シュレーダー政権の外交政策

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シュレーダー政権の外交政策

−継続と刷新の狭間で−

中 谷   毅

はじめに Ⅰ.シュレーダー外交の方針とスタイル 1. 方針・理念 2.シュレーダーとフィシャー  3.連立のマネジメントと外交スタイル Ⅱ.シュレーダー外交の展開 1. EUの一員として 2.連邦軍の改革  3.9.11テロとイラク戦争 4.国連政策、開発政策 おわりに

はじめに

SPD(ドイツ社会民主党)は1998年秋、Bündniss 90/Die Grünen(90年同盟/緑の党:以下、 緑の党)をパートナーに迎え、「出発と革新」をスローガンに掲げ、様々な問題に苦悩する統 一ドイツの舵取りを任されることになった。振り返れば1969年に誕生したSPDとFDP(自由民 主党)の左翼中道連立政権は戦後西ドイツ政治の行き詰まりを打開すべく、歴代政権との継続 性を意識しながらも、内政・外政で様々な改革を実施し、この国に新しい局面を切り開いた。 1982年の秋以降野党の席に甘んじてきたSPDは今回、統一ドイツでの政権復帰である。緑の党 は連邦政府への初参加であった。 赤緑政権には取り組むべき課題が山積されていたが、その中心は冷戦後のグローバル化や高 齢化に対応を余儀なくされる国内政治であったといえる。失業問題、年金や医療といった社会 保障関連の問題、科学技術・教育問題、産業立地問題、旧東ドイツ地域が直面する問題、これ らすべての問題に関連する財政問題などである。しかし、統一ドイツが冷戦終結後の世界で担 う新しい役割を巡る議論はコール政権期から続いており、終止符が打たれることは無かった。

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そしてSPDと緑の党は政権奪取後、生起する様々な国際問題へのドイツとしての、さらにはヨ ーロッパの一員としての関与を巡り相当の時間と労力を費やした。2002年9月の総選挙では与 党連合が薄氷の勝利を収め政権の2期目が始まったが、アメリカによるイラク攻撃が国際政治 のメインテーマになっている時期の選挙戦で攻撃不参加を表明した赤緑連立政権にとって、外 交・安全保障問題が重く伸し掛かることになった。 ところで、この政権の閣僚の多くは1968年前後に感受性の強い若者時代を送った世代に属す る1)。この世代は概して権威主義に反発し、さらなる民主主義を求め、過去と真摯に向き合わ ない上の世代に詰め寄った。さらに、東方外交を支持することで欧州の緊張緩和を目差し、後 に平和運動の推進力にもなった。政権を率いるシュレーダー首相(1944年生まれ)、外交・安全 保障政策を担当するフィシャー外相(1948年)、シャーピング国防相(1947年、後任のシュトル ック:1943年)は全員この時代の申し子で、彼らに21世紀のドイツ外交が託されたのである。 さて、本稿での課題はこれまでの赤緑連立政権における外交・安全保障政策の中間総括をお こなうことである。まず、この政権の外交・安全保障政策を規定する枠組み ― 外交方針、首 相や外相の外交理念、政権の外交スタイル ― を検討する。そして政権発足以降の外交・安全 保障分野での具体的な活動の展開を分析し、方針との整合性、外交成果と問題点などを考察す る。その際、これまでの外交との関係を継続と刷新という視点から考えたい。

Ⅰ.シュレーダー外交の方針とスタイル

1.方針・理念 新政権は如何なる政策を目指したのか、政権の誕生に際して締結された連立協定を中心に概 観してみよう。1998年10月の連立協定(「出発と刷新―21世紀へのドイツの道」)において外 交・安全保障を扱った第11章の冒頭では、目標と価値への言及がある2)。まず、「ドイツの外 交政策は平和政策である」という戦後SPDの長年の主張が確認され、新政府は「国際協力を地 球の将来保障の政策と理解する」という位置付けがなされる。そして新政府は「国際関係の必 然的な変容の形成に独自の提案と刺激で関与」し、「危機予防と平和的紛争規制の有効な戦略 と道具の発展と適用に全力で努力」するとの表明がある。政府がこうしことを目指すのは「国 際関係のさらなるシヴィル化と法化への、軍備制限と軍縮への、世界地域の経済的、エコロジ ー的、社会公正的な利益調整への、人権の世界規模での遵守への義務から」である。 この文書では開発政策や人権などにも目配りがなされているが、全体としての基調はEUの 深化と拡大、NATOの役割とアメリカとの関係、国連での役割、ソ連・東欧諸国との関係など コール前政権、さらにはこれまでの(西)ドイツ歴代政権との継続性である。ドイツの過去、 外交の予測可能性や信頼性などを鑑みた場合に継続性、特に西欧の一員としての位置付けはド イツ外交における基本である。ただし、冷戦後の国際社会で発生する諸問題の解決にドイツは これまで以上の役割を世界から期待され、その期待に応えるためにはこれまでと違った方針や 行動を迫られたこともあり、いわば変化や刷新への窓口も開かれている必要があった。これま

