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南アジア研究 第23号 003小尾 淳「「伝統」の「担い手」とは誰か」

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(1)

執筆者紹介

「伝統」の「担い手」とは誰か

─ナーラーヤナ・ティールタ・アーラーダナーの事例から─1

小尾 淳 

おびじゅん●大東文化大学大学院アジア地域研究科博士課程後期課程 地域研究、芸能 と社会関係 ・小尾淳、2009、「南インドにおけるアーラーダナー現象の考察─ナーラーヤナ・ティー ルタのアーラーダナーを中心に─」、大東文化大学提出修士学位論文。 ・小尾淳、2010、「現象化する『よさこい』系の祭りに見られる現代日本人像の一考察 ─南インドのアーラーダナー現象との比較を手がかりに─」、『大東アジア学論集』、10、

1 序論 

本稿の目的は、ナーラーヤナ・ティールタ(

N

ā

r

ā

ya

a T

ī

rtha ,

1675

?–

1745

?

)・アーラーダナー(ārādhanā)と呼ばれる、儀礼と音楽祭が一体 化した祭を事例として、「伝統」の「担い手」とはいかなる存在かを明 らかにすることにある。 ナーラーヤナ・ティールタ(以下、NT)は17世紀後半頃のアーンドラ 地方出身のテルグ・バラモンであり、インド各地を巡礼した後、タミル 地方に南下し、代表的作品である長編サンスクリット劇『クリシュナの 遊ゆ げ戯の波(Kṛṣṇa–līlā–taraṅginī)』を書いたといわれる楽聖である[Natarajan

1988

]。NTの楽曲はタランガム(Taraṅgamu2)と総称され、アーンドラ 地方発祥の伝統舞踊クーチプーディ(Kūcipūḍi3)や、主に南インドで盛 んな、いくつかの宗教芸能において重要な位置を占めてきた。各地に伝 承が残っている一方で、確固たる史料に乏しく、研究が十分になされて きたとは言い難い。したがって、南インド古典音楽(以下、カルナータ カ音楽)のフィールドにおいて、コンサートのレパートリーの圧倒的な 位置を占める三大楽聖4、すなわちティヤーガラージャ、ムットゥスワー ミ・ディークシタル(Muttusvāmi Dīkṣitar, 1775–1835)、シャーマ・シャ ーストリ(Śyāma Śāstri, 1762–1827)らと比較して、知名度は著しく低く、 執筆者紹介

(2)

演奏される機会も少なく、音源の商品化もわずかである。 アーラーダナーとは、字義的にはヒンドゥー寺院などで神に対して行 われる特別な「礼拝式」の意である[井上

2006

:

491

]。通常のバラモン の家庭祭式では、死者に対して、命日にシュラーッダṣrāddha(祖霊祭) と呼ばれる儀礼が行われるが、生前に出家し、死をもって解脱した者は 神聖視され、神と同様にアーラーダナーが行われる[井上

2006

:

491

]。 その中で、楽聖すなわち特に音楽的感性を評価されていた人[ラーガヴ ァン

2001

:

5

8

]の場合、儀礼に加えその前後に音楽演奏や芸能が付随 するという形式をとる。1960年代頃から、インド国内のみならず、アメ リカ、イギリスなどの西欧諸国をはじめとする南インド系移民コミュニ ティが存在する世界各地で、楽聖の名を冠したアーラーダナーが続々と 開始されるようになった(以下、本稿で言及するアーラーダナーは全て 楽聖のアーラーダナーを指す)。 その内のひとつである、ナーラーヤナ・ティールタ・アーラーダナー (以下、NTA)は1964年に開始され、毎年2– 3月頃、タミル・ナード ゥ州、タンジャーヴール県、ティルプーンドゥルティ村Tirupoonthuruthi (以下、T村)で3日間にわたって開催される。NTA実行委員会(Sri

Narayana Tirtha Swamikal Aradhana Utsava Committee)によって執り行わ れ、音楽愛好家を中心とした参加者約数百人が訪れる。演奏家はプロ・ アマチュアを問わず、NTの「タランガム」のみを演奏することが条件 とされ、儀礼と式典などを除き、期間中はあらかじめ決められたプログ ラムに従って、タランガム演奏や舞踊劇などが行なわれる。参加費は無 料で、主催者によって食事がふるまわれ、演奏者全員に若干の謝礼が支 払われるほか、遠方からの参加者には宿泊施設も用意されている。1980 年代から、主催者は活動範囲を広げ、NTA以外にも年間を通して関連 企画を熱心に行うようになった。しかし、後述するように、T村とNT の所縁は確固たる史実に裏付けられたものとは言い難く、T村にNTの 「伝統」が受け継がれてきたわけでもなかった。それにもかかわらず、近 年、カルナータカ音楽界においてNTに対する関心が高くなるにしたが い、「T村のNTA」という認識が定着し、「伝統的」であるとさえ見な されるようになったのである。 知名度が非常に低い楽聖のアーラーダナーを長年にわたって継続す るのは容易ではなかったはずである。主催者はどのような価値や使命感

(3)

をNTAに見出したのだろうか? また、いかにして彼は史料に乏しい NTの「伝統」を再構築し、その「担い手」と見なされるようになった のだろうか? 本稿では、これらの疑問を念頭に、NTAの主催者であるヴェンカテ ーシャン(V. Venkatesan)に焦点をあて、南インドの音楽的状況と関連 付けながら、「伝統」の「担い手」とはいかなる存在かを考察する。

2 先行研究

次に、各先行研究について述べる。 芸術・芸能研究において、実践者だけではなく、それらを取り巻く 人々や社会的事象に焦点を当てた研究は、徐々に増えつつあるがまだ少 数派であるといえる。その一端を担うであろうアーラーダナー研究につ いては、ジャクソン(W. Jackson)がティヤーガラージャ研究の一部で、 ティヤーガラージャのアーラーダナー(以下、TA)に言及しているも のの、現地の社会状況を考慮して論じたものではなかった[Jackson

1994

]。井上貴子は、TAを初めて全面的に研究対象として扱い、歴史 と全体構造を明らかにすると共に、それが発展するにつれて過熱した派 閥抗争の意味を分析した。最終的に、TAは19世紀末以降の音楽協会 の設立が発端となった音楽芸能の「民主化」の典型的な例として、「担 い手」の「民主化」を実現したと指摘した[井上

2006

:

544

]。すなわち、 正統性の強い弟子や親族でなくとも、「パトロン」という名の「信徒」で あれば誰でも「担い手」になることが可能となったのである。 本稿はアーラーダナー研究として井上の論に大きく依拠しつつも、こ れまで研究対象として扱われることのなかった、TAの模倣型の小規模 なアーラーダナーに着目することで、その「担い手」が創出した「伝統」 が、社会的に機能しはじめていることを指摘できるのではないかと考え る。 次に、代表的なNT研究を挙げる。ラーガヴァン(V. Raghavan)は、 最も初期にNTの作品に光をあて、彼の生涯を明らかにしようと試みた [Raghavan

