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江戸・東京臨海部における

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(1)

江戸・東京臨海部における

水辺空間の変遷に関する一連の研究

(2004年度研究報告)

2005年度活動中間報告

2005月8月

法政大学大学院 エコ地域デザイン研究所 歴史プロジェクト

水辺都市研究会東京

(2)

002

序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運 序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

表紙デザイン  黒木 俊彦

 (法政大学大学院工学研究科修士 1 年)

(3)

はじめに

 2004 年 4 月法政大学大学院のなかに、研究機関「エコ地域デザイン研究所」が設置された。本 研究所の共同研究プロジェクトの4つの柱のうち、歴史プロジェクトでは臨海部や河川流域に発 達した都市を対象に、水辺空間の形成のメカニズムを明らかにして、都市再生のための歴史的な 要素を都市形成史や社会・文化史の視点で調査研究に取り組んでいる。

 歴史プロジェクトでは世界の様々な地域を対象としているが、本報告書は東京を中心とした地 域を対象に調査研究を行っている「水辺都市研究会東京」における、昨年度研究成果および今年 度活動中間報告をまとめたものである。

 昨年度研究報告においては、序で江戸・東京が大都市としての成立要因である治水と舟運につ いて触れ、江戸・東京の都市形成を俯瞰するとともに、昨年度の各研究の位置づけを示した。そ れらの研究はオムニバス形式で、第1部は小林貴樹「東京湾における漁師町の形成に関する研究」、

第2部は樋渡彩「小名木川沿いの歴史的変遷に関わる研究」、第3部は森山悠一「東京低地の都市 形成と土地利用の変遷」、第4部は大町類「東京臨海部における多様な都市機能の展開」、第5部 はロドリック・ウィルソン「明治・大正期における東京の河川政策と舟運」としてまとめた。昨 年度は江戸から東京に至る水辺空間の変遷を多角的に捉えることを試みたが、初年度ということ もあり、研究内容は中間的な内容に留まっていることは否めないが、一連の研究成果として、人 間の感性にあった豊かな水辺空間は、多様な都市機能とその機能相互の関連性が不可欠であるこ とが見えてきた。また、今後において東京の水辺を広い視野で理解していくための下地を築くこ とができたのではと認識している。

 今年度活動中間報告においては、エコ地域デザイン研究所として昨年度から継続して実行委員 会に参画している「東京湾」展での活動に触れ、すでに開催したロッテルダム国際建築ビエンナー レへの出展や、来年 1 月下旬より開催が予定されいている江戸東京博物館での企画展の概要を示 した。加えて、水辺都市研究会東京として今年度すでに実施した「舟運ルート(江戸川〜利根川)

調査」や、現在調査中である「江戸川・利根川沿いの河岸場に関する調査」についてもその概要 を述べた。

2005 年 8 月

水辺都市研究会東京

代表 難波匡甫

(4)

江戸・東京臨海部における 江戸・東京臨海部における 水辺空間の変遷に関する一連の研究 水辺空間の変遷に関する一連の研究

(2004 年度研究報告)

2005 年度活動中間報告 目  次

目  次

はじめに

 序   江戸・東京の発展を支えた治水と舟運………005

 序   江戸・東京の発展を支えた治水と舟運………005

第1部  東京湾における漁師町の形成に関する研究………013

第1部  東京湾における漁師町の形成に関する研究………013

第2部  小名木川沿いの歴史的変遷に関わる研究………057

第2部  小名木川沿いの歴史的変遷に関わる研究………057

第3部  東京低地の都市形成と土地利用の変遷………093

第3部  東京低地の都市形成と土地利用の変遷………093

第4部  行動文化の視点から見る江戸・東京の水辺に展開した多様な都市機能………127

第4部  行動文化の視点から見る江戸・東京の水辺に展開した多様な都市機能………127

第5部  明治・大正期における東京の河川政策と舟運………173

第5部  明治・大正期における東京の河川政策と舟運………173

報 告  2005 年度活動中間報告  ………189 

報 告  2005 年度活動中間報告  ………189        ○「東京湾」展 

      ○「東京湾」展 

      ○  舟運ルート(江戸川〜利根川)調査       ○  舟運ルート(江戸川〜利根川)調査

      ○  江戸川・利根川沿いの河岸場に関する調査  

      ○  江戸川・利根川沿いの河岸場に関する調査  

(5)

 序

 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

 難波 匡甫

  (法政大学大学院エコ地域デザイン研究所 研究支援者、リュール場所と空間の研究所)

(6)

006

序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運 序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

江戸・東京の治水

 100 万都市・江戸の成立は、治水を抜きに考えることはできないだけではなく、古代・中世および現在の東京に おいても、同様の状況があることを理解しなくてはならない。利根川の堤防を補強する工事は綿々と継続されている 現状を知る機会は少なく、水辺再生には治水を十分に認識する必要がある。序では、江戸・東京の姿を俯瞰する意味 からも、この地域の治水の歴史に触れ、どのように水辺空間が形成されてきたか、その概要を述べることとする。

 家康入府以前の江戸についての史料は少ないものの、考古学や地理学のアプローチから当時の姿が少しずつ明らか にされている。古代の地形を見ると、隅田川の河口は現在の浅草あたりで、浅草と日比谷が入り江になっているほか、

墨田区の大半がまだ陸地でないことがわかる〈図 1〉。千田稔氏が指摘しているように、日本の古代の港は「水門(み なと)」と表記されていることからも、その多くが河川の河口に位置していたようだ。つまり、古代において河口部 にあった浅草が港として機能していたことは、当時としては当前のことであったと理解できる。また中世の地形を見 ると、隅田川(時代により呼称が変るがここでは隅田川とする)右岸では浅草の入り江が池沼になり、左岸では亀戸 あたりまでが陸地化している様子が見てとれる〈図 2〉。これらの海岸線は推定によるものであるが、武蔵野台地と 下総台地にはさまれた「東京低地」一面が自然堤防の周辺に広がる後背湿地であった。そのため、人が利用できる土 地にするには、排水や干拓を行う必要があった〈図 3〉。

 中世の江戸の姿をもう少し詳しく見ていくことにしたい。江戸湊の主だった江戸氏は、広大な利根川水系の上流部 における山林・鉱山の経営、中流部での穀倉地帯の開発や、採鉱された原料の加工、そして河口部における水田稲作 地帯の開発、及びそれぞれを結ぶ舟運などの業務全般を監督する商人的な存在であった。室町時代も 90 年程が過ぎ る頃、関東管領(鎌倉公方)上杉氏に仕えていた太田道灌が、有力な地元勢力の理解を得て、弱体化していた江戸氏 を江戸から追放し、江戸館を中世的城郭の江戸城として再構築するとともに、江戸氏にかわって江戸の経済機構を掌 握した。道灌時代の江戸湊は、幕府の軍事拠点として関八州の中心地であったばかりでなく、水陸の交通の要所でも あり、人と物資が行き交い賑わいをみせていた。近世江戸と比べると規模の小さな都市ではあったが、利根川下流を 安定させるため新たな水路を拓いたといわれている。また、それ以前の古代から中世、特に鎌倉時代にも、利根川上 流の鬼怒川などに部分的な治水や築堤工事がなされたようである。当時の利根川、荒川、太日川(現在の渡良瀬、江 戸川)の洪水を治めるとともに、武蔵国の東部に位置する広大な沖積平野に安定した水田地帯を確保することで、江 戸に都市が成立できたものと理解できる。

