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De Anima: The Idea of Psychē in the Greek Natural Philosophy, down to Plato

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

De Anima: The Idea of Psychē in the Greek Natural Philosophy, down to Plato

藤沢, 令夫

https://doi.org/10.15017/2328774

出版情報:哲學年報. 22, pp.267-332, 1960-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

知 る も の

︑ 生 き る も の ︑

動くもの

l l l

プラトシ﹃法律﹄第十巻の神学思想の自然学的意義とその 背景︑古代自然観におけるプ

VLl

l

論について||

は し が き

﹃法 律﹄ 第十 巻に おけ る神

学論

争の 一般 的意 味と

思想

史的 背景

﹁ノ

モス

とピ

ュシ

ス﹂

一 一

法律﹄第十巻における自然主義的無神論とプラトンの反論

三︑自然哲学者たちのプシュlケl

観||タレス︑アナクシメネス︵アポロニアのディオゲネス︶︑ヘラクレイトス︑アルク

7

オン

四︑自然哲学者たちのプシュlケl観

li エン ベド クレ ス︑ アナ クサ ゴラ

ス︑

デモ クリ トス

︑プ シュ

lケ

l

Hハ

ルモ

ニア

l説 ︑

その 他

五︑その概括と特色

六︑それとの比較よりみた﹃法律﹄第十巻における二つの思想の自然学としての特色︑および両者の対立の真の意味

七︑プラトンの自然学概説

﹁中 世と それ につ づく 時代 には

︑そ れに 先立 つア リス トテ

レス

にお ける と同 様に

︑生 命あ るも の︵ 神宮 白回 目白 血件

︒︶

と生

命な

知るもの︑生きるもの︑動くもの

二六

(3)

知る のも

︑生 きる もの

︑動 くも の

二六

八 きも の令 官四 回曲 包自 己申

︶と のあ いだ 境の 界線 を見 出す 乙と が︑ 困難 な課 題と なっ てい

︒た 今日 の学 開体 系は

︑な ぜそ のよ うな 困難 があ った かを 明ら にか して

︑問 題を 解決 たし

︒|

|境 界線 は実 は存 在し ない ので ある

Il 11 ω

即円︒四回曲同︼町田ωV骨円円山田岡件︒ロ

﹁フ

ァラ

lは

象現 の座 を︑ 媒質 のな かに お乙 りつ つあ る実 在的 作な 用に もと めた

ーーのZ品冨白 ﹂

Hd﹃叩ロ

﹁自然﹂や﹁宇宙﹂というものを︑

いかに理解し︑表象するか︒

ll

人聞の学的思考の歴史は︑少なくともヨ

l

ロザ

パ においてこの間とともにはじまり︑そして今日においても︑この聞は依然人々の内奥に生きつづけて︑学問全般をおし すすめる一つの中心的動闘であることをやめていない︒物質・運動・生命等々の概念が︑その探求のための手がかり として導入され︑幾たびか意味の修正を加えられつつ用いられて来た︒いま息

5

ζ

ろあって︑同じこれらの概念に

関連しながら︑そ

5

した﹁自然﹂の学的表象を︑その発生状態において一観点より跡づけようとするにあたり︑時代 的にわれわれに近い科学者の言葉をことさらに二つまでも︑

エピグラフめいたかたちで右にかかげたのは︑

べつ にこ れらの言葉がさし示しているような︑喧伝されてすでに久しい現代の自然観の一傾向を︑そのまま古代ギ

p v

アの自

然観の

5

ちに読みとろうという魂胆からではない︒たしかに︑物心二元論を主要な特色としつつ近世初頭にはじまっ た自然像と対比させるとき︑

とれをはさむ古代と十九世紀後半以後との考え方のあいだに︑ある程度の対応や類似を 見出すことは可能であるう︒しかしながら︑大雑把な概括は古代哲学においても現代科学においても危険であるだけ でなく︑それにもとづく安易な比較論は︑かえってわれわれがこの種の事柄に対していだく直接的で素朴な聞を蔽い

(4)

かくし︑その聞を追求しようとするわれわれの思考そのものを停止せしめるであろう︒以下の小論において煮閲され ると ころ

︑ またなしうるところは︑だから︑あくまでも西洋古代哲学の一断面に関する歴史的研究の範囲にとどまらな

ければならない︒

つまり︑現代のわれわれ自身なり︑あるいは他の﹁専門の学者たち﹂なりが︑すでにより以ムの何 事かを知っていると思いこむことをしばらくやめて︑自然や宇宙に関するさまざまの問題を︑

どこまでも歴史的にあ

たえられたテクストにもとづき︑

むかしの哲学者たちの﹁素朴﹂な||と言われている||言葉を手がかりにしなが ら︑考えてみようというのである︒はじめのエピグラフも︑そこで言われているような事柄を︑現代のわれわれにあ たえられている結論ないしは解答としてではなく︑ただ考察をすすめるにあたっての一つの問題煮識として︑念頭に

おかんがためにほかならない︒

直接の手びきとして︑

しらべたり考えたりしようとするのは次のような事柄である︒

プラトンの晩年の大作﹃法律﹄の第十巻のなかで︑

宗教立法に関連して無神論に対する反駁と批判がなされてい しばしば史上最初のまとまった﹁自然神学﹂と呼ばれることからも知られるよう る︒そこに表明された神学思想が︑

に︑プラトシの批判は︑批判の対象である無神論の自然主義的主張に応じて︑神々の存在をやはりひとつの自然学によ って根拠づけるかたちで行なわれている︒この自然と宇宙に関する構想をそれ自体として取り出し︑紀元前六世紀初頭 以来の古い自然哲学の伝統のなかにおいてみるとき︑それはどのような特色と煮義をもつであろうか︒また︑そこで当 面の批判の対象とされている思想とくらべて︑自然学としてのほんとうの原理的な違いはどこにあるか︒これらの事 柄をできるだけ精密に考察することによって︑われわれは︑タレス以来の自然学の発展の諸相に触れつつ︑それが窮極