1942

]。また、クリシュナムルティ(R. Krishnamurthy)は、17 世紀前半から18世紀後半に、ナーマ・シッダーンタ(Nāma–Siddhā

nta

5 の教義を唱えた、タミル地方で活躍した5人の聖者の1人としてNTを 紹介している[Krishnamurthy

1979

]。ナタラージャン(B. Na

ta

rajan)は、

(4)

アーンドラ・プラデーシュ州(以下、アーンドラ)とタミル・ナードゥ 州(以下、タミル)6の各研究者によって偏りがちであったNT像を客観 的に分析すると共に、『クリシュナの遊戯の波』のテクスト全文を英訳し た[Natarajan

1988

,

1990

]。サンバムールティ(P. Sambamurthy)は、カ ルナータカ音楽教育の現場で広く読まれている自著でNTを取り上げ、 少なくともタミルではある一定のNT像を定着させることに貢献した [Sambamurthy

2004

]。 以上のように、NTにかんする多角的な研究はまだ進んでおらず、N TAを扱った研究も皆無に等しい。本稿では、これらの先行研究に加え、 ヴェンカテーシャンがNTAの開催場所をめぐる論争に際し、開催の経 緯や変遷を公にし、その意義を主張する目的で作成した個人文書

[Venkatesan

1994

]や、インドの主要新聞『ザ・ヒンドゥー(The Hindu)』、

月刊インド音楽雑誌『シュルティ(Sruti)』も参照した。『シュルティ』 にはインド国内外のアーラーダナーの動向に関しても毎年多くのレポー トが掲載され、批判的に報告されるものも多い。なお、筆者が2005–07 年に行った現地調査で収集した情報も判断の材料とした。

3 アーラーダナーの増加

本題に入る前に、問題の背景となる、近年飛躍的に増加したアーラー ダナーの発端となった、TAの影響力について触れておく必要があるだ ろう。TAはタンジャーヴール県ティルヴァイヤール(Tiruvaiyaru)に あるティヤーガラージャのサマーディ(samādhi、三昧地)の前で、毎年 1月頃、約1週間にわたって開催される。今日のTAの形式は20世紀に 端を発し、以前は儀礼だけであったものに音楽やハリカター(Harikathā7) が導入され、次第に数日間にわたる大規模なものとなった。音楽祭に欠 かせない部分となっている『ガナラーガ・パンチャラトナム(Ghanarāga Pañcaratnamu、ガナラーガによる五つの至宝)』の唱和、女性の音楽家 の参加8、信仰やカーストに関係なく誰でも自由に参加できることなど、 多くの点において音楽界に変化を生み出した[井上

2006

:

452

545

]。そ

の一方で、国営テレビDoordarshanや全インドラジオ放送All India Radio の導入により、マスメディアに注目されることによる過度な広告や、儀 礼よりも華やかな音楽祭に重点がおかれた形骸化するTAの傾向を憂

(5)

析するにあたってブルデューの「場」の概念を導入し、「(略)今日の問 題は、アーラーダナーという場を利用して、いかに自己を表現するかを 競いあうものになったことから派生しているといえるだろう。そこには、 すでに「ティヤーガラージャ」は存在しない。存在するのは、その名を 冠した『場』だけである」[井上

2006

:

541

]と述べている。 TAが数千人を動員する南インド最大の音楽祭として発展すると、こ の影響をうけ、その形式を原型として模倣したアーラーダナーが急増し た。次第に、カルナータカ音楽界で知名度の低い楽聖に対しても同様の アーラーダナーが行われるようになり、生誕祭や奉納祭といった類似企 画にも派生していった。さらには、非居住インド人(NRI)の増加に 伴い、海外でも続々と開始されるようになったのである。海外で行われ るアーラーダナーの筆頭としては、アメリカのオハイオ州、クリーヴラ ンドのTA(1978年開始)が挙げられよう。これは、今日では11日間に わたって約6000人の参加者が集う、海外最大のインド音楽祭として知ら れている。公式ホームページ9によれば、同アーラーダナーがNRIコミ ュニティの拠り所や、若い世代への伝統的教育の継承といった「場」と して機能している様子がうかがえる。TAの成功後、時流に乗って開始 された亜流のアーラーダナーは、「聖者の魂を祀る」という本来の目的 から大きく隔たった感はある一方、「神聖さ」をまとった文化活動として 現代社会に適合し、急速に受容されていったといえよう。

4 南インドの「パトロン」観

ここでは、カルナータカ音楽やNTと関連が深い芸能が育まれてきた 歴史的背景を概観し、芸能に密接な関係をもつ「パトロン」(庇護者、後 援者)観について検討する。 NTAが行われているタンジャーヴール地方はかつて、ヴィジャヤナ ガル王国(1336–1649)10、マラーター11などのタミルにおける根拠地とな り、タミル伝統文化の中心地のひとつとして栄えた古都である。ナーヤ カ朝時代にはヴィジャヤナガルの文化がもたらされ、テルグ語とサンス クリット語の芸能が新たな展開を遂げた。また、マラーター時代には西 インドの文化がもたらされ、マラーティー語による文芸も育まれた[井 上

2006

:

407

]。歴代の支配者たちは芸能のよきパトロンであったばかり でなく、自ら多くの作品を残した。

(6)

タンジャーヴール・マラーター王朝の最後の王、サルフォージー Serfoji 2世(在位1798–1832)もまた、音楽ホールや図書館を建設し、芸能を 手厚く保護したことで知られる[ラーガヴァン

2001

:

84

]。1799年にイギ リスと条約を締結したあとは、ごくわずかな土地と支配権のみが割譲さ れ、王は有名無実となり、政治的権力を失っていく。しかし、このこと により、王はかえって文化摂取の追求に時間を費やし、宮廷を学びの殿 堂にしたという[Subramanian

1988

:

73

]。現在に至るまでカルナータカ 音楽界に影響を及ぼし続けている三大楽聖はこの時代に活躍し、18世紀 後半から19世紀後半は「カルナータカ音楽の黄金時代」と呼ばれてい る[井上

2006

:

407

]。 20世紀に入り、カルナータカ音楽の中心地がタンジャーヴール地方か らマドラス(現チェンナイ)に移行すると、その「伝統」は民間の「パ トロン」が担うようになった。その原点ともいえる広告を紹介してみよ う。現在、チェンナイで毎年盛大に行われている音楽と舞踊の祭典「マ ドラス音楽シーズン(Madras Music Season)」は、1928年にマドラス音 楽アカデミー(Madras Music Academy)の設立を記念して開始された。 開始当初の運営は容易でなく、出演者に払う謝礼もままならなかったと いう。続いて1933年に開始されたインド芸術協会(Indian Fine Arts Society) は資金捻出のために、タミル在住の富裕商人カーストの支援を 受けることを試みた。これに倣って、アカデミーもパトロンを探すよう になる。ただし、特定の政治団体との結びつきを懸念し「wholly solely and only for music(ただひたすら音楽のためだけに)」という広告を出し、 あらゆる有力者、企業家などにパトロネージを懇願したというのである。 これが功を奏し、州知事をはじめ出資する者が次々に現れ、今日までシ ーズンを支えてきたという[The Hindu

2010

.