 道灌時代の江戸は、関東の中心的存在ではあったが、江戸幕府を開くにはあまりにも規模が小さかった。そこで、

家康にはじまり家綱まで継続した土木事業(天下普請)によって、100 万都市の基礎づくりが行われた。言い換えると、

当時の物流手段であった舟運経路や、市街地に適した土地を確保するといったことから、治水や新田開発が進められ、

大江戸が形成されたわけである。家康はまず幕府の直轄工事として、井の頭池、善福寺池、妙正寺池を主な水源とし 日比谷入江に流れ込んでいた「平川」(現在の日本橋川の呼称、古流路)の瀬替と、江戸前島の根元を東西に通す「道 三堀」、沿岸運河(海岸線に沿った水路)として土手を利用し曳舟をするための「小名木川」の開削を実施した。平 川の瀬替は日比谷入江埋め立てを前提とし、道三堀と小名木川は行徳からの塩を確保する工事であった。

 また、急激な人口増加で飲料水の不足が深刻になると、城廻りの小河川をせき止め、現在の千鳥ヶ淵と牛ヶ淵を飲 料水用のダムとした。江戸が拡大するにしたがって、飲料水の確保は時の幕府の重要な使命となり、神田上水、玉川 上水、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)、千川上水といった上水道を整備することとなる(詳しくは本研 究所歴史プロジェクト報告書『上水から見る江戸東京の都市空間と吉田初三郎が描いた多摩川』参照)。当時は、台 地の中の高低や低地での凹凸、潮汐の干満といった、傾斜、勾配、落差などの自然の「高さエネルギー」を利用する 技術が、都市計画に生かされていたことを鈴木理生氏は指摘している。

 治水対策としては、隅田川に日本堤と墨田堤により漏斗状の堤防を築くことで、大水の際にはその上流部が遊水地 となり、下流の江戸市中に被害が及ばない方策がとられた〈図 5〉。利根川の熊谷北部付近では中世において、中条 堤と文禄堤による漏斗状の堤防が築かれており、こうした治水技術の蓄積は江戸においても継承されていた〈図 4〉。

承応 3 年(1654)には「利根川東遷」が行われ、隅田川の根本的な治水が実施されたが、この普請は治水にとどま

(7)

 図 3 . 下総、常陸の地形(『江戸・東京の川と水辺の事典』より)

 図 2 . 中世の海岸線

    (『すみだ郷土文化資料館 常設展示図録』より)

 図 1 . 古代の海岸線

    (『すみだ郷土文化資料館 常設展示図録』より)

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008

序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運 序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

らず「東廻り廻船航路」の奥川廻し(内川廻し)と呼ばれる安全な航路の確保に大きく貢献した〈図 6、7〉。その他、

一応最後の天下普請となった、万治 3 年(1660)の神田川整備工事では、それまで日本橋川に流れ込んでいた旧石 神井川を神田川を整備することで隅田川に放流させる放水路を建設した。現在、JR御茶ノ水駅ホームから見下ろし ている神田川は、自然の河川ではなく、治水対策としてのつくられた江戸の放水路(「放水路」の名称は明治に入り 内務省が使用しはじめた言葉)なのである。近代以降も東京低地では、数々の洪水に悩まされていた。特に、大きな 被害を及ぼした明治 43 年(1910)の大洪水を契機として、東京低地を水害から守るため「荒川放水路」の建設が 始まる。昭和 5 年(1930)に完成するまで荒川放水路の建設には、数知れない物語があり、葛飾区郷土と天文の博 物館と荒川治水資料館には関連する資料が展示されている。現在でも、この放水路なくして、東京都心部のくらしは 成り立たないのであり、江戸・東京の都市はこうした治水対策によって発展を遂げたわけである。

 また、江戸の都市形成に大きく影響を及ぼしたのが、火事である。「火事とけんかは江戸の華」という言葉が示す とおり、江戸では火事が多かった。なかでも明暦 3 年(1657)明暦の大火は江戸まちを一変させることとなった。

明暦の大火後には大名屋敷や寺院の多くが移転した。その目的は、江戸城への延焼防止にあったともいわれている。

大名屋敷の移動ではまず、御三家の上屋敷が城外に移されるとともに、寺町の跡地や小石川、牛込、赤坂、木挽町といっ た新たに整地された新開地に大名屋敷が配置された。大火後には、焼け野原に残された大量の廃材処理も兼ねて、本 所・深川の開発がなされるなど、結果として、防災対策は拡大する江戸の基盤づくりのきっかけとなった。こうして 災害対策を講じることでつくられた江戸は、城の東側の低地に町人地が、台地の山の手に武家地が広がることとなっ た。

参考文献

吉田東伍『利根の変遷と江戸の歴史地理』崙書房、1974.11.24 吉田東伍『利根治水論考』崙書房、1974.12

玉城哲『川の変遷と村』論創社、1984.1.30

新沢嘉芽統、岡本雅美『利根川の水利』岩波書店、1985.6.24 鈴木久仁直『利根の変遷と水郷の人々』崙書房、1985.11.20 大熊孝『洪水と治水の河川史』平凡社、1988.5.18

『すみだ郷土文化資料館 常設展示図録』すみだ郷土文化資料館、1999.3.31 鈴木理生『江戸はこうして造られた』筑摩書房、2000.1.6

高崎哲郎『荒野の回廊 江戸期・水の技術者の光と影』鹿島出版会、2002.10.30 鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』柏書房、2003.5.15

(9)

 図 7 . 利根川東遷以降の流路     (『荒野の回廊』より)

 図 6 . 利根川東遷以前の流路     (『荒野の回廊』より)

 図 5 . 日本堤と隅田堤  図 4 . 中条堤と文禄堤

    (『田中正造と利根・渡良瀬の流れ』より)

(10)

010

序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運 序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

舟運のネットワーク

 国内の物流の主役はトラック輸送となっている現在においても、輸出入における大量輸送の主役はいまもって水上 交通である。燃料や原材料をはじめ、穀物、機械を大量に安価に輸送する手段として、船は欠かすことのできない存 在である。ましてや、陸上交通の発達していない近世以前の社会において、舟運が最も重要な輸送手段であったこと は想像に難しくない。品川では中世の常滑焼が発掘され、すでに東国と伊勢湾地域とは物資の輸送があったことが確 認されている。また、東国には御厨が広く分布し、そのひとつの葛西御厨では収穫物を寄進する際、域内の中川では 小型の舟を使用し、品川沖あたりで東国と伊勢湾を航行する比較的大きな船に荷の積み替えを行うといった物流手段 が確立されていたものと推定されている。

 今から 6 〜 5 千年前の縄文海進においては、奥東京湾が現在の渡良瀬遊水地まで入り込んでいて、関宿で奥鬼怒 湾と細い水路でつながっていたと考えられている。縄文人は、関宿を経緯する内海において太平洋と東京湾を舟で往 来できたわけである〈図 8〉。現在の利根川下流域が香取の海と呼ばれるほど広大な水面が広がっていた時代、東国 の鎮守である香取社、鹿島社が成立したのであれば、山に立地しているにもかかわらず、海とのつながりをもってい る状況が説明でき、今後考察を深めたいと考えている〈図 3〉。いずれにしても、都市形成のダイナミズムを理解す るには、現況に囚われることなく、できるだけ当時の様子を正確にイメージすることが大切となり、近世以前、沼沢 地の多い埼玉平野では陸路より水路が便利であったと考えられるわけである。こうした内海における活発な水上交通 が、近世の利根川東遷の基底になると布川了氏は指摘している。また利根川東遷は、治水による発想ではなく、内川 廻しとなる舟運ネットワークの確立といった利水による普請であったとも彼は指摘している。

