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安 井 修

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(1)

香 川 大 学 経 済 論 叢

7 5

巻 第

2

2 0 0 2

9

3‑31 

現代社会についての一考察(序論)

安 井 修

1  . 

課 題 設 定

われわれは,社会主義の崩壊という歴史ドラマの進行をみながら,この行き 詰まりを克服するものとして,(旧来の社会主義に対する一つのオールタナティ ブとしての)市場社会主義を提起してきた。そこでぎりぎりまで追究したのは,

市場システムを導人しながら,なおかつ社会主義であるためには,何をどうす ればよいのかという点を明らかにすることであった。

本稿の課題は,いままで展開してきたアプローチを逆転することである。市 場社会

t

義である以上,市場がもつプラスの側面だけでなく,マイナスの側面 もある。本稿は,それを明らかにして,それを超克する道はどこにあるかを明 らかにすることである。その点については,実は,拙著[

1 1

〕の出版後に取り 扱ったことがある(拙稿〔

1 2

〕参照)。その意味では,『市場社会主義』という テーマを追究しながら,同時に市場がもつマイナス面をどう克服するかという 問題はいつも考えていたといっても決して過言ではない。そして,そこでの叙 述には自ら

1 ; :

+の不満もあった。というのは,拙稿〔

1 2

〕の中心的なテーマは 商品・貨幣関係がもつ意味を『経哲草稿』から『資本論』まで追究してみると いうものであり,いわばじ題は学説史的研究にあったからである。そこで,本 稿は,拙稿〔

1 2

〕の不十分性を補い,

r .  

述の問題を本格的に取り扱うことを‑

つの目的とする。

但し,課題はもっと大きなところにある。市場システムがすべての問題を解 決する万能薬のようにばわれる昨今,この問題を突き詰めていけば,市場社会

t

義という間題から離れて,われわれが理想とする社会はそもそもどう構築し ていったらよいのかという間題にまでつらなっていくこととなるからである。

(2)

‑4‑

香川大学経済論設

200 

といっても,それは杜会学的な諸問題につらなる大きな問題を含んでいる。い ずれそうした大きな課題にも踏みこみたいとも思うが, とりあえずは,われわ れの経済学的な論理からどこまで現代社会論に切り込めるかというあたりが課 題となろう。その意味で,本稿はあくまでも序論である。

そこで,そうした序論のために,まずは,見田家介の現代社会論について検 討することから始めることとしよう。

2 .  

見田宗介の現代社会論

(1)  現代社会をどう理解するか(見田宗介『現代社会の理論』岩波新書)

この著作で,見田は,現代の消費化社会を,フォードシステムから

G M

の戦 略への展開という形で位置づける(第

1

章に即ち,

G M

のモデルチェンジ戦 略をロラン・バルトの理論で表現し,

a : 

購買のリズム,

u: 

消耗のリズムと すると,

a=u

ならモードは存在しない,

a>u

でモードが存在することにな る。そこで,

G M

の戦略を

a/u

の数値を大きくすることと表現する。この結 果として,需要の無限性が実現し,現代の消費化杜会が実現するというわけで ある。需要の無限の拡大は,古典的資本

t

義における虚要の有限性と対立し,

むしろ,バタイユ,ボードリヤールの消費社会論の力

1

こ連結する(第

4

バタイユ:

c o n s u m a t i o n

「充溢し燃焼しきる消尽

J , f '

ードリヤ

.  consommat1on 

「商品の購買による消費

J ( 1 2 9

頁)と区別すれば,ボードリヤールの議論は,

バタイユ的なものを「本原性」の理論としながらも,これを現代社会の消費ヘ と転移しているものと位岡づけられる。ここでは,現代消費杜会の現実を前提 としつつ,バタイユ的なものを消費社会の「本原」とすることによって,最後 にはそこに戻ることができる,もしくはそこは最後には着地することが要請さ れているところとなっている。まずは,現代消費杜会を行定的に把握する形に なっている。

しかしながら,現代消費社会は臨界点を作り出してしまったことも明らかで ある(見田〔 8 〕の第 2 章•第 3 章)。見田は,現代消費杜会の臨界点を,環 境の臨界,資源の臨界,南の貧困/北の貧困といった形で明らかにした上で,

(3)

2 0 1  

現代社会についての•考察(序論)

‑5‑

臨界問題が消費社会の不可避の帰結となるのかと間い,そうではなく,消費社 会の転皿によって臨界間題はアウフヘーベンすることができるのではないかと 問題提起する。

その場合に大事なことは,消費社会がもつ需要の無限空間の創出という特徴

(肯定的な側面)を否定しないことである。消費杜会の成功は「市場システム が自由な展開を持続するための,『需要の無限空間』ともいうべきものを見出 した」

( 1 3 9

貞)。この見

1

廿〔

8

〕の表現は非常に巧みなものである。市場シス テムこそが,需要の無限空間の大前提である。しかし,市場システムが需要の 無限空間を自動的に作り出すものではない。 上述のような

G M

の戦略等の出現 があって,それは実現してきたのである。そして,そうして実現した需要の無 限空間が今度は市場システムの自由な展開を持続させるという相

f f .

作用が牛ま れるわけであり,その相

h

作用のあり方を短い文章で非常に巧みに表現してい るのである。そのようにまとめた上で,その需要の無限空間をそのままにして,

もう ^度,経済の外部のものに,〈人間の生きることの歓び=生の充溢と歓喜 の直接の追求〉という原義的なもの(バタイユ的なもの)に着地させたらよい。

バタイユというと,ポトラッチのような「蕩尽」が思い浮かべられるが,〈生 の充溢と歓喜の直接の追求〉にぱ必ずしも「どのような大鼠の自然破壊も,他 杜会からの収奪も必要としない」

( 1 3 6

頁)。あくまでも無限喉間は維持したま

まで,つまり上方に開かれたままで,原義的なもの(生の充溢と歓喜の直接の 追求)に底辺部分で接続すればよいのだということになる。

では,どうしてそれが可能になるのか。そこで,見田〔

8

〕は,情報化社会 に言及し,__^つの例としてココア・パフをもちだす。この商品は,同じ売上を 得るために

1/25

のトウモロコシしか消費していない。この例はマルクス経 済学なら,独占資本は,ほんの一握りのトウモロコシにいかに虚飾な価値を付 け加えて消費者に売りつけているかと説明するところだが,見

