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National Film Board of Canada / NHK / National Film Board of Canada / NHK / Eadweard Muybridge, ; 1 2 Liland Stanford 19 Ad

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1. はじめに 山村浩二は「頭山」(2003)がアカデミー賞にノミネートされたことで,マスコミに大き く取り上げられ,同作品が3大国際アニメーションフェスティバルのアヌシー,ザグレブ, 広島のいずれでもグランプリを獲得したことで知られている。その彼が,「マイブリッジの糸」 を2011 年に完成させ,公開した。山村作品は人間の不条理な側面を描くことから,難解で, さまざまな象徴が描きこまれることで,多層な解釈を可能にする。「マイブリッジの糸」も そうした作品に仕上がっている。しかしそうでありながら,この作品には山村のライフサイ クルのテーマも盛り込まれているようにみえる。その意味では臨床心理学的にみて大変興味 深い。 2. 「マイブリッジの糸」の内容 「マイブリッジの糸」は物語を記述するのが難しい。それは時間を表現することがテーマ になっているからであり,象徴的な表現が,いたるところにあるからである。しかし,そう した中にも二つの物語が中心にはなっている。ひとつは映画の父とよばれているマイブリッ

横 田 正 夫

山村浩二の「マイブリッジの糸」についての

心理学的検討

表1 マイブリッジの経歴 1830 年4 月 9 日 英国の Kingston-upon-Thames に生まれる 1852 年(22 歳) アメリカに移民 1860 年(30 歳) 馬車の事故にあい意識を失う,以降頭痛と二重視に生涯悩む 1867 年(37 歳) アメリカに戻り写真家となる 1871 年(41 歳) フローラ(19 歳)と結婚 1872 年(42 歳) 最初の馬のトッロットで走る姿を撮影 1874 年(44 歳) ハリー・ラーキンズ射殺 1875 年(45 歳) 無罪(フローラ死亡) 1879 年(49 歳) ゾープラクシスコープ制作 1887 年(57 歳) Animal Locomotion 出版

1893 年(63 歳) シカゴの World’s Columbia Exposition でゾープラクシスコープの上映 1904 年(74 歳) Kingston-upon-Thames で亡くなる

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ジ(Eadweard Muybridge, 1830-1904; 表1参照)の物語であり,もうひとつは日本の母娘の 物語である。図1 に示したように赤ん坊の手と母親の手が交互に上になるように描かれ,赤 ん坊の手は徐々に成長し,大きくなり,母親の手は徐々に老化し,皺が寄ってゆくシーンが 描かれ,その後にタイトルが来る。タイトルに続いてマイブリッジの写真と彼の業績が紹介 される。そしてマイブリッジの目のアップと,その目に映る馬の走りの姿と,目を閉じた後 の暗いなかに馬がやはり走りすぎるさまが描かれる。目が閉じると同時に秒針の進む音が聞 こえ,マイブリッジが時計をみている姿が映し出される(図2)。馬のトロットで走るとこ ろを撮影する場所に立って,まさにその撮影を始めようとしているところである。こうして アニメーションが始まる。 マイブリッジは,伝記によれば,イギリスからアメリカに渡り,風景写真家,パノラマ写 真家として有名となり,カルフォルニアの名士であるリーランド・スタンフォード(Liland Stanford)の依頼にこたえて馬のトロットで駆ける姿の撮影に成功する。スタンフォード とマイブリッジの馬の撮影への執念については,19 世紀において馬が農作業,移動手段, 娯楽といった日常生活になくてはならない動物であったということが深く関係している (Adam, 2010)。マイブリッジは,その後動物の動きの写真を撮り始める。そして動物の動き から人間の動きについて,10 万枚もの膨大な量の写真を撮り,それらを目でみる動きの辞 典のようにして出版することで世界的に有名となった(Adam, 2010)。また,動物の動き写 真をもとにした絵を使い,その絵をスクリーンに投射して,多くの観客に,動物の動きを再 現してみせた。これは一種のアニメーションであり,その上映でもあった。こうしたマイブ リッジの履歴に関連してアニメーションの中では,3つの年号が示される。登場する順番は, 1877 年,1867 年,1893 年である。1877 年は,馬のトロットで駆ける姿の撮影をした年であ り,1867 年はイギリスからアメリカに 2 度目に渡った時とされており,これ以降マイブリッ ジは自身を写真家と名乗るようになった。1893 年は動きを投射して多くの人にみせるゾー プラクシスコープ(Zoopraxiscope)をシカゴの World’s Columbian Exposition で上映した年 図1 赤ん坊の手と母親の手が交互に上に

