比 較哲学の根本問題︵その七︶
真理と認識
法華教学に至る資料とその考察
伊
藤
王 山而
叡
す︒
八 フ ッ
セ ル 哲 学
(11現象学的認識論︶と世親哲学︵11 主 観的観念論ないし観念論的認識論‖唯識説︶と比
較し図解して対照する
法華経・十地経の一乗思想三乗説を論じて︑そ
の 真俗二諦説に及び︑もってフッセルの二還元
論と比較対照する フッセル現象学の体系は︑構造として唯識教学の体系に類通し照
合する点が多分であるから︑両体系は比較研究の要ありと考える︒
よって︑フッセルの現象学的実在論︵二経験論︶と世親の観念論
的認識論︵11唯識説二合理論︶とを比較して構造機能分析し︑対照
して図解を表示しよう.︑
しかして︑両者の異同特徴を解明する.︑
しぱしば キ ワ ド しる
尚︑便宜上︑屡︑括弧を示して比較される他思想の基軸用語を記
ー カントのコペルニクス的転回とフッセルの自由変更と世親
唯識の反転変更
フッセル現象学は︑意識の場面から如何なる過程を辿って世界と いう確信にまで至るのかを︑厳密な形式で記述してゆこうとする..
すなわち︑現象学における真理︵▲ astitva有性11実在性︶とは︑
したがって︑意識︵▲ citta−matra唯︐? − eka−citta 1心︶が自己︵﹈
自分︶を構成し︑他我︵二相分︶をも構成し︑諸事物や諸理念や諸
意味やをも構成し︑かvして結局︑世界︵▲traidhatuka三界
← dvadaSa−bhav2hgani十二有支︶を構成してゆく道筋︵▲く言①O亭
matratva−唯記識性︶であり︑それを誰もが客観的に学び取れるよ
うな仕方で言葉に定着せしめること︵▲ vyavasthapana安立︶をもっ
て︑明証されるものである︒
比較哲学の根本問題︵その七︶ ︵伊藤︶
法華文化研究︵第四ト三号︶
これは︑已に第四十六図の世親唯識論比較体系図に比較対照可能
である..
よって︑フッセル哲学は︑カント批判論の目的が︑知識は如何な
る権利根拠によって客観性を主張しうるか︑道徳の法則は如何なる
む
根 拠 で行為を規定する道徳性たりうるかを問う権ffscwo ︵quid juris︶
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へにあるのに対して︑ yogacarin・世親唯識の目的が︑知識が心内に
む む如何に生じて展開するかを問う事実問題︵Ω⊆α↓①〇三にあるのに
照 合する︒︵この点において︑フッセル現象学は世親唯識説に比較の 規準として適応する︒︶
エ ず ア
しかも︑フッセル哲学は︑自然的態度の自由変更︵二判断中止︶
によって純粋意識の事実に還元する︒この自由変更というのは︑カ
ント哲学の︑主観が客観に準拠するとする主客の関係を逆転せしめ
て客観が主観に準拠するとするコペル一一クス的転回
コ ヘ
ア
ニ
みラ ニシニヴェノドゥンプ
ko
pernikanische VVendunσに類通する.︑
む
しかし︑フッセルは︑事実問題として一切の事実を純粋意識に還 元するのである.︑
これに対して︑カントは︑権利問題として︑知識に形式と素材と
を区別して︑主観のもつ形式こそが認識を成立せしめ認識の対象た
る客観を可能ならしめる根拠である︑と論ずる点で決定的に異なる︒
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
すなわち︑カントの客観が主観に準拠するというコペルニクス的
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
転回と︑フッセルの一切の事実を純粋意識に還元するという自由変
ux ︵freie Variation︶とは︑世親唯識︵くoσq︑鋤8ユコ︶の主張する唯 識無境︵11三界即唯心・十二有支皆依一心一唯識有境︶の学説︑す ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
なわち有外境説・諸法空説・色心互薫説に対する反転変更︑これに
類通し対比されるに好適である一︑
しかも︑カントの云う主観︵11感性・悟性・理性︶は︑フッセル では志向性をもつ純粋意識であり︑世親では前六識︵H了境能変︶・
第六識︵‖思量能変︶・第八識︵‖異熟能変︶となる..
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
カントの云う認識の先天性である普遍性・必然性とは︑唯識説で
の 識のnvtLF ︵bija︶に類通し対比される︐
しかし︑種子は︑自業の果報のaur上−R ︵svakarma−vipΦk
ad
phiatya︶でもある業の薫習による習気の果︵天③﹁ヨ①−<鋤ω①⊃?
phal
a︶をもつ︐唯識説は︑カントの先天性の普遍的必然性に対し
て︑その差異性ありとして︑その根拠を明すのである︒︑
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ
フッセルの﹁自然的態度は︑日常経験の積み重ねにより生じた習 eg#1 ︵gewohnheit︶による﹂とは︑世親唯識での業薫習種子説︵11
al
yaa−bija−vada頼耶種子説︶に類通するも︑習慣性もって純粋意識
に内在する本質的属性とまでは考えていない︑
カントは認識の対象たる客観を可能ならしめるのは︑認識の先天 性 である普遍性であると云う︐
世 親 唯 識 は 種 子として生起し色境等として似現︵鋤bh輌sa︶する
こと︵すなわち識の転変≦コ鋤コ①−8﹁5輌ヨ③︶であるとする..
