Steven Millhauser の The Dream of the Consortium における、複製品の影響 と鑑賞者の現実認識が曖昧となる過程
新 田 よ し み
*
1.はじめに
Steven Millhauser(1 9 4 3−)は、 Étienne Février とのインタビューにおいて、
彼が作品の中で描く建 築 物は「より巨大な建 築 物を作り上げたいと言う人間 の飽くなき欲 望 (an aggressive human desire to create larger and larger
structures) 」を表現していると説明する。このようなミルハウザーの考えを反
映した短編作品は数多くあり、短編集 The Knife Thrower(1 9 9 8)に収められ た “The Dream of the Consortium” もそのひとつである。この作品の中に描か れる百貨店は、閉館した建物をある協会が買収、改築した後に開店した地上 1 9階、地下4階の大規模な建物である。開店後も改築は続けられており、地 下が掘り進められているといったうわさまで街の人々の間には流れている。こ のように際限なく建物や部屋数が増えていく様こそ、ミルハウザーが言う「ア メリカ人の中にある、巨大であるものこそすばらしいという考え」を再現して いるといえるだろう。さらに、百貨店を訪れた来店者たちは、そこで人工的に 再現された町並みや美術館の一室などといった現実に存在する風景を目の当た りにすることで、現実とつくりものの境界線が曖昧になる。この作品に関して
* 福岡大学言語教育研究センター外国語講師
ミルハウザーは前述したインタビューの中で、百貨店という建築物の中に人工 的に再現された世界を見ることによって、登場人物は絶えず何が本物なのか自 問自答すると説明している。本論文では、“The Dream of the Consortium” に おいて百貨店が大規模な美術館であるかのような工夫を施して商品を展示して おり、買い物客はまるでそこを訪れる観客の様に描かれていることを、百貨店 内部の装飾や観客を描く際に使われる人称代名詞に注目して検討する。 さらに、
うわさ話を共有して作られる群衆のような描き方を百貨店の客に対して行って いる点から、百貨店が集団を形成する場所という役割を果たしていることを確 認する。そして芸術作品のレプリカが展示されている方法とその役割を、複製 技術に関する論文を踏まえて分析し、百貨店という建築物が、いかにして鑑賞 者の現実認識に影響しているか考察する。
2.劇場と観客
“The Dream of the Consortium” では、百貨店を訪ねる客が商品を購入する 姿は見られない。彼らは百貨店で能動的に消費を行わず、そこに展示されてい る商品や店内の様子について言及を繰り返すだけである。言い換えると、消費 行動に突き動かされてではなく、展示された商品を見るために新装開店した百 貨店へと訪れているのである。そこには日用品なども販売されているが、観客 が注目し言及するものは美術作品やマネキンと言った芸術的なものが多い。
“The Dream of the Consortium” における百貨店とは芸術作品を見せる場所と しての美術館であり、訪れる買い物客はそこに披露されている芸術を嗜む観客 であるという関係性がある。客の消費行動をあえて描かず、また “I” ではな く “we” を使用して客を描くことにより、百貨店が美術館としての特性を持っ ていることを考察する。
百貨店の中に備え付けられた休憩スペースであるプラザを、百貨店が美術館
のように描かれている一例として提示することができる。
The floor of one such plaza was composed of real earth and grass. … Another plaza was in the style of a foggy London street at night, … And on the upper floor we discovered a Victorian parlor, where we sank down in the plump armchairs, … there were those among us who were eager to search all nineteen floors for plazas in period designs, …(“The Dream of the Consortium” 1 3 0)
このプラザは百貨店の中の様々な箇所にあり、ある場所は自然があふれていた り、またある場所はロンドンの夜の街を模していたりする。そのような工夫を することによって、このプラザを全て回って見てみようという気にさせて、訪 れる人々の関心を集めることに成功している。従来の百貨店とは異なり、この 百貨店は休憩スペースにまで審美的な工夫を凝らすことによって、人々の興味 を引いている。その結果、客の百貨店に訪れる目的が消費行動によるものでは なく、全てのプラザを鑑賞することに変化している。美的な空間を百貨店内に 点在させたことによって、百貨店が美術館のような場所へと変化し、芸術作品 を鑑賞するかのような行動を客にとらせていると言える。
