。 タイガにおける機動力としてトナカイを残すために、食用にまわしたくない彼らにとっ て狩猟活動は必須の活動となり、銃弾を闇市場で購入しての密猟は1990年代半ばには公然 の秘密となった。リス撃ち用の小さなものから、散弾まで様々な銃弾が買い求められた。 むろん、これらの売買は違法行為であったが、市場では秘密裏に売買されていた。獲物は アカジカ、ノロジカ、ヘラジカ、ヒグマ、ジャコウジカなどが多かったが、まさに手当た り次第、出会った獲物はなんでも獲らねば食料に困るというのが現状であった。 狩猟によって得られる獲物の毛皮、皮は日用品製作の材料として、社会主義以前のよう に重要なものとなった。社会主義崩壊による社会混乱は慢性的な物資不足を引き起こし、 自作できるものは自作するのが当然となったのである。社会主義時代に既製品の利用に慣 れた若者の中には皮なめしなどの加工技術を知らない者も多かったが、かつてを知る世帯 主の世代によって生活必需品は自給自足出来ていた。 社会主義崩壊後、換金可能物資獲得は狩猟活動における最も重要な目的となっていた。 彼らの生活は現金なしにもはや成立しなくなっていたからである。学校に子どもを通わせ るため、医者にかかるため、主食料としてかかせない小麦粉やパンなどを購入するためな
ど現金なしに生活は成り立たなくなっていた。しかし、彼らの手元に残されたトナカイで 現金を得るには、トナカイ売買、もしく袋角売買程度しか方法はなく、現金獲得手段とし ての換金可能物資は欠くことのできないものであった。 社会主義崩壊後、中国商人の自由な活動にともない、漢方薬の原料となる鹿の尾、麝香 腺、熊の胆のう、肝などが高値で売買されるようになった。公にトナカイ角を漢方薬原料 として利用するようになったのは1979年秋からであったが、社会主義崩壊後は2000年代前 半くらいまで、中国人やモンゴル人の買い付け人がやってきては、鹿の尾、麝香腺などを 高値で買っていったという。 社会主義崩壊後はタイガの麓に住むモンゴル人も木の実やシベリアマツの実を求めてタ イガに入っていくことが増えた。バイヤーの注文を受けて自分自身がタイガに採りに行く か、もしくはよりタイガを知るタイガ在住のトゥバ人から買い取るなどしていた。 以上のように、社会主義崩壊直後の混乱期を乗り切るためにタイガのトゥバ人は、おお よそ考えられる限りの経験や知識を呼び起こし、総動員していた。逆に言えば、タイガか ら得られる資源を的確に利用できれば、タイガでの生活は可能であることを証明している かのようでもあった。つまり、社会主義時代以前のタイガでの生活様式は、モンゴル社会 への適応を前提にしなければ、十分に成り立つものであり、むしろ社会主義時代にモンゴ ル側から生活様式に介入がなければ社会主義崩壊直後の混乱はここまでひどいものとなら なかったのかもしれない。 4-4.資本主義経済安定期以降 2000年頃から観光産業の発展、モンゴル人との婚姻の増加、金鉱山発見に伴うトナカイ 特需(西村 2012:63-64)などによってタイガでの生活は安定し始める10)。観光産業、およ びトナカイ特需などは現金収入の道を開き、モンゴル人との婚姻は草原家畜獲得による食 料確保方法の多様化をもたらした。観光産業による収益は不安定であり、トナカイ特需も わずか2年足らずで終わってしまったとはいえ、密猟を行うより安全で、効率的な現金収入 であった。特にトナカイ特需の経済効果は莫大であった。この時、得られた収入は、乗用 車や冬営地の購入11)、そして草原家畜購入にあてられた。婚資として草原家畜を得るか、 購入するかなどして、彼らは草原家畜を所有するに至った。そして草原家畜を所有するこ とで食料調達は格段に容易になった。 このような社会変化の中で、狩猟採集活動は主生業としての役割はほぼ失うこととなっ た。狩猟活動は2010年頃から監視も厳しく12)、罰金額も高額になり、密猟をしてまで狩り に出かける理由も必要もなくなった。漁労活動はレジャーとして子どもが行うもの、採集 活動はタマネギ、クロマメノキ、シベリアマツの実の採集は行われてはいるが、必須の活 動では無くなったのである。
