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基地問題とメディア

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1.はじめに

 日本の国土面積の約0.6%の沖縄県に70.38(2017年3月31日現在)%の米軍専用 施設が存在する。本稿で取り上げる基地問題とは,沖縄に米軍基地があるゆえに 発生する事件,事故,騒音被害,環境汚染,人権侵害などの諸問題を指す。基地 問題を引き起こしているのは米軍の沖縄駐留であり,不平等と指摘される日米地 位協定(1)である。  日米地位協定が不平等である例として,米兵犯罪については,犯罪捜査に必要 な身柄の引き渡しが起訴後となっているため,実際には立件困難なケースが少な くない。起訴前の米兵の身柄引き渡しは,あくまで米側の好意的な考慮に委ねて いる。ドイツと北大西洋条約機構(NATO)軍の地位補足協定(「ボン補足協定」) にはある環境保護規定がないため,米軍基地が返還される場合は,米軍が使用し た汚染物質や不発弾などの除去義務はなく,日本の責任と費用負担で原状回復し なければならない。  本稿は基地問題に対し沖縄の地元紙・琉球新報がどのように向き合っているの かを報告する。初めに,沖縄戦から導かれた琉球新報の報道姿勢について紹介す る。次に米軍の沖縄駐留の源流をたどった上で,基地問題と日米地位協定の関係, 基地問題に関する琉球新報の報道,全国紙との温度差について報告する。

宮 城   修

(琉球新報社) 

基地問題とメディア

  地元紙の視点から

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2.戦争動員と新聞

2−1 「報国新聞」  アジア・太平洋戦争前に新聞は読者に真実を伝えず,戦争遂行の宣伝機関とな った。沖縄も例外ではない。国家による「一県一紙」の言論統制方針によって, 1940年12月20日,『琉球新報』『沖縄朝日新聞』『沖縄日報』の3紙が統合され 『沖縄新報』が創刊された。創刊に先立ち同年12月6日,『琉球新報』に掲載され た3紙連名による『沖縄新報』創刊の趣旨は「県民に対し豊富なる報道と適切な る指導を以て,高度国防国家の建設へ微力を尽くし,併せて県勢の振興と文化の 発展に貢献しようとするものであります」と説明している。大政翼賛会を中心と する国家総力戦体制に組み込まれた「報国新聞」という性格を鮮明にしている。  以来,沖縄新報は国家の戦争遂行に協力し,県民の戦意を高揚させる役割を担 った。例えば1943年1月にソロモン諸島のガダルカナル島の戦闘で戦死した与那 国村(当時)出身の大舛松市(おおます・まついち)さんを取り上げた「大舛大尉 伝」を136回にわたって連載し,「全県民に大舛魂を」「軍神大桝に続け」と戦意 高揚に利用した。大桝さんは1917年に生まれ,県立一中卒業後,陸軍士官学校に 進み,戦死する直前の1942年末,米国をはじめとする連合国側にとって対日作戦 上の要衝だった激戦地のガダルカナル島に着任した。大本営は1943年2月,ガダ ルカナル島からの「転進」を発表するが,事実上の撤退だった(2)。  大舛さんの戦死を新聞が伝えたのは1943年10月だった(3)。戦場での勲功が天皇に 報告され,軍人最高の栄誉とされた「個人感状(かんじょう)」を県出身者で初め て授与された。新聞は「感状上聞に達す 大舛中尉」などの見出しで一斉に報じ, その後,大舛大尉偉勲顕彰県民大会が開かれるなど一大キャンペーンを始めた(4)。 沖縄新報は,その普及を通して大桝顕彰運動を県内全域に周知徹底させるという 名目で,大政翼賛会地方支部と連携して,沖縄新報の県民皆買運動を起こしてい る。大桝さんの死を自社の販売拡張に利用したのである。  1944年3月に沖縄に配備された第32軍司令部は,参謀部内に報道宣伝協議会を 設置して,報道機関を完全に軍の統制下に置いた(5)。記事に対しての検閲は厳しく 「戦意を欠く記事」を書いたとして軍,警察から取り調べを受けた記者もいた(6)。  沖縄新報は地上戦が始まる直前の1945年2月16日,次のような社説を掲載した。

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 「戦争は,軍も官も民もない。すべてが戦闘員だ。一丸となって戦うのだ。竹 槍であろうが,それが武器となるものであれば,てんでに提げ,一人十殺の必殺 訓をなして戦う,これが県民の絶対的使命となったのだ」。新聞が積極的に政府 や軍部と一体化し,県民に死を強要していることが分かる。  米軍上陸が迫った1945年3月,首里城本殿裏に造られた陣地壕「留魂壕」に拠 点を移動した。戦場に動員された沖縄師範学校男子部の学徒で構成する鉄血勤皇 師範隊と同居し,砲撃の中で新聞を発行した。鉄血勤皇師範隊の生徒が防空壕に 避難する県民に新聞を配った。  米軍上陸後,戦闘の推移や住民の犠牲を客観的に報道する姿勢はなく,当時の 記者は「もう戦果,戦果の記事だけ。県庁の壕や警察の壕に行けば,『戦争美談』 があるし,県民を激励する知事や警察部長のコメントも県民への激励だけ」と証 言している(7)。  真和志村(現那覇市)繁多川の県庁壕で1945年4月27日に開かれた南部地区市 町村長,県,警察署長合同の会議の模様が,4月29日付『沖縄新報』に掲載され た。記事は「勝つぞこの意気 弾雨を蹴って市町村長会議」の見出しとともに 「勝利の日まで辛抱を続けよう」という島田叡知事の訓示を紹介した。また「一 万八千余を殺傷」という軍発表の沖縄戦の戦果を伝えた。当時の記者は次のよう に証言している。  戦意を高揚させるような記事を書くことに,当時はいささかの疑問も感じ ていなかった部分があった。戦争の中に入るとものが見えなくなる。(情報 部の益永薫中尉は)最初のころは良かったが「沖縄の住民はスパイ行為をし ている。警察,新聞記者でもやってないとは言い切れない」と言うようにな った(上間正諭朝日新聞沖縄支局員)。  新聞としての機能はなくなっていた。戦争の中で新聞が生きるために,や むなくああいう形になった。発行を止めることはできたかもしれない。しか し,金縛りにあったみたいで,それができなかった(8)(牧港篤三沖縄新報記者)。  第32軍が首里城地下の司令部を放棄する方針を決定した後の1945年5月25日, 沖縄新報の解散が決まり,活字を地面に埋めて,社員は壕を脱出した。前述した 新聞記者たちの証言にあるように,沖縄の新聞は戦争に深く加担したという負の 歴史がある。『琉球新報百年史』は砲火の中での新聞発行について次のように記