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で以上の国際的責任を果たすという課題はコール前政権より引き継がれたものであり、これに 新政権がどのように取り組むかが要諦であった。連立協定では国連の役割強化や国連による武 力の独占への支持が表明される一方で、国際政治の領域においてヨーロッパが行動できるよう にヨーロッパ外交・安全保障政策の発展が支持され、欧米・独米関係の育成と拡大が謳われる ことで今後の展開における新しい行動余地への含みを持たせた。また、施政方針演説では平和 保障及び平和維持措置への参加が支持され、軍事的潜在力の提示が、たとえその投入が平和政 策の最終手段でなければならないにしても、危機予防に役立つとの立場が明示される3) 2002年10月に締結された連立協定の外交・安全保障の部分(第9章. 公正なグローバル化 ― ヨーロッパと世界におけるドイツ)では1期目の路線・方針と内容的に大きな違いはない。た だし、初めの項目「外交・安全保障政策」では小見出しとして「国連及び多国間構造の強化と 改革」が真っ先に置かれ、次に対米関係、NATOの東方拡大、対露関係、そしてシヴィリアン な危機予防、テロリズムに対する闘い、連邦軍と国際的な派兵などへと続くところに注目した い。ここから2001年9月11日の衝撃的事件とその後のアメリカの行動を経験した2期目の政権 が、国際協調という枠組みを重視しているのが読み取れる4)。また、4年の政権担当期間中に 始まった連邦軍の改革議論や現実政治での活動を受け、今回の協定では連邦軍の課題として国 土・同盟防衛と並んで紛争予防と危機克服が、国連憲章の枠内との限定を伴いながら、明記さ れた。 第2項目「ヨーロッパの統合過程」の部分では、1999年以降のEUレベルでの流れを受けて 欧州安全保障・防衛政策(E S V P )、さらにそこへと発展すべき欧州安全保障・防衛連合 (ESVU)への言及がなされ、シュレーダー政権が拘る共通農業政策の改革、公正な財政負担に より踏み込んだ既述がなされている。第3項目「グローバルな公正と開発協力」の分野では世 界経済秩序、開発政策に前回より多くの紙幅が割かれ、具体的な記述も見られる。このように 2回目の連立協定では1期目の成果を踏まえた上で次の4年間の方針が打ち出されている。 2.シュレーダーとフィシャー シュレーダー首相に関しては、彼が自らをドイツの政治をプラグマティックに、自負を持っ て、利益に方向付けて表現する世代の代表とみているとし、「過去の影が彼を悩ますことはフ ィシャーよりずっと少ない」とする見解があるが5)、このような見方が一般的であるといって よい。 かつてシュレーダーはドイツが優劣を感じる必要がない「大人の国民」になったと述べ、施 政方針演説では赤緑政権への転換が「民主主義的正常化の表現であり、成長した民主主義の自 覚の表現である」と喝破した6)。ドイツ史における負の遺産が首相の視野に入っていないわけ ではないが、「大人になった、普通のドイツ」という思考が外交を支える基盤にある。彼の政 治とプラグマティック、自負、利益といった概念との結び付きは、こうした発想との関連で理 解する必要があろう。 統一後のドイツでは外交における利益を巡る議論が続いたが、この政権では利益という概念

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がどのように理解されているのであろうか。シュレーダー首相によれば外交政策は第1に利益 政策である。しかし、グローバル化のなかで国益がますます国のレベルで追求できなくなり、 超国家的及び国際的協力による「間接的な利益代表」が重要度を増している。現代の連帯的な 外交政策は「啓蒙された自己利益」の政策であるべきで、自己の利益を間接的に、隣国やパー トナーへの配慮で制限をつけて代表することをドイツは他の国より上手く学んだ。このように シュレーダーは利益をナショナルなレベルで捉えることの限界を指摘し、他国・地域・世界の 利益との折り合いを強調する。と同時に、ドイツの外交上の制限が国際的な責任の認識を限ら れたものにしていたとも主張する。そして今やNATOのパートナーはドイツを対等に受け入れ てくれ、それ故ドイツが歴史的な責任を引き受け、前向きに認識することを期待しているとみ なす7)。ドイツが積極的に新しい役割を引き受けるのに彼が肯定的であるは、以上のような判 断が背景に存在するからである。過去に対する身軽さや「後に生まれて来た者の恩恵」は、コ ール前首相までの歴代首相の場合とは様相を異にする。 ただし、過去への配慮が強いフィシャーは、利益の強調に対してもシュレーダーやシャーピ ングと比べ距離を置く傾向があり、自制という概念ともより親和的である8)。この違いが後述 するヨーロッパ統合の議論での力点の置き方の微妙なずれなどにも反映している。 3.連立のマネジメントと外交スタイル シュレーダー連立政権でもコール政権と同様、連立パートナー間に政府、党、議会間の相互 作用や調整をおこなうインフォーマルな仕組み(政府、党、議会の代表者からなる委員会や定 期会合)が整備された。これを通して政権運営を遣り繰りするのであるが、連立マネジメント のスタイルにおいてシュレーダー首相にはコール前首相と幾つかの相違がある9)。第1にジュ ニアパートナーの関心への配慮がもっと弱く、重大問題で相手から譲歩を引き出すためにより 頻繁に、より強引に干渉する。第2として議員団や内閣などの諸組織、諸集団間の相互作用に おいて、権力関係がより流動的で、シュレーダーの役割が分かりにくい。換言すれば支配的権 力中枢が現れない。第3は政府外及び議会外のコンセンサスメカニズムを好む傾向がある。こ のメカニズムの具体例としては、政府や利害関係者の代表からなるタイプ(「雇用のための同 盟」)と超党派委員会タイプ(「ヴァイツゼッカー委員会」、「ジュースムート委員会」)を挙げ うる。 この連立政権には確かに緑の党にとり厳しい力関係が存在した。こうした条件下で外交問題 を巡っても緑の党はSPDと対立し、激しい議論を戦わせた。2001年のアフガニスタンへの派兵 を巡って連立政権が崩壊の危機に直面した例を筆頭に何度か存立の危機に見舞われたが、実際 に崩壊することはなった。シュレーダーの連立マネジメントは一定の成果を収めたと考えられ る。敷衍していえば、シュレーダー首相とフィシャー外相の間で幾つかの政策を巡り見解の違 いが表面化したことはあるが、両者の関係が修復不可能な状況に陥ったことはなく、むしろこ のコンビの二人三脚は上手く機能した。これにはSPDの右派から緑の党の左派という幅広いス ペクトルが混在し、野党対策と並んで連立内調整が課題となった当連立政権において架橋役、

