Title
フォーサイスとエイレナイオス
Author(s)高, 萬松
Citation
聖学院大学総合研究所紀要, No.28, 2004.2 : 316-344
URL
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=4139
Rights
聖学院学術情報発信システム : SERVE
SEigakuin Repository and academic archiVE316
フ ォ
1
サイスとエイレナイオス
E
コ
I
司
高
松
はじめに
ブルンナ
l(
何 百
口 ∞
E
ロ ロ
q )
フ ォ
l
サ イ
ス (
司 ・
H
︐ ・ 司
3 ︒
3 r
・ H ∞
hF∞ '
H S
H )
とエイレナイオス(イレネウス︑円円 gsgw
( 1 )
の両者を組織神学者として高く評価している︒彼は︑フォ l サイスを﹁英国の偉大な神学者のひとり﹂と
l ま
g ‑ H ω
O B N C
N )
位 置 づ け
︑
エイレナイオスを﹁第一流の組織神学者﹂と見ている︒
ような定義に立脚している︒すなわち︑
﹁ 組 織 神 学 者
﹂ と は ︑
﹁ [ 真 理 の ] 連 関 を 見 る ﹂
エイレナイオスに対する評価は︑彼自ら立てた次の
( 2 )
(島町
NC SE ES FE mo ω
各
2
8 )
ものだという定義である︒
フ ォ
l サイスの思想の背後には二世紀の神学者エイレナイオスの影響があり︑
の神学者がその可能性を示唆していお︒ その思想的親近性について以下の三人
一
、
フ ォ
1 サイスの最大の賞賛者(賞
g件 ︒
己 注
目 町
q ω )
と 知 ら れ て い る モ ズ リ ( ﹄
・ 同
・ 冨
SF
可 )
l ま
フ ォ
1 サイスにお
け
る ﹁
信 仰
﹂
の解釈の仕方がエイレナイオスとの親近性にたっていると見ている︒
フ ォ
l サイスにとって信仰は真の知
識の器官である
( g
︒ 布 告 ︒ ご
g‑ E
草
5色 町
0 ・)︒言い換えれば︑信仰は人格的な神とその救済意志についての知識に貢
( 4 )
献するのである︒この点に関して︑
﹁ 彼 [ フ ォ
l
サイス]の思想は﹃われわれは神なしに神を認識することはできない﹄
( 5
2
る
$ 2 2 3 u E
E
之宮ミ)というエイレナイオスの表現の釈義として捉えている)﹂とモズリは言う︒
一 一
︑
一 九
内のミミ 六 0 年代半ばの著作同ミ
NghS.h
ぬ
S( 5 8 )
の な か で
( 6 ︑
)
その思想がエイレナイオス的な枠組みのなかにあることをも認めている︒上記の書物の中で︑
( 7 )
フ ォ
1 サイスに対するヒックの見方は健全であると考えられる︒ ヒック C
︒ ﹃
ロ 回
目 ︒
宵 )
は ︑
フ ォ
l サイスを高
く評価するだけでなく︑
二 ︑ 大 宮 痔 は
︑
フ ォ
I サイスのキリスト論がエイレナイオスの
﹁ ﹃ 要 約
﹄ (
﹃ 忠 告 芹 己 主
︒ )
の 説 に 近 い も の ﹂ であると
一 一
一 一
口 う
︒ 換
言 す
れ ば
︑
フ ォ
l
サイスにとってキリストの歴史は︑人間の歴史の要約であるという理解である︒
フ ォ
l サイスとエイレナイオスとの思想的な共有を究明するために︑以下の四つの点について考察して見たい︒第
一
、
フ ォ
1 サイスの書物の中に言及されているエイレナイオスについて︒第二︑ ヒックが上記の著書でフォ
lサイスの
﹁ 神
義 論
﹂
エイレナイオスとの親近性を探るためにフォ!サイスに に触れているので︑ その妥当性を究明する︒また︑
おける﹁創造﹂理念を見てみる︒第三︑ エイレナイオスの神学思想︑特に﹁創造﹂
と 1 ﹁アナケファライオ
シ ス
﹂
う理念について︒第四︑
ブ ォ
1 サイスの思想の中に見られる という理念について︒
﹁ 再
統 合
﹂
1
フ ォ
1
サイスにおけるエイレナイオスの言及
同 円
︑ ︒ 話 ︑
H E
出 注 目 凡
h s
︒
﹄守︑
N
い て
ミ ミ
L E R N R ( 忌 ∞ ω )
の著者ベネデット(戸田
80
品 ︒
拝 ︒
) は
︑
イレナイオスについての言及が一箇所しかないと指摘しているが)︑
フ ォ
l サイスの著書の中には︑
決してそうではない︒われわれはもう一箇所付け加
え た い ︒
と
エ し=
フオーサイスとエイレナイオス 317
ま ず 第 一 の 箇 所 は
︑ 同 封 ︒
S N h
去 ︑
wg
札
忌 ?