なり年齢を重ねる

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図2 時計を見ているマイブリッジ

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

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である。 しかしそのマイブリッジの成功の影に妻フローラ(Flora)の愛人ハリー・ラーキンズ(Harry Larkyns)を射殺した事件があった。アニメーションでは,マイブリッジの結婚,妻の不倫 (図3),赤ん坊を連れたマイブリッジ一家の汽車旅行,マイブリッジのラーキンズ射殺のエ ピソードがつなげられる。そしてアニメーションでは汽車旅行での車中で妻が赤ん坊を抱 え,その赤ん坊をマイブリッジが凝視し,猜疑心に苦しむ様子が描かれる。赤ん坊は妻の 唇をもてあそぶ男の顔になり,愛人がそのまま赤ん坊になっていくことでその子どもである かのように暗示される。これに対しマイブリッジの伝記によれば,マイブリッジは写真を撮 りに飛びまわり,妻のことはほとんど放置していた。家を留守にしているマイブリッジにフ ローラは手紙を書くが,彼は手紙へ返事もよこさないと不平を友人に漏らしていた(Braun, 2010)。こうした状況でラーキンズが接近してきた。それまでにフローラは 2 度流産を体験 しており,3 度目の妊娠であった。それにもかかわらずマイブリッジはフローラの出産時 には余所におり,出産を知らせる助産婦スーザン・スミス(Susan Smith)の電報で家に戻 り,10 日ほどフローラと赤ん坊のそばにいただけで,またすぐ彼は家を留守にしてしまう 図3 マイブリッジの妻の不倫

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図5 母親と娘二人がピアノを演奏

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図4 魚の腹から懐中時計が出てくる

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図6 娘が階段を上がってゆく

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

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(Braun, 2010)。マイブリッジが不倫を確信したのは,フローラの出産を助けたスミスの家で, 赤ん坊の写真をみたためであった。伝記に記されていることは,写真家のマイブリッジが自 分で撮ったものではない,だれか別の写真家の撮影した自分の赤ん坊の写真があり,その裏 側に,妻の自筆で“Little Harry” と書かれていたのを目にしたということであった(Clegg, 2007; Prodger, 2003)。こうしたことで,マイブリッジは妻の不倫の疑いを確実なものにし, 激情にかられラーキンズ殺害に至る。アニメーションのように,汽車旅行の車中で,赤ん坊 をみて猜疑し,確信したわけではない。しかし,こちらのほうがより暗示的である。なぜな らば,19 世紀には写真が時間を切り取って定着させ,時間を保存できるようにした一方で 汽車が移動の時間を短縮させ,空間体験を大きく変換させてしまったのであり,写真と汽車 がともに時間空間体験の変革を暗示しているからである(Solnit, 2003)。 「マイブリッジの糸」のもう一つの物語は,現代の日本の物語である。こちらは物語とい うよりも,母娘の経年的変化といった方がふさわしい。妊婦が,大きな魚を料理していると, その腹から懐中時計が出てくる(図4)。その懐中時計は,マイブリッジが,殺人を犯した後で, 海中に投げ捨てた,妻の写真を埋め込んだ懐中時計であった。子どもが生まれ,母娘の二人 がピアノを演奏する(図5)。二人の手が交互して,鍵盤を叩く。別の場面では子どもは階 段を上ってゆく(図6)。母親は階段を下りてくる。娘は床の上の人形を取り上げる。ピア ノを弾く母親と娘の手のアップ。母親は置き忘れられた娘の人形を手に取る。母親は娘を抱 きあげる(図7)。母親は娘の手を引いて歩く。母親と娘が二人並んでピアノを弾いている。 娘はブーケを持って母親の所にやってくる(図8)。こうした日常の場面の横には細かな砂 の落下が描かれる。砂は,未完成の馬の身体に落下しており,少しずつ埋まって馬の完成形 に近づき,やがて首が現れてくる。こうして馬の砂時計とともに子どもの誕生と成長,親の 老化が,人間の営みの永年の繰り返しとして,象徴される。日常の家庭の出来事はそれだけ で貴重だといっているようである。その証拠に,母親と娘の日常描写の間には,マイブリッ ジの撮影した動物たちの写真から作られた歩く姿が挿入され,両者は交互に提示される。 図7 母親は娘を抱き上げる