5.タイガにおける狩猟採集活動の実際 ここからは狩猟採集活動が実際にどのように行われていたかを報告する。以下に狩猟、 採集活動のそれぞれにおいて、その方法を中心に記していくが、ここで報告するのは1995 年から現在に至るまで、特に狩猟活動が厳しく監視、制限されるようになりはじめる2010 年頃までに西タイガのB氏宅に滞在しながら見聞した事例である。なお、採集活動に関し ては概観する程度とする。 5-1.狩猟活動の実際 食料調達を目的とした狩猟活動は一年を通じて適宜行われていたが、毛皮を目的とした 狩りは10月以降、寒くなって毛皮の状態がよりよくなってからがシーズンとなる。他の換 金可能物資は特に季節を気にすること無く、換金可能物資を得ることのみを目的として狩 りに出ることはなかった。 狩猟は①追跡猟、②巻狩、③ワナ猟、④投擲猟が行われた。 ①追跡猟と②巻狩 猟に出かける期間は数日から一週間が普通だが、時に一ヶ月近くに至ることもあった。 秋は居住地の移動が頻繁なため、狩りの平均的期間は約10日前後であった13)。それに対し て、冬期の狩りは、道中の食料が尽きるまでを目安とし、長期間となる場合もある。狩り での一日の移動距離は、30キロメートルから50キロメートルに及び長いと一ヶ月近くにな る。 一年を通じて行われる食料獲得のための狩猟活動ではあるが、秋から春にかけてが、狩 りをしやすい時期だという。糞や足跡が雪に残り、獲物の所在や動きを把握しやすいから である。特に獲物を決めているわけではなく、9月頃から雪が無くなる6月頃まではトナカ イ、6月から8月末くらいまでは馬に乗って出かけることがあるが、基本的に、狩りはトナ カイで行く。自分が乗るトナカイの鞍に1 ~ 3頭をつなぐ(写真④)。人数が多い場合は狩 りの日数に応じて連れて行くトナカイの数は変わる。長期間にわたって、複数の獲物を求 めて行く予定であれば、獲物の肉を積むトナカイの数も多くなる。一頭のトナカイにおお よそ80kg程度が積めるが、鹿一頭は大物だと400kgにも及ぶからである。 鞍の右後方の鞍ひもに荷物用トナカイの引き紐を結ぶ。トナカイにつけられているのは ヤンガルツァグと呼ばれる木製の荷物用鞍で、これはダルハド盆地地域のモンゴル人も同 様に呼び、またウシに荷積みする際に利用している(写真⑤)。 銃をたすき掛けに背負って、折りたたみ式ナイフや薬莢や火薬などは専用の袋にいれて 携帯し、振分鞄に道中の食料、調理器具などを入れて鞍につける。この振分鞄はバルバと 呼ばれ、革製のものが好まれる。調理器具は一組あれば十分だが、大人数で行く場合は適 当な数だけ持って行くことになる。 狩りに出かけるときに持って行く食料は茶葉、茶に入れる乳、ホジルと呼ばれる天然ソー