知る

もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二六

(5)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

七0 

においていかなる必然性により︑いかなるかたちをとるに至ったかという点について︑いくばくかの光明が得られ

るものと期待する︒

l l

﹃法律﹄十巻におけるプラトシの反論の骨子をなすのは︑プ

Vュlグはに関する考え方であ

り︑それはまた古代自然哲学全般の中心概念である以上︑

こうした自然学や宇宙論の比較は︑それぞれのプvzlケ

l論の比較のかたちをとることになるであろう︒

梼乙 の名 称は ロ

17

の学 者テ レン ティ ウス

・ウ アル ロの 分類 と命 名に よる もの であ って

︑本 来は いわ ゆる

﹁啓 示神 学﹂ に対 す

る言

葉で

はな

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以下

﹁プ

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﹂︵

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︶を 便宜 上こ の原 の語 カナ 書き のま まで 使う が︑ その 大体 の基 本的 意な 味と して

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崎 三 塁 晶

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司 ︑

まず︑われわれがこれから取り上げるべき﹃法律﹄第十巻の神学論争が︑歴史的にみて︑またプラトシ自身にとっ て︑どのような一般的意味をもっていたかを概観しておこう︒というのは︑そこで批判されている無神論は︑その主 張の 基礎 に︑

﹁す代ての事物は︑現在においても︑過去においても︑また未来においても︑あるいは自然︵ピェ

ν

ス︶によって

(6)

生じ︑あるいは技術︵テクネl︶によって生じ︑あるいは偶然︵テュケ

lv によ って 生じ る﹂

︵八

八八

E

という考え方の

ν

ェマ をも って いて

この考え方の背後には︑かなりの思想史的背景がひかえているからである︒

﹁自然﹂と﹁技術﹂との対立であるが︑後者は一般に人為的で

あることを示す名称であるといってよく︑﹁法習﹂︵ノモス︶という言葉によっておきかえられることもあゐ︒つまり

右の言葉のうち︑実際に重要な役割をはたすのは︑

右に引用された言葉は︑いわゆる﹁ノモスとピェジス﹂という概念のもとに︑ものごとを自然本来にあるもの︿ピュ

ν

ス﹀と︑法や風習や習慣や技巧などの人為的なもの︵ノモス﹀との対立の相からみようとする︑ほぼ前五世紀中葉 ごろからひとつの時論にまで拡大されていた問題の定型をさし示しているのであるが︑この章でわれわれが予備的に

たしかめておきたい問題は︑﹃法律﹄十巻にみられる無神論が︑右のような対立概念の上に立って実際に主張された

さまざまの言説のなかにあって︑どのような位置づけをあたえられるものであるかという点である︒

持八

八九

E 6︑

八九

OA9

ほ か

もともと︑このような意味でのピェ

ν

スという言葉は︑自然哲学にかかわる語であったと考えられる︒アリストア

レスが︑自分に先立つ哲学者たちの見解を吟味するにあたって︑小アジアのイオニアの地に拠ったタレス以下の哲学

者たちを﹁ピュリV

スについて論究した人々﹂と呼んでいるように︑万有についてその自然本来のあり方を問うという

のが︑初期以来のギ

D ν

ア哲学を動かしていた主要なモチーフであった︒

そし

て︑

そのような論究︵匂

eq s

ど 言

mR

Q h

Sがすすめられるにつれて︑論者たちが万有の真実本来のあり方として想定するものは︑

ひと びと が日常直接経験する世界と次第にかけへだたった姿をもつようになり︑後者は実在としての資格を奪われるに至る︒

知る もの

︑生 きる

もの

︑動 くも の

(7)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

七 自然哲学をひとつの方向に完成させた原子論者デモクリトスの説くと亡ろとして︑

セクストスとガレノスの両伝承に

よってたしかめられる||

﹁﹃ 甘い

﹄も

︑﹃ 辛い

﹄も

︑﹃ 冷た

﹄い も︑

また

色も

すべてノモスの上のこと︒真実にはアトムと虚あるのみL

HHM

という言葉は有名であるう︒

つまり︑われわれが日常︑習慣的にそれに規制されつつ生きているところの環境を構成 する︑色や味や触感などのいわゆる﹁第二性質﹂の世界は︑まさにそのような人聞の習慣を取りされば何ものこらな い

一種虚妄の世界とみなされるわけである︒

器包

同時

白﹄

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曲目

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﹁ピ

ュシ

︵ 沿 い

26

とい う語 の意 味に つい ては

同じ

アリ

ス トテ レス の︑

﹁ピ ュシ スの 第一 の本 来的 な意 味は

︑自 己自 身の うち に動 の原 理を 有す るも のが もっ てい る本 性と いう こと であ

る﹂

︵志

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と︶ いう 言葉 に従 って おい てよ いで あろ う︒ パ

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42

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︶ とい う乙 とで ある

﹂と いう 規定 は︑ 彼が 典拠 とし て引 くプ ラト ン﹃ 法律

﹄十 巻八 九一 Cに 対す る註 釈者 イン グラ ンド をは じ め︑ 最近 では 一般 に否 さ定 れて いる

︒パ

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る︒

自然的環境への考究においてみられるこれと同じ事情||すなわち︑反省なしに従って来たものに対して︑それが 自然本来の根拠をもつかどうかを問うことーーは︑

モラルの世界にも投影される︒というより︑ピェ

ν

スという言葉

が右のように︑もともとは自然哲学者たちが︑自然万有の真相は如何という聞の煮識をもっときに念頭におかれる語

(8)

であったとしても︑これにノモスの観念が対比せしめられて︑﹁これこれのものはピ

z v

スによるものではなく︑

モスのうえのことにすぎぬ﹂という発想法をとるのは︑ちょうどこのように対立項としておかれた﹁ノモス﹂そのも

のに対する不信感に促されなければ︑生じえなかったであろう︒これには︑すでに一般に指摘されているように︑そ れだけの歴史的社会的な背景があった︒かつて︑宗教的感情に裏づけられた伝統的な法と旋が絶対的に肯定され︑そ れにもとづく風習や道徳のうちに動かすことのできない権威がみとめられていた時代には︑人間の営みと行為の示す 価値は︑自然そのものよりかえって堅固な基盤と秩序をもっとみなされ︑自然の運行の秩序正しさがはじめて認識さ

