谷崎潤一郎の中国旅行と「支那趣味」の変貌
著者名(日) 閻 瑜
雑誌名 大妻国文
巻 41
ページ 39‑58
発行年 2010‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001303/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
大妻国文
第制号
二 O 一 O
年 =
一 月
谷崎潤一郎の中国旅行と
﹁ 支 那 趣 味 ﹂
の変貌
閤
聡 はじめに
谷崎潤一郎は一九一八年と一九二六年の二度にわたって中国大陸へ出かけた︒第一回目の中国旅行によって︑彼の﹁支
那趣味﹂が芽生え︑中国関係の作品の創作の原動力となり︑帰国後三一年の聞に︑集中的に中国関係の小説を数多く書き上
げた︒それに対して︑二回目の中国旅行帰国後は︑紀行文を数篇書き残しただけである︒前後二回の中国旅行後の作品を︑
以 下 の 表 に ま と め る
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号
一回目の訪中後の作品はほとんど叙情的︑浪漫的︑ いわゆる﹁支那趣味﹂的な散文や小説である︒その前の作品﹁願麟﹂
︵ 一
九 一
O 年︶︑﹁秘密﹂︵一九一一年三﹁小僧の夢﹂︵一九一七年︶と﹁人魚の嘆き
L︵一九一七年︶からも中国に対する関
心の片鱗が窺われる︒しかし︑二回目の訪中後のほうは中国文化人たちとの触れあい・友情︑中国文壇︑劇壇の状況につ
いて記し︑あるいは︑中国文壇に大きく影響を与えた当時中国活躍中の文化人を紹介する作品である︒前後二回の見聞の
相違によって︑作品の内容は全く違う性格を呈している︒二回目の中国旅行後︑谷崎は﹁支那趣味しというような中国関
係の作品の創作を放棄したといえる︒
この変貌の理由について︑両原大輔氏は次のように指摘している︒
﹁ 上
海 交
遊 記
L
に 記
録 さ
れ て
い る
︑
一品香ホテルでの回漢︑郭沫若との対話が︑作家にとってひとつの大きな転機に
なったと考える︒中国の知識人との対話を通じ︑中国に対する認識の変更を迫られた谷崎は︑もはや中国という白い
カンバスを舞台として︑自由な空想を展開することができなくなったのである︒
一品香ホテルにおける田漢︑郭沫若といった中国の知識人との対話は︑確かに谷崎の中国観に衝撃を与えたと考えられる︒
谷崎はその時田漢と郭沫若の話を聞いて︑﹁一々尤もである﹂︵﹁上海交遊記﹂︶と思った︒谷崎は︑何を体得したのか︒田
漢︑郭沫若との対話以外︑ ほかに谷崎の中国観を変える要素があったのか︒これは谷崎の﹁支那趣味﹂に何か影響を与え
たのか︒以下本稿では︑谷崎潤一郎二回の中国旅行中の出来事︑ その関連作品︑回想文︑および回漢などの谷崎関係の中
国語の資料に焦点を当てて考察してみたい︒
一︑歓楽的︑漢詩文検証の一回目の中国旅行||﹁支那趣味﹂生成の土壌
谷崎潤一郎は一九四二年に書いた回想文﹁東京をおもふ﹂において︑ 一回目の中国旅行で訪れた中国の印象を︑次のよ
う に
述 べ
て い
る ︒
支那には前清時代の悌を伝へた︑平和な︑閑静な都会や田園と︑映画で見る西洋のそれに劣らない上海や天津のや
うな近代都市と︑新旧同様の文明が肩を並べて存在してゐた︒過渡期の日本はその一 つを失って︑他の一つを得ょう
ともがいてゐる時代であったが︑自分の国の中に租借地と云ふ﹁外交﹂を有する支那に於いては︑此の二つが相犯す
ることなく両立してゐた︒
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
四
四 中国のような﹁平和な︑閑静な都会や田園﹂と西洋に劣らない﹁近代都市﹂という﹁新旧両様の文明﹂の﹁両立﹂が谷崎
を 魅
了 し
た の
で あ
る ︒
一回日の中国旅行は︑彼の西洋に対する﹁異国趣味﹂が慰めらめるほど満足した旅であった︒
を下り︑九江へ寄ってから鷹山へ登り︑また九江へ戻り︑
谷崎は一九一八年十月九日から二ヶ月をかけて︑朝鮮から奉天︑天津を経て北京へ出︑北京から漢口へ︑漢口から長江
それから南京から蘇州︑蘇州から上海へ行き︑上海から杭州へ
行 っ
て 再
び 上
海 に
一 民
り ︑
日本に帰るという旅をした︒中国国内各地の行動を以下のようにまとめる︒
泰天にて︑木下杢太郎に会う︑京劇の観劇に大いにがっかり︒
天津にて︑洋風な町並みに感激︑京劇に幻滅を昧わう︒
北京にて︑辻聴花と村田孜郎の案内で︑京劇を満喫︒四合院に印象深い︒
漢口にて︑武昌の黄鶴楼で海参を食べる︒
九江︑庫山にて︑観光︒
土 間 十 口
小 に て ︑
さ か ん に 夜 の 巷 に 出 入 り ︒
蘇州にて︑観光客の交通手段である騒馬に乗る︒塔・橋・水など風景が椅麗な蘇州にすっかり気入り︒
