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ω 「 資 本 蓄 積 の 法 則 」

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(1)

いわゆる﹁構造改革論﹂の理論的性格

一﹁構造改革論﹂脊による説明

‑﹁構造改革﹂の意味・・・・::・(以上︑第十六巻第四号所載)

2

﹁構造改革﹂の具体的内容・:・(以上︑第十七巻第一号所載)

3﹁構造改革﹂の条件

開国家独占資本主義・・・:・(以上︑第十七巻第二号所載)

同政治的民主主義・

ji

::

;:

(以上︑第十七巻第四号所載)

川口戦後世界の構造的変化

山間﹁資本蓄積の法則﹂・:::人以上︑本号所載) 向 世 界 の 構 造 的 変 化

⁝山﹁平和と戦争の問題﹂

﹁構造改輩論﹂の理論的性絡

﹁構造改革論﹂者による説明(つづき)

いわゆる﹁構造改革論﹂の理論的性格(五)

( 五 ﹀

山 本

(2)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格︿

五)

一一

六 3 

﹁構造改革﹂の条件

州戦後世界の構造的変化

ω

﹁資

本蓄

積の

法則

← )  

さて︑佐藤氏がつぎに︑﹁構造改革﹂を﹁可能かつ必然﹂にするにいたった﹁第三の条件﹂として挙げているのは︑

氏の論文﹁構造改革とは何か﹂の第四節の表題そのものが示しているところの︑﹁戦後世界の構造的変化﹂である︒

この言葉は︑文字どおり︑﹁世界﹂の﹁構造﹂における﹁変化﹂を示しているはずであるが︑わが﹁構造改革論﹂者の

はるかに融通'無碍である︒というのは︑この第四節の冒頭この言葉に与える意味は︑通常の国語的用法を超絶して︑

に出

てく

るの

は︑

つぎのような文言だからである

o i l ‑

日く︑﹁第三の条件は︑努働者階級と資本家階級︑広汎な勤労

大衆とひとにぎりの独占体との聞の新たな力関係である﹂(前出︑ご二ページ)︒﹁労働者階級と資本家階級との聞の力関

係﹂とか﹁勤労大衆と独占体との聞の力関係﹂とかいう言葉は︑﹁世界の構造﹂と︑いったい︑どういう関係があるの

カ〉

﹁労働者階級と資本家階級との聞の力関係﹂ということは︑ある特定の資本主義国内部における問題であり︑

国内部における両者の力関係こそが︑およそ社会変草にとって決定的な意義をもつものであるというζとは自明では

な い か

?

一国でなく︑すべての資本主義国の労働者階級と資本家階級とを総計したものの聞における1

いや

︑杜

会主

義諸国をも後進諸国をもふくめて︑すべての国の労働者階級と勤労大衆を資本主義諸国全体の労働者階級と勤労大衆

に加算しなければならないのだが︑!ーカ関係こそが問題であって︑一国内だけをとりあげるのは問題にならないと

でも︑佐藤氏は考えているのであろうか?

いづ

れに

せよ

わが﹁構造改革論﹂者が︑﹁戦後世界の構造的変化しとい

(3)

うような︑広大な表題をかかげながら︑

その

中味

とし

ては

まず︑﹁世界﹂とはまったくちがったご園内の階級関係﹂

を持ち出してきているのは︑

これらのインスタント論者の﹁論理的﹂展開における深慮遠謀のほどをいかんなくあら

わし

たも

のと

して

まことに興味あるところである︒

ところで︑﹁戦後世界の構造的変化﹂という︑﹁構造﹂好みの表題のもとにわれわれにさしだされているご国内の

階級関係の変化﹂とは︑いったい︑どういうことかといえば︑これがまた﹁戦後﹂どころではなく︑今日からおよそ

一世紀もむかし二八六七年にマルグスが著わした﹃資本論﹄の中の人自につく一節を引き写しただけのもの︑つまり 十九世紀半ばにおいですでに貫徹していた根本的な経済法則のひとつをそのまま無断借用して述べたてているぜけの ものなのである︒このような時間錯誤的剥窃のやり方は︑これまで佐藤氏がしばしば援用しているところで︑

いま

さ ら驚くがものはないが︑右のマルクスによって発見され確認された経済法則をもってきて︑これがそのまま﹁構造の

玄化

﹂を

しかも﹁戦後の構造の変化﹂を示したものであると主張している点は︑やはり十分な吟味を加える必要が

ある︒そこで︑閣越の﹁第三の条件﹂についての佐藤氏の説明をつぎに引用し︑その意味内容がどのようなものであ

るかをすこしく究明してみることにしよう︒(﹁第三の条件﹂についての佐藤氏の説明は︑二二ページより二三ページ

にわ

たっ

て︑

たった一つのパラグラフをもって与えられているが︑

しか

し︑

その意味内容からみるとき︑あきらかに

前半と後半とのこつの部分から成立っているのであってつぎに引用するさいにほ︑これをこつのパラグラフにわ

け︑便宜上︑村口という記号をつけてかかげることにした)︒

﹁村第三の条件は︑労働者階級と資本家階級︑広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との聞の新たな力関係であ る︒この力関係の問題を明確に理解するためには資本蓄積の法則についての正しい把握が必要である︒

マ ル ク ス が

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一一

(4)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格︿

王山

﹃資本論﹄で説いている資本蓄積の法則の貫徹過程は︑もともと二面的な過程であって︑資本主義のもとでは生産力の

発展は資本の支配力の強化であり︑プロレタリアートの増大は資本の支配がますます多くの労働者をとらえ︑資本の

重圧が強くなってゆく過程である︒いわゆる資本主義のもとでの労働者階級の窮乏化とはこのことを意味している︒

しかし︑資本蓄積の過程は決して資本の支配がいついかなる場合にも無制限に貫徹され︑労働者階級が一方的に追い

つめられ︑抑圧され︑零落させられてゆく過程ではない︒何故なら︑ほかならぬこの資本蓄積の過程で労働者階級は

数的に増大してゆくだけでなく︑大工場において訓練され︑組織され︑階級意識にめざめ︑団結をつよめ︑政党をつ

くり上げ︑闘争の経験をつんでゆくのであり︑とれも資本蓄積の必然的な産物だからである︒したがって︑資本の蓄

積がすすめばすすむほど資本の支配力もつよまるが︑労働者階級の抵抗力もつよくなり︑階級闘争が激化してゆく︒

資本蓄積の法則はこのような階級対立と階級闘争の激化として貫徹してゆくのである︒

HHその歴史的な発展のあとを見ると︑資本の蓄積過程のなかで独占が成立し︑資本主義の帝国主義段階への移行が

生じ︑世界帝国主義体制が成立し︑その矛盾の爆発によって世界戦争が起り︑世界帝国主義体制の弱い一環がぬけ落

ちる

こと

によ

って

ロシアに社会主義がうち立てられるという過程をたどってきた︒さらに︑第二次大戦以後︑

と く

に最近にいたって社会主義は世界的体制に発展し︑その経済的・政治的・軍事的な実力と威信は高まり︑植民地体制

の崩壊︑全世界的な民主主義運動︑労働運動の高揚と相まって資本主義の全般的危機はいっそう激化し︑社会主義と

資本主義︑労働者階級と資本家階級との力関係は戦前とは一変し︑前者が世界政治を主動する要因となり︑戦争を阻

止し︑恒久平和をうち立て得る展望がひらかれている︒とれが第二次大戦後における世界の構造的変化とよばれる事

態で

ある

(前

出︑

一一

一一

│ニ

=一

ペー

ジ)

(5)

われわれば︑前例にならって︑右の引用箇所のうち︑

まず

前半

のハ

門に

つい

て︑

これを構成している各文章の意味内

容を検討してみることにしよう︒ただしこのい門の部分については︑佐藤氏がことさら﹁資本蓄積の法則﹂について

の正しい把握が必要であるとして︑﹁資本蓄積の法則﹂そのものについて︑当面その基本的な内容を説明しているも

のであるという事情を考慮に入れるとき︑ハ門についてのわれわれの検討は

l!