れるようになったとま︑ひとびとはこれを﹁正義﹂という︑

た︒けれども︑他国との交流や海外の知識の普及によって︑

人聞の行為の価値にかかわる名前で呼んだほどであっ

ひとびとが自国のそれとは異なった風習や価値体系を知

るに つれ

︑ま た︑

たびたびの政変や戦争によって︑現実の立法の過程を身近かに経験するにつれて︑かつて絶対視さ

れていたものが実は相対的なものにすまないのではないか︑要するに人聞が勝手にぎめて勝手に変更できるようなも

のではないかという自覚が︑次第に目ざめて行く︒

﹁ノ モス とピ ュ

Vス﹂という対立概念は︑このような状況にあっ

て︑いわば直接的なノモスともいうべき風習や国法から︑正義その他の道徳上の観念を含めて︑およそ人為的なにおい のする一切のものの本来的な価値を論じ︑その存在の根拠を問うべくしてつくられたカテゴリーであるといえる︒以 下にみられるその種の言説の実例において︑われわれはそこにいくつかの段階を区別することがでぎるであろう︒

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N∞明直直︶・

相対性の自覚はまず︑ところによって異なる各国の風習に対して向けられる︒すでに歴史家へロドトスが︑ペル

ν

知る もの

︑生 きる

もの

︑動 くも の

二七 三

(9)

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二七

ア戦争を記述するにあたって︑そのような批判的な眼をもっていたことが知られるが︑彼が︑他国の習俗祭儀をおか

しがって噸笑したペルリVア王カシピ品ソスを批評しながら︑

﹁もしすべての人聞に向かって︑各地のさまぎまの風習︵ノモ・ス﹀を全部集めたなかから最善のものを選べと言っ

たと

した

ら︑

ひとはそれらをよくしらべたうえで︑結局それぞれ自分のところの風習を選ぶζ

とで

あろ

う﹂

︵国

ω 3

とのべているその見解は︑そのまま︑時代を下って前五世紀の終わりごろ︑文佑の中心アテナイを離れた地方の言葉

で書

かれ

た覚

え書

﹃両

論﹄

つプィソイ・ロゴイ﹀の無名の筆者の確信するところでもあった︒

﹃両

論﹄

第二

章﹁

美と

醜に

つい

て﹂

十八

節︒

同芯ような疑いの眼は︑当然のことながら︑もろもろの道徳的価値のうえにも及ほされる︒アナクサゴラスの弟子

であったといわれるアルケラオス︵前五世紀中頃l四世紀前半﹀の見解として伝えられる︒

﹁正しいとか醜いとかいうのは自然にはないととであって︑ノモスのうえのことにすぎない﹂U

宮崎

F

恒 国

Ha

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−E

同・ 由︒

H

という言葉は︑自然学者によってなされた最初の明確な主張のひとつとみなされうるが︑同様の貝解の典型的なもの

は︑いわゆるソフ4ストのアシティポシの次のような言葉のうちに見曲されるであろう︒

﹁正義とは︑自分の住む国の法律習慣に違反しないということである︒きれば人が正義というものを最もよく自分

のために利用するには︑証人のいるときにはかかる法習︵ノモス﹀を大いに尊重し︑証人のいないときには自然

︿ピ

ν

ス﹀のそれを尊重すればよい︒なぜならば︑法習は後から勝手に定められたものであるが︑自然のそれは

(10)

必然的なものだからである︒:::だから︑法習に違反しても︑見つからなければ刑罰や恥辱を免れることができる

けれども︑自然の本性にもとづいて生じたものは︑可能な限度を超えてとれに無理を加えるならば︑万人がそれを

見ていようといまいと︑そこに生じる悪い結果に変わりはない﹂

︵ 司 円

E

﹀ ・

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M

アシティポシの右の言葉の中で︑ノモスとピ且

ν

スと の対 立は

﹁後から勝手に定められたもの﹂

︵ 州 司 令

町 時 −

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ス の 名 を 冠 し て 伝 え 〈

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﹁必 然的 なも の﹂ 意

識 さ れ て い た も の と 思 わ れ る

︒ そ の 作 品

﹃ ア シ テ ィ ゴ ネ

﹄ や

﹃ ア イ

ア九日において︑このような﹁神の法﹂と﹁人の法﹂とが︑死者の埋葬という古い家族宗教につながる行為をめぐっ 前五世紀を代表する悲劇詩人ソポクレスは︑

て︑いかに分裂し︑するどく対立しなければならなかったかを描き出しているが︑なかんづく四四二l一年ごろのよ

演と推定される﹃アシティゴネ﹄においては︑それが全篇を貫く大きなテlマとなり︑人物と状況の的確な設定によ

って︑この対立の意味するところを最も見事に語ってい弘官

録︒ 岨て

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・ 主器

﹃ア ンテ ィゴ ネ﹄ にお ける 神の 法と 人の 法と の対 立の 意味 を︑ 劇構 成や 思想 史的 背景 との 関連 のも とに 分析 した もの に︑ 松永 雄二