! : H

は,そうした 問題提起をするのではなく,この情報化/消費化というメカニズムは,資源収 奪的•他民族収奪的である必要はない(マテリアルな消費に依存することのな い)ものと積極的に評価する。「基本的に情報によって創り出されたイメージ

(4)

‑6‑

香川大学経済論叢

2 0 2  

が『ココア・パフ』の市場的価格の根幹を形成している」。「同じブッシェルの トウモロコシから二五倍の売上を得たということは,逆にいえば,伺じ売上を 得 る た め に , 二 五 分 の

‑0)

ト ウ モ ロ コ シ し か 消 費 し て い な い と い う こ と で あ

( 1 4 7

頁)。そのことによって,需要の無限空間,幸福の無限空間を開いた ままで,さまざまな臨界点を克服する着地点がみつかることとなり,それはバ タイユ的な原義性とも矛盾しない着地点になるというわけである。

( 2 )  

現代社会の原論をどう考えるか

(真木悠介『現代社会の存立構造』筑摩書房)

こ の 著 作 は ほ ぼ マ ル ク ス の 体 系 に そ っ て 現 代 杜 会 論 の 理 論 編 を 構 築 し て い る。ここでは,まず,襄木〔

7

〕の議論を簡潔に要約しておこう。

『経哲草稿』の疎外された労働とは,フォイエルバッハ的な議論が前提され ている。即ち,フォイエルバッハは,宗教の本質を人間の本質に解消する。出 発点におく対象的事実ーここでは宗教ーを

0

とし,その根本になる主体ーここ では人間ーを

S

とすると,この論理の運びは,

0 S

という論理回路になる(分 析・下向法といってもよい)。それを主休を主語にして言い換えると,人間の 本質=類的本質のようなものが何らかの機制によって外化され,疎外され,家 教が生まれる(宗教は人間の頭脳の産物である),ということになる。先の言 い方であれば,今度は

S → 0

という論理皿路になる(総合・上向法といっても

よい)。

フォイエルバッハの論理を継承して,『経哲章稿』の疎外された労働を説明 すれば,まず,私有財産を出発、点に置き,そこから人間の労働という本質に辿 り着く

(0 → S)

。今度は,人間の労働という本質が,疎外された労働という 形で外化され,私有財産が説明されるということになる

(s → 0) 

次に,こうした論理構成は,広松によれば,『ドイツ・イデオロギー』で転 皿することとなる。転阿せざるをえないのは,『経哲草稿』では,疎外された 労働そのものが説明されていないからである。そこで,類的本質のような

t

(s) を 置 く の で は な く , ま ず は , 白 然 発 生 的 な 分 槃 関 係 を , そ う し た 歴 史 的

(5)

203  現代社会についての—·考察 (Jギ論)

‑7‑

(1)  但 し , こ の よ う に , 宗 教 を 人 間 の 頭 脳 の 産 物 で あ る と 解 析 し て み せ た だ け で は , な ぜ そ う い う 宋 教 が 牛 ま れ た の か は わ か ら な い 。 本 来 は , こ こ に も 発 生 史 論 的 な 議 論 が 必 要 な の だ ろ う 。 た と え ば , 井

J ‑ .[ 

1)は , デ ュ ル ケ ム を 取 り あ げ , 「 平 と 俗 を 区 別 す る 基 準は,対象のうちにあるのではなく,対象に対する人間の態度のうちにある。しかし,

その態度の[メ:別は何に)店礎づけられているのか」。デュルケムは

1

卯 の 源 泉 は , 物 則 的 自然でも生命的自然でもなく,『社会』に求められるべきであると/:̲張した,っ彼によれ ば,聖の観念は人びとが (I 分自身その•部をなすけれども「l 分をこえている全休,つま り 社 会 に 対 し て い だ < 畏 敬 と 依 存 の 感 情 に 基 礎 づ け ら れ て い る 。 こ の 感 情 が 特 定 の 対 象 に投影され付着するとき,その対象は平なる存在となる」 017貝)()そして,朋なる概 念 が , 非 宋 教 的 な 諸 現 象 に も 適 用 し う る ・ つ の パ ー ス ペ ク テ ィ ブ と し て 広 い 射 程 を も っ て い る と し , 「 パ ー ソ ン ズ が 指 摘 し た よ う に , デ ュ ル ケ ム は 宋 教 が 什 会 的 な 現 象 で あ る ことを明らかにすることをとおして,実は『社会は宋教的な現象である』と

t

張 し た の

I

031貞)。こうした理解を前提とすると,聖の発牛史論が俗のfH:界 の 解 叫 に も つ な がるということにもなり,更に大きな視点を提供してくれるものになる。といっても,

本稿はそうしたことを取り扱うことを目的としてはいない,,

し か し , な ぜ こ の よ う な こ と を 書 く か と い え ば , 私 は , 教 師 に な り た て の 頃 、 物 神 性 や物象化に関わる溝義ノートを作成しながら,

[ i i ]

時 に , 安 丸

[ I S

〕を読んで, ぷ教を人 間 の 頭 脳 の 産 物 で あ る と 切 っ て み せ る だ け で は ど こ か 物 足 り な い な , と 思 っ た こ と か あ るからである。なぜ,民衆の心をとらえたのかという間いかけが必要であろう,と。

I

お の よ う な 牛 の 様

J .