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調整役を果たしたフィシャーをはじめとする緑の党幹部の働きが大きかった。緑の党にとって このことは、一方で政策決定に関与し、改革を進めることでポイント稼ぐことができるが、他 方でSPDとの協調、さらにはSPDへの譲歩で自らのアイデンティティを喪失しかねない両面を 併せ持っていることを意味した。連邦軍の派遣を巡る議論はまさにそこにかかわるテーマであ った。 また、シュレーダーは「新しい政治スタイル」としていくつもの協議機関を設けているのは 周知の通りである。議会を外す傾向が批判されもするが、こうしたコンセンサス・メカニズム は論争のある、扱いが難しいテーマを連立政権の議題から外し、野党の攻撃を逸らすのに効果 がある。外交・安全保障の分野においては「共通の安全保障と連邦軍の改革に関する委員会」 (通称「ヴァイツゼッカー委員会」)がそれに当て嵌まる。この例では重要かつ処理の難しい連 邦軍の改革議論をいわば外注する形で連立のアジェンダから外し、委員会の長にCDU出身の元 大統領という大物を据えることで、野党の攻撃を最小限に押さえる効果があった。ただし連邦 軍の改革に関する報告書は時を同じくして当委員会以外に、国防相、連邦軍総監などからも提 出されており、ここに権力中枢の曖昧さの一端を垣間見るのも可能であろう。 さらに外交分野は国内政治のチェック・アンド・バランスによって縛られにくく、対外政治 でその国を代表する首相にとって得点を稼ぐのに好都合な分野でもある1 0 )。「メディア首相」 ともいわれるシュレーダーはマスコミを意識した発言をし、マスコミを活用するのに長けてい る。2001年9月11日のテロ後、アメリカとの連帯を表明する際や2002年秋の総選挙に向けた選 挙戦でイラク戦争への不参加を訴えた際などにメディアを有効活用し、国民の支持獲得に利用 した。

Ⅱ.シュレーダー外交の展開

1.EUの一員として 発足して間もない新政権を新年早々待っていたのが、半年間のEU議長国としての責務であ った。この政権が掲げたヨーロッパ政策も前政権からの継続を基調としているが、時代の要請 に応えた働きを議長国として巧みにこなしたといえる。1999年1月、欧州議会でフィシャーは 共通の農業・構造政策の改革、ヨーロッパ雇用協定締結へのドイツの尽力、東方拡大能力の創 出、共通の外交・安全保障政策の強化の4点を議長国として取り組む重点課題として挙げ、そ の後3月下旬にベルリンで開催されたEU首脳会議でドイツは、新たな加盟国を迎え入れるた めに必要なEUの財政面における改革プログラムである「アジェンダ2000」の交渉で合意を取 り付けた。シュレーダーは以前からEU財政におけるドイツの持ち出し超過に強い調子で不満 を表明していたが、最終的に「アジェンダ2000」の主要テーマである共通の農業政策や構造政 策の改革や分担金の公正化で、フランスなど農業国に譲歩することになった。改革のスピード が鈍ることにはなるが、2000年から2006年までの財政計画で加盟国の一致をみたことは大きな 成果といえる。ただし、シュレーダーはベルリンでの譲歩に納得したわけではなく、ドイツの

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財政負担の軽減という課題をEUに突き付け続けており、これがフランスなどとの軋轢を生ん でいる11) ベルリンでのEU首脳会議と同時期に、ユーゴスラヴィアのコソヴォ紛争を巡る懸命の和平 工作にもかかわらず紛争が泥沼化していくのを受けて、NATOによるユーゴ空爆が始まった。 空爆に対する国連安保理事会による承認はなかったが、ドイツ連邦議会は既に2月末にNATO 指揮下での活動に連邦軍を派遣することを承認しており、攻撃の開始を与野党の多数が擁護し た。しかし連立与党議員の中には異論もあり、緑の党のH.−C. シュトレッべレなど数名が空 爆の即刻中止を訴え、SPD議員の一部からも距離を置く声明が出された12) 空爆への参加は、ドイツが第2次世界大戦後初めて実戦に連邦軍を送るという試みであった。 シャーピング国防相にとってこの派遣はコソボでの大量殺戮を阻止するためのもので、西側民 主主義の一員として責任を初めて引きうけた意味で、政治的にみてドイツ外交における区切を 意味した1 3 )。そして1999年6月の和平合意成立後、コソボに展開する国際治安部隊(KFOR) の一員としてドイツ兵がコソボに派遣され、平和維持活動に従事することになる。さらに2001 年8月のマケドニア和平合意後には、武装解除を支援するNATO部隊にも加わり、1995年以来 ボスニア・ヘルツェゴヴィナで活動する部隊(SFOR)と合わせ、ドイツ連邦軍はこの地域の 安定に不可欠な存在となった。 コソボ空爆という事態に直面して、議長国ドイツは武力攻撃と並行して外交的解決策を探る べく、NATOに対する外交的補完組織であるEUの活用に成功したのみでなく、空爆に否定的だ ったロシアを再び紛争解決の過程に組み入れることに成功した。フィシャー外相はコソヴォ紛 争の政治解決のために、「フィシャー・プラン」と呼ばれることになる、EUとNATOの要求を 発展させた和平案を提示するなど空爆停止に向けて精力的に働いた。しかし、空爆が続く最中 の1999年5月に開催された党大会では、緑の党の執行部が攻撃の中断を勧告して政府の政策か ら距離を置く一方で、フィシャー外相を裏切り、連立を危険に晒すことがないような決議を首 尾よく通過させたが、地方組織をはじめ政府の政策を批判する声は大きかった。この席でフィ シャー外相に塗料が入った袋が投げつけられるに至った事態は、この党の混乱の深刻さを物語 っていた14) シュレーダー政権下のドイツによる自己主張は、2000年12月ニースで開催されたEU首脳会 議でも見られた1 5 )。ニースにおいて最も厄介な問題だったのが、閣僚理事会における各国の票 決権の見直しであった。ここでドイツはフランス、イギリス、イタリアと同数の持ち票に異論 を挟み、これらの大国との対等から抜け出すことを目指した。交渉の結果、ドイツは大国間の 票決権対等の存続を承認したのであるが、採決に際して賛成国の人口が加味されることにもな り、実質的にこの対等性の原則は崩れた。ドイツの要求が一部通った形となった。 E Uにおける東方拡大の最大の擁護者としてのドイツという立場は、コール政権以降途切れ ることなく一貫している。シュレーダー政権は加盟候補国がアキ・コミュノテールを受け入れ られるよう支援しているし、ニース首脳会議における閣僚理事会での票決権割り当てでは、加 盟候補国の代弁者として振舞った。ただし、東方拡大への国民による支持が芳しくない中、ド

