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近 代 遊 戯 理 論 の 変 遷 - 教 育 学 的視 点 か ら- (上 )

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(1)

近 代 遊 戯 理 論 の 変 遷

‑ 教 育 学 的視 点 か ら‑ ( 上 )

森 田 信 博

TheTr ansi t i on ofModer n Pl ay Theor i es

f r om t heVi ewpoi ntofPedagogy ‑

(1)

NoBUHIROM oRITA

目 次 は じめに

Ⅰ 近代社会成立期の遊戯理論 ( 1) 啓蒙主義教育思想 に基づ く遊戯論

(2)

ロマ ン主義 に基づ く遊戯論

個別諸科学の解釈 による遊戯理論 ( 1) 生物学を基盤 とす る遊戯論

(

2

)

心理学,社会学 を基盤 とす る遊戯論 ( 以上本号)

Ⅲ 綜合的,全体的観点 に基づ く遊戯理論 ( 以下次号)

(1

揮 際的解釈 による遊戯論

(2

) 教育学的視点か らの再評価 おわ りに

は じめに

遊戯

(Spiel

)は きわめて多様 で多彩 な現 象であるが,周辺の現象 と して意味のない不要 な も の と考え られ,せいぜい退屈 さをまざ らす ものであ った り,興奮や欲情を刺激す る現象 と見 られ て きた。が,常 に魅力的であったとい って よい。それ故に人間の歴史 と共 に古 く存在 し, さまざ まな解釈の対象 とな った。哲学者,詩人,教育学者 さらに各領域の科学者がその説明や分析 に努 めて きた。 それ らの成果の一端 は今 日の教育学の確固 たる位置を占めて きていると言え る し,同 時 に, ショウエル ル ( Sc he ue r, H. )が述べているよ うに,科学的討論が幅広 く遂行 され遊戯の分 析や解釈の新 しい理論的視点や遊戯教育 の実践的な範例を もた らしつつあ り,余暇問題 との関連 で陶冶 と社会政策 に結 びつけ られ る一方で,子供の社会性,創造性への促進 とい う教育的討論へ の拡大 と して現われて きている。カ

他面,遊戯の概念規定すなわち 「 遊戯 とは何か」 とい う最 も根本的な問題 はギ リシア時代以来 解釈が試み られて きているが,今 日において さえ も,明確 とは言 い切れない。概念規定が不十分 で あ る原因 について, ラーグ‑ ブ ( Raghe b, M . )紘,非常 に複雑な現象である遊戯を専門的な領 域の手法を用 いて その要因の うちのい くつかを考察す ることにな り, しか も人間や動物の発達段 階の一部 に注 目 して結論を導 きがちになることをあげている

。カ それ故 にさまざまの遊戯理論が

著わされ ることにな り,統合 され ることもなか った。 エ リス

(Ellis,MJ.

)は

,

「妙 な ことであ

1 ‑ 111‑

(2)

るが」 と前置 して, いわゆ る古典的な解釈 も 「 子 ど もや動物 の遊戯行動のい くつかの側面 を説明 してい るとい う点で は明 らか にあ るメ リッ トを もってい る」 頚と して,遊戯 とい う 「複雑でわか りに くい行動」を どの程度説明で き るか によ って古 い遊戯理論が 「 生 き残 って い る」 ことの理 由 と して い る。

遊戯 自体 の定義が十 分でないに もか かわ らず,実践的関心 は拡大 し広 く教育 の現場 で用い られ 心理学,社会学 の領域で活用 されて い る。 この様 な状況 をふ まえ, これまでの遊戯概念規定 の試 み とは何で あ り,どの よ うな経過で進 み,どのよ うな限界を含 んでいたのかを再検討 しなければ, 今後 も同様の試行 を繰 り返す ことになろ う。

