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内村鑑三の「武士道」内村鑑三の「武士道」

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長  野  美  香

内村鑑三の「武士道」

(2)

40 長野 美香

“Bushido” of Kanzo Uchimura         From the end of the 19th century to the beginning of the 20th century, the importance of “Bushido”—the Samurai spirit—was emphasized by many Japanese Christian leaders of the Meiji era. But the trend was criticized bitterly by many thinkers. They said that Christian’s “Bushido” did not fit actual history. These criticisms are appropriate, but it is also important to think about why Japanese Christian leaders emphasized the Samurai spirit, even though they were Christians.

For this paper, I chose the “Bushido” of Kanzo Uchimura(1861-1930), —a representative of the Christian leaders of the Meiji era—, and tried to think about it.

 Uchimura called himself “a son of a samurai”. In fact, at the end of the Tokugawa period, he was born of a clansman of the Takasaki clan. But he was born at the end of the Samurai era. Therefore, he could not work as part of the warrior class. He was then educated at a new government college of for modern science at the beginning of the Meiji era.

 He did not live the actual Samurai life, but he believed that he had the Samurai spirit. He chose virtues from his own experiences and knowledge of the Samurai that were morally suitable from his Christian view point. It was his “Bushido”. He tried to

“graft” the Christian faith on it.

 He believed that “Bushido” was a kind of morality, and morality itself was not a religion, therefore, people could not be religious by being moral. One of the most important tenets of Christianity is the consciousness of sin—the limitations of human moralistic ability awoke mankind to a sense of sin. Uchimura considered “Bushido” to be the morality that was leading the Japanese people to become conscious of sin, while at the same time, leading them to God’s love and the Christian faith. For this, he preached the need for “Bushido”.

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内村鑑三の「武士道」

1.明治キリスト教指導者による「武士道」論   我が國に今日の如き基督教を見るを得たるは全く武士の手に由りて、傳道せられたるが故なりき。

       (「武士と基督教

(1

  この言葉は、元幕臣で、明治初期に受洗したキリスト教徒であった戸川 やす いえ

((

言葉である。戸川の言葉のとおり、近代日本の初期キリスト教指導者に武士階級の出身者が多かったことはよく知られてい

((

が、このことに大きな関係を有すると考えられるのが、彼らによって明治なかごろに「武士道」の再評価と称揚とが行われたことである。

  なかでも現在もっともよく知られているのは、新渡戸稲造のBushido, The Soul of Japan(明治三十二[一八九九]年)(邦題『武士道』)であろう。当初フィラデルフィアで出版された同書によって、明治キリスト教における「武士道」論は決定的な地位を得たといってよい。

  また新渡戸に先んじて同趣旨の著作をなした人物として内村鑑三が知られる。彼はJapan and The Japanese(明治二十七[一八九四]

(4

)(邦題『日本及び日本人』、のち改版によりRepresentative Men of Japan邦題『代表的日本人』を、新渡戸『武士道』より五年ほど早い時期に英文で刊行している。同書は厳密に言えば武士そのものを論じた著作ではなく、取り上げられている五名の「代表的日本人」のうち、武士とみなし得るのは西郷隆盛と上杉鷹山の二名、もしくは中江藤樹を入れて三名であ

((

しかし、多くの邦訳にも収められている同書のドイツ語版後記(明治四十[一九〇七]年)のなかで、内村はそこに描こうとしたものを

Bushidooder die Sittlichkeit Japans(「「武

(4)

4(

長野 美香

士道」あるいは日本の道徳」)と呼び、この表記よりのちは、それをBushidoの一語で総称してい

((

  ちなみに、新渡戸の『武士道』と内村の『代表的日本人』の二書は、現在に至るまでいくつもの邦訳が出版されつづけているが、このほか海老名弾

((

や植村正

((

など、当時の著名なキリスト教指導者たちも、ほぼ一様に「武士道」に言及してい

((

。興味深いことに、これらの「武士道」論の多くは、明治二十七[一八九四]年の日清戦争開戦から明治三十八[一九〇五]年の日露戦争終結に挟まれた時期、十九世紀から二十世紀への転換期に集中的に発表されている。