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述している。  戦前の昭和時代の新聞は,挙国一致・言論統制下での発行を余儀なくされ た。満州事変以後,統制が厳しくなり,特に政府による一県一紙時代は軍部 の機関紙的な報道が多くなった。戦後は政府・軍部を批判しきれなかった新 聞のありようが問われ,言論・出版の自由と新聞の本来の姿が求められてい くのである(9)。  「戦争のために二度とペンをとらない」というのが,沖縄戦から得た私たち新 聞人にとっての教訓である。基地問題と向き合う原点は沖縄戦にある。 2−2 国家の教訓  一方,国家は沖縄戦から別の教訓を引き出している。沖縄戦で組織的戦闘が事 実上終結した後,安倍源基内務大臣(10)は「沖縄の戦訓(11)」を発表した。安倍内相は 「ことに沖縄新聞社が敵の砲弾下にありながら一日も休刊せず友軍の士気を鼓舞 していることなども特記すべきである」と述べ,国家による言論統制がうまくい ったことを教訓として挙げている。  70年以上前の国家による言論統制は現在の安倍政権に引き継がれようとしてい る。2014年12月,安倍政権下で特定秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)が 施行された。この法律は「何が秘密か,それが秘密」と言われる。秘密指定の基 準があいまいで,指定対象を具体的に明示しない。その結果,市民がそれと知ら ずに「特定秘密」に接近し,処罰されることもあり得る。報道機関も同様だ。萎 縮効果を狙う手法は戦前の言論統制と酷似している。特定秘密保護法について専 修大学の山田健太教授(言論法)は「戦後の憲法体系の理念に反する」「漏らす 者とともに,かぎ回る者を罰する法体系」と指摘している(12)。  特定秘密保護法が公布された時,自民党の石破茂幹事長(当時)が記者会見で 特定秘密の報道について「わが国の安全が極めて危機にひんするのであれば,何 らかの方向で抑制されることになる(13)」と述べ,報道機関への処罰を示唆した。す ぐに訂正したが,政府,与党の本音だろう。国民の知る権利に応える報道は,高 い公益性を有し憲法によって保障されているはずである。戦後,沖縄の新聞人が 継承してきた教訓と,言論を統制した国家の教訓がせめぎ合っている。  せめぎ合いは今も続いている。2015年6月25日,沖縄の地元紙に対する報道圧

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力が起きた。安倍晋三首相に近い自民党若手国会議員の勉強会「文化芸術懇話 会」で,大西英男衆院議員(東京16区)は「マスコミを懲らしめるには広告料収 入がなくなることが一番だ」と明言した。思い起こしてほしい。戦前,地方紙を 1県1紙に統合し紙を配給制にした。気に入らない記事を掲載すれば紙を止めれ ばいい。たちまち新聞を発行できなくなる。こうして国家は新聞社を掌握した。 大西氏の発言は戦前の言論弾圧に通じる発想である。  長尾敬衆院議員(比例・近畿ブロック)は「沖縄の特殊なメディア構造をつく ってしまったのは戦後保守の堕落だ。もはや沖縄タイムスと琉球新報の牙城で, 沖縄世論がゆがんでいる。左翼勢力に乗っ取られている」と主張した。「左翼勢 力に乗っ取られている」など甚だしい事実誤認である。講師の百田尚樹氏は「本 当に沖縄の二つの新聞社はつぶさなあかん。あってはいけないことだが,沖縄の どこかの島が中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」と応じた。  百田氏は米軍普天間飛行場について「もともと田んぼの中にあった。まあなん にもない。基地の回りに行けば商売になるということで人が住み出した」とも述 べている。しかし,戦前の宜野湾村役場があった場所は現在の滑走路付近だ。周 辺には国民学校や郵便局,旅館,雑貨店が並んでいた。琉球王国時代の宜野湾間 切の番所(村役場に相当)もここにあった。  報道圧力が表面化した翌日,安倍首相は「報道の自由は民主主義の根幹」と語 ったものの,謝罪を避け発言した議員の処分も拒んだ。批判が高まって勉強会か ら8日後に「国民に対し大変申し訳ない。沖縄県民の気持ちを傷つけたとすれば 申し訳ない」「最終的には私に責任がある」と述べ,ようやく自らの非を認めた。  今回の報道圧力問題は異論を許さず排除するという戦前の言論弾圧に通じるも のがある。安倍政権側は「表現の自由は憲法で保障されている」と報道圧力を否 定するが,結果的に報道機関が萎縮し,言論の自由を脅かす恐れをはらむ(14)。政権 や与党議員が,報道が気に入らないから圧力をかけよう,排除しようとするのは, 憲法21条が保障する「表現の自由」を踏みにじる行為である。言論,表現,報道 の自由は民主主義の根幹を成すものであり,権力を監視,検証して批判すること はジャーナリズムの責務である。  せめぎ合いは基地報道にも及んでいる。2016年8月20日,沖縄本島北部の米軍 北部訓練場のヘリパッド建設に対し,反対する住民の座り込み抗議行動を取材し ていた琉球新報と沖縄タイムスの記者が,警察官,機動隊員に一時拘束され強制 排除された。記者は琉球新報社の腕章を着け,警察官に琉球新報の記者であるこ