上海にて︑観劇︑夜の巷に出入り︒
北方の奉天︑天津と北京では主に京劇を満喫したが︑南方の南京︑蘇州と上海では︑観劇以外︑夜の巷に出入りして遊 んでいたようである︒京劇の観賞の感想は﹁支那劇を観る記﹂に記してある︒﹁秦准の夜﹂およびその影響を受けた芥川 龍之介の﹁南京の基督﹂︵一九二 O 年︶︑佐藤春夫﹁浴泉消息﹂︵一九一一二年︶において︑中国は日本人男性の楽園として 描かれている︒﹁蘇州紀行﹂には蘇州の美景︑﹁西湖の月﹂においては︑﹁日常お伽噺のやうな山水や楼閣や人物﹂を取り 上げ︑﹁近代中国の詩人墨客が多く南から輩出したのも︑斯うして此の土地の風走や習俗に接すれば︑あながち偶然では
ないのだと領かれる﹂というふうに︑南方の風景の秀麗を賞讃した︒
また︑﹁支那旅行﹂において︑一回目の旅で一番﹁気に入ったのは︑南京︑蘇州︑上海の方面である︒あの辺は北方か
ら見ると景色も非常によいし︑樹木もよく茂り︑人間も締麗であった︒汽車などもズツトよくなって居るし︑気候も大変
よい︒僕が南京へ行ったのは恰度十月の二十日頃で︑蝉が鳴いて居た︒楊柳なども春の様な趣を見せて︑何とも言へない
いい感じを与へた︒南の方へ来れば来る程︑朝鮮や満州で金を使ったのが惜しくてならなかった︒今度は亦春にでもなっ
たらもう一遍支那へ行って見ょうと思って居る﹂というように︑南京︑蘇州︑上海あたりを﹁平和な︑閑静な都会や田園
Lとたとえるほどすっかり気に入ったのである︒
さらに︑上記の﹁支那旅行﹂と同じ時期に書いた南京夫子廟の口絵写真の説明︵﹁南京夫子廟﹂︑﹃中央文学﹄
九 九
年二月号︶において︑杜牧の詩﹁煙は寒水に寵もり月は沙に寵もる︑夜泊す秦准酒家に近し︑商女は知らず亡国の恨︑江
を隔て猶も唱ふ後庭花﹂を引用し︑﹁其の時分と今と余り変つてない処が面白いではありませんか﹂というふうに︑中国
の昔のままの情緒に感心したのである︒
この﹁平和な︑閑静な部会や田園﹂のような中国への愛着によって︑﹁支那趣味
L的な作品は次から次へと誕生した︒
﹁鶴眼﹂の主人公は伝統的な中国に対して強い憧慣を持ち︑平素から中国文学を好み︑身の周りの器具なども出来るだけ
中国製のものを用い︑旅先の中国から一羽の鶴と一人の十七八の女性をつれて帰ってくる日本人である︒この中国への偏
愛のせいで︑彼は﹁自分にしろ︑祖父にしろ︑兎も角も此の貧弱な日本に生きて居られたのは︑間接に支那思想の思恵に
浴して居たからだ︑自分の体の中には︑祖先以来︑支那文明の血が流れて居る︑自分の寂実と憂欝とは支那でなければ慰
め ら
れ な
い ﹂
と 思
い ︑
ついに﹁日本語を一と言もしやぺらないで︑ いつも支那の女とばかり︑何か楽しげに支那語で話し
合って居ました﹂というほどになり︑結局﹁己は一生日本語は話さないしと宣言するようになる︒この主人公の極度の中
国への憧慣による極端な行為から︑作者谷崎の中国好き||﹁支那趣昧しがうかがわれる︒
谷崎の目のなかに︑中国の﹁北京や南京の古い物寂びた町﹂と﹁江蘇︑所江︑江西あたりの︑秋とは云ひながら春のや
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
四
四 四
う に
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︑
のんびりした田舎﹂は︑﹁多分に浪漫的空想を刺戟され︑地上に斯くの如きお伽噺の国もあったのかと云
ふ感を抱﹂︵﹁東京をおもふ﹂︶くようになったのである︒ 一方︑上海︑天津という聞けた港町を﹁近代都市﹂と思った︒
﹁天津や上海の整然たる街巷︑清潔なベ|ヴメント︑美しい洋館の家並みを眼にしては︑欧羅巳の地を踏んでゐるやう
な嬉しさを昧はった︒就中上海は当時の東京や大阪よりもいろいろの施設が遥かに進んでゐ
L︵ ﹁
東 京
を お
も ふ
﹂ ︶
る と
こ
ろも谷崎を魅了した︒彼は上海のカルトンカフエーで夜会服を着た白人の男女たちが踊っている華やかな風景を見た時︑
日本人のマネージメントの︑﹁将来これを東京へ持って行かうと思ふんですがねしという意見に大賛成したが︑後で︑
日
本の警察が許すはずがないなど日本の国情を考えると︑﹁いよいよ寂しくなる﹂のであった︒結局︑旅行から帰った谷崎
は︑﹁日本を厭はしく思ふと共に︑熱心な支那好きになり︑更に熱心な西洋好きになった﹂のである︒
ところで︑小さい頃漢学を学び︑漢文に親しみ︑漢詩を作っていた谷崎の中国観は︑おもに漢籍から生じたものである︒
谷崎の目に映った風景は︑漢詩文による中国像と重なっているところが少なくない︒たとえば︑
日常お伽噺のやうな山水や楼閣や人物を目にして居るうちに︑自然と笠翁︵李笠翁のことを指す︑引用者註︶
