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菅原精造の履歴に関する調査・資料

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(1)

本稿は、漆芸家、菅原精造

[1884-1937]

に関する基礎的研究の一部であり、彼の 履歴に関する調査および資料である

ヨーロッパでは、桃山時代から日本の 漆が名高く、漆器はジャパン

(Japan)

呼ばれ珍重されてきたこのロ本の代名 詞ともいえる漆工の技術を

20

世紀初頭

アイリーン•グレイ(

Eileen Gray [1878 - 1976])

やジャン•デュナン(Jean

Dunand [1877-1942])

などフランスの代表的な漆 芸家に初めて本格的に教えたのが、菅原 であったグレイとデュナンの漆芸作品は 欧米において極めて評価が高くアール- デコのコレクターや美術館により貴重な 芸術品として扱われている。しかし 女らの漆芸受容の背景に迫る研究は少なぐ 菅原に関する研究はこれまでほとんどない 例えば、2005年9

17日から2006

年1

8 R

ロンドンのデザインミュージア厶(

Design

Museum)

で開催されたグレイの太々的な

展覧会には、菅原からの教えを詳細に記 したノートをはじめ、試し塗り漆器、

家具、屏風など漆芸作品が多く展示され たが、菅原に関する説明は、彼の生没年 すら示されなかった日本においてさえ 彼に関する情報は断片的なものにすぎず 基本情報が錯綜してもいる。それゆえ本 稿は菅原の履歴に焦点をあて、散在する 情報をできる限り整理•集約し、遺族か ら譲り受けた書簡写真とともに提示する

明治時代に渡仏し、様々な活躍をした 芸術家は幾人もいるが、生涯パリに根を 下ろし伝統技法を伝達し続けた日本人

は珍しい。菅原の足跡を追うことで、 仏交流の知られざる側面が明らかになり うることも視野に入れ今後の研究の基 礎資料としたい。

川上比奈子 菅原精造の履歴に関する調査•資料

アイリーン•グレイおよびジャンデュナンが受容した漆芸技術の背景

(2)

漆芸家、菅原精造の履歴に関する調査•資料

アイリーン•グレイおよびジャン•デュナンが受容した漆芸技術の背景

1.

はじめに

欧州に日本漆器が紹介されたのは早くは桃山時代に遡り徳川初期、諸外国との通商が始 まって以来、多くの漆芸品が輸出された。長い鎖国の期間は輸出量こそ減少したものの、王 族への贈答品として質の高い蒔絵作品が送り出されたり、出島のオランダ商館長が土産物と

して漆器を大量に持ち帰ったりしたので、日本の漆芸品は「ジャパンと呼ばれ各国で珍重 されてきた。その後、明治に入って日本人漆芸家たちが海を渡り、漆工技法を本格的に広め てゆく。そうした職人達の中でも菅原は、その技巧において最も優れた漆芸家の-人であっ たという。

ジャポニズム

1854

年から

1910

年にかけてのフランス美術に対する日本の影響』 ャポニズムとフランスの装飾芸術』を寄稿したアイデルバーグとジョンストンはフランス の人々が作品だけでなくそれを作る日本の職人とじかに接するチャンスが増えていったこと」

を重視しているリ。彼らは、20世紀初頭「グレイが菅原という人物について東洋の技法を学 び始めたことと、その五年後にジャン•デュナンがやはり同じ師について、勉強したこと を忘れてはならないと強調して述べてもいる。アイリーン、グレイは菅原から多くの教示と 協力を得て漆塗り家具や装飾芸術の創作をはじめ、後に建築設計へ活動形態をかえても漆 塗り屏風の制作に共通する理念と手法を保ち続けていた2>。アトランティック号やノルマン ディー号の内装を漆塗りで仕上げたことで有名なジャンデュナンも菅原からの教えを受け て本格的な漆芸技術を身につけた。グレイとデュナンは、現在、フランスにおける漆芸のパ イオニアとして重要な位置づけにある。彼女らの作品を取り上げながら欧州の漆芸史をまと めたゲルボーはその著

L'art du

Laqueの中で「フランスの漆芸術は菅原に多くを負ってい るのに.•.今では、彼について誰も何も知らない。• • •菅原以前に漆芸術はフランスに 存在しなかった」とまで述べている3)

しかしこれまで、菅原に関し断片的に記述されることはあっても、彼の活動についてまと められたものはほとんどない。姓名、生没年、出身地、渡仏年渡仏理由、フランスにおけ る活動など彼に関する基本情報は日本においてすら錯綜している。ましてや海外においては 菅原のみの活動歴に言及した研究は見あたらない

筆者は、

2000

8

月、山形県酒田市に在住であった遺族、故菅原清次氏と咲子夫人に面会し、

本名出生年月日、渡仏年、渡仏理由などについて取材した4>。また、菅原に関する既往の 言説を比較し、その相違点を明らかにするとともに、外国旅券下付表などの史料を調査した

Nil-Electronic Library Service

(3)

それらの調査について、

2000

年10月のロ本デザイン学会秋季大会において「漆芸家菅原精 造の活動 アイリーン.グレイの建築意匠に関する研究(3)」と題して発表した5>。本稿は、

その後、新たに収集した資料を発表内容に加え、菅原に関する基本的な情報を整理、集約し て提示するものである。また、遺族から譲り受けた菅原のポートレート(

1

2)