ミルハウザーの作品には一人称複数形の “we” が多用される。この人称を使 用することで、特定の人物像を読者に与えるのではなく、登場人物を一つの集 団として描いている。また、 “we” という人称は、ミルハウザーの他の作品の 中でも劇場の観客を描写する際に使用される
i。この人称から、百貨店に来る 客が観客としての側面をもつといえる。この点に関して、ミルハウザーは Mare
i
Pedro Ponce
はミルハウザーの作品に表れる一人称複数形の主語を“collective groups as audiences”
(““a game we no longer understood”:Theatrical Audiences in the Fictionof Steven Millhauser”
91)と表現している。そして一人称複数形の主語を用いて書かれた作品として
“Eisenheim the Illusionist”(1
990)や“August Eschenburg”(1
986)を挙 げて、作品内の観客達を論じている。Chénetier とのインタビューの中で次のように述べている。
In any case, what interests me about the “we” is something quite different. What interests me is the way moral indecisiveness or questioning may be given more weight or significance by attaching itself to a multiple being. A single narrator might have multiple interpretations of an event, or might try to evade moral choice in numerous ways, but the same kind of uncertainty in an entire community becomes public, societal, even political, and carries a different weight. (“An interview with Steven Millhauser”)
個人を主語にしてしまうと、出来事を描く際に、主観的な意見が反映されたり、
個人の好みに合わない出来事が意図的に描かれず排除されているのではないか と読者に抱かせる可能性がある。しかし、集団を使うことによって、目の前で 繰り広げられる出来事に対して特定の解釈が行われる必要性はなくなる。それ 故、彼は作品の中で不特定多数の人間を指す “we” を主語として使用するのだ と説明する。 “The Dream of the Consortium” でも “we” を使用することによ り、劇場の観客と同じように、百貨店に来る客もその場を共有することで共鳴 し、百貨店に魅了されていく様子が見事に描かれている。
百貨店の商品について詳細な説明がされるのは、ウインドウにディスプレイ されているマネキン、各国の遺跡のレプリカ、美術品に関するものや都市のミ ニチュアなどであり、日用品にはほとんど言及されておらず、あったとしても 数行の言及にとどまる。
…, making our way through squash rackets, lacrosse sticks, and
ping−pong tables, past TV/VCR stands, audiovisual cabinets, and stereo−rack
systems with five-band graphic equalizers, past cookie jars shaped like smiling raccoons and umbrellas with wooden handles shaped like ducks,
… (1 3 4)
上記の引用は、客が売り場を巡っている様子を描いた箇所である。 「笑顔のア ライグマの形をしたクッキー瓶や木の持ち手がアヒルの格好をした傘の前を 通っていく」この箇所で、クッキーや傘に関して何らかの感想が述べられるこ とはない。 これら日常を思い出させる商品に意識が向いていないということは、
客の意識の中から日常生活が消えてしまっているからと推察できる。審美的な 工夫が凝らされた店内を巡ることによって、客は日常を忘れ非日常の世界に自 分たちが存在しているとの認識を抱くことになる。
“The Dream of the Consortium” における百貨店は、商品を売る場所ではな く、審美的な工夫が施された、美術品を展示する美術館のような側面を持つ。
そして “we” を使用することで、個人をクローズアップせず集団として訪れる 客を描いている。その結果、百貨店が非日常的な場所として機能しているので ある。
3.集団心理とうわさ話
“The Dream of the Consortium” には、街の人々が百貨店を買収し改築した 協会に対して、どのような意図を持って百貨店を経営しているのかうわさしあ う様子が幾度となく描かれている。このうわさ話は、彼らに百貨店に対して共 通した認識を抱かせ、群衆心理を作り出す役割を担っていると考えられる。こ こでは群衆心理がどのように登場人物達の言動に影響を与えているかを検証す る。
フランスの社会学者であり心理学者でもある Gustave Le Bon(1 8 4 1−1 9 3 1)