 江戸の地は、伊勢・熊野からの太平洋ルートと、銚子からの内陸水路のルートの交わる重要な位置にあった。近世 に入り、東廻り航路、西廻り航路の整備とあわせ、利根川東遷で内川廻しがより安定した舟運ネットワークとして確 立されたことにより、江戸は舟運ネットワークにおけるより一層重要な拠点となったわけである。

 利根川東遷による内川廻しにより、東北からの年貢米のほか、味噌、醤油、干鰯、農作物といった江戸を支える 物資の安定供給が可能となり、東国の地場産業の発展の後押しとなった。しかし、天明 3 年(1783)の浅間山噴火 により、利根川、江戸川の河床が上昇し、船の往来に支障がでるようになり、以前のような航行が難しくなった(浅 間山噴火の舟運への影響は第5部参照のこと)。明治期には、利根川の三堀から関宿、利根川の関宿から野田は小舟 ですら通行できない場合もあったほどで、舟運と陸路からなる物流ルートが一般的となっていた〈図 9〉。三堀と野 田を結ぶ陸路は道の状態が悪いことと、東京と銚子が 24 時間要していたことから、流路を短縮させる新たな運河が 切望されていた。そして、明治 23 年に、現在の柏市上利根と深井新田を結ぶ、約 8.5 km、水面幅 16 m、水深 1.6 mの利根運河が開通し、東京銚子間を 6 〜 7 時間短縮させる航路が確保できた。この運河の開通によって、舟運ネッ トワークが再編され、川蒸気通運丸も大いにこのルートを活用することとなった。しかし、この利根運河も昭和 16 年には航行が不可能となり、東京〜銚子の舟運は実質的に運行されなくなったようだ。

 この時代、物流手段が急速に転換された時期でもあり、特に高度経済成長期以降において、舟運はごく限られた範 囲においてのみ活用される物流手段となってしまった。こうした状況と呼応して、水辺と人との関係性が希薄になり、

人々の意識から水辺が消え去ってしまったのである。江戸・東京と銚子を結ぶ舟運ネットワークは、時代とともにそ の役割は変化するとともに、ネットワークを支えた川沿いの河岸場の数や役割も変化していた。2005 年度において は、人と水辺の接点のひとつであった河岸場に焦点をあて、その変遷を調査することとしている(活動中間報告の「江 戸川・利根川沿いの河岸場に関する調査」参照)〈図 10〉。

参考文献

山本忠良『利根川と木下河岸』崙書房、1988.10.20 山本鉱太郎『川蒸気通運丸物語』崙書房、1980.11.30 鈴木理生『江戸の川・東京の川』井上書院、1989.8.25 渡辺貢二『利根川高瀬舟』崙書房、1990.4.10

(11)

 図 10 . 関東の河岸場 (『江戸の川・東京の川』より)

 図 9 . 利根川・江戸川の物流ネットワーク     (『江戸・東京の川と水辺の事典』より)

 図 8 . 石器時代の海岸線推定図

    (『田中正造と利根・渡良瀬の流れ』より)

(12)

012

序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運 序 江戸・東京の発展を支えた治水と舟運

千野原靖方『中世房総の船』崙書房、1999.3.20

岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999.9.2 千田稔『埋もれた港』小学館、2001.2.20

布川了『田中正造と利根・渡良瀬の流れ それぞれの東流・東遷史』随想舎、2004.7.15 松戸市立博物館編『江戸川の社会史』同成社、2005.1.31

各研究(第1部〜第5部)の位置づけ

 これまで述べてきたように、治水や舟運によって都市拡大を続けてきた江戸・東京の水辺空間には、様々な機能が 備わり、時代とともに移り変わってきた。そうした状況に関連した研究を第1部〜第5部としてまとめた。

 第1部の「東京湾における漁師町の形成に関する研究」においては、江戸の食料確保には欠かすことのできない漁 師町の形成についての研究をまとめたものである。厳密な江戸の漁業制度による性格づけにより、漁師町の都市構造 のあり方に違いが生じる点や、地勢などの条件により近代以降の都市形成に違いが見られるといった考察がなされて いる。

 第2部の「小名木川沿いの歴史的変遷に関わる研究」は、舟運と密接な関係をもつ蔵や河岸が建ち並んでいた小名 木川を調査対象として考察を行っている。江戸の中心地に近く、掘割の整った利便性の高い小名木川沿いは、河岸や 蔵から工場、倉庫へと姿を変え、現在マンションで埋め尽くされようとしている。こうした水辺空間を護岸や建物、

景観といった視点でタイプ類型し、その変遷を客観的な把握に努めている。

 第3部「東京低地の都市形成と土地利用の変遷」は、第2部の小名木川の流れる現在の江東区を調査対象としてい る。江戸は埋立とともに、その市域を拡大したが、明暦の大火後に埋立てられた本所深川は江戸拡張の転換点となっ た。それ以降、新田開発として本所深川の東側である低地が整備されることとなる。整備された広大な埋立地は、様々 な用途に利用されることになるが、この研究ではこうした埋立地の土地利用の変遷から、水辺空間とその後背地の当 時の実態を描き出すことで、今後の水辺空間のあり方に対する示唆を示している。

 第4部「行動文化の視点から見る江戸・東京の水辺に展開した多様な都市機能」は、江戸の水辺には漁師町や河岸、

蔵といった機能だけではなく、遊興空間や宗教空間といった様々な機能が混在していた実態を、特に化政期における 行動文化の視点から考察している。そうした多様な機能は、独立して成立していたのではなく、水辺を介して多層な 関係性を有していた。近代以降、そうした多様な機能が近代埋立地の産業施設と共存する状況や、その後沿岸が産業 施設に特化していく経緯にも触れている。この研究は、オフィスやマンションに占められつつある東京の水際の現状 に対して、人間の感性にあった豊かな水辺空間の再考を促すものである。

 第5部「明治・大正期における東京の河川政策と舟運」は、歴史学の視点から、物流手段としての舟運の実態を示 しながら、その背景となった河川政策を文献史料をもとに明らかにしたものである。

(13)

 第1部

 東京湾における漁師町の形成に関する研究

 小林 貴樹

  (当時 法政大学工学部建築学科4年)

(14)

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 014

この論文は、平成 16 年度卒業論文

『東京湾沿岸における漁師町の形成に関 する研究 −業漁業権は都市にどのよ うな影響を与えたのか−』を、大井友 彦の協力を得て、難波匡甫が編集した ものである。

(15)

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 目  次

序 章  研究の背景と目的、方法………016      

0−1 研究の背景と目的

     

0−2 調査研究の方法

     

0−3 調査の対象地

     

0−4 漁師・漁師町について

第1章  江戸東京の漁業と漁師町の変遷………018      

1−1 漁業の変遷

     

1−2 漁師町のヒエラルキー

     

1−3 漁業権の変遷

     

1−4 現行の漁業法と漁業権

第2章  漁師町の形成と都市構造………026      

2−1 漁師町の形成と都市構造

     

2−2 漁師町における都市構造の類型

第3章  漁師町の衰退と再生………044      

3−1 漁師町の衰退もしくは消滅の実情

     

3−2 漁師町の再生についての考察

第4章  結論………054      

     参考文献………055

(16)

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 016

序章 研究の背景と目的、方法

0−1 研究の背景と目的 

 「東京湾の産業史を飾ってきた漁村や漁業は東京から姿を消した。横浜においても、かつての隆盛を見た生麦や子 安 ( 横浜市北部 ) から漁業集落は跡形もなく、金沢の地で漁に励む柴 ( 横浜市南部 ) のほかには、漁業集落らしきも のは見かけられなくなった。」( 小林照夫『巨大都市と漁業集落・横浜のウォーターフロント』より )

