はじめに 近年ではその捉えなおしが進みつつあるが︑明治以降の日本仏教の歴史は︑二〇世紀初頭において展開した︑真
宗大谷派の僧侶・清沢満之︵一八六三︱一九〇三︶とその門下が中心となった﹁精神主義﹂と︑青年仏教徒たちが担
い手となった﹁新仏教運動﹂において絶頂に達したと評されることが通例であった︒ 論文要旨 本稿が対象とする﹁正法運動﹂と﹁新仏教運動﹂は明治期を代表する仏教者の二大運動である︒前者を指導した釈雲照︵一八二七︱一九〇九︶は︑江戸期の僧侶として前半生を過ごし︑維新期における廃仏毀釈の嵐に際会すると︑﹁戒律﹂の復興こそが仏教の復興につながると確信し︑幅広い活動を展開した︒他方で後者の新仏教運動は︑保守的な教界に反発を抱く青年仏教徒たちによるユースカルチャーとして成立した︒彼ら新仏教徒たちは雲照の思想を乗り越えるべき﹁旧仏教﹂と位置付けることで︑その対立は先鋭化する︒
中世から近世にかけては︑多くの律僧たちが戒律復興を試みたように︑﹁戒律﹂は仏教刷新の中心的イデオロギーの一つであったことは注目に値する︒そのため近代仏教において︑﹁戒律﹂の位相を再検討することは︑在家と出家者の区別が曖昧になるとされる日本仏教の近代への新たな理解をもたらすと考えられる︒本稿はかかる問題意識の下に︑明治期の二つの仏教運動の衝突の考察を試みるものである︒キーワード 釈雲照︑新仏教運動︑戒律︑近代仏教︑旧仏教
『宗教研究』93巻1輯(2019年)
旧 仏 教 の 逆 襲
││ 明治後期における新仏教徒と釈雲照の交錯をめぐって ││
亀 山 光 明
例えば日本近代仏教史研究の泰斗の一人である吉田久一︵一九一五︱二〇〇五︶は︑前者の精神主義を﹁人間精神
の内面に沈潜することによって︑近代的信仰を打ち立てんとし﹂た運動と評し︑後者の新仏教運動を﹁積極的に社会的なものに近づくことによって︑近代宗教の資格を獲得しようとした﹂運動として︑時代的な限界を認めながら
も高く評価している 1︒かかる吉田の評価は︑﹁近代性﹂なるものを判別するためのいくつかの指標を軸としていた が 2︑宗教社会学者・大谷栄一の近年の論稿にみるように︑﹁仏教の近代化﹂にまつわるこのような目的論的な研究態度の再考が提言される 3︒他方で二〇〇〇年代以降の英語圏の成果として︑仏教学者のドナルド・ロペスやデヴィ
ッド・マクマハンらが︑地域を超えた普遍性への志向︑科学的合理主義の重視︑個人の重視︑ブッダへの回帰など
に特徴を見出し︑﹁仏教﹂の近代をグローバルな現象として捉えることを提言するように仏教の近代性をめぐる研
究は新局面を迎えつつあるといえる 4︒ さらにこの近代主義の再考という課題に加え︑本稿がもう一つ念頭に置くのは︑近代日本において宗教上の実践
の意味を喪失したとされる﹁戒律﹂の問題である︒戒律が仏教実践の重要な部分を成すことは論を俟たないが︑ビ
リーフ︵教義等の言語化した信念体系︶の重視とその半面たるプラクティス︵儀礼的実践等の非言語的慣習行為︶の軽視が無自覚に埋め込まれているとされる近代日本の宗教概念を念頭においた検討は︑未だ不十分である︒先の
大谷はかかるビリーフ中心の仏教概念を体現したサークルこそ﹁新仏教徒﹂であったと指摘するが 5︑戒律実践はい
みじくも彼らにより攻撃された対象の一つであった︒
そこで本稿では︑世紀転換期において展開した︑青年仏教徒たちが率いる﹁新仏教運動﹂と︑明治期を代表する
持戒僧・釈雲照︵一八二七︱一九〇九︶が主導する﹁戒律復興︵正法︶運動﹂という︑二つの仏教運動の交錯を扱う︒
旧仏教の逆襲
後述のように戒律復興に生涯を傾けた釈雲照の運動は︑新仏教徒たちにより︑﹁旧仏教﹂として排撃され︑彼もまたこれに反駁する︒さらに両運動の対峙は通史的にも︑﹁新仏教運動はまた同時代の二つの仏教運動とも対決する︒
一つは精神主義運動であり︑他は雲照を中心として保守仏教の立場をとった目白派である﹂と叙述されたように 6︑ 明治以降の日本仏教史の一つのハイライトにありながら︑精神主義と新仏教運動の関係と比して︑十分な考究がなされてこなかった 7︒
よって本稿では︑両運動における対立の検討により︑﹁仏教の近代化﹂なる物語の相対化および戒律をめぐる語
り方の変遷を追跡する︒具体的には︑第一章では雲照と新仏教運動を簡潔に紹介した上で︑第二章では雑誌﹃仏教﹄
を通して︑一八九〇年代における雲照と新仏教運動の母体グループとの関係を考究し︑第三章以降は︑新仏教と雲照の思想的対立を検討していく︒研究手法としては︑両運動の中心となった機関誌﹃新仏教﹄︵一九〇〇年創刊︶︑﹃十
善宝窟﹄︵一八八九年創刊︶中の論説を主なテキストとして︑﹁近代における戒律の行方﹂の一断面を明らかにする︒
一 釈雲照と新仏教運動について 本稿が対象とする釈雲照は明治期を代表する持戒僧である 8︒一八二七︵文政一〇︶年に︑出雲国︵現在の島根県︶