しは, もしそれをとりかこむ条件かある程度まで)llti

l

ならば,そうし た 牛 の 様 式 を 党 む 人 々 に さ さ や か に 安 定 し た 『 家 』 を つ く ら せ て 既 成 の 社 会

1

本制をドか らささえるような役割をあたえ,その人間の内

[ f r i

性 を 既 成 の 休 制 ど 価 値 の な か に 統 合 す る は ず の も の で あ っ た 。 だ が , こ う し た 統 合 が 失 敗 に 終 わ っ た と き , な お か ひ た む き に つらぬいてきた牛の様式には,なにか根本的な息味恥、換とあたらしい輝きが生まれ,そ こに拠点をすえて,近代化してゆく H本 社 会 の 令

1

本竹が『ざまいて』間いた偽りの休系 として糾弾されることになったのであった。なおのまっすぐにのばされた背筋や射ぬく よ う な 鋭 さ を 秘 め た ま な ざ し は , こ の 偽 り の 体 系 に む け ら れ た な お の か ま え で あ り , 生 活 態 度 と 人 柄 の 全 体 に 表 現 さ れ て い る お だ や か さ と や さ し さ と は , な お の 告 知 す る 救 済 が , 広 汎 な 民 衆 に な に を も た ら そ う と す る も の だ っ た か を も の か た っ て い る と い え よ

j ( 2 4 9

貞)。なお,

l

令^田〔

2

〕 は , エ ク ス タ シ ー に つ い て

H

会学的なアプローチを,式 みたものであるが,これを読むと,安丸の著作の先駆性がよく理鮒てきる。

注の注のようになるが,発牛史論について汀及しておこう(,橋爪〔

5

〕は,

w

幣 と ば

語を取り出しながら,それらかし:、北)起源論を廃止すべきであると内いている

c ,

起源溢のイ

i

))な立場はマルクスであるとし,「マルクスの『脊本論』は,:

t i :  

L

義 経 済 を , シ ス テ ム繭のロシソク(線吼連立方程式による)狙業連関分析)により鮒

I J } j

した。そこには『脊 本のイi 機的構成の邸/文化』『剰余価値玲~(ならびに搾収中)の傾刷的低 1くの法則』など といった動学的な命題も雌め込まれていて,脊本

t

義杜会か内蔵する「l已矛盾によって

鮒休するという

f

げを祁<什糾みになっていた。マルクス

t

義 は , こ の シ ス テ ム 論 の 果 丈を,弁

i i l E

法の文イ本で他みこみ,人類史を貰く法則 性(史的哨物論)の尋環として位附 づけだ~ 科学的村会

l

義 の 名 の も ど に , 起 源 論 の 枠 糾 み は 残 さ れ た の で あ る

I

(73

c c  

この文咽にある「剰余価値率

I

r

利潤率

I

の 間 述 い で あ ろ う が ( 責 本 の 行 機 的 構 成 も 剰余価仙年も,‑.昇する

1 1 r

能 性が佑

i

し が,剰余価

1

直 年 を 蚊 大 限 に し た 時 の 利 潤 率 , 即 ち 利 潤中の,‑.限が傾向的に低ドしていくという形でこの命題を論!,正しようとしたのが閥塩で あ り , そ れ が い ま で は 迎 況 で あ る か ら だ ) , こ こ に 内 か れ て い る こ と を , マ ル ク ス 自 体

(6)

‑8‑

香川大学経済論叢

2 0 4  

にあてはめるとすれば誤りではないだろう。しかし,このような、意味での起源論(歴史 的な生成• 発展・消滅論)なら,それは

1

ー:野弘蔵によってはるか以前に破棄されてしまっ て い る 。 わ れ わ れ か ら す れ ば , 何 を 今 史 と い う 感 じ が す る 。 「 こ う し た 時 代 感 覚 と は 絶 緑 し た , シ ス テ ム 論 の ロ ジ ソ ク だ け か ら 組 み 立 て ら れ た 議 論 と し て , 構 造

L

( s t r u c t u r a l i

m)

が登場した」

( 7 3

貝 ) と い う な ら , わ れ わ れ は , そ ん な 起 源 論 か ら い ち 早—く絶緑して,脊本じ義システムをシステム論のロジックだけから組み立てようとして きた。だが,間題はシステム繭のロジソクをいかに構成するかである。橋爪は「貨幣は,

交換の連鎖のなかで価値をもつ。その連鎖は端、1~.( のない 1―'l 環(コミュニケーションの [f1]

路)になっている。貨幣の•般的受領 11f 能性は,受領司能‘性が受領可能性によって支え られているという t'I 已 ~j及によってできあがっているから,端、点は存在できないのであ

( 6 6

貞)と得いている。価値形態論は,

t

晶 を 而 品 に

t r t

いていて,貨幣はその

i

~ のなかから導出されるという位置:づけになっているが,橋爪のこの文章は貨幣の力を

t

語に置いてしヽる。したがって,通常の況明と 1E 確に•致するものではないか,価 11H とい うものは,商品ilt界の

' ' i ' j f .

者の共圃的な r 解•jf項の卜.に成立するという円環構造になっ て い る と い う な ら , そ れ は 間 巡 い で は な い 。 そ し て , 最 終 的 に 導 出 さ れ る 貨 幣 は , 今 度 はそれを卜語としてみれば,なぜ貨幣かといえば,それに参加する全員が行幣だと思、う からだ,という循環論法的な説明も間違いではない。 には,そうした議論は巷にあふれ ているといってもよい。

1

且し,それがすでに貨幣の物神性に惑わされた見力であること も ~J+ 実である n 物神性というのは‘り事者が日々その、意識で行動することによって,確認、

されていくという構造をもっている。何故物神性に惑わされた見

} j

なのか。そのことを 解明したのが,マルクスの価仙形態論である。マルクスは,簡凩な価値形態のなかで.

価値表現のエッセンス(拙著

[ 1 1

〕 参 照 ) を 仕 え て い る 。 そ れ が 発 展 し た 形 態 が 貨 幣 形 態 で あ る 。 だ か ら , 貨 幣 形 態 に な っ た と し て も , 簡 単 な 価 仙 形 態 で 解 明 さ れ た 価 値 表 現 の エ ソ セ ン ス が 変 わ る わ け で は な い 。 価 値 表 現 は , 〈 牛 産 は 什 会 的 で あ り な が ら , 牛 賄 に関する決定は私的に行う)という矛盾を巧みに解決する独特のやり)

j

を含んでいる。

即ち,相手(~、か価形態に立つ商品の方)に直接的交換刈能性という切り札(イニシアティ ブ)を仕えるが,自分もぐか価形態に立つ場合はその権利を行使できる。したがって(自 分の商品を除く)すべての

r m

晶 の 価 仙 表 現 に は 参 加 で き る , と い う 独 特 な 杜 会 的 な 形 態 を採

J f j

しているのである()貨幣は他人が貨幣だと認識するから貨幣だという表現は間違 い で な い と し て も , そ の 表 現 は 根 底 に あ る 価 値 衣 現 の エ ッ セ ン ス を 踏 ま え て い な い で 晶 られると,それは物神性に惑わされた衿えであると

, i ‑

わざるをえない。何らかの理由で,

r .  