切 ぬ
の さ
S
な さ
( S
H 吋)という著作の中で
﹁ 幼
児 洗
礼 ﹂
について語られている箇
所 で あ る
︒
それは新約聖書の中にはない︒ーコリント七・一四さえもそれを除外し
( 叩 )
ている︒:::エイレナイオス(﹀・ロ・足︒)は幼児洗礼を知っていた﹂とフォ l サイスが述べている︒幼児洗礼を巡って ﹁幼児洗礼の起源は不明瞭である︒
318
フ ォ
l サイスが問題視しているのは︑新約聖書にそれがあったかどうかという問題ではなく︑新約聖書に幼児洗礼を可
( 日 )
能にする福音的原理があるかどうかという問題であった︒
とのこの正しい関係を示す手際﹂として認めている︒
フ ォ
1 サイスは幼児洗礼を︑ ﹁全教会と世界に︑恩寵と信仰
第 二 の 箇 所 は
︑ 同 ミ ミ ミ 凡 さ
gh NH
ぬ
E33
ミ ミ ( リ マ 宣
( H
S ω
)
と題する論文所収の
﹁ 使 徒 的 伝 承
﹂
に関する論考の中にあ
マ Q ︒ ﹁救いをもたらす真理の使徒性
( ω
志 位
︒ ‑ E
q )
を保証するための監督職
( 3 ‑ R
︒ 宮 古 ) と い う
エイレナイオス[の時代]に最高潮に達し鳩﹂︒エイレナイオスは次のように伝承の真実性が司教の継承
( U )
にあると見ているので︑以下のようなエイレナイオスの言葉によって︑
フ ォ
1 サイスの上記の見方は適切であると思わ
フ ォ
l
サ イ ス は 言 う
︒ 使 徒 伝 承 は ︑
れ る
︒
全世界で使徒たちの伝承は明らかであり︑:::そして私たちはそれらの教会で︑使徒たちによって司教とし
て立てられた人々︑またその継承者を私たちの世代に至るまでずっと数えあげることができる︒:::二人の
使徒ぺトロとパウロによってロ 1 マに創立され︑設立された教会の継承のみを数えあげ︑また使徒たち以来
( お )
の伝承と︑人々に告げ知らされた信仰が司教たちの継承によって私たちにまで至っていることを示す︒
2
フ ォ
1サイスにおける﹁神義論﹂と﹁創造﹂前述したようにヒックC︒甘口出片付)は同ミ
ghS
ぬのミミ
hS
ぬ
(5 8 )
と題する著書においてフォ l サイスの神義論
について言及している︒ その中でヒックはフォ 1 サイスを高く評価している︒すなわち︑ ﹁預言者の霊的ビジョンと雄
弁 を も っ て ( 己 ︒
A5 D8
8
品
名 E E m
‑ i
位 ︒ ロ ︒
同 町 戸 間
} ﹃ ︒ ℃
E 2
) ︑
( 日 )
勃発によって苦しめられた同時代の人々に講演した﹂とヒックは言う︒この評価はヒックが︑同封筒
' S
円SS
ミミミ c ミ
フ ォ
1 サイスは悪魔的な邪悪に属する[第一次世界]大戦の
( 5 5 )
というフォ l サイスの著作の内容に触れる際に出たものである︒ ヒックの上記の書で述べられているフォ l サ
イスへの言及の妥当性を究明してみよう︒
﹂こでは︑神義論を巡る信仰の姿勢としての
﹁ 神 中 心 的 信 仰 ﹂
﹁ 神 義 論 の 内 容 ﹂
︑
そして
﹁ フ
ォ
l サイスにおける
と
創 造
﹂
についての考察である︒
( 1 )
神中心的信仰
信仰は世界の秩序から起こらない︒信仰は︑
命 的 な 死
︑
キリストの十字架において︑最も激しい危機︑最も大きな戦争︑最も致
( 口 )
そして世界が知っていた最も深い墓から生じるとフォ!サイスは考えている︒ヒックはこのようなフォ l サ
﹁ 後 の カ
l ル・バルトのようにキリスト中心的
( n E ω
5 8
豆の)思酔)﹂と見ている︒しかし︑ここでは
( 印 )
﹁ 神 中 心 的 ﹂ ( ゴ 足 ︒
8
ロ尽の)信仰について考察することにしよう︒
イ ス の 思 想 を
︑
フォ!サイスのテキストに基づき︑
フオーサイスとエイレナイオス 3
1
9モズリによれば︑当時は︑人間中心の危険な思想が蔓延して︑神を人間の立派な将来性(ち
ω ω
目 立
‑ 52 )
め の 代 理 者 と 理 解 し た 時 代 で あ っ ( か )
︒
の実現のた
題に関心を寄せている︒彼はそれを﹁道徳的失敗﹂
フ ォ
! サ イ ス は 同 出 向
' E A 誌のお町民ミミ ミ c
( S H
∞)の第六章において教会の失敗の問
( B 2 m
‑ E E M )
と名づけている︒言い換えれば︑それは神不在の
320
( 向 ︒ 色
︒ g )
利己主義的・人間中心的信仰
( S P 5 3 2
ロ 可 W
E ‑
柱︒ロ)を癒せなかったという教会の問題である︒人間中 ‑
心的信仰においては︑神の行為が︑人のうちに革命を起こすことでも︑新しい創造︑新生︑絶対的なあがないをもたら
﹁神は人間の助け手であっても︑それ以上のお方ではなく︑真の意味での購罪者ではなく︑ただ比除
的な意味での購罪者にすぎな凶)﹂︒彼は詩篇二三篇と五一篇をあげて︑人間中心的信仰と神中心的信仰を対比している︒ す
も の で は な い
︒
人間中心的信仰の第一の関心は︑人間を助ける神と共に生きようとする人間であり(一二二篇)︑ それは主観的ヒュ!マ
ニズ ム
( ω
ロ σ ]
ゅ の 民 ι S F
ω E ロ 巴
ω E )
に終わる︒しかし︑神中心的信仰は︑神を絶対的に礼拝する人間と共に歩む神に第一
の関心がある(五一篇)︒神中心的信仰は︑第一に神に栄光を帰し︑神の御名を崇める︒フォ l サイスにとって最も顕
( お )
著な特徴は︑第一の関心を﹁聖なるものの絶対的な優位﹂(与
g E g g
