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(1)

加藤祐三著『黒船前後の世界』

《書評》

加藤祐三著『黒船前後の世界』

西口清勝

Ⅰ.

本書は,近年利用できるようになったアメリカ議会資料・ペリー個人日記 等の新資料を渉猟・駆使し,「日本開国期の世界を同時代史として考察」(37 ページ)するという従来にはない研究視角から日本の開国をきめた幕末の「初 発の条約をめぐる諸問題」(39ページ)に新しい解明の光をあてた労作であ る。

ペリー来航にはじまる幕末開国が近代日本の起点であり,それが現在に生 きるわれわれ(およびアジア諸国の人々)に深いつながりを有するが故に,

(1)

服部之総や羽仁五郎の先駆的業績に導かれこれまでに多くの研究成果が蓄積

(2)

され,また近年研究の新たな盛りあがりがみられる。周知のように,幕末開 国史の研究における中心的な論点の一つは,産業革命を経たのちのイギリス を先頭とする欧米諸国の自由貿易の要求=世界市場への強制的編入(「外圧」)

により,インド・中国その他アジア諸国が植民地化あるいは半植民地化を余 儀なくされたのに対し,何故ひとり日本のみが独立を保ち,「近代化」を成 しとげた(さらにアジア諸国を抑圧する帝国主義化した)のかということに ある。

本書の著者加藤祐三氏が,日本の開国そのものに焦点をあて,もっぱら初 発の条約をめぐる諸問題に集中して取りくまれたのは「アジア諸国への外圧 の強弱を論じ,植民地・半植民地・独立の相互関係を論じるとき,これら初 発の条約ないし植民地化の契機を,しっかり押えておかなければならない」

(39ページ)という問題意識によるものである。

(2)

この研究課題に接近するに際し著者は,これまで支配的であった日米二国 間の関係史の枠組でとらえるという研究方法を排し「ペリー派泣時のアメリ カ政府もペリー自身も,たんに対日開国という狭い枠で考えておらず,対中 関係,対英競争というグローパルな外交戦略のなかに日本開国を位置づけて いた

J(41

ページ)のだから「幕末開国史の研究においては,少なくとも日 本=中国(広くはアジア)=欧米という三者の

f

関係

J

史を組みこまなくて はならない

J

(同)と新しい枠組=研究方法の必要を主張する。

しかしこの研究方法を採用することは,言うはやすく実行するのは容易で ないものである。日本の開国という本書のテーマに向って次第に焦点を絞り あげながら,この

10

年ばかりの間に,イギリス=インド・中国=日本の国際 関係史について次々と秀れた研究成果を発表されてきた著者にしてはじめて 主張しうることであろう。その意味で,本書はこれ自体として一個の独立し た価値をもっ作品で、あるとともに,著者の

10

年にも及ぶ研究の集大成という 一面も持っているといえよう。それだけに,本書は実に内容が充実し高い研 究水準を誇るものである。

新しい研究成果がふんだんに盛り込まれ,斬新な問題提起が随所にみられ るこのように高い質をもっ本書の内容を読者に十分に伝えることは,少なく とも評者にとっては容易なことではない。当然、のことながら本書評を草する にあたって,評者は出来る限りの注意を弘ったが,不十分,不適切な箇所が みられるかもしれない。この点あらかじめ,著者の御寛恕と読者の御叱正を お願いする次第である。

I I .  

ここで本書の内容に入るのが順序であろうが,本書の理解をより容易にす るために, r 初発の条約をめぐる諸問題」のうち,著者が最も重視している と思われるものから先に述べることにしたい。それは,

(1 

)交渉条約と敗戦条約の区別

(2)

アへン禁輸条項の有無

の三点である。

(3)

加藤祐三著『黒船前後の世界

J 107 

まずい)の問題から

o

これは不平等条約の理解と関係する。当時の国際関係 においては,植民地休制と不平等条約(敗戦条約・交渉条約)休制とが並存 していた。ところで「植民地休制と不平等条約休制の区別は,現実に峻別さ れていたにもかかわらず,理論的な解明は,はるかに遅れていて,不鮮明の ままである。このために,不平等条約の理解そのものも,あいまいのままに 残されている

J(144

ページ)と著者は言う。同じく不平等条約と言っても,

敗戦条約(例えば,アへン戦争後の英清南京条約,

1842

年)と交渉条約(南 京条約につづ、く米清望度条約,

1844

年,あるいは日米和親条約,

1854

年)と では,①前者が「徴罰 J としての賠償金と領土割譲を伴なうのに対し,後者 にはそれがない。⑦前者の場合条約の改正がきわめて困難であるのに,後者 の場合には交渉によってそれが可能であり,①内政干渉の度合いが前者の場 合強い(例えば,賠償金支払いの担保,賠償支払いのための外債導入の担保 に関税収入があてられることにより関税行政に外国人支配が行なわれること など)の諸点によって,はっきりと区別される(1

45

ページ)。この両者を明 確に区別して認識することが「外圧の強弱を論じ,植民地・半植民地・独立 の相互関係を論じるとき」不可欠なものであるというのが著者の主張点であ る 。