は、互いに知り合いでもない人々が、国籍や性別、職業など関係なくたまたま
一つの場所に集まったときに生まれる心理状態について研究した。彼は著作
『群衆心理』 (1 8 9 5)の中で、群衆とそこに共有される心理状態を次のように 説明している。
心理的群衆の示す最もきわだった事実は、次のようなことである。すな わち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格 あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になりかわっ たという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようにな る。・・・群衆においては、どんな感情もどんな行為も感染しやすい。
( 『群衆心理』2 9−3 2)
ル・ボンによれば、群衆心理とは、個人が集団になることによって、個性が消 え去り、あらゆる個人の感情がある一定の方向に向かったときにその集団の中 で共有される心理状態のことである。個人が集まったからと言って、群衆心理 が生まれるのではない。集団の意識が同じ方向に向けられたときに、そこで生 まれた感情や考えが、まるで感染していくかのように広まった結果が群衆心理 なのである。群衆心理を生み出すためには、個人ではなく集団になること、そ して同じ場所を共有することが必要なのである。
“The Dream of the Consortium” で百貨店を訪れる人々を描写する際、“I” で はなく “we” を使うことで、作品の中に群衆心理が生み出される素地を作り上 げている。加えて、作品の中で客の意識がある一定の方向に向かっている点も 確認できる。 例えば、 百貨店に対しての批判が巻き起こったあと、 客たちは
“in the course of the next few weeks to explore the new store in detail, to burrow into its depths, to permit none of its elements to escape our interrogation”
(“The Dream of the Consortium” 1 3 6) .この引用から、百貨店を訪れる客た
ちが店内を動き回る際に、百貨店が展示している商品や、そこに備わっている
要素という一定の方向へ共通して意識を向けていることは明らかである。その ような背景で、百貨店を訪れる客が群衆心理を抱くことになると推察される。
街の人々が百貨店に関して行ううわさ話は、群衆心理を作り上げている。彼 らは、協会が百貨店を購入した意図から始まり、繰り返し客をひきつけるため に協会が行った努力や百貨店に施された仕掛けといった様々な事柄をうわさし あう。例えば、百貨店の内部の売り場が少しずつ変化しているのは、協会の持 つ “either a restless desire for expansion or a calculated effort to avoid tedium”
(1 3 3)によるのだと人々はうわさする。協会から売り場が変更される特定の理 由が明らかにされることはないが、このようなうわさ広まった状況は、百貨店 を訪れる大多数の人々が同じ場所を見ることで、協会が売り場に対して変化を つける理由を感じ取っていることに他ならない。そして、それを拡散し、不特 定多数の客と同じ心理を共有していることを意味しているのである。つまり、
ある集団に属する個人が抱いた感想がうわさによって広まることで、そこにい る集団の心理状態に影響を及ぼすという群衆心理が生まれる様子を作品は端的 に描写しているのである。
作品内での群衆心理が百貨店内部にできた客の集団からのみ生み出されるの ではないということは、百貨店が新装開店する前に行われたうわさ話の描写に よって説明することができる。以下の引用は、協会によって買収された百貨店 が今後どのように生まれ変わるのかについて街の人々がうわさしている箇所で ある。
It was rumored that the preserved building was to be turned into suites
of offices, but immediately a counter−rumor arose, and now it was
whispered that the consortium planned to revive the department store, to
restore it to its former grandeur…. To all such talk we listened with a
certain reserve, for we no longer knew whether we really desired the
rebirth of our department store or longed only for its continuance in a perpetual brown twilight of decline.(“The Dream of the Consortium”1 2 6 , underlined mine)