‑ ) 5 5 m w q ︒
ご
F O可
E ‑) あ る い は
( M )
(古門戸
B m w Q
丘 町
︒
‑ zg ω )
に 置 く こ と で あ る
︒
何よりも重要なことは︑
﹁ 聖 性 の 首 位 権 ﹂
フ ォ
l サイスが神中心信仰を巡ってピューリタンの伝統の線に立っているということであ
る
﹁ 聖
性 ﹂
の強調に見られるように︑ ﹂ の モ チ ー フ は
﹁ ピ ュ ー リ タ ン ﹂
の伝統から得ている︒また︑彼の神学的思索
に根ざしているのである︒
( お )
グ ッ ド
v
ワ
イ ン ( 己
5 B B ︒
︒ 急 豆 ロ ) か ら 得 て い る ︒
はピューリタンのように﹁聖書﹂
フ ォ
1 サイスは聖性の強調をピューリタン神学者トマス
セ ル
( 旨
吉 岡
︼ ・
明
‑F
ロ ) に よ れ ば ︑
フ ォ
l サイスにおける聖性の強調は
ピューリタンの神学的研究による成果であると考えられる︒また︑
フ ォ
1 サイスは聖性の強調の根拠を﹁聖書﹂
に 置 い
て い
る ︒
﹁神の聖性﹂を主題としているのミ忌内旬︒守司令忌ミ(毘也吋)という著作の冒頭で︑彼は次のように聖書の中から
聖性の理念を見出しているのである︒
新約聖書において神の名とその理念は単に﹁われらの父﹂(︒
R g p o
﹃ )
で な
く ︑
﹁わたしたちの主︑救い主
イエス・キリストの父なる神﹂(任︒の急自己忠吾
q色 ︒
R H b E S ι r i
︒ R ﹄
25n r
ユ 巳
・ )
てキリストご自身の祈りは
﹁ 聖 な る 父 よ
﹂
し た が っ
( お )
であった︒それは神についてのキリストの中心的思想であった︒
で あ
る ︒
実 際 的 に
︑ フ ォ
l サイスの言う神中心的信仰は︑神と人間との人格的関係に適用されうる︒ ピューリタン契
つ ま
り ︑
約神学的思想がその根底にあったからである︒
フ ォ
l サ
イ ス は 一 言 う
︒
﹁聖なるものは神の正義の愛において︑人間の真
心のこもった(巧司自)良心を呼び集め︑人間の道徳的心を呼び集める︒またそれは︑全人︑全魂︑全人格を要求する
( 幻 ) ( の
‑ z m
包
同 ︒
﹃ 任
命 巧
﹃ ︒
] ゆ
B g w d
弓 } 回
︒ 円 ︒
ω ︒
巳 ・
任 ︒
当
} g ‑ o官 ︒ 吋
ω ︒
ロ 己 目 守
・ )
︒ ・
・ ・
・ ・
・ そ れ は 信 仰 と し て 知 ら れ て い る 応 答 を 要 求 す る
﹂ ︒
同様に︑ピューリタン神学者エイムズ(巧邑
O B
旨
5 ω)
は 主 著 同 出 向 ミ ミ さ さ ミ 吋 暑 さ 円 ︒
hy
の 第 三 章 に お い て
︑
﹁ イ ス ラ エ ル
の聖なる方︑主に真実をもって頼る﹂
( イ
ザ ヤ
一
0
・ 二
O )
という聖書の言葉をたよりとしつつ
で あ
り ︑
( ω
ロ 印
︒ 件
︒ 同
5
再
4司 } 戸
︒ ‑ ︒
﹁信仰﹂を定義してい
る
﹁信仰とは︑命と永遠の救いの作者でありたもう神に心をおくこと﹂
﹁ 全 人 の 行 為
﹂
白山 口)
で あ
る ︒
( 2 )
神義論の内容
既述のようにヒックは︑
一 九
六 0
年 代 の 半 ば ご ろ ︑
し た
︒
こ れ
は ︑
フ ォ
1 サイスの神義論を﹁預言者の霊的ビジョン﹂のものと評価
(m m)
ヒックの宗教多元主義的思弁とは異なる面であろう︒ヒックは岡市注目 S 札忌内のミミ
h g
内
(5 8 )
の な か で ︑ フ ォ
l サイスの神義論の核心を捉えているので︑ その妥当性を考察して見ょう︒
フオーサイスとエイレナイオス 321
ま ず 第 一 に ︑
ヒックは次のような文章でフォ l サイスの言う﹁神義論﹂ の 核 心 に 触 れ て い る ︒
3
22 彼 [
フ ォ
1 サイス]は︑蹟い主が深淵から人類を救出したように︑ キリストが罪と戦って打ち勝ったものと
見なした︒この行為が神義論という神の偉大な業を構成する︒なぜなら︑人類の悪の中への神の救済的な参
与によって︑人間についての神の義認(出宮古色
5 2 t ︒
ロ ︒
片 岡
( 国 佐 官
ω
呂
g位 ︒
ロ え
回 目
B8 5
だからである︒﹁唯一の可能な神義論は購罪
( ω Z 5 B g c
は同時にあの悪に関して御自身の義認
で あ ( 加
) ﹂ ︒
前 述 の 箇 所 で は ︑ ヒックが
﹁ 神 の 自 己 義 認 ﹂ ( ︒
︒ 与 が
R E Z ω
患 の
色 ︒
ロ )
と ︑
﹁購罪﹂を土台としている神義論を承認し
て い
る ︒
ヒックは ﹁神の自己義認﹂という概念の詳細について触れていないが︑この概念は重要である︒なぜなら︑
フ
オーサイスは信仰義認と神義論︑ その両者の根底に﹁神の自己義認﹂という理念を置いているからである︒神がご自身
を義とするという意味の神の自己義認は ﹁十字架﹂と結びつけられている︒なぜ︑十字架と関係があるのか︒ その理由
は︑神みずからささげもの
( ω
己 片 目 ︒
同 q
E m )
になったからである︒ どんな人間の理由づけも御子についての神の処置を
越えて︑神を義とすることはできない︒神はご自身を義とせざるをえない︒神は人間に︑ご自身と共に万物を与えるほ
ど︑御子を惜しまなかった︒邪悪な人間に対して︑神みずからささげものになった︒ それだけでなく︑聖なる御名に対
しでもそうした︒人間を義とするだけでなく︑神をも義とした場所が