ダ、パンや自家製もしくは市販の乾麺、小麦粉を練って油で揚げたものなどの小麦粉加工 品、もしくは小麦粉をただ炒ったものを持って行く。この炒り小麦粉はハールガンと呼ば れる。動物の脂を溶かす、もしくは植物油を鍋に塗って、小麦粉を加え、弱火でゆっくり ときつね色になるまで炒る。これを革袋などに入れて携帯し、お茶で練って食べる。これ は社会主義崩壊直後にもっとも一般的な小麦粉を食す方法であった。スプーン大さじで2 ~ 3杯量を椀に入れ、お茶を好みで入れて練り上げる。お茶さえわかせば、食事が出来る し、かさばらないので、一般の食事として利用されることはほとんどなくなった今でも携 帯食としては利用が続いている。 調理器具としては手製の吊り下げ鍋、吊り下げ用ワイヤー、ひしゃく(柄は着脱式になっ ていて、持ち運ぶ場合もあれば、利用するたびに製作利用する場合もある)、木製もしくは 陶器の茶碗などがダーリンと呼ばれる革袋、布袋に入れられている。 寝具は敷物と掛け布団の代わりの毛皮や綿入りだが、これらはトナカイに鞍をつける際 に下鞍として使われて運搬される。特に専用のタープやテントを持ち運ぶのは最近のこと で、雨天時の雨よけなどに利用する帆布などを下鞍の代わりにして携帯する。 斧の携帯は必須である。斧には刃止めがつけられている。冬期の狩りの場合、野外泊を する際に雪をかく大きな木製のシャベルを持って行くこともある。 狩りに出発する当日は、午前中、トナカイに食事をさせ、午後から出発する。なお、季 節や宿営地の条件によって夜間食事をとれるような放牧をするか、夜中つないでおくかな どの違いはあるが、トナカイで狩りに出る場合は明るくなってからたっぷりと食事をさせ るようにする。出発直前になってから、トナカイたちに鞍をつけ、付け終わるとお茶を飲 むなどして一服する。そして、荷物を積んでから、また一服する。急いで出発するのはよ くないこととされる。ゆっくりと準備をして、食事をゆっくりしてから、出発する。 狩りには犬を連れて行く。タイガで犬は基本的に番犬、猟犬として飼われている。基本 的に放し飼いにされており、かなり自由に遠出できる状況にあるが、人がトナカイや馬で 移動するとなると、ついてくることが多い。狩りに行くときには特に狩りに慣れている犬 以外は一時的につないでおき、特定の犬だけを同行させる。 狩りは単独猟の場合は足跡を発見し、ひたすらに追跡を続ける追跡猟を行うことが多い。 これに対し、複数名で狩りを行う場合は、足跡を発見後、ある程度追跡し、巻狩を行う。 【秋の巻狩】(地図②) 1999年9月19日~ 20日にかけて狩りに同行した。この時は、前日から雪がほんの数セン チ程度だが積もっていた。しかし、足跡を見つけやすいと、滞在宅の男児全員が午後から 狩りに出かけると言い出した。上から順に19歳、13歳、12歳、9歳、7歳の5人の男児と私を あわせて6人が午後から出発した。この狩りは多分にレジャー的なものであり、獲物を得る ことよりも、獲物の足跡の見つけ方、見分け方、追い方などを子どもたちが覚える機会と して行われたようであった。そのため、日程は一泊二日が最初から予定されていた。本来
であれば、この時期の狩りは発情期に入ったアカジカやノロジカを狩りの対象として、トゥ バ語でモルノ(Морно)という鹿笛を使った狩りを行う。もしも得られたなら幸運だとい う程度の期待しか持てない狩りのメンバーであったが、鹿笛を使った狩りの方法を直接観 る機会となった。 長男のトナカイに2頭の荷物トナカイがつなげられ、後は全員一頭ずつでノホイントルゴ イ秋営地を出た。この秋営地は秋中期営地と筆者が分類する営地である。小川の上流域に あり、標高は1800m前後と高く、営地からすこし上流にあがると森林限界を超え、切り立っ た岩山が自然の柵のようになっており、ここをトナカイの放牧地としている。出発して、 まずはいったん小川を下り、ジョログ川の開けた河原を目指す。道中のクロマメノキの群 生地で一服し、河原に降りたら、今度はそこで魚採りを彼らは始めるなど、まさに遊びに 出てきたかのような様相を呈していた。しかし、得られるものがあるならば、とりあえず それらを得て、先に進むというのは彼らの基本的な考え方のようでもあった。