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図8 娘は母親にブーケを持って行く

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

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3. 2つの物語の関連 マイブリッジの家族の崩壊物語と日本の母娘の物語は相互に独立し,直接的なつながりは ない。マイブリッジの持っていた懐中時計が魚に食べられ,日本の妊婦がその腹の中から懐 中時計を取り出すという関係は示されているとしても,マイブリッジと母親とは何の関係も ない。こうした物語の並行関係は「マイブリッジの糸」独自の特徴というわけではない。川 本喜八郎監督の人形アニメーション「死者の書」においても主要登場人物の郎女と大伴家持 は相互に交わらない(横田,2006b,2009)。こうした物語構成に大きな違和感を持たずに, われわれは両者の間にある「思い」を感受する。「マイブリッジの糸」においても同様であろう。 さてアニメーションでマイブリッジの生涯には,成功物語と家族の崩壊物語の両方が描か れている。これはどのようなことを意図して作り出されたのであろうか。山村(2011)によ れば,「頭山」が終わって次に作るのはこれだと発想されたのが「マイブリッジの糸」であった。 表2 に示したように,山村は 1964 年生まれであり,「頭山」は 2003 年の作品なので,この 時39 歳である。「年をとった鰐」は 2005 年の作品で,この時 41 歳,「カフカ田舎医者」は 2007 年作品で,43 歳,「マイブリッジの糸」が 2011 年作品で,47 歳ということになる。つ まり30 歳代の後半から,40 歳代において,山村は,自身の作品世界を展開してきている。 そしてその内容が「頭山」以外は,外国人の原作ないしはマイブリッジといった外国人を対 象とした作品となっている。 ではマイブリッジその人はどうだったのであろうか(表1 参照)。1830 年生まれのマイブ リッジが離婚歴のある19 歳の娘フローラと結婚したのが 1871 年,41 歳のときであった。 馬の最初の撮影が1872 年,42 歳の時であった。ラーキンズ射殺が 1874 年,44 歳,裁判の 結果妻を守るのは夫の務めと認められ(Solnit, 2003; Clegg, 2007),無罪となるのが,1875 年, 45 歳のときであった。マイブリッジの殺人については,1860 年(表1参照)に受けた馬車 表2 山村浩二略歴 1964 年6 月 4 日生まれ 1983 年(19 歳) 東京造形大学絵画科入学 学生時代の作品「博物誌」「天体譜」 1987 年(23 歳) 「水棲」東京造形大学卒業 1989 年(25 歳) 「ひゃっかずかん」 1990 年(26 歳) 「遠近法の箱」 1991 年(27 歳) 「ふしぎなエレベーター」 1993 年(29 歳) ヤマムラアニメーション有限会社設立 1996 年(32 歳) 「バベルの本」 2003 年(39 歳) 「頭山」 2005 年(41 歳) 「年をとった鰐」 2007 年(43 歳) 「カフカ田舎医者」 2011 年(47 歳) 「マイブリッジの糸」