﹁ 十
字 架
﹂
である︒十字架上で︑正義の神は行為
者となり︑受難者となった︒大木英夫が
え﹄をみ鳩﹂と述べているように︑フォ l サイスは﹁全宇宙とともに神のすべての摂理を義とし︑全宇宙の問題を解決
す碍﹂鍵は十字架にあると考えた︒フォ 1 サイスにとって十字架は﹁世界における神の唯一の自己義認であ的﹂︒逆に
い え ば ︑
﹁ フ ォ
l サイスにとって唯一の妥当な神義論は神の自己義認であ槌﹂︒
﹁ フ
ォ
l
サ イ ス は
︑
イエス・キリストの十字架に歴史の神義論的問いの﹃答
フ ォ
l サイスが提示している信仰による﹁実践的﹂な解決方法を承認している︒︒
( お )
フ ォ
l サイスによれば︑神義論に対する問題は回答者を信頼し︑勝利者と結合することによって解決される︒ヒックは
このようなフォ l サイスの﹁信仰による解決﹂を︑理論的であるよりむしろ﹁実践的解決﹂と見ている︒この見方も健
ま た
︑
ヒックは悪の問題に対して︑
全である︒なぜなら︑
フ ォ
l サイスは哲学的な神義論を拒否して︑次のように実践的な方法を取っているからである︒
つまり︑世界の和解についてただ先見者
( 8 2 )
で な
く代行者
( k
k g 乙であるイエス・キリストにおいて神を信頼する絶対的土台をも勾﹂︒ホール(のめ︒認︒出色)は︑
N h
守 門A ミ
ミ 忌
内 同
討 さ
向 ︒
題 応
︑ ︑
・ 丹
︑ ︒
3
いE
P と題する論文の中で︑﹁神についての理性的な擁護があり得ない故に︑すべての
知的な努力は失敗する運命になっているとフォ 1 サイスは信じた︒:::したがってあらゆる解決は生きた信仰の実践的
( 犯 )
領域の中で発見されるであろう﹂と言う︒ホ 1
ル の 見 方 は ︑
﹁われわれは幻でなく命令
( S E E
m 自己)をもつお方を信頼する︒
一九六六年の時点におけるヒックのものと共通する︒
クの見方もこの線の上に立っていると言えるであろう︒
( 3 )
フ ォ
l サイスにおける﹁創造﹂
神の継続的創造という概念の中に︑
フ ォ
1 サイスとエイレナイオスとの思想的親近性が見られるので︑
﹂ れ に つ い て 見 て み よ う ︒
フ ォ
1 サイスは人間に対する神の継続的創造に関して次のように述べている︒
﹁ 救 い の 経 給
( σ 8 8
B
可 ) は宇宙の運
動の原理となる︒自然は︑他の面で鍵を持っている救いの草稿にすぎないが︑
( 鈎 )
程
( Z D m
℃ ﹃ ︒ の
め ω ω
︒ T M B m E
︒ ロ ) を 頂 点 に す る た め に 見 出 さ れ た ﹂
︒
﹁績罪的な意味﹂と捉えることができる︒ そこで臆いの永遠の行為は創造の長い過
﹁ 創 造 ﹂ 思 想 は ︑
﹁ 継 続 的 な 意 味 ﹂
フ ォ
l サイスの
ヒ ッ
フオーサイスとエイレナイオス
と
32
3まず︑継続的な意味として︑
﹁ 第 一 の 創 造
﹂ 缶 詰 丹
Qg
民
︒ ロ
) と
﹁ 第 二 の 創 造
﹂
( ω 2
︒
EQg
位 ︒ ロ ) と い う 言 葉 が 用 い ら
れている︒前者は原初的創造を︑後者は
﹁ 到
来 し
た ﹂
( R E s e
創造を意味する︒ ﹁第一の創造に対する鍵は第二の創造
3
2
4にある︒第一の創造は第二の創造を目的として行なわれた︒:::第一の創造は第二の創造の預言であり︑第二の創造
は悲劇的に﹃到来した﹄
( ω E s e
第一の創造であっ前)﹂と彼は言う︒第一の創造では受動的な(宮
E Z )
混沌との対
抗(︒志︒包位︒ロ)があったが︑第二の創造では能動的な(室町︒)被造物の対抗があつが)︒前者は
2
昨 ・ 色 ︒
B )
の領域であるが︑後者は
﹁ 霊 的 で あ り 聖 な る 自 由 ﹂
( ω
立 ユ
Z m w y v ︒ 守 時
2
︻ 目 ︒
B )
の 領 域 で
あ 「 る§道
。 徳
的 自
由
( 日 ︒
s ‑
ガントンによれば︑
フ ォ
l サイスの
﹁ 創 造 ﹂ 思 想 は
﹁ 噴
い ﹂
( 円 ︒ 品
︒ 日 目 }
民 ︒ ロ )
の光によって理解されうる︒厳密にいえ
ば︑この場合の創造とは ﹁第二の創造﹂もしくは
﹁ 新 し い 創 造
﹂
( 5 4
司
Qgt
︒ ロ ) と 理 解 し た 方 が よ い
︒
というのは︑第
フ ォ
1 サイスによれば︑被造物を購う(諸島
2 B )
ことは第一の
(HH)
創造よりもっと創造的な行為であり︑購うことは全能の神のできる最後のことである︒そして︑神の全能は 二の創造が噴いの概念と結びついているからである︒
﹁ キ リ ス
ト﹂において発揮され︑十字架と聖霊という道徳的資源によって︑聖性の高価な︑必然的な行動
巳
( gq s ι E 2 5
︒ z
( 必 )
R E
S え
Z ‑ z g ω )
として表れる︒彼の思想のなかでは︑第一の創造より﹁もっと強力であり驚嘆すべき︑神秘的な﹂
( E m g w E g o
︒
‑FES
早 急 ︒ 日 ) も の と し て ︑ ﹁噴い﹂を伴う創造がある︒
そ れ が ︑
﹁ 新 し い 創 造
﹂
( ロ 命 者
︒ 円 ︒
ω 位
︒ ロ
)
で あ
る ︒
﹁キリストと結ぼれる人はだれでも︑新しく創造された者なのです﹂
(H
コリント五・一七︑新共同訳)︒新しい人類
は究極的に聖なる贈い主
守
( gH N a o o B q )
の行為の中に存在する︒