フ ッ
セ ルは︑純粋意識の志向性であるとする︒
2 比較の観点より見ると
すで ヘ ヘ ヘ へ
筆者は︑已に︑比較哲学の見地より︑仏教思想史上の説明大乗と
いわれるくooロ.鋤o鋤ユ⊃の唯識ss︐ ︵vijfiapti−matra−vada︶ ︵l︶位置と 役割について︑私見により︑スペキュレーションとして規定︵とな
る︶仮ms ︵hypothesis︶を提示した︒それは︑左の如し︒
9 Vaibha$ika ︵毘婆沙師︑広解注釈家︑有部︶の実在論的存在論 は︑独断的・合理論的・スコラ的形相︵11形式︶主義であり︑
M鋤dhyamaka ︵ = madhyamika中観派︶の観念的存在論は︑
啓蒙的・合理論的・形而上学的思弁主義であり︑
Sautrantika ︵経量部︶の実在論的認識論は︑懐疑論的・経験 論的・心理学的現実主義である︒
② yooacaユ⊃︵11くo帥qOnO日喩伽行派︶の観念論的認識論は︑
Vaibha$ika g実在論的存在論とζ注言①∋①書の観念論的存在論
とを︑o力autrantika g実在論的認識論を媒介として︑︵止揚して︶
ss︿alvsNPalstwuas ︵kritischer Idealismus︶として成立する︑
③ tt−0 Vaibha$ikaAJ Madhyamakaとの合理主義のもつ存在論的 な有・無の空疎を︑経験的現実性︵11生存の直接性︶としての識
︵vljnana︶をもって還元的に代置して︑仏教心理学における心識
ms ︵citta−vijriana−vada︶を形相︵11形式︶的に純化することによっ
比 較 哲学の根本問題︵その七︶︵伊藤︶
て︑方法的自覚化として成立する︑
④ 別言すると︑有限で経験的な人間の個人的な意識の立場から︑
︵悟性く巽ω訂ロロとしての︶識︵<言ぎ①︶を運用し転化しうる地平 ヘ へ として︑︵glV$−H Vernunftとして︶の唯me ︵vijfiapti−matra︶ gms造
ヘ へ と仏境︵9合9吋・∩ぼ巴の機能との必然的関係を分析し総合す
r︿p︑ twpmwnfi ︷* ︵experimental philosophy︶ g立場を確立する︒
ヘ ヘ ヘ へ
旧 要するに︑有・無という︵諸法の真性を研究する︶実体概念︵の
ヘ ヘ ヘ へ
立場︶より唯識という︵諸法の性相を分析する︶機能概念︵の立 場︶への推移を意趣しているから︑フッセルの用語を借りれば︑
形
相
(11形式︶的還元を確立しているに外ならない︒
かvして︑第三十六図︑仏教基本四学派思想分解比較図を提示し
たが︑これに比較対照できるように︑フッセル哲学を私流に︵11思
想 の 形 成を構造分析すべく︶分解し蛮勇をもって概括して12条に要
約すると︑左の如vなる︒
3 フッセル哲学の︵形成構造の︶分解要約
① フッセル哲学は︑独填学派の︑ことにブレンターノとボルツァー
ノの直接的影響の下に成立する..
②ブレンターノ ︵Franz Brentano 1八三八ー一九l七∀は︑記述 うち
心 理学の立場にあって︑精神現象とは中に対象を含み対象との関
法華文化研究⌒第四+三号︶
むか ③ ︷M︷︷. ︵Bewusstsein︶とは常に﹁︵11必ずある対象への関係とし ヘヴストザイン 係において成立するとして︑作用と対象とを分ける︒
てある︶何ものかの意識﹂であり︑ある対象へと向うという志向
インテンツイオ ナリテエト su ︵Intentionalitatこれは中世スコラ哲学より受けつがれた概念︶
を特性とする︒
デ ゲンソユタント④ し︐Ze? Q ﹈︑ Rex ︵Object︐ Gegenstand︶が対象であるのは意
識 の 志向性においてであり︑対象が実在するか否かに関わらない︑
とする︒要するに︑意識の内部知覚を観察して構成要素や諸関係 として記述しようとする︒
◎ 論理学者ボルツァー−x ︵Bernhard Borzano 1七八 ー一八四
八︶も︑意識の作用と対象を分け︑しかも対象そのものを意識か らも事物からも引き離して︑表象自体とか真理自体とかも︑客観 的に存立するものとして論理的に取り扱うことができる︑即ち︑
表象自体は心的現象としての表象からも外的対象からも区別され て︑対応する対象をもたない表象そのものの意味として存在する︑
とする︒
⑥ すなわち︑ブレンターノによると︑意識はそこに﹁赤いもの﹂
が 実在するか否かに関係なく︑単に﹁赤﹂を対象として志向して いるが︑ボルツァーノによると︑﹁赤﹂はそれを意識する作用を離 れ て 表象自体として存立する︑というのである︐
⑦ フッセルは︑両者を総合して哲学の唯lの領域として︑事象そ
四
ツァ ザトヘゼルプスト
のものへ ︵Zur Sacheselbst︶をモットーとして︑直観に与えら れ て いるものを根本としながら︑純粋意識の事態を究明し︑その うちに現れてくる純粋現象を記述し分析しようとする︒
⑧ およそ︑私どもの日常的な自然的態度は︑外界の存在を信じきっ
て いるが︑しかし外界が︵そのように︶存在するか否かについて はにわかに判断は下しがたいではないか︒
エ ポ ケ⑨ よって︑先ず判断中止︵80合⑳これはギリシャ古代哲学懐疑派
の 言葉︶を行なって自然的態度を排除する︒それによって残ると カっこ アインクラマァン ころの﹁根源的に絶対的に与えられる﹂もの︑それは純粋意識で ある︒赤いものの外的存在を括弧に入れ︵Φゴ三①ヨヨΦ﹁⊃︶て赤の 知覚だけを残すと︑赤の体験は何ら相対的ニュアンスをおびずに 意識に相対的に与えられている︒この手続きを自然的態度からの
ファノミノロギ シェレドゥクツノオ ン
現象学的還uR ︵phanomeno一ogische Reduktion︶と呼ぶ︒
⑩ しかし︑それは意識体験としての赤にすぎない︒これを自由変
フライエヴァリアツィオ ン ux ︵freie Variation︶を行なって普遍的な赤の本質︵‖形相11意
味︶に還元する.︒自由な想像によって赤い花︑赤い炎︑赤い血と 意 識を変えてみて︑それでも変わらずに直観されて残るもの︑そ れ が赤の普遍的本質︵意味︶である︒これを赤の先天的な本質直
イ アアノィオ ン wr ︵− ldΦationイデー化的抽象︶というUこの本質はギリシャ哲
学 で いう形相︵①己o切︶であるから︑この手続きを形相的還元
ロノ ィ リア ゴア イ リノ リ レトコゥクソィナジ ノ ︵eidetische Reduktion︶と呼ぶ︒
⑪ この中︑現象学的還元はブレンターノの云う意識の志向的対象
を︑形相的還元はボルツァーノの云う表象自体を︑それぞれ承け
たものであろう..