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とを訴え,近くにいた弁護士も記者であることを指摘していた(15)。  日本政府は記者拘束について事実関係を検証もせず,根拠も明らかにしないま ま「報道の自由は十分に尊重されている」とする答弁書を閣議決定した。警察の 恣意的な権限行使を擁護したことに他ならない。  国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF)は2016年10月22日,琉球 新報,沖縄タイムス両紙記者を警察が現場から排除したことなどについて「沖縄 の報道の自由が脅かされている」とする声明を発表した(16)。RSF はこの政府答弁 書に触れ「安倍晋三首相率いる政府は機動隊のこのような活動を容認し,ジャー ナリストにとって危険な前例を作った」と問題視している。国際社会は,沖縄で 取材の自由が脅かされていることを深く憂慮している。  その RSF は2016年の世界各国の報道自由度ランキングを発表した。日本は特 定秘密保護法などの影響で「自己検閲の状況に陥っている」として,前年の61位 から72位に順位を下げた。RSF は「特に(安倍晋三)首相に対する批判などで, メディアの独立性を失っている」と指摘している(17)。この指摘を重く受け止めたい。

3.基地問題の源流

3−1 沖縄戦  米軍基地と沖縄戦は密接な関わりがある。1945年4月1日,沖縄島に上陸した 米軍の最初の目標は日本軍の北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)の攻略だった(18)。 嘉手納飛行場は現在も東アジア最大規模の米空軍基地である。  沖縄戦の最中の1945年4月23日,米軍を指揮する第10軍のサイモン・B・バッ

クナー(Simon Bolivar Buckner, Jr.)司令官は,チェスター・ニミッツ(Chester

William Nimitz)太平洋地域総司令官に対して沖縄を保持するよう進言した。バ

ックナー中将は沖縄を保持するための条件として,沖縄を保護領か委任統治領, あるいは別の名目で支配するよう付け加えていた(19)。沖縄作戦(20)の終了を宣言した翌 日の7月3日,ジョージ・マーシャル(George Catlett Marshall)米陸軍参謀総長 は,ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)米大統領に対し,沖縄は戦後の 米国の極東戦略上重要だと指摘した(21)。

 さらに沖縄戦より前の1943年10月,米軍は沖縄島を占領した上で,現在の嘉手 納基地,普天間飛行場,那覇空港と同じか極めて近い場所に滑走路を建設するこ とを検討していた。琉球新報の調査報道で明らかになった(22)。日本の第32軍が沖縄

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に配備される1944年3月より早い。米軍は滑走路建設を計画していた島の中南部 が人口密集地であることも把握していた。普天間飛行場用地は,当時の宜野湾村 の中心に位置する。米国も批准しているハーグ陸戦条約は戦争中に民間地の奪取 を禁じているが,米軍は条約を無視して滑走路建設を検討していた可能性がある。 そして普天間飛行場は米軍の沖縄島上陸後,住民を収容所に隔離した上で土地を 奪って建設された。  1945年8月4日現在,普天間飛行場の滑走路のうち1本は71%出来上がってい た (23) 。日本への出撃拠点とする目的で沖縄に滑走路を建設したわけだから,日本の 降伏によって目的は果たしたはずだ。普天間飛行場の建設自体がハーグ陸戦条約 に違反する疑いが濃厚である。普天間飛行場移設を巡って日米両政府は,名護市 辺野古に移設条件を付けて返還合意しているが,本来,移設条件を付けることな く直ちに返還すべき軍事施設なのである。 3−2 「天皇メッセージ」  沖縄を日本と切り離して米軍基地を集中させるという発想は,昭和天皇の考え でもあった。サンフランシスコ講和条約が締結される4年前,昭和天皇が米国に よる沖縄の恒久的統治を米側に提案している。1947年9月,天皇の御用掛だった 寺崎英成はシーボルト(William Joseph Sebald)連合国最高司令官政治顧問に会い 「沖縄の将来に対する天皇の考え(24)」(「天皇メッセージ」)を伝えた。米国は戦後,「領 土不拡大の原則」を尊重する米国務省と,沖縄の米国領有も辞さない軍部が鋭く 対立していた。東西冷戦下でソ連を囲い込む意見が米国内で強まる中で,この「天 皇メッセージ」は,対日講和条約交渉で決定的な影響を与えたとみられる。  その内容は「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。 これは米国に役立ち,また日本を防衛することになる。…米国の軍事占領は,日 本に主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年,あるいはそれ以上―の擬 制(fiction)に基づくべきだと考える」というものだ。  「長期租借の擬制」とは日本に主権を残しつつ,ソ連など共産主義圏の脅威に 対抗し,沖縄の「軍事基地権」を米国に長期にわたって提供するという提案であ る。主権を残した形で沖縄を租借するという方式は,沖縄統治に要する出費に悩 む米陸軍と米国務省首脳は格好の代案と受け止めたようだ。豊下楢彦氏は「そも そも主権が保持されるとしても,『25年から50年,あるいはそれ以上』にわたり 米国の軍事占領を許すということは,事実上沖縄を『捨てる』ことを意味してい

