神 護 寺 板 彫 弘 法 大 師 像 と 土 佐 金 剛 頂 寺
│
│﹁ 楠 洞御 影
﹂ の言 説 と 模刻 と
│
│
杉 﨑 貴 英
は じ め に 神護
寺︵ 京都 市右 京区
︶大 師堂 に秘 仏本 尊と して 安置 され る板 彫弘 法大 師像
︵︻ 図 1︼
︑総 高一 三六
・七
!
︑ 国指 定 重 要 文 化 財︑以 下
﹁神 護 寺 像﹂ あ る い は﹁ 本 像﹂ と 適 宜 略 記 す る
︶は
︑﹃ 神 護 寺 略 記
﹄の 記 述 か ら
︑性 仁 入 道 親 王
︵後 深草 天皇 皇子
︑一 二六 七〜 一三
〇四
︶を 願主 とし て︑ 正安 四年
︵一 三〇 二︶
︑仏 師定 喜︵ 伝未 詳︶ が土 佐国 金剛 頂 寺
︵高 知県 室戸 市︶ の像 を模 して 制作 した こと が明 らか な基 準作 例で ある
︒明 治の 末に 国の 指定 を受 けて おり
︑早 く か ら 知 られ て き た作 例 と い って よ い︒ し かし 単 独 でと り あ げ た著 述 は これ ま で なく
︑基 礎 的 デ ータ の 公 刊 も 存 し な い⑴
昭 ︒ 和 十九 年︵ 一九 四四
︶︑ 田 中重 久氏 はそ の著 作の な か で﹁ 仮初 に も 神護 寺 と も あら う 寺 が︑ 此の 遠 僻 の地 の 金 剛 頂 寺の 大師 像を 模刻 させ るべ く仏 師︵ 中略
︶を 遣は して いる ので ある
﹂と 驚 き を 述べ た が⑵
︑ 戦 前以 来 の 文献 を 通 覧 し てみ ても
︑な ぜ仏 師を はる ばる 室戸 へ派 遣し てま で模 刻が 望ま れた のか
︑そ れは そも そも いか なる 像で あっ たの か
― 373 ―
が追 究さ れた よう すは ほと んど ない
︒と ころ が︑ 模造 の対 象 と なっ た 金 剛頂 寺 の 弘法 大 師 像︵ 以 下 適 宜﹁ 原 像﹂ と 記 す
︶ につ いて の基 本的 な問 いが 棚上 げに され たま ま︑ 神護 寺像 の 造形 につ いて
︑あ るい は浮 彫で 造ら れた 理由 につ いて は︑ さ まざ まな 論評 や意 見が 呈さ れて もき たの であ る︒ 本 稿 で は以 下
︑ま ず 概要 と 基 本 史料 に つ いて 確 認 を 行 い
︑ 従来 の諸 見解 を摘 記し
︑そ の問 題点 を指 摘す る︒ 続い て︑ 造 立に 際し 模刻 の対 象と して はる ばる 求め られ たの は︑ 中世 に 成立 した 弘法 大師 伝に
﹁形 代﹂ ある いは
﹁楠 洞御 影﹂ の名 で 登 場す る像
︑す なわ ち金 剛頂 寺の 楠の 巨木 の洞
︵ウ ロ︶ に空 海が 彫っ た自 刻の 肖像
︵で ある とし て鎌 倉時 代に 語ら れ て い た 立木 仏
︶で あ った こ と を 新た に 指 摘す る
︒そ の 上で
︑鎌 倉 時 代 の金 剛 頂 寺に そ の よう な 像 が 実 在 し た 可 能 性 と
︑神 護寺 像の 造形 にそ の実 態を うか がい うる かの 問題 を検 討す る︒ さら に造 立前 後の 状況 にも 説き 及ん でみ たい
︒ 一
基 礎 的理 解 前述
した よう に︑ 神護 寺像 に関 する 調査 報告 は公 刊の 限り では 見当 たら ず︑ 修復 歴や 展覧 会等 への 出陳 歴も 知ら れ な い︒ 法量 さえ も︑ 総高 を除 いて は戦 前の 文献 にみ える 実測 値に よる ほ か な い⑶
︒ 構造 は
︑水 瓶 が別 材 貼 付で あ る の を 除き 一材 から 彫出 され る とい う が︑ 材 質 にふ れ た 文献 は ほ とん ど な い︒ わ ずか な 言 及で も カ ヤ⑷
あ る いは ヒ ノ キ⑸
図1 神護寺大師堂 板彫弘法大師像 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 374 ―
と 一 致 をみ な い 上︑ それ ら は 一 般向 け の 事典 項 目 や開 帳 を 報 じた 新 聞 記事 に み える の み で︑ に わか に 信 頼 は で き な い
︒ 鮮明 な図 版を 載せ る文 献は 少な くな いと はい え︑ 像と 同時 期と され る厨 子⑹
を 開 扉 し た状 態 で 正面 か ら 撮影 し た 写 真 が多 く︑ その 状態 では 扉口 の内 側に 隠れ てし まう 周縁 の部 分を も含 む正 面の 全容
︑あ るい は側 面・ 斜側 面を うか が う には
︑戦 前の 文献 に載 る︑ 厨子 から 取り 出し て撮 影さ れた 数葉 の写 真図 版に よる しか ない
⑺
︒ 制約 ある 肉視
⑻
と右 の図 版を 頼り に︑ 造形 につ いて 摘記 して おこ う︒ 右手 に 金 剛 杵︑ 左手 に 数 珠を と っ て牀 座 に 坐 す 姿︑ 傍ら に所 用の 沓と 水瓶 をあ らわ す点 は︑ 弘法 大師 像に 通有 のも ので ある
︒た だし 頸部 に三 道を 刻む 点は 例を み な い︒ 子細 にみ れば 着衣 の構 成に も差 異が 指摘 され るの だが
⑼
︑本 稿で は あ え て立 ち 入 らな い
︒像 表 面に は
︑香 煙 等 に よる 被膜 の下 に古 い彩 色が 残存 して いる のが 見え
︑周 縁部 に若 干の 損傷 はみ られ るも のの
︑総 じて 保存 状態 は良 好 と 言い うる
︒ 明治 四十 四年
︵一 九一 一︶ 八月 九日 付の いわ ゆる 旧国 宝指 定か ら百 年余 り︑ 現在 も文 化財 とし ての 基礎 的デ ータ は 不 足し たま まと えい るが
︑美 術史 上の 基準 作例 と して の 認 知は 早 く から 定 着 し てき た
︒そ れ は正 和 三 年︵ 一 三一 四
︶ を 成立 年 代 の上 限 と する 鎌 倉 末期 成 立 と みな さ れ る﹃ 神護 寺 略 記﹄⑽
に より
︑年 代 や 作 者な ど の 明徴 が 得 られ る が 故 で あっ た︒ 該当 箇所 を含 む条 の全 文を 引こ う︵ 傍線 は杉 﨑︑
︿
﹀ は原 文で は割 り書 き︑
/は 割り 書き 中の 改行 箇所
︒ 以 下同 じ︶
︒ 一
翫玉 院︿ 永仁 五年 被造 営之
︑一 品大 王竹 園也
︑而 嘉元
/二 年大 王御 遷化 之後
︑改 之︑ 被成 御影 堂畢
﹀ 奉安 置彩 色大 師影 像︿ 木像
/半 出﹀ 一躯
︿奉 安/ 厨子
﹀
― 375 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
右 影像 者
︑正 安 四年 六 月︑ 為 高雄 御 室 御 願︑ 遣仏 師 法 眼定 喜 於 土 州 金 剛 頂 寺
︑所 奉 模 写 也︿ 彩 色 者/ 法 眼 圓 順﹀ 佛 舎利 一粒
︿東 寺﹀ 被安 置之 両 界曼 荼羅 各一 鋪︿ 金泥
/尊 形﹀ 高野 御室 御安 置也 高 雄御 室御 影一 鋪 聖教
︿目 録在 別/ 依為 彼御 所御 聖教 被納 當院
﹀ 有 職事
︿徳 治元 年九 月廿 日/ 被置 阿闍 梨三 口畢
﹀ これ
によ れば
︑神 護寺 に当 時 存し た 翫 玉院 は
︑永 仁 五年
︵一 二 九 七︶ に﹁ 一 品大 王
﹂﹁ 高 雄御 室
﹂こ と 性仁 入 道 親 王 のた めに 造営 され たも ので ある こと
︑こ こに 安置 する
﹁大 師影 像﹂ は﹁ 木像
﹂の
﹁半 出﹂ すな わち 浮彫 であ るこ と が 明記 され
︑い ま大 師堂 本尊 とし て現 存す る 板彫 弘 法 大師 像 に 合致 す る
︒正 安 四年
︵一 三
〇 二︶
︑性 仁 入 道親 王 の 願 に より
︑﹁ 仏 師法 眼定 喜﹂ を土 佐の 金剛 頂 寺 に派 遣 し て﹁ 模写
