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南アジア研究 第29号 003外川 昌彦「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム」

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(1)スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. スワーミー・ヴィヴェー カーナンダにおける 宗教とナショナリズム ―仏教とヒンドゥー教の関係を通して見た―. 外川昌彦 1 はじめに 日本の安倍首相は、2007年の訪印の際に、インド国会での演説でヴィ 1. ヴェーカーナンダを取り上げると、次のように述べている 。 「インドが生んだ偉大な宗教指導者、スワーミー・ヴィヴェーカーナ ンダの言葉をもって、本日のスピーチを始めることができますのは、私 にとってこのうえない喜びであります。 」 この演説の中でヴィヴェーカーナンダは、多様な文化を包摂するイン ドの「寛容の精神」を体現する存在と言及され、それはアショーカ王に さかのぼる歴史的背景を持ち、シカゴ宗教会議の活躍を通して世界史的 な意義を与えられ、岡倉天心らとの交流によって「拡大アジア」の未来 を象徴する存在として語られる。上下両院の国会議員は総立ちとなり、 この演説は満場の喝さいを浴びた。 その後、2014年に来日したインドのナレンドラ・モーディー首相は、 日印の特別戦略的グローバル・パートナーシップを提唱する京都会談の 席上で、ヴィヴェーカーナンダの本を安倍首相に贈呈する。ここで興味 執筆者紹介 とがわ まさひこ●東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 文化人類学 ・An Abode of the Goddess: Kingship, Caste and Sacrificial Organization in a Bengal Village. Manohar Publication, 2006年 ・Minorities and the State: Changing Social and Political Landscape of Bengal. Masahiko Togawa, et. al. (eds.) SAGE Publications, 2011年. 61.

(2) 南アジア研究第29号(2017年). 深いのは、安倍演説がヴィヴェーカーナンダの「寛容の精神」を強調す るのに対し、日印交流の象徴として取り上げるモーディー首相は、常々、 ヴィヴェーカーナンダを、数千年に渡るインドの偉大で力強い文明を体 2. 現する「インドの魂」として言及していることである 。 日印関係の新たな段階を象徴する両首相のヴィヴェーカーナンダへの 言及は、そのため近代インド史における歴史的な評価というより、新た な日印関係に向けられた同床異夢の交歓と言うべきかもしれない。 両者の視線が交錯する中で、しかし、両国の友好を象徴する存在とし て、改めて現代に言及されるヴィヴェーカーナンダが目指していたもの は何であったのか。本稿は、19世紀末のヒンドゥー教改革運動を主導し たヴィヴェーカーナンダの宗教観の変遷を通して、この問題に応えよう とするものである。 1-1 問題の所在 近代インドのヒンドゥー教改革運動を主導し、ラーマクリシュナ教団 を創設 し た ス ワ ー ミ ー・ヴ ィ ヴ ェ ー カ ー ナ ン ダ(Swami Vivekakananda, 1863-1902、シャミ・ビベカノンド)は、1893年のシカゴ万国宗教 会議では、ヒンドゥー教を、ヴェーダーンタ思想を根幹とする、高度な 思弁性を備えた宗教として紹介する。その後も欧米に留まり、講演活動 を続けたヴィヴェーカーナンダは、西欧世界に、合理的で体系的な宗教 としてのヒンドゥー教を初めて紹介したインド人とされ、ヨーガや菜食 生活などのヒンドゥー教文化を広めた東洋のグルの先駆けとなり、また、 グローバル化するインドの国民意識を体現する愛国主義者として、改め て注目されている。 そのヴィヴェーカーナンダが主導する宗教改革運動は、後述のように、 ヴェーダーンタ思想のアドヴァイタ論から導かれる個と全体の統一とい う理念を通して、インド国民に共有される宗教的基盤を与えるものとさ れる。しかし、個と全体の統一の理念は、多様な宗教文化を包摂する寛 容性の基盤を与えると同時に、究極的にはすべての宗教をも包摂する至 高の宗教という観点を通して、ヒンドゥー教中心主義を導く可能性も内 包する。 植民地支配に喘ぐ当時のインドの人々に愛国主義を鼓舞したヴィ ヴェーカーナンダのメッセージは、そのため独立後のインドにおいて、 62.

(3) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 特にグローバル化する今日のインドにおける宗教的多様性と宗教的マイ ノリティに関わる議論において、改めて問われていると言えるだろう。 そこではじめに、ヴィヴェーカーナンダの歴史的役割に関わる先行研究 を整理し、本稿の課題を位置付けたい。 1-2 近代ヒンドゥー教をめぐる二律背反的状況 ベンガルのナショナリズム運動におけるヴィヴェーカーナンダの役割 については、これまで特に、ブランモ・ショマジ(Brahma Samaj、ブラ フマ・サマージ)が提起した社会変革への人々の意識を、観念的な宗教 運動へ内向させ、その後の民族運動で課題となる政治的争点を、むしろ 後退させるものであったとされる。たとえば Aradinda Poddar[1977: 94-120]は、ヴィヴェーカーナンダが提起した社会奉仕活動は、広大なイ. ンドの貧困問題には非力であり、若者を鼓舞したメッセージとして知ら れる、インドが「スピリチュアリティで世界を征服する」ためには、まず 3. はインドの独立が先決であると指摘する 。 他方で、インドの精神性の高さを唱道するヴィヴェーカーナンダの活 躍が、若きガーンディーやラーダークリシュナンらの民族運動家を魅了 したように、人々に新たな国民意識を鼓舞したことも確かであろう。ポ ストコロニアルなインド社会の課題を通してその 意 義 を 読 み 解 く Gangeya Mukherji[2011:160-172]が指摘するように、ヴィヴェーカー ナンダがカーストの差別や貧富の差を超えたひとつの国民を唱道したこ とは、民族運動におけるその役割が、必ずしも非政治的な「宗教」には限 定されていなかったことを示している。 このようなナショナリストとしてのヴィヴェーカーナンダへの評価は、 これまで宗教改革の理念が社会変革に果たした役割を通して位置づけら れてきたが、同時に、宗教ナショナリズム運動への批判的な視線とも、 それは切り離せないものとなっていた。 たとえば、ヴィヴェーカーナンダの歴史的な役割を検証する Sumit Sarkar[1992]は、高い教育を受けた当時のカルカッタの若者がラーマ クリシュナ教団に魅了される背景にブランモ・ショマジが準備した人々 の社会変革への意識を指摘するが、最終的にそれは、宗教的理念によっ て曖昧化されるものと指摘する。このような観点を、植民地統治下のイ ンド社会の問題として取り上げた Partha Chatterjee[1992]に従えば、 63.

(4) 南アジア研究第29号(2017年). そこには民族主義運動を背景とした、当時の中間層の矛盾した社会意識 が指摘される。 植民地支配下のカルカッタの中間層は、高等教育や雇用を通してイン ド社会の特権的な立場を得ながら、同時に白人の為政者に対しては従属 的な立場にあるという、矛盾した意識を抱えていた。ここでヴィヴェー カーナンダは、高まるナショナリズムと白人支配者への脅威という中間 層が抱える葛藤を代弁する存在と位置づけられるが、しかし、社会奉仕 としての献身(バクティ)や奉仕(セーヴァ)といった内面的な信条が強 調されることで、植民地支配下の様々な政治的争点を見えにくくするも のであったと批判される。 この問題は、一方で、 「植民地エリートの傷んだエゴ」を癒すヴィ ヴェーカーナンダの愛国主義 的 な メ ッ セ ー ジ と い う Raychaudhuri [1988:236]の指摘に対応するが、他方で、Poddar[1997:94-120]に従 えば、それはインドの独立という政治争点から人々の目をそらす、ヴィ ヴェーカーナンダの政治的無関心として批判されることになる。 そこで以下では、ヴィヴェーカーナンダにおけるこの宗教性と政治性 をめぐる二律背反的状況を、植民地期の宗教とナショナリズムに関わる 先行研究を整理することで、次の2つの点から整理したい。 1-3 ナショナリストとしてのヴィヴェーカーナンダ 第一の論点は、高まる民族意識を背景としたヒンドゥー社会を統合す る役割としてのヒンドゥー教への評価である。19世紀後半のヒンドゥー 教改革運動は、近代主義と復古主義をめぐるブランモ・ショマジとヒン ドゥー保守勢力との論争や、近代宗教としての普遍主義と民族主義をめ ぐるブランモ内の主導権争いなどによって分裂を繰り返す。 ヴィヴェーカーナンダが構想する合理的で体系的な宗教としてのヒン ドゥー教は、山下[2002]が指摘するように、差別や迷信にまみれて争い が絶えず、国家意識や愛国心が欠如したインド社会という当時の西洋で の否定的なインド像を払拭し、インド文明の基盤としての精神性の高さ を内外に印象付けた。Chatterjee[1986]が「離陸の瞬間」と呼ぶ、ボン キムチョンドロのヒンドゥー教の再解釈を通した民族意識の高揚が、そ のエリート主義や主知主義、イスラームへの敵愾心などによって現実の 社会運動としては大衆的基盤を欠いた状況を踏まえると、国民意識に共 64.