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るのではなかろうか(25)」と指摘している。

 昭和天皇の生涯を記録した『昭和天皇実録(26)』も「天皇メッセージ」が連合国軍

総司令部(GHQ)に伝えられたことを記述している。「沖縄を切り捨てた」との

批判もあるメッセージが,日本の公式な文書に記録されたことになる。

 「天皇メッセージ」には続きがある。対日講和条約交渉が東京で行われた1951 年1月30日,吉田茂首相がダレス(John Foster Dulles)米特使に対し,講和後の 沖縄の取り扱いについて「バミューダ方式(99年間の租借)」で沖縄を米国に貸す ことを伝えた。首相の提案は,昭和天皇が長期の貸与(lease)を申し出た4年前 の「天皇メッセージ」を具体化するような内容だ。  以上,沖縄に米軍基地が集中する源流は,沖縄戦と戦後の天皇及び吉田首相の 提案にあると考えている。今から45年前の1972年5月15日,沖縄の施政権が日本 に返還された。沖縄返還後も米軍は沖縄に駐留し続けている。米国はなぜ施政権 を返還したのか。琉球大学の我部政明教授(国際政治)は次のように指摘している。  米国は,日米の関係が安定し,その同盟関係がより強固になれば,つまり 日本政府が積極的に支持する限り,施政権がなくとも沖縄に基地を維持し続 けられる,と気づいた。その結果,1972年に施政権は日本に返還された。同 時に,沖縄の施政権を握ったことで日本政府は,沖縄の人々から米軍基地を 拒否できる法的権限をほぼ奪うことができた。日本の自治体が享受できる自 治の権利からのみ,沖縄の人々は米軍基地を政治や法の問題として提起でき る。その権利すらも,安倍政権は翁長県政との間で拒否する。沖縄は日本の 中では異なる地域,つまり公平に扱わなくてよい領土だ,という捉え方の表 れである(27)。  一方,沖縄を除く日本の米軍基地は1970年代後半までに大幅に削減され,「反 米ナショナリズムの象徴となっていた基地問題がほとんど解消」した(28)。そして相 対的に沖縄への基地の集中度が高まったのである。  翁長雄志氏は2014年11月の県知事選で,米軍普天間飛行場の名護市辺野古への 移設反対を公約に掲げて当選した。2014年1月の名護市長選,2014年の衆院選の 沖縄全選挙区,2016年7月の参院選のいずれも新基地建設を拒否する候補が当選 した。2016年6月の県議選では翁長県政与党が圧勝した。これらの選挙結果を見 ても,沖縄の大多数の民意は新基地建設反対であることは明らかだ。選挙で民意

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が示されたにもかかわらず,日米両政府は辺野古移設で強硬姿勢を取り続けてい る。安倍首相は「辺野古が唯一」と繰り返し新基地建設を強行している。沖縄の 自己決定権を踏みにじる行為が民主主義国家でまかり通っていいはずがない。

4.基地報道

4−1 諸問題と日米地位協定  冒頭で記述したように,基地問題とは,沖縄に米軍基地があるゆえに発生する 事件,事故,騒音被害,環境汚染,人権侵害などの諸問題を指す。諸問題と日米 地位協定の関係を具体的に挙げてみることにする。  第1に事件がある。1955年には6歳の幼女が米兵に拉致,乱暴され殺害された。 沖縄の施政権が日本に返還された1972年5月15日から2015年末までに米軍構成員 (軍人,軍属,家族)による強姦は129件発生し,147人が摘発された。  1995年9月には沖縄本島北部で米兵3人による少女乱暴事件,2008年には沖縄 本島中部で米兵による女子中学生暴行事件が発生した。そして2016年4月,元海 兵隊員による女性暴行殺人事件が発生した。この殺人事件で殺人や強姦致死など の罪で起訴されている元米海兵隊員で米軍属のケネス・フランクリン・シンザト (旧姓ガドソン)被告は,犯行について「(事件が起きたあの場所に)あの時居合わ せた彼女(被害女性)が悪かった」と弁護人に証言し,被害者と遺族をさらに傷 付けた(29)。沖縄返還後,米軍人による刑法犯罪(1972年5月15日~2016年5月)は 5910件に上り,そのうち殺人などの凶悪犯罪は575件に達する。  沖縄で米軍の犯罪が減らない背景として日米地位協定がある。基地外で罪を犯 した米兵らが基地内に逃げた場合,日本側が起訴するまで原則的に身柄が引き渡 されない特権を認めている。米側はこれまで米軍人・軍属による事件が起こる度 に,可視化や弁護人の立ち会いがない日本の司法手続きの不備を主張し,日米地 位協定を盾に身柄の引き渡しなどを拒否してきた。被疑者の身柄は最も重要な証 拠である。過去に日本側が起訴できないうちに被疑者が国外へ逃亡する事例が発 生している。  日米地位協定は米軍関係者による事件・事故は「公務外」であれば日本側が1 次裁判権を持つと規定する。だが1953年10月に日米両国は密約を結び,「日本に とって著しく重要と考える事件以外は1次裁判権を行使するつもりはない」と日 本側が表明し,裁判権を放棄している(30)。この密約は国民の人権を直接,侵害して