に生まれた︒真言宗で得度し︑江戸期の僧侶として修業を重ねた雲照は︑明治初年に新政府が発布した神仏判然令が引き金となった廃仏毀釈に際し︑戒律復興を掲げた護法運動を展開した︒他方で雲照は︑近世を代表する真言
僧・慈雲︵一七一八︱一八〇四︶が宣揚した﹁十善戒﹂を中心として仏教の復興を企て︑﹁十善会﹂を組織し︑これを
足場として明治一〇年代以降の﹁徳教の争乱﹂と通称される国民道徳論争へと参入する︒さらに一八七九年には︑
三学の復興と僧律の厳格化による宗門の改革に着手するが︑まもなくこれに挫折すると︑東京目白台の新長谷寺に
居を移し︑独自の持戒僧育成機関である目白僧園を作り︑また十善会を拡張させた運動を展開する︒早くから僧侶養成教育と俗人教育という二つの方向からの教育改良に関心を示していた雲照は︑本稿が扱う一九〇〇年代の時代
区分においては︑仏教・神道・儒教を三道一貫の﹁皇道﹂と位置付け︑これと戒律主義を結合させた国民教育を企
図した︒そのため︑徳教学校の設立を畢生の事業としたが︑これは彼の急逝により未完に終わった︒
一方で︑前章で示したように︑﹁新仏教運動﹂は︑従来の日本近代仏教史研究において︑仏教近代化の到達点と
して位置づけられてきた︒一八九九年︑当時の仏教界に閉塞的な雰囲気を感じた境野黄洋︵一八七一︱一九三三︶や
渡辺海旭︵一八七二︱一九三三︶︑加藤玄智︵一八七三︱一九六五︶︑高島米峰︵一八七五︱一九四九︶などの先進的な青年
仏教徒たちにより︑仏教清徒同志会︵後に新仏教同志会と改称︶が結成された︒
その母体としては﹃仏教﹄︵一八八九年創刊︶と古河老川︵一八七一︱一八九九︶の経緯会︵一八九三年設立︶が挙げら
れるが︑近年ではその背後に︑本願寺派普通教校の学生が中心となった反省会︑明治二〇年代における中西牛郎
︵一八五九︱一九三〇︶の新仏教論︑哲学館系グループなどの広範なバックボーンの存在が指摘される 9︒新仏教運動の出発点を象徴する﹁我徒の宣言﹂では︑﹁今日の僧風を改善し︑今日の寺院組織を改新し︑漸次手を加えて︑旧仏
教をして︑遂に時勢に応合するの宗教たらしむる﹂とあるように︑彼ら改革者は雲照と同様に﹁僧風﹂と﹁寺院組
織﹂の刷新を問題とした︒しかし︑彼らが依拠したモデルは︑教義の合理化や儀礼の否定を志向するユニテリアンに共鳴した﹁一切宗教教義の自由討究﹂による A︑いわば近代的な仏教者像の構築であったとされる︒
さらに新仏教徒は︑自らを従来の﹁旧仏教﹂と一線を画すものであるとして︑﹁我徒は旧仏教を助け︑旧仏教に
旧仏教の逆襲
憑らんとするの念慮︑微塵毫厘もあることなし﹂と宣言し B︑既成宗派を﹁旧仏教﹂として攻撃したのであり︑就中︑雲照率いる目白派は打破すべき象徴とされた︒そして両運動は︑一九〇〇年代初頭の世紀転換期において対立
したとされるが︑次章ではその前史的段階として︑一八九〇年代の﹃仏教﹄における雲照の役割を考察する︒
二 一八九〇年代における釈雲照と雑誌﹃仏教﹄ 本章の目的は︑次章以降で扱う新仏教運動と雲照との間における対立の前史的段階として︑一八九〇年代におけ
る雑誌﹃仏教﹄にみる雲照像を考察することで︑如何にして後の対立へと展開したのかを明らかにすることであ
る︒前章で触れたように︑雑誌﹃新仏教﹄は﹃仏教﹄をいわば批判的に継承したとされる︒すなわち︑新仏教運動の指導的役割を担った境野黄洋が︑古河老川没後に社説を担当すると︑その急新的な論説が契機となり︑既成仏教
との対立が深まり︑一八九九年一〇月の仏教清徒同志会発足へと至るのである C︒そこで新仏教徒による雲照批判の
系譜を辿るべく︑九〇年代における﹃仏教﹄との係わりを考察することは不可欠な作業であるといえよう︒
また同時代のコンテキストとして︑明治五︵一八七二︶年のいわゆる肉食妻帯令から時を隔て︑戒律を捉えなお
す動向が仏教界に生じたことも︑注目されよう︒すなわち︑それは仏教学者の池田英俊いわく︑﹁明治二七︱二八
年代の日清戦争前後を境として再燃する戒律問題をめぐる論争﹂なのである D︒近代的イエ制度の原型を規定したものとして位置づけられる︑一八九八年発布の﹁明治民法﹂が準備される時期と重なる同論争であるが︑仏教学者の リチャード・ジャフィによると E︑これは宗派内制度の整備という組織の近代化の問題に加え︑肉食妻帯令以後のい
わば合法的に妻帯した僧侶たちの子息が末寺の住職に就き始めたという︑現実的な問題を背景としているとする︒
そしてこのとき肉食妻帯をめぐる語り方は︑明治初期から中期にかけての﹁教義﹂中心から︑﹁実際﹂的な問題を
中心とした方向へと展開したことは︑ジャフィの教えるところである︒
他方でこの時期の雲照は︑一見すると専ら﹁教義﹂の立場から戒律を論じることに関心を示している︒例えば︑