⑫ かvして︑この1lつの還元によって︑世界を純粋意識の中に内 ハしザ
在 化し純粋現象として構造づけているのである︒
4
フッセル現象学と世親唯識説との形成次第
以 上により︑比較の規準を︑
(U事象そのものへ×法性その.Pの ︵dharmata︶へ︑
② 純 粋 意識×唯記識︑
③自然的態度×有外境説︵u人無我法有我説︶×人法二無我説︑
④意識の志向性×色心互重読︵←頼耶種子説︶
⑤表象自体×無自性空︑ ︑?
の 五ポイントに絞り︑フッセル現象学形成次第を分解し︑世親唯識 説 形 成次第を分解して︑各々の図解を作成して対照すると︑左の如
Vなる︒ 第四十九図 フッセル現象学形成分解図
事象そのものへ(Zur Sache selbst=zu den Sachen selbst)
現象 eine 超越論的
主観 transzen一 純粋意識
das reine Bewusstsein
(ブレンターノの意識の 志向性intentiona!itat)
(判断中止epocheによる)
現象学的還元一一一→
phanomenologische Reduktion
自然的態度 der natUrlichen Einsteliung
︵経験的超越的︶・1外界の存在を ︵実在すると︶信じきっている1
l l(ボルツァーノの表象自体 l Vorstellung an sich)
(先天的)
形相的還元一→
eidetische Reduktion
1 普遍的本質 dentales Phanomenon
膿:㌣1ふb㎞︵當勺︶︵=本質的形相wesentliches .Eidos︶
比 較 哲 学 の 根 本 問 題
(そ の七︶︵伊藤︶
五
法華文化研究︵第四十三号︶
第五十図 世親唯識説形成分解図
諸法の法性へ(Zur Dharmanaln dharmata)
{ 経験論(Empirismus)
] ValbhaSlka l (=Sarvas品vadin) 説_切有部 | 人織(,。d、。1∋
Sautrantikal realistisch−
(ニDr 融〕ta−vad丘1) Erkermtnislehre
㌶:性 震萎・i︒︐︒︒︑︒n︑li︐︑︑ v苧鑓 1 運ライプニッッの経験
ideal三stisch 孕≡
腋㎜託㎞
藷讐苔㌍雛醸垂欝鞭 る
ライプニッッの経験 主義的理性的観念論 懐疑論(Skeptizismus)
ノ\無我 Cpudgala−
nairatInva) 法有我
Yog acarin l
〔=Vijfiapti−matra−vadin)
唯記識 人法二無我
{pudgala−dharma−
nairatrnva)
↓
カントの批判論CKritizismus)
としての認識論的観念論 合理論{Rationalismus i
idealistisch 独断論D・gm・ti・m・・) O。t。1。gi,
↑ ウ
Madhyamaka〔=Madhyamika) 蕊 し
有外境説
(bahyartha−vada)
realistisch Ontologie
諸( 法 は
て か存在しな 観念とし い と見る︶
観念編的存在論
〔=Niりsvabha−vadin}
無自性空(asvabhava−SUnyata)
表象自体(Vorstellung an sich)
としてしか存在しない?
実在論的存在論 諸(法を実在とし て存在する︑と
見る︶
ノ、
5 両思想の一般的比較 丁︶に﹁現象が意識に現われ意味づけられる﹂とあるのは︑世親唯 識 の 似現︵作用︶S︐F. ︵prabhasa−vada︶ ・転変説︵O①riロama−vada︶
に︑照合するか.︑
F何ものかについての意識︵11志向性︶﹂とあるのは︑経量部の色
心 互薫ms︐ ︵rapa−citta−anyonya−ぐasana︶を予想せしめるtt 第一志向性とは唯識説の前五識︵11了境能変︶に︑第二志向性と
は第六意識︵‖了境能変︶・第七末那識→思量能変識11自我意識︶
に対応するが︑別して純粋意識が第八阿頼耶識︵‖異熟能変識︶に
対応するものではないか..