ところが「日本開国の条約が戦争の結果としてでなく,交渉の結果として 生まれたことは,明らかな事実であるが,なぜそうなったのかという問題は,

まだ解かれていない。解かれていないというより,課題にならなかったとい う方が正確であろう。近代史の基本問題であるにもかかわらず,なぜか課題 とされなかった J ( 1 4 6ページ)と疑問を投げかける。この疑問点こそ,著者 が本書を執筆するにいたる最大の動機となったものとみてよく,従って本書 の内容そのものがその回答になっていると考えられる。

次に

(2)

アへン禁輸条項について(この問題は,著者の先行する研究成果を 参照することにより,よりよく理解できる)。アへンは

f19

世紀のアジア三 角貿易

j

において要の位置を占めていた。

f19

世紀のアジア三角貿易」とは,

1780

年代からの中国茶のイギリスへの輸出,

1800

年代からのインド産アへン

の中国への輸出,ついで最後に

1820

年代からのイギリス産綿布のインドへの

(4)

輸出,というこの三者を以って構成されていたものであり, 1880年頃には崩 れる。

ところで,問題のイギリスのアへン貿易は, 1773年から第一次大戦までの 140年間にもおよび, 1880年代にピークに達するが,①アへンは産出国イン ドの重要な財政収入になっていた(アへン収入は19世紀をつうじて平均イン ド歳収の約17%を占める),⑦アへンは「インド以東J(East  of  India)の植 民地においても,アヘン請負制=ライセンス収入により,例えば1863‑64 のシンガポール財政収入の40%以上を占めていたことにみられるように,重 要な財源、を構成していた,⑦こうした植民地財政のうえに,最大の輸出先中 国(総輸出量のおよそ85%が中国へ,残り15%が東南アジアへ)にアへンが 輸出されていたのである(127‑132ページ)。

これまで述べたことが,とりもなおさずアへン戦争(1840‑42年)が勃発 する背景を示している。アへン戦争の結果,清国側にとって敗戦条約たる南 京条約が締結される。その主な内容は,①領士の割譲(香港の植民地化), 

⑦五港(広州、1,医門,福州、1,寧波,上海)の開港,①賠償金の支払い,であ る。だが,肝心のアヘン貿易の合法化は清国側の強い抵抗によって条約に記 載されず,依然、として密輸のままであった。アへンは「植民地では公然、たる 合法商品になっていたばかりでなく,その財政に大きく寄与していた。あと は,この波を植民地でない条約国に及ぼすこと,すなわち通商条約にアへン 貿易の『合法化

j(

legalization )を盛りこむことJ(209ページ),これが以後 イギリスの政策の大きな柱になる。そして実際,シャムを突破口にアへン貿 易の合法化を実現し(英=シャム通商条約, 1855年),その延長線上に中国 に対してもアへン貿易の合法化を獲得する(天津条約, 1858)

ところが,日木の初発の条約においてはアへン禁輸条項が明示されている。

ここから「なぜ日本の条約においてのみアへン禁輸条項が入り,かつそれが 実質的効果をもつことができたのか……このテーマは日本の開国と近代とを 考えるさいに,一つの基本であるJ(149ページ),著者の他の論文での表現 を用いれば「日本の開国は,アヘン貿易の排除とともに始まった。これまで の不平等条約論およびその学問的研究に欠けていた最大の問題点は,このア

(5)

加藤祐三者[黒船前後の世界』

109 

ヘン貿易禁止の一項をどう読むかという一点である」という強い問題提起が されることになる。このアへン禁輸条項の問題は,本書を貫ぬくもう一つの テーマとなっている。

あとまわしにしていた本書の内容を以下紹介しよう。本書は以下の

3篇1 0

草:から成っている。

黒船の登場 1.ペリー艦隊の来航

I I .

ペリー派iii‑の背景 田.ペリー周辺の人びと

東アジアの情勢

N.

香港植民地の形成

v.上海居留地の形成

VI. 東アジアにおける英米の存在 一‑‑ 日本の開国

V I I .

経験と風説一幕府の対外政策 四. 日本情部と対日外交の始動

区.

日米和親条約

x.展 望 ー 開 国 か ら 開 港 へ

まず第1%'i:において著者は, 18537

8日(嘉永66月 3日)ペリー艦 隊の浦賀沖への来航と幕府側の対応が「日米双方の最初の接触が,大砲によ る打払いではなかった。交戦ではなく,交渉をもって始められたJ

( 1

0ペー ジ)ことに注目する。本3の他の箇所では「最初の接触が,発砲ではなく話 合いであったことは,その後の歴史に大きな影響をおよぼした。おおげさに 言えば,この最初の接触が,この後の百年の歴史を決めたと言ってもよい」

(247ページ)とまで言い切っている。初発の条約が交渉条約であることに 着目する著者ならではの指摘である。この点と前述の著者が採用された新し い枠組=研究方法から本書の構成がはっきりする。すなわち,対日開国の対 渉を行うためにペリー艦隊を派泣したアメリ力側の立図と背景が第

I I

,皿ZF:

(6)

で,他方それにたいする日本側の対応および国内事情が第四,

vm

章で述べら れ,その間に対中関係,対英競争を扱かう第二篇(第

N

, V, V I章)が挿入 される。以上をふまえて, 日本の開国をきめた交渉条約=日米和親条約を締 結する過程が第I X章で描かれる。最終章たる第 X章では,開国(日米和親条 約)につぐ開港(日米修好通商条約)を取りあげ,全体を補足=補強する位 置づけを与えている。こうした構成になっている。