の 頭
の中に醸された幻想の一つではないだらうか︒︵略︶
塀外の往来に群集がうようよと寄って︑人垣を作って居るので︑何かと思ったら大道芸人が剣を振って居合ひ抜き
のやうな事をやって居るらしい︒水誹伝中に豪傑どもが町のまん中で棒を使ったり槍を振ったりする光景が描かれて
居るのは︑蓋しかう云ふ先生をモデルにしたのかも知れない︒
谷崎と同じように︑芥川龍之介も旅をしながら古詩文に描かれている中国のイメージを合わせていたのである︒芥川は︑
一九一二年三月下旬から同年七月上旬にかけて︑大阪毎日新聞社の海外視察員として︑中国の上海︑南京︑九江︑漢口︑
長沙︑洛陽︑北京︑大同︑天津などを遍歴した︒芥川龍之介は上海の風景を次のように描いている︒日本の縁日と変らな
いほど賑やかな城陸廟では︑﹁向うには派手な縞の背広に︑紫水晶のネクタイ・ピンをして︑支那人のハイカラが歩いて
い る
o と思うとまたこちら金瓶梅の陳敬済︑品花宝鑑の絡十一︑これだけ人の多い中には︑ そう云う豪傑もいそうで
ある︒しかし杜甫だとか︑岳飛だとか︑王陽明だとか︑諸葛亮だとかは︑薬にしたくもいそうじゃない︒言い換えれば現
代の支那なるものは︑詩文にあるような支那じゃない︒狸裂な︑残酷な︑食意地の張った︑小説にあるような支那である﹂
0谷崎よりほぼ三年遅れて訪中した芥川の目に映った現代の中国は︑詩のようなロマン的で︑美しいものではなく︑乱雑で︑
俗っぽい小説にあるようなものになる︒想像と現実のギャップの大きさに驚いた芥川はついに失望してしまう︒ところが︑
漢籍を通して認識した中国像を︑目の前の中国に重ねようとするところは谷崎と変らない︒
一回目の中国旅で見た﹁平和な︑閑静な都会や田園﹂と西洋に劣らない﹁近代都市﹂という
﹁新旧両様の文明﹂の﹁両立﹂した中国と︑漢詩文の中に描かれた美しい中国像とを重ね︑なおさら中国を気に入った︒ 中国好きな谷崎潤一郎は︑
この旅は﹁支那趣味﹂的な作品の生成の土壌となったのである︒
二
︑ 触 れ 合 い の 二 回 目 の 旅
|
| 激 変 し た 中 国 か ら の 事 離
︵一︶社会風俗の変化
一回目の中国旅行に極めて満足した谷崎潤一郎は︑ 二回目の中国旅行の出発に先立つ八年後の一九二六年一月に︑二一井
銀行上海支店の支店長である旧友土屋計左右に︑宿屋の手配についての依頼の手紙を出した︒それ以外︑また次のように
章 国
一 い
て い
る ︒
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
L
の 変
貌
四 五
四 六
滞在日数︑プログラムなどはまだ確定して居りませんが︑面白ければ二一月に居るつもりで︑或は将来︑上海と日
本と両方に家を置き︑往ったり来たりしようと云ふ考へもあります︒さうなれば或は家族もつれて行くかも知れませ
んが︑先づ今回は単独にて行き︑然るべき家具附の部屋を借りて住まうかと一五ふ計画です︒
こ の
部 分
か ら
︑
し か
し ︑
一回目の中国旅行によってすっかり中国を気に入った様子が窺える︒
二回日の中国旅行は︑中国の新進作家である田漢と一緒に上海郊外の江湾のある画家の庭園を一回見に行った
以 外
︑
ほとんど上海に滞在し︑ 一ヶ月後帰国した︒帰国直後に書いた紀行文﹁上海見聞録しから︑今回の旅についての印
象 が
わ か
る ︒
感 じ
を 与
へ る
︒ ︵
略 ︶
一面に於いて非常にハイカラに発達してゐるが︑他の一面では東京よりずっと田舎だと云ふ
一方支那人の風俗なぞも︑悪く西洋かぶれがして︑八年前に来た時とは大分違った印象を受け
た︒気に入ったらば上海へ一戸を構へでもいいくらゐに思ってゐた私は︑大いに失望して帰った︒西洋を知るには矢
上 海
と 一
五 ふ
と こ
ろ は
︑
張り西洋へ行かなければ駄目︑支那を知るには北京へ行かなければ駄目である︒
また︑帰国も間近の二六年二月十四日に︑谷崎は土屋計左右に会い︑彼の記念帖に︑﹁上海の女の風俗は此の前来た時
より悪くなった︒昔風の劉髪が見られないのが殊に淋しい︒着物も西洋臭くなったのは感心出来ない
Lと書き残したとい
ゆ っ ︒
﹂ れ
と 違
い ︑
一回目の旅の際︑中国南方の女性の服装は︑﹁ぎらぎらと鱗を水に光らせつつ瀞いで居るし﹁金魚﹂︵﹁西湖
の よ
う に
︑ ﹁
濃 厚
L
で﹁絢嫡﹂である︒この鮮やかな中国服に魅力を感じた谷崎は︑﹁鶴一峡﹂で﹁ちょっと誓へや
の 月
﹂ ︶
うのない美しさ
Lを持つ﹁金魚の鱗のやうにぎらぎらしとした中国服を着た少女を登場させる︒それ以外︑﹁西湖の月﹂
の主人公のような︑﹁漏酒とした薄い青磁色の上衣を着けて︑白嬬子の靴を穿いて居るのが︑金魚の中に変り色の緋鯉が