﹂し た こ と︑ 彩 色は 絵 仏 師の 法 眼 圓順
︵伝 未 詳
︶が 担 当 した こと も知 られ るの であ る︒
﹃ 神護 寺略 記﹄ 翫玉 院の 条は また
︑嘉 元二 年
︵一 三
〇四
︶に 性 仁 が遷 化 し た のち 改 め て﹁ 御影 堂
﹂と な した こ と を 記 す︵ ここ では 弘法 大師 の御 影堂 では な く︑ 性仁 の 御 影堂 の 意 と解 す べ き か︶
︒徳 治 元 年︵ 一三
〇 六︑ た だし 改 元 は 十 二月 十四 日︶ には 阿闍 梨三 口が 置か れた とあ り︑ こ れと の 関 係は 不 明 だが
︑同 年 お よ び翌 年 に は性 然 と い う僧 が
︑ 高 山寺 十無 尽院 の聖 教を ここ で書 写し てい る⑾
︒ 翫玉 院は その 後︑ 明 治 七年
︵一 八 七 四︶ に廃 さ れ て神 護 寺 の 方丈
・ 庫 裏 と なる が⑿
︑そ れ まで の 沿 革 につ い て はい ま 把 握 し え て い な い
︒な お 現 在
︑像 が 本 尊 と し て 安 置 さ れ る 大 師 堂
︵納 涼房
︶は 空海 の住 房に 由来 する 堂宇 だが
︑そ こに 移座 され た時 期も 目下 未詳 であ る⒀
︒
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 376 ―
二 従 来 の諸 見 解 と問 題 点 冒頭
に述 べた ごと く︑ 本像 に関 する 専論
・詳 論は これ まで ない
︒た だ︑ 弘法 大師 像あ るい は神 護寺 の寺 宝を 扱う な か での 言及 や︑ 美術 全集 等で の個 別的 な解 説は
︑戦 前か らた びた びな され てき た︒ それ らは 研究 史の 体を なし てい る と は言 いが たく
︑理 解の 進展 もさ ほど みら れな いの だが
︑通 覧す ると 二つ の傾 向あ るい は問 題点 を指 摘で きる
︒ 第 一は
︑大 正 一 二年
︵一 九 二 三︶ の﹃ 日本 国 宝 全 集﹄⒁
以 来︑ 金剛 頂 寺 板彫 真 言 八 祖像
︵重 文
︶⒂
と の 相 互参 照 が 必 ず とい って よい ほど なさ れて きた こと であ る︒ 裏面 墨書 銘か ら︑ 嘉暦 二年
︵一 三二 七︶ に仏 師定 審が 制作 した こと が 明 らか な基 準作 例で
︑こ こに 空海 像は 含ま れて いる もの の︑ 真言 八祖 像に 通有 の斜 めを 向く 姿で
︑神 護寺 像と は大 き く 異な って いる
︒年 代の 先後 関係 から して も︑ 神護 寺像 造立 の時 点に 関わ るも ので はあ りえ ない
︒同 全集 の﹁ 板彫 真 言 八祖 像﹂ の解 説で も神 護寺 像が 模刻 した 金剛 頂寺 の大 師像 とは
﹁別 物﹂ と明 記し てい るの だが
︑そ う断 りつ つも 相 互 に言 及す ると いう 説明 の型 は︑ 以後 九十 年を 経た 現在 まで 受け 継が れて きた
︒戦 前に は︑ 板彫 真言 八祖 像の うち 空 海 像だ けは 古く
︑そ れを 模刻 した のが 神護 寺像 かと する 一案 が表 明さ れて い る ほ どで あ る⒃
︒ 戦 後の 文 献 では さ す が に そ こ まで の 混 迷は み ら れ ない も の の︑ 金剛 頂 寺 の弘 法 大 師 像を 模 し て神 護 寺 像が 制 作 さ れた と 明 記す る 史 料 の 存 在
︑珍 しい 浮彫 の祖 師像 作例 とし ての 共通 点︑ 双方 の仏 師の 名が
﹁定
﹂字 を共 有す るこ とな どへ の言 及は 数多 い︒ 確 か にい ずれ も留 意す べき 点で はあ るが
︑こ うし た説 明の 型が
︑あ たか も両 作品 が相 互に 関係 して 成立 した かの よう な 印 象を 与え てき た観 も否 めな いの では ない か︒ 第二 はよ り問 題と いう べき もの で︑ 原像 がい かな るも のだ った かが ほと んど 問わ れな いま ま︑ 神護 寺像 の造 形に 対
― 377 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
す る論 評や
︑板 彫︵ 浮彫
︶で つく られ た理 由に つい ての 説明 がさ まざ まに なさ れて きた こと であ る︒ まず 造形 につ いて
︒戦 前に 春山 武松 氏は
﹁こ れが 果し て金 剛頂 寺像 の直 写で ある や否 やは 今明 かに する こと が出 来 な い
﹂と 断 りつ つ も︑
﹁ 快慶 の 地 蔵 と余 程 調 子 が 似 て ゐ る﹂⒄
と
︑鎌 倉 時 代 の 造 形 と し て の 評 を 記 し た︒ 同 様 な 態 度 は
︑源 豊宗 氏の
﹁衣 文の 彫り 方に も既 に硬 さが 見え てい るが
︑そ の相 好に もど こか につ めた さと 硬さ があ って
︑ま さ し く 鎌 倉末 の 一 般的 な 様 式に 外 な ら ない
﹂⒅
とす る 評 にも 認 め られ よ う
︒中 世 の模 刻 に おい て は︑ 顔 貌・ 体躯 や 着 衣 の 表現 に時 代あ るい は作 者の 様式 が表 出し てい る例 は多 いも ので
⒆
︑そ うし た実 情 か ら すれ ば 不 当な 論 評 とい う ほ ど で は な い︒ しか し
﹁薄 肉 の正 面 像 で ある た め 耳の 処 置 には 稍 々 窮 した か
︑結 局︑ 左 右に 開 き 気味 に 象 つ た の で あ ら う
﹂⒇
とい う評 に指 摘 で きる よ う に︑ 原像 に 属 すと み る べ きレ ベ ル まで 模 刻 者の 技 量 の 問題 に 帰 する よ う な説 明 は 戦 後 まで みら れる ので ある
︒ 次に 板彫 でつ くら れた 理由 につ いて
︒戦 前に 源豊 宗氏 は︑ 原像 も浮 彫で あっ たと 解し つつ も﹁ 神護 寺の 場合 大師 像 は 必ず しも 浮彫 たる を要 しな かっ たろ う﹂ とし て︑
﹁ 鎌倉 時 代 の肖 像 彫 刻流 行 の 機 運は
︑こ こ に 絵画 的 な る大 師 像 を 彼 等に は目 なれ て来 た浮 彫に おい て表 現す る試 みを 生じ たの であ ろう
︒絵 画と して の肖 像に なれ た心 には
︑浮 彫の 方 が より 親し かっ たで もあ ろう から
﹂と いう
﹁解 釈が 容れ 得る と思 う
﹂と 述 べ た!
︒ 戦後 に は 小林 剛 氏 が︑ 原像 に つ い て はふ れな いま ま﹁ 鎌倉 時代 の一 種の 趣好 とい った もの から
︑考 え出 され たも のと いわ なけ れば なら ない
﹂と 述べ て い る"
︒ま た︑ 中 野玄 三 氏 は﹁ 祖師 崇 拝 の 気運 が 盛 ん に な っ た 鎌 倉 時 代 に な る と
︑祖 師 の 実 在 感 を 熱 心 に 願 う あ ま り
︑彫 像 に 改め る 寺 院が 多 く な って い っ た︵ 中略
︶そ の よ うな 気 運 の もと に 生 まれ た 珍 しい 例
﹂# と 解 説 し た︒ こ の 見 方は 赤松 俊秀 氏の 祖師 像/ 御影 堂に 関す る論 考$
を ふま えた もの かに 思わ れ る が︑ 全 般的 動 向 のも と に 神護 寺 像 と い う﹁ 珍し い例
﹂が 回収 され
︑そ の特 殊性
・個 別性 が閑 却さ れて いる 感が 否め ない
︒八
〇年 代以 降で は︑ 画像 に比 し
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 378 ―
て の堅 牢 さ を求 め た 故と み る 説明 や!