漁労活動に ついては後述するが、この時、彼らは投石猟を行った。 魚採りを終えてからは、ひたすらに川沿いを上流へと上っていった。当時、しばらく幹 線道路として使っているはっきりとした道を進んだが、途中から道からはずれ、山の尾根 を目指して斜面を斜めにジグザグに山の南側斜面を登り始めた。南側斜面を登れば、雪は 少なめで登りやすく、早く安全に尾根に出られるからである。登っていく途中で森林限界 を超え、木はなくなり完全なガレ場をいく(写真⑥)。そこはトナカイ一頭が通れるような 尾根だった。すぐ横の斜面はとても急で、むしろトナカイから降りて歩いていくことは出 来ないだろう雪の積もった尾根をトナカイで行く。トナカイでなくてはここを行くことは 間違いなく不可能だろう。先頭の長男は適宜、双眼鏡で周辺を確認しながら、北側から南 側へと移動したらしい新雪についた鹿の足跡を見つけた。つまり、我々の進行方向からみ て、南側に開けている谷間へ獲物が移動したということである。ここで長男はモルノを取 り出した。モルノは長さ50 ~ 60センチの長さの円錐形をしており、両側は開いていて、中 は空洞である。先端の細い方を口の端にあて、しっかり固定して、吸い上げて音を出す(写 真⑦)。これは発情期に入ったノロジカが交尾の相手を求めて無く声に似ている14)。音はだ いたい3音階くらいを鳴らせなければならない。モルノを鳴らしては山頂から眼下に広がる 谷間に目を凝らす(写真⑧)。この段階で、鹿が見えたならここから射撃するらしい。持っ ていた銃はロシア製の射程距離800mのAK高性能銃が一丁、射程距離250mのハリヤバル銃 が2丁だった。残念ながら陽が落ちてしまったため、どこの谷間に入り込んだかを確認し、 急斜面の尾根を徒歩で降り、野営した。 谷まで降りて食事をしながら、長男と次男は尾根でみた鹿の足跡がどちらに向かったか などを話し合い、他の3人はそれを黙って聞いていた。銃を扱うのは長男、次男、三男であ る。翌朝、本当であれば7時頃の出発を予定していたのだが、9時になってからようやく狩 りをはじめた。ツァガーンゴル川流域の西側斜面を足跡を確認しながら尾根まで登った。
モルノを鳴らすが、鹿は見つからない。しかし、眼下の谷間に鹿がいることを確認した長 男は谷間の東側斜面を単独で行くことにして、我々には今来た西側斜面を下るように指示 をした。長男は単独で東側斜面を素早く下り、我々の移動によって西側斜面から東側へと 逃げてくると予測された鹿を撃つというのが作戦だったようだ。我々を勢子にして獲物を おびき出そうとしたのだ。しかし、子どもたちはこの作戦を理解していなかったようだ。 本来であれば、もっとゆっくりと獲物にこちらの存在がわかるようにしながら移動すべき を、すごいスピードで斜面を降りて行ってしまったのである。長男が待ち伏せポイントに つく前に、さらには鹿が谷間を降りるより早いスピードで移動してしまった。しんがりだっ た私と、末っ子の二人が半ばおいて行かれるような状態に陥ったのだが、残された我々は 東側斜面から降りてきた鹿と遭遇した。大きな雌鹿だった。本当であれば、この鹿を我々 が谷の低い方へ、しかし、西側斜面を超えさせないようにしながら、東側斜面を急いで下っ た長男がまっている方へ誘導しなければならなかったのであったが、鹿より先に下ってし まったため、我々に気づいた鹿は逆の上流域へと逃げてしまった。 こうして鹿を捕らえることは出来ずに家路に我々はついたのであった。 この時の狩りには犬は同行していなかったが、単独で行う追跡猟の場合だと、ある程度 の距離まで近づければ犬が追い立ててくれるので、それを見越して待ち伏せることもある らしい。