⑪に云う﹁自然的態度﹂︑⑪に云う﹁意識の外部に存在者が初めか
らある﹂とは︑説一切有部・経量部等の思考態度︑いわゆる有外境
ms,
︵bahyartha−vada︶に照合する.︑
⑩に云う﹁態度を変更して対象︵一三界︶を意識︵一唯心︶に還 元する﹂とする現象学的還元︵一三界即唯心︶は︑唯記識ms︐ ︵vijfiapti−
matra−v鋤da︶に照合する︒
ボ ヘンスキ−の所見25条の中︑21に﹁主体は客観に関係し︑客観 は 主 観に与えられたものとして現れる﹂とあるのは︑経量部
(Sautrantika︶ g色心互薫説に照合するが︑22・23・24に﹁実在性は
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
志向性をもつ意識の上に現象するものでしかない﹂は︑世親唯識説
の 似 現
(作用︶論︵o日二ひ冨゜・甲く注巴に照合し︑25の﹁多数の主観
へを承認する﹂というのは︑多数の主観の根拠︵‖志向性︶として慣
ヘ ヘ へ習を認めるから︑︵薫an vasana︶urzaswN.ms ︵alaya−bija−vada︶を予
想せしめる︒
私 の別言の21条は︑現象学的還元を説けるもの︐
その中︑ω〜倒に﹁相対主義における認識︵n思惟︶と対象︵11 存在︶との一致を︵神によるとか︑二元分裂を認めるとか︶如何に
解決すべく﹂云々とあるの﹇t1︑ Sautrantika S色心互薫説の思考段階
にある︒ 唯識説では︑﹁世界のありのM6ま ︵dharmanarp dharmata = vas−
tutva︶ ﹈が﹁意識のありのま6 ︵=三界即唯心11ωぼく①日く言巷字
matrakam︶﹂であるというにあり︒
g・⑫・⑬に示される伝統的認識論における自然的態度とは︑
ぐaibha$ika ︵分別者11毘娑婆師︶の説一切有部︵°りarvasti−vadin︶ g
思考段階にある︒
②・⑥〜03に︑﹁伝統的認識論の︑私は私を含む世界を認識するを 反転︵判断中止‖エポケ︶させて︑世界の存在は認識する私の意識
(−純粋意識︶による﹂・﹁私にとって世界という確信が如何ように現
れてvるかを記述する﹂とあるのは︑世親唯識説の似現論
(pratibhasa−vada︶ ・唯識無境︵二有境︶説に照合する︒
⑭
に
「真
理とは意識が自他・世界を構成してゆv道筋を記述する
にある﹂︑⑮・⑱に﹁客観物のありのままは言表しえないが︑意識が
比 較哲学の根本問題︵その七︶︵伊藤︶
世 界を如何に構成してゆvかは言表しうる﹂︑個・⑰にr真理とは意 識 のありのままを言表するにある﹂とあるのは︑世親唯識説におい
て諸法の︶.t︷.#1 ︵dharmanam dharmata︶ = astitva ︵有性‖実在性︶
であり︑それは諸仏の対ms ︵buddhanam vi$aya︶であり仏の行境
(bu dd ha−gocara︶であると説く唯記識msi ︵vijfiapti−matra−vada︶に 照合する︒
6 現象学の特殊性と大乗仏教の二諦説
エ ポ ケ ボヘンスキ−の所見25条の中︑1・2・3︑12〜17︑21〜25は︑
現 象 学 的還IR ︵−先験的還元︶︵11判断中止をもって自然的態度の変 更 によって純粋意識の事実に帰着せしめる︶を説く︒
ヘ ヘ ヘ へ
4Hは︑形相的還元︵11純粋意識の事実から純粋意識の本質・
意味に帰着せしめる︶を説く..
この二種の還一兀︑これは︑現象学の特殊性であり︑大乗仏教の二
諦 ︵=勝義諦・世俗諦∀説に対照されてよい︒
21条の中︑⑰にF経験的直観は本質直観に転化し︑本質直観は妥
当する確固とした概念による言表が可能である﹂とするのは︑十二
有支皆依一te ︵=:世俗諦゜・①日旨亭鶏蔓①︶は三界︵即︶唯心︵11
pa
ramartha−satya勝義諦︶に転入し︑三界︵即︶唯心︵日勝義諦︶
は言説諦︵<吉ぐahara−satya =世俗諦︶を可能せしめる︑とする十
地 経 論 の 示す唯識二諦説に照合する︒
ヒ
法華文化研究︵第四卜三号︸
⑲・00・四の﹁現象学の体系を支える経験の本質‖表象自体とし
て の 形相の根源的意味11言葉︵‖意味は言表しうる︶の等式﹂に対
する︑ジャック・デリダの﹁認識と対象との一致も意味と言表︵‖
記号︶との一致も不可能なり﹂とする批判は︑仏教︵Buddha−deSan鋤︶
における正覚︵aひhisambuddha︶と説法︵匹ぎひ∋午△⑦鐙日︶ Mad−
yhamaka g云う真諦︵paramartha−satya勝義諦︶と俗諦︵ω①目く言−
satya世俗諦︶との必然的な関係を示す中論頒の真俗二諦説の有効 性を懐疑せしめる︒再考細思の要あり︒
かくして︑フッセル現象学の特殊性と対照可能なる説明大乗の特 殊性は︑二諦説にあることを知る︒
7 経量部の色心互薫説 ところで︑水野弘元博士の所論に﹁倶舎論巻一九︵正蔵二九・九
う ニんじん ンヨウ 範師のEEIfi ︵parv.acarya Vasubandhu︶及び世友︵<③ωに∋一字①︶の せ う 九a︶︑巻五︵二五C︶︑大乗成業論︵正蔵三一・七八三C︶に︑軌 説として︑色心互薫説があり︑心識と有︵色︶根身︵11色法︶との 種 子 が相互に他に薫附して色心が不断に相続することを説くが︑こ れ は 経 量 部 の中でも︑或る一派のみの主張であったかも知れない﹂
バラことある︒
小 乗 でも経量部︵Sautr鋤ntik③︶は︑上座派の説一切有部から分