百貨店の今後に関してなされたうわさ話は、最終的に街の人々の考えに影響を 及ぼしている。うわさによって彼らが本当に百貨店の再生を望んでいるのかわ からなくなってしまっているのである。この箇所で興味深いのは、一つの街に 住む人々が一種の群衆を作りあげ、そこにいる人々が百貨店という同じ対象を 見ることで生まれたうわさが、その群衆に属する個人の価値判断に影響してい る点である。ル・ボンはこの状態を「暗示と感染とによる感情や観念の同一方 向への転換」 ( 『群衆心理』3 5)と説明する。年代物の百貨店は街の人々にとっ て街を代表する存在である。百貨店がそのままの形で再生されてほしいのか、
それとも別の姿で生まれ変わってもいいのかといった、集団に属する個人が持 つ考えに対してうわさ話が影響している。その結果として、人々は群衆心理に 抵抗しようと、“To all such talk we listened with a certain reserve,…”(“The Dream of the Consortium”1 2 6)のである。
街の人々を “we” を用いた群衆とし、彼らが百貨店及びその内部の装飾、展 示された商品という同一の方向に意識を向けている様子を描いている。 その際、
彼らが百貨店についてしているうわさ話が群衆心理を生み出すのに大きな役割 を果たしている。“The Dream of the Consortium” は、百貨店を中心に、訪れ る客が群衆を形成し、そこでなされるうわさ話がいかに彼らの心理状態に影響 を与えているかを描写しているのである。
4.replica と売り場の工夫
“The Dream of the Consortium” での百貨店は、レプリカの商品を多数展示
している。芸術作品だけにとどまらず、美術館の展示室の一室やミニサイズの
都市までレプリカとして複製されて売られている。それ以外にも、百貨店入り 口にあるウインドウでは、本物の人間と区別がつかないほど精巧に作られたマ ネキン、ミニチュアの操り人形やオートマトンが展示されている。結果として、
客は本物ではなく複製された商品を繰り返し見続けることになる。さらに加え て、協会は訪れる客の興味を絶えず引き付ける工夫を百貨店内部でしている。
このセクションでは、レプリカとそれを展示するために工夫された売り場が、
客にどのような影響を及ぼしているのか検討する。
作者ミルハウザー自身、レプリカに対して興味を抱いており、“Replicas”
(1 9 9 5)というエッセイを発表している。オリジナルを完璧に模倣しようとし ているにも関わらず、オリジナルと別のものとして存在せざるを得ないものが レプリカであるとエッセイの中で定義する。レプリカとは単にオリジナル作品 の複製品ではなく、オリジナル作品とは何であるかを鑑賞者に常に問いかける ものなのである。加えて、ミルハウザーはレプリカの特徴を以下のように分析 する。
…, replicas create in those who look at them a feeling of restlessness and desire. In the very act of revealing their nature, they leave us dissatisfied. … Because we needn’t take them seriously, they offer us release from the oppression or solemnity of actual things. (“Replicas”5 9)
レプリカを見ることによって、鑑賞者はそれが本物か作り物なのか釈然としな
い思いを抱く。加えて、鑑賞者が複製品であるレプリカを見る際には、オリジ
ナルを見るときとは異なった態度を取る。つまり、レプリカに対して真摯な態
度で接することがない。常に複製可能であるために、もしそれが失われても再
度作り直すことができるからであると考えられる。そのため、鑑賞者の目の前
にあるレプリカには、オリジナルと同等の価値がなくなってしまうのである。
このようなミルハウザーの考え方は、“The Dream of the Consortium” におい て、客がレプリカを手に取り細部まで眺めるといった行為はせず、一定の距離 を持って鑑賞している点に反映されている。目の前に展示されているレプリカ が客の注意や興味を引くことはあっても、客がそれらに対して熱心さを見せる 様子は作品内で描かれていない。このような客の行動は、複製可能であるがゆ え、レプリカにはオリジナルと同等の価値が失われているというレプリカの特 徴をふまえているかのようである。
さらにミルハウザーはレプリカによる複製が現実世界に存在するオリジナル の価値を減じさせると述べる。
And therein lies the hidden arrogance of replicas : by setting themselves playfully against the world, by offering themselves as unserious rivals of actual things, they secretly undermine the world of primary objects. No longer do they aspire merely to equal the original objects, they wish to surpass them, to claim superiority by virtue of their playfulness.