と書簡(図

3-18 )

できる限り鮮明な状態で掲載し多方面からの研究に供したい。なお、不明瞭な 事項については今後の調査のため、その旨明記することを心がけた。

1菅原精造肖像写真1911

3葉書11906

醒イ(河 _____ _J

4葉書1の表書き

5葉書21907 6葉書2の表書き

(4)

10葉書4の表 7葉書31907

Mumv«du Luxembourg, II. <.<)KL>IHR

941908

8葉書3の表書き

11葉書51908 12葉書5の表書き

了/々/*»紅

CARTE POS1?J^4_

★へ-一

13葉書61911 14葉書6の表書き

Adres^e

P

post A le

T

R A

* c

^

Nil-Electronic Library Service

(5)

POST CARD 忿 POSTKARTE BRItFKAART — POSTKAART

17葉書8年代不明 18葉書8の表書き

2.

姓名と既往関連文献

日本において菅原に関して比較的まとまった内容を記し、彼の姓名に触れているのは1933年、

漆芸の専門誌『漆と工芸』に片山佳吉が寄稿した「パリを中心とした欧州内外漆工家略記」で ある6>。片山は欧州にロ本漆芸を伝えた漆芸家として菅原をあげ(菅原)氏は欧州漆工界 の大立者にして塗装技工においては氏の右に出ずるものなしとして紹介した7〗。

重な情報を伝えてくれるが、しかし、菅原の名は「清次 とされている

1937

年には、美術評論家、柳亮が『アトリエ』誌に菅 原の追悼記事「巴里で客死した菅原精造氏とその作品 菅原精造氏を想ふ」を寄せている8>。柳は、菅原の姓名

を表題にあげると共に彼の活動歴、創作姿勢、グレイと の関係、顔写真一枚作品写真三枚を提示した(図

19)

同誌の一頁分が割かれているにすぎないが現在確認 できる菅原に関する既往文献の中で、最もまとまったも のといえる

近年では1998年、『薩摩治郎八と巴里の日本画家たち』

15葉書7年代不明 16葉書7の表書き

1937年

同記事にはグレイとの関係も記述されており当時の貴

r-たし死審で里巳 品作のそと氏造精原管J

19『アトリエJ

(6)

展が「菅原精造」を取り上げ展覧会カタログにおいて上の二記事および

1927

年の『巴里週報』

1928

年の『巴里通信』などの資料をもとに、そごう美術館学芸員、森谷美保が菅原の履歴を 簡潔に示している9>

一方欧州では、グレイ関連の文献にしばしば菅原が取り上げられたが

Sougawaraあるい

はSugawara姓が表記されるに留まり彼の名は示されてこなかった10>

1990

デュ ナンへのインタビューをもとにまとめられた作品集、Jean

Dunand, His Life and Worksが著さ

、所収された伝記の中でようやく

Seizo Sugawara

と姓と名が記されるに至った11>。

2000

には、アメリカの建築史家、コンスタンが

Eileen Grayを著し

、卷末に

Seizo Sugawara

と表記 して彼に関する情報を短くまとめたことから、現在は菅原のフルネームが欧米でも認知され ている12)。

上記の他東京美術学校校友会月報、画家津田青楓の伝記、『日本漆工、グレイ関係の 各文献に菅原に関する記述があるがいずれも姓が記されるにとどまっている。ただし れらの言説には菅原の人柄や渡仏理由フランスでの状況などを探る手がかりが含まれており、

いずれも貴重な情報源であるそれらについては内容に応じ以下の節において引用し、整理.

集約することにしたい

3.

出生(生年月日•出身地)と修業について

グレイ関係の文献の中には、菅原の出身地を岩手県浄法寺町とする記述がいくつかある 例えば、1982年、『朝日ジャーナル』のグレイ関連記事に『同時代メモ パリの漆職人』と

して菅原が取り上げられ「菅原は1882年、漆の産地として有名な岩手県浄法寺に生まれ •」

と記載されている13

1987

年にアダ厶が著したグレイの評伝においても、菅原の出身地は北 日本の小さな村PjahojiJであると紹介された14>。それらの記事を受けて

1998年

浄法寺町史 の編纂の際、同町の教育委員会は明治時代の役場記録および戸籍を調査した。しかしその結果 菅原に関する史実は得られなかった。同町の漆芸家、高橋勇介氏も別方面から調査したが

山形県出身の手がかりを得るに至ったという15>

菅原の甥にあたる故菅原清次氏に戸籍を調べてもらった結果精造は

1884 (明治17年

)年

1

月29山形県飽海郡(現酒田市)の平岡家に生まれたことを確認できた。清次氏の話によ ると、平岡家は船舶に関する仕事を営んでいたといういつ、またどのような事情があった のか定かではないが、精造は菅原家の養子に入る。菅原家は元来、瀬戸物商を営む家であっ たが、精造が養子になった頃義理の父親は仏壇商(かわせ屋)に勤めていた。あるいは 精造が漆芸に進んだ切掛は仏壇の漆塗りと関係があるかもしれないが、正確なことは遺族に も定かではない。その後、精造は渡仏し故郷に戻らなかったので、弟の平岡与四郎(興四郎) が菅原家を継いだ。当時、与四郎は彫刻家を目指しており、後に仏壇の彫刻師となった。

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(7)

