インドにおける俳句
著者 ワルマ サトヤ B.
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 1991年6月11日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑34
発行年 1992‑09‑10 その他の言語のタイ
トル
"Haiku" in India
シリーズ 日文研フォーラム ; 33
URL http://doi.org/10.15055/00005742
第33回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
イン ドにおける俳句
"Haiku"inIndia
■
サ トヤB.ワ ル マ
SatyaB.丶 奄rma
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海外
の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあります︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立っている
わけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議論や
情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒このフォー
ラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究者が自由な
テーマで話が出来るように︑文字どおりインフォ!マルな﹁広場﹂を
提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォーラ
ムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長梅原猛
● テ ー マ ●
イ ン ドにおける俳句
"Haiku"inIndia
● 発 表 者 ●
サ トヤB.ワ ル マ
SatyaB.Verma
発 表者 紹介
サ ト ヤB.ワ ル マ
satyaBhushanVerma
ジ ャ ワ ハ ル ラ ー ル ・ ネ ー ル 大 学 教 授
1932年 、 イ ン ド ・パ ン ジ ャ ー ブ 州Rawalpindi生 ま れ 。1952年 、 パ ン ジ ャ ー ブ 大 学 卒 業 。1954年 、 デ リ ー 大 学 大 学 院 で 修 士 号 取 得(ヒ ン デ ィ ー 文 学 専 攻)。
1959年 、 ウ ィ シ ュ ワ バ ル テ イ 大 学 に て 日 本 語 デ ィ プ ロ マ 取 得 。1962〜65年 、 日 本 に 留 学 。1981年 、 ジ ャ ワ ハ ル ラ ー ル ・ネ ー ル 大 学 よ り 博 士 号 取 得 。1952〜71 年 、 パ ン ジ ャ ー ブ大 学 、 ウ ィ シ ュ バ ル テ イ 大 学 、 ジ ョ ー ド プ ル 大 学 の ヒ ン デ イ 文 学 部 助 教 授 を 経 て 、1974年 よ り ニ ュ ー デ リ ー の ジ ャ ワ ハ ル ラ ー ル ・ ネ ー ル 大 学 で 日 本 語 日本 文 学 助 教 授 、 準 教 授 、 教 授 と し て 教 鞭 を 取 り 、1986年 よ り 東 ア ジ ア 言 語 学 部 主 任 教 授 。1991年1月7日 よ り92年1月6日 ま で 、 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 客 員 教 授 。
主 な 著 書:
1964年 レオ ・ ヒ ュ ー バ ー マ ンの 著 作Man'sWorldlyGoods(小 林 良 正 ・ 雪 山 慶 正 両 氏 に よ る 邦 訳 の 題 は 「資 本 主 義 経 済 の 歩 み:封 建 制 か ら 現 代 ま で 」 岩 波 書 店 、1953)を 英 語 か ら ヒ ン デ ィ ー 語 に 翻 訳 、 イ ン ド の ナ シ ョ ナ ル ・ ブ ッ ク ・ ト ラ ス トよ り 出 版 。
1977年 日 本 の 短 歌 と 俳 句 を ヒ ン デ ィ ー 語 に 翻 訳 、 デ ー ヴ ァ ナ ー ガ リ文 字(サ ン ス ク ッ リ ッ ト 。 ヒ ン デ ィ ー 語 な ど の 表 記 文 字)で 表 し たJapani Kavitaen及 び 日 本 の 詩 歌 に つ い て の 序 論 。
1983年 日本 の 俳 句 と現 代 ヒ ン デ ィ ー 語 の 詩 の 比 較 評 論 、JapaniHaikuaur