 小林昭夫氏が述べているように、東京の海は近代化により漁師や漁師町が消え、近代産業に偏重してしまったよう に感じられる。しかし、東京湾沿岸を実際に巡ると、現在でも漁師町の面影の残る場所を発見することができる。東 京都心の金杉 ( 浜松町 ) には漁業専業のアナゴ漁師が 7 人もおられ、東京 23 区となると現役漁師は約 400 人、漁業 組合は 17 組合もあるのだ。また、2000 年の東京 23 区だけの水揚げ量は 669 トンにも及び、東京湾の水揚げ量は 2002 年に 18,377 トンとなっている。東京都の海で毎日約2トン、東京湾全体では毎日約 50 トンもの魚貝類が採 れている。多摩川・荒川など大小多数の河川が流れ込む広大な汽水域を持つ東京湾は、漁業に適した環境を有してい て、ほぼ同じ面積の鹿児島湾の 30 倍もの漁獲量をあげた時代もあった。そうした環境にある東京湾の沿岸地域には、

かつて数多くの漁師町が存在していた。

 そうした漁師町がどのように形成され、その現状はどのようになっているのかについては広く知られていない。産 業構造の転換によりこれまでの産業施設が空洞化し、それらの跡地においてマンションやオフィスビルなどの再開発 がなされている。そうした臨海部の水辺再生を考えるうえで、背景に位置している漁師町の変遷を理解することは、

個性的で魅力ある都市形成につながる重要な意義をもつと考えている。

 本研究では、東京湾沿岸の漁師町の都市形成過程および都市構造を把握するとともに、漁業権や漁師の生活がどの ように影響をおよぼしたのか、また、著しい工業化のなかで漁師や漁師町がどのように衰退あるいは生き残ることが できたのかという点を明確にすることを目的としている。高度経済成長期の埋め立てによる湾岸開発と、海辺の権利 ( 漁業権 ) を保有していた漁師との関係も調査により明確にしていきたい。

0−2 調査研究の方法

 フィールド調査において聞き取りを行うとともに、古地図や地形図、住宅地図、航空写真、写真、文献を活用し、

漁師町の形成の独自性を描きだすこととした。その形成過程を類型化し、場所の特性と漁師町の形成との関係性も把 握することに努め、東京の水辺空間の姿を描きだすこととしたのである。

 使用した古地図、地形図は以下の通りである。

   江戸期−江戸名所図会、切り絵図    明治期−参謀本部課地図、地籍図    大正期−東京市史港湾編

   昭和期−火災保険特殊地図、住宅地図、航空写真

 参考にした資料としては、東京市史、品川町史、羽田史誌を始め東京各区、地域史、大森漁業史、東京都内湾漁業 滅亡史、漁業権読本などである。

0−3 調査の対象地

 現代の漁師町は、基本的に同じ権利のもとで成立している。しかし、江戸に起源をもつ漁師町は、絶対的なヒエラ ルキーが確立されていた社会において形成された経緯がある。 調査対象地としては、こうしたヒエラルキーが偏る ことのないよう留意し、東京周辺の漁師町全般の特性や独自性を読み解くこととした。〈図 0-1〉〈写真 0-1〉

(17)

図 東京湾内湾と東京港

0‑2  東京湾上空の写真 

海水と淡水が交じり合っている様子が良く分かる 

         

写真 0‑1  品川の船溜まり 

背後に見えるのは、JR 品川駅の、品 川インターシティ、品川グランドコモ ンズである。手前には、昭和 5 年

(1930)築の住宅と漁船が見える。こ のように大都会の中でも、東京都の漁 師は生き続けているのである。 

 図 0-1 . 東京湾内湾と東京港

 写真 0-1 . 東京湾上空の写真

海水と淡水が交じり合っている様子が分かる。

写真 0-2 . 品川の船溜まり

背後にみえるのは、JR 品川駅前の品川インターシティ、品川 グランドコモンズである。手前には、昭和 5 年(1930)築 の住宅が見え、船溜まりには漁船の停泊する漁師町が 生き続けている。

(18)

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 018 0−4 漁師・漁師町について 

 ここでは、簡単に漁師と漁師町の概念について説明する。

(1)本研究における「漁師」とは

   ①海の恩恵 ( 魚介類、海草類の採取 ) により、毎年収入を得ている人であること。

   ②本人もしくは本人の家族等が、漁業協同組合員 ( 正会員、準会員等 ) の人であること。

    また、本人もしくは本人の家族等が、漁船を所有 ( 賃貸含む ) しており、漁船を捜査する許可を得ている人 ( 船     舶免許保持者 ) であること。

   ③海に入る手段(漁具等)を日常的に保有している人 ( 魚介類、海藻類採取者 ) であること。

 この3つの条件を全て含んだ人を「漁師」として定義する。注意点として、これは、漁業協同組合が出来た明治 34 年以降のことを扱う場合で、それ以前の江戸時代などでは、上記の条件の中の 2 の条件は除く。

(2)本研究における「漁師町」とは

   ①海の恩恵 ( 魚介類、海草類の採取 ) により、毎年収入を得ている人の住む町であること。

   ②地域内に漁業協同組合があり、漁業協同組合員 ( 正会員、準会員等 ) が住む町。

   ③漁港があり、漁船の係留する場がある町であること。

 この 3 つの条件をすべて含んだ町を「漁師町」として定義する。注意点として、これは、漁業協同組合が出来た、

明治 34 年以降のことを扱う場合で、それ以前の江戸時代などでは、上記の条件の中の 2 の条件は除く。

 東京 23 区で漁業に関する組合は 17 存在し、その中で公式に漁業協同組合として漁業活動を行っているのは、大 田漁業協同組合 ( 大田区 )、芝漁業協同組合 ( 品川区 )、港漁業協同組合 ( 港区 )、中央隅田漁業協同組合 ( 墨田区 )、

佃島漁業協同組合 ( 中央区 )、東京東部漁業協同組合 ( 江戸川区 ) の 6 つ、組合会員は 400 人以上いる。(真鍋じゅん こ『うまい江戸前漁師町』より)〈写真 0-2〉

第1章 江戸東京の漁業と漁師町の変遷 

1−1 漁業の変遷

 日本の漁業には長い歴史の積み重ねがあり、まずはその歴史を俯瞰することとする。

(1)古代から鎌倉時代  

 基本的には近世になるまでは、誰でも漁業を自由に行うことができ、特定の者によって制限、禁止されることはほ とんどなかった (『ここが知りたい漁業権』より ) 。『東京都内湾漁業滅亡史』によれば、「江戸開府以前、当時都は 平安京にあったため、漁業は中国近畿地方では相当開けたが、東国地方では中世になってもまだ未開の地であった。

すなわち古来政治の中心は畿内にあり、漁業も近畿・中国・瀬戸内海等のいわゆる上方漁業が相当発達していた。関 東漁業が開発の緒についたのは、建久 3 年 (1192) 源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからである。しかし、鎌倉時代の漁 業は相模湾や房総半島が中心で、東京湾奥は未開の地として依然不振であった。」と記されている。また、江戸の漁 師町として有力であった羽田において、平治年間 (1159 〜 1160) の戸数は 7 戸、天正年間 (1573 〜 92) には 26 戸 しかなかったことからも、江戸幕府開府以降の東京湾の漁業が急速に発展したことが理解できる。