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の事故で眼窩前頭葉(orbitofrontal)が損傷したせいだとの理由(Shimamura, 2002),狂気 に陥ったとの理由,激怒のためとの理由などが挙げられている(Clegg, 2007)。無罪になっ た後マイブリッジは妻とは会わず,妻は離婚訴訟を起こすが,まもなく死亡した。赤ん坊は 乳児院に預けられ,マイブリッジは養育費を出しはしたものの,成長してもほとんど完全に 無視し続けた(Braun, 2010)。マイブリッジの事件は,彼の 40 歳代前半のことであった。 山村の作品歴とマイブリッジの家族崩壊物語を重ねると,後者は山村の影の物語になって いるように思える。マイブリッジにおいては社会的な名声を獲得し,世界的な作品を世に広 めてゆくという陽の世界と,その一方に影の世界があった。山村(2011)は,最初,マイブリッ ジの殺人には関心を持っていなかったが,それが徐々に重要な位置を占めるようになったと 説明している。マイブリッジの殺人のエピソードが重視されてきたということは,山村の中 に影になる部分があり,そこにはマイブリッジの殺人が暗示するような家族崩壊の恐れが あったのではないかと考えられないだろうか。山村作品の「頭山」「年をとった鰐」「カフカ 田舎医者」の3 作は,いずれも社会に馴染めない者のありようを描いている。そうした社会 に馴染めないありようのひとつの極端な形がマイブリッジの殺人物語とみることができる。 マイブリッジは,社会的には名声を獲得しても,家族には馴染めなかった人であった。そう したマイブリッジが後年膨大な写真を残した中で,かなりの分量を占めるのが女性のもので ある。男性は筋骨隆々としたたくましい人物が対象に選ばれているのに対し女性は淑やかな 家庭的な印象を与える人が選ばれている。しかも女性の動作は,階段を上り降りするものな どの日常動作が中心になっている。ここには女性の理想化が働き,理想化された妻フローラ の姿が投影されているかもしれない(Solnit, 2003)。家庭崩壊を体験したマイブリッジであっ たからこそ,そうした家庭的動作に執心したのかもしれない。 そして「マイブリッジの糸」の興味深い点は,マイブリッジの殺人物語の一方に,日本の 母娘の物語が設定されたことであった。上記のように,マイブリッジの懐中時計を魚の腹か ら取り出す妊婦は,マイブリッジの時代から現代まで,時が飛躍しているにしても,その遺 産を引き継いだのである。時計が示すように,時間を引き継いだのであろう。日本での場面 では雨が降っており,母親が描かれる場面でも雨音が聞こえ,外は雨であることが示される。 そして不思議なことに,日本の家族には,父親が描かれない。 日本ではもっぱら母娘のみが描かれるということは山村がマイブリッジのように外国の フェスティバルなどに出かけて賞を獲得するということに対応しているようにみえる。また 「マイブリッジの糸」をカナダ国立映画制作庁(NFB)で制作するということが,マイブリッ ジがイギリスからアメリカに渡り写真家になったことに重なる。つまり山村も,家族を日本 に残して,一人外国を旅するといったことが多かったであろう。とすると,マイブリッジの 物語と,日本の母子の物語は,山村自身の家族についての象徴的な物語と考えられる。山村 の海外での活躍は,日本での母娘の絆の支えがあって,それがまた世代をつなげてゆくであ ろうという確信があって,成り立っているということなのであろう。

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アニメーションの途中に箱舟の上のノアが小さな娘にブーケを渡すシーンが挟まる。ノア の箱舟のシーンでは雨が降っており,上記の日本のシーンで雨が降っていることにつながる。 そのノアはいつの間にかマイブリッジの姿になり替わり,船出が描かれる。小さな娘はブー ケを持って母親の所へ行く。母親はそのブーケをいとおしげに受け取る。この小さな女の子 が母親にブーケを渡す行動はマイブリッジの撮影した連続写真のひとつにもあり(Plate 465: Child bringing a bouquet to a woman),エンドタイトルに重ねて使用されている。いずれに してもマイブリッジから渡されたブーケは,女の子の手で母親に渡された。これと同様に山 村の作品は,女の子のブーケが暗示するように,母親に渡されるべきもの(ブーケ)でもあ るのであろう。 山村の履歴によれば,1993 年 29 歳のときに妻とともにヤマムラアニメーション有限会 社を立ち上げ,10 年後の 2003 年に上記のように「頭山」を発表し,それから約 10 年後の 2011 年に「マイブリッジの糸」を完成させている。ほぼ 10 年ステップで,作品展開の中で, 自身の在り方を発展させていることになる。会社を作ったことで社会に足場を作り,「頭山」 で自身のオリジナル世界を展開し,「マイブリッジの糸」で自身が家族に支えられているこ とを示したということである。 4. 目と時間 「マイブリッジの糸」は時間を描いている作品と山村(2011)は位置づけている。しかし, そうではあっても目への関心も強い(横田,2009)。「マイブリッジの糸」の出だしは,マイ ブリッジの目のクローズアップである。そのクローズアップの目に馬の走る姿が映る。瞼を 閉じると,暗黒の中に馬が走る姿が映し出される。このように目がカメラのように外界を捉 えることが示される。別のシーンでは,走ってくる汽車に向かってマイブリッジの目が向け られる。クローズアップの目には走りすぎる汽車の窓が流れてみえる。ラーキンズを射殺す る時にも目のクローズアップが入る。クローズアップの目には馬が走る姿が映し出される。 その馬が糸を走りながら切って,その瞬間で停止する。糸を切るときカシャっとシャッター 音が聞こえる。馬の動きが停止してから銃 声が響く。 馬の足が糸を切ってゆくのは,マイブ リッジの開発した連続写真を撮影する装置 にある仕掛けである。アニメーションで は24 体並んだカメラの前に,糸が張られ, その糸が切られることでシャッターが下り るような仕掛けが施されていることを紹介 する(図9)。馬はその糸を走って切って ゆくことで,糸を切った瞬間の姿が写真に 図9 馬が糸を切って走る