(“Replicas”6 0)
例えば、絵画が複製されレプリカが多数存在すると、オリジナルの絵画に付随
する唯一無二の存在という価値は消えてしまう。この点に関して、ドイツの哲
学者 Walter Benjamin(1 8 9 2−1 9 4 0)は、1 9世紀末に確立した写真及び映画技
術といった複製技術がどのように芸術作品の価値を変えたかについて、著作
The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction (1 9 3 6)の中で言及す
る。ベンヤミンは、オリジナルの芸術作品に備わる特有の価値をアウラ (aura)
と名づけ、複製技術はこのアウラを喪失させると説明する。
The situations into which the product of mechanical reproduction can be brought may not touch the actual work of art, yet the quality of its presence is always depreciated. … One might subsume the eliminated element in the term “aura” and go on to say: that which withers in the age of mechanical reproduction is the aura of the work of art. … By making many reproductions it substitutes a plurality of copies for a unique existence. (The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction 1 4)
ベンヤミンは写真や映像技術の発達を踏まえてアウラを論じる。そしてこれら 複製技術の発達によって、芸術作品に内在しているアウラが失われてしまうと 分析する。例えば、自然が持つアウラは自然を写真におさめることにより、ま た舞台上で演技する俳優の持つアウラは映像に撮られることにより喪失してし まうのである。ミルハウザーは複製されることにより失われるアウラと、それ に対して人々がどのような態度をとるかを作品内で描く。百貨店の1 5階か1 6 階にあるパンフレットが置かれた小さな部屋で、四大ホテルチェーンの支配人 達が都市のレプリカを購入しようと検討していると百貨店を訪れる人々がうわ さしあう様子がそれである。
…, the heads of four major hotel chains… were discussing plans to purchase the exact replication of a small European country…for placement in central Texas or western Montana. The hotel executives believed that Americans would enjoy the convenience of visiting Europe directly by car or bus…(“The Dream of the Consortium”1 4 0−4 1)
ヨーロッパの都市を複製したレプリカとは、百貨店に展示できるようなミニ
チュアサイズではない。実際に人々が訪れることができる場所として実物大に 複製されたものである。 このレプリカを購入しアメリカ国内に設置することで、
ヨーロッパに行く費用が軽減される。そのため、旅行するときにはヨーロッパ にある本物の都市ではなくアメリカ国内に設置された偽のヨーロッパの都市を 人々は選ぶようになるだろう、と四大ホテルチェーンのオーナーたちは考えて いる。この引用は、ある都市に備わるアウラがレプリカで置き換え可能である と彼らが考えていると推察できる。さらに、旅行者にとってある都市特有のア ウラは重要ではないという彼らの考えも浮かび上がってくる。複製技術の発達 によって、彼らの考えからオリジナルの土地特有のアウラという認識がなく なってしまっていると結論付けることができるであろう。 この他にも、 ピラミッ ドのレプリカやヨーロッパの有名な美術館一室全てを複製したレプリカなども 百貨店の中に展示されている。これらの展示物は、販売を目的としているとい うよりはむしろ、百貨店を訪れる人々を楽しませ、彼らが実際に行くことが難 しいであろう観光地へ行ったと錯覚させる効果がある。しかしながらそれはま た、実際の歴史的建造物や都市に備わるアウラが重要ではないということを意 味する。つまり購入者や鑑賞者は、たとえアウラの無いレプリカであったとし ても、彼らが生きる現実世界に存在しているものと同等のものとしてレプリカ を認識していると推察することが可能となるのである。
ミルハウザーは “the replica hovers between two worlds, the world of authenticity and the world of artifice” (“Replicas”6 1)と、レプリカは本物の世 界と人工の世界の間を行ったりきたりしているものだと説明する。百貨店に雇 われた職人達に関する言及は、作者のこの考えを反映している。彼ら職人は
“producing replicas so skillful that the originals had begun to seem a little
flawed, a little faded and unconvincing” (“The Dream of the Consortium” 1 4 0) .
職人の手によって作られるレプリカはあまりにも精巧に作られているため、オ
リジナルを凌駕している。しかしオリジナルをオリジナルたらしめていたアウ
ラが失われているためもはやオリジナルではない。それにも関わらず、レプリ カと呼ぶにはあまりにもオリジナルに近づきすぎている。オリジナルが属する 本物の世界と、レプリカが属する人工の世界のどちらにも存在することができ るのがレプリカに備わる特徴なのである。そして鑑賞者がレプリカを見、目の 前にあるのは本物なのか作り物なのかといった判断を下すのに、このレプリカ 特有の特徴が影響する。
百貨店の入り口にあるウインドウに展示されるマネキンは、鑑賞者の意識を 変化させるのに重要な役割を果たしている。以下の引用のように、本物の人間 と複製されたマネキンの区別が曖昧になるように細工された状態で展示されて いる。
Suddenly they[three slender mannequin women]sat up, revealing to spectators that they were real women pretending to be mannequins―
and suddenly they lay down rigidly, making us wonder whether they were automated mannequins pretending to be real women…(1 2 7−
1 2 8)
百貨店を訪れる人々は、入り口にあるウインドウの中に展示されたマネキンに 見入る。そして、ウインドウに展示されているのは人間を精巧に模倣して作ら れたマネキンなのか、それとも人間がマネキンのふりをしているのか困惑して いる様子をみせる。この描写と関連付けられる箇所として、ミルハウザーがマ ネキンのふりをする人間について言及した以下の引用に触れたい。
The actor who stands rigidly in a display window beside a mannequin
whom he or she exactly resembles is a complex instance of replication,
in which the object replicated may itself be considered a replica.