一尾交ったやうなすがすがしい感じを与へる﹂のも偶に見える︒鮮やか︑或いは質素である中国女性の伝統的な服装に対
する好感が見出せる︒
女性の断髪および服装から近代中国社会の変動の激しさがうかがえる︒ 一年後中国を訪れた佐藤春夫も中国女性の断髪
について関心を持っていた︒二七年七月に上海へ旅立つ十日ほど前︑田漢と雷震が訪日した際︑ある日本の料理屋で︑佐
藤ははじめて日本を訪れる雷震に芸者についての印象を聞いたら︑一期髪していたらもっと美しいと答えられた︒大いに驚
いた佐藤だが︑上海に行ってみたら︑中国流のワンピース︑ ドレスに男髪というスタイルは一般的な流行だと分った︒佐
藤は上海到着後︑同月二九日付け村松梢風に宛てた手紙にも︑﹁芸者を見て断髪したがよからうといふ突飛な批評をした
が︑ここへ来てみてその言葉がわかったね︒ここでは女子努髪大流行で︑事実髪のある女はをかしくみえる﹂と書いてい
る︒ここからも中国社会の変化が窺える︒
谷崎は上海は東京よりも更に﹁田舎﹂のところがあると気づき︑伝統的な風俗は女性の服装と外見まで﹁悪く西洋かぶ
れ﹂してしまい︑もはや﹁平和な︑閑静な都会や田園﹂と西洋に劣らない﹁近代都市﹂という﹁新旧両様の文明﹂の﹁両
立﹂した町ではないと思い︑中国に対して大いに失望した︒なぜ谷崎の中国観はこのように大きく逆転したのか︒谷崎は
上海の様子を描く記述はほとんどないため︑彼の行動から推測するしかない︒
会己﹁顔つなぎの会﹂と﹁文芸消寒会﹂
一回目の旅の際︑谷崎は中国の文壇は日本の近代文学のことをあまり知らないと思い︑中国の文学者と﹁交渉を持つ機
会 も
な く
帰 っ
て 来
た ﹂
︵ ﹁
き の
ふ け
ふ ﹂
︶
の で あ る ︒ し か し ︑ 二回目の旅は︑上海にほぼ一ヶ月滞在している問︑内山書店
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
四
七
四
! \ の店主・内山完造の紹介で︑中国の作家や俳優と知り合い︑当時の中国社会と文壇の状況を知ることができた︒
内山書店の二階で行われた谷崎と中国現代文学者との﹁顔つなぎの会
L
の席で︑現在の中国文壇事情も大いに話題に上 げられた︒宴会後︑田漢と郭沫若は谷崎を宿泊先の一品香ホテルに送り︑ そのまま紹興酒を交わしながら十二時頃まで話
し合っていた︒二人は中国の現状について︑次のように語っている︒
われわれの国の古い文化は︑目下西洋の文化のために次第に駆逐されつつある︒産業組織は改革され︑外国の資本 が流入して来て︑うまい汁はみんな彼等に吸はれてしまふ︒支那は無限の宝庫だと云はれ︑新しい富源が開拓されて は行くけれども︑われわれ支那の国民は少しも利益を与えられないばかりか︑物価が日増しに高くなるので︑だんだ
ん生活難に追はれる︒上海は股賑な都会だとは云へ︑ そこの富力と実権とを握ってゐる者は外国人だ︒そして年々︑
租界の費沢な風習が田舎に及んで︑淳朴な地方の人心を露毒して行く︒百姓たちは田を耕しても一向金が儲からない のに︑購買欲を刺戟されて︑そのためになほ貧乏する︒われわれの故郷の田園は荒れ︑農業は衰へる︒︵﹁上海交遊記
L
︶
こ の よ う な こ と は ︑
まったく予想外で︑谷崎は︑中国が相変わらず昔のままで︑﹁田舎へ行けば支那の百牲は今でも呑気
に︑﹁帝力我に於いて何か有らん哉
Lで︑政治や外交に頓着なく︑安い物を喰ひ安い物を着て満足しながら︑悠々と暮ら してゐる﹂︵﹁上海交遊記﹂︶とか︑﹁現に支那や印度の田舎へ行けば︑お釈迦様や孔子様の時代とあまり変らない生活をし
て ゐ
る ﹂
︵ ﹁
陰 駿
礼 讃
L
︑
﹁ 経
済 往
来 ﹂
一九三三年十二月号・三四年一月号︶と考えていた︒
田漢と郭沫若二人とも︑谷崎の意見を否定し︑中国が直面している危機について主張した︒
支那が自分より文化の高い民族に出遇ったのは︑歴史上今度が始めてなんです︒彼等は北からも南からも︑西から
も東からも此の中原へ侵入して来る︒経済的に侵入して来るばかりでなく︑いろいろ悪い事をしてわれわれの国を引ッ
掻き廻す︒彼等が軍閥どもに金を貸したり武器を売ったり︑それから又︑租界と云ふやうな中立地帯を作らなかった
ら︑今日のやうに国内が乱れ︑始終戦争が続くことはなかったでせう︒支那には昔から戦争があった︑しかし今日の
有様は︑野蛮人の侵略ゃ︑単なる内乱とは性質が違ってゐるものと︑われわれは見てゐるのです︒︵﹁上海交遊記﹂︶
谷崎は田漢と郭沫若二人の意見に対して︑﹁一々尤もであると思った︒仮に両君の観察に誤ったところがあるとしても︑
︵私はあるとは信じない︶両君の胸を暗くしてゐる悩みそのものは︑尊重しなければならないものである﹂と思った︒谷
崎は二人の中国の新興作家の談話から何を体得したのか︒中国はその時︑外国に実権を握られながら︑軍閥混戦︑人心不