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いる点で,ひときわ理不尽,悪質と言える。実際,2015年に国内で発生した刑法 犯の起訴率は国内平均が38.5%だったのに対し,米軍関係者は18.7%と半分以下 にとどまる。在日米軍の現役の法務部の担当者が2001年にまとめた論文は,米軍 関係者に対する起訴率が低くとどまっていることを認めた上で「合意は今も忠実 に実行されている」と記している(31)。  第2に事故がある。児童を含む17人が死亡した1959年6月30日の沖縄本島中部 の石川市(現うるま市)宮森小学校ジェット機墜落事故をはじめ,1968年にはベ トナムに出撃するB52戦略爆撃機が嘉手納基地で離陸に失敗して墜落した。沖縄 県の統計によると,1972年の沖縄返還以降も米軍機の墜落事故は48件(2016年末) に上る。2004年8月には,米海兵隊普天間飛行場所属の CH53大型輸送ヘリが沖 縄国際大学に墜落した。2016年9月には AV ハリアー戦闘攻撃機,同年12月に は垂直離着陸輸送機 MV22オスプレイが墜落した(32)。単純計算で年に1件のペース で米軍機が墜落する都道府県が全国のどこにあるだろうか。  2004年の沖縄国際大ヘリ墜落や,昨年の名護市安部のオスプレイ墜落の際,基 地外であるにもかかわらず米軍が規制線を張り,日本側当局の捜査を拒んだ。外 務省は「米軍の施設・区域外で米軍人が警察的権力を行使する権利はない」とい う立場である。実際に九州大学へのファントム機墜落事故(1968年6月),横浜市 緑区でのファントム偵察機墜落事故(1977年9月),愛媛県伊方原発近くでの米軍 ヘリ墜落事故(1988年6月)の3件で米軍は日本の警察の現場検証を認めた。し かし沖縄では認めない。地位協定の運用に関して沖縄と他府県で差別的な違いが ある(33)。  米軍機が米軍施設・区域外に墜落・不時着した場合は,米軍は「事前の承認な くして公有または私有の財産に立ち入ることが許されるものとする」という,地 位協定の運用上の密約があることも明らかになっている(34)。イタリア国内の全米軍 基地は,イタリア軍司令官の下に置かれている。米軍機事故の検証もイタリア側 が主導権を持つ。日本もそうすべきだ。  第3に騒音被害がある。例えば2016年10月19日午前2時半,嘉手納基地からF 16戦闘機6機が離陸し最大100.2デシベルを計測した。住民が熟睡する深夜に電 車が通るガード下,あるいは自動車の前1~2メートルで聞く警笛に匹敵する爆 音にさらされる。  2017年2月7,8の両日,米海兵隊のオスプレイの低空飛行に伴う騒音が相次 いで確認された。名護市辺野古の国立沖縄工業高等専門学校の屋上に設置した測

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定機で2月7日午前9時36分に航空機のピーク騒音レベル(LAmax)で101.9デ シベルを記録した。2010年7月の設置以降,目視で米軍機が原因と確認できた騒 音の中で最大級だった。日米両政府は1996年,負担軽減策として普天間飛行場と 嘉手納基地の騒音規制措置(騒音防止協定)を定め,午後10時から午前6時まで の飛行を制限している。しかし,オスプレイは今年2月から3月までの2カ月間 に限っても午後10時以降に11回飛行している(35)。  実は夜間飛行の制限とは禁止するという意味ではない。騒音防止協定は「(夜 間飛行は)米国の運用上の所要のために必要と考えられるものに限られる」と記 されている。運用上必要であれば飛行していいとも解釈でき,司令官の恣意的解 釈で深夜,未明であっても飛ばせる。協定は役に立たないのである。米軍機の飛 行について外務省は,射爆撃さえしなければ,米軍の望み通りの飛行訓練ができ ると,地位協定を解釈している(36)。このためオスプレイがまき散らす低周波による 騒音や震動に起因する被害が,歯止めがないまま深刻化している。  第4に環境汚染がある。例えば2013年から2015年にかけて,沖縄本島中部の沖 縄市のサッカー場からダイオキシンを含むドラム缶108本が見つかった。2015年 2月発見のドラム缶の付着物から発がん性が指摘されるジクロロメタンが,環境 省が定める土壌環境基準の45万5千倍で検出されるなど,基準値を上回る複数の 有害物質が確認された。これらのドラム缶のたまり水(未ろ過水)から廃棄物処 理法に基づく排出基準の2100倍のダイオキシンが検出された。公共用水や地下水 を対象としたダイオキシン類対策特別措置法に基づく環境基準からは2万1千倍 になる。米国の枯れ葉剤製造会社「ダウ・ケミカル」の印章があるドラム缶も確 認された。防衛局と市の調査では米軍がベトナム戦争時に散布した枯葉剤の主要 成分「2・4-D」「2・4・5-T」を検出した。しかし日米両政府は今も枯 れ葉剤があった証拠としては認めていない。  日米地位協定は,米軍に基地返還後の原状回復の義務を課していない。この協 定は環境に対する認識が薄かった1960年に結ばれた。米国内では現在,基地内の 環境汚染が確認されると,政府,州政府,地方自治体の環境担当者と軍の四者協 議会が浄化作業の内容について協議する。原状回復が十分と判断できるまで相互 で厳しく監視し徹底させる。日本政府は米国内の基準に合わせた地位協定の改定 を求めるべきだ。  非政府組織(NGO)の沖縄国際人権法研究会や反差別国際運動(IMADR)など 複数の団体が,米軍普天間飛行場移設に伴う新基地建設や米軍関係者による事