(2)江戸時代  

 江戸になると漁業の位置づけは激変することとなる。漁業において未開の地であった江戸湾の漁業が活発になるの は、天正 18 年 (1590) の徳川家康の入府以降である。江戸発展のため食料の確保は重要であったが、当時江戸周辺 の漁業は近畿・中国・瀬戸内海などの漁業に比べ技術的な遅れがあった。そこで幕府は、畿内から進んだ漁業技術を 持った漁師を江戸に住まわせ、漁業の特権を与えた。

(19)

1-1

1-2  東京内湾の主な漁師町

 図 1-1  . 江戸の漁師町ヒエラルキー

 図 1-2 . 東京内湾の主な漁師町

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 020  徳川家康の江戸城入城と同時に、摂津の佃村より漁師 33 名を江戸に移住。さらに、佃村の漁師には、幕府に魚介 類を献上する「御菜浦」の特権を与えられていたと考えられる。佃村の漁民は当初小石川小網町 ( 現在の日本橋小網町 ) などに住まわされていたが、正保元年 (1644) に深川沖 500 mに造られた埋立地に移住した。この埋立地に漁師の出 身地佃村の名を取って「佃島」と呼ぶようになった。

1−2 漁師町のヒエラルキー

 慶長 8 年 (1603)、幕府は江戸幕府開府と同じ年に「立浦 ( たてうら )」と「磯付き村」の別を定めた。この制度は、

中世まで比較的自由に漁業を行うことのできた環境を一変させ、漁業を専業する漁師町の成立を促すこととなった。

この制度の注目すべきところは、この立浦や磯付き村の権利を特定の個人に与えたのではなく、その村 ( 漁師町 ) に 住む人々全員に与えたことである。言い換えると、村 ( 漁師町 ) に対して漁業権が与えられたことになる。そのため、

村の境界は厳密さが求められ、村各に性格の違う地域が形成されることとなった。こうして、漁業制度(漁業権)が 都市構造のあり方に影響を及ぼし、村の境界線が現在の行政界として継続されていることから、現代の都市において かつての漁業制度がどのような影響をもたらしているのか、興味深い点である。

 立浦とは漁業の許可を受けた漁師町であり別名御立浦、本猟場とも言われた。さらにこの立浦の中に、幕府へ採れ た魚介類を上納する「御菜浦」が指定され、御菜浦は漁業専業の漁師町として成立した。磯付き村は漁業を禁止され た村を指し、海に面していても漁業を行うことのできない状況が生まれた。立浦は漁業従事者の村とされ、磯付き村 は百姓と呼ぶことと決められ、漁業従事者とは認められず、海藻類の採取など船を使わない漁業と、沖合いは干潟と 水深 3 尺 ( 約 90 ㎝ ) までの漁が許されるのみであった。1603 年当時、江戸湾には猟師(漁師)浦が 84 浦、磯付き 村が 18 村であった(『羽田史誌』より)。

 1647 年に文献に登場する「御菜八ヶ浦」は、御菜浦の中から他の漁師町の元締めを担っていた。江戸中期には人 口の増加にともない、御菜八ヶ浦の上納量は増大し、負担が重くなったことから、御菜浦のみに魚船使用の許可を与 え、自由な漁を許可し、幕府は食糧確保を推進した。こうした漁師町の力関係に変化によって、御菜浦と磯付き村の 対立が生じた。特に対立の激しかったのが、羽田と大森である。こうした絶対的な漁師町のヒエラルキーは、漁師町 の近代化に少なからず影響を及ぼすこととなる。

 御菜浦、立浦、礒付き村の分布をみると、ある傾向を読み取ることができる。ピラミッド型のヒエラルキーに属さ ない佃島、深川、船橋は江戸御符内に程近い地域となっている。御菜浦は元締めの本芝、金杉より南側に分布し、立 浦の多くが御菜浦を取り巻くかたちで分布している。礒付き村は立浦に比べれば御符内から近いものの、御菜浦と競 合する位置関係にあることがわかる。羽田と大森のあいだで諍いが耐えなかったのは、漁業制度がこうした地理的状 況のうえに成立していたからだとも解釈できる。

 以下に、御菜浦、立浦、礒付き村について整理した。〈図 1-1,図 1-2〉〈表 1-1〉

【御菜浦】

 御菜浦は漁業専業の都市として明確に区別をされ、幕府に鮮魚を上納する義務を負い、その見返りに幕府の御用船 を務めた。そのため、御菜浦の漁師は「漁師」ではなく「猟師」と称されていた。

 御菜浦の特権を与えられた漁師町は、金杉浦、本芝浦 ( 現芝浦 )、品川浦、大井御林浦 ( 現鮫洲 )、羽田浦、生麦浦、

新宿浦 ( 現子安 )、神奈川浦 ( 以上は御菜八ヶ浦を兼ねる )、佃島、深川浦、船橋浦の 11 の漁師町 ( 猟師町 ) である。

1633 年に当時後発だった佃の漁師にのみ、白魚漁業許可の特権を与えている。これにより以前から白魚漁業をして いた周辺の漁民は全て白魚漁業ができなくなった。正保 3 年 (1646) には駿河より大井御林 ( 鮫洲 ) へ漁師が移住し ており、三河からは神奈川へ移住したことがわかっている。

【立浦】 

 立浦は漁業の許可を与えられた漁師町である。江戸湾には漁師町が 106 あるとされ、およそ7割の 73 がこの立

(21)

    江戸の漁業権と現在の漁師町の関係東京内湾の主な漁師町    

江戸 

    現在 

 

御菜八ヶ浦  御菜浦  立浦  磯付き村 

            八景島(小柴)     

専業漁師  羽田  子安(新宿)  船橋  安浦(横須賀)     

がいる      木更津     

       

兼業漁師  生麦  (金杉)  佃       

がいる       

       

主に  大井  品川  金杉  深川         

遊漁船       

      市川  大森 

面影のみ  神奈川      浦安  糀谷 

       

      幕張  検見川  横浜     

面影なし  本芝        習志野  根岸  川崎 9 村 

      千葉  五井  姉ヶ崎     

                                 

写真 1‑1  昭和35年の東京湾 の海苔漁業の様子

 表 1-1 . 江戸の漁業権と現在の主な漁師町との関係

 写真 1-1 . 海苔養殖の分布(昭和 35 年)

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 022 浦である。漁業の許可を与えられた立浦は、半農半漁が基本であったと考えられる。立浦は本漁場とされ「浦」と称 すことを許され、磯付き村と明確に区別された。現存でも漁業に従事しているかつての立浦に浦安がある。

【磯付き村】  

 海に面した村であるにも関わらず漁業が禁止された礒付き村は、漁業権との関係から、大森や川崎ように立浦と異 なる近代化が図られる傾向が強かった。

 大森村は、貞享 5 年 (1688) 漁船 6 隻を特例として許されたに過ぎなかった。同時期の大井御林浦は漁船を 52 隻 所有していた ( 東京都内湾漁業滅亡史より ) ことから比べると、いかに制約が厳しかったことが分かる。御菜八ヶ浦 の漁船は全て無税であった為である。

1−3 漁業権の変遷

(1)漁業制度の近代化

 明治 8 年(1875)明治政府が海面官有を宣言し、全ての海を公のものとした。御菜浦、磯付き村制度を廃止し、

漁民は平等に漁を行うことを定めたわけである。しかし、長年の慣例である以前の制度を白紙にもどすことは、明 治政府でも実現することはできず、1年後には江戸以来からの旧体制に戻ることとなった。明治 13 年、23 年と度々 確認が行われ「磯付き漁村は東京湾本漁場に非ず。」磯付き村では漁師といってはならないと、はっきり本漁場村と 区別をしている。 