に 述 べ た よ う な 関 係 が 成 立 し な く な れ ば , 貨 幣 は 貨 幣 で あ る こ と を や め る 以 外 に な い ということで,その原雌は『し撤することだろう。ソ連利の社会上義社会では,貨幣もど きのものが流通していた。しかし,それは

1

刊幣ではない()叶圃経済が枯本的に貫徹する 限り,行幣は貨幣としての機能を果たしていないからである。もちろん,

; j ' t

圃 経 済 も 十 分な形で構築されたものではなかったから,忍び寮るようにして,そこには商品・

1 ' t

関係が人ってきていたであろうが(たとえばヤミ経済のようなものを衿えたらよい),

厭則原則は

l

j

確であり.迷うところはどこにもない,

だからこそ,マルクスか価仙形態

i r

倫でサえているロジソクこそがシステムの根底にあ るロジノクであり,その高埋は,論理的な発生史である。決して現')この歴史的過杵では な い 。 貨 幣 の 起 源 論 な ど で は じ 煩 な い の で あ る 。 シ ス テ ム が 「 各 安 ふ の 緊 密 な 秩 序 と し て考察される」

( 7 4

頁)とすれば,こうした発生.史論(あくまでも嘩罪てある)が必要 で は な い だ ろ う か 。 そ し て , そ う し た 繭 坪 展 間 ば ぷ 教 な ど を 苔 え る 場 合 に も 欠 か せ な い

ものとなるのではないか。

(7)

205 

現代社会についての一考察(序論)

‑9‑

形態を前提とする。これを

R

とすると,分業関係・人間と人間との生産をめぐ る社会的関係は,物 (0) によって媒介されて表現される。見田は,これを主 体の対象化と呼ぶ。これは,

R 0

という論理回路である。そして,そうした 示し方が,媒介された物に内在する力のようにみえてくる。商品という物の神 秘性=物神的性格とはこのことを指すのである。

この延長上にはじめて,物象化が成立する。この下では,人間と人間の関係 は物と物の関係の背後にあるとしても,人間にはみえず,まずは, 笥品として

1

の物を通した関係としてしかみえない。そこで,胄事者としての人間は,〈他 人はあてにならない〉〈頼れるのは自分だけだ〉ということになり,自己を絶 対化し神格化せざるをえないことになる。同時に,そうした生き方では,物の 法則に自己を従属させる以外にない,つまり,価値法則にしたがって生きる以 外にない。だからこそ,市場原理がすべてであるということになる。見田は,

これを対象の

t

体化と呼ぶ。先に述べた

R 0

という論理詞路のなかで,人間 と人間の牛産をめぐる社会的関係(それが本来の

t

体であったはずであるが)

は表に出てこなくなり,いまや対象たる

0 が t

体に転化する。物神化した物を

( )付きの

0

として,それが主体になるという意味に理解すれば,真木〔

7

にそうした説明があるわけではないが, R

(0)

Sという論理

[ n l

路といえ るかもしれない。そして,主体 (s) になった価値法則が,

R

という自然発生 的分業関係を成立させている人間に強制力を押しつけていくことになる。

真木〔

7

〕の図式は,

/  ゜

であるが,われわれは次のように表現したい。

(8)

‑JO‑

香川大学経済論叢

2 0 6  

(3)  『現代社会の存立構造』から『現代社会の理論』への回路

以上の(1)(2)で,見田の―一つの著作を紹介してきた。では,見田の二つの著 作を結びつけるものは一体何か。真木〔

7

〕の方は,現代社会といっても,い わばマルクスの休系にそった展開であるから,現代社会論の原論といってよい かもしれない。これに対して,見田

[8

〕は,まさに現代消費杜会/情報化社 会の位置づけをやっているから,経済学的な言い方に直せば,現代社会論の現 状 分 析 と い っ て よ い か も し れ な い 。 原 論 か ら 現 状 分 析 へ 展 開 す る と い う 場 合 は,当然その背後に歴史的展開過程がある。見田〔

8 J

G M

の戦略から話を 始めているところは,まさにそのことを表現している。資本主義の歴史的発展 段階があり,

1 9 2 0

年 代 か ら 花 を 開 く フ ォ ー ド シ ス テ ム か ら

G M

の 販 売 戦 略 が あり,その延長上に今日の消費杜会/情報化社会があるというわけである。

しかし,そのような位置づけだけでは,ー。つの著害にある距離は埋まらない。

見田〔

8

〕では,消費社会がもつ無限の巧竺間を打定的に評価し,それを継承し ながらも,同時にその消費杜会が臨界,[,忙を作りだしているという判断のもと に,着地点を探し求めている。ともかく,そこでは行定的な評価があるのであ る。これに対して,真木〔

7

〕では,商品・貨幣から資本への展開は,すべて いずれアウフヘーベンされるべきものとして定立されている。真木〔

7

〕を読 んだだけでは,その先にいかなる社会を構築すべきであると若えていたかはわ からないが,少なくとも総体としてアウフヘーベンされるべきものとされてい

(2) 

「資本制システムはここに初めて,.人訓[こちの目然の必要と共

j , i j 1

本たちの文化の欲望 ;ff限 性 と い う , シ ス テ ム に と っ て 外 部 の

1

前提への依イ[から脱却し,前捉を目ら創出 する『n己準拠的』なシステム, 11立するシステムとして完成する

J r ,I

マ ル ク ス は こ の 純粋な脊本じ義,責本制システムの1'1立 と 完 成 の 形 式 を 見 な い で 死 ん だ 。 そ し て 責 本

L

義の形式途!・.の 形 態 , 労 働 の 抽 象 化 さ れ た 1'1由 の 形 式 の み を 洲 提 し , 欲 望 の 抽 象 化 さ れ た 白 由 の 形 式 を よ だ 前 捉 す る こ と の で き な い 責 本

t

義 の 形 態 を , こ の シ ス テ ム の 純 粋 な完成態と見てその坪論のモデルを竹った」 (31貞)。このマルクスの位岡づけは平分は 正しい

0

いまの時代を見ないで死んたマルクスに,しヽまのIIか代が臼りできるわけがない という意味ではその通りであるといってよい。しかし,見川がここで説明する側面は,

マルクスの論坪展間の延長

I ・ .