AdhunikHindiKavitaを イ ン ドの メ ラ ー ト市 ヒ ン デ ィ ー ・ ヴ ィ カ ス ・ ビ ー ト社 よ り 出 版 。
1989年:LiteratureinTranslation(翻 訳 さ れ た 文 学)を 監 修 。 ボ ン ベ イ の ポ プ ラ ー ・プ ラ カ シ ャ ン 社 よ り 出 版 。
アジアで最初にノーベル賞を受賞したロビンドロナト・タゴール(国9ぴぎ脅9コp甚
目pσqo居Φ)は一九一六年に日本をはじめて訪問した後︑日本の旅行についての﹁ジャ
パン・ジャトリ﹂(日本紀行)という本をベンガル語で書きました︒この旅行の
本の中でタゴールは俳句も紹介し︑ベンガル語の翻訳で芭蕉の二つの有名な俳句
を例として挙げています︒その俳句は
古池や蛙飛び込む水の音
と
枯れ枝に鳥のとまりけり秋の暮れ
です︒
ベンガル語の翻訳では
プロノプクルベンゲルラーフジャレールシャボド
または
ポチャダールエクタカークシャロトカール
一1一
となっています︒
タゴールは読者に俳句を紹介するに当り次のように語っています︒﹁世界のど
こにも三行詩は存在しない︒しかし︑日本の詩人と読者には︑わずか三行でこと
たりる⁝日本人の心は泉水のようにごぼごぼ音をたてない︒湖水のように静
かである︒﹂タゴ!ルの日本紀行は︑おそらくインドのことばで書かれた最初の
俳句についての紹介をした本だと思います︒
インドはたくさんの言語がある国です︒そしてそれぞれの言語が豊かで文学的
かつ歴史的な伝統をもっています︒多くの古いインドの詩型は短くて︑深い意味
をもっています︒たとえば︑ヒンディー語のドーハまたはバルウェとか︑マラテ
イ語のオビとか︑パンジャービ語のボーリ又はマヒヤとか︑タミル語のテルクラ
ルなどがその例です︒サンスクリット語のスートラ(経)も︑聖なる教の内容を
短い文句で簡潔にまとめたもの︑という深い意味を持つ言葉を用いた短い歌と同
じものです︒このように簡潔な形態の詩のあるものは︑俳句に大変似ています︒
日本での仏教の考え方︑または人生に対する禅の教えというものも︑インド人の
心には異質なものではないのです︒インドの詩の内容は︑ことばによって直接に
表現するのではなく︑暗示的に富んだものです︒一つの例をあげてみましょう︒
一2一
理轟劉叩鈔創却鉱
朝卿釣到魂測評窯︑引扇ゴ
123456789
ウェコエリアンボラデイアン
0123456789111111111ー
カデボールチャンダレヤカワンー
これはパンジャービ語のマヒアと呼ばれる形式の詩から取ったものです︒これを
日本語に訳すると
一3一
コーエルが歌っているのに
なぜおまえは歌わない
ああ︑いじわるな烏
このもとの詩はたったの十八字です︒そして簡潔に表現しています︒コーエル
(オニカッコウ)はマンゴーの木に花が咲きはじめるころに歌うインドの鳥です︒
この鳥はあまい歌声をしているということで︑大変歓迎されています︒そしてま
た︑春の季節を伝えるのもこの烏です︒一方︑聞き苦しい声で鳴く烏などだれも
聞きたく無いでしょう︒烏もコーエルも黒い鳥です︒きょうはコーエルが歌って
います︒そして︑烏は黙っています︒でもコーエルの歌声は若い乙女にとっては
嬉しくありません︒というのも︑インドでは烏が恋人のメッセージをもってくる
という伝説があります︒だから乙女たちは烏にロを開いて欲しいのです︒
インドの現代文学は西欧の近代文学の深い影響を受けています︒西欧の文学運
動はすべてインドの文学界に波及して行きました︒俳句もインドの文学の世界に
英文学を通して紹介されたものです︒俳句の初期の翻訳者の多くは俳句の簡潔さ
を重視しないで︑十七文字をもとの俳句にない韻律や説明を自由に加えて翻訳し
ました︒それは西欧の読者に︑その翻訳をわかりやすくするためでした︒もとの
俳句がどのように翻訳されているかをここで一つ例を挙げてみたいと思います︒
一4一
花の雲鐘は上野か浅草か
英語の翻訳では次のようになっています︒
>OδβαOh巨○ωのObPの
国9同Pロ島⇒Φ9同
日﹃Φ⇒ω≦Φ①けP]P創O一Φ9﹃
ミげPけげΦ目δけげ9け
弓﹃鉾9彎日ωヨ図Φ鶏
Hωけげ9けdΦ昌OO同﹀ωP犀βロD9
これを日本語に訳してみますと
花の雲遠くて近い甘く澄んでいる
なんの鐘か私をうっとりさせてくれるのは
上野の鐘か浅草の鐘か
これではもとの俳句の説明文になってし翫います︒
もう一つの例を挙げて見ましょう︒これは芭蕉の句です︒
一5一
夏草やつわものどもが夢のあと
ページ(○出始pσq①)による英訳は次のようになっています︒
○冠冨琶①ぽ5マΦ9≦畧ゴω嘆汐σq鴨δ妻①目pσq巴コー