(5) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 通の宗教的基盤を与えようとするヴィヴェーカーナンダの改革運動は、 その課題を受け継ぐ試みとして評価できるだろう。 ナショナリストとしてのヴィヴェーカーナンダの役割に注目する Shamita Basu[2002:12-39]に従えば、ヴィヴェーカーナンダが提示す るネオ・ヒンドゥー教は、インド民族主義運動の萌芽的な段階で、ヒン ドゥー社会の多様な対立を包摂し、インド国民に広く共有される宗教的 基盤を与えるものと位置づけられる。ここでは、アドヴァイタ論の個と 全体の統一が、インド国民の多様性を包摂する国民統合の理念として提 示され、四分五裂を繰り返すヒンドゥー教改革運動を架橋する思想的基 盤を与えるものと評価される。 たとえば、 「貧者の中に神を見る」 (daridra-narayan)という思想は、 ベンガル飢饉での救援活動や医療・教育への取り組みでの、貧富やカー ストの差別を超えた社会奉仕や献身を通して、 「母国への奉仕」の具体 4. 的な手段や組織を与える 。言語や民族が多様でカースト階層も多様であ るからこそインドでは、その統合の理念としての宗教の役割が期待され 5. たのである 。しかし、インドが植民地支配から脱し国民国家としての統 合を進める過程で、インドの文化的な多様性は、現実の政治過程を通し て様々な課題に直面することになる。第二の論点は、その多様なインド 国民を統合する思想的基盤としての、宗教ナショナリズムへの評価であ る。 すでに述べたように、多様な宗教伝統を包摂する優れた宗教という理 念は、ヒンドゥー教の優越性という観点を通して、排他的な宗教ナショ ナリズム運動にも流用される可能性を持つ。実際、ヴィヴェーカーナン ダは、後述のように、 「ブッダの教えはどれも、ヴェーダーンタの中に見 出すことが出来る」とし、 「キリストの教えは、ブッダの教えに遡ること 6. ができる」と述べて、関係者には様々な波紋を投げかけた 。今日のヒン ドゥー・ナショナリズム運動においても、そのためヴィヴェーカーナン ダは、西洋の物質主義を凌駕するインドの優れた霊性の体現者、あるい はグローバル化するインドのスピリチュアリティの提唱者、また、アー リヤ民族の偉大な歴史を称揚した最初のインド人として言及される。ヒ ンドゥー・ナショナリズム運動の系譜を検証する van der Veer[1994: 70]は、現代インドの宗教ナショナリズム運動の起源に触れると、次の. ように述べている。 65.

(6) 南アジア研究第29号(2017年). 「ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる種類のヒンドゥー・ナショナリ ズムの根底となる言説を生み出した…RSS/BJP/VHP が掲げるヒン ドゥー・ナショナリズムにも、それは霊感を与える主要な源泉となっ た。 」 van der Veer[1994:68-71;118]は、特にその具体例として、次の3 点をあげる。 (i)多様なインドの宗教思想を、ヴェーダーンタ思想を通 して体系化し、それを西洋の物質主義を凌駕するものとして提示し、 (ii)土着的な身体技法を体系化し、ヨーガとして世界に紹介するなど、 インドの精神文化による世界への貢献を強調し、 (iii)出家修行者による 国民への奉仕の実践など、ヒンドゥー教による民族主義運動への貢献を 唱え、それを実践したことである。現代のヒンドゥー・ナショナリズム 運動を主導する VHP や RSS の政治思想もまた、その意味ではヴィ ヴェーカーナンダと、 「言説のレベルではほとんど違いは見られない」 7. と指摘されることになる 。 実際、RSS の元事務総長 Eknath Ranade が創設したヴィヴェーカー ナンダ・センター(Vivekaranda Kendra)は、全インドに800以上の支 部を持ち、ヨーガの実践を通してヴィヴェーカーナンダ思想の普及を 8. 図っている 。2014年12月には、モーディー首相の提案によって「国際 ヨーガの日」が国連で決議され、世界各地でヨーガが実践されているが、 このようなヒンドゥー文化の称揚は、van der Veer が示唆するように、 「スピリチュアリティで世界を征服する」という言葉の現代的実践とも 9. 言えるだろう 。あるいは、ヒンドゥー・ナショナリストによる、1990 年代以降の「アーリヤ人侵入説」批判では、ヴィヴェーカーナンダは、こ 10. の侵入説を批判した先駆的な人物として様々に引用される 。 アーリヤ人侵入説は、19世紀のインド学や宗教学の基礎を築いた文献 学者マックス・ミュラーの提唱によって知られるインド民族の起源に関 する学説だが、ヴィヴェーカーナンダは、それを西洋の植民地主義に基 11. づく偏見として批判した 。ヒンドゥー・ナショナリストによる「アーリ ヤ人侵入説」批判では、そのため、 「ヴェーダの民」の人種的優越性をも 導く歴史解釈の根拠として、しばしばヴィヴェーカーンナンダが引用さ れる。インド古代史の泰斗 Romila Thapar[2008]が、近年のアーリヤ人 侵入説をめぐる論争では、ヴィヴェーカーナンダらの宗教者による神話 的な歴史解釈がもてはやされ、肝心の歴史研究者による実証的な研究に、 66.

(7) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 誰も耳を貸さなくなったと嘆く状況になっていた。 植民地支配に喘ぐ当時のインドの人々に熱烈な愛国主義を鼓舞した ヴィヴェーカーナンダのメッセージは、このように、独立後のインドの 宗教ナショナリズム運動では、アーリヤ人の至高の宗教の提唱者として 参照されることで、マイノリティ宗教に対する排他主義的な言説をも導 く余地を残していたと言えるだろう。 1-4 ヒンドゥー教中心主義の変遷 ヴィヴェーカーナンダにおけるこのようなヒンドゥー教中心主義、あ るいはヴェーダーンタ思想による諸宗教の包摂という観点については、 これまで様々な研究者が、それを一貫した思想的な立場として理解した。 たとえば、ヴィヴェーカーナンダの宗教観が現代のインド社会に影響を 与え、同時に欧米のインド社会観にもそれが反響していると述べる Richard King[1999:135-42]に従えば、ヒンドゥー教を世界の多様な宗 教を包摂する唯一の宗教とし、インド社会の優れた特質として提示しよ うとする姿勢が、ヴィヴェーカーナンダの著作や講演に広く見られる傾 向であると指摘する。特に King[1999:136]は、次の3つのレベルから、 その問題を指摘する。 第一のレベルは、ヒンドゥー教の多様性であり、ヴェーダーンタ思想 の核心にアドヴァイタ論が提示され、個と全体の一致が、多様な実践形 態を持つヒンドゥー教を包摂する理念として理解される。第二は、イン ド社会の多様性であり、ヴェーダーンタ思想が、歴史・文化的に多様な インド社会の諸伝統を包摂することで、仏教思想もまたヒンドゥー教の 一部として理解される。第三は、グローバルな世界の宗教や文化の多様 性であり、ここではアドヴァイタ論が、世界の諸宗教の伝統をも包摂す る優れた理念として提示される。 この King の整理は、ヴィヴェーカーナンダのヒンドゥー教理解の問 題点を包括的に整理するものとして重要である。しかし、同時にここで 残される疑問は、歴史的に多様なインドやアジアの宗教伝統を、それで はヴィヴェーカーナンダが、実際にはどのように認識し、また、それが 最終的にはどのように包摂されると考えていたのか、という問題であろ う。 後に検証するように、シカゴ会議でのヴィヴェーカーナンダは、キリ 67.