 明治 34 年(1901)には漁業法が改正され、漁業組合規則が公布された。各地に漁業協同組合が正式に誕生し、

再び特権的な漁業法を緩和ようとする動きが出てきた。東京では 15 の漁業組合が設立された。組合の範囲は江戸か ら御菜浦や磯付き村とされていた、村の境界線によって規定されたことから、旧村の境界 ( 御菜浦、磯付き村 ) が組 合の単位となった。例えば、磯付き村であった糀谷村は明治に御菜浦の羽田猟師町と合併し羽田村となったが、漁業 組合は江戸の頃からの村が単位となり、羽田漁業組合と糀谷漁業組合が別々に設立されたわけで、江戸の漁師町制度 は近代化を図る様々場面で影響を及ぼすこととなった。

 戦後、昭和 24 年に漁業法が改正にされ、江戸から続いてきた御菜浦、磯付き村の漁業権利関係がようやく白紙撤 回となった。ここに、旧慣による漁業制度が法律的には消滅したわけであるが、現在においても漁師町の都市構造や 漁師の意識にはこの封建的な制度が影を落とすこととなる。

(2)漁業権の全面放棄

 政府による東京湾重工業政策により、東京湾の埋立地が推進され、埋立が容易な干潟がその候補地となった。干潟 は漁業に適した場所でもあり、漁師との摩擦が生じることとなった。東京湾の漁師たちは、急激な環境の変化に対し ても様々な漁法で対応したが、工業化などによる海水の汚染は激しさを増し、漁業は加速度的に縮小していった。

 しかし政府の大東京港計画も計画通りに進んだわけではない。漁業者の埋立反対の動きは、その後の埋立事業に影 響を及ぼした。運河を考慮しなかった政府案は、漁師の生活道具である船の係留場(船溜まり)を奪うこと意味し、

漁師の反発を生んだ。内陸部に入り込んでいる運河の多くは、漁師の反対運動の結実でもある。最後まで漁業を続け た有力な漁師町では内陸のほうに運河が入り込んでいるのが分かる。

 金杉のアナゴ漁師鈴木忠さんは「俺たちが、海から見てていろいろ文句を言うから、工場廃水の公害も良くなって きてるんだよ。誰も見なくなったら汚水なんて垂れ流し、海はすぐにだめになっちまうだろう (『うまい江戸前漁師町』

より )」と語っている。漁師が自らの利益を確保する動きが、結果として東京の海を蘇らせることの助けになってい るということである。 

 東京都では昭和 37 年 12 月 24 日、「東京都内湾の漁業権の抹消手続き完了」を受け、全面的に放棄されてしまっ ている(『東京都内湾漁業滅亡史』より)。現在東京都の海で行われている魚業は、ほとんどが自由漁業であり、約 400 人の組合員を要する東京23区にある6つの漁業組合は、基本的に漁業権を保持していない(一部認可漁業権

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 図 1-3 . 江戸時代の漁場利用図 

     (『漁業法のここが知りたい』より)

 表 1-2 . 漁業制度の変遷

     (『漁業法のここが知りたい』より)

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 024 を保持している漁業協同組合がある)。

 漁業権放棄とは、漁業権が設定された海域で特定の漁業行為をしないことを約束することであり、埋立てにともな う漁業権の放棄は養殖に必要な区画漁業権の放棄を意味している。そのため、現在では漁業としての海苔養殖は行な われていない。しかし、漁業権が放棄された現在でも、東京湾には兼業漁師が 400 人おり、その中で 100 人ほどが 専業の漁師として東京の海で現在も漁を続けている。東京湾における漁業権の全面放棄とは、漁業をまったく行わな いということではなく、主に海苔養殖を行わないということを意味するものである。〈写真 1-1〉

1−4 現行の漁業法と漁業権

 ここで、現行の漁業法と漁業権について簡単に説明することとする。

(1)漁業法  

①漁業権漁業

 漁業権漁業は私たちが一般的に認識している漁業法で、網具を使った漁業や、養殖のによる漁業をいう。この漁業 法において、後ほど説明する「区画漁業権」、「共同漁業権」、「定置業業権」が設定されている。

②許可漁業  

 大臣、知事の許可を必要とする漁業で、「底引き網漁業」などが認可漁業にあたる。底引き網は規模の大きい漁法 なので、水産資源の確保といった問題と密接に関係している。

③自由漁業  

 自由漁業とは漁業権を持っていなくても漁が行える、いわゆる「釣り」などのことである。このほか、タイやカツ オの一本釣り、カレイやアナゴ漁、さらに延縄 ( はえなわ ) 漁もこれに該当する。この自由漁業の存在が、東京にお ける漁業権全面放棄後の漁師町の形成や、復活に大きく影響することとなる。

(2)漁業権

 先述した漁業権漁業における漁業権は国から漁業協同組合、または特定の個人に与えられる権利のことであり、簡 単に言えば、「国から海を借り、そこでの漁業が許される権利」のことである。漁業権は日本の領海全てにあると思 われがちだが、実は海岸から1㎞程度の海域にしか設定されておらず、漁業権が設定されていない領海では、漁業権 を保持していない一般市民でも、釣りなどによる漁業ができる(自由漁業)。近代国家として整備されている漁業権 ではあるが、漁に携わる漁師にとって、地先は自分たちの海であるといった意識は今なお根強く残っている。

現在の漁業権の種類は以下のとおりである。

①区画漁業権

 水面を区画する養殖漁業における漁業権で、いわゆる「養殖漁業の権利の別名」である。海苔養殖が盛んだったか つての東京湾は、この漁業権が最も多く与えられていた。現在、東京都の海にこの漁業権は存在しない。東京都の区 画漁業権は昭和 37 年 12 月 24 日、「東京都内湾の漁業権の抹消手続き完了」を受け、全面的に放棄された(『東京 都内湾漁業滅亡史』より)。〈写真 1-2〉

②共同漁業権

 漁業組合が行う小規模な漁業の際の漁業権で、昭和24年に漁業法が改正され、明治期までの特権的な制度を廃止 した際に誕生し、漁業を平等に行うことを目的に新設された。定義としては、網の設置される水深が 27 メートル未 満のものをいう。地引き網や、小型漁船による定置網漁業などのことである。〈写真 1-3〉

③定置漁業権

 一般には大型の定置網漁を行う漁業権であり、定義としては、網の設置される水深が共同漁業権と違い、27 メー トル以上のものをいう。

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1‑2  海苔の養殖の様子 

1‑3  漁業権についての看板 

千葉県木更津市。漁業権が発生している海では、漁業組合の許可がないと出来ないことを明確に記している看板  写真 1-3 . 漁業権に関連したお知らせ看板

千葉県木更津市。漁業権が発生している海では、漁業組合の許可がないと漁ができないことを明記した看板。

 写真 1-2 . 海苔養殖の様子

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 026

第2章 漁師町の形成と都市構造

 ここでは、これまで述べてきた厳然とした漁師町制度のもとで誕生した金杉、本芝、品川、大井御林、大森、羽田、

生麦、子安、浦安の漁師町の形成過程と都市構造を把握するとともに、羽田と大森を比較することで漁師町の都市構 造の類型を考察することとした。

2−1 漁師町の形成と都市構造

(1)金杉

 金杉の内陸部には、応安元年(1368)に創設された西應寺がある。その寺の参道は東すなわち海に向かって延び ていることから海との関係があったことが想定できる。〈図 2-1,図 2-2〉〈写真 2-1〉