フ ォ
l
サ イ
ス は
一 一
百 う
︒
﹁第一の創造の後ろと内部
にはもっと大きな創造として第二の創造が常にあった︒ それは︑第一の創造より方法の面においてより大きなものであ
( 幻 )
それは信仰における新しい創造(号巧
Qg t
︒ ロ ) で あ る ﹂
︒ 新 し い 創 造 の 源 泉 ( 任 ︒
∞ ︒
g R
ゆ え
F o
︒ 当 z n B
色 ︒
ロ )
( 必 )
は十字架にあ明︑噴い主は﹁新しい創造主﹂
( Z
︒巧わ志向洋ミ)である︒人聞がキリストにおいて新しい創造に参与する
っ た
︒
時︑人間はそれと同時に十字架の危機に到達する第一の創造の成就に参与す持︒
﹁絶え間ない新しい創造とその喜び﹂
( 8 5 S
ロ
E23
色 ︒
E E
‑
乏 し 町 一 ) が あ る ︒ フ ォ
l サイスの鋭い洞察である︒
意味深いことは︑彼が創造を神義論的に思索していることである︒第二の創造のほうに
フ ォ
1 サイスによれば︑神の側では
﹁ 神
の 義
﹂
と結びつく特徴を
見ることができる︒
フ ォ
1
サ イ ス は 言 う
︒
﹁第二の創造は少なくとも第一の創造のように広かった︒ それは︑世界のた
めの新鮮な義の行為(自主丘一昨
g F
ユ
mZ 2 8 2 ω )
︑:::とりわけ義(ロマ一・一七)をもった創造的なことであっ校﹂︒
また︑もう一箇所で神義論的思考の極致を見ることができる︒
自然的自由
( E E S ] 片
足 ︒
念 日
)
の乱用と破滅からは︑人間についての義認における神の弁護守宮色付注︒ロ)
をもって︑神の子らの超自然的自由(皇宮
B S E E
‑ t O 3 )
があらわれる︒すべてに対する義認は︑十字架
( 日 )
で あ
る ︒
の奇跡的思寵によって確保された神の義(ユ
m Z 8 5 5 2 )
ここでは︑自然的自由が第一の創造の領域を︑超自然的自由が第二の創造の領域を意味していると理解されうる︒この
ように創造が深く神義論と関連づけられているのである︒
そ れ ゆ え
︑
ヒックの見方は妥当である︒なぜなら︑
トの蹟いの業における創造のクライマックス﹂
﹁ 神 の 継 続 的 創 造
﹂
( M )
に関して思索したと見ているからである︒
フ ォ
1 サイスが のなかで
﹁ キ
リ ス
ヒ ッ ク は
︑
フオーサイスとエイレナイオス
3
2
5326
3
エイレナイオスの神学思想
大 木 英 夫 に よ れ ば
︑ れ
る ﹁
救 済 史 ﹂
RP
応 す エ
る イ 歴 レ 史 ナ 的 イ 構 オ 想 ス が の あ 主
る§著 ﹃
異 端 反 駁
﹄
の神学思想は歴史神学である︒そ ﹂には聖書の中に見いだ さ
ライオ l
シ ス
﹂
エイレナイオスにおける人間の創造と﹁アナケフ
という概念について考察してみよう(但し︑ここではエイレナイオスの思想の全貌をみるのではなく︑
そ れ を 中 心 に し て
︑
ア
フ ォ
l サイスの思想との親近性に限って見てみたい)︒
( 1 )
エイレナイオスにおける﹁人間創造﹂
ま ︑ ず ︑
( 日 )
﹁ 神 の 像
( g
﹂
a
︒ ) と
﹁ 神 の 似 姿 ﹂ ( 低
BE E
︒ ) の 区 別 に つ い て
︑ ﹃ 異 端 反 駁
﹄
の中では次
の よ う な 文 章 が あ る ︒
神はすべてにおいて首位性(℃ュ
R ‑ 3 ‑ E ω )
を持っておられる︒なぜなら︑この方ただおひとりが造られざ
であり︑すべてのものにとって︑この方ご自身が存在す
る 方
( 宮
内 ゅ
の 宮
ω ) で あ り ︑ 万 物 の 最 初 の 方 (
℃ ユ
︒ 円 )
るための原因だからである︒:::次のような働きを通して︑造られ︑形成された人間は︑造られざる神の像
( 貯 )
( E 向 g
︒ ) と 似 姿
( ω 百臣官色︒)にかたどったものとされていく︒
この二つの区別には神学的意味規定がある︒すなわち︑御子を﹁かたち﹂
( g a ︒ )
に結びつけ︑聖霊を
﹁ 類 似 性
﹂
( 巴 E E E
色︒)に結びつけるという規定である︒鳥巣義文によれば︑ は︑人間においては肉体︑ お よ び 理 性 ︑
﹁ か
た ち
﹂
は︑それを受けた人聞が霊的で完全なものになるための不可欠の要
( 回 )
素︑すなわち︑肉体の救いを最終的に完成する神の本性としての﹁不死性﹂にほかならないのである︒フォ l サイスに 自由︑自律性といった本性に見出され︑
﹁ 類
似 性
﹂
おいてはこのような厳密な概念規定はみられない︒
エイレナイオスにとって人間は次のような﹁未熟な存在﹂
( 5
5 巳
E R g ‑
口問)
で あ る ︒
神の方は初めの頃にも︑人に完全さを与えることができたのであるが︑人間の方が生まれたばかりで︑
そ れ
を受けることができなかった︒また受けてもつかみとることができず︑
( 問 )
かったのである︒ っかんでも持ち続けることができな
エイレナイオスの解釈によれば︑神の子は︑完全なものであったが︑自身のゆえではなく︑人聞が未熟な存在であっ
( ω )
たゆえに︑人間とともに未熟な存在となり︑人間が彼を受けることができたそのような形で受けられた(受肉)︒﹃使徒
エデンの園の中でアダムとエパの考えが︑ ﹁無邪気で子供 たちの使信の説明﹄の第一四章においてエイレナイオスは︑
( 臼 )
のようだつた﹂と表現している︒エイレナイオスによれば︑人は初めには小さな者としてその識別能力が未発達であ