(8) 南アジア研究第29号(2017年). スト教や仏教との関係を通してヒンドゥー教を位置付けるが、その後の 3年半の欧米での活動を経ることで、独自の宗教史を構想する。イギリ スでマックス・ミュラーと面談したヴィヴェーカーナンダは、その学識 に賛仰を惜しまなかったが、二度目の渡欧を経てそのアーリヤ人学説に は疑問を抱くなど、欧米やインドでの活動や人々との交流を通して、イ ンド宗教への理解や言及にも、多様な変化が認められる。たとえば、先 述のアーリヤ人侵入説に対して、形質や人種の違いに拠らないインド人 12. の民族的一体性を強調すると、1901年には、次のように述べている 。 「アーリヤ人とドラヴィダ人といった言葉は、インドでは言語学から の借用に過ぎず、いわゆる形質学的な相違は、実効性のある確かな根拠 とはならない。…いわゆるアーリヤ人学説と、そこから派生する様々な 有害な議論が生み出す蜘蛛の巣を、穏やかに、しかし、しっかりと取り 除くことは、絶対に必要なことなのだ。 」 この記事では、インド・ヨーロッパ語の話者と人種的・形質的な特徴 とを同一視する当時の人種主義の誤謬を指摘しており、その「アーリヤ 人」説の本質主義的な理解への批判は、今日のヒンドゥー・ナショナリ ストによるアーリヤ人優越主義への強力な反論ともなっている。ヴェー ダの至高性に関する言及も、あるムスリムへの手紙では、次のように述 13. べている 。 「ヴェーダも聖書もコーランもないところに、私たちは人類を導きた いと願っている。しかし、これはヴェーダ、聖書、コーランの調和を通し てなされなければならない。 」 この記述と、いわゆるヒンドゥー教中心主義とは、世界の多様な宗教 伝統に優劣をつけないという意味で、その含意の差は大きいだろう。こ の文面がムスリムの友人に対して書かれていることを踏まえると、ヒン ドゥー教改革運動家としてのヴィヴェーカーナンダの言動は、これまで 指摘されているよりも、より柔軟で、文脈に応じた多義的な含意を示唆 するものと考えられる。インド社会の多様な文脈を踏まえたそのヒン ドゥー教への言及は、西洋文明への単なる反面像ではなく、ヒンドゥー 教の改革を通して現実の矛盾や断絶を架橋する運動として、改めてその 意味と背景を捉えなおす必要を示すものと言えるだろう。 以上の観点から、本稿では、特にヴィヴェーカーナンダの仏教への言 及を手掛かりとして、その宗教観の変遷を、次の4つの時期に区分して 68.

(9) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 検討する。①シカゴ宗教会議における仏教との類縁性を通したヒン ドゥー教の紹介、②3年半の欧米での活動を経た仏教を包摂するヒン ドゥー教という観点の提示、③1897年のインド帰還後の「仏教的退廃」 に関する認識の背景、④最晩年に言及された、仏教とヒンドゥー教との 関係についての「全面的革命」という問題である。. 2 仏教を通したヒンドゥー教の紹介 ―シカゴ宗教会議にて 1893年に、無名の若者としてシカゴ宗教会議に参加したヴィヴェー カーナンダは、仏教の偉大な伝統に言及しながら、それはヒンドゥー教 の一部でもあると説明する。当時の欧米のインド認識は、東洋学者やエ ドウィン・アーノルドの『アジアの光』によって、インド仏教はすぐれ た思想的伝統として評価されていたが、キリスト教宣教師などによる迷 信や差別に満ちた宗教という評価によって、ヒンドゥー教はインド社会 の後進性や堕落を象徴するものと見なされていた。ヴィヴェーカーナン ダは、そのため欧米で評価されている仏教を通して、ヒンドゥー教への 14. 15. 理解を求めたと考えられる 。以下は、その講演の一節である 。 「皆さんがお聞きになっているように、私は仏教徒ではないが、しか し、仏教徒でもあるのです。中国、日本、あるいはセイロンが、この偉大 な導師の教えに従っているとしたら、インドはそれを地上に現れた神の 化身として崇拝しているのです。…ヒンドゥー教(私がヒンドゥー教と いうのは、ヴェーダの宗教を意味します)と、今日、仏教と呼ばれるもの との関係は、ユダヤ教とキリスト教との関係とほとんど同じです。イエ ス・キリストはユダヤ人であり、シャーキャムニはヒンドゥーでした。 」 ここでヴィヴェーカーナンダは、欧米で高く評価されるブッダを、ヒ ンドゥー教でも化身と見なしていると述べ、ヒンドゥー教を受け継ぐ宗 教としての仏教を位置づける。東洋学が表象する偉大な仏教と、退廃す るヒンドゥー教という観点を相対化し、仏教との歴史的な関係を通して ヒンドゥー教を位置付ける。ユダヤ教とキリスト教の関係を、その比喩 として用いるなど、ここには欧米の聴衆に向けた、ヴィヴェーカーナン ダの様々な工夫もうかがえる。 当時の一般の聴衆は、 『アジアの光』のイメージも手伝い、実際にヴィ ヴェーカーナンダを、仏教僧と誤解する者もめずらしくなかった。その ため、会議を前にしたヴィヴェーカーナンダが、 「キリスト教徒の土 69.

(10) 南アジア研究第29号(2017年). 地」でどのようにヒンドゥー教を紹介したら良いのか、インドの兄弟弟 子アーラーシンガー・ペルマルへの手紙で、その胸中を、次のように 16. 語っている 。 「キリスト教徒である彼らは、ヒンドゥー教の幅広い物の見方と、ナ ザレの預言者イエスへの私の愛を、期待しています。私が彼らに話して いるのは、ガリラヤの偉大なる人物に敵対するいかなる教説も私は行わ ない、ということです。ただ私が彼らに頼んでいるのは、主イエスのよ うな偉大な人物と並んで、インドの偉人もまたその中に加えて、それを 認めてもらうことだけなのです。 」 シカゴ会議で好評を博したヴィヴェーカーナンダは、その後もアメリ カに残って活動を続けるが、キリスト教関係者による異教徒の布教活動 に対する誤解や批判が絶えず、また、インド側の神智学関係者などから の中傷もあり、当初のアメリカでの活動は多難を極めた。しかし、その 英語による優れたコミュニケーション能力と、理知的な枠組みが与えら れたヒンドゥー教への理解が進むにつれて、欧米での評価も徐々に高 まってゆく。ヴィヴェーカーナンダが語る仏教とヒンドゥー教の関係に も、それは微妙な変化を与えてゆくものと考えられる。. 3 仏教を包摂するヒンドゥー教 ―欧米での活動基盤の確立 シカゴ会議で好評を博したヴィヴェーカーナンダは、各地の講演会に 呼ばれ、その後も3年半に渡り欧米に留まり活動を続ける。具体的には、 ニューヨークではジョセフィーン・マクラウド、ボストンではブル夫人、 ロンドンではマーガレット・ノーブル(後のシスター・ニヴェーディ ター)などの有力な支援者を獲得し、サウザンアイランドなどの避暑地 での集中的なセミナーを行い、1894年11月にはニューヨークにヴェー ダーンタ協会を創設する。一連の講演を『ラージャ・ヨーガ』 、 『カル マ・ヨーガ』として編集・刊行すると、1896年には、ニューヨークにス ワーミー・サラーダーナンダ、ロンドンにはスワーミー・アヴェーダー ナンダを呼び寄せるなど、その成果が具体的な姿を見せるようになる。 キリスト教社会での無理解や批判を乗り越えて、こうして欧米での基 盤を築く中で、ヴィヴェーカーナンダのヒンドゥー教への言及も、仏教 との類縁性から、仏教をも包摂するヴェーダーンタ思想へと変化を見せ てゆくものと考えられる。 70.