12

.

1

]。無論、ある一面では 「高級文化(high culture)」と位置づけられる古典芸能のパトロネージに 対して、ステータスを見出す傾向はあろう。しかし、南インドにおいて 芸能の「パトロン」が一種の社会的貢献と捉えられ、芸術振興を支えて きたことは間違いないだろう12

5 NTの生涯、作品が関連する芸能、所縁の土地

次に、先行研究をもとに、一般的に定着しているNTの生涯にまつわ るエピソードと関係する芸能について概観する。

(7)

生没年は1675–1745年、出生場所はアーンドラ地方のカザ(Kaza)ま たはクチマンチ(Kuchimanchi、現ゴーダヴァリ県)で、タッラーヴァジ ャラ(

T

allāvajjhala13)というバラモンの一派に属していたという説が定 着している。NTは幼少のころから『バーガヴァタ・プラーナ(Bhāgavata Purāṇa)』を学び、ジャヤデーヴァのアシュタパディ(aṣṭapadi14)を好ん だといわれ、それらが彼の作品に影響していることは、各研究者の一致 した見解である。若年で結婚し、その後出家してサンニヤーシン (saṃnyāsin、現世放棄者)となり、北インドをはじめアーンドラ地方を 巡礼した。彼の作品にオリッサ地方プリーのジャガンナート神、アーン ドラ地方ヴェーダギリ(Vedagiri)のナラシンハ神などの記述が見られる [Jackson

1994

:

143

]。 NTはアーンドラ地方に滞在中、住民にタランガムを伝授したといわ れ、グントゥール県、クリシュナ県では現在もアーンドラ流のタランガ ムを継承する人々が確認されている[Natarajan

1988

:

152

]。また、序論 で述べたように、タランガムはクーチプーディ舞踊の単独レパートリー としても知られている。しかし、これらの「タランガム」はいずれも各 地で伝承されてきたもので、カルナータカ音楽の「コンサート」で演奏 される「タランガム」とは旋律が異なることが多い。 晩年に、NTは深刻な腹痛を患い、ティルパティに詣でたが、神の託 宣に従ってタミルに南下したという[Sambamurthy

2001

:

122

]。聖なる 猪15が現れ、それについて行くと、現在のヴァラフール村(以下、V村)16 に辿り着いた。NTはクリシュナ神の導きであると信じ、以後熱心な信 徒となり、クリシュナ神の遊戯を主題にした作品を創作した。最初のタ ランガムの歌詞から、V村のヴェーンカテーシュワラ(Veṅkaṭeśvara)に 捧げた作品であることが明らかであり[井上

2006

:

580

]、同村で執筆し たという説が定着した。 彼は執筆を終え、クリシュナの顕現を得たため、それ以降、創作は行 わずV村にしばらく滞在した後、タミル暦マーシ(Māci)月の白分の8 日(2– 3月頃)に瞑想に入り、生きたまま解脱したといわれている。そ の場所に関しては、現在NTAが行われているT村の寺院のマンゴーの 木の下で解脱したという説が定着した[Krishnamurthy

1979

:

67

]。しか しそれを裏付ける史料はないといってよい。 NTのタミル地方との深い結びつきは、タンジャーヴール・マラータ

(8)

ー時 代の最盛期に発 展したバジャナ・サンプラダーヤ(Bhajana Sampradāya)と呼ばれる芸能に見られる。これは、マハーラーシュトラ 地方発祥の、歌を交えて民衆に教えを説くキールタンと呼ばれる様式の 影響を受けており、ハリカターと並んで17–18世紀を代表的する宗教芸 能の筆頭として知られている[Sheeta

2001

:

532

533

、井上

2006

:

414

416

]。 以上のように、NTの生涯にまつわるエピソードや関連の深い芸能を 概観してみると、NTに所縁の土地の中でも、作品にその名が見られ、 執筆活動を行ったとされるV村の存在は大きい。同村はかつてブーパテ ィラージャプラム(Bhupathirajapuram)と呼ばれていたが、先述の言い 伝えに因んで、ヴァラーハプリ(Varahapuri)またはヴァラフール(猪 村)と呼ばれるようになったといわれるほど、NTと関係が深い。実際、 V村では音楽祭を伴わない0 0 0 0 0 0 0 0NTAが長年行われてきたという。しかし、 現在大々的にNTAが開催されているのはT村なのである。

6 寺院をめぐる論争

T村は、TA開催地と同じティルヴァイヤール郡に属し、人口は約 8400人、ヒンドゥー教徒が過半数を占める(2007年当時、筆者調べ)。村 の伝承によると、T村の名は7– 8世紀頃にすでに存在していたといい、 シヴァ派の聖者に縁の深い寺院が多く、周辺の7村が合同でシヴァ寺院 を巡礼する祭礼で知られている。 NTが祀られているという寺院は、管理人によればおよそ500年は経っ ているとのことであったが、明確な建立年は不明である。問題は、この寺 院には現在、2人の聖者が祀られていることにある。寺院のある土地は、 現在、南インドのシヴァ派に属する僧院のひとつ、クンドラックディ・ティ ルヴァンナーマライ・アーディーナム(Kunrakuḍi Tiruvaṇṇāmalai ātīnam)の 管理下に置かれており、アーディーナム側はこの寺院はシヴァ派の聖者 ティールタ・ナーラーヤナ(Tīrtha Nārāyaṇa)を祀ったものであると主 張する[Natarajan

1988

:

100

102

, Venka

ta

raman and Krishnamurthy

2003

:

50

]。寺院の入り口にはシヴァ神の乗り物とされる聖牛ナンディ(Nandi)像

が安置され、シヴァ派の寺院であることが推測される。

アーディーナム側は、聖者ティールタ・ナーラーヤナについて次のよ うに述べている。「ヴァーラーナシーのバラモンの家に生まれ、アナンタ

(9)

パドマナーバと名付けられた。彼は結婚したが、家族と離れ放浪したの ち、最終的にT村に辿り着いた」[Natarajan

1988

:

99

]。伝説のひとつに よれば、タンジャーヴール・マラーター王国のトゥラジャ2世(Tulaja、 在位1763–1787)の后の背骨の痛みを治し、その褒美としてT村の4エ ーカー(約4897坪)の土地を賜り、信徒に自分のサマーディを造るよう 指示したという。NT研究者のナタラージャンは、ティールタ・ナーラ ーヤナにまつわる伝説が、トゥラジャ2世とアマルシンハ(Amarsiṃha、 在位1787–98)に関係していることから、1760–1800年頃に存在した人 物であろうと推測している[Natarajan