k♪一一け﹃9け一の一①hけOh⇔犀Φα同①9bPω
Ohけく﹃一〇⑩けΦb[♂げOd﹁の9b[α<¶Φ︑﹃居一〇弓のω一9一b[
古い戦場いまは春の花がまた咲いている
夢のあとに残っているものは
惨殺された二万人の兵士達
もとの俳句はこれほど沢山の事柄を言ってはおりません︒もとの句の中で示唆し
ているものを︑俳句の伝統に馴染みのない読者のために︑翻訳の中で説明してい
るのです︒
一s一
日本語の知識もなく︑また︑もとの俳句に直接に接することもなしに︑インド
での俳句に対する関心は︑このような翻訳を通して始まり︑発展していきました︒
インドの詩人の幾人かは︑インドの言語で俳句とおなじような短い詩を書き始め
ました︒一九五〇年代に︑短くて︑しかも豊かな表現力に富み︑形式は自由とい
う︑新しい詩の形式が生まれ︑発展しました︒ヒンディi語の短詩から︑いくつ
かの例をあげてみましょう︒
刈急聾・扇多鎚矧コ﹄磐唱艶β乳勲81鼻艘昌引衝ヨ
一7一
最初の夕立
空は根を
地に投げつける
窟コ翻
周囚鱒脚冲司却斗ー
到卦・岬均戯蜀醐
蝶々は
花から花へ飛んでいく
春の神のラブレター
犁劉雌凶孝虱ヨ
の戯ヨパ倒刈知
邸型剣刈う頚聾砧
ゆゆ迎刷パ型﹄知一
一g一
6 雲の中の月
隠れん坊をして
穴を探している兎
左の詩は詩人の且から見た飛行場のことです︒
レタ賃蚕饗引
珥多貝多辞聟
泊囲ヨ罫調馴錯衷毎煙
畠ヨ卯轡
セメントの湖
遠く広く広がっている
アルミニウムの白鳥が泳ぎ
そして飛びたっていく
一g一
当時︑インドでは政治的︑また社会的に変化が多く︑不安な時代でした︒この
形式の詩は社会風刺や機知を主なテーマとして︑いろいろな名称で流行しました︒
俳句に興味を持った多くのインドの詩人たちは︑俳句をそれぞれ自分の言語に
翻訳して紹介しました︒そして︑自分の言葉で俳句を書き始めることさえしまし
た︒しかし︑彼らの詩のほとんどは五・七・五と言う韻律を守らず︑季語も無視
したものでした︒このような作品が俳句として出版されているのは︑詩人たちが
その詩を俳句と名付けたからでした︒一九五〇年代にはインドの多くの文学雑誌
が︑俳句についての紹介論文や︑俳句の英訳からのインド語訳を記事としてよく
載せていました︒ここでインドの各言語の中で俳句がどのように扱われているか
をみてみましょう︒
ωアサーミi語
アサーミー語の詩人ニールマニ・フコン(ヴ臼①O一bPPづ一]円G﹁犀Pb﹁)は日本の俳句をアサー
ミー語に翻訳し︑﹁ジャパニ・カヴィタ﹂(日本の詩)という題で一九七一年に出
版しました︒この本の中には俳句を含めて︑七十三人の作品︑九十三篇が紹介さ
れています︒紹介された俳人は守武︑芭蕉︑嵐雪︑来山︑鬼貫︑其角︑凡兆︑蕪村︑
良太︑蘭更︑一茶︑子規︑句仏などです︒本の前書きはヒレン・ゴサイ博士(∪同.
国貯ΦロΩoω巴)が書いたもので︑日本詩の美意識についての学問的な緒論となって
います︒翻訳は原作に忠実で︑もとの俳句の簡潔さをとどめています︒
一10一
②ベンガーリー語
タゴール(幻ゆ甑巳蠢蠧爵弓9σqO同①)の日本の旅行記についてはすでに述べましたが︑
タゴール自身は二.三行の詩も多く書き︑このような詩を.︑ω讐qぎσq︑︑(火花)とい
う題の作品集で発表しています︒タゴールはこのような詩を書くに当たり︑俳句
からどのくらいの影響を受けたかを知るのは難しいですが︑このような詩のほと
んどは一九二四年に彼の二度目の日本旅行中に即興的に書かれたものです︒
﹁タゴール著作集﹂第二巻に︑この詩集の日本語訳が﹁螢﹂という題で収録されて
います︒森本達雄氏は後書きの解題の中でこの詩について次のように書いていま
す︒コ九二〇年五月から一年二ヶ月にわたって︑タゴールはふたたびヨーロッ
パからアメリカへ︑ついで二四年三月から七月にかけて中国・日本を訪れた︒中国
や日本では︑行くさきざきで﹃扇面や絹布に揮亳所望される﹄と︑詩人は多くは
即席で︑短詩(ここには︑多分わが国の俳句の影響がみられる)を書いて求めに応
じたが︑それらはまぎれもなく詩と叡知の飛び交う火花であった︒﹂..ω肓p図国aω.︑
という題で出版された︑この詩集の英訳をタゴールは﹁横浜のバラ氏﹂に献げ
ています︒この詩集の中の一つの詩は日本についての詩人の印象をこう語ってい
一11一
ます︒
釦ヨヨ3ヨバヨ出窯凸刈
ヨ引刈到増頚剣創一・
鼠創劉剃靜国コ罫姻
翌コ﹄聾刻争到引一
ああジャパーン汝の海は落ち着かない
陸地は穏やかで
山々は険しく密集している
公園はやさしい緑色
一12一
日本は確かにタゴールの心の中に深く影響を与えていることに違いがありません︒
タゴールの短詩の中から二つの例をあげてみましょう︒