 こうした金杉も、漁師町として成立するのは江戸になってからであり、その都市構造を 1876 年の敷地割でみると、

東海道の東側(海側)の敷地に背割りがあることがわかる〈図 2-3〉。これに対し、隣の本芝には背割りがなく、細 長い一敷地となっている。これは、金杉では東海道からアプローチする敷地には商家が建ち並び、その東側の敷地に は漁師町が形成され、東海道の1本東の道路からアプローチしていたのではないかと考えられる。つまり、漁師町と してのメインの通りは東海道の1本東側に平行してある通りといえるのだ。この漁師町としてのメイン通りは、かつ て海岸線であった可能性もある。土砂の堆積により通りの地先に新たな埋立てを行い、海岸線の浜辺を通りとして整 地したと考えられるのだ。漁師町では、地先を埋立て町を拡張することが行われるが、こうした埋立てについては羽 田で詳しく考察することにしたい。

 金杉は享保 6 年 (1721) に幕命により、本芝とともに魚問屋の組合を創設している。その理由は、中世からの集落 としての特権や、江戸の中心に程近い立地条件によるものと考えられる。また、鳥取藩主の松平相模の守の御用地に 住んでいた金杉の漁師 6 戸は、漁業補償ということで大井村の海岸沿いの御林猟師町に代地を与えられ漁業を営ん だとの記録が残っている。〈写真 2-2〉

(2)本芝

 本芝は現在の港区芝 4 丁目にあたり、東海道沿いの町人地の裏手に漁師町として成立した。南西の端には、水辺 との関係が深い鹿島神社が祀られている。本芝は、東海道の南側に漁師町が形成され、通りの反対側は町人地であっ たと推測される。〈図 2-4,図 2-5,図 2-6〉

 現在、東京の海岸線には江戸時代からの漁師町の面影はない。明治になると鉄道の線路との間に、細長い水路が残 され、昭和 30 年代まで雑魚場(小舟の船溜まり)となっていたが、悪臭がひどくなり埋立てられ、現在本芝公園と して整備されている。現在では海との関係がまったく感じられない場所となっている。今となってはこのあたりが、

落語で知られる芝浜の舞台であったことを想像することは難しい。〈写真 2-3〉

(3)品川

 品川は宿場町として隆盛を極めるが、1603 年に特権漁業権を獲得し、宿場から程近いところに漁師町が形成され た。現在の JR 品川駅から南に 1 kmほどいった南品川宿三丁目である。文献によれば、品川浦の漁民集落は明暦元 年 (1655) 目黒川河口の人家のない兜島と呼ばれていた砂洲に移されたとある。

 品川漁師町の鎮守である寄木神社も、漁師町移転と共に移ってきたものであり、漁師町の入口に位置していた。ま た、寄木神社の北 200 mの洲の先端には、利田 ( かがた ) 神社があり、品川漁師町の守護神である弁財天が祀られた。

〈写真 2-4,写真 2-5,写真 2-6〉

 寄木神社から利田神社までの漁師町の通りは、現在も古い木造の建物が軒を連ねている。路地に背中合わせの建物 が多く存在するのが特徴で、敷地割をみるとその様子がよく理解できる。メインの通りから水辺への道はなく、全て 路地によって通りと水辺がつながっていた。漁師の家は南面することよりも、水際線と直角な短冊状の敷地割りがな

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図 3−16  江戸中期の金杉の様子

                   

図 3−17  寺院建築の正面の方向

                 

−19  現在の西應寺への道 

海から直接アプローチ出来る道を持っている、

図 現在も古川にある漁船と屋形船 

都高速道路も真下に、漁師町、金杉の影を残す古川河口。都会 のど真ん中でも、しっかりと漁師たちは生き続けている。 

                     

図 3−18  1876 年の敷地割り

2 本のメインストリートに対して、それぞれに敷地が向いている、背 中合わせの敷地割りの様子。 

図左下の本芝には見られない。

西應寺 

西應寺 

古川

 図 2-1 . 江戸中期の金杉

図 2-3 . 1876 年の敷地割り  図 2-2 . 西應寺の配置

 写真 2-2 . 古川に係留されている漁船  写真 2-1 . 西應寺へのアプローチ

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 028 されていた。通りの両側の敷地が水辺に接する都市構造は、濃密な漁師町としての特徴を示している。〈図 2-8〉

 一般的に人は 3 尺あれば通れるが、漁具が発達した近世に誕生した漁師町品川の路地は、大きな漁具を持って路 地を通るために道幅が 6 尺 (1 間 ) が確保されたと考えられる。〈写真 2-7〉

 さらに品川において、以下のような興味深い聞き取りをすることが出来た。13 号埋立地のお台場海浜公園は、港区、

江東区、品川区の3つの行政界を有している。この境界線を決る際、海苔養殖の区画漁業権が関係したということで ある。つまり、現在品川区に編入されている区域は、かつて品川区民が海苔の養殖を行っていた区域と一致するとい うことである。現在の埋立地における行政界を決めるにあたっても、かつての漁業権が深く関与していたわけである。

〈図 2-7〉

(4)大井御林

 大井御林浦は正保 3 年 (1646)、駿河より漁師が移住し漁師町が成立した。万治元年 (1658) には、金杉浦からの 漁師 6 戸が代地として移住したことは先に触れたとおりである。

 鮫洲八幡宮は御林の総鎮守で、御林八幡とも呼ばれている。境内には厳島神社や水神社、弁天社、稲荷神社など 水に関係する神社の末社が祭られており、漁師町の鎮守として信仰されていたことが良くわかる。本殿は昭和 47 年 (1972) に再建されたもので、参道に置かれた石造りの狛犬は嘉永 2 年 (1849) に建立されている。また、安政 3 年 (1856) に地元の漁師が寄進した石灯籠も残っており、漁師との結びつきが強かったことをうかがわせる。

 敷地割は、漁師町にみられる通りを挟み短冊状の細く続いている。大井御林は川に面した漁師町ではないため、海 に直接船を係留していた。〈図 2-9〉そのため、埋立ては漁師町の存続に関わる事態で、詳しくは後述する。

(5)大森

 本研究で取り上げる大森の範囲は、かつて海苔養殖を主な産業にしていた漁師町、現在の内川、産業道路、旧呑川 緑地に囲まれた地域で、現在の大森東 2 〜 5 丁目となる。

 金杉などこれまで取り上げてきた漁師町のなかには、地先を埋立てかつての水際線を通りとして整備する状況を見 てきたが、磯付き村であった大森にはそのような都市構造は見られない。明治初期の地図をもとに近世前半の水際線 を想定することができる。浦守稲荷神社の成立が元祿年間 (1688 〜 1704) であること、また浦守稲荷神社の氏子圏 であること、前浦地区埋立てが完成した年が宝暦年間 (1751 〜 1764) であること (『大田区の神社建築』より )、さ らに貴船堀以東の道や土地の区画が計画的な線形であることから判断すると、当時の海岸線は、青色で示した線で あったと考えられる。

 都市構造をみると、明治 14 年の地図には東海道と内川付近の交差点から分かれた 2 重線の道がしっかり描かれて いる。これが、大森と羽田を結ぶ地域間道路であった「羽田道」である。その羽田道から分かれている脇道が漁師町 を貫き、江戸初期に海岸線であったと推測される貴船掘りとほぼ平行に通っていることから、この道が漁師町のメイ ンの通りと解釈できる。漁師町では沖合いの埋立てにともない、新しい水際線沿いにメイン通りが新設される場合が 多いが、近世以降の大森では地先を埋立てることはなかった。言い換えると、江戸の漁業制度 ( 漁業権 ) により磯付 き村となる以前には、地先を埋立て敷地を広げるといったことも行われていた可能性があるが、磯付き村というシス テムに位置づけられたことにより、地先を埋立てることは許されなかったものと推察できる。