﹁劇 アン ティ ゴネ の統 一性 につ いて の一 つの 覚書

﹂︵ 商洋 古典 学研 究・ 第四 号・ 一九 五六

︶が あり

︑そ の第 二章

Z

B

H

・︶

にお

ける

分析

は正

確で

すぐ

れて

いる

かくて︑宗教的基盤のょに揺ぎのない権威を保っていた法や提の価値体系が︑まず﹁神の法﹂と﹁人の法﹂とに分

知る もの

︑生 きる もの

︑効 くも の

ニ七

(11)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二七

六 裂しなければならなかったことは︑紀元前五世紀という時代の宿命ともいうべきも−のであったが︑

この分裂を促した

同じ動因の行ま着く先にあっては︑古い宗教感情とのつながりが全く断絶した人々があらわれるようになり︑やがて

神そのものもまた︑﹁法習﹂の中へくり入れられてしまう︒四

O

四年のアテナイ敗戦後に三十人独裁政府を組織した クリ ティ

アス

は︑

﹁法律は明らさまの暴行をさまたげたけれども︑人聞はひそかにこれを行なっていた︒そこで︑

はじめて誰か倒口

で思いつきのよい者が︑人間たちのために︑神々をおそれることを発明したように思われる﹂

F

M

?民

︶ という言葉をのとしている︒はじめ︑あらゆる法の窮極の根拠をなし︑次に人の定めたノモスに対立して︑ピ

ι ν

性を裏づけるものであった﹁神﹂もまた︑このようにしてノモスのよの存在とみなされるに至るとき︑ピュ

V

スの 観 念はいわばはだかになり︑ちょうど原子︵アトム︶論者たちにとって︑この宇宙に真実なものはアトムと虚空間しか残 らなかったように︑プラトシの﹃ゴルギアス﹄に出てくるカ

p

クレスのような︑時代の典型的人物にとっては︑人聞の

生の領域においてなお自然的根拠をもつものとして残るのは︑個人の本能的な欲望と快哲︑そしてそれを助ける﹁力﹂

の観念しかなかったのであり︑まさにこれらのものが︑

﹁自

然の

正義

︵ ・ 吋 −

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も 円 h qh s h w R島 ︑ Rh

の名のもとに

礼讃されるのである︒

様 ︒ ︒ ︑

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唱 団

I B M O

こうした時代的思潮と対決することは︑当然︑思想家としてのプラトンにとって生涯の宿題であった︒右にふれた

﹃ゴルギプス﹄をはじめとして︑﹃国家﹄の第一巻から二巻にかけて︑また﹃テアイテトス﹄︵一七二

A︶

にお いて

(12)

彼はこの種の考え方の代弁者たちにその主張するところを存分に語らせ︑

これをまともに受けとめて来た︒ーーたと えとの﹁ノモスとピご

Vス﹂という対立概念が︑

一見明確なものであり︑多くの青年たちの心をとらえるとしても︑

それは執撤な思考の吟味に果たしてよく最後までたえうるかどうか︒そもそも人聞にとって︑何がほんとうにピ且

ν

スなのであるか︒周知のごとき彼の哲学の主要なテ

l

マ ︑ ノモスを生むものとしての人間精神の神的な可能性と︑そ れに対応すべきイデア的存在への探索は︑そのまま︑通常最も﹁メモス的﹂とされる正義その他の道徳的価値がもっ

ピュ

ν

ス性の追求であるとみなされうるし︑他方︑彼の文芸批判や感情教育論は︑

一般に最も﹁ピ三

Vス的﹂とされ

る快苦の感情や欲望のもつノモス性を示そうとしているとみなすことができるであろ九︒

器後 者の

点に

つい ては

︑拙 稿﹁ 文芸 の

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A W

予 ︑ 白

ll

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ラト

ンの 文芸 論に 関す る若 干の 基礎 的考 察﹂

︵西

洋 古典 学研 究・ 第四 号・ 一九

四六

︶で 取扱 われ てい る︒

そし

て︑

ここに最後の作品﹃法律﹄において彼が取りあげた無神論もまた︑基本的には︑

﹃ゴルギアス﹄のカ

NY

ν

スゃ︑﹃国家﹄のトラ

ν

ェマコス・アデイマシトス・グラクコシたちが展開したのと同じ系統の考え方が︑

同じと

ころまでおしすすめられて成立した思想である︒それが先にみられたすべての要素を含んでいて︑法習そのものから 道徳的価値︑神々の存在までを︑

ノモスの名においてその相対性を強調していることは︑

はじめの自然・技術・偶然 という分類から導き出された||

﹁神々は人工のたくみによる存在である︒それは自然によってゐるものではなく︑法習による存在であり︑

したが

って︑各国の人々がお互いの合議によって約束してきめれば︑国々によってそれぞれ異なる神があるわけである︒

知る もの

︑生 きる もの

︑動

くも

二七

(13)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二七

また美しい事柄というのも︑自然によって美しいものと︑法習の

5

えで美しいものとは具なるし︑さらに正義とい

うようなものに至っては︑

はじめから全然自然の根拠をもっていない︒ひとびとはζ

れに つい て︑ 互い に開 設酬 をと

なえつづけ︑そのときどきでたえず考えも変わるのであるが︑しかしそれを何と変更しようとも︑一旦変更すれ

ば︑何でもそのときから有効になる︒それはほかでもない︑そういったものが人為のたくみにより︑法習によって つくられるものであって︑何らかの自然的根拠をもって生じるものではないからである︒﹂

︵八 八九 E

という主張が明瞭に示すところであろう︒そしてこれが実践的には︑﹁何でも力づくで勝ちえたものが正義﹂という

考えにつながり︑法を無視した暴力的支配を﹁自然に従った正しい生活﹂と呼んで︑青年たちをそれへいざなってい ると語られているのである︒

ただしかし︑この﹃法律﹄十巻にあらわれる・無神論には︑これまでプラトシがとりあげて来た同系統の思想とくら

ベて

ひとつの顕著な特色がある︒それは︑この﹁ノモスとピュ

ν

ス﹂の対立にもとづく無神論が︑その理論的根拠

とし

て︑

はっきりとした自然学を正面に立てていることである︒﹁神をないがしろにした生活へ彼らの魂を向けさせ

ただ快楽と欲望の無節制だけではない︒最高の知識と思われているところの︑ある種の大きな恐るべき無

知もその原因のひとつだ﹂︒それは物的自然の基礎のよに︑ る

もの

は︑

人聞の技術や道徳や宗教が後から発生したとい

5

の進佑論的自然主義の世界解釈のかたちをとっていて︑ノモスの名においてその相対性が強調されるものは同じであ

って

も︑

LV

スの名のもとに絶対祝されるのは︑ここでは個人の欲望や快苦や力の観念であるというより︑

さら に その 窮極 にお いて

万有の根源としての非情な

︵ ︒

HV

WH

b y h

hS望台︑︒喧叶町内向

e H

hH

物質的自然なの

(14)