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

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残される。つまり糸を切ることは馬の動きの瞬間を停止させることにつながっている。また その写真を連続して提示することで馬の走りが再現されることを,やはりアニメーションは 示している。山村の示しているシャッター音は,糸を切ることと一緒であるので,そこで時 間が断絶した(瞬間が写真に定着された)ことを示している。しかしそれにしても外界の馬 の走りを捉えるのは,クローズアップされた目であった。 目の強調ということで思い出されるのは山村の23 歳時の作品「水棲」である。この作品 において,人の目のクローズアップからアニメーションが始まるといったように目が強調さ れている。みることが山村の関心ごとであって,しかしみることは,目の機能的限界によっ て捉えられないものもある。マイブリッジの撮影が示したのは,馬が走るときに4 足とも地 面から離れている瞬間があるという事実であり,また写真はそれまでの画家たちの描いてい る馬の走り方とは全く異なるということであった。つまり画家たちの目には捉えられなかっ た現実をカメラが捉えていたのであり,その意味でマイブリッジの写真は衝撃的であった。 画家たちがマイブリッジの写真に強い関心を示したのも当然であった。この間の事情を「寫 眞史」の中で伊藤(1992)は「こうして写された連続写真は,ギャロップする馬の四本脚が 一瞬完全に地面から離れるのは前脚と後脚が胴の下で出会う時だけだということを人びとに 知らせ,驚かせる。というのも,それまで何世紀にもわたって,前後の脚が伸びきって地面 から離れている馬のギャロップ状態の絵が描かれてきたからである」(p.98)と述べている。 そしてそれは後年の山村のようなアニメーターにおいても同様であったろう。目では把握で きない,非常に短い時間内での出来事の再現が,アニメーターには要求されるのである。と するならば,マイブリッジの写真への強烈な関心は,山村のアニメーションへの強烈な関心 と同根のものとして理解できる。 アニメーションには時間が表現されている。マイブリッジの意図したような非常に短い 時間の目には把握できないような瞬間の再現とその逆に母子のつながりのように永遠につな がってゆく生命の連鎖といった時間の流れである。非常に短い時間の再現は,マイブリッジ の目に象徴され,また馬の走りのように写真撮影によって分析されたあとで実現された。し かし,そうした短い時間ということでは,無限に短く細分化可能なのであり,それはアキレ スと亀の話のように,両者の間を2 分割してゆくと,いつまでもきりなく2分割可能である から,時間を分割して再現するといった時間の分析的再現もまたきりなく短い時間を設定 できる。「マイブリッジの糸」のなかにアキレスと亀の話が挿入されるのは,そうした意図 があってのことであろう。一方生命の連鎖では,母子間での遺伝情報が伝達され,両者の 間は,緊密な糸で結ばれる。このことをアニメーションでは次のように描いている。すなわ ち顔が時計の文字盤となった母親が,やはり時計の文字盤となった赤子を胸に抱えている (図10)。それら両者は生命の誕生した海の中から出現する。母親は幼子の手を優しく包む (図11)。また別のシーンで,母親と子どもは,両者お互いの身体が糸によってつながれて いる(図12)。その糸は,中空で途切れてゆく。

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アニメーションの始まりのほうで,マイブリッジが撮影を始めようとしている糸に手をか けると,その後ろにはノアの箱舟の船上で動物たちが,一斉に走り出そうとするかのように 一列に並んで,前のめりになる(図13)。これはノアの箱舟といった神話的世界から今まで, 連綿とつながってきている時間の流れがあることを暗示しており,また母娘の間の糸のつな がりが示すように,将来にも受け継がれてゆく時間であることも同時に示している。つまり 山村の示している時間は,細分化の方向と,永遠化の方向と両方があり,後者の永遠につな がるような時間の連鎖は,母娘によって媒介されているということなのであろう。 5. 神話 「マイブリッジの糸」には上述のようにノアと箱舟が出現してきている。ノアはまた先に 述べたようにマイブリッジに変身する。ということは,マイブリッジをノアのような人とみ なしているということである。これはどういうことなのであろうか。山村(2011)はマイブリッ ジが執拗に写真を撮り続けたのは,世界を百科全書的にとらえようとしたからではないかと 語っている。マイブリッジの伝記を書いたClegg(2007)もマイブリッジの動物写真をノア にからめて言及している。考えてみればノアはひとつがいのすべての動物たちを箱舟の中に 図11 母親の手が赤ん坊の手を包む