﹃末法開蒙記﹄︵一八九七年︶では︑最澄の手によるとされる﹃末法灯明記﹄︵八〇一年頃成立︶は偽作であり︑かつ﹁末
法の弟子の慧眼を割却し︑学仏者の精神を腐蝕せしめむとするの大魔説﹂として F︑正法たる戒の実践は末法の現今においても可能であると啓発する︒しかし︑ここでは現行の僧侶は教義や宗意に反する堕落にあるとする論調に終
始し︑宗門組織の現状という﹁実際的﹂側面からの戒律実践の問題はほとんど閑却されているのである︒
しかしその実︑雲照は単なる﹁教義﹂の範疇に留まらない持戒僧の大義の案出に苦心していたのであり︑そこで
キーワードとなったのが﹁国民道徳﹂であった︒前章で紹介した通り︑雲照は﹁十善戒﹂による国民教化を唱えたが︑本来は仏教者の規範である﹁戒律﹂と世俗たる﹁公﹂を結びつけることでその有用性を示す発想の萌芽はすで
に︑江戸期の護法僧に見いだされよう G︒さらに彼は︑持戒僧育成のために︑﹁道心堅固﹂︑﹁戒体堅剛﹂︑﹁三学双修﹂ を三綱領とし H︑一八九〇年に目白僧園を戒律学校から改称して設立した︒このときの設立趣意書によると︑平安仏教以降の僧侶の堕落が社会全体の堕落を招いてきたとする一種の退廃史観の下で︑﹁而して社会の道徳を挽回し︑
国家の隆運を扶植し︑以て有道有徳の民臣たらしめんと欲せば︑如法持戒の僧侶に依らざるべからず︑是れ如来の
清規により戒律を再興せんと欲する所以なり﹂として I︑雲照は︑如法持戒の僧に退廃した社会道徳の救済という役割を付与する︒しかし︑これと類似した雲照の論理は例えば︑﹁戒香自然に︑四民を薫し︑皇化を裨益し奉り﹂と して︑彼が廃仏毀釈期に上申した建白書のなかにすでに見出せるのであり J︑雲照はこれを国民道徳の枠組みにおい
旧仏教の逆襲
て再編成することで︑僧侶の持戒を社会道徳に結びつけたといえよう︒
また︑一八九〇年代の雲照は︑十善会を拡張し︑各界の名士を外護者に加え︑毎月発行の機関誌﹃十善宝窟﹄
や︑仏教婦人雑誌﹃法の母﹄︵一八九三年七月創刊︶を公刊しているのであり︑その活動は当時の僧界における戒律論
争の盛況を背景として拡張して行くのである︒特に当時︑数多く結成された仏教結社のなかで︑その多くが組織や機関誌の継続に頓挫していることを考慮すると︑その躍進は注目に値するのであり︑例えば︑一八九七年の﹃反省
雑誌﹄社説の﹁釈雲照と七里恒順﹂や K︑一八九九年の﹃明治十二傑﹄︵博文館︶などで︑彼の活動を評価する論説を
見ることができる︒
他方で︑この時期の﹃仏教﹄を閲読すると︑一八九〇年代前半の雲照は同誌に積極的に寄稿しており︑その関係は比較的良好であったといえる L︒さらに同誌掲載の﹁明治二六年の仏教界﹂︵一八九三年︶では︑﹁又道徳 00上に於ける
本年の仏教界を見るに戒律思想其中心となりたるか如し﹂として︑同誌に﹁戒律弁﹂を寄稿した真宗の小泉了諦
︵一八五一︱一九三八︶︑禁酒進徳を掲げた反省会の躍進︑﹁小乗教徒﹂たるダンマパーラ︵一八六四︱一九三三︶の再遊︑セイロンから帰国し釈尊正風会を起こした釈興然︵一八四九︱一九二四︶もあげられ︑特に雲照は﹁関東の光明﹂と
して︑その筆頭に配されていた M︒ しかしこれが︑九〇年代後半に入ると︑雲照への批判的な論調が散見されるようになる︒そこでは︑上流層に迷信を広め︑また信者の社会的地位に固執して下流を見捨てる貴族的仏教の代表として雲照はしばしば批判される
が N︑これが仏教清徒同志会の結成された一八九九年以降に入ると雲照バッシングとでもいうべき集中砲火へと発展
するのであり︑その中心となったのが︑﹁円光問題﹂と﹁仁和寺独立騒動﹂という︑二つの事件であった︒
はじめに﹁円光問題﹂とは︑先述の﹃明治十二傑﹄選出の際に雲照が︑仏の後光を模した細工を行った写真を︑ 博文館に送り付けたとされる事件である︒これに対しては︑方光童子﹁釈雲照律師の円光問題﹂では O︑﹁吾輩が雲照律師の円光問題に関し︑敢て看過することを欲せざる所以のもの﹂として︑①戒律的仏教の運命︑②迷信仏教の
打破︑③貴族的仏教の病弊等の諸問題︑という三点をこの事件が包摂していると喝破する︒さらに方光童子はこの
騒動の本質を一律師に過ぎなかった雲照が世間から称賛を得るに従い増長したことに求めるのである︒
一方で︑﹁仁和寺独立騒動﹂とは︑明治一〇年代における宗門改革の挫折から︑教団と距離を置いていた雲照が︑
一八九九年に大僧正の位を授けられ︑仁和寺門跡となった際︑同寺事務長・森岡寿算︵生没不詳︶︑同寺旧門跡・小
松宮彰仁︵一八四六︱一九〇三︶とともに︑これを機として︑宗門の改革を断行しようとしたことが︑集権的な一宗
管長制度への基盤が比較的弱かった真言宗内の独立分離騒動へと発展した事件である︒また宗内でも︑この時期は普通学導入をめぐる宗門の教育改革が導入され始めた頃でもあり︑雲照とその外護者である教育家の沢柳政太郎