出したと伝えられている︒諸書に散説される主張を示すと︑大衆部
八
と同じv現在実有過未無体の立場から有部の法体実有説を否定して
しし仮有説を執り︑種子︵11業力を収めて業果を牽く可能力9①︶説に
基 い て 心と物とは相互に︵種子として︶薫習︵<O雷爵︶しあって存
する︑とする色心互薫説を説く︒
この場合︑薫附する能薫の法は現行であり︑薫附を受ける所薫の
法は心であり︑所薫の心の上に薫附し留められた慣習の気分・残気・
しっ け
余習︵11習気︶は種子︵9①︶と称する︑
業果を牽く種子が今世から来世まで滅することなく存続する︵11
無色界に生まれて一度身を失った者が色界に再生して身を回復する︶
時︑これを細意識︵sak$ma−mano−vijfiana︶・一tswa ︵eka−rasa−skan−
dh
a)
と名づけ︑勝義我として輪廻の主体と見る︒
表業︵く言①℃菖ピぼ日§︶も無表業︵①<言①冥芙゜︶も共に思︵8冨コロ︶
という心所を本体とし無表業は思に薫習された種子に他ならない︑
とする.︑
rf夫Je! ︵bala−prthag−janavastha︶にも菩提の因たる無漏種子
(an
asr ava−bija︶ありとして︑大衆部の心性本浄説︵∩葺㏄−買畏昏−
pr
abh
as va ra−v︵i da︶に通じ︑大乗の仏性説︵buddhaldh助tuv鋤da︶を
惹起する.︑
殊に種子・薫習の説は︑唯識教学の基本をなす阿頼耶識思想の源 流をなす︒色心互薫説は︑有部の実在論と唯識説の唯心論との中間
ヨ に位置する︒︑
また勝義諦とは無漏の世間智︑後得の世間正智によって認められ
るもの︑世俗諦とは有漏智によって認められるものとする.︒
co 中観派︵M鋤dhyamaka︶中論頒の真俗二諦説 て︑左の如V和訳する︒ ハぷ 西義雄博士は︑龍樹の中論頒︵中論の観四諦品第二十四︶を示し 一︑諸仏は二諦に依りて︑衆生のために法を説く︒
一には世俗諦を以てし︑二には第一義諦なり︒
dvesatye samupaSritya buddhanaip dharmadeSana.
loke sarpvrti satyaヨ ca satyam ca paramarthatah°
二︑若し人︑能く1I諦を︑分別するを知らざれば︑
則ち深く仏法に於て︑眞實の義を知らず︒
ye nayor na vijananti vibhaga日 satyayor dvayoh.
te tattvarp na vijimanti gambhirarp buddhaSasane°
三︑若し俗諦に依らざれば︑第一義を得ず︒
若し第一義を得ざれば︑則ち浬薬を得ざるなり︒
vyavaharam anaSritya param⑩rtho na deSyate.
param鋤rtham anagamya nirv鋤rparp na adhigamyate.
してのみ可能である︑と述べている︒括弧内には私に補添するあり︒ つこ 宮本正尊博士は︑左の如v和訳して︑真実第一義もこの世俗を通
8 二諦に依って︵留日⊆冨監蔓①︶諸仏の法説がある︒iPI俗諦 ︵loka−
比 較哲学の根本問題︵その七︶︵伊藤︶
samぐrti−satya︶と第一ss ︵paramartha︶諦とである︒
9 この二諦の区別を知らないものは︑その人々は︑仏の教説にお
いて︑甚深なる真実︵gambhira tattva縁起︶を知らない︒
10 l1I俗 ︵vyavahara︶に依らなくては︑第一ki ︵paramartha︶は
示されない︒第一義に到らなくては︵anagamya︶︑浬帆架︵11解 脱︶は行証されない︵na adhigamyate︶︒
安 井 広済博士は︑龍樹の縁起説は相依相待︵paraspara−apek$a︶
の縁起説なりとして︑中論二十四章第十八偏を示して︑述べること
左 の如し︒
ss起 ︵pratitya−samutpada︶なるもの︑
われらはこれを空性︵⑩旨吉旦という︒
これ︹空性︺は︑︹因縁︺によってのeewt ︵︹upadanam︺ upadaya prajfiaptib︶であり︑
これ︹空性︺は︑実に中道︵∋芦ξ①日鋤U日9註︶なり︒
右の中︑﹁因縁によってのpt設 ﹈ ︵upadanam upadaya prajfiaptih︶
とは︑縁起の道理を語る言葉︒前句は︑空性が縁起︵℃轟葺ぺ午
samutpada︶であるから︑単なる無でないこと︵非無︶を述べ︑後
句は︑空性が縁mp ︵upadanam upadaya prajfiaptib︶であるから︑単
なる有でないこと︵非有︶︑したがって︑中道︵非有非無︶であるこ
とを述べる︒
Sff句の pratitya−samutpadaと後句の⊆冨合8日q冨合ぺ①買①言知マ
九
法華文化研究︵第四十三号︶
btiとは同じ意味である︒
真俗二諦の語義についても︑
アザ
要約して注記にまわす︒ 安井博士の研究あり︒私見によって
9 法華経の真俗︵11勝義・世俗︶二諦説 これも︑私見をもって要約して注記にまわす︒ 法華経の二諦説についても︑安井博士の研究には説得力がある︒
それにより︑すなわち法華経が一乗思想三乗説をもって︑真俗二
諦の思想を無意識的に含意することを知る︒
よって︑しかし︑筆者の一乗思想三乗説に関する研究結果を方便
品第二におけるoり①ααゴ①﹁ヨ①︵妙法︶の根I︵Eptsu ︵Essential attribute
本質的属性︶として Saヨdha−bha$ya ︵随宜所説意趣︶との関係よ