︑﹁ 薄肉 彫 と は いえ 奥 行 きを も た せた 造 形
﹂に 鎌 倉時 代 の 懸仏 と の 作風 の 共 通 性 を 認 め︑
﹁発 想 の 淵源
﹂を 提 案 す る解 説"
など
︑い く つ かの 新 た な見 方 が 提 示さ れ て いる
︒し か し や は り︑ 原 像 が 浮 彫で あっ た可 能性 こそ 重ん じら れて しか るべ きで あろ う︒ 戦前 のい くつ かの 文献 では 一応 の顧 慮が 認め られ るの だ が
︑戦 後で は真 鍋俊 照氏 の言 述#
を 除き
︑さ ほど 留意 され てこ なか った のは 意外 とい うほ かな い︒ 三
﹁ 楠 洞御 影
﹂ の言 説 と 絵画
│
│中 世 弘 法大 師 伝 にみ る 原 像の 伝 承 とそ の イ メー ジ
│
│ 神護
寺の 歴史 と美 術に 関す る重 要史 料の 一つ なが ら︑ 本 像に 関 し ては 従 来 とり あ げ ら れて こ な かっ た も の があ る
︒ 応 永 九 年︵ 一四
〇 二︶ に 僧了 経 が 撰 述 し た 寺 誌︑
﹃ 高 雄 山 神 護 寺 規 模 殊 勝 之 條 々
﹄$ で あ る
︒翫 玉 院 条 の 全 文 を 引 こ う 翫 ︒
玉院 永仁 五年 被造 営之 一品 太王 之竹 薗也
︿奉 号高 雄/ 御室
﹀︒ 大師 御影
︿半 出﹀ 一品 御室 被下 佛師 法眼 定喜 於土 州金 剛頂 寺以 御作 之御 影堂 之楠 木被 冩御 作之 御影
︿云 々﹀
︒ 是 殊勝
︒是 規模
︒ 右
のう ち 傍 線 部 は︑ 先 に み た﹃ 神 護 寺 略 記
﹄に は み え な い 内 容 を 含 む
︒そ の 文 意 を に わ か に 汲 み と り が た い が
︑
― 379 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
﹁金 剛頂 寺﹂
﹁楠 木﹂
﹁ 御作 之御 影﹂ は︑ 中世 以降 にお いて 弘法 大師 伝の 一節 をな した
︑﹁ 天狗 問答
﹂あ るい は﹁ 天狗 降 伏
﹂と 称さ れる 説話 を示 唆す るキ ーワ ード とみ なし うる
︒ま ず糸 口と して
︑中 世に 制作 され た弘 法大 師伝 絵巻 のう ち 先 行諸 本の 総合 的位 置に ある と意 義づ けら れて いる
!
︑東 寺蔵
︽弘 法大 師行 状絵 巻︾"
か ら該 当部 分の 詞書 を引 こう
︒ 室
戸の 崎の かた はら に︑ 丗有 余町 をさ りて 勝地 あり
︒大 師︑ 雲臥 のた より につ きて 草履 のか よひ をな し︑ 常に こ の 砌に すみ 給し とき
︑宿 願を はた さむ かた めに
︑一 の伽 藍を 立ら れ︑ 額を 金剛 定寺 と名 け給 へり
︒此 所に 魔縁 競 発 て︑ 種々 に障 難を なし けり
︒大 師︑ すな はち 結界 した まひ て︑ 悪魔 とさ まく 御問 答あ り︒ 我︑ こゝ にあ らむ か き りは
︑汝
︑こ の砌 にの そむ へか らす と仰 られ て︑ 大な る楠 木の ほら に御 かた しろ をつ くり 給し かは
︑其 後な か く
︑魔 類競 事な かり き︒ かの 楠木 は︑ 猶さ かへ て︑ 枝し けく 葉茂 して
︑末 の世 まて つた はり けり
︒そ の悪 魔は 同 国 波多 の郡 足摺 崎に 追籠 らる と申 伝た り︒
︵ 以下 略︶ 金剛
頂寺 の創 建に 際し
︑室 戸に ある 大楠 の洞 を 住処 と し てい た 魔 類を 降 伏 さ せた 大 師 は︑
﹁御 形 代﹂ す なわ ち 自 ら の 像を 作り
︑以 後の 護り とし たと いう もの であ る︒ 絵に は︑ 大師 が魔 類︵ 天狗
︶を 降伏 する 場面 に続 いて
︑ク スノ キ の もと に大 師が かが み︑ 小さ な僧 形の 坐像 を ウ ロの 中 に 刻み つ け て いる 様 子 を描 く
︻図 2︼
︒ウ ロ の 内壁 に
︑直 に 刃 物 を当 てて 彫る 描写 であ るか らに は︑ この 絵巻 の詞 書の 撰述 者︵ ある いは 絵師
︶が
︑詞 書に いう
﹁形 代﹂ を丸 彫で は な く 浮 彫と し て︑ ま た今 日 の 彫 刻史 用 語 でい う
﹁立 木 仏﹂# と して 認 識
︵あ る いは 表 現︶ し てい た こ とが 認 め ら れ よ う
︒ 神護 寺像 が模 した とい う土 佐金 剛頂 寺の 弘 法大 師 像 とは
︑こ こ に 物語 ら れ て いる
︑﹁ 形 代﹂ と みな さ れ てい た 浮 彫
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 380 ―
の立 木仏 だっ たの では ない か︒ た だ東 寺本 の詞 と絵 は︑ 神護 寺像 造立 から 七十 余年 も経 過し た のち
︑周 到な 編纂 によ り成 立し たも ので あっ た︒ この 段に つい て も︑ 先 行 す る 大 師 伝 に 言 説 の 所 見 を さ か の ぼ る 必 要 が あ る だ ろ う︒ 中 世の 弘法 大師 伝絵 巻諸 本に 関す る研 究の 一環 とし て︑ 十四 世 紀初 頭ま での 大師 伝を 対象 に各 段の 先行 言説 を調 査し た鹿 島繭 氏 は!
︑ 寛治 三年
︵一
〇八 九︶ に経 範が 編 んだ
﹃大 師 御 行 状集 記
﹄"
の 一 節 をこ の 段 の内 容 の 初 見と し て 挙げ た
︒た だ しそ こ に は 魔類
︵魔 縁
︶の 妨 難は 記 さ れ る も の の︑ 大 師 と の﹁ 問 答
﹂そ して
﹁形 代﹂ の言 説は みら れな い︒ 塩出 貴美 子氏 も指 摘 す る よう に#
︑承 久 元年
︵一 二 一 九︶ の深 賢 撰
﹃弘 法 大 師行 化記
﹄$ でも 同様 であ る︒
﹁形 代﹂ 言説 の成 立時 期は 依然 不明 とす る ほ か ない が
︑本 稿 の関 心 か らす れ ば
︑さ し あ たり 神護 寺像 造立 以前 にそ の存 在を 確認 でき れば よか ろう
︒ 中 世の 弘 法 大師 伝 絵 巻諸 本 の う ち%
︑ い わ ゆ る﹁ 六 巻 本﹂ 系 統 の 最 古 例 で あ る 高 野 山 地 蔵 院 蔵︽ 高 野 大 師 行 状 図 画
︾︵ 制 作は 十四 世紀 前半 とさ れる
︶か ら︑ 当該 部分
﹁天 狗降 伏事
﹂の 詞書 を引 こう
︒ 室
戸の 崎の 傍に 金剛 頂寺 と云 寺有
︒天 狗常 に来 て住 侶を なや まし 佛法 を妨 く︒ 大師
︑其 所に て天 狗に さま ゝゝ 御 問 答あ りて
︑予 が此 にあ らん ほど ハ此 所へ 望む べか らず と仰 られ て︑ 即吾 御か たし ろを 作て
︑大 なる 楠の 洞に を か せ 給 へり
︒天 狗 其 御命 を た が へす
︑其 後 彼 所に 影 を さゝ さ り け り︒ 其楠 な を さか へ て 枝 し げ く︑ 葉 も 茂 く し
図2 東寺蔵《弘法大師行状絵巻》
巻第二第四段(部分)
― 381 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
て
︑末 の世 まて つた ハり けり
︒
﹁ 六巻 本
﹂の 成 立時 期 に 関し て は︑ 仁 治 三 年〜 文 永 九 年︵ 一 二 四二
〜七 二︶ を 目 安と し た 梅津 次 郎 氏の 見 解!