また、足跡を見つける前に、犬が獲物を発見し、追い立てることも多くある。木 の上に逃げたリスやオオヤマネコなどまでをも、それらの存在を犬が教えてくれるのであ る。場合によるが、ウサギなどは犬が直接捕まえてくれることもあるという。 【冬の狩り】 冬期の狩りには、秋と同様に数名で出かけ、巻き狩りを行う方法と、単独もしくは少人 数で足跡を追跡、犬をけしかける方法、更にワナを仕掛ける方法がある。巻き狩りを行う 場合、秋のように鹿笛は使わない。冬期の巻き狩りは足跡を追跡し、所在を確認した後で、 勢子と射手に分かれる。しかし、雪が深く積もる冬期は音が遠くまで聞こえてしまい、人 数が多いと、獲物に覚られやすくなってしまう。そのため、多くて3人程度で足跡を追跡 し、獲物を追いつめる方法が多く取られる。機動力が必要なため、むしろ少人数の方がい いと言われる。 冬の後半から春の初めにかけてはスキーを使った狩りが行われる。暖かくなり始めると 積雪面の表面が太陽光で日中は少し溶け、夜には再び凍る。こうして凍った雪面をトナカ イで移動すると、氷がトナカイの足を傷つけるといわれ、さらに、トナカイに騎乗しての 移動スピードは遅くなり追跡が困難になるため、この時期は山頂付近までトナカイで登り、 足跡を確認しながら獲物のいそうな谷間などを山頂付近から観察し、獲物を発見したとき にはスキーを使って、滑り降り、獲物に接近して射撃するのだそうだ。 スキーは幅16㎝、長さ170㎝、裏面に馬の毛皮が貼られている。貼られた馬の毛皮は3カ 所に三角形に切り込みが入れられている。水平面は後端から130㎝、先端は水平面から15㎝
あり、反り返っている。足を乗せる場所はスキーの後端から77㎝の所にあり、通してある 革ひもでつま先を固定するが、かかとは浮いたままである。ストックに特別な物を用意せ ず、適当な長さの木の棒一本を使って、方向転換および速度調整、停止動作を行う(写真 ⑩)。幅広のため、深い雪の上も難無く歩くことが出来、馬の毛皮は滑る方向に順目になる ように貼られているので、斜面を登るときは逆目となり、ストッパーの役目を果たしてい る15)。1997年当時、西タイガでこの形のスキーを所有しているのはわずかに3世帯しかな かった。この毛皮を貼った木製のスキーをトゥバ語ではハーグ(хааг)、モンゴル語でツァ ン(цана)と呼ぶ。一方、クロスカントリーで使われるような細くて短いスキーを所有す る家もあり、これはリーズと呼ばれ、ツァンとは呼び分けている。これはツァナと比べて 細く短く、長さ約150㎝、幅約8㎝である。板の中央部分に革ひもを通し、それでつま先を 固定する。リーズはツァナより持ち運びに便利だというが、持っている家は少ない。 ③わな猟 筆者の現地調査中に確認できたワナは、トラバサミ(ハブハ(хавх))、くくり罠(オル ヒ(урхи))、仕掛け弓(サーリ(сааль))であった。なお、松下(2001:12)に報告され ているザンガは使われなくなっていた16)。毛皮を採ることが目的とされ、銃弾痕が残らず、 何度も使えるため、好んで使われていた。 1998年時、雪が積もってからのクロテン猟、キタリス猟にはもっぱらトラバサミが利用 されていた。足跡を探し出して、そこに仕掛ける。クロテンには一定の移動ルートがあり、 かつ歩幅が一定であるため、そのルート上に仕掛ければ捕獲しやすいという。トラバサミ 一つは3,500tgで売買された。罠は折り合いがつけば、貸し借りが行われ、罠10個を10日間 ほど借りて、得たクロテン2匹を罠の持ち主に渡すなどのやりとりを耳にした。 くくり罠はうさぎ狩りに使われることが多かった。やはり移動ルート上に仕掛けておく。 