︵一八六五︱一九二七︶がこれに反対する立場を取っていたことからも分かるように︑宗門の教育方針をめぐる対立で
もあった P︒ このとき雲照の企図した計画は弟子の雲雄︵生没不詳︶宛の書簡で︑詳細な記録が残っている︒これによると︑
﹁特に正法命根たる戒律を回復し︑戒律を以て僧侶依止の大師と仰ぎ︑以て定恵二学の基礎を確立し︑中古の弊儀
を削除し︑百般の制度都て仏祖経律の白説︑開祖︑法皇の聖旨に基き千古に遡源し︑誓護国家の宗光を再輝し︑以て帝室に国家に報答し奉らんと欲する︑是本山独立の元意なり﹂として Q︑前章で触れた雲照が主導した明治十二年
の改革案と僧園制度を合わせた復古的な立場から僧団の改革を訴えている︒
旧仏教の逆襲
一方︑雲照は﹁上根﹂の僧侶には︑﹁外道摂受︑済度﹂のために︑外学を部分的に許し R︑また官立大学の上に大学院が置かれ
ていることに習い︑﹁高等三学院﹂の設立を企て︑これを﹁国
家徳風の頽廃﹂や﹁興学布教﹂に結び付けていることから S︑国民道徳や教化を課題としていたのであり︑同時代の仏教者と共
通して﹁教化﹂を中心に仏教改良を一つの軸として︑宗門の改
革を企てたといえる︒この対立は雲照が門跡を辞して目白僧園
に帰ることで一応の収束をみるが︑例えば無記名の論説﹁真言宗各山分離問題﹂︵一八九九年︶では T︑政府と結託し︑自ら独立して一派の管長および真言律の中心となろうとする
雲照の野心が批判される︵図1では︑雲照が鶏に見立てられた宗門を解体する人物として風刺されている︶︒そし
て雑誌﹃新仏教﹄が創刊された一九〇〇年と同年の﹃仏教﹄中の論説︑﹁如何にして旧仏教を撲滅すべき乎﹂では︑旧仏教徒の利己主義︑現世主義的な側面が糾弾され︑雲照はその代表者として挙げられるに至るのである U︒
本章で確認した通り︑新仏教運動と雲照との対立の原型は︑すでに一八九〇年代末の﹃仏教﹄による雲照批判に
窺える︒もっとも﹃仏教﹄・﹃新仏教﹄両紙の執筆者は重複しており︑特に新仏教運動の揺籃期にその批判が集中しているのは︑ある意味からして当然であるといえよう︒しかしそこでは︑清浄な持戒僧としての彼の人物像の形成
と並行して︑﹁貴族的仏教﹂︑﹁迷信﹂を説く旧仏教の首魁としての雲照像が生み出されつつあったことが窺えるの
である V︒これが新仏教運動において如何に展開したのかは次章で論じたい︒
図1 真言宗分離問題と雲照
( 出典:「真言宗各山分離問題」『仏教』
156号,1899年,429頁)
三 世紀転換期における戒律の語り方
││ 新仏教徒による雲照論をめぐって ││ 本章では︑﹃新仏教﹄に寄せられた吉祥坐仏︵本名不詳︶﹁釈雲照氏を論じ目白派の主義を排す﹂︵三巻二号︑一九〇〇
年︶及び︑新仏教運動のリーダーの一人であった境野黄洋による﹁旧仏教最後の光明雲照律師﹂︵﹃太陽﹄一八巻九号︑
一九一二年︶を検討する︒前者は﹃新仏教﹄掲載の直接的な雲照批判であり︑後者は雲照の没後において﹃太陽﹄に出された評伝となっている︒
すでに宗教学者の碧海寿広が︑﹁極端な話︑彼等︹新仏教徒︺は既存の寺院や僧侶はいずれ消えて無くなるもの と考えていたようだ﹂と指摘するように W︑新仏教徒たちは︑完全な在家中心の立場から僧侶無用論を展開した︒そ
して明治期の教界を揺るがし続けた︑いわゆる肉食妻帯問題においても︑戒律実践との矛盾に苦しむ﹁旧仏教﹂側が︑僧俗無別の﹁新仏教﹂へと変貌を遂げることが期待されたのである︒
例えば︑牛涎﹁僧侶の妻帯を論ず﹂︵一九〇一年︶では︑旧仏教徒たちが︑各宗の形態に固執しながらも︑布教の 便利を意図し︑肉食妻帯へと邁進する形勢が﹁醜陋なる旧仏教の残物﹂として指弾される X︒かかる状況下で彼は︑
﹁夫婦は人倫の大道にして︑男女の結婚は自然の約束なり︒之を斥けて真正の解脱を得んとするか如きは︑誤謬の
根本思想より来りし病的戒法たることは︑今敢て多言を要せざるべし﹂として︑人倫の大道なるものから︑肉食妻
帯を肯定する︒その上で彼は︑肉食妻帯問題は旧仏教の制度・あり方の矛盾を根本的に露呈させる問題であり︑これを機に旧仏教が打破され新仏教の目的である﹁僧俗無別﹂に到達することで︑肉食妻帯問題は解決されるとい
う︑大胆な提言を行うのである Y︒
旧仏教の逆襲
さて︑吉祥は論説﹁釈雲照氏を論じ目白派の主義を排す﹂の冒頭で︑﹁仏教界現在の寵児﹂としての雲照の影響力を認めた上で︑﹁雲照は明治仏教の代表するものと称せらるゝか如き︑果たして明治仏教史上の名誉なるべきか﹂ として︑疑問を呈する Z︒その上で彼は︑雲照率いる目白派を排除すべき根拠を﹁迷信の害毒を社会に流し 00000000000︑新宗教 000
開拓の前路を杜絶し 000000000︑思想進歩の障碍をなすこと多大であればなり 00000000000000000000﹂に求め a︑新仏教徒に立ちはだかる仇敵と見做すのである︒その批判の具体的な趣意は︑雲照の道徳主義が小乗に立脚するため厭世的であり︑その禁欲的生活は