( 位 )
った︒したがって︑現在の生は漸進的な霊的成長の過程である︒
御父が決定し︑命じられる︒御子が実行し︑形造る︒御霊が養い︑成長させる︒実に人間は少しずつ前進
に︑完全へと到達する︑すなわち︑造られざる方に非常に近いものとなるのである︒:::こうして︑人間は
まず初めに造られ︑造られたものとして成長し︑成長したものとして強められ︑:::栄光あるものとされた
フオーサイスとエイレナイオス 3
2 プ
(町山)
ものとして自分の主を見なければならない︒
328
以上のように︑不完全かつ未成熟な被造物として造られた人間は︑善と悪が混在している世界の中で︑霊的・道徳的
発展と成長を経て完成に至る︒
ヒ ッ ク は
︑ エイレナイオスが創造に二段階の区別をつけたと見ている︒すなわち︑第一段階において︑人間は道徳
的・霊的発展の大きな可能性を秘めた知的動物として存在するようになる︒第二段階では︑人間は自己の自由な応答に
( 臼 )
より︑人間的動物から﹁神の子ら﹂へと徐々に変えられていくという区別である︒フォ 1 サイスがエイレナイオスと異
なる点は臆いの強調にあると考えられる︒ ヒックは言う︒ ﹁古代のエイレナイオス的な主題に対するフォ!サイスの寄
与は︑人間に対する神の目的が自然的進化の結末ではなく︑超自然的な贈い
う独創的な意識を想起させたことであ碕﹂︒
己 完
( ω B ω z s
‑ 3
品 ︒ 目 立 目 ︒ ロ ) に 属 す る と い
( 2 )エイレナイオスの ﹁アナケファライオ
Iシ ス
﹂
ストにあって一つに帰せしめようとされた︑ エイレナイオス神学において﹁アナケファライオ l
シ ス
﹂ (
岱 ︿
2 g a y s $
の
95 2 1 z z t
︒)という概念は中心的なテー
マであ持︒﹁アナケフアライオ l シス﹂は︑エペソ人への手紙一章一
O節に︑神は天にあるもの地にあるものを︑キリ
といわれていることをさしてい的︒鳥巣義文は︑この言葉の用例から﹁要
(m m)
﹁成就﹂という意味を見出し︑この理念を二つ
﹁ 遣
り 直
し ﹂
︑
﹁ 修
復 ﹂
︑
そして ﹁完成﹂ないし
約 ﹂ ︑
分
て 再 け 「
い 統
る
8括
充 満
一つは︑御子の受肉によるアナケファライオ l シスであり︑もう一つは救済史の完成段階において御子
によって遂行される終末論的アナケファライオ 1 シスである︒ここでは前者のみを考えてみる︒
万物をアナケファライオ l シスする主体は︑御子イエス・キリストである︒ そして︑御子の人類に対する救いの経論
は受肉において際立っている︒ エイレナイオスは次のテキストで受肉の有する ﹁救済史的意義﹂を表している︒特に︑
﹁人間の長い歴史を自らのうちに再統合した﹂ という表現は︑後述するフォ 1 サイスの ﹁道徳的再統合の歴史﹂という
表現と親近性が見られるので注目に値する︒ エイレナイオスは言う︒
彼[みことば]はある時に受肉し︑人となったが︑ その時には人間の長い歴史を自らのうちに再統合した︒
要約した形で私たちに救いを提供したのである︒ それは︑私たちがアダムにおいて失ったもの︑すなわち神
の似像と類似性に基づいてつくられたものであること︑
( 拘 )
あ っ た ︒
﹂れをキリスト・イエスにおいて再び受けるためで
前述の箇所では︑御子が自ら人となることを通して︑ アダム以来の人類の歴史を再統合したという意味が重点的に示
されている︒このような古代教会の神学が十九世紀の神学とくらべていかにすぐれたものであったか︑と驚いた神学者
はティリッヒである︒ティリッヒはその言葉をエイレナイオスの ﹁救済論の基礎﹂としてみて︑
てしまった巴
B E
E 号つまり不死性への可能性が︑ アダムによって破られ
( 九 )
﹁キリストによって再びとり上げられ︑彼において成就する﹂と解
釈 し て い る ︒
ま た
︑
エイレナイオスにおける受肉の理念には次のように﹁受難﹂︑ エイレナイ ﹁ 昇 天 ﹂ が 内 包 さ れ て い る ︒
﹁ 復
活 ﹂
︑ オ ス は 言 う ︒
彼は神のみことばでありながら︑父のもとから降って肉なる人となり︑死に至るまでも降っていって︑私た
フオーサイスとエイレナイオス
329ちの救いのための営みを成就したのであ的︒
彼
( H
︒ ハ
ウ ロ
)
は︑苦しむことのないキリストがイエスに下ったのではなく︑ むしろ︑イエス自身がキリス
330
トであり︑われわれのために苦しんだことを言おうとしている︒この方が伏してまた起きた方︑この方が下
( ね )
って昇った方である︒
エイレナイオスは︑受肉した者と受難した者と復活した者の同一性︑
( 丸 )
性の所有を述べているのである︒
こ の 箇 所 で ︑
および︑御子における人間性と神
人類は御子の受肉を通して何を得るのであろうか︒次のテキストには ﹁人類を束縛する罪をその根底から無化する﹂
ような﹁再統合﹂
の 結 果 を 得 る
︒
神のみことばが人となった:::すなわち人間という昔の形成物を自らのうちに再統合した神であった︒彼が
(m m)
そうしたのは罪を殺し︑死を滅ぼし︑人を生かすためであった︒
そして︑受肉において遂行される﹁再統合﹂ は︑究極的に﹁神と人との交わり﹂を目指している︒ エイレナイオスは
﹃使徒たちの使信の説明﹄で次のように言う︒
この方はまた﹃時の終わりにあたって﹄すべてのものを再統合するため︑人々のなかで人問︑ つまり見える
もの︑手で触れることのできるものとなった︒
( 打 )