1988

:

100

102

]。 一方、ヴェンカテーシャンは、あくまでもクリシュナ神を信奉するN Tの寺院であると主張する。彼によればサルフォージー2世が現在の土 地をNTに寄進し、その後1900年頃、同村の実力者が寺院を建立した と述べている[Venkatesan

1994

]。しかし、NTの推定没年を1745年と すると、サルフォージー2世(在位1798–1832)と同時期の人物とは考 え難い。また、NTの死後、およそ100年間は村民が日常的に灌頂 (abhiṣeka)などの儀式を行っていたとも述べているが、これも証明する のは難しい。ただし、寺院の近隣の住民によれば、村民はその聖者をグ ル・ナータ(Guru Nātha、崇高なる導師)と呼んでおり、病気や願掛け などの時に訪れていたという。本来は村の守護神的存在を祀る祠であっ たのであろう。 写 真 1  N T の 肖 像 画。 2007年度NTA開催時に 贈呈されたブロマイドから。 写真2  ティールタ・ ナーラーヤナの肖像画。 2007年5月筆者撮影。

(10)

以上のように、名前が酷似し、各地を転々とした生涯など、共通点の 多い2人の聖者(写真1、2)が混同された。寺院の権利の正統性をめ ぐる議論は、現在でも決着がついておらず、寺院内外にもこれらの矛盾 が表れている。内部の最も奥には「ティールタ・ナーラーヤナ」と記さ れた、年代を経た石碑が安置され、長い髭を蓄え、髪の毛を高く巻き上 げた人物の肖像画が頭上に掛けられている。一方、ヴェンカテーシャン らによりNTA開始後に印刷されたNTの肖像画(写真1)は寺院内に は確認できなかった。また、寺院内部の側壁面には、ヴェンカテーシャ ンが1993年にNTのタランガムの歌詞を刻印させた大理石碑が安置さ れている。 ラーガヴァンが意図的に2人の聖者を混同したと推測もできるが、N TA開始当時(1964年)は、NT研究がまだ進んでおらず、村民さえも 「誰を」祀った寺院かを認識していなかったことを考慮すると、ラーガヴ ァンの誤認であるというのが妥当だろう。NTもティールタ・ナーラー ヤナも共に歴史の中に「埋もれていた」聖者だった。無論、十分な裏付 けなしに、NTの正統性を主張するヴェンカテーシャンの姿勢は支持し がたいものがあるが、NTAが完全にT村に定着した今日では、論争が 表面化することはなくなっている。

7 NTAの成立と変遷

7–1 初期のNTA 次に、NTAの成立過程と変遷を、主にヴェンカテーシャンによる記 録[Venkatesan

1994

]や新聞、雑誌の記事をもとに、時系列的に跡付け する。主な出来事は年表にもまとめた(表1)。 NTAが開始された経緯は、1964年にヴェンカテーシャンがマドラス 音楽アカデミーでコンサートを行った際、当時アカデミーの事務局長で あったラーガヴァン(1908–79)が彼に声をかけ、「あなたは、T村出身 のハリカター音楽家、ヴィシュワナータ・バーガヴァタル(Viswanatha Bhagavatar, ?–195917)の息子か、もしそうならT村にアーンドラ地方出身 の偉大な聖者が祀られていることを知っているか」と尋ねたことに始ま る。ヴェンカテーシャンはこの時、村にある小さな寺院を思い出したが、 それにまつわる聖者の存在については全く知らなかったと述べている。 ラーガヴァンは、ヴェンカテーシャンがT村出身の音楽家であることか

(11)

ら、実行委員会を発足して、TAのような音楽祭を伴うNTAを行うこ とを勧めた[Venkatesan

1994

]。 ラーガヴァンは当時、マドラス大学のサンスクリット学部長(1955– 68)、マドラス音楽アカデミーの事務局長(1944–79)を歴任し、1962年 にはインド政府からパドマブーシャン(Padma Bhushan18)の文化・教育 部門を授与された、マドラス文化界における中心的存在であった。 一方、ヴェンカテーシャンは3代続く音楽一家に生まれ、幼少の頃か ら父親から音楽訓練を受け、高名な歌手アラトゥール兄弟(Alatur Brothers)の1人であるシュリーニヴァーサ・アイヤル(Srinivasa Iyer, 1912–80)に師事した後、音楽家として活動していた。しかし、全イン ドラジオ放送の格付けでは最も低いCグレード・アーティスト19に留ま り、家族を養うためにインド鉄道に勤めていたことからも、カルナータ カ音楽界の一線で活躍していたとは考え難い。 彼はしばしばT村に帰省しており、ラーガヴァンの話を受けるとすぐ 表1 NTA 年表 年 出来事 1745? NT没、村民による祖霊祭? 1965 アーラーダナー実行委員会を発足。6日間にわたって挙行。 1983 クリシュナ聖誕祭の開始。 1985 経済的困難のため、4日間に短縮。 1986 ティルプーンドゥルティNT財団の設立。 タミル文学音楽演劇協会とデリーの音楽演劇協会から助成を受ける。 タンジャーヴールに2ヶ所タランガム教室を開講。 アーンドラのカザでNT生誕祭を開始(共催)。 1988 3日間に短縮。NT以外の楽聖の楽曲を演奏禁止。 1993–95 T村NT寺院内にタランガムを刻印した大理石を安置。 1993 NTの連続ドラマが国営テレビ(タミル語版)で放送される。  1994 音楽シーズンに先駆けたタランガム音楽祭の開始(チェンナイ)。 1997 タランガム譜の改訂版を出版。 1999 T村にバジャナ用のホール(ナーマ・サンキールタナ・マニマンダパム)の建設。 2000 ホール2階に宿泊施設を増設。 2003 食堂(タランギニ・マハール)の建設、8月18日に落成式。 2005 郵政省がNT生誕祭330回目記念特別封筒を発行。 2006 デリーの音楽演劇研究所から助成を受ける。 2005–07 全インドラジオ放送の導入。 2009 マドラス音楽アカデミーで「偉大な作曲家の日」として「NTday」の開催。

(12)

に村の年長者や実力者に相談し、承諾を得て実行委員会を発足させたと

いう[Venkatesan

1994

]。彼はT村のバラモン居住区にNTAを行うのに

十分な土地を所有していたが、先述のように寺院の土地がシヴァ派の僧 院に帰属していたため、その司祭であるクンドラックディ・ポンナンバ ラ・アディガラール(Kunrakuḍi Ponnambala aṭikaḷār)を実行委員長に選

