◎論説特集◎戊戌変法百周年
戊 戌 時 期 に お け る 民 間 慈 善 公 益 事 業 の 発 展
朱英・・⁝
清末期の民間慈善事業は︑光緒初年にはすでに明らかな
発展変化を見せていた︒それを具体的に表しているものが︑
紳商が中心になって創立した新しいタイプの民間慈善機構
である協賑公所(救援救済所)であり︑大まかな制度化と
組織ネットワーク化が施された﹁民絹民弁﹂(民間寄付を
民間で行う)の動きが興り始めていた︒すなわち︑新しい
タイプの民間慈善機構自らがかなり大規模な救済勧誘活動
を行い︑活動費を募集するとともに︑全国各地の被災者へ
直接救援物資を配る﹁義賑﹂活動を始めて︑民間の救済活
動を︑それまでの慈善事業や喜捨を喜んでする﹁善人﹂の
個人的な﹁義挙﹂から︑全社会の注目する公益慈善事業へ
と変貌させ︑より大きな社会的影響力を生み出した︒そう
したことから︑同時期は中国の伝統的な民間慈善事業が近 代に向かって変わり始めた最初の歴史的時期であると言え
るであろう︒
一九世紀になると︑戊戌維新運動の影響のもと︑民間慈
善事業はまたしても新たな発展変化を生み出し︑近代的意
義を持つ社会公益事業が現れ始めた︒この時期︑慈善と公
益事業の発展はかなりの程度︑救国富強の維新変法運動と
密接な関係にあり︑関連する新しい思想観念を生み出した
ばかりではなく︑それまでの慈善組織にも変化をもたらし︑
また多くの新しい民間公益団体を誕生させ︑その活動内容
はそれまでの単純な慈善﹁義挙﹂とは異なり︑さらなる広
がりと多元化をみせ︑それが生み出す社会的影響も当然な
がら︑かつての民間慈善事業とは異なっていた︒本論文で
は︑これらの側面に関連する具体的な状況について簡単な
戊戌 時期にお ける民 間慈善公益事業 の発展
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素描を行うものである︒
戊戌維新運動期の民間慈善公益事業の発展は︑まず慈善
事業界の人々の思想観念の変化に表れている︒維新運動が
思想界にもたらした影響が政治・経済などの方面にかぎら
ず多次元・多方面における刺激と反応を形成したために︑
そこから影響を受けるかたちで︑この時期の関連知識人の
慈善活動およびその作用に対する認識も︑注目に値する変
化を遂げ︑伝統的な慈善観から近代社会の公益思想へと発
展を始めたのである︒
経元善は一九世紀後期の江南の著名な紳商で︑日頃から
声望高く︑その影響が全国に及ぶ慈善活動家であった︒上
に述べた新しいタイプの民間慈善機構である﹁協賑公所﹂
は︑彼が江南の一部の紳商とともに一八七八年に上海で創
立したもので︑その義損金申込所は上海以外にも国内各地
や海外のサンフランシスコ︑横浜︑長崎など二一ケ所に設
置され︑事実上の全国的救済団体となり︑彼自身も義絹活
動に従事する江南紳商のリーダーとなった︒そのため︑慈
善活動の内容と作用に対する彼の思想上の認識変遷を分析
することにより︑ある程度までこの時期の慈善事業界の
人々の思想観念の発展変化を理解することができる︒ 民間で新しいタイプの義掲活動が一世を風靡した後に︑
経元善は︑﹁名声にこだわって旗幟を鮮明にする必要は必
ずしもなく︑人が行うなら自分はやらないで︑徐々に退く﹂
という一八九四年から抱いていた考えにしたがって完全に
義掲の列から身を引き︑二度と慈善活動に従事することは
なかった︑と考える論者がいる︒だが︑関連資料から言え
る事実は︑経元善がこの後の戊戌維新運動期にも︑思想観
念のうえで慈善事業と社会改造問題について幾つもの新た
な認識を提起したのみならず︑積極的に一連の新しい社会
公益活動をも展開していたことである︒
要約すれば︑経元善の新しい慈善公益に関する観念は︑
主に以下の幾つかの面に表れていた︒
第一︑救急は救貧に及ばない︒それまでの慈善活動は︑
そのほとんどが災害に遭遇した後に臨時的に行われた義掲
救済であって︑経元善はこの方法には弊害が多いと考えて
いた︒なぜなら︑﹁人々の生活は困窮しており︑日増しに
甚だしくなり︑豊年にも飢えに泣き︑凶年は言うまでもな
い︒災害は尽きないのに︑資力は尽き︑飢謹の年の飢えた
民衆の数には限りがあっても︑豊年に飢えた民衆の数は無
限﹂であるがゆえに︑救急は救貧に及ばないのだ︑﹁救貧
を知らなければ貧もまた変ずること急で﹂︑﹁善後の法が早
急に説かれねばならない﹂︒では︑経元善の提起する﹁善
後の法﹂とは︑どのような内容であったのだろうか︒彼の
構想によれば︑コつは荒野を開拓すること︑一つは技術
を課し教養を教えることである﹂︒農業を興し開墾を進め
る考えは早くからあるが︑経元善はこれが﹁大規模かつ浪
費するのみ﹂で︑実施は難しく︑﹁資金に限りがある以上︑
慈善を行うなかで蓄財節約の方法を求めなければならな
い﹂と考え︑そのため彼がより重視したものが︑近代的な
公益慈善事業の性質を持つ技術を課し教養を教えることで
あった︒
第二︑慈善の恵みは個人から一家庭へ︑一時的なものか
ら永久的なものへと及ぶべきである︒経元善は長年︑慈善
活動に従事していたことから︑﹁慈善の行動は広く民衆を
救済することが究極の成果である﹂ことをよく知っていた︒