これまで佐藤氏の数多くの主張︑断定

についての吟味を通じてわれわれの得た貴重な経験にかんがみて││おのづからつぎのような三つの要素にわかれざ

るをえないのである︒それは︑まず第一化︑佐藤氏の文章そのものについて︑その意味するところをあきらかにする

こ ︾ ] ︑

いい

かえ

れば

正常な国語的用法および正常な論理的基準からみて︑佐藤氏の文章そのものは︑いったい︑どう

いうことを意味しうるものであるかということをあきらかにすること︑

であ

る︒

第こ

には

このハ刊の箇所は佐梼氏に

よれば﹁資本蓄積の法則﹂︑しかも﹁マルグスが﹃資木論﹄で説いてレる資本害額の法則﹂についての説明だそうで

あるが︑はたして︑これはマルクスが﹃資本論﹄の中で展開している﹁資本制的蓄積の法則﹄と同じものであるのか︑

あるいはこれとちがった中味のものであるのかということをあきらかにすること︑である︒そして︑最後に第三とし

ては

ここに述べられているような﹁資本書積の法則﹂の貫徹というものが︑

︑つ

古司

︑︑

L V J J T U  

わが一構造改革論﹂者の唱

えている社会主義への変革路線としての﹁構造改革﹂をばi

しか

も︑

ただこの種の一構造改革﹂のみを││﹁可能

がつ必然﹂なものとして規定するところの

寸条

件﹂

となっているかどうかということをあきらかにすること︑

で あ

る︒もし右の﹁資本蓄積の法則﹂の貫徹なるものが﹁構造改革﹂のみを唯一の﹁可能かつ必然﹂な変革路線として条

件づけるということが示されていないとするならば︑

これ

をも

って

﹁構造改革﹂を規定する

﹁第

一一

一の

条件

だと

してふりまわすことは︑まったくの見当ちがいであり︑

した

がっ

て︑

このような見当ちがいの﹁条件﹂をもってきて

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一一

(6)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

﹁構造改革﹂を合理化しようという手口は︑純然たるべテシ論法だという︑重大な事態があらわになるというととに もなりかねないのである︒したがって︑第三の要素の検討がもっとも重要かつ決定的な意義をもつものであるが︑

かし

︑第

一︑

およ

び第

二の

要素

の検

討も

いう

まで

もな

く︑

この第三の要素のそれと密接な関連をもっている︒ただ︑

第一一一の検討は︑右の﹁第三の条件﹂についての佐藤氏の説明の全体にかかわるものであり︑

したがって︑付および同

を通じての全体的検討のさいにおこなわれるべきものであるので︑

とれは︑ハ門および同についての第一および第二の

要素の検討をおえたのちに︑総括としておこなうことにしたいと考える︒

そこ

で︑

まずハ門の各文章について︑右に示したような順序で考察をム加えることにしよう︒

@﹁第三の条件は︑労働者階級と資本家階級︑広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との聞の新たな力関係であ

るJ

I‑

lこ

の文

章は

ちょ

っと

みる

と︑

なんの変哲もない︑当りまえのととを云っているようであるが︑

しか

し︑

こし注意して眺めると︑なかなか簡単なものでないことがわかる︒これをすこしく文法的に整理してみよう︒この文

且阜

の士

山吉

岡は

いうまでもなく﹁第三の条件﹂であり︑述語は﹁力関係﹂である︒この﹁力関係﹂という述語に﹁:::

と:::との聞の﹂という限定句と﹁新たな﹂という形容詞とが附けられている︒そこで問題になるのは︑当然に︑﹁:・

‑:と:::との間の﹂という限定句と﹁新たな﹂という形容詞とのこつである︒というのは︑そのほかにあるのは︑右

の主語と述語だけであるから︒

これは︑﹁労働者階級と資本家階級との閣の﹂という文句と︑﹁広汎な勤労大衆と ひとにぎりの独占体との間の﹂という文句とを同じ意味合いのものとしてここに重ねて記し︑はじめの文句の﹁との

まず右の限定句についてみると︑

間の﹂という言葉を省略したものだというζとは︑文法上︑あきらかである︒

つまり︑この﹁構造改革論﹂者は︑﹁労

(7)

働者階級と資本家階級との間の力関係﹂と︑﹁広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との間の力関係﹂という︑二つの

文句

は︑

まったく同じ事柄を表現しているものとして︑とこに並列して用いていると考えられるのである︒このこと

はま

た︑

つぎに出てくる﹁新たな﹂という形容詞の用い方によっても︑動かしがたく裏付けられているようである︒

とい

うの

は︑

もし︑﹁労働者階級と資本家階級との問の力関係﹂と﹁広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との聞の

力関

係﹂

とい

う︑

ニつの文句のそれぞれの意味内容がちがっているならば︑文法上︑右のように同じひとつの﹁新た

な力関係﹂という言葉に両者がそのまま並べて直接に結びつけられるということはありえないと考えられるからであ

る︒このようにして︑正常な国語的用法からすれば︑当然に右のこつの文句は同じ意味内容のものを指す別箇の表現

にすぎないと見られるのである︒しかし︑これまでの検討を通じて︑わが﹁構造改革論﹂者たちが正常な国語的︑論

理的基準などをつねに軽く超絶してやまないものだということをとくと思い知らされたわれわれである︒ことによる

と︑右の二つの文句はそれぞれ異なった内容のものとしてここに並べて書かれているやもしれないのであって︑まさ

に速

断は

禁物

というところである︒そこで︑

われ

われ

とし

ては

正常な国語的用法に照らしてみたばあい当然意味

すべきはずのところを以上のように指摘するにとどめ︑右の二つの文句がはたして同じ意味内容のものかどうかとい

う点の穿撃は後段にゆずることにしたいと思う︒

つぎに注目されるのは︑﹁新たな﹂という形容調というととになる︒﹁新たな力関係﹂という言葉は︑いうまでもな

く︑

﹁旧

来の

これまであった古い力関係﹂というものを前提とするものであり︑まだとの﹁古い力関係﹂にたいして

それがすでに変化して現在はこれとちがった﹁新たな力関係﹂がそこに生じているということを示すものであって︑こ

のように﹁古い力関係﹂に対する現在の﹁力関係﹂の関連を示すところにこそ﹁新たな﹂という規定の存在理由があ

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

(8)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一 一 一

る︒

とこ

ろで

この﹁古い力関係﹂の﹁新たな力関係﹂への変化はいつ生じたかといえば︑それは第二次大戦を境と

してだとされている︒これは︑第四節の表題の一戦後﹂という一一一一日葉が示しているとおりである︒

そこで︑右の限定句および形容詞について以上考察してきたところを考慮に入れるならば︑さきの第一の文字その

もの

につ

いて

その意味内容を変えたり損じたりすることなく︑むしろその意味内容をよち克分な形で︑したがって

またより正確に表現するものとしてつぎのような数箇の文章によってこれをおきかえてみることが当面適切でもあ

り︑また必要でもあると考えられるのである︒

﹁州第二次大戦までは︑﹁労働者階級と資本家階棋との間﹂に︑ある一定の力関係!いわば﹁古い力関係﹂が存在

して

いた

何第二次世界大戦までは︑﹁広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との間﹂に︑ある一定の力関係│﹁古い力関係﹂