(11) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. たとえば、1895年2月のブルックリン講演では、仏教を演題に取り上 げると、 「あらゆるブッダの教えは、すべてヴェーダーンタの中に見出 すことができます」と述べ、ヴェーダーンタ思想はブッダの教えをも包 17. 摂するという観点を提示する 。同年7月のサウザンアイランドでは、仏 教思想をヴェーダーンタ思想に統合したとされるシャンカラ(Sankara, 18. 700頃-750頃)を取り上げると、次のように述べている 。 「ブッダは偉大なヴェーダーンティストでした。 というのも、仏教 は、実際の所、ヴェーダーンタの一つの支流に過ぎませんでした。 そ して、シャンカラはしばしば『隠れた仏教徒』と呼ばれます。ブッダが分 析をし、シャンカラがそこからの統合を行いました。 」 ここでは、ヴェーダ思想からは異端とされインドでは衰退する仏教を、 思想的に継承するものとしてのシャンカラの歴史的な役割を強調するこ とで、ヒンドゥー思想の一部として理解する視点が示される。正統派の ヴェーダ思想とその権威と対立する仏教という既存の理解に対して、そ の矛盾を包摂する優れた思想体系としての、ヴェーダーンタが提示され る。 「仏教とヴェーダーンタ」と題された講演では、その経緯を、次のよ 19. うに述べている 。 「ヴェーダーンタの哲学は、仏教やインドにおけるあらゆるものの基 礎です。しかし、私たちが現代の学派のアドヴァイタ哲学と呼ぶものは、 仏教徒が導き出したものを実に多く含んでいます。もちろん、ヒン ドゥー教徒たちは、それを認めないでしょう。それは正統派ヒンドゥー 教徒です。なぜなら彼らにとって仏教徒は異端だからです。しかし、異 端をも包摂するために、教義全体を広く考える意識的な試みもあるので す。 」 このように、欧米での活動が進展するにつれ、それまでのヒンドゥー 教との類縁性の観点から、アドヴァイタ学派による継承・包摂という観 点が提示され、それはやがてヴェーダーンタ思想によるすべての宗教の 包摂という立場に結びつくと考えられる。シカゴ会議を前にして、胸中 の不安を吐露したヴィヴェーカーナンダは、2年後の1895年5月には、 20. 同じ兄弟弟子に対して、自信に満ちた言葉で、次のように述べている 。 「私の発見について述べてみましょう。すべての宗教はヴェーダーン タに内包されています。すなわち、それはヴェーダーンタ哲学の三つの ステージである、ドゥヴァイタ、ヴィシシュタードヴァイタ、アドヴァ 71.

(12) 南アジア研究第29号(2017年). イタです。それは順番に現れ、人間の霊的成長の三つの階梯を表します。 それぞれの段階は必須のものであり、それが宗教の本質なのです。イン ドの多様な民族的慣習・信条に適用されたヴェーダーンタが、ヒン ドゥー教です。第一のステージである、ヨーロッパの民族集団の理念に 適用されたドゥヴァイタは、キリスト教であり、セム的集団に適用され たものがイスラームです。ヨーガの認知形態に適用されたアドヴァイタ は、仏教なのです。 」 ここでヴィヴェーカーナンダは、マドヴァが提唱するドゥヴァイタ (二元論) 、ラーマーヌジャが提唱するヴィシシュタードヴァイタ(限定 付き不二一元論) 、シャンカラが提唱するアドヴァイタ(不二一元論)が、 世界の諸宗教の類型と、人間の霊的成長の発展段階に対応すると述べる。 霊的ステージの第一段階が、二元論的世界観に依拠したキリスト教とイ スラームであり、仏教は、ヨーガ的認知形態を通して第三ステージのア ドヴァイタに分類される。人間の霊的ステージの発展段階も、人類宗教 の発展段階に対応するものとされ、ヴェーダーンタ思想はその最終段階 に位置づけられる。ヴェーダーンタ思想は、こうして世界の諸宗教を包 摂する理念として把握されることになる。 このモデルはなお萌芽的ではあるが、当時の西洋中心主義的な宗教史 の理解に対する、ヒンドゥー教中心主義とも言うべき視点を与えている。 ハーバード・スペンサーやルイス・ヘンリー・モルガンらに見られた、 アニミズムから多神教、最終的にはキリスト教的な唯一神教に発展する という当時の欧米の宗教進化説に対する、ひとつのアンチテーゼとして の、宗教進化の体系を指摘することが可能だろう。 この点に関連して、マックス・ミュラーのインド観が東洋学に与えた 影響を強調するブレッケ[Brekke 2002:21-28]に従えば、ヴィヴェー カーナンダはミュラーの宗教進化説の影響を受けながら、しかし、最終 的には宗教の究極の進化形態にヴェーダーンタ思想を措定することで、 それはヒンドゥー教中心主義へと「偏向」したと批判される。 ヴェーダーンタ思想が、このような意味で世界の諸宗教を包摂する枠 組みとして提示されると、西洋文明はその発展段階の一部に位置づけら れることになる。先述の King[1999:135-142]の言葉に従えば、それは 西洋文明に対抗する「転倒した植民地主義」として、西洋の物質文明を も凌駕する「インドのスピリチュアリティ」という見地を導く余地を与 72.

(13) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. えるだろう。. 4 仏教的退廃の再征服 ―インドへの凱旋帰国 欧米での活動を成功裡に終えたヴィヴェーカーナンダは、1897年1月 にインドへの凱旋帰国を果たす。熱狂する聴衆を前にヴィヴェーカーナ ンダは、西洋の物質文明を凌駕するインド文明の精神性の高さを称揚す ると、コロンボからアルモーラーまでのインド縦断の講演旅行で人々を 魅了する。シカゴ会議やその後のヴィヴェーカーナンダの欧米での活躍 は、インドの宗教が、欧米のキリスト教社会をも席巻する優れた思想性 を持つ、ひとつの裏付けとも見なされたのである。 その帰国後のヴィヴェーカーナンダは、しかし、インドでの仏教文化 の歴史的な展開を「仏教的退廃」 (Buddhistic degradation)と述べると、 それは特にセイロン島のシンハラ仏教に対する批判として言及される。 21. 1897年1月のマドラスの講演では、次のように述べている 。 「最も忌まわしい儀式、人類がこれまで書いた、また人類の頭脳がこ れまで考えた、最も恐ろしく最も汚らわしい書物の数々、宗教の名前で 行われてきた最も野蛮な儀礼形態、これらはすべて堕落した仏教の産物 であった。…その後のインドのすべての仕事は、これらの仏教がもたら した退廃に対するヴェーダーンタによる再征服であった。それは今も続 いており、なお終っていない。シャンカラは、偉大な哲学者として現れ、 真の仏教の本質はヴェーダーンタのそれとほとんど変わらない、という ことを示した。しかし、その弟子たちは偉大な師の教えを理解せず、堕 落したのだ。 」 この「インドの聖者たち」と題された講演は、マドラスで行われた連 続講演のひとつである。 「真の仏教の本質はヴェーダーンタのそれとほ とんど変わらない」と述べながら、ブッダの弟子たちはその教えを理解 できず、宗教的退廃を生み出したとされる。シャンカラの運動は、ここ では「仏教がもたらした退廃に対するヴェーダーンタによる再征服」の 過程として位置付けられ、それは現在にも続く、インドの宗教的退廃に 対する、ヴェーダーンタ思想による改革の過程として把握される。 すでに述べたように、正統派ヒンドゥーからは異端とされる仏教を ヴェーダーンタ思想との類縁性から論じる視点は、アメリカの聴衆に向 けたヴィヴェーカーナンダの独特の捉え方であった。インドにおける仏 73.