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イツの労働市場を守るべく、これらの国からの被雇用者に対する自由移動の規制を要求したり、 財政における緊縮路線を打ち出すなどして、東方拡大に伴う諸問題におけるドイツの利害にも 固執する1 6 )。さらに、加盟候補国の東に位置する大国を重視する点も外交の継続である。シュ レーダー政権は独露関係をヨーロッパの範疇で捉え、ロシアをドイツとヨーロッパの戦略的パ ートナーであると位置付け、この国との関係にこれまで以上の意義を与えている1 7 )。ドイツは 西側の一員であるとの認識を出発点にしながらも、市場や安全保障などの観点から東欧・ロシ アとの関わりを強化する傾向にある。 ところで、2000年5月フィシャー外相はフンボルト大学での講演(「国家連合から連邦へ ― ヨーロッパ統合の最終形態についての考察」)で、連邦と各国の主権分担を定めた憲法的条約 を定め、二院制議会を備えたヨーロッパ連邦を提唱し、注目と同時に波紋を呼んだ。翌年4月 にはラウ大統領がヨーロッパ議会の演説でヨーロッパ統合の最終形態に言及し、さらに同時期 にシュレーダー首相も主要動議を提示した。これは同年11月の党大会に提出する予定で、ここ には彼のヨーロッパ政策上の構想が表されていた。しかし、これらは他国にすんなりと受け入 れられるような内容ではなかった1 8 )。こうしてそれぞれ不完全さが残る構想ではあるが、日常 の政策調整の先を見越した統合の最終形態の像を示すことで、ヨーロッパ統合の将来像を巡る 議論にドイツが刺激を与えたことは間違いない。しかしながら、将来のヨーロッパが歩む方向 を決める上での主導権や自己主張にドイツが欲を出せば出すほど、他国からの警戒や反発も強 くなるわけで、今後の進展は一筋縄では行かない。 2.連邦軍の改革 NATOは冷戦終結後の1990年代初頭から、その任務を従来の集団安全保障から地域紛争への 対応に重点移動し始めた。また、旧ユーゴスラヴィアが解体し、紛争が繰り返されるのを目の 当たりにしながら、EUは有効な措置を講じることが出来ず、ボスニアやコソボで最終的にア メリカの腕力が事態を収拾させたという苦い経験に鑑み、EU独自に紛争解決に向けて対処す べく、共通の外交・安全保障政策(GASP)に本腰を入れて取り組むことになった1 9 )。1999年 12月のEU首脳会議では、2003年までに兵力5−6万人の緊急対応軍を配備できる体制を整え ることになった。ドイツ連邦軍はこの枠の中に組み込まれ、ドイツの国際的責任を果たす上で はいうまでもなく、ヨーロッパの国際的責任を果たす上でも不可欠の存在となった。NATOや E Uでのこうした変化と歩調を合わせる形で、統一ドイツは既にコール政権期から冷戦後の国 際紛争・民族紛争への対応を迫られ、本来、国土・同盟防衛に限定されていた連邦軍の任務内 容と活動領域を現実政治に合わせて変更していたが、二つの重責に応えるために、一度根本的 な連邦軍の改革に着手する必要が出てきたのである。 シュレーダー政権は連立協定でうたっていたGASPの発展に尽力する一方、この協定で合意 していた将来の連邦軍改革に向けての委員会を1999年5月に召集した。この諮問委員会(「ヴ ァイツゼッカー委員会」)は2000年5月に報告書を発表したが、これと前後して各政党、連邦 軍総監、国防相が改革案を提示した。しかし、表1が示すように連邦軍改革を巡る各組織の構