と
︑撰 述 者 を 高 野山 正智 院の 僧道 範︵ 一二 五二 没︶ に求 め︑ 彼が 讃岐 に配 流 さ れ て い た 期 間︵ 仁 治 四 年︹ 一 二 四 四︺
〜 建 長 元 年
︹一 二 四 九
︺︶ に 成立 時期 の推 定 を 絞り 込 ん だ宮 次 男 氏の 見 解⑶
があ る
︒ い ずれ にせ よ﹁ 形代
﹂の 言説 が︑ 神護 寺像 造立 に先 立っ て弘 法 大 師伝 に定 着を みて いた こと は確 実視 して よい であ ろう
︒ 絵︻ 図3
︼に は︑ 金剛 頂寺 の境 内に 立つ クス ノキ の幹 にあ いた ウロ のな かに
︑拱 手す る坐 像す なわ ち﹁ 形代
﹂を 描 き
︑上 方の 短冊 形に はこ れを 称し て﹁ 楠洞 御影
﹂と 記す
︒こ の呼 称は 他に 所見 がな い︒ 諸本 の詞 書に 共通 して みら れ る 呼 称 は
﹁形 代﹂ あ る い は
﹁御 形﹂ な の で あ る が
︑本 稿 で は あ く ま で
﹁大 師 影 像
﹂︵
﹃ 神 護 寺 略 記
﹄︶
・﹁ 大 師 御 影
﹂
︵﹃ 高雄 山神 護寺 規模 殊勝 之條 々﹄
︶ たる 神護 寺像 と の 関係 で 考 えて ゆ く た め︑ 以下 あ え て︑ 副題 に も 掲げ た こ の﹁ 楠 洞 御影
﹂の 称を 用い てい きた い︒ さて 地蔵 院本 には
︑東 寺本 との 間に 次の よう な差 異が 認め られ る︒ 詞書 は﹁ 形代 を作
﹂る と記 され るも のの
︑絵 に は 造像 場面 は描 かれ ない
︒ま た﹁ 楠の 洞に をか せ給 へり
﹂と いう 文言 から すれ ば︑ 東寺 本に 描か れた よう な浮 彫の 立 木 仏と して の形 態を 限定 的に 意味 する 描写 とも いえ まい
︒さ らに 地蔵 院本 の﹁ 楠洞 御影
﹂は 拱手 して 坐し てお り︑ 神 護 寺像 とは 大き な違 いが ある
︒﹁ 形 代﹂ を﹁ をか せ給 へり
﹂と する 点︑ 拱手 して 坐す 像を 描く 点は
︑﹁ 六巻 本﹂ を増 補
図3 地蔵院蔵《高野大師行状図画》
巻第二第一段(部分)
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 382 ―
して 成立 した とみ られ てい る﹁ 十巻 本﹂ 系統 の最 古例
︑元 応元 年︵ 一 三 一 九︶ の 白 鶴 美 術 館 蔵
︽高 野 大 師 行 状 図 画︾ の 当 該 部 分
﹁天 狗 問 答﹂ で も同 様 で ある
︒た だ し 絵で は
︑﹁ 形 代﹂ を 保護 す る 役 目 を な す 建物 を︑ さら に前 方に は礼 堂と みる べき 建物 を描 く︻ 図4
︼!
︒
﹁秘 密 縁起
﹂系 統 も 見て お き た い︒ 完本 で は 最古 例 と なる 応 永 二 年
︵ 一四 六八
︶の 安楽 寿院 蔵︽ 高祖 大師 秘密 縁起
︾"
の 詞書 を引 こう
︒ さて
大師
︑こ ゝに して 思食 こと く修 行し 給に
︑末 代の 為と て︑ わ か行 末の 御形 を作 つゝ
︑此 木の 洞に すゑ 給て けり
︒其 後︑ 堅結 界 して 伽藍 をた つ︒ 是を 金剛 頂寺 と名 付く
︒こ れよ りし て魔 界跡 を けつ り︑ 善神 擁護 し給 処な り︒ こ
こで は﹁ わが 行く 末の 御形
﹂と して いる 点に 前掲 の諸 本と の相 違 が ある
︒た だ し 造像 場 面 を描 か な い 点︑
﹁御 形
﹂つ ま り形 代 を ク ス ノ キ の ウ ロ に﹁ 据 え た
﹂と あ る 点 は 地 蔵 院 本
︑白 鶴 美 術 館 本 に 相 通 じ る︒ いっ ぽう 形代 の像 容は 大き く相 違し
︑弘 法大 師像 に通 有の もの で
︻ 図5
︼︑ 神護 寺像 とは 共通 する
︒こ の系 統の 原本 成立 時期 およ び﹁ 六 巻本
﹂と の先 後関 係に つい て な お見 解 の 一致 を み てい な い こ と#
も 問
図4 白鶴美術館蔵《高野大師行状図画》
巻第二第一段(部分)
図5 安楽寿院蔵《高祖大師秘密縁起》
巻第二第二段(部分)
― 383 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
題 を複 雑に する が︑ ここ では 立ち 入ら ない
︒ 神護 寺像 と共 通す る像 容に 関し もう 一 点︑ 弘法 大 師 伝絵 巻 に は属 さ な い が︑
︽釈 教 三 十六 歌 仙 絵巻
︾の う ち
﹁弘 法 大 師
﹂の 断 簡︵ 大和 文 華 館蔵
︑十 四 世 紀︶! に ふ れて お き たい
︒大 樹 の 幹に 開 い た ウロ の 中 に︑ 向か っ て 左 方 を 向 い て 坐す 大師 の姿 を描 くも ので
︑そ の姿 は通 例の 弘法 大師 像と 同様 であ り︑ 傍ら に御 影堂 とも みな しう る宝 形造 の堂 が 描 かれ る点 も注 意さ れる
︒し かし 歌仙 絵と い う性 格 と 画中 の 和 歌か ら す れ ば︑ ここ で は﹁ 形 代﹂ つま り 像 で はな く
︑ 大 師自 身の 姿と して 描い たも のと 解す べき だろ う︒ 室戸 の風 景と とも に大 師の 姿を 描く 目的 のも とで
︑弘 法大 師伝 絵 巻 のう ち室 戸を 舞台 とす る部 分か ら図 様が 転用 され てい るの であ る︒ ただ し像 容の 共通 をも って
︑転 用の 典拠 を﹁ 秘 密 縁起
﹂系 統に 特定 する べき でも ある まい
︒釈 教三 十六 歌仙 のな かで 空海 を識 別し うる よう
︑弘 法大 師像 に通 例の 像 容 が採 られ たと みる べき であ ろう か︒ 以上
︑神 護寺 像の 模刻 の典 拠と その 性格 を︑ 中世 に幾 つか の系 統を なし つつ 成立 した 弘法 大師 伝絵 巻の うち に見 出 す こと がで きた
︒し かし 描か れた
﹁形 代﹂
=
﹁楠 洞御 影﹂ は一 様で はな く︑ 神護 寺像 とは 像容 が相 違す る描 写も 認め ら れ た︒ 無論
︑た だち にそ れぞ れの 制作 時期 ある いは 原本 成立 時期 にお ける 実態 の反 映と みる わけ には いか ない
︒む し ろ 金剛 頂寺 の﹁ 形代
﹂
=
﹁ 楠洞 御影
﹂の イメ ージ は︑ 中世 を通 じて もっ ぱら 弘法 大師 伝の 一節 をな す言 説あ るい は絵 画 に よっ て認 識さ れて いっ たの であ り︑ した がっ て神 護寺 像の 造立 に際 して は︑ 不確 かで あっ た実 態を 把握 する こと も 目 的に
︑は るば る土 佐国 室戸 への 仏師 の派 遣が なさ れた ので はな いか
︒
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 384 ―
四
﹁ 楠 洞御 影
﹂ の実 態
︵ 一︶
│
│鎌 倉 時 代の 四 国 にお け る
﹁大 師 御 作﹂ 言 説 とク ス ノ キの 立 木 仏│
│ 現在
の金 剛頂 寺︵ 四国 霊場 第二 十六 番 札所
︶に は
︑立 木 仏が 刻 ま れた ク ス ノ キは 存 し ない
︒﹁ 天 狗 問答
﹂の 説 話 は 境 内の 大師 堂に 関し て語 られ てい るが
︑そ の前 身と なる 御影 堂は 康永 三年
︵一 三四 四︶ を初 見と して 史料 上に 確認 で き るも のの
!