  このころ、国内では急速に近代産業が発展し、同時に国家による近代的軍備の増強が行われた。このような国家としての近代化は、一般民衆の生活スタイルとものの考え方を、明治維新の前後以上に大きく変容させた。また特にこの時期は、鎖国時代を知らない世代が青年期に達し、さまざまな分野で活躍し始めたころでもあった。それは当然のことながら旧価値観の崩壊、新しい価値観の勃興の時期でもあった。一方、僅差で維新前生まれとなったに過ぎないとはいえ、海老名弾正(安政三[一八五六]年生まれ)、植村正久(安政四[一八五八]年生ま

((1

)、内村三(

(((

)、造(二[は、る世代を自認していた。彼らには「さむらいの

((1

という誇りがあった。彼らは、明治五[一八七二]年の学制公布時にはすでに十代に達しており、その初等教育はすでに伝統的な四書五経によって完了していた。

  このようなキリスト教指導者たちが、十九世紀末に至ってあらためて「武士道」に思い及んだ背景には、伝統を容赦なく切り捨てて突き進む社会のなかで、忘れてはならない伝統的美徳(と彼らには思われた)としての「武士道」を、それを知る世代の責任として内と外とに示したいという強い願いがあったといえよう。

  しかし、実際のところ彼らの思い至った「武士道」自体は、さまざまな点で伝統とは断絶した独自の思想、つま

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内村鑑三の「武士道」

り西洋近代、特に当然のことながらキリスト教の洗礼を受けた新思想であって、歴史上の武士の実像とかけ離れていた。

2.「武士道」論への批判   彼らの「武士道」論については、かなり早い時期から武士の実際やその歴史的変容の過程を無視しているとして異議が唱えられてきた。特に新渡戸稲造『武士道』は、すでに明治三十四[一九〇一]年に津田左右吉によって「誤れ、"Bushido"に「て、はないと指摘され

((1

しかし新渡戸らの世代は、幕臣や藩士として身分相応の働きをする以前に明治維新を迎えてしまったのであり、事実上、武士としてなにごとかをなしたことはなく、いわば武士の子でしかなかった。それゆえ彼らに多少とも武士の自覚のようなものがあったとしても、それが武士の実像とかけ離れたものであったことは当然ともいえる。しかも、この「武士道」論は、江戸時代から遠く三十年を経過して巻き起こったものである。

  菅野覚明は、日清戦争以前には武士はいまだ「否定すべき生々しい過去」であったが、軍隊が揺るぎない唯一の武力の地位を確保した明治三十年代、つまり近代国家が前近代の武士そのものを忘れるようになって、はじめて「武士道」が大手を振って罷り通ることとなったと述べてい

((1

これは、井上哲次

((1

などの国家主義者による「武士道」と、その井上から糾弾された対極的な立場のクリスチャンたちとが、異口同音に「武士道」の意義を唱えた始めたる。は、を「し、は、の大きな共通した論調を見てとることができる。それは、両者が共に、武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一

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44 長野 美香

視していることである」としてい

((1

  たしかに、新渡戸や内村らも、当時の日本人にとって通有の精神的基盤として「武士道」を論じようとした。そこには、外に対しては西欧列強に対する日本人としてのアイデンィティの表明という狙いがあり、内に対しては欧化・近代化に突き進む日本人一般に向けての警鐘の意味合いがあった。ただし、つとに和辻哲郎が指摘しているように、同時期の国家主義者たちが「日本の神話の精神に即した君臣一家忠孝無二の道德」を打ち立てて日本主義を説いたのとは逆に、新渡戸などは「士道の摘出によつて日本人の道德的脊骨を明かにし、日本人が西洋人の理解し得ないような特殊な民族でないこと」をむしろ示そうとしてお

((1

その点、国家主義者とキリスト教徒たちの進む方向はおおいに異なっていたということはできる。

  しかし、ここで考えてみたいのは、彼らが社会に対して何を表明しようとしていたかということより、彼ら自身の内面、彼らの信仰者としての人生において「武士道」がどのような意味をもったのかという点である。

  は、で、を無視できな

((1

と告白した。また新渡戸稲造は『武士道』序文で、ベルギーの法学者の知人に、日本では宗教によることなくしてどのように道徳教育をするのかと聞かれてその答えに窮し、自分のなかに善悪や正義の観念を形づくらせたものは何かと自問した末、「私の鼻孔にそれら(道徳…引用者注)を吹き込んだのは、「武士道」であるということに気づい