ーが存在していた︒

川と

ころ

が︑

t

品 ¥ ー 「

王室、

ト ノA

ら 芸品、

言 、 警 :

正 法 、

量 、 型 、

界、

大、

戦、

そ、

境、

と、

し、

て、

の貫徹のおかげで

制し

かも

同第二次大戦まであった﹁労働者階級と資木家階級との間﹂の﹁古い力関係﹂ば︑戦後になって﹁新たな力関係﹂

によ

って

とってかわられるようになった︒

村第二次大戦まであった﹁広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との間﹂の﹁古い力関係しは︑戦後になっで﹁新

たな力関係﹂によって︑とってかわられるようになったJ

この

よう

に︑

より正確な表現におきかえてみると︑第一のす︿章の意味内容はきわめてはっきりしたものとなってく

(9)

る︒そこで︑残るところは﹁力関係﹂という一言葉の意味をできるだけ正確にとらえ︑その上で右の諸文章の示してい

る客観的な意義をあきらかにすることが︑われわれの課題となる︒

︑︑

だとえば︑﹁労働者階級と資本家階級との間の力関係﹂というときの﹁力関係﹂という言葉は︑いったい︑どういう

ことを意味しうるであろうか?﹁労働者階級と資本家階級との聞の力関係﹂という文句と﹁労働者階級と資本家階級

との問の対抗滝係﹂という文句とをくらべてみたばあい︑前者の﹁力関係﹂という言葉が︑後者の﹁対抗関係﹂とい

う言葉の示す一定の階級対立閣係の上にのみ成り立つ事柄を示したものであるということは︑異論のないところであ

ろう

が︑

しかし︑前者の﹁力関係﹂の﹁関係﹂なるものは︑後者の﹁対抗関係﹂の﹁関係﹂と同じ﹁関係﹂という単語

であ

りな

がら

けっして同じものではないということも容易に推察されるのである︒これら二つの一言葉│﹁力関係﹂と

﹁対

抗関

係﹂

lにおいて︑それぞれ力点は︑﹁カ﹂と﹁対抗﹂の上におかれているのでゐって︑﹁力関係﹂とはきさに

﹁力の関係﹂であり︑﹁対抗関係﹂とは﹁階級対立の関係﹂であって︑﹁関係﹂というき

ある

とい

え︑

両﹁

関係

はま

った

く質

の田

荷な

った

もの

まったく意味のちがった﹁関係﹂だといわなければならな

い︒

この

こと

は︑

この両﹁関係﹂をわれわれに身近な通俗的用語に結びつけたものを例にとって考えれば︑さらによ

りはっきりしたものとなる︒たとえば︑﹁アメリカとソ同盟との問の力関係﹂と︑﹁同じ両者の閣の対立関係﹂という︑

二つの言葉をくらべてみるがいい︒前者は︑﹁アメリカの力がソ同盟の力にたいして︑きわめて圧倒的であるか︑ある

いは五分五分であるか﹂という力の関係︑つまり力の釣合あるいは比例ハぐ巾同町包宮町)を示すものにほかならないが︑

これにたいして後者は︑アメリカとソ同盟とが対立している関係そのものを示すものにすぎない︒そこで︑

この

よ﹀

な意味をもっ﹁力関係﹂という言葉をば︑さきの﹁労働者階級と資本家階級との間﹂と﹁広汎な勤労大衆とひとにぎ

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五﹀

(10)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

りの独占体との間﹂との両ケi

スに

あて

はめ

れば

つぎのような事柄が当面問題の中心を占めていることがわかる︒

それ

は︑

つまり︑﹁労働者階級のカが資本家階級の力にたいして︑

より

強い

のか

より弱いのか︑あるいは五分五分で

ある

のか

﹂︑

および︑﹁広汎な勤労大衆の力がひとにぎりの独占体の力にたいして︑

より

強い

のか

より

弱い

のか

︑ あ

るいは五分五分であるのか﹂というような︑力の釣合︑より正確に表現すれば︑力の量的比較である︒

以上によって﹁力関係﹂という言葉のうちの﹁関係﹂という文字の示す意味はほぼあきらかとなったが︑まだ解決

を要する問国躍が残っている︒それは︑﹁力﹂という文字の意味である︒﹁力﹂にはいろいろのものがあり︑﹁物理的力﹂

もひとつの﹁力﹂であり︑﹁理解力﹂というのもりっぱにひとつの﹁力﹂である︒いったい︑﹁労働者階級と資本家階

紋との聞の力関係﹂というばあいの﹁力﹂とは︑どういう﹁力﹂を指しているのであろうか?

﹁力関係﹂の﹁力﹂という文字の意味をとらえるためのひとつの手がかりは︑さきに引用した佐藤氏の論説そのも

のの中にも見出されるようである︒佐藤氏が力という文字を配している言葉を全部拾いあつめてみると︑

の言葉が得られる叫!│﹁資本の支配力﹂︑﹁労働者階級の抵抗力﹂︑﹁経済的・政治的・軍事的な実力﹂︒ つぎの三つ

(却

)な

お︑

その

ほか

に﹁

生産

力﹂

およ

び﹁

社会

主義

と資

本主

義︑

労働

者階

級と

資本

家階

級と

の力

関係

﹂と

いう

こつ

の言

葉が

出さ

れる

が︑

これ

ら二

つの

言葉

をこ

こに

ふく

めて

みる

とと

が当

固ま

った

く無

意味

であ

ζと

はい

うを

また

ない

であ

ろう

なおのちに考察されるはずの第二以下の文章の中に

おかれているものであるが︑当面﹁力関係﹂の﹁力﹂の性質を見定めておく必要上︑ここで簡単な考察を加えておく 右の三つの言葉は︑いずれも第一の文章の中には見出されず︑

ことにしよう︒まず﹁支配力﹂という言葉は︑どういうものか︑

︑ つ

R

︑ ︑

v

ふ ︐ ︐

︑ νそれは﹁力関係﹂の﹁力﹂の性質を示す

ものとして適当なものである︒たろうか?それがきわめて不適当なものであることは︑あきらかである︒なぜならば︑

(11)

第一に︑﹁支配する﹂というような性質をもった﹁力﹂とか﹁支配する﹂面での﹁力﹂とかいったようなものは︑およ そこの世の中に存しえないからである︒第こには︑﹁支配する﹂とか﹁支配的﹂という言葉は︑すでにそれだけで︑っ まり︑﹁力﹂という文字の助けをかりなくとも︑なんらかの性質の﹁力﹂について一方が他方を圧倒していることを