不自然異常︑さらに系統的な理論を欠いた無系統的であることに加え︑各宗において︑もっとも﹁迷信的﹂性質を
有する真言の僧である彼が︑加持祈禱を行い︑旧仏教の迷信を説くとされる点にあった︒一方︑かかる批判の言説
は︑型として同運動の原則とされた﹁我徒の宣言﹂中の六大綱領に求めることができよう︒ さらに︑吉祥の論説において注目されるのは︑仏教の戒律と国民道徳が峻別されるべきであるとして展開される
批判である︒すなわち︑彼は仏教の戒律はただ﹁宗教﹂上の道徳規定であり︑社会道徳の退廃の救済と結びつける
ことは全く無意味であると断じる b︒これは雲照をはじめとした明治初期から中期の仏教者たちが︑﹁国民道徳論﹂の枠組みにおいて︑戒律と道徳を一致させて運用したことに背馳するものであり︑新仏教側はこれらをあくまで
﹁宗教﹂という枠組みのなかで扱うことに︑戒律論の新たな展開が窺える︒
また戒・定・恵から構成される﹁三学﹂という伝統的な仏教実践においても吉祥は﹁所謂戒律は定恵に対する外面の消極手段﹂として理解する︒そして戒律は︑それゆえにこそ形式主義へと向かわざるを得ず︑﹁内面の良心﹂︑
﹁精神的機能の上﹂を考慮することなく︑ただ仏陀が定めた項目への墨守に向かうとして戒律自体に消極的評価を
下すのである c︒
他方︑境野黄洋による﹁旧仏教最後の光明雲照律師﹂では︑主として社会進歩の立場から戒律が論じられる︒こ
こで境野は︑旧教であるローマ・カトリックに代わってプロテスタントが起こり︑あるいは無妻主義のカトリックに代わり︑妻帯主義のルター派が起こったことを時勢自然の要求とするのであり︑仏教の戒律主義もまたこれに従
い衰退するとして︑﹁世界の大勢﹂なるものから説明を与える d︒もっとも︑かかるキリスト教の枠組みにおける宗 教革命と旧教・新教の対立から︑自らを定位する発想は︑新仏教徒が自らを﹁清教徒﹂に准えたように︑彼らに共有された論理であったことは指摘されなければならない e︒かくして境野は︑﹁人間主義の倫理﹂により厳粛一点張
りの戒律は︑﹁人間性情の全体を計算に入れて立つ宗教に其の位置を譲らなければならない﹂ことはやむを得ない
と結論付けるのであり f︑さらに彼は︑雲照の﹁十善戒﹂を今日の倫理観に照らして︑倫理説として到底人々の満足 を得ることはできないとする g︒ さて︑実は境野はこれと重なり合う主張をすでに︑﹃新仏教﹄中の論説﹁無僧論﹂︵一九〇一年︶にしている h︒同論 のなかで彼は︑﹁非妻帯﹂である旧仏教は﹁社会の進歩に背戻する﹂と断じ︑﹁世は健全の新仏教を要求しつゝあ 000000000000000
り 0︑新仏教の僧俗無差別論 0000000000︑即ち無僧論は 000000︑社会の大勢が之を現実にしつゝあること是なり 000000000000000000000﹂として︑社会進歩の枠組みで自らの主張を展開する︒その上で境野は︑﹁若し中世紀の基督教の厭世主義︑超自然主義が︑世の進歩と
共に漸次現世主義となり︑楽天主義となり︑新教が旧教に対する一大勢力となりしことの︑堕落にあらず人類の進
歩を意味すといはゞ︑これ無僧論の真理を証するものにあらずして何ぞ﹂︑として︑この趨勢を﹁進歩﹂として強調し︑さらに続けて日本列島における﹁優婆塞宗﹂たる真宗の出現を歴史の発展段階とする︒しかし他方で︑境野
の立場は︑この二つの論説に共通して︑旧仏教徒によって戒律が実践されないことを堕落とみなし︑またその枠組
旧仏教の逆襲
みで雲照を﹁旧仏教最後の光明﹂と評価しており i︑社会進歩的な立場と人間中心的なあり方から戒律の淘汰を予言した彼においても︑その認識は複雑であった︒
新仏教徒の内部においても︑例えば真言僧・融道玄︵一八七二︱一九一八︶がその過激な急進性に警鐘を鳴らした
ように︑その態度は一枚岩ではなかった︒融は仏教における三学の重要性にも関わらず︑﹁厳刻なる戒律︑禁欲︑遁世﹂を排し︑﹁世務を抛ち︑徒に座禅観法に耽るは我徒の賛成せざる所﹂と指摘する︒その上で︑﹁原始仏教﹂の
根本原理である四諦︑八正道︑十二因縁に対して否定的な立場を取る﹁新仏教徒﹂たちが︑﹁而も我徒自ら呼んで 000000000
新仏教といひ 000000︑仏教の名称を冠して怪しまざるは何ぞや 000000000000000000︒知らず 000︑吾徒の信仰を仏教たらしむる某物ありや 000000000000000000﹂とし て新仏教の思想的根拠に根本的な疑義を呈するのである j︒ 四 釈雲照から新仏教への論駁
││ 仏教改良・実践・信仰をめぐって ││
前章で考察した通り︑新仏教徒の展開する雲照批判には︑極端な禁欲主義を排した︑人間本来の自然なあり方に立脚した﹁戒律﹂批判を窺うことができた︒雲照の戒律主義に対する同様の批判は仏教者の枠組みを超えて︑例え