((1

と述べた。

  キリスト教との出遭いによって、宗教と道徳との密接な関係を突きつけられた彼らは、みずからの人格の尊厳をり、が「という、古くて新しい考え方であった。彼らは著作というかたちで広く世間に対して「武士道」を訴えたため、そ

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内村鑑三の「武士道」

の啓蒙的な側面や、実在した武士のありかたとの相違が取り沙汰されるのは当然のなりゆきではあったが、しかしそもそもは、アジア極東の異教徒が、外来の唯一神と対峙するという事態の妥当性や可能性を、彼らがみずからのうちに問わざるを得なかったことが、これらの「武士道」論の根柢にあると考えなければならないだろう。鎖国から醒めたばかりの、東洋の後進国の精神的風土で育った彼らにとって、文明国から渡来したキリスト教の神を受け入れて信じることの根拠は何か、さらにはそれは可能なことなのか。まずはそこにこそ、彼らの「武士道」の問題る。は、と「執拗に語り続けた内村鑑三をとおして、この問題を整理しつつ考えていきた

(11

3.内村にとっての「武士道」

  内村は、大正七[一九一八]年に「我国の武士道に世界的価値あるを認め、又は日蓮、鷹山、尊徳等の世界的人物なるを認めた者は誰であった乎、言ふ迄もなく少数のクリスチヤンであつた

(1(

と述べている。日蓮、上杉鷹山、二宮尊徳は、内村のこの発言を遡ること二十年以上前にみずからJapan and The Japanese(『日本及び日本人』)において取り上げた人物である。このような自画自賛というべき発言は、昭和四[一九二九]年七月の「我国に於て思ひしよりも早くキリストの福音が根を据えし理由は、武士が伝道の任に当つたからである。所謂熊本バンド、横浜バンド、札幌バンド、之に加はりし者の多数は武士の子弟であつた。彼らは いづれも武士の魂をキリストに捧げて日る。

(11

う、で、変えつつも引き継がれているといえよう。内村は翌年(昭和五[一九三〇]年三月)に没している。

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4(

長野 美香

  内村はみずから「さむらいの

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と称し、その精神の根本に"Vivere est militare."

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(生きることは戦うことである)という観念のあることを認めている。そして、義のために死をも恐れない「勇気」を「武士道」において重んじた。

  武士道と云へば直に勇気を思はせられます。乃木大将、東郷大将、其他我国古今の歴史を飾る勇士烈婦の行為は 国の礎また民の誇りであります。日本人は義の為には死を恐れません。日本人が賎しむものにして卑怯の如きはありません。義を視て ざるは勇なき也でありま

(11

  さらに内村は「武士道は日本人の道であります。之を日本道徳と称して間違ないと思ひま

(11

として、このような「武士道」を武士の末裔の独占でなく、日本人一般にとっての道徳へと拡大解釈したうえで、日常的次元の生き方の指針は「武士道」で事足りるので、日常の道徳においてはあえて「基督教を煩はすの必要はな

(11

と述べている。

  また、新渡戸稲造の『武士道』がそうであったのと同じように、内村は道徳としての「武士道」のうちに、一般的には武士的なものとみなされていたであろうものをすべて取り入れたわけではなく、彼なりの取捨選択を行ってる。は、の「 し、また彼らの逸話を好んだようだが、「余輩は赤穂義士と人生観を異に

(11

」として最終的にはその行動を批判してい

(11

た、"blind loyalty and bloody patriotism"美質を世界に伝えたいという趣旨のことを、『代表的日本人』改版の自序で述べてもい

(11

え、

(1(

て、は、く、る「

(11

た。

(9)

内村鑑三の「武士道」

内村は、武士のあるべき姿勢を「独立」にみようとした。彼はたとえば「日本人であつて武士であつて、基督信者であるから依頼は嫌ひで独立は大好きであ

(11

などと述べている。

  名「に、は、西欧列強に伍すべく奮闘した明治人にとって、自尊の標榜と結びついて「独立自尊」という一大スローガンとなっていた。

  内村も多分に洩れず、独立自尊を尊んだ。ただし、それらを西洋由来やキリスト教由来ではなく、そもそも自前た。版『ば、 まさたるの余に はしきは、自尊と獨立であ

(11

というわけである。いうまでもなく、彼の無教会という立場はこの「自尊と獨立」の結果である。

  ちなみに、ここでの「自尊」とは、おのれのプライドを守ろうとする自敬・矜恃といった態度であり、武士の精神史には、まさにこのような伝統が見出されるとい

(11

プライドを傷つけられるような屈辱を与えられないようにみずからを日頃から鍛えておくことが、かつての武士には求められていたというのである。このような伝統をもつて、は「 あらず、