りっぱに表示しているものであって︑

それ

らは

独自

に︑

ある一定の﹁力﹂についての﹁力関係﹂を︑

しかも特定の

﹁力関係﹂を示しているからである︒このばあい︑﹁支配する﹂という性質の﹁力﹂があるなどと妄想をたくましくす

る論者がいるとすれば︑

その者にたいしては︑﹁支配的﹂という言葉の意味をば右のような﹁支配するという性質を もった力﹂とか﹁支配する面での力﹂という言葉を用いて説明するように求めてみるがいい︒そこに得られる唯一の

て一方が他方を圧倒している関係である︑

つぎのとおりとなるはずである︒││日く︑﹁支配的﹂とは︑﹁支配する﹂という性質をもった﹁力﹂につい

と︒なんと美事な︑強められたトウトロ︑ギーではあるまいか︒さらに︑第

答え

は︑

三には︑当面の問題は︑

まさに一方の側の者の﹁力﹂がこれに対立する他方の側の者の﹁力﹂にたいして︑

より強い

か︑

より

弱い

か︑

あるいは五分五分であるかという点にこそあるのであって︑

いうものかを問われてそれは﹁支配する力﹂だとか﹁支配的な力﹂だなどと答えたとすれば︑

この

ばあ

い︑

その﹁力﹂の性質はどう

このような答えはおよ

そ問題にすらされえないであろうからである︒まあこころみに︑﹁支配力﹂という独得な﹁力﹂がこの世にあるもの

とし

て この﹁支配力﹂をつかって問題の﹁力関係﹂とはどういうものかをわかりやすく平易に説明してみたまえ︒

それ

は︑

つぎのようなことにひとりでになるのである︒ーーー日く︑ここでの﹁力関係﹂とは︑一方の側の者の﹁支配

力﹂

が︑

これに対立する他方の側の﹁支配力﹂にたいして︑きわめて圧倒的(つまり支配的)であるか︑あるいは五

分五分であるかという︑﹁支配力﹂の量的比例のことである︑

と︒なんと恐れいった迷文ではあるまいか︒要するに︑

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

(12)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

﹁支配力﹂などという﹁力﹂は︑およそこの地球上には存在しないのであって︑このありもしない︑ただの妄想の産物

にすぎない﹁支配力﹂などという言葉を配して﹁力関係﹂を説明しようとこころみる手合は︑

まことに悪質な詰弁家

とい

うほ

かな

い︑

ということである︒

右と同様のことは︑﹁抵抗力﹂という言葉についても︑いわれなければならない︒﹁抵抗力﹂という特定の性質の﹁力﹂

があるのではなくて︑たんにある特定の性質の﹁力﹂のはたらく方向が二方の者の﹁力﹂のそれが︑他方の者の﹁力﹂

のそれと反対であって両者がたがいに真つこうから対立している関係にあるときに︑一方の者の﹁力﹂にたいして他

方の者の対立する﹁力﹂の強さ︑その度合を﹁抵抗力﹂と名づけるのである︒要するに︑﹁抵抗力﹂とは︑一方の側の

者の﹁力﹂にたいして︑これに直接敵対する他方の側の者の﹁力﹂の割合がどれだけかということを︑いいかえれば︑

対抗関係のもとでの一方の者の﹁力﹂の強さを示すものであって︑その問題の中心にある力そのものについて︑それ

がどのような性質のものかを示すものではけっしてないのである︒このことは︑

つぎ

の事

実︑

つまり︑抵抗力という

言葉は︑﹁物理的な力﹂というある特定の性質の﹁力﹂についても︑﹁軍事的な力﹂という別の特定の性質の﹁力﹂に

ついても︑あるいはその他﹁経済的な力﹂等々といった特定の性質の﹁力﹂について︑

その

﹁力

﹂の

はた

らく

方向

を︑

つまり対抗関係のもとでの強さを示す必要があるばあいには︑つねに使用されているという事実に照らしてみても︑

うたがう余地がない︒要するに!︑﹁抵抗力﹂というような﹁力﹂は存在しないのであって︑このようなありもしない

﹁抵抗力﹂というもので問題の﹁力関係﹂の﹁力﹂そのものの特質を説明することは︑とうていできたものではないの

であ

る︒

そこ

で︑

さきに挙げた三つの言葉の中から︑ありもしない二つの﹁力﹂││﹁支配力﹂と﹁抵抗力﹂l

ーを

片づ

(13)

てしまうと︑残るのは﹁経済的・政治的・軍事的な実力﹂という言葉だけである︒

つま

り︑

ここには﹁経済的な力﹂︑

﹁政治的な力﹂および﹁軍事却な力﹂の三つが示されている︒問題ポ自然科学上の﹁力﹂ではなくして︑社会的な﹁力﹂

にかかわるものであり︑しかも︑当面の中心問題が﹁労働者階級と資木家階級との間一の︑

および﹁広汎な勤労大衆 とひとにぎりの独占体との問﹂の︑まさに﹁力関係﹂にあるという点を考慮に入れるならば︑とこでの﹁力﹂がほか

ならぬ右の三つの﹁力﹂│││﹁経済力ヘ﹁政治力﹂および﹁軍事力﹂l

以外にありえないということは︑容易に理 解されるのである︒中心問題の﹁力関係﹂における﹁力﹂とは︑まさに︑﹁経済力﹂︑﹁政治力﹂および﹁軍事力﹂のう

へ川崎)

あるいはそのうち二つまたは三つをあわせたものでなければならはい︒

ちのどれかひとつ︑

(却)もちろん︑﹁労働者階級と資本家階級との問﹂で問題になりうる﹁カ﹂としては︑とこに挙げた﹁経済的な力L

﹁政

治的

力﹂および﹁軍事的なカ﹂のほかに︑なお︑たとえば﹁強力﹂(丘町のめ君田

F

志向

国語

巾)

のよ

うな

もの

があ

る︒

この

﹁強

力﹂

は︑

右の三つの﹁力﹂と密接な関連をもっているものであるが︑しかしまたそれ自身独自の意義をもつものであることが指摘され

ねばならない︒ただし︑この﹁強力﹂は︑右の三つの﹁力﹂とはちがって︑一定期間ひきつづいて在る状態を︑いいかえれば

﹁力関係﹂在示すものとはなりえないのであって︑むしろ︑﹁経済的な手段﹂︑﹁政治的な手段﹂および﹁箪事的手段﹂を用いて

敵対者を強制的に自分の意志に服従させる力を︑いいかえれば﹁強制力﹂な示すものである︒たとえば︑ゼネ・ストは﹁経済

的政治的な手段﹂による﹁強力﹂を示すものであり︑武装蜂起は﹁軍事的な手段﹂による﹁強力﹂を示したものという乙とが

できる︒﹁強力革命Lとは︑いうまでもなく︑﹁強力﹂による﹁革命﹂であるが︑ζのぼあいの﹁強力﹂は﹁軍事的な子段﹂に

よる﹁強力﹂︑いいかえれば﹁武力﹂にかぎられるのであり︑しかも︑この﹁武力﹂はまったく厳格な規律と整然たる組織のみ

が発揮しうる﹁武力﹂にほかならない︒﹁強力革命﹂とは︑まさに︑厳格な規律と徴底した階級的自覚とに貫ぬかれた秩序整

然たる﹁武装組織﹂による﹁革命﹂をこそ指して云ったものである︒ところが︑わが国の自称マルクス・レlニシ主義者の中

には︑支配階級の意図的用誌にまんまと乗って︑﹁強力革命﹂のととを﹁暴力革命﹂などと呼び︑つ暴力革命﹂という文字をつ

かってしややへったり書いたりしている手合が圧倒的に多いのである︒﹁暴力﹂では﹁革命﹂はとうてい問題とはなりえないの

いわゆる﹁構造改革論﹂の理論的性格(五﹀

一二

(14)