との交わりをもたらすためであった︒ それは死を滅ぼして生命を目に見えるかたちで顕し︑神と人
以上のように︑御子の受肉によるアナケファライオ l
シ ス の 意 味 は
︑
﹁人類に対する救いの歴史の再統合﹂として理
解されうるし︑またそれは究極的に﹁神と人との交わり﹂を目的にしている︒
4
フ ォ
l
サイスにおける﹁再統合﹂
フ ォ
l サイスの思想のなかにもエイレナイオスの ﹁ ア ナ ケ フ ァ ラ イ オ 1 シス﹂という思想的モチーフがあるのであろ
う か
l シス﹂という用語は︑英語でいうと︿﹃ ﹁ ア ナ ケ フ ァ ラ イ オ ︒
2 8
E E 位
︒ ロ
﹀ で あ る
︒ 既 述 の よ う に そ れ は
﹁ 再 統 合
﹂ あ
﹁要約﹂という意味をもっている︒われわれは︑
非常に近い言葉を見出すことができ的︒それは︑
フ ォ
l サイスの著作から︿
3 S 1 z z t
︒ ロ
﹀ と い う 用 語 の 意 味 と る い は
フ ォ
1
サ イ
ス が
吋 ﹄
官 ︑
33 SS
悼 一
色 ︑
目 ︒
ミ ミ
VS
同 町 砕 司
法 門
( 5 3 )
という著
作 に お い て ︿
a ﹃
E g m E 門
戸 ︒
ロ ﹀
と ︿
gB
宮 ロ ︻
H Z g
﹀という用語を用いていることから推察できる︒︿円急百円ゆ
m g t ︒
ロ ﹀
は
( 乃 )
統合﹂という意味を内包しており︑︿
gE
宮 口 品 目
5 ︒ ﹀は﹁要約的)﹂という意味を含んでいるからである︒
﹁再統合﹂という言葉の用例
フ ォ
l
サ イ ス の 著 作 同 出 向 ︑
8 ミ
3 む き
ζ 4 G R ミ
. V S M n p一 ミ 民
( S S )
の 中 に は
︑
( 飢 )
四箇所に使われている︒最初に現れている箇所が示しているように︑それはケノ l
シ ス 説 ( 宮 口
︒ t n p
弓)と関連が g
﹁ 再 統 合
﹂ ( 円 注 目 ロ 慰 問
﹁ 色
︒ ロ ) と い う 用 語
が 再
フオーサイスとエイレナイオス 331
あ る
︒ て 話 す な ら ば
︑
﹁神的理念または目的の実現について話す代わりに︑もしわれわれが神的人格の再統合(吋注目
E O
唱 色
︒ ロ ) に つ い
よりよく実情に適合する︒このことはケノ 1 シス説を論ずる時にいっそう明確になるであろ党﹂︒
332
ハンターがいうように︑ パ ウ ロ や ぺ テ ロ ︑ ヘプル人への手紙の著者︑ およびパトモス島の預言者と共に︑ キリストの
地 上 の 生 活 は
︑
それに先立つ天の生活と対応されている︒ つまり︑この世のとりでの外で自己放棄
( B D E n ‑ m E
︒ ロ
) の
行
為があったから︑御子の犠牲は︑彼がこの世に入って来られる前に始まった︒これらが︑
( お ) ( ω O ︼ 片 目 ︒
E
円) q
z m 1 自己無化)という理念に含まれている︒フォ サイスによれば︑
﹁ ケ
l ノ
シ ス
﹂ 三 ( 5
宮 山 ) す な
わち﹁自己を空しくする﹂
そ れ は ︑
御
子が愛の全能の行為によって︑神のかたちな
qF )
を捨てて︑僕のかたち:::すなわち人間性を特色づける道徳的行動
様 式 ( 智
B ︒
母 ︒
E 2
包円位︒ロ)をとられが)﹂と定義できる︒しかし︑神性を放棄したキリストだけでは充分ではない
と考えて︑王にふさわしく︑罪を贈われる神をも必要とされた︒ そのために用いたのが
﹁ プ
レ
l
ロ ! シ ス
﹂
の (
そ
時 己 、
二 三 ,
て
十 実 コ
字 去
充満・完成) である︒彼によれば︑神のケノ l シスをもつだけで︑神のプレ 1 ロ 1 シスをもたなければ︑
架における︑教会における︑そして世界の道徳的戦争における神の現臨(の急ぱ℃﹃
22 8)
の意識は︑色あせたものと
( お )
なってしまうというのである︒これを巡って︑ガントンが著書内守主
gh NQ SS
ミ ( H S N )
の な か で
︑
﹁ わ れ わ れ は フ ォ
ーサイスにしたがって︑自己無化は同時に︑成就の行為︑即ち︑プレ l ロ 1 シスの行為でもあるということを︑言わね
( 田 山 )
ばならない﹂と述べているのは意味深い︒また︑ ハンターの見方は注目に値する︒ ハンターはフォ l サイスの言葉を借
﹁キリストの受肉した生涯の成長の物語は︑恐ろしい道徳的行為によって︑
( 幻 )
彼が人となる以前の存在様式を︑道徳的征服によって取り戻す
( 5 8 3
弓)物語となる﹂︒しかし︑元となるフォ!サ りてプレ 1 ロ l シスを次のように定義する︒
イスの言葉と比較すると︑ ハンターの定義には
﹁ 道 徳 的 再 統 合 の 歴 史
﹂
( ω
宮 ω 吉
岡 .
可 ︒
問 自
負 包
括 門
田 宮
件 ︒
賞
mES )
という重要
ハンターがプレ 1
ロ ! シ
な言葉が欠落している︒ ハンターが
﹁ 再
統 合
﹂
のモチーフを重視していなかったからである︒
スの意味として引用した箇所は︑次のように﹁再統合﹂ の意味も含まれている︒
フ ォ
1 サイスは言う(以下︑ エイレナ
イオスのフォ 1 サイスへの影響を示すために︑原文を引用する)︒
P E F O
阿 }
佐 吉
岡 .
可 ︒
同 行
﹃ ユ
ω ぺ ω m 5 1 F 2 p g ω E ω
件 ︒
弓 ぇ
52
包 括
円 山
E Z m E 昨 日 ︒ P p o E ω S H .