︑寛 永十 七年
︵一 六 四
〇︶ の全 山 焼 亡 では 御 影 堂も 烏 有 に帰 し て い る"
︒ 現存 の 秘 仏本 尊 は 未見 で あ る が
︑そ の後 の再 興像 に違 いあ るま い︒ それ では
︑鎌 倉時 代の 金剛 頂寺 に
﹁大 師 御作
﹂の
﹁形 代
﹂︵
﹁ 楠洞 御 影﹂
︶ とい う 言 説 をま と う クス ノ キ の立 木 仏 は 実 在し たの であ ろう か︒ その 蓋然 性如 何 が問 題 と なろ う
︒本 章 では
︑﹁ 大 師 御 作﹂ とい う 言 説を ま と う仏 像
︑あ る い は クス ノキ に刻 まれ た立 木仏 を︑ 鎌倉 時代 まで の四 国に 求め てみ たい
︒ 金剛 頂寺 の初 見史 料と され る延 久二 年︵ 一〇 七〇
︶七 月八 日 付 文書
#
の 文中 に
﹁大 師 手造 立 薬 師仏 像
﹂と あ り︑ 同 寺 で は﹁ 楠 洞御 影
﹂の 説 話の 初 見 に 先立 ち
︑本 尊 に関 し て 早く に
﹁大 師 御 作﹂ 言説 が 成 立し て い た こ と を 確 認 で き る
︒同 じ室 戸で は︑ 最御 崎寺
︵四 国霊 場第 二十 四番 札所
︶本 尊に つい ても
︑初 見は 嘉元 四年
︵一 三〇 六︶ 三月 二十 二 日 付 の 官宣 旨 案$
に 引 か れる
﹁沙 門 我 宝 今月 日 解 状﹂ まで 下 る も のの
︑﹁ 本 師︵ 中 略︶ 取 斧 取 刀︑ 一 削 三 礼︑ 手 自 刻 彫
︑能 満所 願虚 空蔵 大菩 薩也
﹂と
﹁大 師御 作﹂ 言説 が見 出せ る︒ クス ノキ に関 わる
﹁大 師御 作﹂ 言説 につ い ては
︑隣 県 の 鎌倉 時 代 史料 に 例 を 見出 せ る︒ 佛 木寺
︵愛 媛 県 宇 和島 市
︑ 四 国霊 場第 四十 二番 札所
︶本 尊大 日如 来坐 像の 建治 元年
︵一 二七 五︶ 像内 墨書 銘に みえ る﹁ 興︵ 弘︶ 法大 師作 仏之 楠
― 385 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
少 々/ 此中 入者 也﹂ とい う一 節が それ であ る!
︒ また
︑鎌 倉後 期な いし 南北 朝時 代の 成立 と みら れ る﹃ 佛 木 寺記 録
﹄"
は
︑﹁ 大 同二 年大 師御 帰朝 之後
︑四 国御 巡礼 之時
︑件 深山 在御 一宿
︑而 傍楠 木奉 刻金 剛界 大日 如来 像︑
︵中 略︶ 則佛 木 寺 大日 如来 是也
﹂と 記す
︒こ こで 当初 の本 尊は
︑寺 号の 由来 をな すク スノ キの 立木 仏と して 語ら れて いる ので ある
︒
﹁ 大師 御作
﹂言 説は みえ ない もの の︑ クス ノキ に浮 彫さ れた 立 木 仏が 神 護 寺像 造 立 以 前の 四 国 に実 在 し たこ と を 証 言 する のが
︑僧 道範
︵?
〜一 二五 二︶ の﹃ 南海 流浪 記﹄# の 次の 一節 であ る︒ 同
年十 月廿 七日
︑伊 与国 寒川 ノ地 頭︿ 小河 六郎 祐長
﹀建 立一 堂︑ 三尊 供養 導師 勤之
︒彼 路頭 ニ比 女ノ 八幡 ト云 所
マ マ
ア リ︒ 讃岐 ノ内
︒其 所ニ
︑大 楠ノ 木ノ 本ヲ
︑半 出ノ 阿弥 陀仏 ヲ造 テ︑ 堂ヲ ツク リ覚 リ︒ 其木 ノ末 ハ︑ 大ニ サカ ヘ テ カレ ヌ︒ 楠 の木 も本 のさ とり をひ らき つゝ 仏の 身と も成 りに ける かな 記主
の道 範に つい ては
﹁六 巻本
﹂に 関 して 先 に ふれ た が︑ 高 野山 正 智 院 の住 僧 で︑ 高 野山 と 伝 法 院︵ 現︑ 根来 寺
︶ の 争い がも とで 讃岐 に流 罪と な った
︒﹃ 南 海 流浪 記
﹄に は︑ 仁 治四 年
︵一 二 四 三︶ 正月 に 都 を立 ち
︑赦 免 され て 建 長 元 年︵ 一二 四九
︶に 高野 山に 還る まで の見 聞 が記 述 さ れて い る︒ 右 の一 節 は 宝 治二 年
︵一 二 四八
︶の 実 見 で ある が
︑ 現 在の 豊浜 八幡 神社
︵香 川県 観音 寺市 豊浜 町︶ に大 きな クス ノキ があ り︑ その 根本
︵に 近い 幹の 部分
︶に
﹁半 出﹂ す な わち 浮彫 の阿 弥陀 如来 像が 刻ま れて いた こと
︑そ こに 堂宇 が造 り付 けら れて いた こと がわ かる
︒社 叢を なす クス ノ キ の巨 木に
︑八 幡神 の本 地仏 たる 阿弥 陀如 来の 像が 刻出 され てい たわ けで ある
︒現 存せ ず︑ 制作 年代 を示 唆す る記 述 も ない が︑ 道範 が見 た時 点か らす れば 平安 時代 後期 にま でさ かの ぼる もの であ った 可能 性は ある だろ う︒
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 386 ―
もう 一点
︑元 禄二 年︵ 一六 八九
︶初 版﹃ 四国 徧礼 霊場 記﹄ の大 日寺
︵高 知県 香南 市︑ 四国 霊場 第二 十八 番札 所︶ 項 に
﹁本 堂を 去る 事三 十余 歩に して ふる き楠 の七 八囲 はか りの 大き なる あり
︒大 師こ れに 薬師 如来 を彫 付給 ひ霊 験あ ら た なり
﹂と ある
!
︒こ のク スノ キは 明治 初め の大 風で 倒れ
︑現 在は 奥の 院 と し て営 ま れ た薬 師 堂 に﹁ 爪彫 薬 師
﹂と し て 安置 され てい ると いう
"
︒中 世ま で遡 る史 料で の所 見を 見出 せて いな いが
︑ク ス ノ キ に浮 彫 さ れた 立 木 仏が 土 佐 に 存 在し たと いう 事実 には 留意 した い︒ 以上 にみ た諸 事例 は︑ 鎌倉 時代 の土 佐金 剛頂 寺に
︑﹁ 大 師御 作﹂ の﹁ 形代
﹂︵
﹁ 楠洞 御影
﹂︶ とい う言 説を まと う︑ ク ス ノキ の幹 に浮 彫で あら わさ れた 立木 仏が 実在 した 蓋然 性を 高め るも のと な ろ う#
︒ 神 護寺 像 は それ を 再 現す べ く 板 彫
︵薄 肉彫
︶で 模刻 した と考 えら れる ので あり
︑両 耳を いわ ゆる
﹁立 ち耳
﹂で 表現 する のも
︑原 像の 耳が そう であ っ た から に他 なる まい
︒そ れで は︑ 神護 寺像 には 原像 の姿 をど こま でう かが いう るで あろ うか
︒ 五
﹁ 楠 洞御 影
﹂ の実 態
︵ 二︶
│
│ 原 像と 模 刻 と絵 画 の あい だ
│
│ 神護
寺像 の作 風は
︑戦 前に たと えば
﹁造 顕時 代 を何 時 頃 とす べ き か︒
︵中 略
︶一 寸 所 謂つ か ま へ処 が な いと い ふ 感 じ で 何 共断 定 的 にい ふ こ と は出 来 な い﹂$
︑﹁ 一 般 の 大 師 御 影 と 大 層 相 違 し て ゐ る
︵中 略
︶最 大 な る 箇 所 は お 顔 で あ る
︒斯 の御 顔を 視て は誰 も弘 法大 師と 直感 する も のは 恐 ら くな い で あら う
︒︵ 中 略︶ 全 く菩 薩 相 であ つ て 慈悲 円 満 な る 代受 苦能 化 の 威厳 さ を 備へ て ゐ る﹂% と 評さ れ た よ うに
︑鎌 倉 時 代の 肖 像 彫刻 と し て も弘 法 大 師の 彫 像 作例 と し て も 特異 とい うほ かな い︒ ここ で想 起し てみ たい のが ラン ゲン
・コ レク ショ ンの 木造 僧形 坐像 であ る︒ 津田 徹英 氏は
︑そ の制 作年 代を 十一 世
― 387 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
紀 後半 頃 に 見 定め た 上 で︑ 現存 最 古 の弘 法 大 師 彫像 で あ る可 能 性 を論 じ た!