その弟に宛て、精造は作品制作の参考になるようにと、動物の絵や彫刻の写真が用いられた絵 はがきをパリから送っている(図

3-18)

菅原の修業に関しては、現在のところほとんど分かっていない。前述の『アトリエ誌には

「東京美術学校漆芸科の出身」とあるが、東京芸術大学に残る当時の卒業生名簿に菅原の名は 載っていない。在学中に渡仏して卒業しなかった可能性があり、また、菅原が漆芸を修業する にあたって、浄法寺に滞在した可能性も考えられるので、今後、さらに調査すべきと考える

4.渡仏年と渡仏理由

菅原の渡仏年•渡仏理由については、これまでの言説に様々な違いがある主要なものを列 挙すると「

16歳の時

(

1898年

)、万博出品のため辻という人物に連れられ渡仏」16)というも のもあれば

1900

年の万国博に日本から送られた漆製品の修理のためパリに来ていた」17)

37年仏蘭西における万国博覧会当時漆技術者の招請さるる

」18)、「管原清造(漆芸家)

仏明治三八[一九〇五]年、帰朝昭和一三年(仏国で死亡)」19)、そして「

1907

年の万国博 当時、日本漆芸の正規教養を伝えるため、仏国政府に招かれて渡仏した人だと聞いている20) いう記述もある

上に見られるように、渡仏理由については万国博覧会との関係が各言説に共通しているが その開催年は文献によって異なっている欧米のグレイ関連文献にも菅原が

1900

年の巴里万 国博覧会に日本政府から派遣された漆職人である旨のかかれたものが多い。しかし

1900

年当時、

菅原の年齢は若干、16才である。

16才の少年を日本政府が派遣するか、あるいはフランス政府

が招くかどうか疑問の残るところである。また明治37年、1904年の万国博覧会はアメリカ、

セントルイスで開催されており、フランスでは開催されていない。そして1907年の万国博覧会 、アメリカ、ゼー厶スタウンで開かれている。弟に送った書簡(図

16)

に「本年中には巴里 を引き上げて米国へ行く考えだ」と菅原は書いているが消印が判読不明な上に、内容が判然 としないので、万国博覧会と関係するかどうか定かではない

外務省外交資料館には、明治期に渡航した邦人の外国旅券下付表、当時のパスポートが残さ れているそれを調べると菅原は東京で

1905年に旅券を取得している

。同下付表に記載され た渡航理由は辻村延太郎に随行するためとある同年同下付表に辻村の名もあり、渡航理 由は「修学」と記載されている。

辻村延太郎は松華を雅号とする漆芸家であり、当時、東京美術学校漆工科の教授であった 彼は

1986年、東京美術学校蒔絵科を卒業後、1900

年に同校助教授、1905年に教授となり、一旦、

退官して渡仏した明治前期まで、漆の修業は徒弟制度の中で技術を習得し独立していくのが -般的であったが、国力を披漉するための対外政策として漆工が重視された明治後期美術学 校出身の新世代が誕生する。辻村はその代表格といえる漆芸家であった。彼は東京美術学校の 校友会月報にパリへの渡仏紀行を第四卷六号、七号、九号と三回にわたって寄せており、その

(8)

冒頭は次のように始まる

時は是、明治三十八年十一月十八日、横浜埠頭を解纜する仏国郵便船ツーランに、便乗 して、さして、行方は巴里の都 •」

W

この記述から、辻村は

1905

年11H170,フランス郵便船ツーランに乗って横浜埠頭を出航 したことが確認できる。彼は、同紀行文で菅原に触れ次のように書いている

快活無邪気の菅原氏と、兄たり弟たる海上生活、ああ面白いことであろう.•.」22)

「只老人と菅原氏の無邪気、無遠慮滑稽百出、時々奇想天外より落ちて顔を顰蹙める 事もあり密に袖を曳いたことも、実はないでは無かったが、まづ大した失策もなく、結句 船中の大愛嬌だ此処まで来ると、東京とは時計が二時間半違ふ23)

此は例の菅原氏が失敗談話しの内の一つで、煙草と思って買ひ入れると、明けてくや しき菓子であったのである、そこで『煙草箱蓋をあくれは翁飴』と云ふ句ができる、何 句なものか、平凡と云っても余りだ、止せ止せとまぜかへされて、一寸へこむ、.• •24)

これらの記述を読むと、辻村と菅原は兄弟のように親密な仲にあり、渡仏に際し二人とも 胸躍らせ、洋上生活を楽しんだ様子が伝わってくる

これら渡仏紀行に先立ち校友会月報の第四卷第一号に次のような「東京美術学校近事」が 載っている

「辻村延太郎氏の仏国渡航 同氏は仏国ガイヤール氏の招聘に応じ来る十一月十八日藤 島氏と共に、本邦を出発して、渡航の途に上らるる由に聞く」25)

この記事から、ガイヤールという人物が何らかの目的を持って辻村をフランスに招いたと いうことがわかるガイヤールはGaillard当時日本との交流を緊密に保っていたリュシ アンガイヤール(

Lucien Gaillard [1861-1930])

その弟ウジェーヌ.ガイヤール(

Eugene Gaillard [1862-1933] )

のどちらかと想定される。ただ校友会月報の別の箇所に本工芸の 技法を応用せる新意匠の金属製品を出し好評を得たる金工家ガイヤール氏は.•.という 記事があり辻村を招聘した人物が、金工.宝飾デザイナーのリュシアンであった可能性が