いわゆる﹁構造改革論﹂の理論的性格(五﹀

であって︑そもそも﹁暴力革命﹂などといろ言葉を口に出したり︑書いたりしている連中は︑そのこと︑だけで︑かれら自身︑

革命とはどういうものかというととについて︑これっぽっちも考えてみたことがないか︑あるいは品乱した粗雑な観念しかも らあわしていないということを告白しているものといわなけれ︑はならない︒右の﹁強力﹂については︑いづれ行論においてふ れるところがあるはずであるが︑ここでは︑たとえ﹁力﹂そのものとしては﹁強力﹂もひとつの﹁カ﹂であるが︑しかし当宿 の問題にかんするかぎり︑﹁強力﹂をとりあげることは︑だんに混乱を持ちとむだけでおよそ無意味であり︑したがってさしあ たりことでは問極にしないということを述︑へておくにとどめる︒第二次大戦前における労働者階級の﹁強力﹂と資本家階級の

﹁強力しとの関係とか︑戦前における﹁強力﹂と戦後におじる﹁強力﹂な

Y﹂という文句そのものがおよそ無意味なものである

ことはいまさら云うまでもないところであろう︒

﹁措法改革﹂の﹁第三の条件﹂を説明するにあたって︑佐藤氏はその中心に﹁力関係﹂なるものを据えながら︑それ がいかなる﹁カ﹂についての﹁力関係﹂なのかという︑肝腎要めの説明はこれっぽっちもすることなく︑ただやたら と﹁支配力﹂とか﹁抵抗力﹂という﹁学術的﹂言葉を連発し︑あげくのはてに﹁経済的・政治的・軍事的な実力﹂な

どという通俗語を行きあたりばったり式に書きつらねている始末であって︑われわれとしては︑やむをえず︑﹁力関

係﹂の﹁力﹂がどのようなものかということについての独自の検討をおこうな手数をはらわなければならない破自に

おちいった次第であり︑

その労多くして効すくない検討の結呆あきらかにされた﹁力﹂は︑右の通俗語が無意識的に 的中しているところの︑﹁経済力﹂︑﹁政給方﹂および﹁軍事力﹂という︑一一一つの﹁力﹂にほかならなかったのである︒

さてそこで︑右の三つの﹁力﹂をば︑さきの第一の文章にあてはめて︑その客観的意味を考えてみることが必要と

なる

R

J

J

/ J /

?さきにわれわれが佐藤氏の原文のこ乙では︑佐藤氏の原文そのものに直接あてはめることをやめて︑

意味内容をより正確に︑

できるかぎり十分な形に表現した当の解説的文章(木稿八ページ参照)にあてはめて考察す

(15)

ることをしなければならない︒というのは︑その方がはるかに合目的的であり︑論理的により的確な結論をひきだす

ことができるからである︒

いる

かと

いう

こと

は︑

まず︑﹁経済力﹂という﹁力﹂について︑﹁労働者階級と資本家階級との間﹂の﹁力関係﹂はどういうことになって

さきの仰と刷にこの﹁力﹂をあてはめるととによって︑容易にこれを知ることができる︒その

ばあいに得られるのは︑およそつぎのような文章となるであろう︒

﹁労働者階級の経済力とこれに対する資本家階級の経済力との関係は︑第二次大戦までは︑前者がきわめて劣勢︑

後者がきわめて優勢であったが︑第二次大戦を境として戦後は︑まったく﹃新たな関係﹄にかわった︒つまり前者が

より優勢に後者がより劣勢に︑前者が後者を圧倒するほどになったのであるJ

いいかえれば︑社会的な生産手段︑生活

手段および貨幣をどの程度まで所有し︑自由にこれを処分しうるかということを示すものである︒したがって︑資本

主義社会の存続を前提するかぎり︑労働者階級の経済力が資本家階級の経済力にたいしてくらべものにならないほど ところで︑﹁経済力﹂とはなにか?それは社会的富を自由にしうる程度︑

劣悪であることは︑いまさら云うまでもないところであり︑第二次大戦以前と以後とを問わず︑﹁経済力﹂について﹁力

関係﹂が﹁新たもの﹂にかわるなどということは︑絶対にありえない︒このことは賃銀労働者階級が無産のプロレタ

リアの階級にほかならないことを考えただけで︑自明である︒さらに︑労働者階級に中間諸階層を加えて﹁広汎な勤

労大衆﹂をとってみても︑

勢で

ある

こと

しか

もこ

のこ

とは

その﹁経済力﹂が︑﹁ひとにぎりの独占体﹂の﹁経済力﹂にくらべて問題にならないほど劣

およそ独占資本主義の存立するかぎり︑第二次大戦以前でも以後でも︑まったく

変りがないことは︑右と同様︑明白である︒

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一 一 一 九

(16)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一 一 ニ

O

要するに︑﹁経済力﹂についてみたばあい︑﹁労働者階級と資本家階級︑広汎な勤労大衆とひとにぎりの独占体との

間﹂の﹁力関係﹂は︑戦前戦後をつうじて本質的な変化はまったくなく︑いぜんとして︑﹁労働者階級︑広汎な勤労大

衆﹂の﹁経済力﹂ははるかに劣悪であり︑﹁資本家階級︑

ひとにぎりの独占体﹂の﹁経済力﹂ははるかに優勢であるとい

うのが動かしがたい事実であり︑しかもそれが︑経済法則に合致した唯一の普遍的事実なのである︒それゆえ︑﹁経

済力﹂についてみて両者の﹁力関係﹂が戦前の﹁古い関係﹂から戦後の﹁新たな関係﹂にとってかわられたと主張す

ると

すれ

ば︑

このような主張は根も葉もない空論であり︑ためにする駄ぼら以外のなにものでもないといわなければ

なら

ない

では︑右の﹁力関係﹂の﹁力﹂に︑﹁政治的な力﹂をあてはめてみたならば︑どういうことになるであろうか?

さきと同じようにして第一の文章の意味内容を

E

確に表現し直せば︑

つぎのとおりである︒

﹁労働者階級の政治的な力とこれに対する資本家階級の政治的な力との関係は︑第二次大戦までは︑前者がきわめて

劣勢︑後者がきわめて優勢であったが︑第二次大戦を境として戦後には︑まったく﹃新たな関係﹄にかわった︒つま

り前者がより優勢に︑後者がより劣勢になり︑前者が後者を圧倒するほどになったのであるJ

はたして︑これは事実に合致しているであろうか?敵対する両者の﹁政治的な力﹂の度合はつぎの事柄に注目

することによって比較的容易に︑これそっかむことができる︒それは︑簡単にいえば︑国家権力を掌握しているのはど

ちらの側かということであり︑これをやや詳しくいえば︑政府を握っているのはどちらの側か︑議会で多数を制してい るのはどちらか︑裁判所︑警察︑軍隊を握っているのはどちらか︑ということである︒この点からみるとき﹁政治的な力﹂

についての﹁力関係﹂が︑戦前戦後を通じて本質的な変化はまったくないこと︑いぜんとして﹁労働者階級︑広汎な勤

(17)