安︑亡国の危機に面している厳しい状況であった︒谷崎の一回目の中国滞在と二回目のそれとの聞の八年のうちに︑反日︑
反帝国主義の﹁五・四運動﹂︵一九一九年五月︶と﹁五・三 O 運動﹂︵一九二五年五月︶と斎︑庫の戦いという軍閥戦争な
どが起こった︒中国はもはや谷崎が一回目の旅行の時に見た︑田園風景と近代都市が融合した平和的な楽園ではなくなっ
ていた︒それに伴い︑作家を含めた民衆たちの時勢への関心が高まってきた︒ 一回目の旅によって築き上げた谷崎の心の
中の中国像は︑大きく動揺し始めたのであろう︒
中国文学は最初の﹃詩経﹄から政治への貢献を志している︒文学者は政治に対して強い関心を持ち︑時の政治を批判し︑
あるいは自ら政治に参与しようとし︑政治への貢献を強く意図してきでいた︒個人的な感情ばかりを書く詩人たちは高く
評価されない伝統がある︒中国古典文学に傾倒していた谷崎は︑二人の意見を﹁一々尤もである﹂と思うように︑中国文
学のこの伝統を知っており︑中国愛国文人の心境に理解を示していると思われる︒中国の社会状況が大いに変動した今︑
一回目の中国旅行の後に書いた︑楽園のような中国を描く﹁支那趣味﹂的な作品は︑もはや時勢に相応しくないと︑谷崎
は痛感しはじめたではないかと推測できる︒
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
四
九
五 O
上記の﹁顔つなぎの会﹂で︑谷崎は中国新進作家たちと知り合った︒谷崎は﹁きのふけふ﹂においては︑その作家たち
のなかで︑﹁後年一番有名になったのは郭沫若氏﹂であるが︑谷崎と﹁最も親密な関係を結んだのは第一に田漢氏︑第二
に欧陽予倍氏である﹂と書いている︒その後︑田漢と欧陽予情の主催で︑谷崎の歓迎会として︑九十人もの上海の文芸家
たちが参加した盛大な﹁文芸消寒会﹂が聞かれた︒谷崎はかなり喜び︑﹁主客共に天真嫡漫を発揮して E
飲 み
︑ 且
唱 ひ
︑
且談じ︑且騒いだ﹂︵﹁きのふけふ﹂︶︒その時︑郭沫若が酔っ払った谷崎の世話をした︒谷崎は︑﹁郭氏がタオルを水に浸
し て
額 に
載 せ
︑
いろいろといたはってくれた親切は︑今も昨日のことの如く覚えてゐる﹂︵﹁老いのくりこと﹂︶と語って
いたが︑﹁郭氏には︑前述の如く酔っ払って世話を焼かしたことはあるけれども︑
そ の
後 は
余 り
交 際
が な
い ﹂
︵ ﹁
き の
ふ け
ふ ﹂
︶ と
一 一
言 っ
て い
た ︒
一九五五年十二月︑郭沫若は十八年ぶりに中国政府の要人として日本を訪れた︒帝国ホテルで谷崎潤一郎と会見した︒
対談はほとんどは郭による中国現状の紹介である︒郭は村松梢風︑佐藤春夫などの安否を尋ねたが︑谷崎は中国の旧友に
ついては︑ただ﹁回漢君は元気ですか﹂と聞いた︒谷崎は唯一気にかかったのは田漢のことであった︒二人の親交ぶりを
推測できる︒次に︑谷崎と田漢との交友に触れたい︒
︵ 三
︶ 閏
漢 と
の 親
交
田漢︵一八九八 1 一九六八︶は︑中国の国歌﹁義勇軍行進曲﹂の作調者としては有名であるが︑中国近代劇運動の始祖
の一人であり︑また日中近代文学交流史においても極めて重要な人物である︒百本以上の戯曲脚本や映画脚本︑千首以上
の詩歌を書いたほか︑数多くの歌詞や散文︑小説︑文芸作品︑翻訳作品などを残し︑中国近代文化芸術史上で重要な役割
を 果
た し
た ︒
回漢は一九一六年八月に来日し︑二二年九月まで東京高等師範学校︵東京教育大学・現筑波大学︶に在籍していた︒在
日中︑詩︑論文︑出世作﹁蜘排店之一夜﹂︵一九二一年十二月︶などの戯曲を数多く創作し︑日本を含める外国の戯曲を
多く翻訳し︑創作した劇が東京有楽座などで上演されたこともある︒また︑郭沫若︑郁達夫︑張資平と一緒に︑個性の解
放と自我の確立を唱え︑中国の新文学の建設を目標とする﹁創造社﹂を創立した︒機関誌﹃創造﹄は当時中国における殆
んど唯一の純芸術雑誌である︒二 0 年代︑中国本土には百あまりの文学結社があったが︑﹁創造社﹂は唯一留学生による
ものである︒帰国してから半年後︑田漢は﹁創造社﹂を離れたが︑﹃南国半月刊﹄などの文芸誌を発刊し︑﹁南国芸術学院﹂
などを発足させ︑早くから中国戯曲改革を主張していた︒
田漢は中国の新進作家の中で︑初めて日本近代作家と交流した人物である︒まだ日本留学中の一九一二年十月に︑佐藤
春夫の家を訪ね︑楽しく︑お互いにとって印象深い会談が行われた︒これは中国の新進作家と日本近代文学者との交流の
始まりである︒田漢が日本から帰国した半年後︑村松梢風は佐藤春夫からの紹介状を持ち︑上海で田漢と知り合い︑親し
くなった︒これ以後︑田漢は数多くの日本文学者と触れ合い︑中国の文学者を日本文学者に︑また日本の文学者を中国文