ハ り分析し図解すると︑左の如vなる︒
すなわち︑如来の所知︵日各四ひq巴午く言①ぺρ﹇①夢盆巴午㏄巴且5︑︒く巴 にして難ge ︵durvijfieya durbodheya︶なるOo①○αコ①﹁∋③とは︑随 宜 所説のgmpew ︵sarpdha−bhasya︶である.︑
mpew ︵samdha︐ abhipraya︶とは︑一仏ww ︵eka buddha−yana︶で
あり︑如来性︵tathagatatva︶である一tRp XMgy− ︵tathAgatajfiat2 =ca:
漏のi am anasrava−buddha−jfiana︶を究寛するもの︵℃碧養≦胡曽巴︑
そのものである︒よって︑これは勝義諦に照合する.︑
随宜所説とは︑善巧方便︵upaya−kauSalya︶であり︑三乗の説示
C
(tri−yana−nirdeSana︶である︒三乗の説示をもって一仏乗を説示する
(eka buddha−yana己 tri−yana−nirdeSena nir−VdiS︶ものであるよつ
て︑これは言説諦11世俗諦に照合する︒
なお︑勝義諦・世俗諦は︑フッセルの云う現象学的還元・形相的
還一兀に対照されうる︒
いザ
ボ
ヘンスキーは︑左の如v云う︒
フッセルは︑現象学的直観︵Anschauung︶及び解釈の対象を現
象と名ける︒先ず現象は現実性︵≦己﹇合汀巳に対置される.現象
ということによって仮象︵G力合9白︶が表示される.︒所与が現実的で
あるか単なる仮象であるかは問題ではない︐所与の現象のみを問題
とする..
次 に
現出︵Erscheinung︶としての現象はしばしば物自体に対置
される︒しかし物自体に全く興味を持たない/t所与の現象のみを問
題とする.︑すなわち︑現象が表象されていれば十分であり︑現象は
出来事であることを要しない︒出来事を研究することが出来はする
が︑何よりも先ず諸の構造を取り扱うのである︒
しかし︑仏教の二諦説は︑現実性・物自体・出来事を研究する︒
すなわち縁起という現実性︑真如という物自体︑生死×浬薬︑煩悩
×
菩 提などを解明し︑その実践的実現を目的合理性とするのではな
いかf
ueHl+図 Saddharmaの語義概念を構成する属性用語︵一乗・三乗等︶の内的関係
− ..−.○ /
/ の
2
tathagata−sarpjfieya
7
︷durbodhya atarkavacara
saddharma
samdha・bha§ya(随宜所説意趣)=dharmata
ll
eka buddha−yanarn
︷
trl−yana一 nirde§ena nir_レdi§
一 eka−deSanA (=pravacana−dh.) .〔1) i
i=kriya tathagatasya buddha−y員na−samadapana eka・yana=sarva−jhata・paryavasana (=pratipatti−dh.) ③
tr寸[:蕊に
]一・g・a−b・dh・
(=prapti−dh,) ②}
pratyatmika−jfiana−balaー − tathagata−jfiana−gOCara asahg白pratihata−jfiana−darSana
tathagata−jfiana →
L二〒 一一一一一一
t.−jfi.−darSana <→ sarvajfiatA
tath五gatatva buddha jrtana anasrava
mah6paya−kauSalya−jfiana−darSana−parama−p員vamit.a
a§cary含dbhuta−dharma → tathagatasya dharma e
一l
gambhira tathagata−
dharma(abhisambuddha)
dharmat員
]『
tagra−dhai・mArpa bhOta artha
更に如来寿量品の伽耶近成・久遠実成説を 含 意するω菖合昌ヨ①と︑それと同義語の
Sa日dha−bhasyaないし他の類義語・反意語と
ロ
の関係を図解すると︑左の如vなる︒
すなわち︑如来の所知にして難解なるc◎oDα−
dharmaとは︑随宜所説の意趣にして意趣
(abhi pr
a
ya)
であるc 意 趣とは︑経のmsew ︵satrartha−gati︶にし て真実であり了義︵nitartha︶であり︑文上 随 他 意 本 門 の 久 遠 実 成
であり︑文底随自意本
門の常住不滅無始古仏である︒
よって︑これは勝義諦に照合する︒
随宜所説とは︑善巧方便にして有意趣
(abhi
pr
yia
ka)
であり不了義︵oΦ盲﹁日p︶あ
り︑ 門伽耶近成︵であり文上随他意本門五
百 塵点久遠実成︶である.︑
よって︑これは世俗諦に照合する︒
なお︑二諦説は︑フッセルの1l還一兀論に対
照されうる︒
比 較 哲学の根本問題︵その七︶︵伊藤︶
1
幽⊇一一魎一[:::〉・丁
一(甲)abhipraya(意趣)・nitArtha(了義)
一(乙)Abhiprayika(有意趣)・neyartha(未了義)■
一三乗(tri−yana説法)方便・一乗(eka−ysna)真実一 (伽耶)近成(acirabhisambuddha)方便・
久(遠実)成(cirAbhisarpbuddha)真実
一(乙)upaya−kauSalya(善巧方便=方便説法) 〔方蹴所説〕1
一乗方便・三乗真実
久(遠実)成方便・(伽耶)近成真実.