︒そ の 過程 で 神 護寺 像 に 言 及し
︑﹁ 面 部 に みる やや 面長 な円 満相
﹂と 三道 相と にラ ンゲ ン・ コレ クシ ョン 像と の共 通性 を見 出し てい る︒ 付言 すれ ば︑ 円満 相 に 呼応 する よう に円 やか な曲 線を 描く 両肩 の輪 郭も
︑原 像の それ に由 来す るも ので あっ たろ う︒ こう した 作風 に反 映 す る原 像の 制作 年代 は︑ おお よそ 平安 後期
︑十 一〜 十二 世紀 に想 定し てよ いと 思わ れる
︒ しか し原 像を 立木 仏と 解す る限 り︑ 模倣 の結 果と は思 われ ない 点も 指摘 でき る︒ その 最た る点 とし て︑ 持物 の細 密 な 彫出 を挙 げて おこ う︒ 平安 時代 の作 例か ら近 世の 木喰 仏に 至る まで
︑立 木仏 は概 ね簡 略な 彫り をも って 造顕 され て い る︒ 仮に 細か な彫 りが 当初 施さ れて いた とし ても
︑そ れが 長期 間保 持さ れた とは 考え にく いの では ない か︒ もっ とも 根立 研介 氏が 指摘 した よう に︑
﹁ 霊験 仏の 模造 の概 念が かな り広 範 囲 にな っ て いる
﹂"
とい う 鎌 倉時 代 の 実 情 から すれ ば︑ 些末 な点 とし て問 題と する 必要 はな いの かも しれ ない
︒し かし その よう な実 情を 重く みる 場合
︑新 た に 浮上 して くる よう に思 われ るの が︑ 原像 の手 勢や 持物 は果 たし て神 護寺 像と 同様 だっ たの かと いう 問題 であ る︒ こ こ に至 って
︑弘 法大 師伝 絵巻 の諸 本間 に認 めら れた 像容 の差 異も また 改め て問 題と なっ てこ よう
︒ 一つ の解 釈と して
︑弘 法大 師伝 絵巻
﹁六 巻本
﹂の 段階 では
﹁楠 洞御 影﹂ の実 態が 知ら れて おら ず︑ 増補 版の
﹁十 巻 本
﹂と もど も拱 手の 坐像 とし て描 かれ たが
︑神 護寺 像造 立に よっ て実 態が 認識 され
︑そ れを 反映 して 東寺 本で は立 木 仏 とし ての 造顕 場面 が描 かれ たの だと する 見方 もで きよ う︒ しか しま た︑
﹁ 楠洞 御影
﹂の 実態 は﹁ 六巻 本﹂
﹁十 巻本
﹂に 描か れた よう な拱 手の 僧形 坐像 であ った のが
︑神 護寺 像 の 造立 に際 して はあ えて 通例 の像 容で 造立 され
︑東 寺本 では 実態 を反 映し て立 木仏 とし ての 状態 を描 きつ つも
︑そ の 手 前に 大師 の姿 を配 して 像の 手も とを 隠す 構図 が組 まれ たと する 見方 もで きる かも しれ ない
︒ 後者 の見 方に も関 して
︑神 護寺 像造 立以 前の 経過 につ いて 一案 を提 示し てみ たい
︒平 安後 期の ある 段階 で︑ 金剛 頂
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 388 ―
寺 境内 に生 えて いた クス ノキ のウ ロに 僧形 坐像 の立 木仏 が浮 彫で 造顕 され たと しよ う︒ 歳月 が経 過す るな かで
︑延 久 二 年︵ 一〇 七〇
︶に は確 認さ れる 本尊 薬師 如来 につ いて の﹁ 大師 御作
﹂言 説が この 立木 仏に も敷 衍さ れ︑ また 寛治 三 年
︵一
〇八 九︶ まで に成 立を みた 魔類 妨難 の言 説と 結び つい た結 果︑ 立木 仏は 弘法 大師 が魔 類防 御の ため に造 顕し た
﹁形 代﹂ と語 られ るよ うに なり
︑十 三世 紀半 ばま で に は﹁ 天狗 問 答﹂ の エピ ソ ー ド が形 を な し︑ 弘法 大 師 伝絵 巻 に も 描 写さ れる に至 った とい う想 定で ある
︒ラ ンゲ ン・ コレ クシ ョン 像に 関す る津 田氏 の提 唱を 承認 する とし ても
︑金 剛 頂 寺の クス ノキ の立 木仏 がそ もそ も弘 法大 師像 とし て造 立さ れた もの だっ たか どう かに つい ては 慎重 であ るべ きと 考 え るの であ る︒ あわ せて 考慮 する 必要 があ ると 思わ れる のは
︑神 護寺 像が 造立 され た正 安四 年︵ 一三
〇二
︶の 時点 で︑ その クス ノ キ は立 木と して 健在 だっ たの かと いう 問 題で あ る︒ 大 師伝 に み える
﹁猶 さ か え て︑ 枝し け く 葉茂 し て︑ 末 の 世ま で
︑ つ たは りけ り﹂
︵ 東寺 本︽ 弘法 大師 行状 絵巻
︾︶ とい った 語り が︑ その 時点 の実 態と 無関 係に なさ れう るこ とは いう ま で もな い︒ 先に 引い た﹃ 南海 流浪 記﹄ に記 録さ れた 立木 仏で は﹁ 木の 末は 大い に栄 えて 枯れ
﹂て いた ので あり
︑時 代 は 下る が文 化一
〇年
︵一 八一 三︶ 完成 の﹃ 南路 志﹄ は︑ 先に みた 大日 寺の 立木 仏に つい て﹁ 楠一 本︑ 薬師 之像 右生 木 之 節︑ 弘法 大師 彫刻 し玉 ふよ し云 伝︑ 別に 堂無 之︑ 今は 枯て 像も 不見
︑右 枯木 を薬 師と 唱﹂ と記 して いる
︒樹 幹に 浮 彫 され た立 木仏 のそ の後 につ いて は︑ この よう な樹 勢の 衰え や枯 死と いっ た事 態が 起こ りう る実 情を 無視 する わけ に は いく まい
︒ま た︑ これ も近 世の 例で ある が︑ 中国
・四 国地 域に も点 在す る木 喰︵ 一七 一八
〜一 八一
〇︶ が刻 んだ 立 木 仏に は︑ 像表 面が 風雨 にさ らさ れて 摩滅 して いた り︑ 木が 枯死 した ため 伐採 し︑ 像の 部分 を切 り取 って 堂内 に安 置 し てい るも のが みら れる こと も示 唆的 であ る!
︒ 神護 寺造 立当 時に おけ る原 像 の 実 態を 考 え る際 は
︑以 上 から 知 ら れ る よう な立 木仏 の宿 命も 考慮 する 必要 があ ると 思わ れる ので ある
︒
― 389 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
結 び に 代 え て 造立
をめ ぐる 諸状 況に つい ては 改め て論 じる 機会 をも ちた いが
︑本 稿を 結ぶ にあ たり 抄記 して おき たい
︒ 願主 の性 仁︵ 高雄 御室
︶に 視点 を置 く なら ば
︑彼 が 永仁 四 年︵ 一 三九 四
︶に 伝 法 灌頂 を 授 けた 深 性︵ 尊 勝 院御 室
︶ が
︑正 安元 年︵ 一二 九九
︶六 月七 日に 二十 五歳 の若 さで 没し てい るこ とに 注意 した い︒ 本像 の造 立は その 三年 後の 同 月 であ り︑ 深性 に対 する 追善 の意 図を 想定 した くな る︒ ただ
︑よ り留 意す べき かに 思わ れる のは
︑深 性が 仁和 寺御 流を 受け 継ぐ べ き 立 場で あ っ たと い う 事情 で あ る!