ある26しかし、ビング商会と関係の深いウジヱーヌも

1900

年頃、さかんに日本の職人をフ ランスへ呼び寄せているので現在のところどちらのガイヤールか断定できない。

ところで、菅原が弟に送った書簡(図

16)

「ガイヤールに勤め居ると書いていること

Nil-Electronic Library Service

(9)

から、彼が辻村を手伝うために渡仏したと推測される。しかし「勤め居るという表現から すると、ガイヤールを団体名として捉えた方が自然である辻村も「巴里ガイヤルへ送る荷 物七個の扱い方を船員に交渉し.• •」功と書いており、ガイヤールは場所としても捉えら れることから、日本の漆芸界において人物名としてだけでなくアトリエ名として通用してい たのかもしれない

その後辻村は

1907

年に帰国して東京美術学校の教授に戻ったが菅原はパリに残った 以上、外国旅券下付表および辻村の紀行文から菅原の渡仏年は1905年と確定できる。渡仏 理由については、菅原がガイヤールに招聘された辻村に随行したことが確認できたが、万国

博覧会やガイヤールとの関係については更なる精査が必要と考える

5 .フランスにおける活動と作品

画家津田青楓は自伝『老画家の一生の中で菅原について次のように書いている

「つい最近まで、稲垣、菅原という二人が居たが最近別の所へ引っ越したということだ ったこの二人は1900年巴里大博覧会の時に日本から派遣され、博覧会の終わった後もその ままここに居付いて帰らぬのだといふ28)

津田は

1906

4

22

日、安井曾太郎と共に諏訪丸に乗船して神戸港を出航した農商務省海 外実習練習生としてアカデミージュリアンで絵画の勉強をするための渡仏であった。約

40

日後、

パリに着いた津田は先に渡仏していた洋画家鹿子木孟郎に紹介され安井と共にポン ヌフ近くの下宿に身を落ち着ける。上記の内容から、その下宿に直前まで住んでいたのが菅 原だということがわかる。この自伝には、

1909

年、日本に帰国した津田に安井が宛てた手紙

も掲載されており、その中に菅原に関する記述がある

「きのふは日曜でひるからスガ原とイナ垣、藤川がうちへやってきた。• . •スガ公は二 三日内にお得意のお嬢さんと田舎へ行くさうで、、三ヶ月はたらくさうだ田舎行きはな んだか流しもんにあはされたやうだ、と言っていた。稲垣は今家をさがしている。テアトル 長屋を出るつもりだ。29)

上記の安井の書簡からは、津田が帰国した後も菅原が安井と親交を持っていたことがわかる。

また菅原が弟に送った書簡(図

12)

に記された住所「

16 rue de theatre

」のことを、仲間内 では「テアトル長屋」と称していたであろうことも窺われる津田の自伝には他にも菅原 がパリに住む日本人の芸術家グループとともに牛鍋などをつくっては皆で飲み食いし身を 寄せ合って暮らした様子が書かれており、当時の菅原を取り巻く状況を察することができる。

(10)

津田は次のようにも書いている

「菅原といふ人物はほんとうの職人肌で、宵越しの金は持たぬ習慣が習ひ性となって、い つでも金についてはピイピイしていた仕事は漆塗りが専門で、多少金粉の蒔絵ぐらいでき

るのかも知れない。この仕事も日本独特のもので、いいお得意がついてそのままパリに居す わってしまった。」30)

この記述からは、菅原の職人気質が窺われて興味深いが多少金粉の蒔絵ぐらいできる のかも知れない」という印象は柳や片山による菅原の高評価と食い違いを示すものである

1906

年当時、菅原はまだその力量を発揮していなかったのかもしれない

図20菅原の彫刻 1929年 図21 管原の彫刻(グレイとの共作)1919-1925年 図22菅原の彫刻 年代不明

菅原が制作した漆芸作品は、現在は写真でしか確認できないが、彫刻

3

点個

20

21,22)

と屏風1点(図23

)のみである。

上記の内、

2

(図20

21 )の彫刻は漆塗りで仕上げたもの

のように見えるが、もう1点の彫刻は画像が悪く判然としない。二曲屏風のモチーフは、幾何 学三角形、大きな鯨一頭小さな鯨あるいは魚が

3

頭(四)を漆塗りで描いたものと推定され

る。この他、グレイが撮影した菅原の写真(図24

)を見ると

彼は彫刻を磨いており背景 に多数の彫刻が写っている柳によると、菅原は「乾漆技法による前衛彫刻の制作を試みて 居り、その作は毎年サロンドオト厶ヌに並べられて」いたという

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(11)

図24グレイの撮影による菅原 年代不明

『薩摩治郎八と巴里の日本画家たちのカタログによると、菅原は仏蘭西日本美術協会の展 覧会出品作家にその名を連ねていた31\彼はこの展覧会のパリ

1

回展に

3

ブリュッセル展

1

点、パリ2回展に

1

点作品を出品しているこの他、1927年の第

2

回在巴里ロ本人美術家 (日本人会展)と翌年の第

3

回展

1927

12

月の対戦傷病兵義損展覧会日本美術家部門( 一次総合展)にそれぞれ出品し、

11

月の第

4

回在巴里日本人美術家展(日本人会展)では運営 委買となった。上記カタログによると、菅原は仏蘭西日本美術家協会設立の時には創立委員に なり、工芸美術の陳列委員としても活躍した32し仏蘭西日本美術協会展は