まずペリー(およびその前任者オーリック)派遣の背景と意図から(第 I I,

E章)。従来の研究では,①中国市場への進出と対日貿易,①太平洋横断航 路の開設計画と石炭補給地日本の開国,①アメリカ捕鯨業の発展と漂流民保 護,の三本柱を以ってそれを説明している。だが,これらの三本柱は「いず れも間接的な状況証拠にすぎ、ない

J

(60 ページ)。何故なら,①アメリカの綿 工業にとって中国市場が決定的な重要性をもったとはいえないし,まして新 たな市場として日本を想定していたという積極的な証拠はない,⑦貯炭所の 獲得が主で日本開国は従であり,発砲・交戦の危険を冒してまで開国のため の条約締結を強行する必然性がない,①捕鯨業に行政府を動かす実力も正当 性も小さい,からであると著者は言う。

このように通説を斥けた上で f ( 世界最大の)汽走軍艦を派遣し,外交官 ではなく職業軍人を責任者とし, 日本との条約締結を目的として使節を派遣 する J (58ペ ー ジ ) そ の 背 景 を 説 明 す る の に , 著 者 は 「 外 交 法 権 J

( diplomatic protection

,外交的保護とも訳される。外国にある自国民の生命

・財産を保護するための外交の展開を正当化する学説を云う)という全く新 しい見解を用いる。その概略は次のとおりである。

オーリックやペリーの派遣を決定した時の大統領フィルモアは,何よりも

自国民の生命・財産の保護一太平洋でのアメリカ捕鯨業の発展に伴ない

当時日本近海での海難事故が続出していたーという外交法権の脈絡で対日

交渉を主張していた。その際,前任のタイラ一大統領の死去にともない選挙

を経ずに副大統領から昇任したフィルモアは,議会や世論を刺激せずに行政

府の権限で対日交渉・条約締結を行うことが得策だと考えた。国務省管轄の

外交官を派遣して条約交渉を行わせるには上院の事前了承が必要なこと,ま

(7)

加藤祐三著[黒船前後の世界

J 111 

た条約未締結国に対し外交法権を実際に行使しうるのはーその背景には一 定の武力が必要であるーその当時海軍以外にないことを考慮、に入れると「行 政府の権限で行なうには,これを海軍省の東インド艦隊司令長官に兼務させ

る以外に,具体的な方法は残されていなかった

J

(86ページ)のである。

ここで日本の国内事情(第四章)について一言しておこう。アメリカ側は,

日本に漂着した捕鯨船員を「救出Jすなわち「外交的保護」するために,長 崎に東インド艦隊のプレフ守ル号を派遣し (1849年),その艦長グリンから,

日本には在留外国人を保護する一定の「法」があり,条約によって国交が開 ければ居留民の保護は可能であることを確認していた。このように日本国内 の事情を確認した上で,フィルモアはオーリックついでペリーの派泣を決定 したのである (333ページ)。

その東インド艦隊司令長官に指名されたペリーは,アメリカ史上最大の海 戦であるメキシコ戦争(1846‑48年)でアメリカ海軍メキシコ艦隊の司令長 官をつとめた。彼はこの戦争から帆船よりも蒸汽船の方が優れているとの教 訓を引き出し,大型汽走軍艦の建造を推進したため「蒸汽海軍の父J

( 5 9

ペー

ジ)と呼ばれた人物である。

著者はここで次に「東アジアの情勢」つまり対中関係,対英競争という要 因を入れて考察をつづける(第二篇)。

19世紀半ばの世界においてイギリスは「超大国jであるのに対し,アメリ カは「新興国」にすぎない(イギリスから独立を獲得してまだ半世紀しか経 っていない)。現に,アメリカ東部→アフリカ南端→インド洋と「ペリー艦 隊のとった航路は,イギリスの植民地網を結ぶシー・レインであり,そこで 石炭や必要物資を入手することができたJ(124ページ)のであって,ここ束 アジアにおいても香港を物資供給基地にし,本国との通信も香港ーイギリス 間の蒸汽郵船を利用せざるをえなかった。

アメリカは, しかしながら,次第にイギリスとは異なる独自の東アジア政 策を展開するようになり,その上にペリーは自身の政策として幾つかの特徴 を打ち出した。それをイギリスとの対比でみると,①米中が条約関係に入る のは戦争の結果ではなく交渉によるものであったこと(英清南京条約が敗戦

(8)

条約であるのに対し,米

j

古望反条約は交渉条約であったこと),⑦イギリス の中国重視に対し, 日本重視を押し出したこと,①イギリスの貿易重視に対

し「日本を世界の仲間に引き入れる j という外交重視を打ち出したこと,① イギリスのアへン貿易合法化政策とは対照的に,アジア諸国との条約にアへ ン禁輸条項を明示しようとしたこと,の四点に要約できる(1