に 設 定 で き る も の で あ る ( こ の こ と は 本 稿 の な か で 明 ら か に さ れ る こ と で あ る ) と い う 紅 味 で は 決 し て 正 し く な い と わ れ わ れ は 衿 え る り 坪 論 と い うものの抽象的な論理性がその強烈な光を放つことがあるとすれば,まさにそういうII であろう。

(9)

2 0 7  

現代社会についての一考察()柘論)

‑JJ‑

たことは事実である。したがって,原論的にはアウフヘーベンされるものとし て否定的に捉えられていたのが,現状分析的には,臨界点に到達しているから 本源的なところへ着地させることが必要だとはしながらも,その広がり・無限 性は少なくとも肯定的に捉えられているように,その位置づけが変化してきて

いることは事実である。

ここには,先にみたように,資本主義の歴史的発展段階があったことも事実 である。見田〔 8〕の副題が「情報化・消費化社会の現在と未来」になってい るから,現代の消費社会を中心的に取りあげているが,同時にテイラーシステ ムやフォードシステムの確立(それから

G M

の戦略への移行)を取りあげてい るのである。マルクス経済学における現代資本主義論は, レギュラシオン理論 や馬場宏―望^^の議論の登場によって,危機説的な議論から,〈成長自体を内在化 したシステム〉として位置づける議論に変わっていったが,そうした現代資本 主義論が見田の議論の背後にもあるといってもよいだろう。しかしながら,こ のような否定的な評価から肯定的な評価への変更は,すべて資本主義の歴史的 発展段階の間題によって正喝化されるものではあるまい。いかに歴史的な発展 段階を経過しようと,資本主義は資本主義であるからである。

(4)  理想社会の転回(見田宗介「交響圏とルール圏」『現代社会学

2 6

社会構想の社会学』岩波書店)

真木〔

7

〕と見田〔

8

〕の間にはもう一つ,見田が考える埋想社会の変遷が あるかもしれない。そして,その変遷には,(いろいろ批判はあったにせよ,

(3)  貞木〔 7〕では,社会の什立機制を次のように類別している。

I

諸個人が直接的・

J l [ l

自的に社会的な存在である場合。(即自的な共同態。一社会の

『共同体」的な形態における存在)」「

I l

諸個人が媒介的・即自的な社会的存在である 場合。(艇合態。一社会の『市民社会』的な形態における存立)」「

r n

諸 個 人 が 対 自 的 に社会的な存在である場合。(対目的な共同態。一社会の『コミューン』的な形態におけ る存立)」(6

‑ 、

7

したがって,ここでは,社会が「市民社会」的な存立形態から

I

コミューン」的な存

(L

形態に変わっていくということが前提されているように思われる。なお,こうした位 置づけは最新の論文では大きく変容している。その点については後述する。

(10)

‑/2‑

香川大学経済論叢 208 

理想社会を追求したはずの)杜会主義社会の崩壊という歴史ドラマが背景にあ り,それを踏まえると,資本主義体制を総体として否定的に捉えるという視点 ではもはや現代社会が把握できなくなっているということもあるかもしれない

(真木〔

7

〕の初稿が,『思想』

1 9 7 3 年 5

月号であることを想起せよ)。

そこで,ここでは,理想社会論を抽象的な形で転阿させた議論を行っている 見田〔

9

〕の論文をみておこう。まず,ここでの議論は,人間にとって他者が

もつ両義性がその出発点になっている。且[]ち,人間にとって他者は,人間が歓 びと感動に充ちた生き方を追求する源泉であると同時に,人間にとって生きる ことの不幸と制約の源泉でもある。前者から,交歓する他者たちの関係のユー トピアが構想され(これを交響圏と呼んでいる),後者からは,関係のユート ピアが相互に牛き方の自由を尊重し侵略しないための協定が結ばれる(これを ルール圏と呼んでいる)。後者は契約の関係であり,「近代の〈由良狂食〉の理 念のエッセンスというべきものと,晶本的に同じである

J ( 1 5 7

だから,問題は前者の方である。これは「社会の通念史の内で知られている コンセプトとの対

l

心でいえば,『コミューン』という経験のエッセンスを確保

.... 

しながら,個の自由という原理を明確に優先するということを基軸に,批判的 な転向を行おうとするコンセプトである―

l 058

頁)。繰り返し引用すれば「コ ミューンという経験のエッセンスをその生命として擁護するものでありなが

ら,個々人の自由を優先する第•義として前提すること,個々人の異質性をこ

そ享受するものである」

( 1 5 8

頁 ) と す る の で あ る か ら , 自 由 と か 異 質 性 と か を最大限重視するなかから,コミューンという経験をぎりぎりのところで残そ うとしている。そして,「市民杜会のルールの洵の中で,コミューンは自由な ものでありうる。実質の価値という力向からいいかえるなら,〈関係のユート ピア〉たちの白由を保証する)

j

法としてのみ,〈市民社会〉のミニマムなルー ルのシステムは構築されるべきものである

J ( 1 5 9

頁)とする。この引用文の 前半と後半は微妙に位置づけが異なっているが,少なくとも

H 1 i

半部分では,そ の目由なるものは,大枠としての市民社会のなかでしか保証されないものと なっていて,コミューンという経験が残る領域は限りなく狭くなっている。

(11)

2 0 9  

現代社会についての}考察(,序論)

‑/3‑

見田〔

9

〕のコミューン論の転回を最初に読んだときは,

l

臼直いって驚いた。

というのは,この転

[ u J

は,われわれが経済学の枇界で,社会

i

・:義に市場を全面 的に導人するという視点をどこまで貫けるかという観点から苫闘してきたこと

とほぽ軍なるといってよいからである。拙著で繰り返しーじ張してきたように,

市民社会の経済的な原刑は,市場システムにあり,そのエッセンスは,誰もが 自分の商品については一切の発言権はないが,他人の商品についてはいざとな れば買わなければよいという切り札を見せつけることによって,最大限の発言 権を行使できるという市場システムがもつ巧妙さにある(見田のアプローチで いえば,ルール圏である)。そうした巧妙なシステムの大海の中で,経済学の アプローチでいえば,自由が保障されることを通して効中のよい社会が実現し ている。そして,社会主義なるものは,拙著〔11〕では,ローマーに依拠しな がら,クーポン経済のような(所有に基づく不平等を否定した)社会が提起さ れることによって再