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件・事故などが「沖縄の人々の人権を侵害している」と訴える4点の報告書を, 国連人権高等弁務官事務所に提出した。IMADR は昨年9月,スイスで開催され た国連人権理事会で次のように声明を発表した。「沖縄は日本にある米軍専用施 設の約4分の3を抱えている。米軍駐留は長年,女性に対する性暴力や環境破壊, 土地接収,強制退去を含む数え切れないほどの人権侵害を引き起こしてきた」。 地位協定によって定められた米軍の運用は,今や国際社会から人権問題として捉 えられるようになっている。 4−2 基地問題を巡る報道  米軍基地から派生する諸問題について琉球新報をはじめ,沖縄タイムス,地元 放送局は繰り返し紙面や時間を割いてきた。地元メディアとして当然の報道姿勢 であると考えている。  琉球新報はこれまで日米地位協定の不平等性を読者に伝え,改定を求めるキャ ンペーンを展開してきた。例えば,2002年のサンフランシスコ講和条約・日米安 保条約発効50年の節目に,米軍基地が生み出すさまざまな問題を国外からとらえ 直そうと,連載企画「軍事基地と住民・国外から沖縄を問う」を54回にわたり掲 載した。ドイツ,韓国,プエルトリコ・ビエケス島に記者を派遣し,軍事基地が 引き起こす事件・事故,環境汚染などの被害を取り上げた。  2004年には外務省の機密文書『日米地位協定の考え方』を特報した(37)。以後,改 定を促すキャンペーンを張った。永久秘の機密文書は,協定本文よりもさらに米 軍へ譲歩を重ねる解釈をマニュアル化しており,米軍の運用を最優先し,基地被 害にあえぐ住民に背を向けた日本政府の実態を示していた。基地騒音訴訟の賠償 金に対する米政府の支払い拒否といった地位協定違反の実態も特報し,連載「検 証 地位協定 不平等の源流」が連動し,地位協定が基地被害の根にある現状を 報道し,改定に向けた課題を報じた。取材班が存在を突き止めた『日米地位協定 の考え方・増補版』も入手し,米側優位が一層進んだ実態も特報し,いびつな日 米関係の裏面を描いた(38)。  地位協定以外では,2011年11月に田中聡沖縄防衛局長(当時)発言を報道した。 田中氏が報道陣とのオフレコを前提とした懇談会で,米軍普天間飛行場の名護市 辺野古への移設に向けた環境影響評価書の提出時期を巡り「犯す前に『これから 犯しますよ』と言いますか」と発言した。県民の尊厳を踏みにじる暴言と判断し, 公共性,公益性に照らし,報道に踏み切った。

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 米海兵隊の撤退や大幅削減の芽を摘んでいるのは日本政府であることも繰り返 し指摘している。2015年11月,駐日米大使を務めたウォルター・モンデール氏

(Walter Frederick Mondale)(39) のインタビュー(40)もその一例だ。1996年4月に橋本龍 太郎首相との共同記者会見で普天間飛行場の返還合意を表明した人物であり,移 設先の選定を振り返り「われわれは沖縄だとは言っていない」と語った。モンデ ール氏は「沖縄も候補の一つ」と述べた上で「基地をどこに配置するかを決める のは日本政府でなければならない」と付け加えた。返還合意の際に県内移設の条 件が付いたのは,日本側の要望に沿ったものであることを示唆した証言だ。モン デール氏は2004年に米国務省系研究機関による退任後のインタビューで,1995年 の米兵による少女乱暴事件に関し「(事件から)数日のうちに米軍は沖縄から撤退 すべきか,最低でも駐留を大幅に減らすかといった議論に発展した」と証言して いる。つまり,日本政府の意向で県外・国外移設の大きな機会を逸したといって も過言ではない。  海兵隊は沖縄が米国統治下にあった1950~60年代,日本国内の反対運動を背景 に沖縄に移転してきた(41)。沖縄返還直後の1970年代前半には,米政府内で在沖海兵 隊の撤退や大幅削減が検討されながら日本政府がこれに反対したことも分かって いる(42)。軍事的必然性ではなく,政治的理由から沖縄に負担が強いられていく構図 は,名護市辺野古の新基地建設問題につながる(43)。モンデール氏は「日本政府が別 の場所に決めれば米政府は受け入れるだろう」との見解を示した。安倍政権が移 設作業を強行する非民主的な姿勢を改めることがまずは必要だ。ただし,米国も 当事者であることを忘れてはならない。合意から20年以上経っても普天間飛行場 の返還が実現していないのは,移設計画の混迷を見ながら「日本の国内問題」と して距離を置いてきた米側の責任も大きいのである。 4−3 在京メディアとの温度差  基地問題報道で全国紙や通信社の報道と地元紙の報道に温度差を感じることが ある。これまで指摘してきたように,独立と引き替えに日本政府は,東京から遠 く離れた沖縄を米軍事基地の島として差し出した。その結果,発生し続ける事件・ 事故などの基地問題を地元メディアは伝え続けている。とはいえ,連日基地問題 で紙面が埋め尽くされれば,基地以外の重要なニュースの扱いが悪くなる。そう ならないように毎日自問しながら紙面作りが続いている。それでは在京メディア との温度差について一例を挙げる。

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 2016年12月13日夜,沖縄本島北部の名護市安部の海岸で米海兵隊の MV22オス プレイが墜落した。米海兵隊は事故直後,航空自衛隊に「墜落の可能性がある」 と伝えていた。沖縄防衛局も当初,名護市に「墜落の可能性がある」と伝えてい た。しかし米軍はその後「浅瀬に着水」,防衛省も「不時着水」と改めた。琉球 新報は社説で「県民の反発をかわすために矮小化したとしか思えない(44)」と指摘し た。  琉球新報は当初から事故を墜落と報じてきた(45)。米大手の AP 通信,英ロイター 通信,保守系 FOX ニュース,米軍準機関紙「星条旗」,米海兵隊専門誌「マリ ンコータイムズ」なども事故を「墜落」(Crash)と報じている。しかし日本の大 手メディアの大半は発表通り不時着として報道を続けた。メディアの報道姿勢な どに詳しい砂川浩慶立教大学教授(メディア論)は「機体がばらばらになってい る事故を『不時着』とするのは非常に違和感がある。メディアが取材した事実を 自らの言葉で表現せず,権力に気を遣って政府の『大本営発表』をそのまま報じ るのは戦前のような全体主義,ファシズム国家になってしまう危険性をはらんで いる」とコメントした(46)。  在京大手メディアが「不時着」と報じ続けたことが,結果的に日米両政府の矮 小化に手を貸したことにならないか。在京メディアが大きく取り上げないため, 原因究明もないまま6日目の飛行再開強行の一因になったと考えている。