ばジャーナリストの田口掬汀︵一八七五︱一九四三︶が︑﹁妖僧雲照﹂︵一九〇二年︶において︑その厳格な持戒を異常
な﹁禁欲主義﹂︑﹁不自然主義﹂と断じ︑さらにはこれを宗教史の発達において︑最も初歩的なものと否認するように k︑新仏教徒に限られたものではなかった︒すなわち明治期においては︑流行語となった福沢諭吉の﹁天理人道﹂
という文言が示すが如く︑本質的な人間理解や︑社会進化の見解から戒律を批判することはしばしば見られた﹁語
り﹂であるといえよう︒そこで本章では︑前章の新仏教徒の批判に対する応答として雲照の立場を検討する︒
はじめに︑前章で検討した新仏教徒たちの戒律批判言説を︑同時代における雲照の立場と対比するならば︑彼は 既成の伽藍仏教の﹁堕落﹂を糾弾して︑﹁僧園﹂なる構想の元に寺院組織の刷新を企図していた︒さらに︑﹁真正出家弁﹂︵一九〇一年︶と題する論説にみるように l︑雲照は﹁正法﹂の名の下に︑諸宗派の壁を超えた︑真正の僧なる
ものを求めており︑ここでモデルとなったのが︑古代僧尼令や南方仏教の僧侶であり︑これを基軸として︑厳格な
持戒と三学に基づく出世間的な僧団の構築を試みたのである︒
雲照が一九〇〇年代に巻き起こった仏教革新運動に対して反発していたことは︑﹃十善宝窟﹄中の記事から容易
に窺うことができる︒例えば雲照は同誌中の﹁世の仏教曲解者を諭す﹂︵一九〇二年︶において︑﹁道徳﹂を世の進運
と共に改め︑﹁宗教﹂を﹁時代精神﹂に合わせた﹁新宗教﹂へと変革させる試みに︑一定の理解を示しながらも︑
その拠り所に疑義を呈している m︒ここで雲照は︑仏教の﹁教体﹂が如何なる時流の推移においても不変であることを強調するのであり︑﹁教体の改造﹂という発想を﹁天魔破旬﹂︑﹁魔党﹂の行為として激しく攻撃するのである n︒
かかる雲照による改革の具体像は︑第二章で論及した仁和寺の独立計画の骨子に見出すことができる︒ここでは改
革案として︑一切経を読破するための基礎を養うべく漢学を重視すべきこと︑原則として一六︑七歳から二一歳までの間に剃度式を行うこと︑実践においては四大白説・六和敬に従い︑精神教育においては︑三学録︑有部律︑瑜
伽論に従うことが︑述べられる o︒ここで雲照がその改革のスローガンとした﹁四大白説﹂は︑僧侶が時世に惑わさ れることなく︑あくまでも﹁経典﹂を究極的な実践の拠り所とすべきことを意味する p︒ その一方で雲照は︑﹁現今の科学と相背致する様な宗教は︑到底現代の思想界を支配する﹂ことはできないこと
は無論のことと認めつつ︑進化説との関係において仏教は︑﹁その塩梅は丁度階梯を登るように進化するのではな
旧仏教の逆襲
く︑物の来るに随て自由自在に進化する即ち頓変頓現すること鏡の影を映す如くである﹂として︑仏教の根本は進歩を超越した次元にあるとしてその不変性を示そうとしている q︒
さて︑雲照においても︑新仏教徒と同様に弊風の改善という点では一致しているのであり︑彼はこれを﹁洗濯﹂
﹁錆落とし﹂として仏教の核心なるものへの変革を斥けた言葉を用いて表現する r︒その上で彼は︑﹁元旦垂示︵仏教革新の機︶﹂︵一九〇〇年︶と題した論文で︑同時代における﹁革新を喋々﹂しながらも︑﹁迷謬誤惑﹂に陥る者の例
として次の四点を説いている︒すなわち︑①﹁司政者に向つて︑無用の保護干渉を仰かんと﹂する者︑②﹁外教改
革の跡に倣ふて︑妄り新主義を捏造せんと﹂する者︑③﹁徒に外学の研かくに依て︑仏理を究めんと﹂する者︑④
﹁空しく世間の慈善公益を餌として︑憚る所なく︑以て宗教改革の要議と為さんと欲す﹂る者である︒それら四点 に大別して雲照は︑﹁仏陀の聖禁﹂︑﹁宗祖の垂誡﹂に対敵するものと見なすのである s︒このなかで︑雲照は﹁仏教
の大目的﹂として貪・瞋・癡の三毒を除き︑無上菩提を獲得することにあると標榜し︑釈迦や空海︑善無畏三蔵た
ちが富貴を捨てた事例に倣った遁世によってこそ︑仏教が歴代天皇や世間からの尊崇を勝ち得たとして︑肉食妻帯や俗衣の僧侶を指弾する︒これにより雲照は︑仏教の精髄である三毒の払除と三学の双修の復活こそ仏教復興の要
であり︑この他に解脱の法ありとすることは︑﹁所謂天魔外道の党侶﹂とまで断じるのである t︒ また雲照は﹃新仏教﹄誌上においても︑青年仏教徒たちが︑﹁教学界の諸先輩﹂への取材を試みた企画﹁将来之宗教﹂︵一九〇二年︶で︑新仏教側の精神的指導者であった村上専精︵一八五一︱一九二九︶の論説﹁仏教は其れ理論に
ある乎︑将た実際にある乎﹂︵﹃太陽﹄八巻二号︑一九〇二年︶に対する論駁を試みている︒このとき︑彼が批判したの
は︑村上が同論説中の﹁現今仏教内部の状況に就いて﹂において︑加持祈禱を迷信として排したことに加え︑﹁信