出せざるを得なかった[Venkatesan

1994

]。ただし、委員会の他のメン バーはほぼヴェンカテーシャンの血縁関係、友人、T村村民、またはイ ンド鉄道の同僚から構成されている(表2)。さらに、このメンバーは、 ほぼ終身であり、NTAが私的かつ独占的な組織で運営されていること が認められる。 1965年から本格的にNTAが開始され、村の富裕層からの寄付を資金 とし、ごく小規模ではあるが祭礼のほか、6日間、毎日二つのコンサー トとハリカターを行った[Venkatesan

1994

]。6日間という期間はTAに 倣ったものであろう。当初は、ヴェンカテーシャンの叔父や父親の人脈 を通じて、カルナータカ音楽界の巨匠センマンクディ・シュリーニヴァ ーサ・アイヤル(Semmangudi Srinivasa Iyer, 1908–2003)をはじめ、著 名音楽家らが参加を承諾したものの、他の楽聖の作品を歌う演奏家も少 なくなかったという。当時はNTのタランガムに定着したレパートリー が少なく、やむなく「タランガムを数曲含んでいること」を最低限の条 件とせざるを得なかった。後述するが、この状態は1988年まで続けられ ており、NTの知名度がカルナータカ音楽界でいかに低いものだったか を物語っていよう。なお、センマングディは1971年にNTの楽譜の出版 に携わっており、現在タミルを中心に定着しているNTのレパートリー の多くは、この楽譜に依拠している。 表2 NTA関係者一覧 ナーラーヤナ・ティールタ尊大祭協会及びアーラーダナー実行委員会(2007年当時) (T村に拠点、NTAの執行) 委員長 クンドラックディ・ポンナンバラ・アディガラール(シヴァ派僧院司祭) 副委員長 R・クリシュナスワーミ(同僚)、ガーデーラーオ・サーヒブ(T村地主) 会計係 V・ヴェンカテーシャン(本人) 書記 B・アナンタラーマン(甥) 副書記 T・S・ドゥライラージ、ニーラー・ラヴィチャンドラン(共にT村村民) 実行委員 13名(内6名はT村村民) 諮問委員 27名(内6名はT村村民)

(13)

7–2 NTAの変化期 次第にNTAの形態が整っていったが、開始から17年後の1982年に は、6日間でおよそ5万

7万5000ルピーがかかるようになったという。 主に、T村に演奏家を招聘するための交通費や、約300名分の無料の食 事などが大きな負担となった[

Venkatesan 1994

]。依然としてNTAの 資金源は有志からの寄付に頼っていたが、マドラスの文学音楽演劇協会

Iyal Isai Nataka Manram

)やデリーの音楽演劇研究所(

Sangeetha Natak

Academy

)から助成金を受けることもあった[The Hindu

1988.2.26

]。つ いに、経済困難から実行委員会は1985年からNTAを4日間に短縮す る。1986年には度重なる資金不足を解消するため、ヴェンカテーシャン は財団をマドラスに設立し、スポンサー探しに奔走したほか、年間2000 ルピーの寄付による永久会員制度を設けた。また、この年からタランガ ム教室(

Taranga Vidyasala

)を開講している。 経済的な問題のほかに、先述の寺院問題があった。正確な年は不明で あるが、この頃までアーディーナム側の要請により、実行委員会は

「ティールタ・ナーラーヤナ・アーラーダナー(

Sri Tirtha Narayana

Aradhana

)」と名乗ることを余儀なくされていた。さらに、アーディー ナム側は、このままではヴェンカテーシャンたちが土地を所有すること になるのではないかと危惧し、寺院と土地がアーディーナムに帰属して いることを示す看板をつけるまでに至った(写真3)。 1988年に、NTAは現在の形式である3日間に短縮された。同年に国 民的歌手スッブラクシュミー(M. S. Subbulakshmi)が参加した時、NT 写真3 寺院にアーディー ナム側が掲げた看板。タミ ル語で「T村のアナンタ・ パドマナーバ・ティールタ・ ナーラーヤナの土地─クン ドラックディ・ティルヴァ ンナーマライ・アーディー ナムに帰属する─」と記さ れている。2007年5月筆 者撮影。

(14)

以外の楽聖の楽曲が歌われていることを知った夫のサダーシヴァン(T. Sadasivan)が、「誰のためのアーラーダナーか」と強く批判した[The Hindu

1988

.

2

.

26

]。それ以降、ヴェンカテーシャンは一切タランガム以 外の曲の演奏を禁止するようになったという。また、同年にはナタラー ジャンが、初の英語によるNTの学術研究書および原典の英訳である 『クリシュナの遊戯の波』(第1巻)を出版した。 7–3 NTAの発展期 ここでは、1990年代から現在に至るまで、主にヴェンカテーシャンが 主体となってかかわった、NTA関連事項について確認する。 ⑴NTの寺院内にタランガムの歌詞を刻印した大理石碑を安置 (1993–95年) ティヤーガラージャのサマーディにある歌詞が彫られた石碑に倣っ て、ヴェンカテーシャンが合計11万7250ルピーを費やし、67曲のタ ランガムの歌詞を刻印。 ⑵タランガム音楽祭の開始(1994年)

NT

の楽曲普及を目的とし、チェンナイの音楽シーズンに先がけて 3日間にわたって開催。 ⑶バジャナを行うホールと宿泊施設の建設(1997–2003年)

文化庁(

The Department of Culture

Government of India

〉)か

ら助成を受け[The Hindu

2003.3.7

]、全体で220万ルピー20に上る予 算を組み、1997年から2003年まで2階建ての施設と食堂を建設。 落成式にはイエスダースをはじめとする著名人を招待し、記念碑が 設置された(表3)。 ⑷全インドラジオ放送の導入(2005–07年) 表 3 NTA関係者一覧 ティルプーンドゥルティ・尊師NT財団(2003年当時) (チェンナイに拠点、資金の管理及びNTA以外の催しの企画・運営) パトロン B・ナタラージャン(NT研究者)、V・ヴァイディヤナータン(実業家)、A・ラームジー(同僚) 管財人 N・V・スブラマニヤム(同僚)、K. イエスダース(歌手)、R・クリシュナムルティ(T村村民) 運営管財人 V・ヴェンカテーシャン(本人) T 村に安置されている記念碑をもとに筆者作成。 ローマ字表記は省略した。()内は肩書きを除き、ヴェンカテーシャンから見た関係を表す。

(15)

プログラムの最終日に全国同時放送。

TA

以外のアーラーダナーで は初の試みとなる。 以上のように、この時期のNTAはヴェンカテーシャンが中心となっ て、初期の低迷期から変化期を経て、目覚ましい発展を遂げたことは明 らかである。 7–4 現在のNTA 次に、NTAの内容を簡潔に述べる。 参加希望者は数ヶ月前にヴェンカテーシャンに直接申し込み、可否は 実行委員会によって決定される。プログラムは年によって多少変化があ