5.おわりに

 「基地問題とメディア」という表題で報告した。最後に,反戦を訴え続けたジ ャーナリスト,むのたけじ(本名武野武治)さんの話で本稿を閉じたい。むのさ んは生前,筆者のインタビューにこう語っていた。  「私の知っている範囲で,軍部と一緒になって旗を振った記者はほとんど見当 たらなかった。しかし,戦争が始まってしまってからでは,新聞も政党も思想団 体もまったく無力。国家は自分に反対するものは全部吹っ飛ばしてしまいます。 抵抗できません。戦争と戦うのであれば,戦争を起こさせないことです(47)」  朝日新聞記者時代に「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめを つける」として敗戦の日に退社した。故郷の秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』 を発刊し,反戦記事を書き続けた。むのさんは,戦争が始まると新聞は萎縮して 自縄自縛に陥ってしまい,新聞社内でのコミュニケーションがなかったと語って

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いた。「例えば,みんな取材で基地を歩いているから日本の軍隊がしていること を知っている。記者二人だとしゃべるが,別の友達が来ると口をつぐんでしまう。 三人だと,特高警察とか憲兵に秘密がばれたときにお互い疑うから(48)」  安倍政権下で特定秘密保護法が施行された。秘密指定の基準が曖昧で市民がそ れと知らずに「特定秘密」に接近し,処罰されることもあり得る。報道機関も同 様だ。萎縮効果を狙う手法は戦前の言論統制と酷似している。集団的自衛権の行 使を可能にした安全保障関連法も施行された。平和憲法の下で戦後を歩んできた 日本が,再び戦争に向かいかねない事態が進んでいる。今,最も問われているの はジャーナリズムの存在意義である。 (1) 正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6 条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」。 (2) 当時の日本はすでに原料や船舶不足で,食料や弾薬を同島へ満足に送れなかった。 日本兵の間に伝染病や飢餓がまん延し,少ない弾薬で敵地に斬り込むしかなかった。 ガダルカナル島の日本軍の死者約2万人のうち純戦死は5000~6000人,残り1万 5000人は栄養失調,マラリア,下痢,脚気などによるものとされている。純然たる 死者の3倍かそれ以上が広義の餓死者だった。藤原彰(2001)『餓死した英霊たち』 青木書店:22 (3) 『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』1943年10月8日付1面 (4) 「語り継ぐ 戦後69年」『琉球新報』2014年6月23日付朝刊 (5) 球1616部隊「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」1944年11月18日 (6) 琉球新報百年史刊行委員会編(1993)『琉球新報百年史』琉球新報社 141 (7) 連載「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕」『琉球新報』1992年7月10日付朝 刊社会面 (8) 前掲「首里城地下の沖縄戦」1992年7月9日,10日付 (9) 前掲『琉球新報百年史』142 (10) 安倍源基(あべ・げんき)初代警視庁特別高等警察部長。日本共産党弾圧を指 揮。警視総監,1945年鈴木貫太郎内閣の内相。 (11) 「特記すべき新聞社の奮闘」『読売報知』1945年6月29日付 (12) 『琉球新報』2013年10月5日付朝刊6面 (13) 2013年12月11日,日本記者クラブでの会見。 (14) 安倍政権は「公正中立」を名目に,これまで何度も政治報道に注文を付けてきた。 衆院選前の2014年11月,テレビ各局に衆院選報道の「公正の確保」を求めた文書を 出した。同月下旬にはテレビ朝日のアベノミクス報道を批判し「公平中立な番組づ くり」を要請した。さらに2015年4月,党の調査会が報道番組でのやらせが指摘さ れた NHK と,コメンテーターが首相官邸を批判したテレビ朝日の幹部を党本部に 呼んで事情聴取した。安倍首相自身,官房副長官だった2001年1月,日本軍「慰安

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婦」問題を取り上げた NHK 番組に対し,放送前に NHK 理事と面会し,「公正・中 立にやってほしい」と注文を付けたこともある。 (15) 『琉球新報』は編集局長名で次のように紙面で抗議した。「本紙記者は琉球新報 の腕章を身に着け,住民の抗議行動を記録するための正当な取材をしていた。現場 には県民に伝えるべきことがあった。警察の妨害によって,その手段が奪われたこ とは大問題だ。警察官が記者を強制的に排除し,行動を制限した行為は報道の自由 を侵害するもので,強く抗議する」(2016年8月21日付社会面)。 (16) 『琉球新報』2016年10月25日付朝刊1面 (17) 2016年4月20日共同通信社配信記事参照。 (18) アメリカ陸軍省戦史局編,喜納健勇訳(2011)『沖縄戦 第二次世界大戦最後 の闘い』出版舎 Mugen (19) 「司令官の見た戦場 バックナー中将の日記」『琉球新報』1995年6月14日付朝 刊文化面 (20) アイスバーグ作戦(Operation Iceberg)。米軍の沖縄上陸作戦の名称。第1段 階に慶良間占領と本島西海岸上陸,第2段階に伊江島占領,第3段階に宮古島など の南西諸島占領を位置付けた。1945年7月2日,作戦の終了を宣言した。 (21) 宮里政玄(1986)『アメリカの沖縄政策』ニライ社,34-35 (22) 島袋良太琉球新報ワシントン特派員の記事と解説。「43年に『普天間』検討/米, 沖縄戦1年半前/機密文書「人口密集地」も認識/民間地奪取,国際法違反か」 『琉球新報』2015年1月4日付朝刊1面,2面。The defeat of Japan within twelve

months after defeat of Germany. RG165 Records of the war Department General and Special.RG218 Record of the U.S. Joint chiefs of Staff Geographic File 1942-45/381 Ryukyu Islands(10-20-43) Sec 1-3, NARA.