輪をくぐると絞まるようになっており、針金や紐を使って簡単に自作できるので、子ども が遊び半分に仕掛けておくことも多い。 仕掛け弓(写真⑨)はジャコウジカ、イノシシやノロジカなどを目的に利用していた。 なお、社会主義時代には、人に被害が及ぶ可能性があるとして、非常に厳しく取り締まら れていた。獲物が通るルート上に糸を張り、ここを獲物が通過して糸を切る、もしくは張 りを緩めると弓が射出される。仕掛け弓の設置はトナカイ放牧を行っている地域から離れ たところに仕掛け、仕掛けた周囲に広く柵をもうけ、入り口を一カ所にしておく。こうす ることで仕掛け弓の存在を他の猟師たちに知らせるようにしていた。特に動きの素早い ジャコウジカ狩りに有効な猟法だといわれていた。筆者の調査時には利用しているのを見 ることはなかったが、比較的最近まで利用していたという話はあちらこちらで聞かされた。 製作するのは容易だとも話していた。
④投擲猟 通常であれば、子どもたちが遊び半分で行う。投げる物はなんでもよい。目についた物、 手に触れた物、石、木の枝、薪、斧、ナイフ、まさに手当たり次第投げつける。5m ~ 10m くらいの距離にいるキタリス、シマリス、ナキウサギ、鳥類などが標的となる。1996年の 調査時には子どものほとんどがおもちゃとして手製のパチンコを持っていた。精度も悪く、 用を足さないだろうと思っていたのだが、とても上手に捕まえてきていた。ただ、わざわ ざパチンコを使うよりも普通に手で投げた方があたるようであった。 大人たちにしても、とっさの時には手当たり次第なんでも投げつけて捕ろうとする。捕っ たリスは毛皮をはいでハンガ(ханга)という板状の木に貼り付けるか(写真⑪)、家の柱 に貼り付けて乾かして、帽子の材料などにする(写真⑫)。 5-2.漁労活動 もっぱら食料獲得手段として、漁労、採集も時期がくると頻繁に行われるようになる。 特に夏から秋にかけ、川が凍る前に行われる。採集活動は8月後半くらいから、適宜はじめ られる。タイガの麓、草原地域を流れる川ではアムールイトウ、ツァガーンザガス、コク チマス、カワメンタイ、ナマズなどが豊富に獲られる。タイガの中で獲る魚の多くはヒコ クチマスで、15センチから25センチくらいである。 タイガで魚を捕る方法には①網漁、②ダルカ漁、③投石漁、④ルアーや毛針を使った針 漁、⑤手づかみ漁の5種類がある。 ①網漁 川に網を張って、周りから追い込む方法である(写真⑬)。追い込むにあたり、石を投げ て脅かしたり、トナカイで川に入って魚を追い込むこともある。 網は村で購入してきたものであり、社会主義時代以降に流布した方法らしい。3 ~ 5人く らいで出かけ、網に重石として河原で拾った石を結びつけ、一人が向こう岸に渡り、網を 張る。他の者達は、網を張った場所の周辺に石を投げ込み、魚を網へと追いやる。この時、 網を張った上流で同時に後述のダルカ漁を行うこともある。この漁は深さ2m程度までの川 で漁を行う。使っている網はかつてのソビエト製のもので、持つ世帯は少なく、1997年時、 調査地で所有していたのは1世帯のみであった。2018年現在においても特に増えた様子は無 い。 ②ダルカ漁 ダルカ漁には3 ~ 5人ほどで出かける(写真⑭)。ダルカ(дарка)というのはトゥバ語 だが、モンゴル語でタトールと呼ばれる方が、いまや一般的である。タトールというのは モンゴル語のタタフ(tatah「引く」)を意味する言葉と関連があり、「引く道具」を意味す る。金属製で、長さ10㎝~ 15㎝くらいの銛のような形をしている。しかし、先端に返しは 無い。2叉、または3叉に分かれており、うち一つは柄に取り付けるように曲がっている(写