仰﹂を学術の超越したところに位置づける村上の姿勢であった││すなわち村上いわく﹁余輩と雖も霊性の安慰を 得る信仰の確立は︑決して学理研究に由りて得るものにあらざるとを知る︒信仰は学理以上知解以上の処に於て得る者たるを知る﹂︑と u︒
すでに先行研究により︑個人意識や自我の問題に煩悶する青年を中心に明治三〇年代において︑﹁哲学﹂から
﹁体験﹂へとでも呼ぶべき転換が生じたことが指摘される v︒このとき︑語りの中核となったのは︑個人の﹁信仰
︵体験︶﹂の問題であった︒以後この信仰なる語をキーワードとして︑明治後期以降の﹁宗教﹂は語られていく︒そ
こで︑代表的な﹁旧仏教徒﹂と目された雲照により批判の矛先を向けられた論点が︑新仏教徒たちがその運動の中
核とした﹁信仰﹂概念であったことは注目されよう︒さらに付言すれば︑宗教への懐疑をもたらす近代的学知の普
及︑あるいは︑教育と宗教の衝突問題に際し︑﹁信仰﹂なる近代的カテゴリーを学術との﹁超越﹂したところに設けつつも︑他方でその整合性を示すことで︑両者の対立を止揚する発想は︑同時代においてよく見られたものであ
るといえる w︒ 対して雲照は︑彼がしばしば引用した﹃大智度論﹄中の句である﹁仏法大海︑信為能入︑智為能渡﹂を用い︑信仰と理論を二つに分ける発想を﹁西洋の学問の風﹂として批判する︒そこで雲照は︑﹁信解行証﹂という枠組みの
なかで︑信仰と知識が一体であり︑これが信から始まり︑順次展開することで︑最後は証に行き着くことを強調す
るのである x︒また彼は伝統的な三学の実践のなかで︑戒律中心主義が﹁定﹂・﹁恵﹂の絶対的な基礎となることを述べているが︑これは前章で扱った吉祥の主張と対照をなすといえよう︒かかる雲照の立場は出家者による﹁仏道﹂
修行という実践的な枠組みで構成されるものであり︑例えばキリスト教において︑信仰と学術の分離が要請される
旧仏教の逆襲
のは︑聖書の創生記と学問上の見解に齟齬が生じるが如く﹁理屈に合はん宗旨﹂によるものであり︑﹁道理を盡した仏教﹂には必要のないことが示されている y︒
さて︑村上の立場は︑﹁宗教﹂と哲学を中心とした﹁学術﹂との調和を図りつつも︑﹁信仰﹂を近代的な学知が捕 捉できない超越的な領域に置くことで︑両者の共存を図るものであったが z︑雲照の場合はむしろ経典中心の仏説釈義の般若の体系から﹁智﹂を捉えるものといえるのであり︑両者の間には︑埋めがたい断絶が存在する︒しかし両
者は共に信仰と学術の調和への志向という点では軌を一にしており︑雲照と新仏教側の間には︑江戸後期の枠組み
で仏道修行を積み︑その伝統的な教学の枠組みにおいて修行を重ねた老僧と︑その多くが明治二〇年代において近
代的な教育を受けた青年仏教者との間の﹁信仰﹂なる新たなカテゴリーをめぐる差異が存在したといえよう︒
おわりに
以上︑雲照と新仏教徒を題材としてその戒律と刷新の語り方を考究した︒これまで意識的に注目されることは少なかったが︑戦後草創期の近代仏教研究において︑仏教の近代化と戒律は緊密な関係を有していた︒例えば先の吉
田久一は︑近代化の指標として︑戒律実践の有する利己的な側面が乗り越えられ︑社会的な﹁新戒律﹂へと展開す
る過程を提示し あ︑吉田と並ぶ近代仏教の泰斗である池田英俊︵一九二九︱二〇〇四︶や柏原祐泉︵一九一六︱二〇〇二︶もまた︑戒律復興がもたらす﹁自戒自律の精神﹂を軸として︑近代化を語った︒そしてこれが吉田においては︑新
仏教運動を﹁新戒律﹂の体現者と見做し︑池田や柏原の場合では︑﹁精神主義運動﹂に自戒自律精神の到達点を見
出すこととなる い︒その過程において雲照のそれは一方では︑個人的戒律主義︑他方では精神主義へと至る前段階と
して位置付けられて来た︒ 太平洋戦争を直接経験した彼らは︑仏教者の戦争協力︑国家主義への傾倒︑植民地経営への協力などに対するアンチテーゼとして︑仏教の﹁近代﹂なるものを再構築し︑新しい地平の開拓を試みた学者たちである︒彼らの語り
が︑最終的に精神主義や新仏教運動へと回収されていくことも重要な問題を胚胎するが︑﹁新戒律﹂や﹁自戒自律
の精神﹂なる用語が︑前述の問題意識から生まれた分析用語であることを踏まえれば︑その政治性において近代仏教の開拓者たちはあるべき︵そしてよらざるべき︶仏教の姿を戒律問題に仮託して描いたと言えよう︒対して本稿
ではむしろ︑戒律復興運動の主導者・雲照とその対峙者たる新仏教徒が織りなす具体的な言説の様式に着目するこ
とで︑研究史の上書をはかった︒
まず︑新仏教徒たちは戒律を無批判に受容することを斥けるが︑そこでキーワードとなったのが﹁社会進化﹂︑
﹁内面の良心﹂︑﹁精神的機能﹂︑﹁人間主義﹂といった内面の領域を重視した近代的な語り方であったことを確認し
た︒そして真言宗内でも︑新仏教徒同志会のメンバーであり︑のちに高野山大学の学長・高野山真言宗管長となる