1 t

されることになる(見田のアプローチでいえば,交胄圏 である)。いってみれば,市場システムによってぎりぎりまで経済的な自由が 保障される体制を作っておいて,その後でも残りうる社会

t

義的システムとは

何かという間いかけをしている。実は,見田〔

9]

も,市民社会のルールとい う大海を前提として,肝心の「コミューン」の圏域を更に縮小しようとしてい る。単独者というユニットもありうるとしつつ,「最小の極限を者えてみると,

それはもちろん,対の愛である」

( 1 6 4

貞)とし,「事実の問題としていうなら,

〈交響するコミューン〉の具体的な形は,少なくとも今後幾

t

仕代かの間,(もし かしたら永遠に)その大半が『家族』という集団の形式をとるだろうとわた<

しは考えている」

( 1 6 5

貞 ) と し て い る 。 ユ ー ト ピ ア な る も の に は も う 幻 想 を 持 た な い が , そ れ で も ぎ り ぎ り ど こ か で ユ ー ト ピ ア 的 な る も の を 追 究 し 続 け る。こうしたアプローチの仕方をみる限り,見田の間題意識と私の間題意識は,

アプローチは異なるが,ほぽ同じ地平に立っているといってよいであろう。

しかしながら,われわれは問題をいつもマルクス自身に投げ返すことを通し て自らの展開を実現してきた。それ故,われわれが経済学的アプローチから到 達した地、点と見

! H

が社会学的なアプローチから到達した地点が圃じようなレベ

(12)

‑14‑

香川大学経済論叢

2 1 0  

ルにあるということで満足するのではなく, もう一度問題をマルクス自身に投 げ返す必要がある。見田〔

9 J

ぎりぎりのところでユートピアに拘ってい るのだから,そうしたこだわりと現代社会論の原論たる真木[

7

〕の議論と結 びつける、点はないのか。ないとすれば,真木〔

7

〕の議論にそもそも何か欠落 した部分がなかったかと間題を立てるべきだろう。その意味で,最終的にはあ くまでも真木〔

7

〕の原論的展間の力.にこだわってみるべきである。それ次第 で,見田〔

8

〕がいう着地点が正しいかどうか,別の着地点がどこにあるかも

しれないという問題も明らかになってくることだろう。

3 .  

商品・貨幣・資本と物神性・物象化

( 1 )

物 神 性

主体の対象化 (R

0)自体は,何も神秘的なもの=謎ではない。拙著〔 10〕

でも述べたように,見田でも,この

1j

本の対象化と物神性を同一視する傾向が ある。『資本論』でもそのように虚める箇所がある。まず,主体といっても,

人間の本質=類的本質とかいったものを連想しそうになるが,ここでの間題は それではなく,主体の中身は,あくまでも人間が織りなす関係である。しかも 関係一般ではなく,牛産をめぐる関係である。マルクスは,これを生産の社会 的性格と呼んだ。それ故,対象化といっても,人間が物的なものになるなどと いうことではありえないのであって,あくまでも,人間相在が生廂をめぐって 織りなす関係が,生廂された物と物が織りなす関係によって表現される,この ことが対象化であると考えねばならない。次に,こうすれば,このことは何も 神秘的なことではない。人間の生産をめぐる関係が生産された物と物との関係 で示されるというのは,そうしたやり方もあるが,他のやり方もあるという意 味では,さまざまな選択肢の—-·つでしかない。生産の社会的性格が物と物の関 係で表現されること自体がまるで神秘的であるかのように衿える立場はもうい い加減に脱却すべきである。こういう議論を繰り返していると,われわれのよ うに,杜会主義への商品関係の利用を衿えるような議論はおおよそ出てこない ことになるからである。

(13)

2 1 1  

現代社会についてのー考察(序論)

‑15‑

神秘的なことは,そのやり方しかないと当事者には見えてきてしまうという ところにある。これは他のやり方を想起すれば,誤りであることはすぐわかる が,そうとは思えないようになるから,神秘的であり,謎である。しかしなが

ら,'½事者になぜそうみえてしまうのかといえば,マルクスの答えは,当事者 はそうした形でしか人間相互の接触がないため,それしかないようにみえてし まうのだというものであり,いわば何でもない答えになっている。そういう答 えなら,まさに何でもない答えであり,これをとりわけ神秘的などという必要 はない。かくして,神秘的という言葉には物象化まで視野に入れて始めて了解 できる響きがあるというべきだろう。

(2)  商品・貨幣の物神性と資本の物神性

商品・貨幣の物神性は,主体の対象化であるから,人間の労働の社会性が対 象たる物と物の関係として示される。そうした関係の表示が物固有の属性だと みえてきてしまうと物神的性格をもつということになる。物がそうした役割を 担うとき,物は商品として規定される。商品という規定は,それ自身の展開と して貨幣という規定を導出する。貨幣は,すべての商品の価値を統廿勺・一般 的に表現するものとして登場し,その内実として,貨幣はこれを持てばすべて の商品と交換可能であるという属性をもつものとなる。これが,貨幣・金は生

まれながらにしてそうした属性(すべての商品の価値を表現するものとして,

その表現の内実としてすべての商品と交換可能であるという形態規定を受け取 る)をもつものとして現象してくると,これを貨幣の物神性と呼ぶ。

これに対して,資本の物神性とは次のような関係を示すものである。剰余価 値の収奪という資本家と労働者の人間の階級関係が,自己増殖する価値の運動 体としての資本の運動のなかで実現する。それが資本という運動固有の属性だ とみえてきてしまうと,それを資本の物神性と呼びうる。資本の運動は自己増 殖することをその本質とするが,資本制システムに生きる当事者には,増殖す ることだけしかみえてこなくなるから,その内実=搾取という現実を覆い隠す ことになる。資本の物神性は,資本は生まれながらにして増殖すべきものとし

(14)

‑16‑

香川大学紆済論叢

2 1 2  

て現出してくるというところにあるが, そうであるからこそ, それは搾取を 1 隠 蔽する。その怠味で, より閥次な物神性ということもできる。但し, わ れ わ れ が提起している単純商心 h 経 済 者 の 連 動 を 想 起 す れ ば , 資 本 の 連 動 は , 搾 収 と い う人間と人間との関係以外のなかでも視出することは明らかであるから, それ を念頭に骰けば, そうした物神性から脱却できることにもなる()

ここから, 通常いう脊本の物神性とは, あ く ま で も 廂 業 賽 本 の 物 神 1 ' 1 1 : である ことがわかる 0 そ う で あ る こ と を 確 認 す れ ば , 次 の よ う な 問 題 が 浮 か び L がっ

てくることだろう。且 J l ち , 象 業 責 本 の 物 神 1 1 、生とは 1 川 確 に 異 な る も の と し て , 商

... 