(6)羽田

 本研究で取り上げる羽田の範囲は、かつて漁業専業の御菜浦の特権を持っていた羽田漁師町とされていた地域で、

多摩川の河口に位置する現在の羽田 2、3、6 丁目、及び、本羽田 3 丁目の自生院、羽田神社、正蔵院までとする。

漁師町の発展に周囲の宿場町などが全く影響してないとは言い切れないが、漁師町を研究対象とする為、旧穴守稲荷 の遊廓街と羽田の漁師町の発展の関係については直接触れない。

 羽田は御菜八ヶ浦としての地位を確立していたものの、周辺の漁師町特に大森との争いが記録に残っている。漁業 制度により漁では繁栄の見込めなかった大森は、新たな産業としていち早く海苔養殖に乗り出した。海苔は江戸前の

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現 JR 田町駅 

漁師のメインストリート 

鹿島神社 

鹿島神社

雑魚場 

 図 2-4 . 土地利用変遷のタイプ別分布図

 写真 2-4 . 利田神社前の家屋

 写真 2-3 . 土地利用変遷のタイプ別分布図  図 2-6 . 土地利用変遷のタイプ別分布図

 図 2-5 . 古川に係留されている漁船

 写真 2-7 . 六尺の路地  図 2-7 . 明治の海苔養殖許可証と養殖場の位置図

 写真 2-5 . 寄木神社  写真 2-6 . 木造家屋

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第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究

第1部 東京湾における漁師町の形成に関する研究 030 すしに欠かせない食材となり、一大産業へと発展したことから、大森は漁では成しえなかった繁栄を築くことができ た。一方、魚介類の漁で生計を立てていた羽田は、海苔の養殖では出遅れ、なんとか海苔の養殖業を行えるよう幕府 に願い出るが、大森との関係でその願いは明治になってはじめて叶えられることになる。つまり、漁業権というシス テムが、羽田、大森の繁栄を左右し、都市形成に影響を及ぼすことが理解できる。

 都市構造を見ると、これまで考察してきた漁師町との類似点が多いものの、現在でも漁を行っている羽田はその構 造が活かされている。羽田の都市構造の特徴は、水際線と並行するメインの通りが幾重にも形成されていることと、

その通りと直交する海への路地が微妙にずれているところにある。路地が直線的な構造と比べ、路地をずらすことに より視界が抜けないことから、視覚的閉ざされひとつのまとまりを保つことができる効果がある。眞鍋じゅんこ氏に よると、羽田の路地ごとに船着場が設けてあり、また路地ごとに採る魚介類の種類が決まっていたそうである。それ だけ羽田漁師町にとっては、路地ごとのまとまりは大きな意味をもっており、アナゴを採る人の住む区域、アサリを とる人の住む区域といった住み分けが、メインの通りと路地の織りなす構造により担保されていた。現在の大田区漁 業組合に延縄部隊、アサリ部隊という魚介類の名称がついた部署が実在し、それぞれ専門で行う漁師さんがいるとの ことである。しかし、どの区域がどの魚介類を採っていたのかまでは定かでない。

 羽田は江戸から今日まで常に発達をし続けている。羽田の漁師さんたちが、「羽田は東京内湾で最後の漁師町だ」

というのにはいくつか理由がある。まず、羽田には大田漁業協同組合があり、組合員の数は正会員だけで 70 人であり、

東京 23 区で最大である。また、水神祭や羽田神社の祭りは、町をあげて盛大に行われる。この祭りには、羽田を故 郷とする人が大勢戻り、羽田が漁師町であること誇るとともに、認識を強めているようだ。

(7)生麦

 生麦が本芝、大井御林、新宿と異なる点は、鶴見川河口に位置している点である。白く見えるのは、鶴見川によ り堆積した砂と、漁師が撒いたアサリの貝殻である〈写真 2-9〉。アサリの貝殻を撒いておくと、人が通ったときに、

海を踏むので音が出る。これが防犯に一役買っているのだそうだ。

 鶴見川と並行するかつての東海道が地域のメインの通り(現生麦魚河岸通り)であり、その通りと直交して細い路 地が川に向かって伸びている。生麦ではメインの通りの海側と陸側では、その性格が異なり、陸側は農業で生計を立 てている地域で、海側は漁業で生計を立てる漁師町であった。したがって鎮守も異なり、陸側の町には稲荷神社、海 側の漁師町では水神宮といった性格の異なる神様を祀っている。〈図 2-10〉

 ここ生麦も地先を埋立て、町を拡大した経緯が地図の上からも見て取れるだけではなく、現地でもヒアリングから も埋立ての話を聞きだすことができた。漁師町においてどのように埋立てが進められるかについては、今後の課題で あると認識している。

(8)新宿(子安)

 子安は新宿という々御菜八ヶ浦であって、現在でも専業の漁師が 40 人ほどいる横浜北部の漁師町である。

 漁師町のメインの通りは、かつての東海道 ( 現第一京浜道路 ) で、その都市構造は生麦と類似している〈図 2-11〉。

しかし、生麦のように通りから水辺へ直行する路地は発達しておらず、昭和 4 年の埋立てにより、水際に新たな通り(浜 通り)が新設された点は、生麦と異なる。どうして、このような違いが生じるのだろうか。ひとつの仮説としては、

地域と水辺とのつながりの強さにがあげられる。地域と水辺とのつながりが強い場合、浜通りのように水際に通りを 設けると、その関係性が薄れるため、地域からは反対があるはずだ。生麦の場合、浜通りが整備されたということか ら推測すると、地域全体として水辺との関係が当時としてはあまり重視されることはなかったのではないだろうか。

その裏づけとして、かつて漁業の作業場としていた倉庫が駐車場に転用されるなど、漁業への依存度が低い土地利用 が目立つ〈図 2-12〉。ただし、漁業で生計を立てている方もおられるため、浜通りの両側は網干し場や倉庫として漁 業に関連した活用がなされるとともに、漁船の利用を考慮し、埋立ては運河を挟んで行われた。〈写真 2-10〉

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漁 師 の メ イ ン ス ト リ

│ ト 

寄木神社  利 田 神 社 

 写真 2-8 . 旧海岸線の堤防

 図 2-8 . 品川漁師町の敷地割り(M44)

 図 2-9 . 大井御林の敷地割り(M44)

図 東京湾内湾と東京港 0‑2  東京湾上空の写真  海水と淡水が交じり合っている様子が良く分かる            写真 0‑1  品川の船溜まり  背後に見えるのは、JR 品川駅の、品 川インターシティ、品川グランドコモ ンズである。手前には、昭和 5 年 (1930)築の住宅と漁船が見える。こ のように大都会の中でも、東京都の漁 師は生き続けているのである。  図 0-1 . 東京湾内湾と東京港 写真 0-1 . 東京湾上空の写真海水と淡水が交じり合っている様子が分かる。写真 0-2 . 品川の船
図 1-2  東京内湾の主な漁師町
図 3 .景観変遷図    (1) 江戸期 大名屋敷 (2) 明治・大正期 (3) 昭和戦前期 (4) 戦後期石垣石垣コンクリート コンクリート 寄航場 倉庫倉庫 集合住宅 倉庫運輸関係施設 N① N② N③ N④ N ⑤ N⑦ N⑧ N⑨N⑥

参照

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