であ

る︒

後八

八六

AB

ーーかくして︑われわれは先に︑

ピェ

ν

スという語がもともと自然哲学にかかわることをみたが︑

いまプラトン

﹁ノ

モス

とピ

ν

ス﹂という対立にもとづく主張を︑その本来の自然学の領域において吟味し︑何がほんとうに 自然のもの︵ピュ

ν

ス︶であるかという同じ間を︑

﹁自然﹂そのものについて問うことになる︒

では

︑ その・無神論者たちの拠る自然学とはどのようなものであったか︒もう一度はじめの自然︵ピェ

UV

ス ︶

・技 術

︵テ

クネ

l−偶然︵テュケl

︶の三つによる事物の分類にかえると︑これにつづいて彼らは︑まず一般的な主張と

して

﹁このうち最も重要で立派な仕事は自然と偶然によってなされる﹂ものであること︑これに対して人為のたく

みは

﹁自然がすでに第一段階の重要な仕事をなしとげた後で︑それを自然から受けとり︑これに加工したり形をと とのえたりする﹂にす草ないことを述べる︒そして︑これをさらに具体的に説明するかたちで︑その主張の核心とも みられる次のような自然学的理論が展開されるのである︒

﹁火

や水

や土

や空

気は

︑ いずれも自然と偶然とによってあるのであって︑そのどれひとつとして︑人工によるもの ではない︒またさらにこれらにつづく物体︑大地や太陽や月や星などの物体も︑

プジ

l

ヶーを全然もたないこれ ら火水風土を通じて生成したのである︒そして︑こうした要素的物質︵体︶の各々は︑

それぞれがもっている作用

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二七

(15)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二八

O

カの偶然的条件によって運動せしめられ︑

一種同族的な仕方でたまたま適合するものがあれば||たとえば熱いも のは冷たいものに︑乾いたものは湿ったものに︑軟いものは硬いものにというふうに

l l

互いに結び合わされる︒

このほか一般に︑偶然にしたがって行なわれる反対の性質のものどうしの混合という仕方で︑必然的に混合させら れるようなものはすべて同様である︒かくてはじめの要素的な物質︵体︶は︑

この よ

Kノに反対のものどうしが混合

させられることによって︑そのまま天の全体とその下にあるすべてのものを生ぜしめたのであるが︑さらに

ζ

ら からあらゆる季節が生ずるにつれて︑動物と植物のすべてを生ぜしめることになった︒この生成は知性のちからに よるものでもなければ︑何らかの神のちからによるものでもなく︑また技術によるものでもない︒ただ自然と偶然 によって生成したものである︒

これに対して技術は︑後になってから︑これらのものからおくれて生まれてきたものであって︑それ自体の性格 もその出生も死すべき定めをもつものであるが︑さらにおくれて何か児戯に類するものを生んだ︒この技術の産物 たるや︑真実性のまるでないもの︑それを生んだ技術そのものと同様に︑何か影のごとき存在であって︑それはち ょうど絵画や音楽や︑そのほかこれと同列に数えられる技術の生み出すところのものに似ている︒こうした技術の なかで︑もし何らかの真実の価値あるものを生み出すものがあるとすれば︑それは︑たとえば医術や農耕の術や体 育術のように︑その能力を自然と共同させるかぎりの技術だけである︒

ところが政治の技術のようなものになる と︑どく小部分しか自然に共同することなく︑大部分は人為のたくみによるもの︒同様に立法術もまた︑徹頭徹尾 自然によらずに人為のたくみによるものであり︑その制定するととろには真実性がない﹂

︵八

八九

BlE

(16)