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図10 時計の文字盤の頭を持った母子

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図13 動物たちが走りだそうと前のめりになる

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

図12 お互いの体が糸によってつながっている

ⓒ 2011 National Film Board of Canada / NHK / Polygon Pictures

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集めたのであって,ここには百科全書的な意味合いがあるのであろう。そして山村は学生時 代から百科全書的な内容の作品を作っていることも思い出される。学生時代の作品「博物誌」 では目玉から始まって,それがいろいろな滅びた動物に変身してゆく様子が描かれる。また 別の学生時代の作品「天体譜」では天空の星の配列にやはりさまざまな動物をみるというも のである。その後の作品「ひゃっかずかん」ではしりとり歌となって画面が展開する。その 中の一部は「とりなおし」「しんか」「かくせんそう」「うき」「きあい」「いのち」「ちきゅう」 といったように,やり直しと進化,進化と破滅(核戦争),命と地球が交互に出現し,世界 のありようの対極が描かれる。このように山村は,作品の作り始めから,たくさんのものを つぎつぎに描きこんでゆくことを好んでいた。子ども向けの「バベルの本」では,子どもが バス停近くのベンチに置き忘れられた本を開くと,本の頁上にバベルの塔が立ち上がり,そ の塔の中をのぞくと,本を読んでいる小さな人がみえる。その人はのぞかれているのを知っ て本を残して去ってゆく。子どもは手をバベルの塔のてっぺんから突っ込んで,その小さな 本を取り出す。そしてそれを開いてみると,本の世界に入り込んでしまう。本の世界では, 海に船出した船の話となり,小島について取った魚を食べ,寝ていると,その小島が動き始 める。それは巨大な魚の背中だった。子どもは海に放り投げられ,魚に飲み込まれようとす る。と,現実世界で本が閉じられ,もとに戻る。本の持ち主が現れ,返してくれと手を出す ので,子どもはそれを手渡す。このように本の世界に入り込んで,子どもがその世界のリア ルに取り込まれるのであるが,作品のタイトルが「バベルの本」であるので,そこにはたく さんの言語の本が集められているだろうことが暗示される。百科全書というよりは,図書館 にあるように膨大な本がさまざまな世界を示してくれるというのがバベルの本の意味なので あろう。たくさんのものが集められていることへの山村の関心がよく表れている。 以上のように,山村はノアやバベルという神話的世界を引用している。そこには山村の百 科全書的なものへの好みが反映されており,世界をよく知りたいといった意図を反映してい るようにもみえる。そしてそのためにはしっかりみることが肝心だというように,上記のよ うに,目が好んで描かれる。すでに触れたように,「水棲」は目から始まり,「博物誌」も目 から始まり,「遠近法の箱」では双眼鏡を使って遠くをみる人が描かれ,「ひゃっかずかん」 の別のところではしりとりの途中に「め」「めめめ」「めだま」といったようにまさに目だけ が描かれ,また上記の「ちきゅう」のあとに「うま」が続くのであるが,そこでは遠眼鏡で 馬の動きが観察される。マイブリッジの目が馬の動きを観察しているのと同様である。そう した目への関心の背後には,現実的な生き物ではない奇妙な不定形の生命が存在しているよ うにも描かれる。「遠近法の箱」においては,双眼鏡の男が通り過ぎた背後には,顔が時計 になっているサラリーマンがさりげなく登場する。「マイブリッジの糸」では母娘の顔が時 計の文字盤になっていたことの前駆形態であろう。子ども向けのアニメーション「ふしぎな エレベーター」では,一人で遊ぶ男の子がエレベーターに乗って下降したところ,地面を通 り過ぎて,地下の異世界に到達してしまう。そこでは異生物が,地上の鳥を捕まえて,ビン