The actor is therefore making of himself not a replica, but the replica of a replica. (“Replicas”5 7)
マネキンを人間のレプリカと仮定するならば、マネキンのふりをする人間は、
マネキンというレプリカをさらに複製したレプリカとして存在する
ii。本物の 人間が複製品のマネキンをさらに複製しているという状況が生まれている。ゆ えに鑑賞者は、何が本物の人間で何が複製されたマネキンなのか判断がつきか ねている。つまり、現実に存在する人間と虚構の存在であるマネキンの間の境 界が、鑑賞者の間で曖昧になっているということが伺える。そして、これらマ ネキンが展示されているウインドウは百貨店の内部ではなく入り口にある設置 されている点から、ウインドウで繰り広げられている世界が客の生きる現実社 会と百貨店内部で繰り広げられる虚構の世界の境界を不明瞭にしていると考え られる。 百貨店の中へ入り、 またそこに展示された複製品を鑑賞することによっ て、客は徐々に現実認識を変化させていくということを、百貨店入り口のウイ ンドウとそこに展示されたマネキンは暗示しているのである。
ホログラフィーに言及された箇所もまた、鑑賞者の現実認識を揺らがせてい る例として挙げられる。百貨店の地下4階のさらに下にある、工事中の階を訪 れた客たちは、ホログラフィー技術を使用して作り出された人間の映像が動き 回っている様を目撃する。その工事現場にいた男性販売員は、ホログラフィー 技術が使われた人間の像が “under carefully controlled conditions, were able to stimulate in the spectator a sensation of touch and to give the illusion of life
ii ミルハウザーは
“replica”
の中で、マネキンを以下のように定義している。“The modern
display−window mannequin … is a replica insofar as it imitates a human being. It is
not a replica insofar as it is capable of movement and therefore fails to imitate a crucial
characteristic of human beings. It is possible, however, to consider the rigidly of the
mannequin to be its secret clue, in which case the immobile mannequin may be thought
of as a replica.”
(“Replicas”
57)itself”(“The Dream of the Consortium” 1 4 2)と説明する。現実には存在して いない、また肉体を持たない映像であるにも関わらず人間に触れることができ ていると、“as she came closer we felt, in our fingertips, a faint tingle or tickle”
(1 4 2)という表現を使い描写されている。ホログラフィーは、最先端の技術を 協会が駆使して街の人々の注意を引こうとしていることを説明する顕著な例で あるが、それだけにとどまらない。人間の五感でさえも技術の進歩によって複 製が可能なのだと言い換えることができるのである。触覚を伴った映像さえも 技術の進歩によって生み出すことが可能となる。それゆえ、現実の人間と虚構 の映像の間に存在する相違点が不明瞭となり、人間ですら複製されうるのだと いう可能性が示唆されているのである。
百貨店内部の売り場の配置も、客の現実認識を曖昧にする効果がある。協会 は単に商品を陳列するだけではなく、そこから退屈さを排除しようと考え、新 しい売り場を作り続けた。また、フロアの配置にも工夫をこらして客に絶えず 刺激を与えている。客たちは協会がなぜこのようにして売り場を絶えず変え続 けたのかうわさをする。そして、“one of their secret pleasures is the sudden, violent transitions between departures, the startling juxtapositions”(1 2 9)であ るがゆえ、百貨店を訪れる客の五感に訴えるべく売り場を変更しているのだと 分析する。フロアを客にとって予想不可能な配置にすることで、百貨店内部に 客にとって常に把握しきれない場所がうまれることとなる。来店者は内部の構 造を全て把握しようという欲求にかられて百貨店へ何度も訪れ、彼らの注意が 百貨店内部に展示された商品に向け続けられる。 その結果、 百貨店を訪れた人々 の認識に変化が起きることとなる。彼らは百貨店から離れることを嫌がり、