かくてさらに︑神々や美や正義が法習にのみもとづくものであることを論ずる先に引いた言葉︵本稿第一章のおわ

り﹀が︑これにつづく||︒

われわれはのちに︵本桶第一ハ章三一四頁以下︶︑ここに表明された自然哲学的見解をも

5

すこしくわしく検討したいと

思うけれども︑さしあたって︑

﹃法律﹄の主要対話人物であるひとりのアテナイ人が︑右の主張に対してどのように

反駁したかをみなければならない︒

彼は右の説のいちばん重要な前提を︑彼ら無神論者たちが火や水や土や空気を万物のなかで最初のものであると考

えて

︑こ

れを

・﹁

ピェ

ν

ス﹂と名づけていること︑これに対してプ

ν

ュlケl︵いのち︑ところ︶は︑後になってそれら

から派生的に生じたものとみなしていることにもとめ︑

この点こそが一般に︑これまで自然研究にたずさわった人々 の︑誤った考えのよってぎたる根諒であると注意する︒すなわち対話人物のアテナイ人によれば︑こうした考えは︑

万物の生成と消滅をひきおこすいちばん最初の原因を逆に後に位置づけるという︑前後錯倒の誤りをおかすものであ

って︑実際にはむしろ︑

﹁ プ

UVl

ヶーこそ||彼らのほとんどすべてが︑それがいかなるものであり︑それが一般に︑またとくに生成に

関し

て︑

どのような力をもつものであるかとい

5

ことを知らないらしいけれども||あらゆる物質︵体﹀に先んじ て生まれ︑そのすべての変化と転形を何にもまして支配するものなのだ﹂

︵八

九二

A

という反対のテーゼを提示する︒しかるに︑自然主義者たちが﹁火水風土がピェジスによる存在である﹂と主張する

ことによって︑ピLVスという語にあたえている意味は︑

知る もの

︑生 きる

もの

︑動 くも の

﹁いちばん最初に生じたもの﹂ということにほかならない

(17)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二八

わけだから︑もし右の反対テiゼが正しければ︑ピュ

ν

ズ的な存在︑自然によってあるものと呼ばれるべきものは︑

火水風土ではなく︑むしろプνュl

ヶーであるということになるであろう︒このプ

νュlケlの先在は︑次のように

して論証される︒

けまず︑

﹁動

﹂乃

キネ

i ν

ス︶のさまざまの種類が分類され︑列挙される︵﹁動﹂H

キネ

l ν

スは

︑場 所的 運動

︑状

態・性質の変化︑生成消滅などのすべてを含む概念である︶︒分類の観点は必ずしも一定せず︑無差別にいろいろの

観点から十種類の﹁動﹂の名があげられるが︑そのなかでとくに︑

ω

他のものを動かすことはできるけれども︑自 己自身を動かすことのできないよ

5

な動

︵他から伝達芯れた動ぎ︶と︑川wつねに自己自身をも他のものをも動か

すことのできるような動︵自発的動︶との区別に着目される︒

~ 宇宙内の生成変佑に示される動を︑この観点から二つに分けるとすると︑そのうち︑自己自身を動かすことの

でき る動 は︑ その生れと力においてあらゆる動のなかで第一のものでなければならぬ︒なぜならば︑

ひとつのものか

ら他のものへと伝わって行く変佑の系列を考え︑

最初に変化をひき起こすものハ之主ゎ

2

g h

yu

r毛H

U S

をそこに求めるとすると︑そのような最初の起動者は︑他によって動かされるものではなく︑自分で自分を動かした 動の示す変佑以外にはありえない︒またさらに︑万物が一緒になって静止した状態を考えると︑

そこで最初に動をひ

き起こすのは︑自分で自分を動かすととろの動以外には考えられない︒

した

がっ て︑

(18)

﹁自己自身を動かすところの動は︑あらゆる動の始原︵アルケ

l︶

とし

て︑

また静止しているものの中に最初に生 じ︑かっ動いているものの中の第一番のものという資格において︑必然的にあらゆる変他のうちで最も古く︑また 最も支配力をもった変化である﹂

︵八

九五

B︶

||

大前

提︒

国 ところでわれわれは︑何かあるものが自発的運動を示すのをみるとき︑

そのものを﹁生きている﹂と呼び︑

そ して﹁生きている﹂というのは︑その中にプ

ν

l

ヶーがあるということにほかならない︒そこで︑各事物について

その本質

︵ ︒

m u

q h h r

r o

と定

義守

弘司

︒師

0

と名

︐別

QM9O宮町

ロ︶

の三つを考えるとすると︑プ

Vl

ヶ!

とは

﹁自分で自分を動かすことのできる動﹂という定義をもつものにつけられた名前である︑

とい うこ

とになる︵八九六A

︶︒

||

小前

提︒

﹁あらゆるものにとってあらゆる変佑と動きの原因︵アイテ かくして︑右の悼と伺により︑プ

ν

?l

ヶー

は︑

ィア!とという資格において︑過去・現在・未来にわたるあらゆるもののうちで最初の生成であり︑

る︒これに対して︑他によって動かされ︑自己自身のうちに動かすカをもたないような動は︑いのちなき物体︵質︶

最初の動であ

の動であって︑下位に位置づけられなければならぬ︒したがって当然︑プ

ν ?

l

ヶーは物体︵質︶よりも先に生まれ たものであり︑物体︵質︶を支配するものである︵八九六

B

C︶ ︒

1

1結

論︒

(1)  この基本的な結論の確立によって︑さらにそこから︑

ν

ナl

ヶーが物体︵質︶より先にあったとすれば︑

また︑プ

ν

?l

ヶーに属するものとしての﹁気性︑品性 意欲︑計理︑真なる判断︑配産︑記憶﹂などの方が︑

﹁長さ︑広さ︑深さ︑強さ﹂などの物体︵質︶の属性より

知る

もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二八

(19)

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二八 四

も︑先に生じたはずであること︒

(2) 

プvzlヶーはあらゆるものの原因︿アイディアi︶である以よ︑

善謡

醜 美

正︑不正等の原因でもある

。)

プνzl

ヶーがあらゆる動くものに内在してこれを支配している以上︑それはまた天体の動きをも支配してい

るこ

と︒

ω 

ν

ナl

ヶーは︑ただひとつではなく︑複数で考えられなければならぬこと︑すくなくとも︑善と悪の原因に

対応する二つ以上の種類がなければならぬこと︒

などが導き出される︒かくて︑ここで宇宙について基本的な構想をえがいてみれば︑

それは次のようなことになるで

あろ

う︒

﹁ プ

ν

lヶーは天と地と大海におけるあらゆるものを︑みずからの動によってうどかしみちびく︒その動の名は

意欲︑考察︑配慮︑考慮︑

正しくあるいは誤った判断︑快苦︑元気と恐怖︑愛憎︑

およびすべてこれらと同族で︑

第一次的な動きがそれである︒これらの第一次的な動きがさらに︑第二次的な動であるところの物体︵質︶の動を

受けとり︑万物をみちびいて増大と減少︑結合と分離︑またこれらにつづく熱・冷︑重・軽︑硬・軟︑白・黒︑辛

−甘などの性質を生ぜしめる︒そしてプνLl

ヶー

は︑

それが用いるすべてのものにおいて︑もし知性︵ヌゥス︶

を援助者として得るならば︑万物を正しく幸福にみちびくけれども︑無知とともにあるならば︑あらゆるものを今

度はそれと正反対のものにするのである﹂

︵八

九六

E

l八九七B

(20)

ここから問題は︑天地万物の運行を支配するプ

νzlヶl

が︑右の言葉の最後に言われたような︑知性をもっ善き

ν

lヶーであるかどうか︑

したがってそれを神とみなすことがでまるかどうかという︑そもそもこの反論の目的 であった神学的問題へと移行する︒宇宙を支配するプ

ν

l

ヶーが知と徳をそなえたものかどうかは︑宇宙の全運行 が知性︵ヌゥス︶の動と同様の性格をもって︑斉一性と秩序性を示しているかどうかによってきまるであろう︒この 宇宙に無秩序があることを否定できないとしても︑