(11

」、

(11

」、「「 あなた乎?」す、す、ん、るパンを食ふて生きてゐる事は出来ませ

(11

などと述べて、「武士道」由来の精神とみなしていた。

  内村は、明治三十[一八九七]年の『万朝報』紙上で、日本社会の道徳を腐敗させた病源は薩長政府であるとする主張を行っている。そこでは「利欲を以て ちし薩長政府は までも金銭的なり、彼等は徳行を賞するに金銭を以てするより外の道を知らず彼等の勤王に代価あり彼等の愛国心に代価あり彼等の宗教道徳詩歌哲学一として代価

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4(

長野 美香

し、 いひつべし」と述べ、自尊心をかなぐり捨てた利欲と金銭への執着を慨嘆するいっぽうで、ギリシャ人が国家に尽くした功労の賞として「 かん らん樹の葉冠」を戴くことを無上の栄光としたことや、かつて武士の面目の極みが「感状一通」であったことを称賛してい

(11

このような彼の金銭卑賤視もまた、武士は食わねど高楊枝といった伝統的「自尊」重視のあらわれであるといえよう。なお拝金主義については、若くして渡米した内村が、憧れのキリスト教国であったはずのアメリカが、実は財神崇拝(と人種差

(11

のるつぼであったという事実に接し、近代化の病弊として痛切に感じてきたことでもある。

  さらに同様の観点から、独立自尊の代名詞のような福澤諭吉もやり玉にあげられている。以下は内村の執筆活動十[が、 り、 よつ はづり、便り、武士根性は善となく悪となく悉く愚弄排斥せられたり、彼は財産を作れり、彼の弟子も財産を作れり、彼は財神に祭壇を築けり、 しかして財神は彼を めぐ

(1(

と手厳しい。福澤の「財産」が具体的にどのようなことを指しているのか明確ではないが、内村が、利欲を卑しむべきであるという古めかしい価値観によって、福澤風の近代的実社会における独立自尊に疑義を呈している点は興味深く、さらに、このような古風な批判が「あなたがたは、神と富とに仕えることはできな

(11

といったキリスト教的な価値観に通底しているであろう点も重要である。

  ところで、内村にとって日本史上の理想的武士の筆頭は八幡太郎源義

(11

であったようであり、義家についてはたびたび言及がある。

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内村鑑三の「武士道」

   源義家と云へば今より八百年前の人であつて今日の我等とは全く関係の無い人であるやうであるが、然し決し うではない、日本武士の中で彼はゼントルマンの模範である、勇敢で、寛大で、謙遜で、弓を能くし、歌を能くし、獅子の如くに猛く、婦人の如くに優さしく、実に好個の日本男子であつ

(11

  が「と、の「

(11

。「人の剣を取りし者な

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と信じた内

(11

は、後三年の役の際の「さばかりのたゝかひの中に、やさしかりける」物

(11

を引いて、義家の寛容、詩を詠む情を愛でた。

  このような武士の柔弱にみえる要素については、赤穂浪士の小野寺十内による「涙襟

(11

の読後感を論じた一文にもあらわれている。

    日本武士とは かくの ごときものなりしか、情あり、涙あり、愛あり、義あり、歌あり、誠あり、勇あるは勿論、胸間に勲章を輝かすを以て誇らずして、武士の理想を実行するを以て名誉とす、逆遇に処して閑日月心中自から春蕩、り、使るが如し、日本武士の栄光 こゝに存せずして何ぞや。

   彼の妻に対するの情 また何ぞ こまやかなる、勇 あり この愛情あり、古代の日本武士は この点に於ても欧洲古代のナイトヱラントに譲らざり

(11

  は、を「」(knight-errant る。

(12)