和田性海︵一八七九︱一九六二︶が︑﹃大師主義﹄︵一九二三年︶のなかで︑慈雲や雲照を例に挙げ︑﹁人間本位︑人道礼拝﹂という時代の趨勢から︑﹁戒律本位の宗教は︑滅亡すべき運命にある﹂と批判するように︑語りとして継承さ
れていったといえよう う︒ 雲照の戒律論は︑﹁四大白説﹂に表明された﹁仏典﹂の忠実な実践を背景としていた︒近世・近代仏教研究において領域横断的な成果を残した西村玲が指摘するように︑戒律実践と文献研究によって︑﹁釈尊当時の教団を実現
しようとする志向﹂は︑近世律僧の一つの特徴であるといえるが え︑自らの活動を﹁正法﹂運動と位置付けた雲照に
旧仏教の逆襲
おいても︑﹁聖典﹂や﹁開祖﹂への原理主義的な態度に基づき︑﹁近代﹂に対処しようとする発想を窺うことができる︒これは新仏教徒たちがユニテリアンの﹁自由討究﹂と呼ばれる言語実践の影響下に︑社会と結びつきながら︑
批評や合理性を重んじる態度を取ったこととは対照的である︒しかしかかる前提に依って両者の対比から︑雲照の
思想を﹁前近代性﹂のあらわれとして片づけてしまうことは︑従来の近代主義的な研究態度の追認へと行き着くだろう︒
例えば︑唯物論的な進化説理解やスペンサー的な宗教進化論を念頭に置き︑これと仏教を調和させた進化説を構
築する動向は︑﹁真如﹂や﹁仏性﹂をその本源として採り入れた井上円了︵一八五八︱一九一九︶に代表される多くの
仏教者に見られたものである︒そして︑雲照もまた︑仏教の自在性を強調することで︑進化説と﹁教体﹂の不変性との間における矛盾撞着の回避を試みていた︒また︑世の知識の進歩に応じて︑野蛮的幼児的であった良心もまた
発達するとする心理説に対しても︑雲照は良心を﹁仏性﹂と一致させ︑﹁人類の具有せる心性の良徳﹂たる良心は︑
その時代の﹁思慮分別﹂や﹁迫害﹂により変化することはないと弁じる お︒そして彼はこれにより︑﹁仏陀を以て祖とし大乗三蔵を以て教とし剃髪染衣護戒梵行を以て宗とする﹂教体の不変性を擁護するのである か︒
雲照と新仏教徒は基本的なスタンスとして︑旧来の仏教に弊風を認めた上で︑これとの断絶を志向する語り方を
共通して用いる︒その上で雲照の場合は仏教者の実践は経典に表れた仏意から普遍的に規定されるものであり︑戒律実践を軸として︑原理主義・教条主義的な発想により理想の﹁過去﹂への回帰を志向する︒他方で︑新仏教徒た
ちは在家中心の立場から︑﹁言語実践﹂を軸とし︑革新主義的な態度から仏教を﹁現在﹂へと再構築することで︑
寺院組織や僧侶制度を打破するラディカルな仏教変革を推し進めようとするのである︒この対立は︑新仏教徒たち
により﹁新・旧﹂仏教の枠組みへと読み替えられたが︑むしろ本稿でみた二つの改革運動は共に︑﹁仏教の近代﹂
をあらわすものであったといえよう︒
註︵
︵ 1︶吉田久一﹃日本近代仏教史研究﹄吉川弘文館︑一九五九年︑三五五頁︒
︵ 2︶吉田久一﹁近代仏教の形成﹂︵﹃講座近代仏教﹄第一巻﹁概説編﹂︑法藏館︑一九六一年︶︑六三頁を参照︒
︵ 年︶︑三〇頁︒ 3︶大谷栄一﹁﹁近代仏教﹂になるという物語﹂︵﹃近代仏教という視座││戦争・アジア主義・社会主義﹄ぺりかん社︑二〇一二
︵ (Oxford University Press, 2008)より︒ Donald Lopez, (penguin Books, 2002); David McMahan, 4︶
︵ 5︶前掲︑註︵3︶﹁﹁近代仏教﹂になるという物語﹂︑三〇頁︒
︵ 6︶圭室諦成監修﹃日本仏教史││近世・近代篇﹄法藏館︑一九六七年︑三五九頁︒
︵ うである︒ 一一年︶がある︒しかし同論稿は関係人物の道徳観の概括に留まっており︑具体的な雲照と新仏教の対峙への着目には乏しいよ 7︶近年この問題に取り組んだ研究に阿部貴子﹁戒律と道徳のあいだ││釈雲照から新仏教を辿って﹂︵﹃現代密教﹄二二号︑二〇
︵ 一三年︶があり︑本稿では両書を参考にした︒ 8︶雲照をめぐる伝記著作は︑主として吉田敏雄﹃釈雲照﹄︵文芸社︑一九〇二年︶︑草繋全宜﹃釈雲照﹄︵全三巻︑徳教会︑一九
︵ 日本思想史﹄七五号︑ぺりかん社︑二〇〇九年︶では中西や反省会を中心として︑新仏教運動の成立過程を検討している︒ pdfにて閲覧可能である︒また大谷栄一﹁明治期の﹁新しい仏教﹂の形成と展開││仏教青年たちのユースカルチャー﹂︵﹃季刊 20320016http://www.maizuru-ct.ac.jp/human/yosinaga/shinbukkyo̲report.果報告書︵代表・吉永進一︑課題番号︶であり 運動の言説空間││﹃新佛教﹄の思想史・文化史的研究﹄二〇一二年︶がある︒なお同書は文部科学省科学研究費補助金研究成 9︶哲学館グループを中心にこの問題を扱った研究に高橋原﹁新仏教徒とは誰か﹂︵新仏教研究会編﹃近代日本における知識人宗教 10 ︶﹁我徒の宣言﹂︵﹃新仏教﹄一巻一号︑一九〇〇年︶︑四頁︒