25

ページ,

148 

‑149

ページ)。

ところで,東アジアにおいてアメリカの劣勢はおおうべくもなかった。在 外公館の陣容で1

0

1

以上,対中貿易で

9

1

, ま た 軍 事 力 で も 一 大 型 の 汽走軍艦を唯一の例外としてーイギリスに大きな差をつけられていた。ペ リーが「蒸気海軍の父

J

と呼ばれるほど大型汽走軍艦を重視したことはすで にふれた。その「ペリーは,政治・軍事・貿易などあらゆる面で,東アジア においてアメリカが明白にイギリスに劣っていることを自覚しており,たつ

f

こ一つだけイギリスに優位に立ちうる点が,この大型の汽走軍艦であり,こ れを確保して自らの艦隊を編成しないかぎり,任務の実視は困難だと考えた J

(234

ページ)のである。従って「世界最大の黒船艦隊の派遣は,決して偶 然で、はなかった。イギリスと日本の二ヵ国に照準を定めて,アメリカの威力 を示す最高の手段こそ,まさに黒船にほかならなかったのである

J(241

ペー ジ ) 。

日本側の対応の問題に進もう(第四章)。

すでに述べたように,ペリーの来航=日米双方の最初の接触は,大砲によ る打払い=交戦ではなく交渉をもって始められた。それはアメリカの対日開 国の交渉に応ずるような態勢が日本側に形成されてきていたということを意 味し,裏がえしてみれば,鎖国の「祖法

J

が次第にくづれつつあったという

ことを示唆する

(248

ページ)。

1825

年(文政

8

年)には,外国船の打払令(いわゆる無二念払令)が出さ れていた。しかし,その後モリソン号事件

(1837

年)を経て,アヘン戦争の 情報がーオランダと中国からそれぞれ『和蘭風説書

J

および『唐風説書

J

という形でー伝わると,幕府は彼我の軍事力の差異という現実認識(イギ

リス脅威論)をもち,外交の基本とも言うべき原則を確立していく。その第

(9)

加藤祐三著『黒船首

ii

後の世界

J 113 

一歩が南京条約締結の一目前に出された天保薪水令 (1842年)である。

著者は以上の過程,とりわけ二系統の風説書が幕閣に与えた影響を‑佐 藤昌介氏等の研究成果をふまえて一丹念に検討し, I天保薪水令は日本外 交の起源

J

(285ページ)であり,外交という政策が徐々に形成されたという 意味で,天保薪水令から日米和親条約までの10余年間は画期的な時代である,

と指摘する(同)。

さて,いよいよ大詰の日米和親条約の締結過程である(第医章)。ペリー 艦隊が再来 (18542月)した時,幕府の対応、は迅速であり,時の老中阿部 正弘は「精々穏便に御取計あって戦闘には及ばざるよう」との方針を固めて いた。「ペリー艦隊の火力・戦闘力の大きいことは知りぬいており,延期策 はもはや通用しないことは分っていた

J

(351ページ)からである。他方ペリー の方も,開戦権(宣戦布告権)が上院にあり,議会を刺激しない方針をとっ ていたフィルモア大統領から交戦を厳しく禁じられていた。また,アメリカ にとって「アジアがまだ『最遠の国Jであり,到達するのに地球の四分の三 を回らねばならず,途中の補給線もなく,中継の植民地ももっていなかった ため,イギリスのような『砲艦外交

j

は展開できず,交渉による条約締結が 唯一の武器であった

J

(361ページ)という事情があった。

かくして, 日米和親条約という交渉条約を締結することによる日本の長い 鎖国から開国への移行は,避戦論と「国威」の維持を二つの原則にして行な われた。それを可能にしたのは「幕府の対応がこの線に沿ったものであった とともに,アメリカ外交が,すくなくともこの段階においては,この線に沿 っていたからである。歴史の呼吸は,ここでは,ぴったりと合っていたJ(382  ページ)と著者は,結んでいる。

もう一つ重要な論点が残されている。それは他でもない,何故日本の初発 の条約においてアへン禁輸条項が盛りこまれ,実質的効果をもつことができ たのか,という著者自らが提起した問題である。この問題が開国から開港へ の流れに則して,最終末(第X章)で取りあげられている。

すでにこれまでに少しふれたように,アメリカはアジアに植民地をもって おらず,アへン生産の某地がなく,従ってイギリス外交とは対照的に, とい

(10)

うよりもむしろはっきりと対立してアヘン禁輸を条約に明示していた。日米 和親条約のアメリカ草案もまた,こうしたアメリ力のアジア外交の延長線上 にあった。日米和親条約に先行するのは米清望反条約である。「アメリカ草 案は望度条約を完全に継承していた

J(356

ページ)のである。だが,ここで 注意すべきは,望反条約が南京条約につづ、く二番手の条約であったのに対し,

日米和親条約が一番乗りした条約であったことである。これらの条約はいず れも不平等条約であり,最恵国待遇条項を伴っていたが,一番乗りした条約 国は後続の条約のうち,自らにとって不利益なものは,段恵国待遇の適用を 拒否できるのである(1

42‑143

ページ,

392

ページ)。

日米条約は, しかしながら結局「和親」条約として締結され,ためにアメ リカ草案から通商関係の条項,従ってアへン禁輸条項も削除されることにな る 。

ハリスの任務はペリーに続いて,対日通商条約を一番乗りして締結するこ とにある。ハリスは幕府に対して ①交渉による条約締結を選ぶか,あるい は戦争=敗戦に伴う条約締結を選ぶか,①アメリカと第一番に通商条約を結 ぶことが,国際法上の最恵国条項の適用によって,日本にとっていかに有利 か,の二点を強調した(