るが、2007年度のプログラム[

Sri Narayana Tirtha Swamikal Aradhana

Utsava Committee 2007

]によれば、およそ以下のようなものである。 1日目 早朝、寺院の本尊前で僧侶がガネーシャの礼拝を行う中、関 係者は会場内にコーラムを描く。ヴェーダに始まり、ティルマライ (

Tirumarai

、タミル 語 の 聖 典 )、ヴ ィシ ュ ヌ の 千 の 称 名(

Vi

ṣṇ

u

Sahasran

ā

ma

)など、聖典の詠唱が午前いっぱい続く。午後はナーガス ワラム21による「吉なる音楽」の演奏で開会式が始まる。式には地元の 写真4 2009年度NTAのウンチャヴルッティ(托鉢)を模した儀礼。http:// www.kutcheribuzz.com/news/20090321/Tirupoonthuruthi.aspから。

(16)

有力者をはじめ、国内外のカルナータカ音楽関係者などが来賓として招 かれる。その後、チェンナイなどから招聘したプロの歌手によるタラン ガムの演奏と、特にタミルで発展してきたバーガヴァタルによる語り芸、 ウパンニャーサム(upannyāsam)で終了する。 2日目 午前中から夕方まで一般の参加者が15

30分間隔でタラン ガムの発表を行う他、舞踊劇『クリシュナの遊戯の波』(年によっては バジャナ・サンプラダーヤ)が行われる。 3日目 午前中はウンチャヴリッティ(uñcavṛtti、托鉢)の再現が行 われる(写真4)。これは楽聖が毎日、神への讃歌を歌いながら家々をま わり、托鉢を行って生計を立てていた様子を模したもので、アーラーダ ナーの重要な儀式である。その後は2日目と同様、主に南インド各地か ら集まった参加者が発表を行う。夕方には、予め別の日取りで開催され た、タランガム教室の生徒によるコンテストの表彰式が行われる。クラ イマックスには、一流歌手による演奏が行われる。深夜のアーンジャ ネーヤ祭(Ā

ñjaneya Utsavam

22)でアーラーダナーは終了する。

8 NTAの影響

本節では、NTAのカルナータカ音楽界への影響について述べる。 まず、アーンドラとタミルのNT関係者が合同で、NTの伝統を継承 していく様子が見られるようになった。マスメディアを通じてNTAが 州外にも知られるようになると、それに刺激を受けたアーンドラのNT 所縁の土地の住民が、1986年にヴィジャヤワダでNT大祭委員会(Sri Narayana Tirtha Yatindra Satguru Swami Aradhana Mahotsava Committee) を発足させた。同委員長のラーマチャンドラ・ラーオ(T. S. Ramachandra Rao)とヴェンカテーシャンの交流が生まれ、毎年ラーオがNTAに、ヴ ェンカテーシャンがNTの生誕地とされるカザ村に赴き、生誕祭を共催 するようになった。 州を越えた活動が次第に評価され、2005年7月16日には、330回目の生 誕祭記念としてNTの特別封筒が郵政省(Department of Post)から発売さ れた[Sruti

2006

: Issue

263

,

39

41

]。これまでに南インドの楽聖としては ティヤーガラージャ(1961年)をはじめとする代表格の切手や特別封筒23 が発売されている。これによりNTの知名度がティヤーガラージャのそれ に比肩するに至ったというのは過大評価であるが、カルナータカ音楽界を

(17)

代表する楽聖のひとりとして認められたといってよいだろう。 また、2009年にマドラス音楽アカデミーで「偉大な作曲家の日」と題 されたイベントのひとつに三大楽聖と並んで「NTday」が開催された ことは特筆に値する。この日にはアーンドラに伝わってきた「伝統的」 タランガムに焦点が当てられ、NTからタランガムを直伝されたという 家族の末裔がタランガムを披露した[The Hindu

2009

.

12

.

18

]。これまで、 アーンドラのタランガムはタミルでほとんど注目されてこなかったこと を考えると、大きな変化である。 以上のような出来事から鑑みて、NTの存在をカルナータカ音楽界の 中心に位置づけるという点では、NTAは一定の成功を収めたと評価し てよいだろう。その一方、問題点としては、前述のV村が1999年にヴェ ンカテーシャンらに対してNTAの真正性を批判する内容を冊子にまと め、公にしたことである[Venkataraman and Krishnamurthy

2003

:

50

]。N TAの開催地にかんする是非はともかく、定着していくにつれてNTが にわかに注目を集めるようになり、所縁の土地がそれぞれのNTの「伝 統」を見直すことになったことは確実である。

9 結論 

最後に、結論として「伝統」の「担い手」とはいかなる存在なのかを、 これまでの事実関係を整理しつつ明らかにしたい。 これまで見てきたように、NTAの変遷と共に、ヴェンカテーシャン の姿勢も次第に変わっていった様子が見られる。ここで彼の「担い手」 としての変化を段階的に整理してみよう。開始当初、約20数年間は、N T以外の楽曲演奏を許可していた上、目立った活動も見られないことか ら(表1)、この時期は「音楽家」としてNTにかかわっていたことが認 められよう。しかし、1980年代後半から急な変化が見られる。1985年の 第1回目の期間短縮に伴い、1986年に財団を設立した頃から、徐々に外 部との交流が盛んになり、同年にはアーンドラでNT生誕祭を共催する ようになった。また、1988年には第2回目の期間短縮に踏み切っている。 この時期から、ヴェンカテーシャンのNTAに対する理想と現実の「ず れ」が解消され、本格的に「音楽家」から「パトロン」に移行していっ たといえるだろう。 1988年はNTAの周囲にも変化が見られた年であった。第一に、ナタ

(18)

ラージャンにより、初の英語によるNTの学術研究書『クリシュナの遊 戯の波』(第1巻)が出版された。これによって真否が不確かであった 各地のNTにかんする伝承が、客観的に分析され明らかにされた。また、 サンスクリット語の世界に留まっていた作品が、「ローカル」を超え「グ ローカル」に移行していったことを意味する。ただし、NTが「グロー バル」な存在になるにはまだ時間がかかるといわざるを得ない。第二に、 7– 2で言及したサダーシヴァンの苦言である。これにより、ヴェンカ テーシャンはタランガムの一元化に踏み切った。第三に、NTAが本格 的にマスメディアで取り上げられるようになったことが挙げられる[The Hindu

1988

.

2

.