(0 長野 美香

源義家同様、赤穂浪士たちの詩心を「故国の為めに戦ひし詩人ダンテ」や「 ギリシアの独立軍に投じて命を終へし詩人し、ず、り、なる者なり」と、最大級の賛辞を贈ってい

(1(

  は、も「

(11

gentleman

(11

西gentleman と「し、とまで賛美するのである。

4.パウロへの親愛とイエスへの道程   前述のように、内村の考える「武士道」は、ときに西洋の価値観と結びつけて論じられた。先にとりあげた独立自尊も、西洋の個人主義と結びつけることができるし、そのように考えるのが一般的であろう。

  では、内村がその生涯を捧げたキリスト教そのものは、「武士道」とどのような関係にあるのだろうか。

  武士道もしくは日本の道徳は、キリスト教そのものよりも高くて優れている、したがって、それで十分だなどと

思い込んではなりません。武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのです。は、せ、者、ないのであります。武士道は、まだ未完成なもの、現世的なものでありま

(11

  内村はこのように述べ、「武士道」「この世の一道徳に過ぎ」ず、それだけでは「未完成」だとしている。しかし、

(13)

内村鑑三の「武士道」

実は「武士道」とキリスト教とにはきわめて密接なつながりがあると彼は考えていた。そこで、内村におけるキリスト教的な価値観と「武士道」との関係を考えるうえで、まず、使徒パウロについての内村の見解をみておきたい。

  パウロは、内村にとって「良き教師であり、信仰の兄弟であり また友人」であっ

(11

ただし、内村はパウロの書簡を解説しつつ彼を「欠点の多い人」と評してい

(11

もっとも、その「欠点は美点を示す一助であつて、 この欠点に よつ

てパウロの心中、深き所を窺ふ事が出来る」とし、パウロの「欠点」をめぐって以下のように述べている。

 

た。る。の人は中途半途たる事が出来ない。愛せざれば憎み、憎まざれば愛す。そしてパウロはキリストの愛に励まされて、愛の区域を広め又深めたるは事実であるが、其れと同時に又、此愛を蹂躙する者に対し堪へ難き忿 いかりを懐くに至りしことも亦否むことは出来ない。言ふまでもなくパウロに預言者性がタツプリ在つた。彼は焼尽す火の如き預言者がキリストの僕になつた者である。そして人の天性は容易に ぬけるものでない。 あたかも日本武士が基督信者に成りて終生武士気質を存すると同じであ

(11

  内村にとってのパウロの存在意義は、内村自身が、そのようなパウロの完璧とはいえない人間性に励まされることによって、みずからの美点や欠点に眼を注ぐことができ、そこからパウロに倣って真の救いへ導かれようとした、う。の「ト・は、り、す。は、す。の「人の中で最たる者」という言

(11

が、そのまま内村の自称(「罪人の かしら」) (11となっていることもその証しといえる。こ

(14)

((

長野 美香

の一節をめぐり、内村はパウロへの親愛を次のように結論づけている。

  自から称して「罪人の

かしら」と云ひし者がキリストの福音に接して急に完全に成る訳はない。そしてパウロ自身が彼の生涯の終りに近づいて完全に達するに未だ遠きを明かに述べて居る。 書三章十二節に於て彼は曰うた、

     我れ此等の望を既に得たりと言ふに非ず。亦既に

まつ たうせられたりと言ふに非ず。或は取ることあらんとて我はたゞ之を

(11

  と。

完全を追求むる点に於てパウロも我等も異なる所はない。(中略)パウロは我等の師に非ず、我等の兄弟である。 らい兄弟であるに相違ないが、然し神の子に非ずして人の子である。救はれし罪人であつて、罪を知らざる

ではなかつた。故に懐しくある。私は私の最善最大の長兄としてタルソのパウロを愛せざるを得な

(1(

  興味深いことに、内村はパウロへの敬愛の表現として、「パウロは真正の武士にして武士道の精神を体現したる

(11

であるとか、また「聖パウロは生粋の日本武士として通

(11

」などと、「武士道」精神とパウロとを重ねようとしていた。

  は、な「た。の剛毅なる所があつ

(11

」、「パウロは独立であつた、金銭を賤しんだ、主に対して忠であつ

(11

」、「名を重んじ恥を知るの人であつ

(11

」、「内証の事、後暗い事を憎ん

(11

」、「或種の戦闘を愛し

(11

などと、そのパウロ評には、内村にとっての「武士道」的な資質が列挙されている。そのうえで、内村は「パウロに日本武士の魂があつ

(11

と言い切るのである。先に述べたパウロへの特別な共感の根柢には、このような独自の「武士気

(11

への結びつけがあった。さらにいえば、内村が理想とし、かつそれをみずから実践しようと努力していた内村的「武士気質」が、実はキリス

(15)