(14) 南アジア研究第29号(2017年). 教的退廃をヴェーダーンタによる「再征服」の過程として捉えるこの歴 史観も、その意味では、当時の聴衆に向けた、インド宗教の現状に対す るメッセージとして読み取ることができるだろう。この問題は、マドラ 22. スでの最初の講演に、より明瞭に見ることができる 。 「今日、とりわけ南では、仏教や仏教的不可知論について語ることは ファッションになっている。私たちの今日の退廃が、仏教によってもた らされたことを、彼らは夢にも思わないだろう。それは、仏教が私たち に残した遺物なのだ。ゴータマ・ブッタの傑出した倫理や偉大な人格の おかげで仏教が広まったと記す、あなた方が読んでいる仏教の書物は、 仏教の盛衰の歴史について何も研究したことがない人々によって書かれ たものである。…偉大なる改革者シャンカラ師とその弟子たちが登場し、 この数百年の年月を経て、すなわち彼の時代から現代までの間に、 ヴェーダ的宗教の混じりけのない純粋さをインドの人々に取り戻そうと するゆっくりとした運動が続けられた。改革者は邪悪なものの存在を熟 知していたが、しかし、彼らはそれを非難することはなかった。…」 「私のキャンペーンの計画」と題されたこの講演は、欧米での活動を 振り返り、新たな運動に若者を鼓舞することで、後のラーマクリシュナ 教団の創設に結び付く、インドでの活動の宣言となっている。その中で、 初めにヴィヴェーカーナンダは、欧米では「語ることを控えていた」 、神 智学協会や保守的なキリスト教宣教師、同胞のインド人による妨害や中 傷などの様々な困難に触れるが、その最後にこの「仏教的退廃」の問題 に言及する。母国に戻り、新たなインドでの活動の見通しを述べる中で、 その胸中を吐露するものとなっている。 アメリカではキリスト教宣教師への批判を「控え」ていたヴィヴェー カーナンダは、しかし、やはりここでも、その具体的な批判の対象を明 言していない。大寺院の過剰な装飾や北辺異民族の改宗仏教徒、タント ラ仏教儀礼などの事例は示唆されるが、それがなぜ、ここで問題とされ るのかは明言していないのである。 やや唐突にも見えるこの時の仏教批判は、そのため、これまで十分に 23. は論じられてこなかった 。しかし、それを当時のインド社会の文脈に位 置付けることで、同時代の人々に向けたメッセージとして読み直すこと が可能になるだろう。たとえば、マドラス講演での発言に驚いたアメリ カの友人らの忠告に対して、ヴィヴェーカーナンダは自らの立場を説明 74.

(15) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 24. すると、次のように述べている 。 「ダルマパーラは好人物だ。私は、彼を愛している。しかし、彼が、イ ンド人の問題に口をはさもうとするのなら、完全に間違っている。彼ら が、醜悪なものとして、現代のヒンドゥー教と呼んでいるものが、実際 には仏教の残滓に過ぎないことに、私は完全に確信を持っている。…セ イロン訪問は、ただ私に失望をもたらした。ここで生きているのは、ヒ ンドゥー教徒だけである。仏教徒はすべて、ヨーロッパ人の物まねをす るだけだ。…かつて、私が考えていた真の仏教は、はるかに良いもので あった。しかし、私はその考えを、今では全く捨て去った。インドから仏 教が放逐された理由を、私は明瞭に見て取ることができる。 」 この手紙でヴィヴェーカーナンダは、シンハラ人仏教改革運動家アナ ガーリカ・ダルマパーラのインドへの関わりを批判すると、インド宗教 の退廃は仏教に起因するものであり、セイロン島での体験はそれに確信 を与え、 「真の仏教」への期待は失望に変わった、と述べている。 ここから読み取れるのは、マドラス講演での「ヴェーダーンタによる 仏教的退廃の再征服」の発言が、インドでの仏教徒の現状やダルマパー ラの活動を踏まえた、ヴィヴェーカーナンダによる新たな運動への呼び 25. かけとして語られている可能性であろう 。そこで次に、両者の関係を検 証して見たい。. 5 大菩提協会へのまなざし ―ラーマクシリュナ教団の創設 ダルマパーラとヴィヴェーカーナンダは、シカゴ宗教会議で知己を得 26. ると、書簡などで交流を深め、互いに協力関係にあった 。しかし、イン ド帰還後のヴィヴェーカーナンダは、シンハラ仏教の現状やダルマパー ラの活動には懸念を抱くようになる。たとえば、1897年1月15日にコロ ンボ港に上陸したヴィヴェーカーナンダは、現地の支持者の要請に応え、 27. キャンディを経てセイロン島を北上し、マドラスに渡る 。その途上で、 シンハラ仏教徒の現状を見聞したことは、その後の講演でも言及される 28. が、特にアヌラーダプラでの出来事を、次のように述べている 。 「かつて私は、アヌラーダプラへの講演に行った。ヒンドゥー教徒に 向けた講演であり、仏教徒に対してではなかった。それも、誰かの所有 地などではなく、オープンな広場で行われた。しかし、その講演の途中 で、仏教徒の僧侶や在家者、男女の一群が現れると、太鼓や鉦を叩き、す 75.

(16) 南アジア研究第29号(2017年). さまじい騒ぎを起こしたのだ。これについては、なんと述べたらよいだ ろう。せっかくの講演は中断され、流血の騒ぎになるところだった。私 は、大変な苦労の末に、ヒンドゥー教徒たちを説得し、我々は、ともかく 非殺生の教えを信奉しているのではないか、と話をした。こうして私は、 騒ぎを鎮めたのだ。 」 この出来事は、直後のマドラス講演では語られないが、私信での「セ イロン訪問は、ただ私に失望をもたらした」という記述を示唆するもの と考えられ、その後の仏教批判が、特にセイロンの「南伝仏教」に結び付 けられて語られる、ひとつの背景を与えている。 その後、ヴィヴェーカーナンダは2月19日にカルカッタに到着し、28 日には5,000人の聴衆を集めた歓迎会が開かれるが、その中にはフグリ河 畔に広壮な邸宅を構えるピアリ・モホン・ムカルジ(Raja Peary Mo29. hun Mukherjee)も含まれていた 。ピアリ・モホンは、政府への陳情団 体である英領インド人協会(British Indian Association)の有力者であ 30. り、ヴィヴェーカーナンダの支援者としても知られていた 。ヴィヴェー カーナンダがインドに到着した1897年1月は、ちょうど英領インド人協 会が日本の仏像の安置問題で、マハントの後ろ盾として政府への陳情書 を提出するなど、ブッダガヤ問題への関与を始めた時期にあたる[外川 2016a] 。そのため、 「インド人の問題に口をはさもうとする」という発言. の背景には、ピアリ・モホンらのカルカッタの支援者によるダルマパー 31. ラへの批判的な見解が、影響を与えた可能性が指摘されるだろう 。 実際、カルカッタでの熱烈な歓迎の後、5月1日にはラーマクリシュ ナ教団が創設されるが、その時の会合でヴィヴェーカーナンダは、 「仏 教徒の組織を通して仏教がインドや海外でどのように広まったのか」と 大菩提協会の活動を示唆すると、新たな教団創設の意義を語っている [Nikhilananda 1964:268-9] 。 創設間もないラーマクリシュナ教団は、この年のベンガル地方の大飢 饉を受けて、ムルシダーバードに弟子たちを派遣するなど、その後の社 会奉仕(セーヴァ)の原点となる救援活動を開始する。しかし、この時に は、すでに大菩提協会の活動が内外で知られており、シカゴ滞在中のダ ルマパーラは、国際的なネットワークを通じて義援金を呼びかけてい 32. た 。救援活動で先行する大菩提協会に対して、ヴィヴェーカーナンダの 活動は、規模や資金、海外でのネットワークなどの点でも、後れを取っ 76.