品 ・ 貨 幣 ・ 脊 本 と い う 場 合 の 脊 本 を 物 神 ' 1 ' ' 1 ‑ : 論 や 物 象 化 論 の な か で ど の よ う に 位 附づけるか, と。経済学的な規定として苔える限り, l 惰品・ 1 刊幣としヽう形態規

定 は , 実 は そ れ だ け で 完 結 せ ず , 商 晶 ・ 貨 幣 ・ 責 本 と い う 流 通 形 態 規 定 と し て 考 え ね ば な ら な い か ら で あ る 0 われわれは,商品肌界(商品・貨幣)

t 俵と す る と , 賽 本 は そ の t 俵 の

f.

で活動する j : : 1 本であり, t 休 な く し て は 卜 俵 も 機 能 し な い と 衿 え る 。 商 品 か ら 脊 木 ま で を

•つの連続する流通形態として把握す

るとは,そういう紅味である。

こ う し た 間 題 紅 識 は 見 l 1 1 にば羞全に欠落している。 1 惰 品 ・ 貨 幣 か ら 脊 本 の 物 神 性 へ す ぐ 飛 ん で し ま う か ら で あ る 。 そ れ が も っ と も よ く わ か る 箇 所 を 引 用 し

ておこう。

「第 1 脊 , 直 接 的 な 生 産 過 程 と し て の 個 別 贅 本 そ れ じ た い に お け る , 生 陥 関 係 の本源的な物象化が, :。つの論坪水準において鮒明される。

.'『日然牛的な分業関係』,すなわち, l ! I J 目的・媒介的な協働連関における,

生産諸 f~.

体の集列的な関係^般のすでにもたらす,

叶—J

・次的な物象化としての

..... 

商品と貨幣。(第^篇)

~'労働 }j の商品化を歴史的な前提とする,

脊本一イ責労働関係において,貨

 

幣がいわば目己増殖する価伯としての行本に転化し, 剰 余 価 値 を 搾 収 す る 『 t

休』

篇 )

として, そ の 物 神 性 の ポ テ ン ツ (力能の次 J ) じ

. ~..

--•'   .  .  .  .  .  J 

(頁木〔

7〕3 6 貞 )

を翡次化する。(第・.,

(15)

213  現代社会についての。考察

( I

釦倫)

‑/7‑

叩 H

文の:ー以ドは,『資本論』第

I

巻 の 第 四 篇 以 ド に あ た る の で , こ こ で は 省略した。見

H J

では,行本の物神性とは,剰余価値の搾取を前提とした産業資 本の物神

' l " f : .

であることはこの引用から明らかであり,(産党資本の物神性とは 異なる次}じの)脊本の物象化という視点は欠けている()

なお,付け加えておけば,見田では,物神'性の諸議論が

r

訂次化」というげr

策で牝べられているという印象がある。しかし,商品・貨幣・資本の物神性(物 象化)と陥業賽本の物神骨:は明確に区別されるべきである。商品・貨幣・責本

も ,11 然•つの歴史的な経済形態であるが,産業資本とはその歴史性の意味が異

なっている

C l

麻品・貨幣・資本という規定は,

I

仔史『[通的なものでは決してな いが, しかし,社会t~義にも共通に利用できる形態規定という紅味では,産業 賽本とはその歴史性は異質なものであるのである。

(3) 物 象 化

われわれは商品・貨幣.;資本というのを流通形態として把捏するという立場 を 砂

1

けする。こうした

t

張は,字野理論に固行な衿え

}j

であるが,われわれの 場 合 は , こ の 延 長

J ‑ .

に,商品・貨幣という市場経済システムを社会

t

義に導人 するとすれば,必然的に脊本という流通形態をも導人することになると

t

張し

てきた。では,麻品・貨幣・資本という流通形態論は,いま議論している物神 性 や 物 象 化 と い っ た 議 論 の な か で は ど の よ う に 位 附 づ け ら れ る こ と に な る の

, m

品・貨幣まではあっても,資本という流通形態に関するものが抜け落ち ていることがいかなる紅味をもたらすのか。

商品・貨幣の物神

Y t .

は,人間の労働のもつ社会的性格をみえにくくする。

H

会的分業の•環であるが,そうであることがみえなくなる。隣の人は何をする

人ぞ,という関係が展開され,ここから,見川のいう物象化の機制が作用する。

自己を神格化し,その)^.で価値法則に盲目的にしたがうという人間類刑が形成 される。そういう人間類刑を経済学的に把捏するとなれば,そうした人間を担 い手とする運動が資本であるということになる。賽本は,貨幣とか商品とかいっ た物的対象形態を収り替えつつ運動を実現していく。

(16)

‑]8‑

香川大学経済論叢

2 1 4  

G‑W‑G'

→ 

ここでは,物的対象形態自体が主体になっているのではない。主体(s)は 価値であり,利己的遺伝子のように,増殖することを自己目的とした存在であ

る。人間はその担い手として資本の運動に従属した役割を与えられる。

商品・貨幣,即ち,市場システムは,無限の広がりをもっている。正しくい えば,どのようなものも内に取り込んでしまう広さをもっている。見田

[8

のいう消費システムや市場システムの無限空間である。但し,広さはいくらあっ ても,それだけで空間が広がるわけではない。空間を広げるのは,資本の運動 である。価値増殖を自己目的とする運動体がそこに機能して,はじめて市場は 広がっていくことになる。物神性は,商品・貨幣の展開を通して明らかになる が,物象化は,物神性に操られた人間が前提となるから,資本の運動の担い手 が登場してこなければならない。だから,物象化の克服は,何よりも資本の運 動の担い手にそくして考えていかなければならない。