労大衆﹂の﹁政治的な力﹂はきわめて劣勢であり︑﹁資本家階級︑ひとにぎりの独占体﹂の﹁政治的な力﹂はきわめ

て優勢であるという事実は動かすことができなレものであることは︑あきらかである︒このことは︑右の﹁力関係﹂

の﹁力﹂に﹁軍事的な力﹂をあてはめてみてもまったく同様であり︑むしろこのはあいには︑両者の﹁軍事的な力﹂

を比べること自体︑およそ無意味だということも︑おのずからあきらかである︒

以上︑﹁経済力﹂︑﹁政治力﹂および﹁箪事力﹂というこのばあい考えられるかぎりの三つの﹁力﹂について︑両者の﹁力

関係﹂を考察してきたところでは︑両者の聞に﹁新たな力関係﹂などまったく存する余地がないこと︑あるのは前者の

っ て ︑

不動の釣合におけるたんなる量的変化にすぎないこと︑しだが

このありもしない﹁新たな力関係Lをもって﹁第三の条件﹂と称することは︑事実無根のでっちあげではない と後者の﹁より優勢な力﹂という︑

﹁よ

り劣

勢な

カ﹂

か︑ということが︑おのづから結果として生じてきたように考えられる︒ところが︑もし︑との﹁新たな力関係﹂が

存在しないとなれば︑﹁構造改革﹂はその﹁第三の条件﹂を奪われることになり︑ぞれ自体の存立も危くなるのであ

って

わが﹁構造改革論﹂者としては︑是が非でも右の﹁新たな力関係﹂を論証しなければならないということにな

る︒ここで論証に用いられるのはマルクス主義理論を発展させたと自称する輩に形式土ふきわしく︑マルグス経済

理論の中のもっとも重要な一部分︑﹁資木蓄積の法則﹂である︒

②﹁この力関係の問題を明確に理解するためには資本蓄積の法則についての正しい把握が必要である︒﹂

そこ

で︑

わが佐藤氏がどのように﹁資本蓄積の正しい把握﹂宕示しているか︑そして︑この種の﹁正しい把握﹂に

よってはたして右の﹁新たな力関係﹂が首尾よく起死回生の機会に恵まれることになるかどうかということを︑氏の

説明に即して考えてみることにしよう︒

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

(18)

いわ

ゆる

﹁構

造改

輩論

﹂の

理論

的性

格(

王)

はじめに︑﹁資本蓄積の法則﹂にかんする佐藤氏の説明をかかげることにしよう︒

③﹁マルクスが﹃資本論﹄で説いている資本蓄積の法則の貫徹過程は︑もともとニ面的な過程であって︑資本主義

のもとでは生産力の発展は資本の支配力の強化であり︑プロレタリアートの増大は資本の支配がますます多くの労働

者をとらえ︑資本の重圧が強くなってゆく過程である︒いわゆる資本主義のもとでの労働者階級の窮乏化とはこのこ

とを意味している︒しかし︑資本蓄積の過程は決して資本の支配がいついかなる場合にも無制限に貫徹され︑労働者

階級が一方的に追いつめられ︑抑圧され︑零落させられてゆく過程ではない︒何故なら︑ほかならぬ己の資本蓄積の

過程で労働者階級は数的に増大してゆく︑たけでなく︑大工場において訓練され︑組織され︑暗扱意識にめざめ︑団結

をつよめ︑政党をつくり上げ︑闘争の経験をつんでゆくのであり︑これも資本蓄積の必然的な産物だからである︒し

たがって︑資本の蓄積がすすめばすすむほど資本の支配カもつよまるが︑労働者階級の抵抗力もつよくなり︑階級闘

争が激化してゆく︒資本蓄積の法則はこのような階級対立と階級闘争の激化として貫徹してゆくのであるJ

さき

に述

べた

よう

に︑

われ

われ

は最

初に

ζとに一不されていることの国語的︑論理的意味を検討してみよう︒キ町ず

はじめに注目されるのは︑﹁資本蓄積の法則﹂とはどういうものかということについての説明が全然見当らないこと

である︒佐藤氏は︑自身︑三﹂の力関係の問題を明確に理解するためピは資本菩積の法則についての正しい把握︑が必要

である﹂とカ説強調していながら︑肝腎の﹁資本蓄積の法則についての正しい把握﹂を示すことを惜しんでいるので

ある

︒そ

して

たんに︑﹁資本蓄積の法則﹂についての説明が全然舎かれているといろだけでなく︑

およ

そ﹁

資本

害時

(19)

の法則﹂という言葉そのものも完全にその姿を消してしまって︑最後にちょっと韻を出す程度のものになっているの である︒では︑﹁資本蓄積の法則﹂のかわりにここに出てくるものはなにかといえば︑それは︑﹁資本蓄積の法則の貫

(羽

)

徹過程﹂︑﹁資本蓄積の過程﹂︑﹁資本菩積﹂の三つである︒このコ一つの言襲をよく読みくらべ︑さらに︑右の③の中の

ひとつを除く他のすべての文章が﹁過程﹂についての説明であり︑﹁過程﹂という文字を主役にして成り立っている という事実を見てみるならば︑佐藤氏がここで問題としているのは︑﹁資本蓄積の法則﹂ではなく︑

まさに﹁資本蓄積

の過

程﹂

︑ やさしくいうならば一資本が蓄積されるということ﹂にほかならないことは︑うたがう余地なく明白であ

( ω )

る ︒

この﹁資本蓄積の法則の貫徹過程﹂という︑まことに味わいのある言葉に注意されたい︒﹁法則﹂とは︑ごく一般的にいえ

ば︑ある一{)止の関係(﹁原因﹂)があればそこから必然的にある一定の関係会結果﹂)が生ずるという︑必然的な関連あるいは必然的な過程を指して云ったものである︒したがって︑﹁法則﹂については︑その内容つまり必然的な過程が正しく把握されているならば︑問題になるのは︑﹁法則﹂の﹁貫徹﹂そのものである︒とこで﹁法則の貫徹過程﹂などという言葉をつかったりするのは︑およそ﹁法則﹂とはどういうものかという基本的観点がすっかりぼやけていること︑つまり︑﹁法則﹂についての正

しい把握が完全に紋けていることをみずから表明しているものである︒﹁法則の貫徹過程﹂という言葉の中の﹁法則﹂という文

字を︑こころみに﹁必然的過程﹂におきかえてみるがいい︒││﹁必然的過程の貫徹過程﹂!要するに︑﹁資本蓄積の法則の貫徹過程﹂という︑素人だましの珍語は︑﹁資本蓄積の過程Lということの﹁構造改革﹂的表現ピすぎないのであって︑そこ

に意識的に挿入された﹁法民の貫徹﹂という文字は︑これらイシスタント論者の得意とする﹁構造改革﹂的調味料にほかなら

ないというわけである︒

そこで︑右の点を念頭において︑各文章ごとに注釈を加えてみよう︒

﹁資本蓄積の貫徹過程は︑もともとニ面的な過程であって

J I l l

これば正常な国語的表現になおすと︑つぎのよう

いわゆる﹁構造改革論﹂の理論的性格(五)

一 一

(20)

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

にな

o J

資本蓄積の過程は二面の過程から成り立つ過程である︒つまり︑その一面は﹁資本の支嗣力の強化︑資本

め重庄の強化﹂という過程であり︑他の一面は﹁労働者階'級の抵抗力の強化﹂という過程であり︑この両面をあわせ たものが資本苔積の過程である︑というわけである︒まあ︑考えてもみたまえ︑資本蓄積とはどういう過程か?と訊

かれ

て︑

それは︑﹁資本の支配力﹂の強化という一面の過程を︑﹁労働者階級の抵抗力の強化﹂という他の一面の過程

のと

この二つをあわせたものだと答えたとしたならば︑

いったいにどうであろう?