学者に紹介していた︒回漢は近代日中文学者の交流の原点にあたる存在といえる︒
谷崎は上海に滞在一ヶ月の問︑田漢は﹁毎日飽きずに﹂︑谷崎と﹁顔を合わせ﹂て︑﹁附近の歓楽街へ出かけて行って共
に 音 楽 を 聴 き ︑ 演 劇 を 観 ︑ 美 人 を 賞 し な ど し た ﹂ ︵ ﹁ 上 海 交 遊 記 ﹂ ︶ ︒ 時 に は 深 夜 の 上 海 の 街 を う ろ つ い た り ︑
一 品
香 の
谷 崎
の部屋で酒を酌みながら文学談に夜を徹したりしていた︒当時︑田漢はその妻を喪って一年という時であり︑また︑ちょ
うど学校が年末の休暇中であったため︑谷崎にとっては﹁此の上もない好都合になった﹂︒﹁恋人もなく家庭もない﹂田漢
は︑﹁毎日のやうに僕の所を訪ねてくれた︒さうして多くの方面へ引き廻してくれ︑案内してくれた﹂︒﹁君︵田漢のこと
を指す︑引用者注︶がなかったら︑消寒会を始めとして︑ああまで貴国の人々と交遊することは出来なかったに違ひない﹂
︵﹁上海交遊記﹂︶というように︑田漢の案内で︑谷崎は中国社会をより広く観察し︑より深いところまで理解し︑地元の
人 々 と 交 流 す る こ と が で き た ︒
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
五
五
谷崎は帰国後も︑田漢と文通を続けていた︒田漢は中国において谷崎潤一郎の作品を翻訳するなどの仕事に励み︑﹁国
民にこの特異な作家を深く理解してもらうよう﹂と考え︑谷崎を中国に紹介するために努力していた︒
一 九
三 四
年 十
月 ︑
上海中華書局から谷崎潤一郎の翻訳集﹃神与人之間﹄︵李激泉訳︒李激泉は田漢の筆名︑執筆者注︶が出版され︑田漢が
書いた﹁谷崎潤一郎評伝﹂と作成した二七年までの略年譜は訳文の前に掲載されている︒
この回漢が書いた﹁谷崎潤一郎評伝﹂から中国激変の様子がうかがえる︒原文は中国語で︑日本語に翻訳されていない
ため︑拙訳の一部を以下のように要約する︒
谷崎潤一郎は一九二 O 年に創作した﹁鮫人﹂において︑南貞助を通して江南の美しい自然の思い出を語っている︒この
作品を書く一年前︑谷崎は中国を回り︑帰国後の作品の中には︑﹁蘇州紀行﹂︑﹁秦准の夜︑﹁西湖の月﹂などがあり︑こ
れらの作品から江南の風景はいかに彼の興味を引き︑いかに彼の詩嚢を肥やしたのかが分る︒彼はこの﹁まるでお伽噺に
でもあるやうな楽しい国土﹂に住みつきたいほどであった︒しかし︑江南は本当に﹁まるでお伽噺にでもあるやうな楽し
い国土﹂であったのか︒詩人の幻想の幕を開けると︑実は江南は︑国際帝国主義者が中国を侵略するための要所︑封建軍
闘が最も直接︑残酷に搾取する場所に過ぎないのである︒谷崎が始めて旅に来た時︑ちょうど第一次世界大戦の終戦後に
あたり︑中国民族資本主義がその一時の繁栄に満足する時期であり︑江南の農民たちは池の鷲鳥の群れと同じように童話
のような平和の夢を見ている時期であった︒ところが︑彼が二回目の旅に来た時︑民族資本主義は再び戦後一時安定した
国際資本主義に桂桔され︑江南の人民たちは斎︑庫の戦いによって戦争の辛さを十分嘗めさせられ︑また︑ちょうど﹁五・
三 O 事件﹂の後にあたり︑中国大革命が今にも起きようとしているところであったため︑谷崎の江南に対する印象は前回
とだいぶ違うようになった︒
田漢が証言したように︑谷崎の中国︵江南︶に対する印象はかなり変った︒この現状への認識は︑ 一品香ホテルにおけ
る 談
話 ︑
一ヶ月にわたった田漢の同行による社会観察と深く関係があるといえる︒それ以外︑欧陽予情との交流も見逃せ
︑
th︑
07
吋BM
︵四︶欧陽予情との交流
欧陽予備︵一八八九 i 一九六二︶は一九 O 四年から十一年まで東京に留学し︑在日中すでに演劇に参加していた︒新劇
を提唱し︑中国新劇運動の開拓者の一人となった︒旧劇の女形を十年独学し︑二 0 年代には著名な京劇の役者になった︒
そのかたわら伝統的な演劇のシナリオを二 O
作 以
上 書
い た
︒
谷崎は二回目の旅の時︑回漢とともに欧陽予倍の家で︑欧陽の家族とともに大晦日を過ごした︒帰国後︑田漢宛の手紙
︵ ﹁
上 海
交 遊
記
L
︶
に お
い て
︑
そのことについて懐かしく語っている︒
欧陽予借君と云へば︑僕はあの旧暦の大晦日の晩に︑君に連れられて同君のお宅へお邪魔に上り︑家族の人々と楽
しい年越しの夜を過ごしたのが︑いまだに忘れられないのです︒︵略︶海を渡って︑知らぬ外国の土地へ来て︑はか
らずも楽しい家庭のまどゐの中に加へられ︑あたたかいもてなしを受けると一五ふのは︑しみじみ身に品みて嬉しいも
の で
す ︒
︵ 略
︶