一爾前無得道
一(甲)一
」
一文上(=五百塵点・久遠実成cirabhisarpbuddha)方便・
文底(=所顕三身・無始古仏=常住不滅sada sthita aparinirvrta)真実
一本 教相勝劣教旨一致 総付方便・別付(=要付)真実
L,・・壇鑑}一・総一
xu五+ 1図
法華文化研究︵第四十三号︶
Sa
dd harma = Sarpdha−bha$ya g基本解釈構造 ︵1乗三乗・近成久成との関係︶
ロ 10 華厳十地経の﹇乗三乗の真俗二諦説 なお︑筆者の研究によると︑一乗思想三乗説は︑華
厳十地経︵DaSalbh已mil∧alsOtra︶の第二地に十善業道
との︑第八地に波羅蜜乗・菩薩乗との︑第九地におい
て四無擬智との︑それぞれの関係において︑論理的に 整斉された形式で明示され︑世親の﹃十地経論︵﹄這や
災象忘e縞ミペーミ9せミミ︶﹄では︑ 一乗は法無擬智
(dh
arma−pratisamvid︶ ︵l︶対境として勝義諦のレベル
(第一義諦無我慢相︶に︑三乗は義無擬XM ︵artha−p°︶
の 対 境として世俗諦のレベル︵世諦無我慢相︶にある︑
と解釈されている︒
経に︑大法師︵maha−dharma−bh鋤naka︶の行分であ
る法無擬Rm ︵dhar∋a−pratisa∋vid︶は一乗に摂在す
以 上により︑法華経では︑一乗・久成︵‖常住︶が
Saヨdha ︵意趣①ひhipraya︶であり︑三乗・近成が
bh
$a ya
︵随宜所説HcO鋤く①夫③c⑩里ピ①善巧方便
ab phir
yia
ka)
である︑と明証される︒
すなわち︑oo①ヨ○ゴ⑩Ze? param妙rtha−satya ︵as義
諦︶に︑ bha$yaZer saヨvrti−s︵世俗諦︶に相当する
こと︑自明となる︒
る︵11一乗の所摂なる︶︵無︶差別性を知る︵Φヌ①−ペ輌⊃③−
samavasararpa−nanatvarp pra−Vjコa︶ことであり︑義無擬智
(a
thra−p.︶は分別された諸乗の異種性︵O日巳く∂言百学べ昌①−
くぎ響8狂︶を知る︑と説かれるからである︒
11 法華経と十地経との一乗三乗説の比較対照 乗との関係﹂を各要約して比較対照すると︑左の如し︒ ロ かvして︑華厳十地におけると法華一乗におけるとの=乗と三
ヘ ヘ 一乗とは︑十地経では︑菩薩乗︵bodhisattva−yana︶中の前七地た
〈Pr波 eeanww ︵paramita−yana︶に不一であり後三地たる清浄菩薩乗
p(a
riS
udd
ha
bo
dhisattva−yana︶に不異であり︑十力者の力と一切の 仏 法 の 証 成とを成ずるものとして菩薩乗と不l不異であり︑大乗菩
薩乗と根抵において連続性をもつ︒
ヘ ヘ ヘ へ
法華経では︑大乗11菩薩乗︵という相対的なもの︶に対して唯1
ヘ ヘ ヘ へのKww ︵eka maha−yana︶ =仏乗︵9△合甲ぺぎ①︶︵という絶対的な
るもの︶であって︑如来︵のと同一︶の般浬薬をもって般浬薬せし
めるものであり︑大乗菩薩乗と直接的な連続性をもつ︒
ヘ へ
三乗とは︑十地経では︑一乗が分別せられたもの︵prativibhakta︶
であるから︑義としては異種性であるが︑法性としては︵世俗的に
ヘ ヘ へは一乗に依りωgDヨ輌⑩ユta︑勝義的には一乗に即く①●d①∋であっ
ヘ へて︶無差別性として l wwLJzz・kV ︵samavasarana︶する︒
比
較哲学の根本問題︵その七︶︵伊藤︶ ヘ ヘ へ
法華経では︑一乗について ︵arabhya︶分別して顕説︵≦ぴ9ご①
苫㏄−奇ぽ︶される方便としての随宜所説︵bha$ya︶であるから︑一
ヘ ヘ へ
乗に即︵yad idam︶であって︑一乗を意趣︵°︒①日△冨11①ぴ三〇轟苛
ヘ へ
真意︶としてその一乗へと止揚されるべきものである︒
したがって︑一乗と三乗との関係は︑十地経では理論的・抽象的
であるが︑法華経では実践的・具体的である︑といえよう︒
これは︑思想史的には法華のが先行形態で十地のが後続形態であ
ることを暗示する︒
またシナ華厳教学が華厳一乗を別教一乗︑法華一乗を同教一乗と
なしたところの所以をも示唆する︒
しかし︑華厳十地におけると法華一乗におけるとの︵一乗思想三 乗 説 の 二 つ の 構 造 機能分析による関係図式の︶比較対照︵←五十ニ
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ図︶によって︑総合的な体系として︑両者の概念の内︷︵¢ ︵conception︶
がより判明となり︑概念の相違がより明晰となるであろう︒
12
十地経論の真俗二諦説
また更に一般に不問に付されている世親の二諦説を指摘しよう︒
すなわち﹃十地経論︵﹄這心心曇合言さご主勘惑︑S§この第六現前 地における釈文のH︽不住道行勝︵11不住浬葉への道の修行に勝れ
て いること︶の2︿第一義諦差別﹀・2︿世諦差別﹀のそれである︒