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想には大きな隔たりがあった。総兵力30万、派遣軍7万とし、毎年14万人を兵役につかせる CDU/CSU(キリスト教民主・社会同盟)案から総兵力10万、危機対応軍の派兵を認めず、兵 役を停止するPDS(民主社会党)案まで様々であった20) 連立与党のSPDと緑の党の改革案に限っても、総兵力数や徴兵制などを巡って埋め難い溝が 存在した2 1 )。緑の党は既にかつての平和主義的、反軍国主義的イメージを離れ、部隊の紛争地 への派遣に理解を示すようになっていたが、戦力の規模における隔たりは大きかった。さらに 緑の党左派はこれまでの平和主義路線を主張し、連邦軍の任務の変更、つまり緊急対応部隊と して紛争地へ派遣すること自体に反対した。また、徴兵制を巡ってもSPDは一部の議員を除い て、党として軍隊を社会に根付かせる意味からもこの制度を必要としたが、緑の党は国家によ る兵役義務やそれに代わる社会奉仕の強制に反対した。とはいうものの緑の党は、野党の CDU/CSUも兵役の維持を支持している状況から自党の主張を押し通すことは出来ず、この問 題を連立の争点にすることはしなかった。 2002年の連立協定では改革を継続し、人員規模や装備などを将来の要請に合わせるとし、そ の際ヴァイツゼッカー委員会の提案が基準であることが確認された。2003年5月には国防相シ ュトルックが「防衛政策指針」2 2 )を公表した。ここでは、2001年9月11日が対応すべき新たな 危機状況をもたらし、EUとNATOの枠内で危機に対応する連邦軍の能力が益々重要になったと の認識を示し、「連邦軍は事実上派遣軍になった」と明言する。さらに、従来の防衛=国境防 衛との理解を変更し、「防衛はもはや地理的に境界付けることは出来ない」と述べた。この指 針は閣議決定を要する白書とは性格を異にするが、今後の連邦軍の方向性を示唆している。と 表1 連邦軍改革モデル 規  模 派遣兵力 軍 改 革 防衛規模 連邦政府 兵士:約280000 150000 兵役義務:6∼9ヶ月 500000 シャーピング国防相 文官:80000∼90000 年間召集:100000 ヴァイツゼッカー 兵士:240000 140000 兵役義務:10ヶ月 300000 + 委員会 文官;80000 年間召集:30000 100000の予備役 キルヒバッハ軍総監 兵士:290300 157000 兵役義務:9ヶ月 ? 文官:? 年間召集:104000 兵士:280000 160000 兵役義務:9ヶ月 SPD 文官:90000 年間召集:107000 500000 CDU/CSU 兵士:300000 70000 兵役義務:9ヶ月 600000 文官:100000 年間召集:140000 90年同盟/緑の党 兵士:200000 120000 志願兵軍 ? 文官:80000 兵役義務廃止 F. D. P 兵士:260000 150000 兵役義務:5ヶ月 * 文官:100000 年間召集:156000 ? PDS 兵士:100000 なし 志願兵軍 動員なし 文官:40000 兵役義務停止

(出典)Bernhard Fleckenstein, Bedingt einsatzfähig:Der lange Weg zur Neugestaltung der Bundeswehr, in:Aus Politik und Zeitgeschichte, B43/2000, S.15. 尚、一部省略した部分がある。

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ころで、シュトルック国防相は派遣決定が迅速に行われるよう、連邦議会の派遣承認の廃止に も前向きという23)。これは議会政治との関係でも由々しき問題を孕んでいる。 連邦軍改革の前には予算の壁も立ちはだかっている。2001年現在、ドイツの軍事予算は269 億ドルでフランスの329億ドル、イギリスの347億ドルより少ない(兵士の数は独:308000人、 仏:274000人、英:211000人)2 4 )。再編に伴って、危機対応軍の派遣には衛星通信、偵察、輸 送といった分野の装備調達などが必要不可欠になるが、赤字・緊縮財政を余儀なくされるシュ レーダー政権には国防支出を増やすだけの財政的余裕がない。2006年度まで年間の上限が244 億ユーロに固定されている国防予算に追加を認めるのは、苦しい台所事情の社会保障政策費な どとのバランス上難しい。EUの財政安定協定の点でもドイツは苦しい立場に立たされている。 そこで国防省は不動産の売却、高速魚雷艇や戦闘機などの装備の一部を使用中止、基地を閉鎖 するなどして経費削減を試みているが、資金不足は否めない。内政事情が外交に直接影響を与 える事態であるが、これはドイツだけの問題に留まらずESVPに関わる問題でもあり、政府は 改革の実施と予算の調整に悪戦苦闘している。 ところで、ドイツは世界有数の武器輸出国でもある。余分になった武器を売却し、予算の足 しにしようと考えたシャーピングをシュレーダーが支持し、廃棄処分を主張するフィシャーと 論争になったが、結局首相と国防省が外相を押し切ったという2 5 )。武器輸出は雇用創出にも結 び付くゆえ、政権には捨てがたい選択枝であるが、連邦軍の改革の文脈で中古武器が公式のル ートで売買されている。 3.9.11テロとイラク戦争 世界に衝撃を与えた2001年9月11日のテロ直後、シュレーダー首相はテロを「文明社会全体 に対する宣戦布告」であると非難し、アメリカに対し「限りない連帯」(uneinbeschränkte Solidarität)を表明した。10月上旬米英によるアフガニスタン空爆が始まると、首相は10月11 日連邦議会で演説し、冷戦後におけるドイツの新しい責任に言及する。ここで彼は英米軍の攻 撃を正当な自衛権の行使と擁護し、北大西洋条約第5条から生じた義務として軍事協力を含め あらゆる領域でドイツの責任を果たすとの意思を表明した。そして空爆開始からちょうど1ヶ 月、アフガニスタンでの被害が広がり、国際世論の中にも戦闘を見直す声が聞こえる中、シュ レーダー首相は連立パートナーの議員団幹部及び党幹部の支持を取り付け、対テロ戦争と呼ば れる闘いに参加することを表明した。与党内からでた疑問の声とは対照的に野党は支持を表明 した26) 最終的に緑の党のみならずSPDの中にも慎重論が根強い中、シュレーダー首相は連邦軍の派 遣と自らの信任を一体化させた議案を提出し、承認を求めた。11月16日の採決では首相信任に 反対の野党は反対票を投じたが、連立与党は党内の反対者の説得に努め、薄氷を踏む思いで過 半数を獲得した。連立崩壊の最大の危機を乗り切ったわけだが、与党内には採決で説得に応じ ず反対票を投じた議員もいたわけで、連邦軍絡みの問題における見解の不一致を印象付けるこ とにもなった。そして議会での承認を受け、中東、アフリカ、中央アジアに航空輸送、対ABC