1929

藤田嗣治が 会長を務め薩摩治郎八が資金提供した薩摩展として知られる。藤田もまた、渡仏してパリに 住んだ芸術家であり、菅原も交友関係にあったようである

日本古来の漆工芸を欧州に広めまた-方フランスに遊学する邦人の面倒をよく見ていたと 云ふ」と柳も書くように、自らの作品を制作するだけでなく、その快活な人柄でさまざまな芸 術家と交流し、多岐に渡り活動したことが上記の資料から確認できる

6.日本漆芸の伝授 6.1グレイとの協力関係

渡仏後、菅原が日本漆芸を欧州に伝えるのに貢献したことは、既往の言説に共通している その代表的な活動として、当時パリに滞在していた芸術家に日本漆芸を教えたことがあげられ

菅原が最も早くから長期間にわたって漆芸を教えたのは、グレイに対してである。アイルラ ンドに生まれたグレイは、

1901

年ロンドンのスレード•スクールで学んだ後、1902年、パリに 渡りアカデミージュリアンなどで絵画の勉強を続ける晩年のグレイに取材したアダムによ

(12)

ると、母親の病気のため口ンドンの家に戻っていた1906年、

D,

チャールズという人物が経営 するディーン通りの漆器修理店を偶然見つける33それ以前に美術館で見た漆塗りの屏風に 惹き付けられていたグレイは、漆塗りの制作を手伝わせてもらうことになる。そして

1906

年末頃、なんらかのいきさつでグレイは菅原を紹介される

校友会月報第五卷第七号には辻村が

1906

8

17

日付けで送った葉書の内容が掲載されて おり、当時の菅原の状況を推察する手がかりを与えてくれる

小生去月中旬思ふ節ありてガイヤールを辞しルブル氏工場に於て、ドリュールの実習 中に有之候• •小生来る二十五日ロンドンへ向け旅行の筈に有之只今準備中に候。他に 御清聴を煩はすべき好材料なく、不自然な生活をなしっっあり候34)

上の内容から辻村は

1906年7

月には「ガイヤールを辞めたことが分かる。この頃、辻村 と菅原がどのような関係になっていたか定かではないが、

1906

年後半、菅原も「ガイヤール を辞めていた可能性が高い。また上の葉書には1906年9月にロンドンに旅行する予定である 旨が書かれていることから、菅原がグレイに出会う背景に辻村の旅行が関係している可能性 がある。

アダ厶によると、グレイがパリで菅原に「古い漆工芸について教えてくれるように頼んだ」

1907年頃から二人は師弟関係になり

、彼女は漆工芸を真剣に習得するために菅原の所で制

作し始めた35)

アダ厶は、グレイが菅原から学んだことを書き付けたノートについて次のように書いている

アイリーンは、小さなノートに試行と失敗を記録している。たとえばコロマンデル材や、

サビ(彼女が日本から取り寄せた砥の粉)の使い方で、これは再度漆と混ぜて使った。彼女は 簡単な覚え書きに木材をいかにして白くするか、パリの漆喰を使っていかにして型を作るか を書きとめている。凸凹の表面を作りだすのに最良の方法と炭の使い方について書いたと ころもある。何事に対しても職人のように取り組もうとする彼女の姿勢が、書き記された

1

1行から読みとれる。」

36)

グレイは菅原から熱心に学び、漆の小品と浮き彫りのスクリーンの制作を始め着実に漆 工技術を身につけていく。グレイが菅原のためにゲネゴウ通り(

rue Genegaud )

に工房を設 けた1910年頃には、2人の関係は雇用関係に移行したものと思われる。その後グレイの作 (図25

)

は徐々に認められるようになり、グレイ独自のシリーズ作品となる「ブリックス クリーン」(図

26)

も生み出された。菅原とグレイは新たな販売ルートを開拓するために「漆 工芸家スガワラが本物の日本製漆で作ったスクリーンモダンな家具、「磁器、芸術品

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(13)

図25グレイの屏風「運命」 1913

の修理もいたします」と書いた リーフレットを出し、

1922

年に は、グレイの漆塗り作品とテキ スタイル作品を販売する店、「ジ ヤン•デゼール

(JeanDesert)

という名のギャラリーを開店さ せる37)。

グレイが初めて手がけた室内 装飾「ロタ通りのアパルトマン

(Rue de Lota Apartment)

」(図

27

)は、

1919

年から始められ、

全改装が完成するのに

1924

年ま でかかった。室内すべてが漆塗 りのパネルや家具で覆われてお り、例えば、玄関ホールはサビ で表面処理した

450

枚の漆塗り の薄い板が煉瓦のように積み上 げられていた(図

28)

アダムは「ロタ通りのアパルト マン」の玄関ホールについて次 のように書いている。

「表面を覆うには莫大な量の 漆の仕事が必要で、菅原は助手

3

人を増員した。しかし、それ でも手が足りず、アイリーンは 稲垣などのパリに住む漆職人に 助力を頼んだ。」38)

菅原は工房の采配を任され稲 垣やオオスダという名の職人た ちと共に、グレイの仕事に協力 したようである。また、膨大な

26グレイの屏風「ブリック•スクリーン」1925年頃

量の漆工作業が予定されたため、

(14)

図27グレイの室内装飾「ロタ通りのアパルトマン」居間 1922年頃

図28グレイの室内装飾「ロタ通りのアパルトマン」玄関ホール 1922年頃

グレイはさらに大きなアトリエを 必要とした。アダ厶はグレイと 菅原それぞれの作業場と

3

人の助手

1

人の磨き職人のための部屋を もっアトリエがゲネゴウ通りにあ ったとする39}。一方、コンスタン は、

1923

10

月、グレイがサモア.