413

ページ)。

ハリスは幕府の避戦論=イギリス脅威論を巧みに衝いた。時あたかも,第 二次アへン戦争(

1856‑60

年)が一段落して天津条約が結ばれ,そのため自 由になったイギリス軍が

30‑40

般の大艦隊をもって日本へ来るかもしれない というニュースが伝わった。この情報を援護射撃として,ハリスは「戦争(=

敗戦)の危機とアへン禍の危機というこつの危機を強調し,そのいずれもが アメリカと一番に条約を結べば回避できる J

(417

ページ)と説いた。かくし て日米修好通商条約

(1858

年)にアへン禁輸条項が明示されることになり,

実質的効果をもつことになった。

他方,イギリスの東アジア政策を担ったのはパウリングである。彼の任務

はハリスのそれと対照的に,植民地ばかりでなく条約国にもアへン貿易の合

法化を認めさせることにあった。パウリングはシャム(英=シャム条約,

1855 

年,別称パウリング条約)を突破口に,中国に対しても天津条約においてア

(11)

加藤祐三著『黒船前後の世界

J 115 

へン貿易の合法化に成功する。

パウリングが「江戸へ英仏連合艦隊を派遣」してでも,言いかえれば「砲 艦外交」を展開してでも対日通商条約を締結する意志をもっていたことは明 らかである

(398‑399

ページ)。だが,クリミア戦争の勃発に伴なうイギリ ス全権スターリングの長崎派遣=日英約定の締結

(1854

年。幕府が嫌った通 商問題やそのための新しい開港場などの要求が含まれておらず,イギリス軍 艦の長崎入港と修理・補給を主な内容としたもの)が障害となって,パウリ

ングから対日通商条約をイギリスが一番乗りで締結する機会を奪ったのであ る 。

本書の特徴および著者が提起された前出の二つの問題点について,以下検 討してみよう。その過程で本書の意義と問題点が明らかになるものと思われ

る 。

まず本書の内容を評者なりに,細部にこだわらず思いきり簡潔に要約すれ ば,次のようになろう。

本書は,新資料を駆使し,

(1) 

(研究方法については〕ペリー来航に始まる 日本開国を, 日米二国間の狭い枠組でとらえる従来の方法を排し,少なくと も日本=中国(広くはアジア)=欧米の三者の「関係

j

史を組みこむという 方法を採用し,

(2) 

(学説史では〕従来の三本柱からなる見解を退け, r 外交

法権j という新しい見解を打ち出すことにより,著者の云う交渉条約二日米 和親条約の締結に至る日米双方の当事者の意志決定=実行の過程を実に見事 にまた説得的に明らかにしたものである。

このように,本主の特徴は何よりもその

(1

)研究方法と

(2)

学説にみられるも

のと考えられる。例えば, r ペリーの念頭には,三つの対象があった。一つ

は,もちろん,相手国の日本,もう一つは列強,なかんづく「超大国

j

イギ

リス,第三が,アメリカ政府内部の諸関係である。ペリーならずとも,当事

者であれば誰もが直面することである。この三つのうち第一の日米関係のみ

を研究する方法によっては,おそらく本質が見えてこない

J

( 2 2 0ページ)と

(12)

か , r これ(=外交法権〕は大統領が議会を説得するには格好の論理である。

ただ,この一般的な外交論理だけでは, 日本との外交という問題では説得力 が弱い。なぜ日本か,という点の積極的な論理がないからである。そこで太 平洋の汽船航路の開設,さらには「超大国」イギリスのアジア外交にくさび を打ちこむための日本への一番乗り,さらにはアへンの禁輸という戦略が組 みこまれた。議会・世論の説得には見事な方法であると言うべきであろう

J

(334‑335

ページ)とかは,本書の特徴をよく表わしている秀れた指摘であ る。だが,本書の

(1

)研究方法と

(2

)学説について疑問点がないわけではない。

最初に,

(1)

研究方法について。この方法を活用することによって,日米双 方の当事者=支配階級の意図はよりよく解明された。だが,彼らが交渉条約 を締結するのに際し,考慮したあるいは考慮せざるをえなかったもう一つの 重要な要因が, 日本=中国(広くはアジア)=欧米という新しい枠組を提唱 されているにもかかわらず,著者の場合欠落しているように思われる。それ は他でもない,欧米列強の「外圧」に対するアジア諸国および(この段階で はまだ潜在的可能性として想定されている)日本の人民の反抗の闘いである。

その意味で,本書にもある「もしイギリスが交易を求めて来日したとき,人 民の争闘がうまれ,それが兵乱に発展するならば,大変な事態になるから,

しっかりした政策を決定しておくほうがよい

J(295‑296

ページ)と忠告し たオランダ国王の幕府に対する親書

(1844

年)のくだりは注目に値する。こ の要因は,周知のように井上清氏や芝原拓自氏によって強調されてきたもの であり, 日本が他のアジア諸国に比べて有利な交渉条約を結び,独立を保持 することができた上で見落してはならないものであると評者には思われる。

次に,

(2)

学説について。「外交法権 J とは注目すべき魅力ある新見解であ る。それが,当事者の意図を解明するのに実に有効なものであることは,著 者が立証されたとおりである。しかし著者の場合それだけにかえって当事者 の主観的意図と客観的=経済的要因との関連が軽視ないしあいまいにされる 結果になったという気がしてならない。ここで,通説の三本柱の一つである,

「市場開拓

J

論を取りあげてみよう。日本開国の頃(1

9

世紀中葉),アメリ

カ綿製品の

30%

前後が中国に輸出され,それがイギリスのそれのおよそ

4

(13)