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兵器防衛部隊や特殊部隊などの派遣を行った2 7 )。またドイツは11月下旬にボン近郊でアフガン 暫定合意を演出し、これを受けて国連の枠内でISAF(国際治安支援部隊)に1200名の連邦軍 兵士を派遣することになった。その後連邦軍は派兵期限の延長を繰り返し、2003年秋の時点で 約1600名のドイツ兵を駐留させ、オランダと共同でISFAの指揮を担っている。 連邦軍がヨーロッパを越えた地域で国連の委託を受けた活動だけでなく、アメリカ主導の対 テロ戦争に乗り出し、ドイツは新しい責任をこうした形で果たすことになった。また、このテ ロはセキュリティ(安全)という概念の再検討に大きな影響を与え、その確保のために連邦軍 の活動領域や活動内容が変わり、国内的には治安の強化という現象をもたらすことにもなっ た。 アフガニスタンでのISAFの活動が続く中、2003年3月に米英軍のイラク攻撃が始まった。 そもそも軍事力を背景にした強硬路線を信奉するブッシュ政権と国際関係のシヴィル化と法化 を目指す中道左翼の赤緑連立政権は反りが合わないことは予想がつくことであるが、9.11では ドイツもアメリカに「限りのない連帯」を示した。しかし、今回はフランスなどと共に戦争反 対の論陣を張ることになり、米独関係は急速に悪化した。 シュレーダー首相がイラクへの攻撃に関するドイツの態度を公式に表明したのは2002年8月 のことであった。戦争の可能性が高まる最中の8月初めのSPD常任幹事会で政府の態度を問わ れたシュレーダーがジャーナリストに「政府は連帯の覚悟はあるが、冒険の覚悟は無い」と説 明した。この席上で党幹事長のF .ミュンターフェリングが選挙スローガン「ドイツの道」 (Der deutsche Weg)を披露した。9月上旬には国連の決定に関係無く、ドイツはイラク戦争

には参加しないことを表明した。総選挙で政権続行が決まってからも首相は方針を変えなかっ た2 8 )。不参加決定の背景には選挙対策があったことは間違い無い。テロの時と違い国民の間に は反対論が圧倒的に多かった2 9 )。また議会内、特に与党内では反対意見が支配的であった。攻 撃する必要のある明確な根拠の不在もある。さらに国際問題の解決における米独間の根本的な 認識の違いがあった。 その後、対米関係の悪化を憂慮したドイツ政府は慎重な発言をするようになる(「ドイツの 積極的な参加はない」)。2002年11月、国連は安保理決議1441を採択するが、イラクが真摯な対 応をしない中で米英は戦争準備を進めていった。年明けになっても非常任理事国のドイツは常 任理事国のフランスと共同歩調を取り、国連を表舞台に戦争に反対する2つの常任理事国(中 国・ロシア)と大量破壊兵器の査察継続を訴えるが、結局2003年3月に攻撃が始まった。 このイラク問題を巡っては次の2つの問題点が明らかになった。まず、国連がアメリカの単 独行動に有効な手を打てなかったことである。国連と多国間協議の枠組みの強化を訴える赤緑 政権にとっては、友好国でもあるアメリカの国際世論を無視した行動は大きな障害であった。 第2はヨーロッパに大きな亀裂が走ることになった点である。アメリカを支持するイギリス、 スペイン、イタリアといったグループと攻撃に反対するドイツ、フランス、ベルギーなどのグ ループに分かれ、EUという組織の脆さを露呈した。さらにEU加盟を控えるポーランドがアメ リカ側についたことも、東欧に対するE U とアメリカの影響を占う上で興味深いものがある。

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イラクへの対応を巡ってドイツは対米関係の険悪化で痛手を被ったが、対米協力と国際協力の 違いを明確にし、21世紀における国連を中心にした国際協力、対米協力、EUでの協力という 難解な3元連立方程式を考える上での貴重な経験をしたと捉えることもできよう。 4.国連政策、開発政策 ドイツの国連重視路線はこれまでの政権が採ってきた方針でもあり、国連を中心に国際の諸 問題を解決していく姿勢を強く打ち出していた。そのためにシュレーダー政権は国連の組織改 革と強化を訴え、もしヨーロッパに常任理事国の1議席が与えられず、同時に地域別のバラン スを考慮した安保理改革が完了すれば、ドイツは常任理事国入りに努力するという姿勢を採っ て来た。この思惑は今日まで実現していない。ドイツの方針とは逆に、イラク戦争を阻止でき なかった国連の弱点がはっきりした。 国連を舞台に国際的な制度作りが徐々に形を現しつつある分野もある。国内政治とも呼応し てドイツは以前から地球温暖化対策に熱心であったし、人権蹂躙を裁く国際刑事裁判所の設立 にも積極的であった。もっとも、ここでもアメリカの非協力的な方針が推進国を悩ませた。 南北関係にも関心を持つドイツは開発政策に一定のウエイトを置いてきた。開発政策は、 「開発途上国における経済的、社会的、エコロジー的及び政治的関係の改善を目標とするグロ ーバルな構造政策」(1998年連立協定)である。SPD左派のH.ヴィーツォレク・ツォイルが経 済協力開発相に就き、緑の党の思い入れが深い政策分野ではあるが、構造政策としての開発政 策の実施状況に疑問符をつける指摘がある3 0 )。また苦しい財政事情も障害となっている。開発 政策予算の減少傾向を逆転させるとの連立協定での意思表明とは裏腹に、シュレーダー政権下 の開発政策への支出は前政権より減少した。前政権と異なった政策をアピールして得点を稼ぐ に至っていない。 9.11以降、貧困克服が危機予防の機能を併せ持つという点で、開発政策の重要性が再認識さ れている。管轄省庁間の協力体制の緊密化が望まれる。