26

]。以上のように、周囲がNTAに関心を持ち始め、評 価するようになったことがヴェンカテーシャンの意識を外向きに変化さ せていったといえよう。 一方で、ナタラージャンの研究によりNTの「T村滞在説」は不利な 状況に置かれる結果となり、NTAを継続するにあたり、「伝統」の再 構築は避けられない問題であった。ヴェンカテーシャンは次のような方 法で、NTのT村における「伝統」の連続性を世間に印象付けることを 試みた。 不確かな伝説に依拠する代わりに、効果的かつ即効性があるのは「伝 統」の「可視化」、すなわちモノによる補完ではないだろうか。まず、ヴ ェンカテーシャンはNTの視覚的イメージを、一般に流通させることを 試みた。カラー印刷の肖像画には、T村とNTのほぼ唯一の接点である、 サマーディにあるマンゴーの木がはっきりと描かれている。1993–95年 には、歌詞を刻印した大理石碑を寺院に安置した。これは、ティヤーガ ラージャの「伝統」を意図的に模倣しただけでなく、先の寺院問題に抗 するヴェンカテーシャンの強い姿勢の表れといえるだろう。さらに、1999 年から2003年までの大がかりな建設プロジェクトは、NTAがT村へ固 定化された印象を強めた。 以上のように、彼はゼロに近かったT村におけるNTの「伝統」を視 覚的に再構築し、世間を錯覚させるに至ったのである。 「伝統」の再構築に多くの矛盾や不利な条件を抱えていたにもかかわら ず、彼をここまで駆り立てた強い動機は何であったのか。NTA開始当 初、ヴェンカテーシャンの音楽家としての地位は低く、厳しい業界で自 らの存在感を示すようなアイデンティティを模索していたと考えられる。

(19)

彼が、当時一流の文化人であったラーガヴァンから、名も知らぬ楽聖の アーラーダナーの話を受け、価値を見出したのも不自然なことではない だろう。さらに、4で言及したように、南インドの文化的背景として、芸 術振興は社会貢献の一環として行われてきたことがある。マイナーでは あるが重要な楽聖を発掘し、光をあてることは、「音楽家」とは異なる 形で芸術振興に貢献する機会であり、さらには「社会的栄誉」の獲得に つながると考えられる。NTAが完全に定着した今日、ヴェンカテーシ ャンはほぼ独占的に1人の楽聖のアーラーダナーを担う栄誉を獲得し たといってよいだろう。 以上のように、現代における「伝統」の「担い手」とは、その「正統 性」よりも、存続への強い希求をもち、なおかつ自らがおかれる社会の 発展に寄与する可能性をもつ存在であるといえよう。その役割を果たす ためには、ネットワークを構築する知識・人脈・交渉能力をもち、時に は戦略的であることが求められる。本稿のキーパーソンであるヴェンカ テーシャンは、時代の流れに合わせて戦略的に「伝統」を再構築し、「音 楽家」から「パトロン」に生まれ変わった。それは、歴史に「埋もれて いた」NTをより正統な歴史の流れに位置づける一方で、「周縁」に留 まっていた「音楽家」としての自分自身を、カルナータカ音楽界の「中 心」に近づけるプロセスであったとも捉えられる。 更なる「伝統」の創造に向けての絶えざる過程の中に、現代における アーラーダナーの存在意義を位置づけることが、今後の研究課題である。 凡例 1 本稿で記述するインド系言語にはサンスクリット語、タミル語、テルグ語などがある。これ らの言語は、原則として初出のみカタカナ表記の後にローマ字表記し、2 回目以降はカタカナ表 記のみとする。表記法に関しては、『南アジアを知る事典』[辛島他 1992: 930–931]に従った。 2 本稿で扱う校訂されたテクストが多言語の文字表記の場合、校訂者序文や翻訳などに用い られている言語の文字のローマ字表記を採用する。同じ語が異なった言語で用いられる場合の ローマ字表記の選択に関しては、基本的な音楽用語はサンスクリット語を、テルグ語芸能に限 定される場合には該当する言語を随時選択する。なお、近現代の地名・人名では、原則的に上 記の表記法によらず、現地綴り、本人による綴りを補助記号なしのローマ字で示す。日本語の カタカナ表記が定着していると思われる地名についてはローマ字表記を省略する。

(20)

1 本稿は、2010年5月15日に行われた、NIHUプログラム「現代インド地域研究」東京外国語大 学若手研究セミナー「南アジア芸能から見る現在」において「伝統の担い手の資質─南イン ドにおけるアーラーダナーの事例を中心に─」と題して口頭発表した内容に加筆修正した ものである。本稿の執筆にあたり、井上貴子教授にご指導とご助言を、2名の匿名査読の先 生方には有益なコメントを賜った。この場を借りて深く感謝申し上げる次第である。また、 編集委員の先生方に多大なご助力を頂いたことに、改めて感謝の意を表したい。 2 タランガムとは『クリシュナの遊戯の波』の各章を指す。ジャヤデーヴァの『ギータ・ゴー ヴィンダ(Gīta Govinda)』の12章サルガ(sarga)に倣って、12のタランガから構成される。し かし各タランガに含まれる曲数は『ギータ・ゴーヴィンダ』と比較して圧倒的に多く、少なく とも十数曲にのぼる。各タランガは、それに加えてシュローカ(śloka、散文詩)や散文による 物語の説明から構成される[井上 2006: 578]。 3 クーチプーディは南インドを代表する舞踊のひとつである。クーチプーディという名称は、 この舞踊劇が上演される村の名前に由来し、舞踊劇を上演するバラモンたちはクーチプー ディ・バーガヴァトゥル(bhāgavatulu、バーガヴァタの複数形)と呼ばれている[井上2007: 631–637]。 4「楽聖」の原語はサンスクリット語で「言葉と歌の達人」を意味するvāggeyakāra である。 5 ナーマ、すなわち神の名前を唱えることで罪が消え、健康や豊穣が与えられ、最終的に精神 の解放が得られるという教義である[Krishnamurthy 1979: 20]。 6 本稿ではタミル系民族を表す「タミル」は現れないため、ここでの略語「タミル」はすべて地 域の名称を指す。 7 歌と語りによって神話や神(主にヴィシュヌ神、クリシュナ神)の物語を伝える様式である。 立って演じるときは、語り手は音楽のみならず、舞踊の技術も求められる。カター・カーラク シェーパム(Kathā kālakṣepam、字義的には「語りで時を過ごす」の意)とも呼ばれる。 8 1921年にバンガロール出身の著名デーヴァダーシー、ナーガラトナーンマールBangalore Nagaratnammal が、夢でティヤーガラージャの顕現を見て、サマーディの寺院建立に着手す る。1926年にナーガラトナーンマール派が創設され、彼女がTAに介入することでTAに重要 な局面が訪れた[井上 2006: 503509]。 9 http://www.aradhana.org/(2010年10月20日閲覧)。 10 14世紀初めからイギリス東インド会社の侵入までの約300年間、南インド一帯を統治したヒ ンドゥー王国。度重なるムスリムの侵攻により、1649年に滅亡した。 11 タンジャーヴール・ナーヤカとマドゥライ・ナーヤカの関係が悪化し、1673年、ナーヤカによ るタンジャーヴール支配は実質的に終わる。次期後継者をめぐって複雑な攻防が行われた 末、最終的には、直接関係のないビージャプル(Bijapur)王国のスルターンに派遣されたエー コージー(Ekoji)〈またはヴェーンコージー(Veṅkojī) 〉(在位1676–84)が、タンジャーヴール を無血開城させ、攻略した。これによりナーヤカ朝のタンジャーヴール支配が終った。 12 例えば、チェンナイに拠点を置く大手サリー・メーカー「ナッリ(Nalli)」の社長ナッリ・クッ プサーミ・チェッティヤール(Nalli Kuppuswami Chettiar)は、チェンナイ市内の六つの劇場の 会長である他、各地の伝統芸能のパトロンである。これに追随するように、他のサリー・メー カーも積極的に広告を出している。