幼児の回想に浸らせたものは︑何と云つでもあの大晦日の一と夜です︒はるばる支那へ出かけて行って︑三十何年
も 前
の 東
京 の
︑
日本橋の家に住んでゐた父や母を悌に浮べ︑あの薄暗い土蔵造りの一と聞のさまを眼の前に見ょうと
は︑ほんたうに如何なる因縁でせう︒︵略︶
﹁私は日本へ帰っても︑もう父もなく母もありません︒さうして日本にはかう云ふ楽しい年越しの夜もありません︒
どうかお邪魔でせうけれども︑此の遠くからやって来た一人の旅人に︑あなたを﹃お母さん﹄と呼ばして下さい﹂
ーーと︑僕はあの﹁お母さん﹂に︑さう云ひたかったのでした︒︵傍点︑原文︶
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
五
五 回
谷崎は自身の幼年期の年越しの様子︑両親の悌および実家の様子を思い起こし︑欧陽の母に対して﹁お母さん﹂と呼びた
い気持ちがいっぱいであったという︒中国家庭の人々との触れ合いによる感動はしみじみと谷崎の心にめみこみ︑彼の目
の中の﹁お伽噺﹂のような中国は現実味を帯びてきたのである︒
この晩︑記念として欧陽予備に詩を一首書いてもらった︒﹁竹径虚涼日影移︑残紅己化護花泥︒融制奇偶学時鵠語︑喚起
叙鷲圧費低﹂という詩である︒谷崎は帰国後︑毎年十二月頃︑ちょうどこの詩の文句にふさわしい季節になると︑自分の
蔵幅の中からこの一軸を取り出して壁聞に懸け︑ その度にこの詩を書いてくれた古い友人のことを思い出していたという︒
谷崎は﹁欧陽予情氏について一番忘れられないのは︑氏から非常にすばらしい広東犬の仔の雌雄を貰ったこと﹂︵﹁きの
ふ け
ふ ﹂
︶
であるという︒谷崎は友人の家の広東犬をとても気に入り︑自分もほしくなり︑上海に着いてから人にも頼ん
で随分捜してもらったが︑どうしても見つからなかった︒結局︑欧陽は谷崎が見たことがない純粋の広東種を谷崎に贈っ
た︒しかし︑これは谷崎自分の思い違いで︑犬を贈ったのは欧陽予情ではなく︑陳抱一である︒また︑谷崎が欧陽予情に
ついてはっきり覚えている事は︑劇団に勤めた欧陽が日本訪問を終えて帰国する前︑中国に帰ったら何か谷崎に贈りたい
が︑ほしいものがあるなら教えてくださいということで︑谷崎は欧陽から古い上等な紹興酒をもらった︒
一九五六年︑欧陽予情は京劇代表団副団長として︑梅蘭芳らとともに来日した︒欧陽子情の来日を知った谷崎は︑何と
かして一日も早く会いたいということで︑結局︑二九年ぶりに箱根で再会を果たした︒二回日の中国旅行時に欧陽予情と
の交流は谷崎にとっては︑如何に印象深かったことがわかる︒
上記のように︑谷崎がそれまでの中国観を大きく変えたのは︑ 一品香ホテルにおける回漢︑郭沫若との談話だけではな
く︑欧陽予情の家族と過ごした大晦日︑田漢とともに過ごした日々というような中国人との触れ合い︑また︑谷崎自身の
観察などがすべてその要因であろう︒
三︑変らぬ中国と﹁支那趣味﹂ への愛着
l l 伝統への執着
二回目の中国旅行から帰った谷崎は︑数年間のうちに︑伝統を失い︑﹁悪く西洋かぶれ﹂をして激変した中国に大いに
失望したようである︒しかし︑田漢︑欧陽予情︑郭沫若などの中国文人との交流を通して︑友情も芽生え︑中国に対する
認識も更に深まった︒
帰国後のほぼ一年後に︑上海にいる友人土屋計左右宛の書簡には︑﹁上海は大分ぶっさうの様子ですが新聞ほどでもな
いのだらうと思って居ります何にいたせ支那は面倒な国でありますが僕はその支那が||支那趣味が||いよいよ好きに
なって参ります今年も併蘭西行をやめてもう一度支那へ行かうかとさへ思って居ります﹂というように︑変らぬ中国への
愛着を語っている︒二回目の中国旅行後︑谷崎潤一郎は激変した中国現状と全く違った別世界のような﹁支那趣味﹂的な
小説創作を放棄した︒それにもかかわらず︑なぜまた﹁支那が||支那趣味が||いよいよ好き﹂になると言っているの
江戸っ子谷崎潤一郎は一九二二年︑関東大震災を逃れて関西に移住してから︑関西がすっかり気に入って二一年間住ん か
だ︒その間一三回も転居を繰り返したが︑二回目の中国旅行の一年後の二七年︑円本ブ l ムでまとまった金が出来たため︑
兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷に屋敷を買い求めた︒翌年︑自らの設計で︑その西側に書斎兼迎賓館として中国風の家を建てた︒
それは小説﹁鶴頓﹂に出てくる﹁鎖澗閣﹂と呼ばれる家にそっくりであるという︒松子夫人の証一一一口によれば︑谷崎は家の
なかで︑中国服を着ていた︒中国風の建物と中国服は︑伝統的な中国の象徴的なものである︒谷崎は中国伝統への愛着は
変らなかったといえよう︒
中国の中途半端な西洋化に不満を感じる一方︑中国の伝統︑古めかしいところを愛し続けていたと考えられる︒中国風