おわりに

赤緑政権の外交・安全保障政策には継続と変化の双方の要素が確認できることは、本稿でも 検討してきた通りである。H.ハフテンドルンは著書『自己制限と自己主張の間にあるドイツ 外交政策』3 1 )で「世界政治上の構造破綻にもかかわらず、ドイツ外交における著しい継続性が 看取される」とし、シュレーダー政権を含めたこれまでの外交を連続性の面から捉える。G. ヘルマンは「ドイツの外交アイデンティティが目下根本的な変遷過程の初期段階を行進中であ る」とし、1年経過するごとにベルリンの外交を継続として記述する者が減り、特に1998年の 政権交代後の時代をドイツの戦後外交史における広範囲に及ぶ区切りとして記述する者の数が 増えるであろうと予見している32) 長いタイムスパンで見た赤緑連立政権の評価は、今後の展開を待たなければならない。ただ、

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方針の大枠においては従来通りであったが、個々の政策レベルではこれまでとは違った動きが 出てきた点を鑑みた場合、この政権の外交を戦後ドイツ外交史における過渡期と捉えることは 可能と思われる。EU、アメリカ、国連などのアクターとの関係でドイツは如何に自覚を強め ながら、新しい役割を果たしていくのであろうか。その際のキーワードは外交におけるバラン ス感覚であろう。現実と理想の追求、過去と現在への目配り、自己主張と自制などにおけるバ ランスである。 シュレーダー政権では過去の重みが薄れているとの指摘があることは上述の通りであるが、 道徳的厳格さが消え、ビジネスが幅を利かせているともいわれる3 3 )。近年、独露関係の良好さ を背景に対露貿易が大幅に伸びているが、このビジネスの問題とシュレーダーがプーチン大統 領との会談でチェチェン問題を取り上げないことが無関係とはいえない。また、追放者記念館 の建設を巡り東欧諸国との軋轢も生じている。こういった個々の問題への対処を誤れば、ドイ ツは信頼を失いかねない。 最後に、野党の席から人権・平和・環境などを訴えた緑の党は、この5年間連立パートナー として政権担当能力を示した。その舞台裏では党を纏めるための懸命の努力が試みられた。し かし、それと引き換えに党のアイデンティティに揺らぎが生じ、支持者から厳しい目が向けら れているのも事実である3 4 )。2002年の総選挙ではSPDが前回より議席を減らしたのに対し、緑 の党の議席は増えた。4年間の取り組みが評価されたのであろうか。いずれにせよ、政権を担 当し、外交政策における責任を担ったことでこの左翼政党の存在意義は将来どうなるのか、こ の点も連立政権の外交に付随する関心事である。

1 ) Frank R. Pfetsch, Die rot-grüne Außenpolitik,in: Christoph Engle/Tobias Ostheim/Reimut Zohlnhöfer(Hrsg.), Das rot-grüne Projekt. Eine Bilanz der Regierung Schröder 1998-2002, Wiesbaden 2003, S. 392. フェッチュは政治的社会化の年齢を15歳から25歳までとしている。これによると1998年でのコー ル政権では68年世代・70年代初期世代に属する閣僚は17.7%(17名中3名)なのに対し、2002年でのシ ュレーダー政権の閣僚は60.1%(15名中9名)である。また、コール政権ではアデナウアー、エアハル ト政権期に社会化を迎えた閣僚は70.6%(17名中12名)なのに対し、シュレーダー政権では33.3%(15名 中5名)である。

2)Koalitionsvereinbarung vom 20. Oktober 1998 zwischen der SPD und Bündnis 90/Die Grünen für den 14. Deutschen Bundestag. Aufbruch und Erneuerung −Deutschlands Weg ins 21. Jahrhundert, in:Das Parlament, Nr.45/1998, S. 9f. 連立協定の11章に関して、ルップは「ドイツの対外政策は、すなわち平和政 策である」という宣言で始まるにもかかわらず、「ブラントのように協力的かつ平和的に関係を転換し ていく政策の要素がほとんど見られない」と述べ、そこにみられるのは前政権の対外政策との継続性、 危機予防対策、対米協力関係であると分析している。Hans Karl Rupp, Politische Geschichite der Bundesrepublik Deutschland, 3., völlig überarb., erw. und aktualisierte Aufl. München 2000, S. 372. 深谷満 雄・山本淳訳『現代ドイツ政治史 ― ドイツ連邦共和国の成立と発展』彩流社、2002年、474頁。 3)Regierungserklärung von Bundeskanzler Gerhard Schröder vom 10. November 1998, Das Parlament,

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Nr48/1998, S.4.(以下、Erklärung)

4)Der Koalitionsvertrag. Dokumentation der Vereinbarung zwischen der SPD und Bündnis 90/Die Grünen über das Arbeitsprogramm der Bundesregierung in der 15. Legislaturperiode, in: Das Parlament, Nr. 42-43/2002, S. 17-24.

5)Christian Hacke, Die Außenpolitik der Regierung Schröder/Fischer: Zwischenbilanz und Perspektiven, in: Aus Politik und Zeitgeschichite, B48/2002, S.7.

6)Helga Haftendorn, Deutsche Außenpolitik zwischen Selbstbeschränkung und Selbst-Behauptung 1945-2000, Stuttgart München 2001, S. 444., Erklärung, S.1.

7)Gerhard Schröder, Eine Außenpolitik des “Dritten Weges”?, in: Gewerkschaftliche Monatshefte, 50 (1999), S. 394.

8)この点に関しては、取敢えず拙稿「ベルリン共和国の外交政策 ― 連続講演にみる統一ドイツの外交 政策」『愛知学院大学論叢法学研究』第40巻第4号、Frankfurter Allgemeine Zeitung, 26.11.1999, S.8を参 照のこと。

9)Michaela Richter, Continuity or Politikwechsel?: The First Federal Red-Green Koalition, in: German Politics and Society, Vol. 20, No. 1, S. 36f.