彼は考えた︒﹁老人︑孤児︑寡婦の救済が慈善でないわけ
ではないが︑その恩恵はただ一身のもので︑一家には及ば
ない︒衣食や薬を施すことも慈善でないわけではないが︑
その恵みは一時的なもので︑永久的なものとはなりえな
い﹂︒同時に彼は十分に理解していた︒﹁各行政地域の善堂
には有名無実のものがきわめて多い︑つまり名実ともに備
わらず︑その功徳を受ける範囲が広くはない﹂︒そのため︑
かつての慈善活動の内容や状況を改めなければ︑より広範
にわたる実際的な効果を得ることは難しいだろうと︒
第三︑新たな慈善活動の内容を創出し︑善堂などの伝統
的慈善機構の欠陥をなくす︒経元善のいう新しい内容とは 事実上︑近代的な社会公益事業の性質を持った活動であっ
た︒彼は当時の条件下で設立された工芸院が技術を課し教
養を教えるなど︑恩恵が広く遠くまで行き渡る最大の慈善
活動であったことを特に強調している︒院では︑中国の伝
統工芸を広めるだけではなく︑新たな工芸を創りだし︑外
国の先進生産技術を学ぶ︒学生は学費を納めず︑卒業後は
教習を担当する義務があり︑教習時間は学習時間と等しか
った︒このように﹁工芸院で一芸を教えれば︑その一身一
家がずっと豊かでいられる︑まして技術を人に教えれば︑
その成果はさらに限りがない︒⁝⁝この行動は貧者や病者
を救うのみならず︑彼らを富ませさえするもので︑救済事
業に応用が効くばかりでなく︑あらゆる善堂に応用が効く
のである﹂︒このため彼は︑善堂を全て工芸院に改組する
よう︑あるいは孤児院︑寡婦救済院内に﹁小規模な工芸所
を設置して︑孤児なら育てて結婚・独立させればよいし︑
へ 寡婦なら生活費を稼がせ跡継ぎを養育させればよい﹂と提
言した︒それは明らかに︑伝統的な慈善活動の﹁養﹂を重
んじ﹁教﹂を軽んずる習慣を改めようとしたもので︑また
農業に従事することを教える過去の方法とも大きく異な
り︑近代的な先進工芸技術を教えるものであった︒
第四︑慈善活動所の創立から義学の創立への発展︒説明
を要するのは︑戊戌時期の経元善の言う義学が︑伝統的な
慈善活動である義塾とは全くその性質を異にして︑主に西
戊戌時期 における民間慈善公益事業 の発展
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側諸国を模倣し近代の新しいタイプの学堂を設立すること
を意味していたため︑やはり近代の社会公益事業の範疇に
属していたことだ︒中国では数千年ものあいだ女学校がな
く︑弊害が大きいことに鑑みて︑経元善は当時︑とくに女
学校の創設に力を注いでいた︒彼は﹁われわれ中国が自強
を意図しようとすれば︑学校設立以上の急務はなく︑学校
という根幹のさらに根幹としては婦女教育の創立以上に優
るものはない﹂と考えていた︒また同時に彼は︑女学校を
設立することは義掲活動とともに義挙に属するとも言って
いる︒なぜなら︑﹁女学堂が善行を人に教えるのは︑義掲
が財産を分かち与えるのと同軌であって︑同列に論ずべき
ムヨ ものである﹂からである︒女学校の創設は︑一九世紀末の
中国ではなお快挙と言うべく︑無視できない重要な意味を
持っている︒梁啓超もはっきりこう述べている︒﹁天下を
治める大本は二つある︒人心を正すことと︑広く人材を求
ひらめることである︒両者の根本は蒙を啓くことから始まらね
ばならず︑蒙を啓く根本は母親の教育から始まらねばなら
ず︑母親の教育の根本は婦人の教育から始まらねばならず︑
したがって婦人の教育は実に天下の存亡や強弱の大本なの
る である﹂︒まさにこのことから︑女学堂の創設は戊戌維新
運動期における重要な変法の一項目となったのである︒
第五︑日を追って﹁風気を開き︑人心を正す﹂という社
会公益事業を重視したこと︒この時期の経元善は︑それま でのような義損活動には二度と従事しないことを表明した
が︑かえって﹁勧善勧報会﹂などの新しい公益慈善活動を
打ち立てることを通じて︑もっと﹁善意を拡げ﹂︑人々に﹁時
世を知り︑また道理を明らかにし︑悪習慣を除いて︑軽薄
さを改め﹂させ︑最終的には﹁精神を奮い起こし︑早急に
追いつくこと﹂︑および﹁発奮して自強を目指し︑誓って
国恥を雪こうとする﹂目的を達成することを強く望んで
ムら いた︒
以上紹介したものは︑戊戌維新運動期における経元善個
人の慈善思想の発展変化にすぎないが︑ある程度まで当時
の民間社会の慈善観念の発展変化の新傾向を反映している
と言える︒また︑経元善のような変化が当時はけっして存
在しなかったわけではなく︑ただ他の人々の認識レベルや
重点の置き方に若干の違いが存在していたにすぎない︒ま
た︑経元善の新しい慈善公益観は︑多くの慈善事業界の同
志の支持を得ただけではなく︑新聞・雑誌や世論の支持を
も得ていた︒このことも︑当時の慈善思想の発展変化が少
数の個々人のあいだで起こったことではなく︑一定の代表
性と社会性を備えていたことを示唆しているのである︒
たとえば︑経元善が始めて女子の﹁義学﹂を創設したこ
とは︑早くから義掲活動をともにしてきた慈善界の人々の
支持を得て︑施則敬︑厳信厚など上海善堂総理事も参加・
準備・発起し︑その経費を援助して︑﹁大勢が費用を支払い︑