ロ その詳細なる分析の図解は注記にまわす︒
=二
法華文化研究︵第四十三号︶
かくして︑すなわち︑要点を示すと︑左の如し︒
ω 三 界
(即︶唯心は︑勝義諦の安立に対配されて︑﹁菩薩が遍知す ることによって解脱となる︑そのようにそれ︵‖縁起︶を観察す る﹂と︑解釈される︒
② 十二有支皆依一心は︑世俗諦の安立に対配されて︑﹁菩薩が観察 することによって勝義諦に入る︑そのように︵縁起を観察する︶﹂
と解釈される︒
③ 三界︵即︶唯心は︑論理の上で矛盾するものの同l性を処理し うる直観的認識にして本体的思考による絶対的知識である︒
④ 十二有支皆依一心は︑三界唯心という絶対的知識を悟性的思弁
︵=関係形式を認定する分析的認識︶によって﹁彼のものに縁って
比 のものが起るという世間的道理︵laukil︿a−くidhi︶﹂として射影的 思考による相対的知識として捕捉され翻訳展開されたものである︒
㈲ よって︑世俗諦︵11通俗的真実性︶である十二有支皆依一心を 観察して勝義諦︵11究極的真実性︶である三界︵即︶唯心に悟︵11 証︶入し解脱を証得することができる︒
あんりゅう*世親唯識における勝義諦の︷P︿IA ︵paramartha−satya−vyavasthAna︶
と世俗諦の︷P︿︷ ︵samvrti−satya−vyavasthana︶とは︑フッセル現
象学における現象学的wrlR ︵phanomenologische Reduktion︶と形 相的還iR ︵eidetiひche Reduktion︶とに対照されてよい︑と考える︒
四
13
法 華経・十地経・十地経論の真俗二諦説の比較図解 十地経論は︑真俗二諦を第九地の一乗三乗説に対配すると同時に︑
第六現前地の三界︵即︶唯心・+11有支皆依一心にも対配する︒
経文中の前者に見るΦ天①ーペ輌⊃①あ①ヨ①<①切①﹁①O③と後者に見る る・摂在せしめるハタラキ︶が共通の− ptワードである︒ ハほロ eka−citta−samavasaraOa−v S samavasaraOa ︵聚める・摂合す
前 者は︑﹁法無擬智は︑差別的に各々ありとされている諸乗︵名称
あつ
概念︶を一ww ︵1処︶に聚めて︑それら相互の無ueas ︵ananatva =
bl−等i−Y samata︶を信解︵11gmmp alambana︶する﹂ことを含意す
る︒
後者は︑﹁着処のk6い︷ptrm ︵aniketa−buddhi︶をもって︑分別し て 解 説された︵仮名無実体である︶十二有支なるもの︵名称概念︶
ヘ ヘ ヘ ヘ へを勝義諦の意趣を担い解脱の根拠を伴なう心そのものである一心と
いう主体性の中に摂合して相互の平等性を信解することを通して︑
11
1
界 即唯心という勝義諦の体証に入りうるような縁起のwaen ︵praty−
av
ek$arpa︶によって般若︵pra﹈na︶を獲得する﹂ことを含意する︒
以 上より知られた法華経・十地経・十地経論の一乗三乗・唯心縁
起・真俗二諦の各思想を対照し合糠して図式・図解をもって示すと︑
左 の如vなる︒
第五十二図 一乗三乗・唯心縁起・真俗二諦の各説関係図解
/ /.−/ 〆//. / ﹈コ鋤白①▲ーウ切①白ロロ庁鋤−σ古帥切ぺ① //﹀ω①﹇ぺ① ﹀℃﹁①︷ぺ四くOオ頓芦① /
I I
ー
[①﹇古輌ぬ①︷①︺51蝕コ①−ひ①一①−く①法輌﹁①江∨①
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1
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巳く鋤口田︵−づ口αO口①︶ ﹇︹①﹂巳庁四︷仁大①﹀藻淋噺ヨS滞レS︵O③﹁①ヨ⑪﹁↓ゴmヤoo蝕︷ぺ①−<ぺ①く①切一プ◎コ①︶と溺椿糸ロ叩薔 ほ汁端琶一品謡︵川滞︶一渇♪什回ψ涼箆
κ①
α 一〇
①コ一 ぺ③〇一〇①コ一
一
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買①巳︒日①− O叶①﹇ぺ①くOπm陀ロ①︶︵議尊書ボ=難︶
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﹀.陣↓︹シ劇改S浦㎏︵Oo①コ一く︑﹁↓7ω③︷<③− <ぎく胃富g︶
ーω①∋Φ⑩ユ冨 1
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﹀三四涼苔φ璽︵日滞亀︶薄♪什回山蔭謹︶
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買①巳︒日c︒− 05巨①ぐ筈留g︶︵嵐或民皐蓮︶
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1ーー ーーー 比 較 哲 学 の 根 本問題︵その七︶︵伊藤︶
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