シュ几^ セーヌ

( Samois-sur-Seine )

に菅原のための大きな作業場を持 っ家を購入し、改装したとしてい

る40)二つのアトリエがあった のかどうか定かではないが仕事 を拡大しようとするグレイにとっ て菅原が必要かくベからざる協同 者であり、彼のためにアトリェを 用意したことは確かなことのよう である

この後グレイは室内装飾を展 覧会に出品するなどして漆芸家と

しての地位を確立する。アダ厶に よれば、彼女は

1927

年にはアトリ ェを菅原に与え

1929

年頃には菅 原が指揮する職人も

5

6

人に増え ていた。しかしグレイは建築の 仕事に没入し漆から遠ざかっていく。また大恐慌の影響で高級家具が売れなくなり、「ジ

ャン.デゼール」も閉店を余儀なくされた。当時、グレイは菅原を誘い、自宅で昼食をとり ながら、新しいデザインについて話し合うことも多かったとされるが、2人の協力関係は徐々 に希薄になっていったようである41>

日本における文献を探ると

1933

年、片山は菅原とグレイについて次のように報告してい る。

「時に英国人にして巴里在住のマドモアゼル()グレ(目下絨毯の新工夫新意匠制作に専念) の請を入れ菅原氏は同嬢の下に大いに漆工芸品制作に努力され...42)

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(15)

30デュナンの花瓶 1925年頃

31 「アトランティック号」のパンフレットに描かれた デュナンの船内装飾

1937

年、柳も

2

人の関係にっいて次の ように書いている。

大戦後、マドモアゼル•グレーのア トリエに這居って、最近までそこの重要 なスタフの

1

人であった。マドモアゼル グレーのアトリエというのは装飾美術 の各部門の専門スタフを擁して、総合制 作のシステ厶で、英国人エレン•グレイ 嬢を指導者として重きを為して居る店で ある。」43)

1930

年代、グレイはすでに漆塗りから 離れギャラリーも閉めてしまっていた ので上記の情報とはタイムラグが大き いが、菅原に関する近況報告や追悼記事 によってすでにグレイが日本に紹介さ れていることは、特筆されるべきことで ぁろう

6.2

ジャン•デュナン、濱中勝との協 力関係

菅原はジャン•デュナンにも漆塗りの 材料や道具、技術にっいて多くを伝授し た。デュナンは、スイス出身の彫刻家兼 金工家で装飾芸術家協会の重職を勤めて いたが、中国漆による漆芸を手がけた後、

菅原から教えを受けて日本漆芸に着手し た。アダ厶によると、デュナンはグレイ の仕事に興味を持ちアトリエを訪ね 女を介して菅原に漆芸の教えを請うたと いう44し デュナンの作品集には菅原がデ ュナンの金工に興味を示していたとも書 かれている45>。菅原から学んだことを書

(16)

き付けたデュナンのノートは、

1912

5

16

ロからはじまっており、

8

月にかけて13回に亘っ ている。着実に技術を身に付けたデュナンは、その後、数多くの屏風(

29)

、家具花瓶個

30 )

、宝石などを漆塗りによって生み出した。豪華客船ノルマンディ号やアトランティック 号(図

31)

の室内装飾も手がけ、フランスにおける漆芸の第一人者となった。また、サロン.

ドートンヌなど各種展覧会に出品し、日本の漆芸専門誌にもしばしば彼の活躍が伝えられた しかし柳は菅原とデュナンの関係について次のように書いている

後年両者の仲は、製作上の意見の対立から余り良くなかったやうであるが、これは、ラ ッカアエ芸に競争せんとして製作過程の簡略化を企図したジュナン氏と、飽迄伝統的メチェ の擁護を抛棄しなかった菅原氏の根本的な見解の相違に胚胎したもののやうであった。」46)

片山も次のように述べている

「其後菅原氏は兼ねて漆研究者のデナン氏に持示する所となりデナン氏としての完全に 漆作品を作り出せしは菅原氏によりて修得する所多し。八九年前より市場にその声価を認 められ三年前欧州全土に流行をもたらせし卵殻塗はすでに六年此方此を制作して氏の作品に 一大新き工夫を劃す氏は余りに作品に稚拙なる偽漆を以って世人の購買心をそそり、日本 漆塗装と称せし結果一時職人多数が離散し、今は只々製品に生命をとどめるのみ。」47)

つまり、デュナンは菅原から教えを受けた後、卵殻塗りで評価を得て仕事の規模も量も拡 大していき、ラッカー塗りや西洋ワニスに比べて、多く時間のかかる日本漆芸の工程を簡略 化したようである。その結果日本漆芸の伝統技法を擁護する菅原や職人との関係が悪化し たということになる。

1926

年頃当時、パリに滞在していた濱中勝(1895-1982

)