(23) 沖縄県教育庁文化財課史料編集班編集(2017)『沖縄県史 各論編 第6巻  沖縄戦』沖縄県教育委員会 633 (24) 沖縄県公文書館資料コード0000017550 (25) 豊下楢彦(2006)「占領と排他的支配権の形成―『沖縄問題』の国際的位相」『岩 波講座アジア・太平洋戦争8 20世紀の中のアジア・太平洋戦争』岩波書店 71-72 (26) 2014年9月9日付で宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した『昭和天皇実録』の内 容を公表。編さんで使った資料は『侍従日誌』など非公開の内部文書や『百武三郎 日記』など約40件の新資料を含む3152件。 (27) 我部政明琉大教授「不公平な扱いの原点」『沖縄戦後史新聞』第11号,2017年 4月28日付 (28) 佐道明広(2003)『戦後日本の防衛と政治』吉川弘文館 232 (29) 『琉球新報』2017年2月15日付朝刊 (30) 『琉球新報』2010年4月14日付朝刊1面。研究者の新原昭治氏が米側公文書を 見つけて発覚した。1953年の日米合同委非公開議事録 (31) 『琉球新報』2016年8月29日付朝刊3面「沖縄基地の虚実」19参照。 (32) 米海兵隊は2017年4月1日までに,2012米会計年度(2011年10月~2012年9

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月)から2016会計年度(2015年10月~2016年9月)の5会計年度の垂直離着陸輸送 機 MV22オスプレイのクラスA事故率について,10万飛行時間当たり3.44件だと琉 球新報に回答した。同じ5会計年度の米海兵隊の航空機全体のクラスA平均値の 2.83を上回った。「クラスA」事故は被害総額が200万ドル(約2億2千万円)以上か, 死者が出た時などが対象となる。オスプレイが沖縄に配備される前の2012年8月, 在沖米軍トップのケネス・グラック四軍調整官(当時)は,10万飛行時間当たりの オスプレイのクラスAの事故率について,米軍が運用する他の航空機と比べ低い部 類に入ると指摘し「最も安全な航空機」と強調していた。この説明は『琉球新報』 2017年4月2日付1面参照。 (33) 前泊博盛(2011)『沖縄と米軍基地』角川書店 122 (34) 前泊,同上書 126-127 (35) 沖縄県による「普天間飛行場における離着陸回数調査報告」2017年4月21日 (36) 琉球新報社編(2004)『外務省機密文書 日米地位協定の考え方・増補版』高 文研 16-23 (37) 『琉球新報』2004年1月1日付朝刊 (38) 琉球新報百二十年史編纂委員会編(2013)『琉球新報百二十年史』琉球新報社, 参照。 (39) ウォルター・モンデール 1928年1月5日,ミネソタ州生まれ。上院議員を務 めた後,1977~81年までカーター政権下の副大統領,クリントン政権の1993~96年 まで駐日米大使。 (40) 『琉球新報』2015年11月9日付朝刊。問山栄恵琉球新報ワシントン特派員(当 時)のインタビュー。 (41) 第2次世界大戦終結後,米本国に帰還していた海兵隊の地上部隊「第3海兵師 団」は1950年の朝鮮戦争勃発を契機に再編成され,1953年から岐阜県と山梨県に駐 留していた。だが両県では住民たちの反対運動に直面し,1956年2月,同師団は自 由に使える演習場を求め,米統治下の沖縄へと移転した。 (42) 「米軍統合参謀本部史」によると,1973年に在韓米陸軍と在沖米海兵隊を撤退 させる案が米政府で検討され,国務省が支持していた。同文書もテニアンの基地建 設に言及しているが,計画は1974年に大幅縮小された。理由の一つに「日本政府が 沖縄の兵力を維持することを望んだ」と記し,日本側が海兵隊を引き留めたことも あらためて明らかになった(『琉球新報』2015年11月6日付朝刊1面)。 (43) 第3次安倍内閣で防衛相に就任した中谷元氏は2014年3月学生団体の取材に応 じ「分散しようと思えば九州でも分散できるが,抵抗が大きくてできない」「理解 してくれる自治体があれば移転できるが『米軍反対』という所が多くて進まないこ とが,沖縄に(基地が)集中している現実だ」などと答えている。 (44) 『琉球新報』2017年1月29日付社説 (45) 事故は沖縄本島北東の訓練区域「ホテルホテル」での空中給油訓練の際,オス プレイの回転翼と給油機のホースが接触し,回転翼が損傷したのが原因とされる。 回転翼を損傷したオスプレイは訓練区域から約74キロ離れた名護市安部の浅瀬に墜 落した。オスプレイが離着陸する時は通常,回転翼の向きを地面と水平にするヘリ

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モードにしなければならない。地面と垂直になる固定翼モードだと,回転翼が地面 に接触してしまうからだ。墜落した機体は固定翼モードになっている。防衛省も「着 水状況は固定翼モードだと推定される」と説明している。それを裏付けるようにプ ロペラは両翼とも大破し,機体は真っ二つに折れていた。このため琉球新報は「墜 落と考える方が自然」と主張している。 (46) 『琉球新報』2016年12月15日付朝刊 (47) 「『戦争いらぬ やれぬ世へ』むのたけじさんに聞く」『琉球新報』2007年10月 17日付朝刊文化面 (48) 同上。

参照

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第1四半期 1月1日から 3月31日まで 第2四半期 4月1日から 6月30日まで 第3四半期 7月1日から 9月30日まで

機能名 機能 表示 設定値. トランスポーズ

料金算定期間 前回検針計量日 ~ 9月4日 基本料金 前回検針計量日 ~ 9月4日 電力量料金 前回検針計量日 0:00 ~ 9月4日

一方で、自動車や航空機などの移動体(モービルテキスタイル)の伸びは今後も拡大すると

パターン 1 は外航 LNG 受入基地から内航 LNG 船を用いて内航 LNG 受入基地に輸送、その 後ローリー輸送で

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