(17) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. ていた。被災地の兄弟弟子から、支援金が大菩提協会の名前で配られて いるという報告を受けたヴィヴェーカーナンダは、しかし、人々が飢え て死のうとしている時に議論をするべきではないと述べると、 「もし 『大菩提協会』がすべての名声を得たとしても、そうさせて置きなさい。 33. 貧しい人々が、恩恵を受けることが大切なのだ」と書き送っていた 。 以上は、ラーマクリシュナ教団を創設した当初のヴィヴェーカーナン ダによる、インドの活動で先行する大菩提協会への認識を物語ってい 34. る 。 ベンガル知識人の協力を得て、カルカッタに大菩提協会を設立し、 ブッダガヤを世界の仏教徒のセンターにしようとするダルマパーラと、 カルカッタにラーマクリシュナ教団を創設し、ヒンドゥー教の偉大さを インドの人々に唱道しようとするヴィヴェーカーナンダとは、様々な場 面で競合関係にあったと考えられる。アメリカで、キリスト教の宣教師 や神智学協会と競合すると見なされたヴィヴェーカーナンダが様々な妨 害や中傷を受ける経緯とも、それは重ねてみることができるだろう。ダ ルマパーラに、その仏教批判の真意について問われたヴィヴェーカーナ ンダの兄弟弟子が、 「マドラスでの仏教への攻撃は、政策的に必要なも のであった」と答えたという逸話は、その真相のひとつの側面を言い当 35. てているようで興味深い 。 しかし、両者に関わるより本質的な問題は、神智学運動に由来する宗 教的普遍主義に依拠し、世界の仏教徒の団結を訴えるダルマパーラの運 動が、ブッダガヤの僧院長マハントとの対立を深め、結果的にはインド の多数を占めるヒンドゥー教徒の支持を失ってゆくという経緯である。 ヒンドゥー教の改革運動を通してインドの人々に民族意識を呼びかける ヴィヴェーカーナンダが、ブッダガヤの係争をインド人の問題として位 置づけてゆく経緯と、それは対比して見ることができるだろう。ダルマ パーラに見られる国境や民族を越えた仏教徒への呼びかけから、植民地 支配下のインド人による新たな国民国家の希求へと、宗教と民族をめぐ る人々の意識の変化を、それは物語るものとも言えるだろう。 インドでの活動を前にヴィヴェーカーナンダが言及した「ヴェーダー ンタによる仏教的退廃の再征服」は、このような意味で、単なるインド 宗教史の解釈ではなく、シャンカラによる仏教的堕落の再征服という比 喩を通した、インドでの新たな運動への呼びかけとして理解することが 77.

(18) 南アジア研究第29号(2017年). 可能になる。 その後、1898年にフグリ河畔にベルル僧院を建立し、インド社会での 幅広い基盤を確立することで、やがてヴィヴェーカーナンダの仏教批判 は、影を潜めてゆく。二度目の欧米体験やインド社会での基盤を確立す ることで、その思索は、より内省的なインド宗教の探求に向けられるも のと考えられる。 1899年6月の二度目の欧米訪問は、健康の回復や欧米での活動の視察 などがその理由とされたが、人びとの一時的な熱狂が去り、ヒンドゥー 保守派の批判も続く中で、新たな信徒や教団の基金を募ることも意図さ れていた。しかし、この時には、ヴィヴェーカーナンダの体調の悪化を その聖性の喪失と見なす信徒も現れ、富裕な支援者であったヘンリー・ ミュラー嬢が去るなど、期待した成果は得られなかった。ロンドンでは、 「その仕事は粉々に砕けた」と述べ、カルフォルニアでは、 「最初のブー ムは去り、人々はお金を払いたがらない」と記すなど、露骨な拝金主義 36. や人種主義などの欧米社会の様々な矛盾には幻滅を深めてゆく 。 しかし、ヴィヴェーカーナンダにとってこの二度目の渡航は、時間を おいて欧米社会を見直す機会となり、東西文明の対立を克服しようとす る見地は、その文明論の代表作とされる『東と西』にまとめられる。また、 パリの宗教史学会に招待されるなど、欧米での様々な知識人との交流や 最新の学問に触れることで、その歴史観やインド文化への理解にも、文 明論的な視野と学問的裏付けが与えられてゆく。 実際に、その後のヴィヴェーカーナンダは、物質文明を凌駕するスピ リチュアリティという高揚した言及は影を潜め、死期が近づく1902年の 弟子との対話では、むしろそれは、宗教的な徳性の涵養を促す言葉とし 37. て用いられている 。本稿の課題に照らしてみると、西洋文明の反面像と しての「インドのスピリチュアリティ」という観点は、西洋と東洋の対 比を越えた内省的な検証を通して、独自の宗教観へとその思索を深めて 38. ゆくものと考えられる 。その最晩年に言及されたのが、仏教とヒン ドゥー教との関係についての「全面的革命」の問題である。. 6 仏教とネオ・ヒンドゥー教の「全面的革命」 その最晩年 6-1 「全面的革命」とは 1902年2月9日、ヴァーラーナシーの滞在先から弟子に宛てた手紙で 78.

(19) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. ヴィヴェーカーナンダは、ウパニシャッドが、少なくとも仏教よりも古 39. い伝統に根ざすものと指摘すると、次のように述べている 。 「仏教とネオ・ヒンドゥー教の関係についての全面的な革命が、私の 頭の中で起こっている。 」 この時にヴィヴェーカーナンダは、日本から訪れた岡倉天心を伴い ブッダガヤを訪れると、ヒンドゥー教僧院長マハントの客人として滞在 し、大菩提協会の活動を含めたブッダガヤ周辺の状況をつぶさに見聞す る。その後、2月4日にヴァーラーナシーに移動し、この手紙が書かれ た翌日に、アジャンター・エローラの踏査に出立する天心を見送ってい る。この文面は、大菩提協会のジャーナル編集者チャル・チョンドロ・ ボシュの仏教観に対する反論として書き始められているが、ヴェーダー ンタ思想と仏教との歴史的な関係を概観する中で、特に「ブッダガヤで 得られた新たな事実」として、シヴァ神信仰と大乗仏教の2つの論点に 触れている。 ブッダガヤでのヴィヴェーカーナンダは、毎日、マハントと対座し、 様々な宗教談議を行った[外川 2016b] 。ビハールの地方教団の僧院領主 であるマハントの視点を通して、シヴァ神信仰に根ざした人々の宗教実 践に触れることで、改めてヒンドゥー教の歴史的な展開を構想してゆく ものと考えられる。 また、この時には、カルカッタから同行した岡倉天心と、日本の大乗 仏教とインドのヴェーダーンタ思想との関係など、道中、様々な議論を 交わしていた。仏教の歴史的な系統について、それまでヴィヴェーカー ナンダは、英語の Northern Buddhism(北伝仏教)を用いたが、この手 紙では初めて、Mahayana Buddhism(大乗仏教)と記している。自らの ヒンドゥー教改革運動を、 「ネオ・ヒンドゥー教」と述べるのもこの時 が最初であり、天心との議論が、その記述にも影響を与えたことが推測 される。 「仏教とネオ・ヒンドゥー教の関係についての全面的革命」の 意味も、そのため、これらの「ブッダガヤで得られた新たな事実」を踏ま 40. えた検証が必要となるだろう 。 しかし、ヴィヴェーカーナンダは、その最晩年の宗教観としての「全 面的革命」の意図について明言することはなく、 「この着想を実現する まで自分が生きることはないだろう」と記すと、5か月後に逝去する。 そのため以下は、遺された資料による、その再構成の試みである。 79.

(20) 南アジア研究第29号(2017年). 6-2 シヴァ神信仰との連続性 ヴィヴェーカーナンダが、現地のシヴァ神信仰に関わる新たな知見と して、手紙の中で挙げているのは、次の5点である。 ①多様な形態を持つシヴァ神信仰は仏教よりも古く、ブッダガヤで見ら れるように、仏教徒はシヴァ派の聖地を取り込もうとして、結果的に今 日の祭壇がつくられた。 ②アグニ・プラーナにおけるガヤーシュラーの話にブッダは現れない。 それはラジェンドロラル博士が明らかにするように、仏教以前の話であ 41. る 。 ③ブッダは伽耶山(Gayashirsha)の山頂に居たので、この場所は仏教よ りも古い。 ④ガヤは以前より祖先崇拝の地であり、仏足跡信仰はヒンドゥーから取 り入れられた。 ⑤ヴァーラーナシーは、古い記録が示すように、偉大なシヴァ神信仰の 地であった。 以上で指摘されるのは、仏教の聖地ブッダガヤでの、仏教化以前のシ ヴァ神信仰の存在である。ブッダガヤの基層文化としてのシヴァ神信仰 への視点は、ブッダに由来する固有の聖地という観点から、それ以前の 土着の文化伝統に根差し、その中から仏教が生み出されたという歴史的 な経緯を示唆する。そのインド宗教の源泉を、この手紙では、ブッダガ ヤでの見聞に基づき人々の宗教実践に根差した、 「多様な形態を持つシ ヴァ神信仰」に求めている。 その基層文化としてのヒンドゥー教は、ここではなおシヴァ神に由来 する単系的な連続性として把握されるが、当時の文献学やブッダの行伝 を通した聖地への理解ではなく、自然崇拝などの民衆宗教の文脈を通し てインド宗教史の展開を把握するものとして興味深い。僧院長マハント との対話に見られるように、地域社会の文脈を通した民衆信仰への視点 は、聖典に依拠した歴史観を相対化し、その民衆的な展開を捉えなおす ことを可能にする。 ヒンドゥー教的伝統の多様性に注意を促す Beckerlegge[2000:52-78] は、ヴィヴェーカーナンダが構想するヒンドゥー教は、多様な古典籍か ら選択的に抽出され、日常的な宗教実践が捨象された、純化された宗教 であると批判する。しかし、ブッダガヤでの民衆信仰への視線は、なお 80.