(21)

13 タッラーヴァジャラの一派は出家して巡礼する習慣をもち、彼もその習慣に従って各地を 巡礼したため、同じ場所に長く滞在することはなかったという[Natarajan 1988: 160–163]。 14 12世紀、ベンガル地方の詩人ジャヤデーヴァによって書かれた、牛飼い姿のクリシュナ神と 牛飼い女ラーダーとの恋愛模様を官能的に描き出した『ギータ・ゴーヴィンダ』の中の各曲 である[井上 2006: 385]。 15 ヒンドゥー神話による、ヴィシュヌ神の3番目の化身を象徴していると思われる。 16 V村はタンジャーウール県ティルヴァイヤール郡に属し、タンジャーヴール中心部から北 西約25㎞、ティルヴァイヤールから南西15㎞の、カーヴェリ河支流であるクダムルティ (Kudamurti)沿いに位置する。 17 「バーガヴァタル」とは、南インドでバラモン男性の音楽家や役者を指す尊称のことである [Sambamurty 1984a: 43]。ヴェンカテーシャンの父については調査が不十分であるが、叔父の マーングディ・チダンバラ・バーガヴァタル(Mangudi Chidambala Bhagavatar, 1880–1938)は、 当時のハリカター界を代表する1人であった[Srinivasan 2001: 274]。

18 インド政府から卓越した芸術家に対して授与される褒章のひとつである。

19 全インドラジオ放送所属アーティストに与えられている格付けである。最も低いCから始ま

り、B、B–High、A、A–Top まである。

20 1998年当時、220万ルピーは約695万2000円(換算レート: 31.6ルピー= 約100円)。【Pacific Exchange Rate Service】http://fx.sauder.ubc.ca/etc/USDpages.pdfを参照。

21 オーボエ型の楽器(重舌のリードをつけて演奏する気鳴楽器)である。 22 アーラーダナーと同様の祭礼では必ず行われる。ラーマの忠実な下僕アーンジャネーヤ(ハ ヌマーン)、すなわち「信徒」の祭である[井上 2007: 526]。 23 他にプランダラダーサ(Purandaradāsa、1964年)の切手、アルナギリナータル(Aruṇakirinātar、 1975年)、アンナマーチャーリヤ(Annamācārya、2004年)の特別封筒が発行されている。 参照文献

Gurumurthy, P., 1994, Kathakalaksepa: A Study , Madras: International Society for the Investigation of Ancient Civilisations.

ホブズボウム、E・T・レンジャー(編)、前川啓治ほか(訳)、1992『創られた伝統』、紀伊國屋書店、 (Eric Hobsbawm and Terence Ranger eds.: The Invention of Tradition, Cambridge: Cambridge University Press, 1983)。

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Jackson, William. J., 1994, Tyagaraja and the Renewal of Tradition: Translations and Reflections, Delhi: Motilal Banarsidass Publishers.

辛島昇ほか(編)、1992『南インドを知る事典』、平凡社。、

Krishnamurthy, R., 1979, The Saints of the Cauvery Delta, New Delhi: Concept Publishing Company.

Natarajan, B., 1988, Sri Krishna Leela Taranagini by Narayana Tirtha, Vol. I(Tarangams I to VI), Madras: Mudgala Trust.

(22)

Mudgala Trust.

Raghavan, V., 1942, “The Parijatharana Nataka of Narayana Tirtha”, The Journal of the Music

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Sruti: South Indian Classical Music and Dance Monthly, Madras (Chennai): P. S. Narayan on behalf of

the Sruti Foundation from ALAPANA.

The Hindu, Madras (Chennai): Kastri & Sons.

音楽祭のプログラム

Sri Narayana Tirtha Swamikal Aradhana Utsava Committee Sri Narayana Tirtta

Svamikalin259-vatu antu Aratanai Vila, Tirupoonthurutthi, 2007.

現地語テクスト

Srinivasan, N., 2001, Katha kalaksepa Kalaiyum Kalaijargalm, Chennai: Goodbooks Publications. Venkataraman, Varahur V. K., and Varahur V. Krishnamurthy, 2003, Varakur Stala Varalaru

marrum Sri Narayana Tirttar Carittiram, Chennai: Varahur Adittar Vaittiswara Iyer

(23)

要旨 近年、カルナータカ音楽の楽聖の慰霊祭にあたる儀礼に音楽祭などが伴うアー ラーダナーが、南インドを中心に海外でも多く開催されるようになった。本稿で は、タミル・ナードゥ州で行われている楽聖ナーラーヤナ・ティールタのアーラー ダナー(NTA)を事例として取り上げ、その担い手とはいかなる存在であるか を明らかにする。ナーラーヤナ・ティールタの作品はいくつかの宗教芸能で重要 な位置を占めているが、カルナータカ音楽界での知名度は他の楽聖と比較して非 常に低く、アーラーダナーを行う上でいくつかの矛盾を抱えており、不利な状況 にあった。それにもかかわらず、主催者のヴェンカテーシャンにより、徐々にN TAの一般的なイメージが形成され、近年では「伝統的」であるとさえ認識され ている。芸術振興が盛んな社会を背景に、彼がいかにしてNTAの「伝統」を再 構築したかを検討する。 Summary

Who is the “bearer” of “tradition”?

Focusing on the

Nārāyaṇa Tīrtha Ārādhanā

Jun Obi

In recent years, the ārādhanās with music concerts of saint composers such as Thyagaraja are held not only in India but even in the South Indian communities abroad. This paper focuses on the Nārāyaṇa Tīrtha Ārādhanā (NTA) held in Tamil Nadu state. Though Nārāyaṇa Tīrtha holds a prominent position in some traditional performing arts in South India, his works have been less acknowledged in Car-natic music concerts than those of other composers. Even with the disadvantages and controversial points, the organizer V. Venkatesan, to some extent, has succeeded in establishing the public images of the NTA. It is accepted even as “traditional” in Carnatic music world recently. Who is the “bearer” of “tradition”? Within the context of active development of the arts, the paper discusses how he re-constructed the “tradition” of the NTA.

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