したがって悪しきプリ

VL

lヶ!の存在を全函的に否定することは

できないとしても︑宇宙を全体として支配する動きは秩序を示す︒すなわちそれは善きプ

ν

l

ヶー

であ

る︒

﹁あらゆる星辰や月︑あらゆる歳月や季節について︑

ひとつもしくはそれ以上のプ

ν

ナl

ヶーがそれらすべてのも

のの

原因

であ

り︑

しかもそのプ

ν

l

ヶーは全面的徳性をそなえたものである以よは︑

これを神々であると主張す る以外にいかなる説を立てることができようか︒:::何びとにせよ︑これらの事柄をみとめながら︑万物は神々に みちているということを︑あえて否定できる者がいるだろうか﹂

︵八 九九

B

﹃法律﹄十巻におけるプラトンの無神論批判は︑

ω

神々の存在を全くみとめない者︑倒神はあるが︑

しかし人聞のこ

とを顧みないとする者︑

ω

神々は人聞に関心はもっけれども︑悪事をはたらいても祈りや供儀によってこれを慰撫す ることができると考える者の︑三種類の人々に対する反論に分かれていて︑後にまだこれら例制に対する反論がつづ いているが︑根本は以ょに概観された

ω

への反論にあり︑他はこれにもとづいて比較的容易になされている︒

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二八 五

(21)

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二八

以よから知られるよう.に︑プラトシの反論の骨子となりているのは︑﹁自己自身を動かすととので含る動﹂と定義

されたプ

ν

ナlヶーが︑宇宙全体を支配しているという考えである︒このようなプVナlクl概念がプラトシの書い

たものの中にはじめてあらわれたのは︑彼の中期作品のひとつ﹃パイドロス﹄の中の︑有名なプ

ν

lグl不死の論

証︵二四五

Cl

二凶

A︶においてであって︑この対話篇の主役ソクラテスが恋︵エロlス﹀について物語る美しい

ミュ

lト

スの

前に

おか

れて

その思想的基盤とされている︒﹃パイドロス﹄におけるプ

ν

?lケi不死の論証は||

﹁自己自身を動かすものは︑あらゆる動の始原︵アルグi︶をなすものであって︑不生不滅である﹂

﹁し

かる

にプ

ν

?lヶーは︑自己自身を動かすものである﹂

﹁し

たが

って

ヶーは︿るらゆる動の始原であり﹀不生不滅である﹂プ

ν

lナ

という論のすすめ方で行なわれているが︑とれを右にみられた﹃法律﹄十巻の論証

ll

﹁自己自身を動かす動は︑あらゆる動の始原︵アルケl﹀であって︑あらゆる変化のうち最初のものであり︑最も

支配

力を

もっ

﹁し

かる

にプ

ν

ナlケーは︑自己自身を動かすζ

との

でき

る動

と定

義で

きる

﹁L

たが

っ・

てプ

ν

ナlヶーは︑最初の動であり︑万有の動の原因である﹂

と並べてみると︑両者の思想の親近性は一見して明らかであるう︒

(22)

われわれはここで︑古代ギ

HJV

アにおける自然観の最も特徴的な側面にふれることになる︒プ

ν

ュlケ!というも

のを︑魂とか精神とかいった訳語だけで考えるとき︑今日のわれわれとしては︑

これをわれわれの内部に考え︑われわ れの意識事実についてのみとの語を使う傾向を否定できないであろう︒そしてプラトシその人にあっても︑プ

νzl

ヶー

を右

のよ

うに

﹁動﹂の原理としてはアきりと宇宙全体の規模で考えるのは︑中期の作品﹃︒ハイドロス﹄に至る までみられなかった考え方である︒しかしながら︑

タレス以来のギ

DV

アの哲学を全体としてみるならば︑それはむ しろ正当的な位置を占めるものといわねばならぬ︒彼ら古人にとって︑プ

ν

ュlケl︹アニマ︶とは︑個々人の心理

意識にかかわる心理学的概念であるというよりは︑むしろ生命現象一般にかかわる生物学的概念であり︑あるいはさ らに︑天体の運行をふくめた万有の動にかかわる天体論的宇宙論的概念であったといってよい︒彼らは︑宇宙内にお いて動きと生命のあるところすべてにプ

ν

ュl

ヶーのはたらぎをみとめ︑プ

ν ヶ

l

ヶーが万有にゆきわたっていると みなして﹁生ける自然﹂の観念を表象する︒そしてまさにこの点が︑

﹁アニミズム﹂の名のもとに幼稚な考えとして 片づけられたり︑あるいは︑非機械論的な自然観として︑

かえって現代の考え方との親近性が論じられたりするわけ であろう︒先にみた﹃法律﹄十巻の自然主義的無神論もまた︑

このような一般的背景があったからこそ︑宇宙の根源

から

ν

lケ!の観念を排除することを︑ナ

とくに強調しなければならなかったのである︒

ただ

しか

し︑

一般的にはそのようにいえるが﹄しても︑プラトシの展開した宇宙論的プ

νzlグl諭が︑それまでの

自然哲学のプ

ν

lケl

諭と全く同じであるかどうかはまだ断定できない︒そしてわれわれにとって重要なのは︑

カミ

りにそれが同じであるとすれば︑その同じでなければならなかったことはいかなる必然性によるのか︑またもし違う

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二八

(23)