(21) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 萌芽的なものではあるが、ヴィヴェーカーナンダがそれをただ古典籍の 観念から構想していた訳ではないというひとつの反証を与えるだろう。 「貧者の中に神を見る」というヴィヴェーカーナンダの民衆宗教への視 点は、このような地域社会の民衆的実践に裏付けを与えられることで、 多様な地域や階層を包摂する国民的な宗教基盤の構想を導くものと考え られる。 6-3 南伝と北伝の仏教 もう一つの論点は、アジアの諸宗教の伝統、特に日本を含めた大乗仏 教とヴェーダーンタとの関係である。先述の手紙では、次のように論じ ている。 「仏教の文献にはヴェーダーンタに言及しているものがあり、大乗仏 教の学説は、アドヴァイタ的ですらある。…私は、仏教の二つの学派の うち大乗の方がより古いと考えている。 」 原始仏教から部派仏教、大乗仏教へと展開する仏教史から見れば、大 乗仏教が歴史的に部派仏教よりも古いという事は、常識的にはあり得な い。しかし、この手紙の「大乗仏教」は、アドヴァイタ論との類縁性から 論じられ、大乗仏教は部派仏教に比定された南伝仏教よりも、その意味 ではより古い時代のアドヴァイタ論に通底している、という解釈を導く ことができる。 1897年2月のマドラスでは、 「日本の仏教は、ヴェーダーンタと同じ だ。セイロン仏教のように否定的で無神論的ではない。 」と述べていたが、 ここではより踏み込んで、大乗仏教をヴェーダーンタ思想との関係から 論じ、セインロン島の南伝仏教ではなく、日本に代表されるアジアの大 42. 乗仏教の中に、その思想に通底する宗教的な基盤が指摘される 。ここに はヴィヴェーカーナンダに同行した天心との対話が、その仏教理解に影 響を与えた可能性が指摘されるだろう。ベルル僧院で、ヴィヴェーカー ナンダと意気投合した天心は、その人物を称賛すると、次のような記事 43. を日本に送っている 。 「過般来当地に参りビベカナンダ師に面会致し候 師は気魄学識超然 抜群一代の名士と相見へ五天至処師を敬慕せざるはなし 而して師は大 乗を以て小乗に先んじたるものと論じ目下印度教は仏教より伝承せる事 を説き釈尊を以て印度未曽有の教主となせり 師は又英仏語を能くし泰 81.

(22) 南アジア研究第29号(2017年). 西最近の学理にも通じ東西を湊合して不二法門を説破す 議論風発古大 論師の面目あり 実に得難き人物と存候 出来得べくんば小生帰朝の際 同伴可致考に候」 ここで「大乗を以て小乗に先んじたるものと論じ」とし、印度教、すな わちヒンドゥー教は「仏教より伝承せる」とする天心の記事は、大乗仏 教が「アドヴァイタ的である」という、ヴィヴェーカーナンダの認識に 対応する。言い換えると、これは大乗仏教の方が小乗仏教(南伝仏教)よ りも、よりヴェーダーンタ思想との類縁性が高く、また、今日のネオ・ ヒンドゥー教の運動もその中から導き出されるとするヴィヴェーカーナ ンダの観点を、天心が書き残したものであることをうかがわせる。 実際には、南伝仏教と言っても多様であり、セイロン島での個別の体 験を一般化することには問題はあるが、北伝と南伝の仏教が認識論的に 区別され、アジア仏教の多様性を通してヴェーダーンタ思想が位置づけ られることで、諸宗教を包摂するヴェーダーンタ思想という観点が捉え なおされている。 東西文明の対比といったオリエンタリズム的図式への過大評価を批判 する Raychaudhuri[1988]によれば、 「スピリチュアリティ」が西洋に とっても他者ではないように、東西の文明を架橋するヴィヴェーカーナ ンダの思想的見地は、その対立を越えた人類の普遍的な課題を志向する 44. ものとされる 。岡倉天心による「泰西最近の学理にも通じ東西を湊合し て不二法門を説破す」という人物評もまた、 「西洋の近代科学にも精通 し東西文明の対立を総合するアドヴァイタ論の提唱者」として捉えるこ とができる。 その言及はなお限定的であるが、日本仏教などのアジアの多様な宗教 伝統を通してインド宗教を捉えなおす観点は、東西文明といった二項対 立の袋小路を越えて、多元的な相互交渉を通したインド宗教の発展経路 を構想する、新たな視点を与えるものとなる。. 7 ヒンドゥー教中心主義を越えて 序論でも述べたように、これまでヴィヴェーカーナンダの宗教観は、 たとえば Brekke[2003:41-60]に従えば、寛容性の姿を取ったヒン ドゥー教の優越主義とされ、シンハラ人に対するインド人の優越的視線 のように、すべての宗教を包摂するヴェーダーンタ思想という見地が、 82.

(23) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 最終的にはマイノリティ宗教への抑圧的言説を導くとされた。 しかし、本稿の資料が示すのは、ヒンドゥー教改革運動家としての ヴィヴェーカーナンダの、むしろ多様な文脈に即した柔軟な姿勢であり、 海外での学問的知見や知的交流を通して、その宗教観が深化してゆく経 緯であった。ヒンドゥー教中心主義という観点は、その意味では、当時 の多様な民族運動の文脈を通して再検討される必要があるだろう。 たとえば、社会運動の争点を宗教的信条に曖昧化したと批判される 1890年代のヴィヴェーカーナンダの改革運動は、その民衆的な宗教実践 を捉える視点を通して、多様な階層の人々が担い手となる国民的な宗教 基盤の構想を可能にする。その後のスワデシ運動の民族的な高揚を見る と、ここにはブランモ・ショマジの社会改革の課題を受け継ぎ、オロビ ンド・ゴーシュやマノベンドロナト・ラエへと連なる、社会思想のもう 45. ひとつの系譜を指摘することが可能だろう 。市民社会などの近代の理 念に異議を唱え、サッティヤーグラハ(真理の主張)やアヒンサー(非暴 力)などの土着の理念を通して人々に国民運動を呼びかけたガーン ディーへと、それは受け継がれてゆくことになる。 また、ヴィヴェーカーナンダの最晩年における、 「仏教とネオ・ヒン ドゥー教の関係についての全面的革命」は、アジアの多様な宗教伝統に ヴェーダーンタ思想を位置づけることで、西洋のオリエンタリズム的図 式への単なる対抗言説ではない、同時代のヒンドゥー教改革運動の課題 に結びつく、インド宗教の独自の発展経路の構想を可能にする。 そのインド宗教への内省的で多義的な文脈に開かれた視点は、ヴィ ヴェーカーナンダを通して語られる、宗教ナショナリズムや「寛容の精 神」をめぐる今日のインド社会の多様な課題を捉えなおすためにも、ひ とつの有益な知見を与えるだろう。 しかし、ヴィヴェーカーナンダは、その最晩年にブッダガヤで得られ た「全面的革命」の意図を明言することなく逝去する。その多様な文脈 を通してヒンドゥー教を捉えなおすヴィヴェーカーナンダの軌跡は、そ のため、インドにおける宗教とナショナリズムをめぐるより広い文脈を 通して、改めて検証される必要があるだろう。. 1 「二つの海の交わり」安倍晋三首相のデリー演説、2007年8月22日. 83.