(4)  物象化の克服

見田〔

8

〕は,情報化社会特有の色で染め上げた形で,現代の消費社会を把 握しているが,それを誰がどのように実現していくのかという視点はみられな い。つまり,消費社会の無限性をそのままにして,消費の内容を情報化の質を 問うことを通して,マテリアルな消費を制限したものに押さえ込むことができ るとし,それが着地点であると見田は解説する。しかし,それを実現するメカ ニズムを与えていないから,それはそういう方向に動くこともあれば,動かな いこともあるという不確定なものでしかないのではないか。それは,「反対に 作用する要因群と拮抗しながら,偶然に委ねられていることを示す」

( 1 5 0

ものであるということになる。

そうした限界性は,結局,商品・貨幣という市場システムとその下で機能す る資本の運動を明示的に分け,それぞれのもつ意味を解明していないことにそ の原因があるのではないか。われわれは,市場システムは無限であるが,それ は入れ物として無限であるという意味であり,市場システムが自動的に無限に

(17)

2 1 5  

現代社会についての一考察(序論)

‑/9‑

拡大するものではないと考える。無限に拡大するのは,その運動を担う資本が 機能するからである。利己的遺伝子のように自己増殖を続ける資本の運動が切 り開いていく領域を全部吸収してしまう人れ物として市場システムがあるので ある。資本は,資本の運動の定式をみたらわかるように,究極的には生産活動 を担うことを通して,その無限の自己増殖運動を実現していく。そして,市場 システムが,生産と消費のぶつかり合う場である以上,生産活動を担うだけで は限界に到達する。そこで,資本は自己増殖をそれ以上拡大していくために,

消費の冊界にまで自らの活動領域を広げていく。それが見田がいう

G M

a/

u

の数値を拡大していく戦略である。ココア・パフを創りだしたのは,資本の 運動であり,決して消費社会が自己展開して生み出していったものではない。

資本の運動が消費の世界を拡大し,それが需要の無限空間を作りだし,その結 果として,市場システムの自由な展開を持続させていく (われわれの表現を用 い れ ば

t

俵も活性化してくるということになる)という相互作用も生まれてく るのである。しかし,そうした展開過程の基点はあくまでも資本の運動そのも のにあることを忘れてはならない。

資本の運動を何らかの形でコントロールし,現代消費社会をある方向にもっ ていこうとすれば,それは資本の運動を担う主体に何らかの働きかけが必要で ある。拙稿〔

1 2

〕で述べたように,高橋〔

4

〕がいう製造者と消費者の連帯も そのつの力向である。そこまで追究しないと,見田の構想は絵に描いた餅に 終わってしまうであろう()しかし,製造者と消費者の連帯は一つの方向ではあ るが,資本の運動が

t

体であり,消費の運動はそれに従属するものであるとす れば,まずは,資本の運動が展開される場,具体的には労働過程• 生産過程に 立ち人ることが必要である。

但し,生産・労働についてもう渭度捉え直してみるといっても,消費に対す る生産の優位のような常識的な観点を出すだけでは,ほとんど何も出てこない であろう。拙稿〔

1 2

〕で,高橋のような製造者と消費者との連帯のような視点 に対して,われわれは,「右寄り」の姿勢になるとしながらも,いまのところ 自我の確立が第→であると論じた。そういう観点からみれば,生産・労働につ

(18)

‑20‑

香 川 大 学 舒 済 論 叢

2 1 6  

いても, まずは, 自分にとって労働が何であるかを捉え直すことがなければな らない。責本の運動に巻き込まれる形で

[ l

常を送ると, 物象化の罠に陥ってし まい, 自分がやっていることの本源性がわからなくなってしまうからである。

.. 

... 

物象化の罠を断ち切るとすれば, 単.純商品経済者を想起するというのも一つ の手である()単純商品経済者も,

担い手である。 しかし, 彼らは,

f  I

々資本の連動のなかにいて,

自分の行為がみえる範囲内で,

責本の運動の 資本の運動の 担い手になっている。搾取は成立せず, 価値増殖が牛きた労働

(N)

の蓄積と してあるという運動形態になるからである。 これは, 価値増殖という運動の無 限性を否定しないで, 労働の本瀦1~生に戻ることによって, 物象化の罠に人り込

まないようにするものであり,

はないだろうか。

そうであるとすれば, 着地すべき ^つの地平で

このような観点を念煩に岡いて マルクス経済学の労働価値論の恨界に舞い

1 1 ! 1  

戻ってみよう。

(4)  以 ド に 展 開 す る 労 働 価 値 論 に つ い て の 考 え は , 実 は , 拙

l f

14〕 で 共Il論 文 を 執 筆 し た呆保氏との議論から牛まれてきたものである。 kl/ll,

I ' I

貨 業 者 の 会 叶 処 即 や 税 務 処 則を担 りしてきた泉保氏は,香川大学経済学研究科の大学院に人学して,私の講義を履 修した。彼は,マルクス紆済学の立場からも税制について衿えたいというので,

1

年目 に私の溝義を)復修したのてあるが,糾

} 1 1 )

その後もつきあいが続くこととなった。特に,

I :

論文を執喰した

2

1 1

は,私が指導教宜であったわけではなかったが,

i

性塩の行竹 をテキストとしながら,マンツーマンで教えることとなった()そして,彼の修

i :

論文を 何度も虚んで,その度に厳ししヽコメントを返していた

0

彼は学者ではないから, 片然行 効な)又論ができず,最後はし、つも「……たけと,

t ' I

位;業者は

1 ' 1

分の労働で稼しヽでし、るん ですよね」とか,[労働価値論というのはやっばり正しいのではなし、ですか」とパうの で あ っ た 。 狭 い 窪 味 で の 労 働 価 値 論 を 擁 設 す る と い う 議 論 は 随 分

t ' i i r

に 破 杯 し た と ど え て いた私は,そうした発けを,かつて行われた論争の糸青木を筒

i ( t

に紹介しながら且

1 1

/<ドに否 定してし、た。

そ う し た 否 定

t ' 1

休 が 間 違 っ て い る わ け で は も ち ろ ん な い が , こ う し た 彼 と の 出 会 い が あったからこそ,〈見)

j

を変えたら,労働価仙論が牛きてくる場面はあるのではないか〉

と い う 苔 え が , そ の 後 物 象 化 の 如

J I : } ̲

という間坦を苔えるなかから,

! ' I

然 に 汗 か び 卜 が っ てくることとなったのである()

参照

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