10)Karl-Rudolf Korte, The Effects of German Unification on the Federal Chancellor’s Decision-Making, in: German Politics, Vol. 11, No. 3, S. 94.

11)Gisela Müller-Brandeck-Bocquet, Deutsche Leadership in der Europäischen Union?Die Europapolitik der rot-grünen Bundesregierung 1998-2002, in: Gisela Müller-Brandeck-Bocquet et al., Deutsche Europapolitik von Konrad Adenauer bis Gerhard Schröder, Opladen 2002, S. 170-177, S. 209. ベルリンの交渉で構造基金の 合理化や持ち出し超過国への配慮など改革的側面が全くなかったわけではない。

12)Frankfurter Rundschau, 26. 3.1999, S.1.

13)Frankfurter Rundschau, 27. 3.1999, S. 6. 尚、同紙のこのインタヴューで連邦軍派遣地域の限界を問われ たシャーピングは、NATOはヨーロッパ・大西洋地域の安全保障に特別な責任があるとし、人権は世界 規模で有効だが、我々の行動範囲はそこまで及ばないと発言している。

14)Hans Jörg Hennecke, Die dritte Republik. Aufbruch und Ernüchterung, München 2003, S. 113f. 15)Gisela Müller-Brandeck-Bocquet, a.a.O., S. 182f.

16)Gisela Müller-Brandeck-Bocquet, a.a.O., S. 186-191. 2001年7月の調査では東方拡大に賛成のドイツ人は 35%、反対は42%、意見なしが23%、EUの平均では賛成43%、反対35%、未決定23%(S. 191)。

17)Gerhard Schröder, Deutsche Russlandpolitik−europäische Ostpolitik. Gegen Stereotype, für Partnerschaft und Offenheit−eine Positionsbestimmung, Die Zeit, 5. 4. 2001, S.10

18)Gisela Müller-Brandeck-Bocquet, a.a.O., S. 206-210. Hans Jörg Hennecke, a.a.O., S. 256−264.ミュラー・ ブランデック・ボケによると、シュレーダー案では農業政策と構造政策を狙い撃ちにして、権限の加盟 国への再移転を要求している点に他国から批判が寄せられ、また、ラウ案もシュレーダー案もドイツの 連邦制にならった組織を提案しているため、フランスにもイギリスにも受け入れられるものでなかった。 それに比べフィシャー案は構想のオープンさゆえ、後まで最も影響が残る最終形態構想となった(S . 209.)。 19)この点に関しては以下の文献を参照のこと。河野健一「ドイツの軍改革 ― その戦略的意味と欧州安保 への影響」『ドイツ研究』2002, 33/34, 64-77頁/辰巳浅嗣『EUの外交・安全保障政策 ― 欧州政治統合の歩 み ―』成文堂、2001年、第Ⅲ部(225-349頁)/ Gisela Müller-Brandeck-Bocquet, a.a.O., S. 191-197.

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Politik und Zeitgeschichte, B43/2000, S.14ff. 尚、PDSも兵役の廃止(abschaffen)を支持しているが、基本 法改正のために必要な3分の2の票を確保するのが難しいため、まず即時の停止(aussetzen)を要求し ている。ヴァイツゼッカー委員会の報告書は[h t t p : / / w w w . l a s s a l l e w e b . d e / B u n d e s w e h r _ S i p o / Bundeswehr/Bericht. pdf]。その内容は概ね以下のようである。①2000年次に32万3000人の総兵力を24万 人に、10万人超の文官を8万に削減、②徴兵制は年3万人に削減、③連邦軍総監の権限強化と指揮系統 の強化、④危機対応に則した陸海空軍の組織・編成変え、④装備調達実現のため、国防予算の年間20-30億マルクの増額(河野、前掲論文71頁)。

21)Oliver Thränert, Die Reform der Bundeswehr: Die Debatte bei den Regierungspartei SPD und Bündnis 90/Die Grünen, in: Aus Politik und Zeitgeschichte, B43/2000, S. 24-28.

22)Verteidigungspolitische Richtlinien, http://www.bmvg.de/archiv/reden/minis.../030521_struck_vpr.ph 23)Der Spiegel, 42/2003, S. 22.

24)Der Spiegel, 14/2003, S. 54.

25)Der Spiegel, 35/2000, S. 34f. Der Spiegel, 43/1999, S.36-39.1999年度における最大の輸出国は米で184億ド ル、独は英、露、仏に次いで12億ドルで5番目(S.34)。

26)Das Parlament, 19. 10. 2001, S. 11, Süddeutsche Zeitung, 7.11.2001, S.1.

27)対テロ戦争、ISAFに関しては岩間陽子「ドイツの安全保障政策と新たな課題」『国際問題』国際問題 研究所、2002年8月、37-40頁。

28)Der Spiegel, 13/2003, S.54f.

29)Freitag, 12.10. 2001, S.10/Freitag, 5.4.2002, S. 4.

30)Joachim Betz, Die Entwicklungspolitik der rot-grünen Bundesregierung, Aus Politik und Zeitgeschichte, B18-19/2001, S. 30-38.

31)Helga Haftendorn, a.a.O. , S. 444.

32)Gunther Hellmann, Sag beim Abschied leise Servus! Die Zivilmacht Deutschland beginnt, ein neues ‘Selbst’ zu behaupten, in: Politische Vierteljahresschrift, 43.Jg., Heft 3, S.499, S.506.

33)Der Spiegel, 42/2003, S. 22-26.

34)例えば、“Ein Projekt ist das nicht” Rot-Grün zum Zweiten, “Blätter”-Gespräch mit Bettina Gaus, in: Blätter für deutsche und internationale Politik, 11/2002, S.1324-1334.tazの通信員であるガウスは赤緑政権 の外交政策に失望したとし、「緑の党への希望を捨てた」と言い切る(S.1328.)。

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参照

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