(24) 南アジア研究第29号(2017年). 2. 若き日のナレンドラ・モーディーは、ラーマクリシュナ教団の修行僧となることを申し出 たことでも知られる[Ramakrishna Math 2017:14]。2012年のグジャラート州議会選挙で は、ヴィヴェーカーナンダの像を遊説に先導させたことで野党の批判を受けた(Economic Times, September, 21, 2012)。インド首相となった2015年11月のクアラルンプール訪問で は、ヴィヴェーカーナンダ像の除幕式に臨んで、それを数千年に渡るインドの偉大で力強 い文明を体現する「インドの魂」と称えた(The Tribune, November, 20, 2015, etc.)。その 州知事時代の有名な演説は、次の様である[Modi 2013]。「私は、スワーミー・ヴィヴェー カーナンダの言葉を強く信じ、敬意を払っている。…インドを世界の名だたる国にしたこ の偉大な人物の言葉を実現させるのは、私たちの責務ではないだろうか。今日、スワー ミー・ヴィヴェーカーナンダの生誕150周年を迎え、私たちの国の若者の力に拠って、繁栄 した偉大なるインドを生み出すことを、ここに私たちは約束しなければならない。…私に は、はっきりと見ることが出来る。スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの夢が間違いなく 実現され、若い世代の奮闘によって、インドが再び立ち上がり、世界のリーダーとなるこ とを。 」. 3. 「スピリチュアリティで世界を征服する」は、アメリカから凱旋帰国した1897年の講演で多 用された。インドの若者を鼓舞する言葉として、しばしば現在も言及される。この言葉の 用法については、特に冨澤[2013]が詳細な検証を行っており、本稿でも様々に示唆を与え られた。. 4. Swami-Shisya Sanbad, Belur Math, 1902, SBBR, Vo. 9, pp. 148-150. その他、Mukherji 2011: 160-172; Raychaudhuri 1988: 248-52; Sarkar 1992 など。. 5. The People of India, CWSV, Vol. VIII, pp. 241-243.. 6. CWSV, Vol. II, True Buddhism, p. 507-510; India s Gift to the World, p. 510-513.. 7. van der Veer[1994:135;2001:66-77]。同様に、Basu[2007]、Sarkar[1992]など。. 8. RSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh、インド民族義勇団)の元事務総長 Eknath Ranade が編纂したテキスト Rousing Call to Hindu Nation, 1963 は、「寛容の精神」とは異なる ヴィヴェーカーナンダ像が描き出されているものとして興味深い。絶版に追い込まれた Wendy Doniger の The Hindu: An Alternative History も、ヴィヴェーカーナンダを貶める という記述が、その理由の一つとされた。. 9. International Day of Yoga (11th, December, 2014、国連決議、A/RES/69/131.)。また、ヴィ ヴェーカーナンダが紹介したヨーガが欧米の身体技法として受容されてゆく経緯は、Carrette & King[2006:114-122]などを参照した。. 10. アーリヤ人侵入説は、インド・アーリヤ語を話す「アーリヤ人」がインド亜大陸に侵入し、. 「黒い肌」を持つ先住民を征服し、カースト制度等を生み出した、といったインド民族の歴 史に関わる学説である。ヒンドゥー・ナショナリストはそれを否定し、「アーリヤ人」はイ ンド亜大陸の優れた固有の民族であると主張し、ムスリムやキリスト教徒を「よそ者」と 見なすなど、マイノリティ宗教への抑圧的言説として用いられた。ヒンドゥー・ナショナ リストの著作では、その侵入説批判の先駆者としてヴィヴェーカーナンダが様々に引用さ れる。本稿では、その議論の中身には立ち入らないが、小谷[1993]、長田[2001]、梶原 [2012]などが、この問題を詳しく取り上げている。 11. 84. Pracya o Pashcatya, SBBR, Vol. 6, pp. 113-167.(Bengali,『東と西』).

(25) スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教とナショナリズム. 12. Aryans and Tamillians, Prabhuta Bharat, No. 54, Vol. VI, January, 1901, pp. 11-15. 特に、 アーリヤ人と非アーリヤ人との人種的な区別は、カーストの区別と同様に、宗教などのイ ンド国民の共通基盤に矛盾するとした。. 13. My Dear Friend, CWSV, Vol. VI., 10th June, 1898, pp. 415-6.. 14. たとえば、山下[2002]は、「欧米で好意的に迎えられていた仏教やブッダを、ヒンドゥー 側の伝統に摂り入れることによって、ヒンドゥー教の対外的イメージを改善し、擁護をは かろうと」したと指摘する。同様に、King[1999:135-42]、Raychaudhuri[1988:245]な ど。その他、ヴィヴェーカーナンダの仏教観については、近年では岡本[2014]や平野. [2013]等が意欲的な論考を公表しており、本稿でも様々に示唆を与えられた。師ラーマク リシュナと近代インドの問題については、臼田[2000]を参照されたい。 15. Buddhism, the Fulfilment of Hinduism, 26th September, 1893, CWSV, Vol. I, p. 21-23.. 16. Letter to Alasinga, 20th, August, 1893, CWSV, Vo. V, pp. 11-19.. 17. True Buddhism, 4th February, 1895, CWSV, Vol. II, p. 507-10.. 18. Inspired Talk, 19th July, 1985, CWSV, Vol. VII pp. 57-9.. 19. Buddhism and Vedanta, CWSV, Vol. V, pp. 279-281.. 20. Letter to Alasinga, 6th May, 1895, CWSV, Vol. V, pp. 79-83.. 21. The Sages of India, CWSV, Vol. III, pp. 248-268. なお、講演などで多用される Buddhistic degradation の用法とその訳語については、同じ文章の中でも、 「堕落した仏教の産物」. (the creation of degraded Buddhism)や「その恐るべきものすべては堕落した支配の結 果」 (All these horrors . . . are the outcome of that reign of degradation)といった表現も 見られ、 「仏教徒の退廃」、 「仏教の退廃」、 「仏教がもたらしたインド文化の退廃」などの 解釈が可能である。しかし、論文の中ではなるべく混乱を避け、統一した訳語として提示 する必要があるため、ここでは原則として「仏教的退廃」と訳出し、適宜、文章中では、 「仏教がもたらした退廃」と訳した。 22. My Plan of Campaign, CWSV, Vol. III, pp. 207-227.. 23. ヴィヴェーカーナンダの伝記的研究では、この時の仏教批判は主にダルマパーラとの個人 的な関係から説明される。たとえば、Sen[1993:287-362]は、大菩提協会の活動におけ るダルマパーラとの認識の違い、Brekke[2002:41-60]は、普遍主義的なダルマパーラに 対するヒンドゥー教の優越性を唱えるヴィヴェーカーナンダの排他的な姿勢を、その背景 に指摘する。それに対し本稿では、インドの国民的な宗教基盤や台頭する民族意識との関 係を通して検証する必要性を指摘する。. 24. Dear Mrs. Bull, 5th May, 1897, CWSV, Vol. VII, pp. 505-6. 1891年に大菩提協会(MahaBodhi Society)を創設し、ブッダガヤの復興運動を組織したシンハラ仏教徒アナガーリ カ・ダルマパーラ(1864-1933)の事績については、外川[2016a]を参照されたい。. 25. ヴィヴェーカーナンダが、異なる聴衆に応じて柔軟な対応をしていたことは、次の発言か らもうかがえる。「アメリカにいる時とインドでは、私は同じではありません。ここでは、 全国民が私を宗教的権威として注視します。アメリカでは、ただの宣教師で済んでいた。 ここでは、私が乗る車を王子が曳くが、アメリカでは上流のホテルに私が泊まることは許 されなかった。」May 5th, 1897, Dear Mrs. Bull, CWSV, Vol. 7, pp. 505-6.. 26. たとえば、ダルマパーラは、1894年4月にカルカッタで、ヴィヴェーカーナンダのシカゴ. 85.

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