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に入れて,みて楽しんでいた。少年は,紙飛行機を飛ばして異生物の注意をそらし,その間 にビンを壊して小鳥を助け出し逃げ出す。気づいた異生物が追ってくるが,逃げ切ってエレ ベーターに乗って地上に戻る。そのまま自分の部屋に戻って,窓を開け,空に向かって小鳥 を逃がす。こうしたお話であるが,興味深い点は,現実と異世界をエレベーターがつないで しまうということである。両者をつなぐ説明はないままなので,いつまた異世界につながる かは分からない。そうした現実の背後にある異世界への関心は,バベルの本やノアの箱舟に つながっているのであろう。神話も,現実の背後の異世界であるともとれるのである。 このようにみてくると「マイブリッジの糸」でマイブリッジが膨大な写真を撮影したとし ても,そこにはまだ撮り残したものがあるのであり,それは写真ではみえない,生命の連鎖 といったものなのだといっているようでもある。19 世紀にはカメラのレンズを長い間開い たままにしなければならず,その間に動いてしまった対象物が,ゴーストとして残ることが 楽しまれたということであり,オカルトや心霊術の流行もあり,目では捉えられないものを カメラが捉えられると考えられたのもこうした現象が影響していた(Braun, 2010)。目では 捉えられないものを写真なら捉えられるという気分は,マイブリッジにもあったのであろう。 膨大な量の写真の中から一連の写真をひとつに配列し並べることで,動きの全体を把握でき るようにし,そのことで動きの原理を見出そうとしたともとれる。これは360 度のパノラマ 写真を撮り,都市全体を俯瞰するような試みをしてきたマイブリッジ(Adam, 2010)の延長 にあるものである。まだ誰もみたこともない未知なるものをみたい執念があったように思え る。 6. 蟹のカノン アニメーションでは音楽にバッハの「蟹のカノン」が使われている。山村(2011)によれ ば「蟹のカノン」はタイトルに使おうと思い,「マイブリッジの糸」との間で迷った時期が ある。それほど重要なテーマであった。「蟹のカノン」は初めから演奏しても最後から演奏 しても同じになるように作られ,途中で折り返すようになっているので,時間を遡ることに なる。こうした構図が面白いと山村(2011)はいう。そうした構図は実際に音楽が使用され る,その楽譜がピアノの前に置かれている,ピアノに向かって母と娘が演奏する,母と娘の 手が交互に上になったり下になったりする,母と娘のつながりが線で示される,といったよ うに多層的に再現される。またゾープラクシスコープで使用する動きの原図は円盤に描かれ ており,これを回転して使用することで馬の走りが繰り返される。ラーキンズの殺害に使用 した拳銃はリボルバーで,マイブリッジはアニメーションの中でリボルバーのシリンダーを 回転させる。砂時計の馬が上下につながって回転しながら走る様子も描かれる。このように 回転によって同じことが繰り返される。アニメーションの中には同じ構造が多層的に組み立 てられているのである。 ホフスタッター(1985)は「ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議な環」とい

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う書物の中で「蟹のカノン」(pp.210-213)を紹介している。彼によれば「「蟹のカノン」の 中には間接的自己言及の例が三つ示されている。アキレスと亀は,彼らが知っている芸術作 品の説明をしているが,全く偶然に,それらの作品の構造は彼らが交している対話と全く同 じ構造である。(略)また,蟹はある生物学的構造の説明をしているが,それも同じ性質を 持っている」(p.214) ということになる。ここだけ読んでも分かりづらいが,ホフスタッター の例示しているアキレスと亀の対話が,初めから読んでも後から読んでも同じになるように 作られており,彼らが対話しているエッシャーの「蟹のカノン」という作品も同じ構図になっ ている。さらには蟹の遺伝子のDNA の 2 本の塩基配列が,前から読んでも後ろから読んで も同じになるようなものになっている。すなわちアキレスと亀の対話,彼らの対話している 絵の内容,そしてさらには絵に描かれている蟹の遺伝子といった3 層が,まったく同様な構 造を持っている。そして「マイブリッジの糸」においてもこうした同じ構造を持つものが何 層かに渡って作られている。 先にも述べたように,アニメーションの中で時間の逆転が描かれるが,それは女の子が母 親にブーケを持って行き,母親がそれを受け取る場面に続いて起こる。すなわちこの場面に 続いて「蟹のカノン」の楽譜が示され,カメラがそれによってゆく。再度,母親がブーケを 受け取った場面が現れ,今度はそこから逆回しが始まり,女の子はブーケを持って後戻りす る。このように時間の逆転が示されたのである。そしてこのシーンに続くのが先に述べたマ イブリッジの汽車旅行のシーンなのである。つまりこの時点でマイブリッジは妻の不倫を確 信し,殺人に駆り立てられる。まさにマイブリッジの人生の折り返し点である。マイブリッ ジが妻の愛人を殺害したのが1874 年 44 歳のときであることは既に述べた通りである。やや 年齢的にずれがあるにしても山村も同年代に「頭山」(39 歳),「年とった鰐」(41 歳),「カ フカ田舎医者」(43 歳)を作り,作家としての地位が確立したのであり,特に「頭山」はひ とつの折り返し点とみることができる。「頭山」は山村の名声を高めたのであるから折り返 し点というのはおかしいと思われるかもしれない。しかし,「頭山」は山村が個人的に作り たいと思い,自分自身のお金で,時間をみつけて作り上げた個人的な意味の大きい作品であ る。こうした作品づくりに執心することは,作らねばならないといった存在理由をこめたも のであるから,心理的には「危機的な状況」にあったとみることができる。そして多くの人 がまた人生の折り返し点を意識し始める時期でもある。この時期を「中年期危機」として 捉え,それまでの人生を振り返り,新たな展開を考える時期とみなしている(横田,2001, 2006a)。こうした折り返し点において「マイブリッジの糸」が企画されたのは,家族への配 慮を再考するためであり,山村の中に家族への思いがより強くなったからであろう。 7. 最後に 山村(2011) はアニメーションをみて哲学することが始まって欲しいと語っている。アニ メーションは切っ掛けであって,それをみることで本を読み調べ思索し人生に役立ててほし