︒ 性 仁 は深 性に 伝法 灌頂 を授 けた 翌年
︑神 護寺 に御 所翫 玉院 を造 営す るの だが
︑そ れか ら四 年後 に深 性の 早世 に遭 い︑ 仁 和 寺御 流の 今後 に危 機感 を抱 いた に違 いな い︒ 弘法 大師 伝に おい て物 語ら れる
﹁楠 洞御 影﹂ の性 格か らす れば
︑そ の 模 刻造 立と いう 営み には
︑魔 類の 退散
・降 伏と いう 験力 への 期待 も考 えら れる ので はな いか
︒ 模刻 事業 の前 提に つい ても 付 言し て お こう
︒正 応 三 年︵ 一二 九
〇
︶︑ 性 仁は 槙 尾 平等 心 王 院︵ 神護 寺 別 所︑ 現・ 西 明 寺︶ の我 宝と いう 僧に 灌頂 を授 けた が︑ 神護 寺像 造立 の三 ヶ月 前ま でに は︑ この 我宝 が室 戸の 空海 聖跡 たる 金剛 頂 寺
・最 御崎 寺の 住持 職に 補任 され てい る︒ 両寺 は仁 和寺 の末 寺と なっ てお り︑ した がっ て仁 和寺 御室 たる 性仁 は︑ 我 宝 に対 する 補任 の主 体で もあ った
︒以 後︑ 我宝 は後 宇多 上 皇の 意 向 を承 け て 両寺 の 興 隆 に従 事 し てい っ た の であ る
︒ 以 上の 状況 を解 明し た横 山和 弘氏 は︑ 神護 寺像 造立 につ いて も言 及し
︑金 剛頂 寺の
﹁空 海像 を模 写し たも のが 神護 寺 に 安置 され ると いう 間接 的な 形で
︑真 言密 教界 にお ける 同寺
︵杉 﨑註
金 剛頂 寺︶ の位 置づ けを 改め て意 識さ せた も の とい えよ う﹂ と論 じた
"
︒神 護寺 像の 成立 は︑ 願主 とし て記 録さ れる 性仁 の み な らず
︑我 宝 の 存在 も 重 視し て 考 察
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 390 ―
さ れる べき 問題 とい え︑ 今後 の課 題と した い︒ 最後 に︑ 既に 挙げ た﹃ 高雄 山神 護寺 規模 殊勝 之 條々
﹄に お け る本 像 の 記述 を 改 め て考 え て おき た い︒
﹃ 校刊 美 術 史 料
﹄! の釈 文で は︑ 一
品御 室被 下佛 師法 眼定 喜於 土州 金剛 頂寺
︑以 御作 之︑ 御影 堂之 楠木 被冩 御作 之御 影︿ 云々
﹀︑ と
して いる のだ が︑ これ では 読み 下し 難く
︑文 意も くみ とり 難い
︒読 点の 位置 とし て適 切な のは
︑ 一
品御 室被 下佛 師法 眼定 喜於 土州 金剛 頂寺
︑以 御作 之御 影堂 之楠 木︑ 被冩 御作 之御 影︿ 云々
﹀︑ で
あり
︑﹁ 御 作の 御影 堂の 楠木 を以 て︑ 御作 の御 影を 写さ ると 云々
﹂と 読み 下す べき であ ろう
︒ 本稿 で述 べた ごと く﹁ 御作 の御 影﹂ とは
︑鎌 倉時 代半 ばま でに 弘法 大師 伝に おい て物 語ら れる よう にな った
︑土 佐 金 剛頂 寺で 弘法 大師 が自 ら作 り置 いた とい う﹁ 形代
﹂に あた る︒ それ は﹁ 楠洞 御影
﹂の 名で も呼 ばれ たご とく
︑ま た 東 寺本
︽弘 法大 師行 状絵 巻︾ に描 かれ たご とく
︑神 護寺 像の 造立 に際 して は︑ クス ノキ のウ ロに 大師 が刻 みつ けた 立 木 仏と 解さ れて いた ので あっ た︒ では
︑﹁ 御 作の 御影 堂の 楠木 を以 て﹂ はど う解 すべ きか
︒﹁ 大師 御作 たる 楠洞 御影 を本 尊と する
︑御 影堂 の傍 に生 え て いた 楠木 を︑ 模刻 の料 材に 用い て﹂ など と解 する のが 採り やす くは あろ う︒ しか し︑ 次の よう な別 案は 成り 立た な い だろ うか
︒
― 391 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
金 剛頂 寺 大 師堂
︵御 影 堂︶ の いわ ば 第 一 次前 身 堂 は︑ 本稿 で み た﹃ 南 海流 浪 記
﹄の 一 節
︑あ る い は 白 鶴 美 術 館 本
︽高 野大 師行 状図 画︾ の描 写に みら れた よう な︑
﹁御 作﹂ の像 が刻 まれ た﹁ 楠木
﹂と 一体 化し た﹁ 御影 堂﹂ だっ た可 能 性 が指 摘で きる だろ う︒ とす れば
︑そ の樹 勢が 衰え 枯死 に至 った 場合 は︑ クス ノキ およ び第 一次 前身 堂は 早晩 その ま ま では 維持 でき なく なる わけ で︑ 第二 次前 身堂 へ の移 行 が 想定 さ れ てく る
︒ま た
︑朽 損 を恐 れ て クス ノ キ を 伐採 し
︑
﹁楠 洞御 影﹂ の部 分を 切り 取っ て︑ 第二 次前 身堂 に安 置す る と いっ た 状 況も 考 え ら れて こ よ う︒ その よ う な移 行 が 神 護 寺像 造立 以前 に起 こっ てい たな らば
︑か つて
﹁楠 洞御 影﹂ が同 木に 刻ま れて いた クス ノキ の残 余を 用材 とし て活 用 す る︑ すな わち 文字 通り
﹁御 作の 御影 堂の 楠木 を以 て︑ 御作 の御 影を 写﹂ すこ とは 可能 とな るの であ る︒ 原像 と同 じ 木 を料 材と した 模刻 像造 立と なれ ば︑ 聖性 の移 植と して きわ めて 強力 な性 質を 帯び るこ とは いう まで もな い︒ 造立 の 前 提に
︑後 宇多 王権 のも とで の我 宝に よる 金剛 頂寺 の興 隆事 業と いう 状況 があ った こと を考 える 時︑ あり えな いこ と で もな いよ うに 思わ れて くる のだ が如 何で あろ うか
︒ いず れの 解釈 を採 るに せよ
︑少 なく とも
﹃高 雄山 神護 寺規 模殊 勝之 條々
﹄が 撰述 され た時 点で は︑ 神護 寺像 の用 材 は クス ノキ と認 識さ れて いた ので ある
︒早 く明 治期 に国 の指 定を 受け なが ら︑ 基礎 的デ ータ が依 然不 足し たま ま今 日 に 至っ てい る神 護寺 像で ある が︑ 将来 の精 査に より
︑愚 見が 補強 され ある いは 正さ れる こと を俟 ちた い︒
︵ 二〇 一五 年十 一月 二十 二日 稿了
︶ 注
⑴ 神 護 寺 で は
︑ 古 社 寺 保 存 法 が 施 行 さ れ た 明 治 三 十 年
︵ 一 八 九 七
︶ を 初 度 と し て
︑ 数 度 に わ た り 什 宝 が 国 宝 の 指 定 を 受 け て い る
︒ そ の う ち
︑ 本 像 が 指 定 さ れ た 同 四 四 年 は や や 遅 れ た 段 階 に 属 す る と い え
︑ 同 じ 日 付 で 毘 沙 門 天 立 像 も 指 定 さ れ て い る
︒ 明 治 期 に お け る 文 化 財 指 定 の 実 情 か ら 推 測 し て
︑ 現 在 の ご と く 詳 細 な 検 討 を 経 た 上 で 指 定 に 至 る と い う 手 順 が 踏 ま れ た と は
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 392 ―
考 え が た い
︵ こ の 件 に 関 し
︑ 本 像 に は 言 及 し な い が 黒 田 日 出 男
﹃ 国 宝 神 護 寺 三 像 と は 何 か
﹄︹ 角 川 学 芸 出 版
︑ 二
〇 一 二 年
︺ は 参 考 と す べ き 記 述 を 含 む
︶︒
⑵ 田 中 重 久
﹃ 日 本 壁 画 の 研 究
﹄︵ 東 華 社 書 房
︑ 一 九 四 四 年
︶︒ 田 中
︵ 一 九
〇 五
〜 七 九
︶ に つ い て は 竹 居 明 男
﹁ 田 中 重 久
﹂ 項
︵ 角 田 文 衛 監 修
﹃ 平 安 時 代 史 事 典
﹄ 下
︑ 角 川 書 店
︑ 一 九 九 四 年
︶ 参 照
︒ な お 本 像 に 言 及 す る 文 献 は 今 回 可 能 な 限 り 収 集 し た が
︑ 紙 幅 の 制 約 上
︑ 一 部 の み の 掲 出 に と ど め る こ と を お 断 り し て お き た い
︒
⑶ 春 山 武 松
﹁ 神 護 寺 の 仏 像