谷 崎
潤 一
郎 の
中 国
旅 行
と ﹁
支 那
趣 味
﹂ の
変 貌
五 五
五 六
の家を大金で建てるほど昔風の中国が好きであったからこそ︑中国伝統の風俗が﹁悪く西洋かぶれ﹂をしたことを許さな
か っ
た の
で あ
ろ う
︒
谷崎のこの激しい思想の変動の要因は﹁東京をおもふ﹂︵﹃中央公論﹄
一 九
三 四
年 一
1 四月号︶から見出せるかもしれな
し
、 。
私は明治の末年以来長く関西の土を踏んだことがなかったが︑十年振りで行ってみると︑北京や南京や江蘇斯江あ
たりにある古い東洋のょいところが︑ 日本の旧都附近にも残ってゐることを知ったのである︒︵略︶神戸ではなく︑
大阪や京都や奈良の古い日本が︑知らぬ聞に私を征服してしまった︒
関西に移住した後︑谷崎はかつて自分を魅了し︑ その﹁支那趣味﹂を引き起こす﹁北京や南京や江蘇漸江あたりにある古
い東洋のょいところ
Lは関西の﹁古い日本﹂にはまだ残っていると発見した︒この﹁古い東洋のょいところ﹂は中国の伝
統といえよう︒この﹁古い東洋のょいところ﹂を持つ伝統的な中国への愛着は︑谷崎の﹁支那趣味﹂と言ってもよかろう︒
終わりに
谷崎潤一郎が一回目の旅で見た中国は︑漢詩文の中に描かれた美しい世界と﹁童話﹂﹁お伽噺﹂のような﹁楽園﹂とが
織り成す中国像であり︑﹁平和な︑閑静な都会や田園﹂と西洋に劣らない﹁近代都市﹂という﹁新旧両様の文明﹂の﹁両
立﹂した中国像である︒この旅により﹁支那趣味﹂的な中国関係の作品が多く実った︒
上海で一戸を構えようと考え︑再び中国への旅に出た彼の目に映った中国︵上海︶は︑西洋資本の進入や軍関混戦の影
響で︑伝統を失いつつあると同時に︑物騒になってきた︒田漢︑欧陽予情と郭沫若を初めとする中国の文芸界の人々との
交流を通して︑中国の現状をよりはっきり見︑より深く理解できた︒そのため︑谷崎は激変した現代中国状況と合わない
﹁支那趣味﹂のような幻想的な旧き良き中国を描く作品創作に一切手を染めなくなった︒
しかし︑中国風の家を建て︑家でよく中国服を着ていたことから推測されるように︑中国伝統への憧慣と愛着は変らな
かった︒﹁古い東洋のょいところ﹂を好む﹁支那趣昧﹂は依然として変らないままである︒﹁支那趣味﹂を支えるのはほか
ではなく︑古い中国のよい伝統への愛着である︒
関西へ移住後︑﹁古い日本﹂が残っていた関西という地に﹁北京や南京や江蘇漸江あたりにある古い東洋のょいところ﹂
を発見した︒そのため︑谷崎は目線を激変の中国より︑伝統を守り続けている日本の関西へと移したと考えられるのでは
なかろうか︒この点については今後の課題としたい︒
2 1 主
西原大輔﹃谷崎潤一郎とオリエンタリズム大正日本の中国幻想﹄中公叢書︑二 OO
三 年
七 月
中 国 晩 唐 期 の 詩 人 ・ 杜 牧 ︵ 八 O 三 1
八 五
二 ︶
の 詩
﹁ 泊
秦 准
﹂ で
あ る
︒ 原
詩 は
以 下
の と
お り
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る ︒
煙 寵 寒 水 月 寵 砂 夜 泊 秦 准 近 酒 家 商 女 不 知 亡 国 恨 隔 江 猶 唱 後 庭 花
芥 川
龍 之
介 ﹁
上 海
遊 記
﹂ ︑
﹃ 芥
川 龍
之 介
全 集
﹄ 第
八 巻
︵ 岩
波 書
店 ︑
一 九
九 六
年 六
月 ︶
に 所
収
土 屋
計 左
右 ﹁
上 海
に お
け る
谷 崎
君 ﹂
︑ ﹃
谷 崎
潤 一
郎 全
集 ﹄
月 報
第 二
九 号
︵ 中
央 公
論 社
︑ 一
九 六
八 年
七 月
︶ に
所 収
佐 藤
春 夫
﹁ 人
間 事
﹂ ︑
﹃ 定
本 佐
藤 春
夫 全
集 ﹄
第 六
巻 ︵
臨 川
書 店
︑ 一
九 九
八 年
八 月
︶ に
所 収
一九二五年五月十五日︑上海のある日本資本の綿紡績工場の争議中に︑工場側が発砲し死傷者が出たことを発端とし︑三 O 日
に︑数千人規模のデモを組織した︒租界警察がデモに発砲し︑学生・労働者に十三人の死者と四十人あまりの負傷者が出た事
件 で
あ る
︒ こ
の 事
件 は
横 光
利 一
の ﹃
上 海
﹄ の
題 材
と な
る ︒
一 九
二 四
年 九
月 ︑
軍 関
江 蘇
軍 斎
隻 元
と 軍
閥 漸
江 軍
慮 ︑
水 祥
は 上
海 の
支 配
権 を
め ぐ
っ て
起 こ
っ た
戦 争
を 指
す ︒
同 年
十 月
︑ 慮
︑ 氷
祥 は
破 れ
︑ 日
本 に
逃 げ
た ︒
︵
3
︶︵
4
︶︵
5
︶︵
6
︶︵
7
︶谷 崎 潤 一 郎 の 中 国 旅 行 と ﹁ 支 那 趣 味 ﹂ の 変 貌
五 七
︵
8
︶︵
9
︶︵