にも菅原は漆芸を教えた 片山は濱中について次のように紹介している

本会会員濱中勝氏は右菅原氏より1928年即ち五年前に漆工芸を教示され、現日本漆工技 術者として欧州に於ける一人者である。非常に研究努力家にして

1924

年(大正

13

4

年頃)渡仏 サメ皮の工芸、金銀象牙等の小美術品制作研究当時、これらの作品の流行を作られし人、

故松平氏と共に大いに日本工芸進出を計る目下独創的作風による氏の得意とする塗装は愛 好者間に好評を博しサロン、デコラチュフ其他各種展覧会に出品入選多々益々奮闘氏の アトリェには六七人の工人、氏の指揮の下に従事制作す。」48)

札幌出身の濱中は、札幌師範学校に学び、絵画、室内装飾を勉強した後、

1924

年パリに渡

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(17)

った濱中夫人に取材した海野によると、モンパルナスに居を定めた

1926

年頃、藤田嗣治に 知り合い、彼を中心とした日本人グループに属していた菅原にも会うことになったようである。

前述の朝日ジャーナル』には

84

才当時の濱中本人の言葉として次のように書かれている

n?くは、

生まれが北海道ですから漆など見たことがありません。で、菅原さんの作品

を見て、初めて漆への目を開かされました彼は、そのころすでに大家でかなりいい生活 をしていましたね」49)

濱中は、

1929年、

師の菅原とともに仏蘭西日本美術家協会展(薩摩展)に出品している50) 菅原との交流はその後なくなっていくが、

1932

年までに濱中はアトリエを構え各種展覧会

に精力的に出品し続ける。

1935

、デュナンが関係した豪華客船ノルマンディー号のインテ リアを濱中も手がけ、1937年にはパリ万国博覧会に屏風(図32

)

や食器戸棚(図33

)

を出品 して、好評を博した。日本の専門誌に濱中は何度も取り上げられ、本人もパリの漆芸事情な どを書いて寄稿している51)

32濱中の屏風 1937

図33濱中の食器戸棚 1937

(18)

7.

晩年から没年まで

菅原の晩年に関して、片山は次のように書いている

r- •

•後の菅原氏は自営数年にして自営不振に付き二、三年前より金満家(仏人)ロチー

家方においてロチー家使用品のみの制作に従事している52)

「ロチー家」とは欧米有数の財閥、ロスチャイルド家のことで、菅原は自身の作品でなく 同家の使用品を作る仕事に就いて、生活の糧を見いだしていたようである

『アトリエ』の追悼記事にも次のように書かれている

滞仏32年フランスに来遊する日本人の父と慕われた美術家菅原精造氏は去る4月12日パリー 郊外ロスチャイルド男のシャンチイシュ別荘で持病の肝臓ガンのため寂しく逝いた」53)

コンスタンも、グレイが装飾芸術の店を閉めた後は、

Cemay-la-Ville

のロスチャイルドコレ クションを監修する仕事についた旨をまとめている⑷。菅原の没年月日についてアダムは

1970年まで菅原が生きていた旨を書き55

)、コンスタンは1940年を没年としているが565、戸籍 によると

1937年 4月12

日であり、『アトリエ』誌の追悼記事に間違いはない

ところで、コンスタンは菅原が漆芸の磨きを担当する助手の女性と結婚したと述べている57> 菅原の晩年については日本の遣族にもその詳細は定かでないものの、フランスの女性と結婚

したらしいというところまでは確認できた。

現在、菅原の晚年に関するその情報は極めて少なく把握できる事実は以上である

8 .

おわりに

以上菅原の履歴について調査し、分散していた情報を整理、集約した。結果、錯綜してい た姓名、出生、渡仏年、渡仏理由、フランスにおける活動など、菅原に関する基本情報を明ら かにすることができた。ただし、菅原の修業内容「ガイヤール」および万国博覧会との関係、

作品の所在、晩年の活動などいまだ不明な事柄は多い

2005

10月 21

日および

22日

、ダブリンのアイルランド国立博物館において「アイリーン.グ レイ会議(

Eileen Gray Conference)」が開催された

アイルランドのメディアも大きく取り 上げたこの会議には欧米のグレイ研究者が一堂に会し、グレイに関する新情報や今日的な意 義について活発な研究交流がもたれた。その中で、トリニティカレッジ講師のルース•スター

(Ruth Starr)

は「琳派とアイリーン•グレイ(

Rimpa and Eileen Gray)

」と題して、菅原が グレイに与えた影響を重視しつつグレイと日本美術、特に琳派との関係に展開する発表を行 った。事前に筆者はスター氏から菅原に関する質問を受け

9

月中旬、それまでの調査で得

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(19)

た情報をダブリンにおいて直接、提供した。彼女によると欧米のグレイ研究者にとって、

菅原に対する関心が高まっているものの入手できる情報はほとんどなく日本における調査 とその報告が切望されるとのことであった。

菅原の修業内容や作品はグレイだけでなくデュナン濱中らの受容内容を探る上でも極め て重要である。今後、日本に在住する者の責務として任じ、更なる調査を急がなければなら ないと考える。ついては、菅原が辻村から何らかの影響受けているのは疑いないので、まず、

辻村が東京美術学校においてどのような修業をしたか調査する予定である。

謝辞

緒方康二先生には、研究を広げるための懇切なご教示と親身なるご助言を賜りました。また 近江節子氏には重要な史料の情報をいただき高橋勇介氏には岩手県における調査において 得難い機会をいただきました。熱田充克氏には菅原に関する情報の交換と議論に貴重な時間