加藤祐三著『黒船出

I

後の世界

J 117 

1

前後にまで達していたという事実がある。この事実は著者も確認してい る ( 6 4ページ, 2 3 1ページ)。にもかかわらず, r 市場開拓」論をして n 産業 資本の世界的拡大

J

という理論がここで前提となっており,この理論を証明 するために諸資料が利用されている

J(61

ページ)ものであると主張される のには,にわかに賛同することはできない。むろん,白綿布の対中輸出がア メ リ カ の 総 輸 出 の わ ず か

1%

を し め て い る に す ぎ な い こ と も 事 実 だ が ( 6 4ページ),このようにシェアが低いということは,著者が強調されるの とはむしろ逆に,シェアが低いからこそ市場拡大の努力を一層払う, r アへ

ンをもたないアメリカ

j

であればこそなおのことそうした方向に向かうとも 考えられるのであって, r もし中国市場が決定的に重要だったとしても,そ の中国市場での需要がこの以上に伸びず,新たな市場として日本を想定して いたという積極的な証拠はない

J

( 6 5ページ)と断定し, r 市場開拓

J

論を日

本開国の間接的状況証拠の一つにすぎないとされるのはやや強引な論法に思 われ疑問を感ぜざるをえない。「問題はどうしてアメリカが日本開国の先鞭 をつけたかである。それは一言で言えば中国貿易でイギリスに勝つための足 がかりとして日本を必要としたのだ、といえる 1 0 ) とは服部之総の言だが,対中 関係=対英競争という著者の枠組の中に,この経済的要因を組み込む余地が 残されているのではないだろうか。

著者が提起された, (1)交渉条約と敗戦条約の区別および

(2)

アへン禁輸条項 の有無,の二つの問題点に移ろう。行論の都合上順序を逆にして,

(2)

の方か

ら先に取りあげよう。

アへンが

r19

世紀のアジア三角貿易

j

において要の位置を占めることはす でにふれた。ここでわれわれは,この

r19

世紀のアジア三角貿易

j

およびそ の中でアへンが果した役割について,著者が他の追随を許さない研究成果を あげていることに注目する必要がある。著者は,アへンが完全植民地インド (インドでのアへン専売=植民地支配のための財源)と半植民地中国(中国 の海関支配=半植民地支配のための財源)を二つながら支配するための鍵=

貴重な商品あるいは特殊な貿易商品で、あることは指摘した。また,

1845‑80 

年にインドの中国・否港輸出のなかでアへンの占める主

JI

合が平均

80%

をこ

(14)

え ,

1874

年には最高の

93.3%

を記録したこと,その中国の輸入に占めるアヘ ンの割合は

1860‑80

年で

;35""46%

を占め第

1

位であったこと,他方イギリス の綿製品輸出に占める中国・香港の割合は

1850‑80

年で

10%

足らずであり対 インド向けの勺 切にすぎないこと,等々の事実を明らかにしたナ総じて 著者は,イギリスの「インド以東

J

の対外政策とアへン貿易が密接に結び、つ いていることを疑問の余地なく明らかにしたのである。

このイギリスが主導する

r19

世紀のアジア三角貿易」の一環に日本を組み 込むことができなかったもの,それが日本の初発の条約に明示されたアへン 禁輸条項に他ならない。著者はアへン禁輸条項をイギリス=インド・中国=

日本というこれだけの大きなスケールの中で、正確に位置づけているのである

(14) 

従って「イギリス資本主義がアジア三角貿易体制を通じて『世界化

j

( ア ジア地域で)していった以上,アへンは『原始的産物

J

では決してなく,綿 布と並ぶイギリス資本主議の嫡子であり,重商主義に代る自由貿易が拡大し たものであるから,アへンは『綿布の化身

J

だということができる」という 一見意表をつく表現も,また,あるいは毛利健三氏や芝原拓自氏を念頭にお いたものと考えることができる, r イギリス資本主義が,その直接の生産物 である綿布とか機械類を各国(世界市場)に送りだしたと無前提に考える誤 解は,まだ意外に流布している。これは事実を確かめなかった結果であるが,

事実の確認のためには研究者の関心と理論が前提になるから,これまた理論 問題である 1 7 ) という手厳しい批判も,その研究成果に照らしてみれば,著者 の意図するところを了解するのにさほど困難はない。

むろんこれまでに,イギリス資本主義(特に綿業資本)が創出した世界市

場(アジア地域で)において,アへン貿易を的確に位置づける研究がなかっ

たわけではない。例えば田中正俊氏は,イギリスの綿布とインドのアへンと

の関係を世界市場の構造的次元でとらえ「イギリス綿業資本が,なお,前期

的商品=アヘンを含む世界市場を自己の固有の市場としてもたざるをえなか

った J 原因を解明している。著者加藤祐三氏の仕事は,こうした先行する秀

れた研究をふまえた上で,アメリカによる対日開国・開港→アへン禁輸条項

(15)