可 ︒ 同
F 2 5 8
弓 2
‑ s
m g
︻
E m w ‑ H H 5 5 ‑ g
ロ 門 戸
z g y
︒ 同
p o
目 ︒
門 目
︒ え
ず 包
ロ 拘
同 円
︒ B d 司 } 回 目 ︒
}f
可
σ印 可
︒ B σ
ロ 品 ︒
5 5 R m
何 回 ︒ ] F r o g B 0
・ 同 門 戸
ω
円 ︒ ︒ ︒
ロ
AZ Oω
円 ・
キリストの成長の歴史は道徳的再統合の歴史である︒
つ ま
り ︑
それは漸進的な道徳的征服による彼の回復の
歴 史 で あ り ︑
おどろくべき道徳的行為によって彼が出てきた[あの神の]存在様式の回復の歴史である︒
れ は 再 征 服 で あ 持 ︒
そ
﹁ 漸 進 的 受 肉
﹂
( 鈎 )
( 唱 さ
m R ω ω
町 ︒ 山 口
g B m 凶
位 ︒ ロ ) と い う 言 葉 が 示 し て い る よ う に
︑
フ ォ
l サイスは受肉が漸進的に完成に至
ったと見ている︒キリストの個人的な歴史があらゆる経験によって広げられ︑熟するにつれて︑潜在している神性は︑
キリストの生命の本性としてますます力強くなっ樋︒キリストが自分の生命を捨てれば捨てるほど︑彼はますます神的
な魂を獲得した︒そして︑ その生涯は︑自身の魂とわれらの救いが十字架と復活と栄光において完成した時︑頂点に達
した︒このような歴史が
﹁ 道 徳 的 再 統 合 の 歴 史
﹂ の 意 味 で あ る
︒
( 2 )﹁ 要
約 的
﹂ (
︒ ︒
ョ 吉
一 コ
色
o c ω )という言葉の用例
フ ォ
l サイスが
( g
唱 ︒ ロ B
門 回 目
︒ 5 )
という言葉を用いていることには注目に値する︒彼は上記の
﹁ 道 徳 的 再
﹁ 要
約 的
﹂
統 合
﹂
の概念を使う時︑同じ文脈において ﹁要約的な﹂という言葉を用いている︒彼は次のように述べている︒
フオーサイスとエイレナイオス
333国
o d g
ロ σ 可
P H q d 吾 旦 省 内 窃 E ω
︒ 巧
ロ ず
可 ユ
・
m zk r ω F O
拘 5
項 目
白 旬
︒ 吋
ω ︒
ロ 色
︒ ︒
ω ロ
色 ︒ ロ
ω 口 ︒
ω ω F o σ
め の
自 白
ゅ の
︒ ロ
ω 巳 ︒ ロ
ω ︒ 同
E B
8 胃
g
p ︒ 同
日 2
5 ‑
∞ ︒ 口 ︒
同
( U
︒ 門
y d 司
﹃ ︒
} 百
円 四
島 唱
︒ d
S B
門 田 E B 8
胃 件 ︒
σ ︒
任 ︒
ω ︒
ロ え
吉 川
吉
σ 可
ω g B H ) g
5 告 ︒
B ︒
s ‑334
何 回 ︒ 一 喝 } H m w
吋 σ σ
可 由
︒ ︒
︻ 目
︒ ︒
ω 5 ロ 丘 ︒
E ︒ ご
B m s ‑
q ず 命 ︒
ω 旨
⑦
ω g m 5
門 戸 ロ 0
ω ‑ q g
ロ ω 色 ︒ 5 ︒ r
‑ a
・ q
彼[キリスト]は権利によって自己の所有であったものを︑義務によって獲得した︒個人的な意識の成長に
つれて彼は神の永遠の子であると自覚するに至った︒神の永遠の子は︑人間性を意識する神が同様に神性を
意識する人間となったところの要約的な道徳的行為によって人の子の無力となった︒
この箇所の ﹁要約的な道徳的行為﹂という言葉は︑ エイレナイオスの ﹁ ア ナ ケ フ ァ ラ イ オ 1
シ ス
﹂
の意味に近いと考
え ら れ る
︒
フ ォ
l
サ イ ス は そ れ を ︑
﹁現実的かつ歴史的生涯において成就された犠牲と勝利を原理上すべて含んでいる
先行する行為(胃
2 2 5 H
片 山 の 件 ) ﹂ と 定 義 し て い る ︒
前記箇所は一九 O 九年の著作からの引用であるが︑ 一九一六年の著作のなかでも﹁要約的な行為﹂
( g
円 高 B
ロ ︻ 回 目
5 ︒
何 百 件 )
という言葉が使われている︒
つ ま
り ︑
その言葉は︑彼の神学的思索の中で生きていたと言えるであろう︒
M J
ぬ E
' 史 的 門 誌
S HSミ ミ
sc
( 5 5 )
の中には次のような文章がある︒
それ[キリスト教の啓示に答える信仰
( 5 ‑
笹g ) ]
は ︑ 全 人 格 ( 巧 ﹃ 色 ︒
) 目
0 3
8 怠守)が及ぶ一つの要約的行為
( ︒
5 8 B H
河 口 品 目
︒ g
m a )
つまりそれは︑啓示者の全人格(当﹃♀ σ
唱 ︒ 円
ω ︒ロ)が噴い主として絶え間な
( 幻 )
く効果を現している一つの永遠の行為に同様に応答する︒
で あ
る ︒
( 3 )
工イレナイオスとの親近性
モ ズ リ は
︑
フ ォ
l
サ イ ス の 著 作 忌 偽
3
・
3g g
弘
︑ 宮
S
内
¥
︾ 量 的
S S H ( 5 3 )
の 中 で ﹁
︒ フ レ
l
ロ1 シスすなわち自己充満﹂
( 幻 )
という概念が最も﹁独創的なもの﹂であると見ている︒しかし︑ このような見方には疑問の余地がある︒
と い う の は ︑
次の二箇所においても︑
﹁ 再
統 合
﹂
﹁アナケファライオ l
シ ス
﹂
の概念に近 フォ!サイスの の思想はエイレナイオスの
い か ら で あ る
︒
彼[キリスト]が成し遂げた
( ω
の ﹃ 目 ︒
︿ ⑦
︻ 円 )
﹂とは古い理想の実現ではなく︑古い状態の再統合
( F O
円 ︒ 門 出
口 件 ︒
mE
昨
日 ︒
白 色
白 ︒
E ω E Z )
であった︒彼は彼がそうであったところのものになったのであって︑単に彼
において可能であるかもしれないものになったのではない
(Mm)
巧
S E E s
‑ }
︒ω
ωF qs σ0
・ ) ︒
( 国
σ σR mB od吾 旦 } 5 4 S
タ 自 己 ロ
2 5 2 0
守 当 } 戸 川 岸 芹
彼[キリスト]は︑私[フォ 1 サイス]のいう道徳的再統合(﹃怠吉宮崎怠
g )
の過程によって︑彼が常に
( 釘 )
生命的にそうであったところのもの ( d
岳 民
FO
色 調 宅
ω i s ‑
‑
可 巧 虫
・ ) に な る た め に 来 ら れ た
︒
このように︑歴史的・道徳的行為においてキリストが本来の神性に到達したという意味として
﹁ 再
統 合
﹂
(見 込山