を割いていただきました。上の皆さまに深甚の謝意を表します

そして菅原清次氏および咲子夫人には極めて貴重なご証言と重要な史料をご提供いただき ました清次氏は他界されて久しく、直接お礼申し上げることはできませんが、せめてここ に感謝の気持ちを表します

(20)

1) マーティン.アイデルバーグ、ウィリアム.R.ジョンストン:「ジャポニズムとフランスの装飾芸術」『ジャポニズム 1854年から 1910年にかけてのフランス美術に対する日本の影響』,国際墨技専門学校出版部,1982年,116

2) 拙稿「アイリーングレイの屏風に関する考察」「デザイン学研究』第50卷,第6号,日本デザイン学会,2004年,67-76 3) Andre Lorac-Gerbaud: I'art du laque, Dessain etTolra,Paris, 1973,p.ll0.

4) 2000819日、山形県酒田市日吉町の菅原邸において菅原清次、咲子夫妻に筆者が取材した。

5) 拙稿「漆芸家、菅原精造の活動について」『デザイン学研究第47回研究発表大会概要集』,日本デザイン学会,2000年,67 6) 片山佳吉:「パリを中心とした欧州内外漆工家略記」『漆と工芸』,第382,1933年,19*20

7) 片山:前掲書,20

8) 柳亮:「巴里で客死した菅原精造氏とその作品 菅原精造氏を想ふ」rアトリエ』,14卷,7号,1937年,アトリエ出版,頁番号なし 9) 森谷美保:「菅原精造」『薩摩治郎八と巴里の日本画家たちJ,共同通信社,1998年,116

なお、『薩摩治郎八と巴里の日本画家たち』展は、徳島県立近代美術館(19981017日から126日)において開催され、そごう美術 館(199925日から37日)、奈良そごう美術館(199948日から425日)を巡回した。

10) Rykwert, J.: “ Un Ommagio a Eileen Gray-Pioniera del Design,” Domus, no.469,1968, p.33 Johnson, J.S.: Eileen Gray/Designer, Debrett's Peerage Ltd., 1979, p.14

Loye,B.: Eileen Gray 1879-1976 architecture design, Analeph/J.P.Viguier, 1984, p.14 Adam, P.: Eileen Gray Architect/Designer, Harry n.Abrams, 1987, p.49

Hecker, S. and Miiler,C.F.: Eileen Gray, Gustavo Gili, 1993, p.228 Garner, P.: Eileen Gray Designer and Architect, Taschen, 1993, p.ll

Constant, C. and Wang, W. eds.: Eileen Gray An Architecture for All Senses, Harvard University Graduate School of Design, Cambridge, Mass, and Deutsches Architektur-Museum, Frankfurt, 1996, p.2

11) Marcilhac, F.: Jean Dunand His Life and Works, ABRAMS, 1990, p.28 12) Constant, C.: Eileen Gray, Phaidon Press, 2000, p.237

13) 『朝日ジャーナルJ,24卷,第2(115日号),朝日新聞社,1982年,85 14) Adam, P.: op.cit., pp.49-50

海野は「ジャホージとは浄法寺のことであろう」と書いている。(海野弘:「浜中勝 日本からきた漆のデザイナー」[■アール•デコの世 1パリ アール.デコ誕生j,学習研究社,1990年,100頁)

15) 2000328日、岩手県商工会連合会盛岡地区広域指導センターにおいて高橋勇介氏に、同年329日、岩手県教育委員会において中村

氏に筆者が取材した。

16) 『朝日ジャーナル』,第24卷,第2号(115日号),朝日新聞社,115日号,1982年,85 17) Adam, P.: op.cit., p.49

18) 片山:前掲書,19

19)浦崎永錫:『日本近代美術発達史』明治編,東京美術,1974年,708

21) 辻村松華:「渡仏紀行」『東京美術学校校友会月報』,第4卷,第6号,1905年,116 22) 辻村:前掲書、116

23) 辻村:前掲書,120

24) 辻村松華:「渡仏紀行(続)」『東京美術学校校友会月報』,第4卷,第9号,1906年,175 25) 「東京美術学校近事」『東京美術学校校友会月報』,第4卷,第1号,1905年,1 26) 「海外消息 仏蘭西」I■東京美術学校校友会月報』,第5卷,第9号,1906年,196M 27) 辻村松華:「渡仏紀行(続)」f東京美術学校校友会月報』,第4卷,第7号,1906年,140 28) 津田青楓:『老画家の一生J (上巻),中央公論美術出版,225-226M

29) 津田:前掲書,280-281 30) 津田:前掲書,226

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図 10 葉書 4 の表 軎 き図7葉書31907年
図 30 デュナンの花瓶  1925 年頃 図 31  「アトランティック号」のパンフレットに描かれた デュナンの船内装飾 1937 年、 柳も 2 人の関係にっいて次の ように書いている。「大戦後、マドモアゼル•グレーのアトリエに這居って、最近までそこの重要なスタフの1人であった。マドモアゼル、グレーのアトリエというのは、装飾美術 の各部門の専門スタフを擁して、総合制 作のシステ厶で、英国人エレン•グレイ 嬢を指導者として重きを為して居る店で ある。」43)1930年代、グレイはすでに漆塗りから離れ、ギャ

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