加藤祐三著[黒船出

j後の世界J 119 

の明示→イギリスの立遅れ→イギリス主導下の

r19

世紀のアジア三角貿易」

からの日本の離脱,がその後のわが国の「近代化」あるいは独立の保持に死 活的に重要・な関係を有することを悶明にされたことにあると考えられる。

かつて服部之総は,イギリス綿業資本がインド市場を開拓するためには,

インド白休がイギリス綿製品に対する支払手段を準備する必要があり,アへ ンこそそうした使命を担うインド商品であり,その;言、味で、アへン戦争は中国 市場の開拓を目的とすることはもちろんだが「英国にとって差当りその印度 市場を保全するための戦争だったと云うことができる」とした上で, r 英国

にとっての支那が,ここでも見られるように,同時にまた印度を意味した事 実を顧るならば……英国の国際的・極東的先頭性にも拘はらず,敢えて日本 問題に没頭できなかって所似も了解されるであろう。杭片戦争以後の事態に たまりかねて,

1856

年(アロー号事件)以後,英国は再び砲火を支那に用い なければならなかった。だが,その年までに,世界市場を東から輪廓的に完 成するための仕事が,皮肉にも

1848

年以後の北米合衆国に諜せられたのであ る」という卓抜した指摘をした。著者の研究は,この服部之総のそれに匹敵 するものというよりもむしろそれを凌駕するものと言っても過言ではないだ ろう。

残されていた(1)交渉条約と敗戦条約の区別の問題をここで取りあげよう。

著者は, 日本人の研究がこの区分についての理解を欠き敗戦条約と交渉条 約とを一括して不平等条約のなかにおしこめ,また不平等条約による従属国 と植民地とのて具体的かっ本質的な区別に鈍感で、あったと述べ,その理由とし て,①戦後にかぎ、って考えると, r アジアのなかの日本」を位置づけるため に,日本と他のアジア諸国との共通面を求めようと意図した結果,両者の相 違面の理解が遅れたこと,ならびに⑦日本近代史の起点が交渉による条約か ら始まったことが,アジア史ないし世界史のなかで「特殊なケース」であっ たことを正しく位置づけなかったこと,の二つをあげている(1 7 0ページ)。

これまでに日本近代史の起点=幕末の開国・開港がアジア史ないし世界史 のなかで「特殊なケース」であることに言及がなかったわけでは無論ない

。しかし,交渉条約から始まることの意義を正確に位置づけたのは,著者

(16)

も言うとおり,本書を以って鴨矢とする

o

従って,上記の二つの理由の内,

②については評者も異論はない。だが,①については異論なしとしない。

著者の場合, 日本と他のアジア諸国の歴史を比較して,共通面よりも相違 面に重点を置いていることは,これまで述べてきたことからも,明らかであ ろう。著者のこの見解は,例えば芝原拓自氏の「日本の資本主義化の過程そ のものが,インドや中国とおなじく,基礎的には,世界的規模での破壊=再 編の社会的変革を土台としていたこと,インドや中国などとの,いわば差異 性のなかにひそむ同一性が底流に存続しつづけたことーその位置と意義が まず解明されなければなるまい」という差異性よりも, 日本とアジア諸国と の同一性に力点を置く見解と鋭く対立するものである。

著者は,交渉条約と敗戦条約の区別あるいはアへン禁輸条項をメルクマー ルにして,相違面をまたそれが日本の「近代化」と独立にとって有する重大 な意義を明らかにされた。しかし,その相違面は,欧米列強のアジア諸国に 対する「外圧」がいわば「原因」となって生み出された「結果」と考えられ るのであって,まずもって共通面が強調されなければならないのではなかろ うか。共通面, とりわけ「外圧

J

に対するアジア諸国および日本の人民の抵 抗闘争という,すでにふれた要因がここでは重視されなければならない。そ の意味で「資本主義が日本の開国によって世界経済の環を完成したときは,

同時にその資本主義経済に引きずり込まれたアジア諸民族,諸国家と資本主 義侵略者との矛盾の環もまた完成されたときである……客観的には,資本主 義が世界を一つに結ぶと同時に,そこに必然、的に,反侵略主義諸勢力の国際 的な連関の基礎がそこにっくり上げられた。こういうことの上に初めて日本 の独立も可能であった」という井上清氏の指摘は,日本の開国・開港の問題 を考える際今日においても無視することができないものであろう。

(注)

(1)服部之総「明治維新の革命及び反革命J1933年,同「維新史方法上の諸問題」同年(

r

部之総著作集J理論社,第一巻, 1954年,所収入羽仁五郎「東洋における資本主義の形

J1932年(同『明治維新史研究J岩波書白, 1956年,所収)。

(2)これまでの研究をサーヴェイしたものとしては,石井孝他『世界資本主義と開港j

( r

(17)

加藤祐三著[黒船前後の世界J 121 

ンポジウム・日本歴史 j第14巻)学生社, 1972年がある。近年の研究の代表的なもの左 して,中村哲『世界資本主義と明治維新J青木書庖, 1978年,芝原拓自『日本近代化の 世界史的位置

j

岩波書信, 1981年,石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港J東京 大学出版会, 1982年,石井寛治『近代日本とイギリス資本一ジャーデ イン=マセソン商 会を中心に‑J東京大学出版会, 1984年,等をあげることができる。