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二八

とすれば︑その差異はどのような意味を含んでいるか︑さらにまた︑先の自然主義的思想のプ

ν

lケl

の排

除は

それまでの自然学とくら代て正確にどのような意味をもっか︑といった点なのである︒これらの点を明らかにするた

めに

われわれは︑前章で概観された二つの相対立する考えをそれ自体とじで分析する前に︑タレス以下の自然哲学

者たちの見解として残されている言葉を︑実際にしらべてみることにしよう︒そのことによってまた︑

﹃法

律﹄

十巻

における二つの思想の間にある︑自然学としてのほんとうの違いも明らかになると期待されるからである︒

資料

は腫

大で

ある

が︑

その中から証言として比較的信頼できるもののみをとりあげることにする︒幸いにして︑

HJ

スト

テレ

スが

﹃﹂

ア・

アニ

A︵ プ

ν

lケーについてこと題される書物を残していて︑その第一巻︵巻﹀を先人たナ

ちの見解の紹介と吟味にあてているので︑文献学的な批判さえ忘れなければ︑われわれにとって有力な手引きとなる

であ

ろう

まずタレス︵五八五年﹀について||︒

︶ 噌 ム

︵ ﹁記録によるとタレスもまた︑プνzlクーを何か︑ものを動かす性格のものと考えたようである︒なぜなら︑

彼は石︵磁石︶が︑鉄を動かすという理由で︑プ

HV

ナlヶーをもっと言ったのだから﹂

kp

江 主 ・

NV

同除 ミミ

RHKFM

・ 色 町

! : t .  

CD 

... ー

トー4

t.:)  t.:) 

ストテレスとヒピアスによればタレスは磁石や競拍を証拠として︑

ν

l9いわゆる無生物もまた︑プ﹁ ア

ヶーを分け持っているとみなしたということである﹂U

Zm

Oo F

M m

NPU

・ 関 ・

HH KF

H

﹁タ

レス

は︑

νLlヶーをつねに動く︑もしくは自己運動性の性格のものであるという見解を表明した最初

(24)

の人 であ

る﹂

HH

﹁ある人々は︑プνLl

ヶーが万有のうちにゆきわたって混在していると主張する︒タレスが︑万物は神々に みちていると考えたのも︑おそらくこの理由からであろう﹂

KF

fb hh ah

hHKF

B E 4 w U

・関・口

KFNN

﹁万 物は 神々 にみ ちて

いる

﹂と いう 表現 は︑ われ われ が先 にみ たプ ラト

ン﹃

法律

︵八

九九

B 9︶

の言

葉と

同じ

ゅは︑後代において︑

いろいろの見解を何でもタレスからはじまるといわれることがよくあるので︑そのまま信用

してしまうわけにはゆかないし︑とくにタレスが正確に永遠運動者宮町Eヘ

52

モ︶とか︑自己運動者

Qb gR

4 2

で ︶

とかの概念をもっていたかどうかは全然疑わしい︒アリストテレスの

ω

と帥の言い方も︑断定を避けた用心ぶかい推

測である︒けれども︑

ω

と倒

から

タレスが磁石にプ

ν

ュlヶーをみとめたこと︑したがってプ

ν

lヶーを︑もの

を動かすはたらきのものと考えていたということだけは︑最少限度にいうことがでぎるであろう︒問題はタレスが︑

この磁石といういわば特別の現象だけを根拠にして︑

る︒しかし実際にはむしろ逆に︑

ω

のような一般的風解が︑

ω

のような特殊な事例によって確められたとみる方が︑

ω

にみられるような一般化を行なったかどうかという点であ 正しいのではないだろうか︒いずれにしても︑石︵天然磁石︶や磯田のような﹁静物﹂でさえ︑ものを動かす力をも

ちうることの発見を︑それまで行なわれていたもっと原始的な︑海や川や風などを生きていると想像する普通のアニ

タレスの一歩すすんだ自然哲学的な﹁生ける自然﹂の表象も十分理解できるであろ

ぅ︒それに︑川刊において磁石のほかに疎拍が加わっていることは興味ぶかい︒なぜならば︑隣唱はむろんそのままで ミズムの背景の中で考えれば︑

は磁力をもたないから︑そこには摩擦という一種の実験が行なわれたと考えられるからである︒そしてもしそうとす

知る もの

︑生 きる もの

︑動 くも の

二八

(25)

知る

もの

︑生

きる

もの

︑動

くも

二九

O

るな

らば

︑ タレスが他のすべてのものもまた︑同様に何らかの方法を見出しさえすれば︑同じようにものを動かす力

を︿すなわちプ

ν

lケlV

心もつことが分ると考えたであろうという推測も︑かなりプロパプルなものとして成り

立つ

l|こうしたタレスの・﹁生ける自然﹂の考えはまた︑アリストテレスが﹃形市上学﹄の第一巻において︑

タ レ

スが万有の根︑療を水であるとした理由を推定して述べている||

(5) 

﹁おそらくこの見解を彼は︑万物の生命を養うものが水であること︑また︵生物のもつ︶暖かさそのものが水

から生じ︑水によって生きることを︑観察して得たものであるう﹂

kp

臼 ・

g

g M

l

N

* 山市 *

という言葉からもひとつの裏づけをあたえられるであろう︒なぜなら︑この推定の内容そのものの当否は別としても︑

アη

ノス

トテ

レス

は︑

タレスが万有を生きている

︵ プ

ν

lュ

ヶー

をも

って

いる

と考えていたとい

5

前提が念頭にお

るのでなければ︑万有の根源が水ーであるとタレスが考えた理由を︑このようなかたちで推測しなかっただろうからで

ある︒少なくともアリストテレスのこの説明は︑プ

ν

lヶーが万有にゆきわたっているというタレスの閏月解を背後

におくことによって︑最も自然に理解できるであろう︒そしてこのような︑広大な宇宙に行きわたっでたえず活動を

あたえている生命力が︑

ω

にみ

られ

るよ

うに

﹁神﹂と呼ばれるのも不思議ではない︒おそらく﹁水﹂はタレスに

とっ

て︑

アリストテレスが﹃形而上学﹄で規定しているような素材的原因として・自覚されていたというよりは︑

む し

ろ﹃デ・アニマ﹄の一般的記述からうかがわれるように︑万有の根源︿アルケlH水日プVlヶ

lH

神という素

朴な等式の方が︑実際に近いのではないだろうか︒この点||

(6) 

﹁タレスによれば︑宇宙の心は神であり︑万有は生ける︵プ

vv

zl

ヶーをもっ︶ものであるとともに︑神々にみち

参照

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