“complained of a feeling of disappointment or irritation when they stepped back
into the street”(1 3 6) .この理由として、百貨店内部で繰り返し行われる売り
場変更という刺激を受け続け、百貨店を訪れるまでに認識していた現実世界と
目の前で変化し続ける複製品でできた虚構の世界の区別が曖昧になったことが
考えられる。つまり、百貨店を巡り、複製品を見続けることによって、百貨店 こそが客が認識する世界そのものに変化したのである。百貨店が “expands within our minds until everything else is pressed flat against our skulls” (1 4 3)
と、客の中で大きな存在となっているため、彼らが現実社会を認識する際に、
百貨店に代表される複製品が影響を及ぼしていくことが暗示されているのであ る。
“The Dream of the Consortium” は、展示されているマネキンや様々なレプ リカ、そして変化し続ける売り場の配置といった要素が、いかに客の現実認識 を曖昧にしているかを描写している。さらに、百貨店で展示される精巧なレプ リカが、鑑賞者の抱く本物と複製品の区別を曖昧にする役割を果たしているこ とを明らかにする。これら人間の複製品であるマネキンなどを繰り返して目の 当たりにすることが、現実社会に存在する人間もまたマネキンとして複製され たものかもしれないという錯覚を鑑賞者に抱かせることになる。つまり、百貨 店を訪れる客たちは、現実社会に存在するものを複製したレプリカを目のあた りにすることによって、彼らが生きる現実社会も精巧に作られたレプリカに違 いないとの錯覚に陥るのである。客の認識において人間とマネキンの区別が曖 昧になっていたように、 現実社会と虚構として提示された百貨店の区別もまた、
不明瞭なものへと変化しているのである。この点は、作品の最後と客が百貨店 の中に入る前の箇所と比較するとわかりやすい。百貨店の入り口で、彼らは自 分たちが望んでいるものが “something else entirely, something that carried us back to better times, when we still had hope, something to be found only on
the inside” (1 2 7)だと考える。百貨店に入る前の時点では、百貨店内部は現
実社会と異なったものがあるというように、百貨店と、彼らが生きる世界は区
別して認識されている。しかし百貨店を鑑賞したあとは、“we have the absurd
sensation that we have entered still another department”(1 4 3)と、彼らの目
の前に存在する現実社会の在り様が変化している。百貨店の中に展示されるレ
プリカを鑑賞していくことによって、 客の現実認識が影響されているのである。
レプリカという複製品は、鑑賞者の生きる現実をも複製品して認識させるに 至ったのである。
5.結論
百貨店を買収した協会は、新装開店をした際に百貨店を一つの大きな舞台と 見立て、そこに商品や芸術品を展示する。百貨店を訪れる客は観客としての側 面を持つ。観客は個人としての考えをもたず、集団に流されているようである。
展示されている品は金銭で購入できる品だと豪語されているが、ほとんどが何 かの複製品である。
百貨店で芸術品を展示することで、芸術と消費文化を結びつけること、そし て全ての芸術品がレプリカとなりうることを描いている。 “The Dream of the
Consortium” において、ミルハウザーは様々な要因によって人間の現実認識が
不安定になる姿を描いている。百貨店に集まる人々を一人称複数代名詞の “we”
を使用して、一つの集団としてとらえ、百貨店を訪れた人々の間に、百貨店 に関する根拠のないうわさ話が流布することで、うわさが群衆心理を生み出す 様を描写する。この群衆心理は、集団に属する人々が、個人という属性を忘れ ることで生まれる。“The Dream of the Consortium” に登場する人々は、個人 としてではなく、集団を構成する一員として、百貨店や展示品を見ている。そ して、目の前にある多数のレプリカを繰り返し眺めることによって、百貨店に 入るまでは確かに認識していた現実世界と、レプリカに体現される虚構の世界 の境界が曖昧になっていく。 オリジナルと複製品の境界を無くし、 鑑賞者にとっ てのオリジナル、つまり現実とは何かと言う認識を混乱させているのである。
現実と虚構の世界の認識が、群衆心理と複製品によっていかに不明瞭なものと
なっていくのかをミルハウザーは作品の中で描いているのである。
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