この解答者が︑過程そのもの

と過程から必然的に土ずる暫結果とをみごとに混同していることは︑あまりにも明白ではないか?

過程そのものと

その過程から必然的に生ずる諸結呆との区別がつかず︑諸結果そ並ベそしてこれこそが過程そのものの内容であると

説明するのは︑見えすいた論理的ペテンではあるまいか︒

﹁資本主義のもとでは生産力の発展は資本の支配力の強化でありよ

l l

i

﹁資本主義のもとでは﹂生産手段も生活手

段も貨幣もすべて資本家階級の所有に属し︑生産手段も労働力つまり賃銀労働者もたんに資本の実存形態にすぎない のであって︑そこでの生産力はつねに資本の生産力として実存する︒したがって﹁資本主義のもとでは生産力の発展﹂

ということは︑当然に︑﹁資本の生産力の発展﹂にほかならないのである︒そとで︑﹁生産力﹂などという︑陵昧かつ開通

無碍な一一一日葉のかわりにその内容をより厳密正確に表現する﹁資本の生産力﹂という言葉をおさ︑さらに︑﹁資木主義﹂

とは{資本の支配する﹂とζろであるという内容規定をそえて︑右の一句をより正確に示ぜば︑

つぎ

のよ

うに

なる

il

﹁資本の支配する資木主義のもとでは資本の生産力の発展は資本の支配力の強化であり︑﹂︒

このようにより正

確な表現におきかえてみると︑右の一匂の内容がすこ︑ぶる問題あるものだということがよくわかる︒さき忙﹁力関係﹂

なるものについてたちいった検討を加えたさいにあきらかにされたとおり︑﹁資木の支配力﹂などという﹁力﹂はこの

(21)

世の中には存しないのであって︑﹁資本の支配力﹂とは﹁労働者階殺の力にたいして資本衆階級の力がより優勢であ り︑圧倒的である﹂ということの混乱した表現にすぎない︒ところで︑﹁労働者階級の力﹂と﹁資本家階級の力﹂との

﹁力

関係

﹂に

おい

て問

題と

なる

﹁力

﹂と

はな

にか

とい

えば

︑ それは︑さきにみたように︑﹁経済的な力﹂︑﹁政治的な力﹂

および﹁軍事的な力﹂のうちのどれかひとつ︑あるいは︑二つないしさ一つをあわせたものであるが︑﹁資本の支配力﹂

という一一言葉の一般的意味からすれば︑そこでは﹁政治的な力﹂が中心的な地位を占めるものと考えるのが︑適切とお もわれる︒だが︑﹁資本の生産力﹂という言葉は︑﹁経済的なもの﹂のみそ︑

しかも﹁経済的な力﹂そのものではなく

﹁経済的な方﹂に結びついたひとつの﹁力﹂を︑

それも﹁階級のもつ力﹂ではなく︑

むしろ生産手段と労働力との結

合そのものがもっ﹁物質的生産力﹂を描すものである︒

したがって︑﹁物質的生産力の発展﹂と﹁階級間の力関係の発 展︑資本の支配力の強化﹂とは︑直接なんのかかわりもないものといわなけれぽならない︒

いわんや︑この両者を直

接同一のものとみなして︑﹁生産力の発展﹂はとりもなおさず︑そのまま﹁資本の支配力の強化であり﹂などと論ずる とすれば︑これははなはだしい錯乱と詰弁であるというのほかない︒

p

A VA

まだ決定的な問題がある︒というのは︑佐藤氏はここで﹁生産力の発展﹂

H(

イコール﹀﹁資本の支配力の強

化﹂ということをかかげているだけで︑ここには主役の﹁資本蓄積の過程﹂はないからである︒﹁生産力の発展﹂は

﹁資本の物質的生産カの発展﹂であって︑

そのこと自体︑﹁資本蓄積﹂とは直接なんのかかわりもない︒だから︑﹁生産 力の発展﹂リ﹁資本の支配力の強化﹂などという錯誤的命題をことにいくら並べてみても︑﹁資本蓄積の過程﹂そのも のについての説明など︑薬にしたくとも出てこないのである︒もし︑右の軒誤的命題をもって﹁資本蓄積の過程﹂の 説明であるなどと当の論者が思いこんでいるとすれば︑

これほど救いがたい国語的痴呆症も珍らしいというべきであ

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一三

(22)

いわ

ゆる

構﹁

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

ろう︒同様のことは︑つぎの文句についてもあてはまる︒

﹁プロレタリアートの増大は資本の支配がますます多くの労働者をとらえ︑﹂

1 1

1まず﹁プロレタリアートの増大﹂

などをいうものはこの世の中にありえない︒これは︑

も︑﹁賃銀労働者﹂と﹁賃銀労働者階級﹂とを︑ おそらく﹁︒プロレタリアの増大﹂のととであろう︒それにして

つまり個人と階級とを混同するなどということは︑﹁構造改革﹂的近

白眼にのみ許されたことといわなければならない︒ところで︑﹁プロレタリア﹂つまり﹁賃銀労働者﹂とはなにかとい

えば

それはまさに︑無産の労働者︑工場内にあると自宅にあるとそ間わず︑四六時中︑眼に見えない資本の鎖にし

かとつながれ︑資木に隷属し︑資本の支配のもとに︑

資本の重圧のもとにおかれている労働者にほかならない︒このこ

とは

︑ およそ社会主義と名づけうる理論をかじったほどの者ならば︑誰ひとりとして知らない者はないはずである︒

そこ

で︑

この

初歩

的常

識を

加え

て︑

右の

文句

のう

ちの

﹁︒

プロ

タレ

リア

﹂と

いう

むづ

かし

い一

一一

一口

葉の

かわ

りに

より平易

かつ上り正確な国語的表現である﹁資本に隷属し資本の支配のもとにある無産の労働者﹂という一一一一川葉そおいてみよう︒

さすれば︑右の文句の世にもみごとなノンセンスぶりは︑くっきりと浮びあがるであろう︒

l

日く

︑﹁

資本

化隷

属し

本の支配のもとにある無産の労働者の増大︑つまりますます多くなることは︑資本の支配がますます多くの労働者を

とらえる﹂過程である!