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いと念願している。「マイブリッジの糸」は本論文で示したように多くのことを考えさせる 素材となっている。その意味では哲学することのよい素材と思われる。心理学的にみても興 味深い点が多い。それは山村のライフサイクルの流れの中でこの作品の意味を考えると,作 品が明確に位置づけられることである。単純化していうならば,それまでは個(「頭山」(39 歳),「年とった鰐」(41 歳),「カフカ田舎医者」(43 歳))について語ってきたのが,ここで は「家族」について語ったということである。そこには中年期危機の乗り越えと,新たなテー マの発展ということがあったのではないかと思われる。 アニメーションのエンドタイトルにはマイブリッジの写真が使われている。それは女の子 が女性にブーケを持ってくる写真であったのはすでに述べた。この時,雨音と雷鳴も聞こえ る。ノアの箱舟のシーンでは雨が降り,東京のシーンでも雨は降り続き,母親の生活の背 後にも雨音が聞こえていた。それがラストにも続いていたのである。アニメーションの制作 途中に,東京を水没させるアイデアがあったとのことであるが,それは捨てられた( 山村, 2011)。しかし雨が降りつづいて止まないということとノアの箱舟が暗示するように,箱舟 に乗った動物以外はすべて洪水によって滅びてしまう。そしてタイトルバックの写真と雨音・ 雷鳴が暗示しているのは,家庭内の母と娘が,箱舟の中の生き物であり,彼らが生き残ると いうことなのであろう。母と娘の関係は,永遠につながってゆくことの象徴なのであった。 引用文献

Adam, H. 2010 Muybridge and Motion Photograpy. In Adam, H.C. (Ed.): Eadweard Muybridge: The Human and Animal Photographs, Taschen, Köln, pp.6-21.

Braun, M. 2010 Eadweard Muybridge. Reaktion Books, London.

Clegg, B. 2007 The Man Who Stopped Time. Joseph Henry Press, Washington, D.C.

ホフスッタッター,D.R. (野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳) 1985 「ゲーデル,エッシャー, バッハ―あるいは不思議な環」白揚社,東京.

伊藤俊治 1992 「寫眞史」 朝日出版社,東京

Prodger, P. 2003 Muybridge and the Instaneous Photography Movement. Oxford University Press. New York.

Shimamura, A.P. 2002 Muybridge in motion: travels in art, psychology and neurology. History of Photograpy, Vol. 26, No. 4, 341-350.

Solnit, R. 2003 River of Shadows: Eadweard Muybridge and the Technological Wild West. Penguin Books, New York.

山村浩二 2011 「山村浩二『マイブリッジの糸』を語る」 日本アニメーション学会インタビュー 研究会での講演 2011年8月23日 武蔵野美術大学新宿サテライト教室 横田正夫 2001 苦と悟りのアニメーション作家:川本喜八郎.日本大学文理学部研究紀要,62, 145−161 横田正夫 2006a 「アニメーションの臨床心理学」 誠信書房,東京 横田正夫 2006b 川本喜八郎の人形アニメーション「死者の書」 日本大学文理学部人文科学研究

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所研究紀要,71,59−68

図 2 時計を見ているマイブリッジ
図 6 娘が階段を上がってゆく
図 8 娘は母親にブーケを持って行く
図 12 お互いの体が糸によってつながっている

参照

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