内村鑑三の「武士道」

ト教における理想的信仰者の普遍的な資質であることを主張しようとする意図があったということもできるであろう。

  それでは、イエス自身は、内村の論ずる「武士道」とどのような関係にあるのだろうか。内村は、イエスの「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という言

(1(

に関して以下のように述べている。

  キリストは曰ひ給うた「我れ憐憫を好みて

いけにえを好まず」と。神が好み給ふものにして憐憫の如きはない。彼はまことに慈悲の神である。其反対に彼が憎み給ふものにして無慈悲の心の如きはない。其点に於てヱホバの心と武士の心と てゐる。弱者を見て之を憐まず、 かへつて之を苦しむるを以て喜びとなすが如きは、武士の堪ゆる能はざる所であるが如くに、 また神の赦し給はざる所であ

(11

  さきに源義家にみたような「優さしさ」や「寛大」の理想は、あるいはこのようなイエスの言葉に結びつき得るかもしれない。しかしながらこの文章は以下のように続くのである。

  世に真のクリスチヤン程弱い者はない。彼に政府

または教会の保護はない。彼は愛を唱へ、無抵抗主義を標榜する。イエス御自身が くあり給う

(11

  この「無抵抗主義」のほうは「武士の心」とは決して「 て」いないだろう。

  内村によれば、イエスは「武士の家に生れ来らずして大工の家に生れ」、その生涯は「勇敢、剛気の生涯」ではない、

(16)

(4 長野 美香

武士的な勇ましさと対極をなす性格の持ち主だっ

(11

  しかし、内村はイエスの非「武士道」的にみえるありようを、源義家の「優さしさ」や、小野寺十内の「情あり、涙あり、愛あり、義あり、歌あり」と無関係と思わなかったはずである。イエスが人間的な情や人間の弱さに対する最深の理解者であったことと、「武士道」が人間の繊細で柔弱なありように通じていたこととは、内村にとって、キリスト教信仰を考えるうえできわめて重要な意味をもっていたといえよう。

  イエスは、先の「我れ憐憫を好みて いけにへを好まず」について、「「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招

(11

る。は、り、た。が人間の側に求めたのは、自分が弱く、正しくあることの難しい「罪人」であることを知ることである。そのような求めに応じ得る者のみが、救いに至ることができるのであ

(11

  「武士道」が本来「この世」の道徳であって、

「おおいに未熟で現世的なものであ

(11

ことを十分承知していた内村であるが、イエスによる「罪人の招」きに共感することのできる精神を「武士道」に見出すことができなければ、日本の自前の道徳から「罪人」の自覚へ至り、そこから神の憐れみによって「罪人」を招く神へ、という、道徳から信仰への一大飛躍を果たすことは不可能であった。彼が、本来ならばさまざまな側面をもつはずの歴史上の武士像のなかから、あえて「情」や「優さしさ」などを拾い出したことは、そのために必要であったといえよう。

(17)

内村鑑三の「武士道」

5.「武士道」とキリスト教   昭和三[一九二八]年、内村は「武士道と基督教」という札幌での講演において、「基督教は神の道であります、武士道は人の道であります、神の道は完全であつて、人の道は不完全であるは云ふまでもありません」としたうえで、しかし、「武士道は神が日本人に賜ひし貴き光」であり、それは「夜を司る為の小さな光」ではあるが、「貴き

(11

。「は「

(11

が、く、は、たとしている。この講演では、その点について次のように述べている。

  日本人も

また神の造りたる者、 その意味に於て神の子であります。そして神は「 みづからを証し給はざりし事なし」とあります通りに、彼は我等日本人にも御自身を証し給ひて、其光の一部分を示し給ひました。私は信じます、武士道は神が日本人に賜ひし最大の賜物であつて、是れがある間は日本は栄え、是れが無くなる時に日本は亡ぶるのである

(11

  は、た。五[名(士道と基督教」)の文章である。

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