﹂︵
﹃ 東 洋 美 術
﹄ 三
︑ 一 九 二 九 年 九 月
︶ に
﹁ 竪 最 高 四 尺 五 寸
︑ 幅 二 尺 七 寸 七 分
︑ 厚 最 大 四 寸 六 分 五 厘
︑ 大 師 坐 高 三 尺 三 分
﹂ と あ る
︒ な お 春 山
︵ 一 八 八 五
〜 一 九 六 二
︶ に つ い て は 竹 居 明 男
﹁ 春 山 武 松 の
﹃ 日 本 の 絵 画 上 巻
﹄│ 日 本 美 術 史 学 史 発 掘
│
﹂︵
﹃ 文 化 史 学
﹄ 三 五
︑ 一 九 七 九 年
︶ 参 照
︒
⑷ 川 尻 祐 治
﹁ 弘 法 大 師 像
﹂︹ 久 野 健 編
﹃ 彫 刻
﹄︿ 日 本 史 小 百 科 二 一
﹀ 近 藤 出 版 社
︑ 一 九 八 五 年
︺︶ で は
﹁ 厚 さ 一 四! 余 り の カ ヤ 一 材 の 厚 板 に
︑ 大 師 の 坐 像 を 半 肉 の 浮 彫 と し て い る
﹂ と 記 す
︒ 管 見 の 限 り
︑ カ ヤ と 記 す 文 献 は 他 に 見 当 た ら な い
︒
⑸
﹁ 京 都
︑ 板 彫 弘 法 大 師 像 を 初 公 開
/ 神 護 寺 の 重 要 文 化 財
﹂︵
﹃ 四 国 新 聞
﹄ 二
〇
〇 八 年 一
〇 月 二 九 日 付 W E B 版 記 事
︶ に
﹁ 数 珠 を 持 っ て 行 を す る 様 子 を 一 枚 の ヒ ノ キ 板 に 彫 り 上 げ た
﹂ と い う 一 文 が あ る
︒ 管 見 の 限 り
︑ ヒ ノ キ と 記 す 文 献 は 他 に 見 当 た ら な い
︒
⑹ 本 像 を 納 め る 厨 子 も 鎌 倉 時 代 当 初 の も の と 考 え ら れ て い る
︒ 近 藤 豊
﹁ 大 師 堂
﹂ 解 説
︵ 林 屋 辰 三 郎 ほ か
﹃ 神 護 寺
﹄︿ 古 寺 巡 礼 京 都 五
﹀ 淡 交 社
︑ 一 九 七 六 年
︶ 参 照
︒
⑺ 注
⑶ 前 掲 の 春 山 論 文 に 正 面 全 図 の ほ か 左 側 面 の
︑ 水 原 堯 榮
﹃ 弘 法 大 師 御 影
﹄︵ 便 利 堂 印 刷 所
︑ 一 九 三 四 年
︶ に は 正 面 全 図 の ほ か 左 斜 側 面 と 頭 部 の 図 版 が 載 る
︒
⑻ も と よ り 筆 者 も 実 査 を 許 さ れ る 立 場 に は な く
︑ 二
〇
〇 八 年 よ り 毎 秋 行 わ れ る よ う に な っ た 開 扉 の 折
︑ 視 認 で き る 範 囲 の 正 面 像 の み を
︑ 肉 視 と は い え 単 眼 鏡 を 便 り に 外 陣 か ら 拝 観 し た に 過 ぎ な い こ と を 断 っ て お か ね ば な ら な い
︒
⑼
① 辻 村 泰 善
﹁ 南 都 に お け る 弘 法 大 師 信 仰
│ 元 興 寺 蔵 弘 法 大 師 像 の 周 辺
│
﹂︵
﹃ 南 都 仏 教
﹄ 六 六
︑ 一 九 九 一 年
︶︑
② 同
﹁ 絵 画 彫 刻 に み る 弘 法 大 師 像 の 変 遷
﹂︵
﹃ 密 教 図 像
﹄ 一
〇
︑ 一 九 九 一 年
︶︒
⑽ 藤 田 経 世 編
﹃ 校 刊 美 術 史 料
﹄ 寺 院 篇 中 巻
︵ 中 央 公 論 美 術 出 版
︑ 一 九 七 五 年
︶ な ど に 翻 刻 が あ る が
︑ 本 稿 で は 丸 山 士 郎
﹁ 初 期 神 像 彫 刻 の 研 究
﹂︵
﹃ 東 京 国 立 博 物 館 紀 要
﹄ 四
〇
︑ 二
〇
〇 四 年
︶ が 掲 げ る 全 巻 の モ ノ ク ロ 図 版 を 参 照 し
︑ 独 自 に 翻 刻 を お こ な っ た
︒
― 393 ― 神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺
⑾
①
﹃ 瑜 祇 経
﹄︵ 大 通 寺 蔵
︶ の 嘉 元 四 年
︵ 一 三
〇 六
︶ 十 二 月 十 三 日 付 奥 書 に
﹁ 於 神 護 寺 翫 玉 院 西 部 屋
﹂ と あ る
︵ 和 田 維 四 郎
﹃ 訪 書 余 録
﹄︹ 精 芸 出 版
︑ 一 九 一 八 年
︺ 所 掲
︶︒ ま た
② 明 暦 元 年 書 写
﹃ 秘 抄 第 二
﹄︵ 東 向 観 音 寺 蔵
︶ の 徳 治 二 年
︵ 一 三
〇 七
︶ 八 月 九 日 付 書 写 奥 書 に
﹁ 於 神 護 寺 翫 玉 院 僧 坊
﹂︑
③ 同 前
﹃ 秘 抄 第 三
﹄︵ 同 前
︶ の 同 年 八 月 七 日 付 交 点 識 語 に
﹁ 於 神 護 寺 翫 玉 院
﹂ と あ る
︵ 東 向 観 音 寺 史 料 調 査 団
﹁ 東 向 観 音 寺 史 料 目 録
︵ 四
︶﹂
﹃ 東 京 大 学 日 本 史 学 研 究 室 紀 要
﹄ 一 二
︑ 二
〇
〇 八 年
︶︒
① で 性 然 は
﹁ 三 十 七 歳
﹂ と 記 す
︒ な お
︑ 同 志 社 大 学 ハ リ ス 理 化 学 研 究 所 所 蔵
﹃ 文 殊 師 利 菩 薩 及 諸 仙 所 説 吉 凶 時 日 善 悪 宿 曜 経
﹄ 巻 下
︵ 同 志 社 大 学 学 術 リ ポ ジ ト リ> 貴 重 書 デ ジ タ ル
・ ア ー カ イ ブ
︹http://library.doshisha.ac.jp/ir/digital/index.html
︺ で カ ラ ー 画 像 を 公 開
︶ の 元 亨 二 年
︵ 一 三 二 二
︶ 校 合 識 語 に み え る 性 然 は
︑ 同 書 に
﹁ 高 雄 寂 靜 坊
﹂ の 朱 印 が あ る こ と か ら も 同 一 人 物 と 判 断 さ れ る
︒
⑿ 京 都 市 編
﹃ 京 都 名 勝 誌
﹄︵ 京 都 市
︑ 一 九 二 八 年
︶︒
⒀ な お 厨 子 の 最 下 部 は 江 戸 時 代 の 後 補 と の 指 摘 が あ る
︵ 注
⑹ 前 掲 解 説
︶︒
⒁
﹁ 板 彫 真 言 八 祖 像
﹂ 解 説
︵﹃ 日 本 国 宝 全 集
﹄︑ 一 九 二 三 年
︶︒
⒂ 基 礎 的 デ ー タ は
︑ 奈 良 国 立 博 物 館 編
﹃ 国 宝
・ 重 要 文 化 財 仏 教 美 術 四 国 二
︵ 愛 媛
・ 高 知
︶﹄
︵ 小 学 館
︑ 一 九 七 四 年
︶ を 参 照
︒
⒃ 坂 井 犀 水
﹃ 日 本 木 彫 史
﹄︵ タ イ ム ス 出 版 社
︑ 一 九 二 九 年
︶︒
⒄ 注
⑶ 前 掲 の 春 山 論 文
︒
⒅ 豊 秋
︵ 源 豊 宗
︶﹁ 美 術 史 雑 記 高 雄 の 神 護 寺
﹂︵
﹃ 仏 教 美 術
﹄ 一 四
︑ 一 九 二 九 年
︑ 同 著 作 集
﹃ 日 本 美 術 史 論 究
﹄ 三
︹ 思 文 閣 出 版
︑ 一 九 八
〇 年
︺ に 再 録
︶︒
⒆ 麻 木 脩 平
﹁ 興 福 寺 南 円 堂 の 創 建 当 初 本 尊 像 と 鎌 倉 再 興 像
﹂︵
﹃ 仏 教 芸 術
﹄ 一 六
〇
︑ 一 九 八 五 年
︶ は こ の こ と に 論 及 す る
︒
⒇ 大 口 理 夫
﹁ 肖 像 彫 刻
﹂︵
﹃ 日 本 美 術 大 系 第 二 巻 彫 刻
﹄ 誠 文 堂 新 光 社
︑ 一 九 四 一 年
︶︒
! 注
⒅ 前 掲 の 源 論 文
︒
"
小 林 剛
﹃ 肖 像 彫 刻
﹄︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 六 九 年
︶︒
# 中 野 玄 三
﹁ 板 彫 弘 法 大 師 像
﹂ 解 説
︵ 注
⑹ 前 掲 書
︶︒
$ 赤 松 俊 秀
﹁ 御 影 堂 に つ い て
﹂︵
﹃ 南 都 仏 教
﹄ 一
︑ 一 九 五 四 年
︑ 同
﹃ 鎌 倉 仏 教 の 研 究
﹄︹ 平 楽 寺 書 店
︑ 一 九 五 七 年
︺ に 再 録
︶︒
% 若 杉 準 治
﹁ 板 彫 弘 法 大 師 像
﹂ 解 説
︵ 久 野 健 編
﹃ 仏 像 集 成 三 日 本 の 仏 像
︿ 京 都
﹀﹄ 学 生 社
︑ 一 九 八 六 年
︶ ほ か
︒
&
久 保 智 康
﹁ 板 彫 弘 法 大 師 像
﹂ 解 説
︵ 谷 内 弘 照 ほ か
﹃ 神 護 寺
﹄︿ 新 版 古 寺 巡 礼 京 都 一 五
﹀ 淡 交 社
︑ 二
〇
〇 七 年
︶︒
神護寺板彫弘法大師像と土佐金剛頂寺 ― 394 ―