(3 )加藤祐三氏のこれまでの研究のうち,評者が参照したのは以下の諸労作である。『紀行随 東洋の近代j朝日新聞社, 1977 i19世紀のアジア三角貿易一統計による序論一j

f横浜市立大学論集

j

30巻第23合併号, 19793

r

イ ギ リ ス と ア ジ ア ー 近 代 史の原画

j

岩波新書, 1980 i植民地インドのアへン生産 1773‑1830

j

r

東洋文化 研究所紀要J83 19812 i中国の開港と日本の開港

j

,石井寛治・関口尚志編,

前掲書,所収, i幕末開国考ーとくに安政条約のアへン禁輸条項を中心にして‑

j

, 

r

浜開港資料館紀要J1 19833 iギュツラフ『所見J(1845年)と東アジア

j

『横浜市立大学論集J36巻第23合併号, 19853

(4 )詳しくは,加藤祐三 i19世紀のアジア三角貿易一統計による序論

‑ j

を参照。なお,こ の三角貿易が崩壊するのは,①インド・セイロン産の紅茶の急増,①中国産アへンの増 加に伴うインド産アへンの衰退,①インド産綿糸の対中輸出増,の三つの原因によると いう。向上;67‑68ページ。

(5 )加藤祐三「中国の開港と日本の開港

j

217ページ。

(6)著者は従来の研究として,田久保潔『近代日本外国関係史j万江書院, 1930年,秋本益 利「黒船の渡来と神奈川条約

j

r

横浜市史

j

2巻所収, 1959年,石井孝『日本開国史J

吉川弘文堂, 1972年,をあげている。

(7)佐藤昌介『洋学史研究序説 j中央公論社, 1964

(8)井上清『日本現代史I 明治維新J東京大学出版会, 1956年,芝原拓自「明治維新の世 界史的位置

j

r

歴史学研究J(別冊特集), 196110月,等参照。

(9)芝原拓自『日本近代化の世界史的位置J83ベージ。

(10)服部之総『黒船前後・志士と経済J岩波文庫, 1981 34ページ。

(11)加藤祐三氏は, i19世界のアジア三角貿易一統計による序論

‑ j

において「アジアの三 角貿易について,一般的なことは知られているものの,具休的データに基づく分析にな ると皆無に近い。……中・印・英の三角貿易を本題とした専著は,管見ながら私は知ら ない

j(67‑68

ページ)と述べている。この未開拓の分野に挑まれた著者の研究の意義は 大きい。

(12)加藤祐三「植民地インドのアへン生産 1773年一1830

j

60ページ, 74‑75ベージ。

(13)加藤祐三 i19世 界 の ア ジ ア 三 角 貿 易 一 統 計 に よ る 序 論 ‑

j

, 82‑89ページ。

(14)加藤祐三「中国の開港と日本の開港

j

217ベージ。なおイギリス=インド・中国=日本 を視野に収め考察を進めていくのは,

r

紀行随想 東洋の近代j以来著者の場合一貫姿勢

(18)

である。

(15)

加藤祐三,向上論文,

196

ページ。

(16)

毛利健三氏は,①イギリス資本主義にとって輸出工業が占める地位,①イギリス輸出工 業にとって綿工業が占める地位,①イギリス綿工業にとってアジア市場が占める地位,

の三つを確め,イギリス綿工業にとってアジア市場の貢献性は動かすことのできない明 白な事実であると主張する(同「イギリス資本主義と日本開国j,石井・関口編,前掲書,

38

ページ)。また,芝原拓自氏もその報告(同「日本の開港=対応、の世界史的意義

j

,向 上書,所収)において外国製品の日本・中国の浸透について語るが,アへン輸入の問題 は捨象している。それは,多分「この悪名高い三角貿易一イギリス(工業品) 一 イ ン ド(アへン)一中国(茶)ーのなかで発展したインドのアへン輸出は,しかしながら,

第一次アへン戦争の挑発,第二次アへン戦争と天津条約

(1858)

によるアへン貿易の合 法化にもかかわらず,その後は停滞し衰退していった

j

(同『日本近代化の世界史的位置.1,

63

ページ)という誤認に基づくものであろう。

(11)

加藤祐三「中国の開港と日本の開港j,1

96

ページ。

(18)

田中正俊『中国近代経済史研究序説

J

東京大学出版会,

1973

年 ,

172

ページ。

(19)

服部之総「幕末における世界情勢及び外交事情

j

, r 日本資本主義発達史講座

J

第一回配 本 ,

1932

年,岩波書庖,復刻版,

1982

9

ページ。

(20)

向上,

12

ページ。

(21)

例えば中村哲氏は,

f19

世紀の非欧米地域(アジア,アフリカ,ラテン・アメリカ,オセ アニア)の諸国・諸民族は欧米列強の植民地,半植民地,従属国として世界資本主義の 最底辺に組み入れられていったのであって開港後の日本も基本的にはその一員であった。

しかし日本のみは,その後急速に資本主義化し,さらに帝国主義国に転化していった。

世界市場への包摂が一面では欧米資本主義への従属的経済構造をっくりだすとともに,

他面,自立的な資本主義的国民経済の形成を促進したのであり,この点に日本の開港の 世界史的特殊性がある」と指摘している。中村哲,前掲書,

112

ベージ。

(22)

芝原拓自,前掲書,

26

ページ。

加)井上清「日本帝国主義とアジア j,歴史学研究会編[世界史におけるアジア j(歴史学研 究会1

953

年度大会報告),岩波書庖,

1953

年 ,

121‑122

ページ。

(加藤祐三著 f 黒船前後の世界

J

岩波書庖,

1985

年1

1月刊)

参照

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