﹁資本の重圧が強くなってゆく過程である︒﹂

li

ーとの文句の主語としては︑さきのつプロレタリアの増大﹂以外に

あり

えな

い︒

つま

り︑

これを正確に示せば

つプ

ロレ

タリ

アの

増大

は︑

資本の重圧が強くなってゆく過程である﹂と

いう文章となる︒ここで︑寸プロレタリア﹂という言葉のかわりにさきに示したと同様の国語的表現をつかえば︑右の

文章

は︑

つぎのようになる︒

!l

!日く︑﹁資本に隷属し︑資本の支配のもとに︑資本の重圧のもとにある無産の労働者の

(23)

数がますます多くなってゆくという過程は︑資本の重圧が強くなってゆく過程である﹂︒これを見れば︑誰の一聞にもつ

ぎのような疑念が浮んでくるであろう︒それは︑つまり︑﹁資本の重圧のもとにある賃銀労働者の人数の増加﹂と﹁資

本の重圧の強化﹂とがなぜ同じ﹁過程﹂であるとされるのか?いったい︑﹁人数の増加﹂と﹁圧力の増加﹂とは︑同

じ﹁過程﹂だなどといえるであろうか?ということである︒﹁人数の増加﹂L

﹂﹁

圧力

の増

加﹂

とは

まったく別々の

事柄

であ

り︑

しかも︑﹁人数の増加﹂が必ずしも﹁圧力の増加﹂を意味するものとはかぎらない︒﹁重圧の強化﹂ほま た︑﹁人数の増加﹂とかかわりなしに生じうるし︑﹁人数の増加﹂と直接かかわりのない諸事情によってより多く制約 される︒しかも︑右の文章が︑肝腎の﹁資本蓄積の過程﹂とは直接なんのかかわりもないも何だということは︑

さ き

に述ベたところとまったく同じである︒

いづれにせよ︑﹁資本主義のもとでは﹂という句にはじまる第三の文章の内容は︑﹁資本の生産力の発展﹂日

(イ

コ ール)﹁資本の支配力の増大﹂

と︑つプロレタリアの増大﹂

H(

イコール)﹁資本の重庄の強化﹂という︑三日の錯乱

的命題を並べただけのものであって︑﹁資木蓄積の過程﹂の説明だなどといえたようなものではまったくないのであ

る︒おそらくは︑佐藤氏は︑﹁資木蓄積の過程﹂が﹁二一図的な過程﹂であると述べたあと︑すぐひきつやついて︑その一 面が﹁資本の支配力の強化の過程﹂︑﹁資本の重圧の強化の過程﹂であるということ︑

つまり︑﹁資木蓄積の過程﹂イコ ール﹁資本の支配力・重圧の強化の過程﹂という﹁等式﹂をそのままかかげようとしたものであろう︒ところが︑

、‑

の﹁等式﹂は︑どんな善意の初歩的読者もこれを簡単にのみこむわけにはいかないのであって︑

との﹁等式﹂関係を合

理化するためには︑なお若干の﹁理論的﹂説明を展示するという手数をかけねばならない︒本来ありもしない﹁等式﹂

関係をなんとか理窟*つけようとする﹁理論家﹂的熱意が︑

不可抗力的に︑主題とは緑遠い錯乱的命題の積み重ねを生

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一三

(24)

いわ

ゆる

﹁特

造改

革論

﹂の

理論

的性

格︿

五)

みだしたものというととができるのである︒

﹁いわゆる資本主義のもとでの労働者階級の窮乏化とはこのことを意味している

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この

文章

を読

むと

︑ひ

とは

︑ たしかにわが佐藤氏が﹁労働者階級の窮乏化﹂という言葉を知っている者だということを教えちれる︒この言葉はま

ことに重厚な饗きをもっており︑もしひとがこの言葉をつかって﹁理論的L女童ーを作成しないならば︑そのひとは階級

闘争についても革命運動についても何ひとつ知らない者だと思われても仕方がないほどのものである︒佐藤氏がここ で ︑

この言葉を配したあたり︑時宜をえたものというべきである︒ただ︑惜しむらくは︑この言葉だけかかげればよ

かったものを︑﹁このことを意味している﹂という文句をつけて﹁理齢酌﹂文章につくりあげたばかりに︑折角期待さ

れた効果も台無しということになってしまったようである︒いったい︑﹁このこと﹂とは︑なにか?前文の中からこ

れに該当する﹁こと﹂を探すとすれば︑それは︑﹁資本の支配力・重圧の強化の過程﹂以外にはありえないであろう︒

ところで︑﹁支配力﹂とか﹁圧力﹂とかいうのは︑﹁労働者階級と資本家階級との間Lの﹁力関係﹂について云われて

いるものであり︑右の﹁強化﹂とは︑要するに︑﹁労働者階級の力にたいして︑これに敵対する資本家階級の力がき わめて優勢に︑後者が前者を圧倒するほどになった﹂ということである︒ここで問題の中心にあるのは両者の﹁力関 係﹂︑﹁力の釣合﹂であり︑簡単にいえば︑両階級の力である︒だが︑﹁労働者階級の窮乏化﹂という言葉はどうか?

﹁窮之化﹂という術告は特定の内容をもつものであるが︑あえてその内容にたちいることそせずとも︑この単車そのも

のが︑﹁力﹂とか﹁力関係﹂とか宏意味するものではけっしてないζと︑﹁労働者階級の力が資本家階級の力にたいし

てきわめて劣勢になり︑絞者が前者を圧倒する﹂過程などとは宜接なんのかかわりもないということは︑国語的常識 をもってしても容易に知られるところである︒このように︑錯誤的命題を並べたてたあと十ノぐっきつづいてこの重大

(25)

な術語を配していとも簡単に﹁このことを意味している﹂という断定を下しているという事実は︑うたがいもなく︑

論者同身︑﹁資本蓄積の過程﹂についても︑﹁労働者階級の窃之化﹂についても︑その経済学的内容はなにひとつ理解

していないということ︑そこにあるのは救いがたい街学的はったりだけだということを裏書きしているもである︒

﹁しかし︑資本蓄積の過程は決して資本の支配がいついかなる場合にも無制限に貫徹され︑労働者階級が一方的に追

おそらく︑﹁第三の条件﹂について

のわが﹁構造改革論﹂者の説明のうちのもっとも輝かしい部分︑浪花節のいわゆるさわりにも匹敵すべきところであ いつめられ︑抑圧され︑零落させられてゆく過程ではない︒﹂ここの箇所が︑

る︒

それ

は︑

わがインスタント論者たちの国語的・論理的および理論的な知恵のいっさいを傾けて成った珠玉の文章

であり︑世紀的荻智の結晶である︒とはいうものの︑すでに﹁第二の条件﹂たる﹁政治的民主主義﹂の項において︑

﹁巨視的にみれば基本的に﹂とかご定の限度内において﹂とか﹁常に純粋に﹂とかいう︑一連のマヤカシ的術語の動

用のほどをいかんたく玩味する機会にめぐまれだわれわれとしては︑この精髄部分!さわり!の正体を見きわめ︑さ

らにそれが客観的にどういうことを示しているものであるかということについて的確な判断を下すととも︑比較的容

易かつ簡単であると考えられるのである︒

ここで深重な意味を受けもたされているのはいうまでもなく︑﹁いついかなる場合にも﹂︑﹁無制限に﹂およびコ方

的に

﹂と

いう

一つ

の副

詞句

であ

る︒

これらの副調句を一応無視すれば︑こζ

には

これまで佐藤氏が並べてきた

﹁資本蓄積の過程﹂の二両のうちの一面︑すなわち﹁資本の支配力の重圧の強化の過程﹂ということの説明︑つまりそ

の別様の表現が示されていることがわかる︒つまり︑﹁資本の支配力・重圧の強化の過程﹂とは︑﹁労働者階級が追い

つめられ︑抑圧され︑零落させられてゆく過程﹂だというのである︒この﹁過程﹂は︑﹁資本蓄積の過程﹂の一面を成

いわ

ゆる

﹁構

造改

革論

﹂の

理論

的性

格(

五)

一 一 一 一 九

参照

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