当研究では,1

8

世紀後半以降の教育学 的 に重要 とされ る遊戯理論 の変遷を概観す ることによ り, その時代 に見 られ る遊戯概念 の試みの限界 を さ ぐり,現在 につなが る経過の中での評価 を試み る

ものであ る。

Ⅰ 近代社会成立期 の遊戯理論 ( 1) 啓蒙主義教育思想 に基づ く遊戯論

遊 戯へ の教 育 的評 価 は1

8

世紀 に入 って構築 された もので はないが,「 市民 の時代」の幕 あけで あ り,政治 的,経 済 的 さ らに社会 的関係 が明 らか に変化 を とげ , 「 労働」 と 「自由時間」の分離 や 「 子供

「 青 年 」 そ して 「 大 人」 の 区別 が生 活形 態 の 中で 明確 に されて い った時期で ある

,4

とい って よいで あろ う。

特 に子 供 の 「自然 」 と関連 させ られ

,

「自然 の権利」 ない しは 「自然 に適 した」 あるいは 「自 然的な」教育 のために とい う特徴が導 き出 され る。 この時点 で は自然概念 その ものが決 して十分 に問題 とはな って いなか ったが,注 目されねばな らない。人間の罪深 さと墜落の印象の下 にそ し て その社会的 な状態 の下 に笑 いなが ら遊戯 してい る子供 たちの最 もあどけない楽 しみが,悪習 と 疑われ るとい うよ りは,人間の 自然 の善良 さと無邪気 さを納得 させ るものを遊戯 と して認 め ると い うよ うに,時代 の要求 に応 じて教育学 的 に遊戯 に期待がか け られ るよ うにな る

。9

それ はま さに多様で あ り,楽天的前提で の,時 には悲観 的前提での教育学的価値 の強調で あ る が,少 な くとも1

8

世紀 には子供 の遊戯 の教育学 的価値が相互 に重 な り合 い,連関 され遊戯 を教育 学的 に抑圧 した り法外 に締 めつ けるべ きで はない とい う考 えが確か な もの とな りつつあ った。

この点で まず,1

8

世紀前夜 にイギ リスの医師で あ り哲学者,教育学者で もあ るジ ョン ・ロック

(JohnLocke)

が著 わ した 『 教育 に関す る考察

(1692)

に注 目す る。周知のよ うに一人 の親 し い貴族 に, その彼 の息子 の教育 に関 して手紙 による助言 を伝 え るとい う形式の教育論で あ る。 そ の中で ロックの遊戯 の理解 は 「 一方で は紳士 の世界的現実的態度 を明 らかな禁欲主義的紀律的傾 向に結 びつ け,他方 自然性 の強調 と人為的な ことの防止 と結 びつ けて いる」 とシ ョウユルルは説 明す る

功 しか し旧態依然 の非合理 的な教育方法, 内容 の批判 に立 って,家庭で の教育 に基盤 を おき,人間の自然性 の理解 の もとに好 ま しい行為 と思考 の方法を習慣 的 に訓練 させ ることによ り, 健康や体力を基礎 に もつ行動的な徳 に支 え られた知的実践 を行 ない得 る紳士 の育成 をめ ざ した, ま さに台頭 しつつ あ った中産市民階層 の教育観で あ り

,18

世紀以降の啓蒙主義教育観の さきが け であ る。

ロックは紳士 の本分 は知的労働 にたず さわ ることと しなが ら,知性 を常 に最良 の状態 に保 つた

めに 「 生活 の少 なか らぬ部分を気晴 らしに用 いなければな らな

」召 し 「 気晴 らしはなまけて い

ること ( 誰 しもが考 え るよ うに)で はな くて,仕事 を変えて疲れて いる身体の部分を休 ませ るこ

と」韓 と考 え る。 その内容 は,園芸 ,大工仕事,粘土細工,鉄細工での手仕事 な どの技術を伴 う

(3)

「 身 につ けると多 くの利益 」を得 る 「 気晴 ら し」か水泳, ダ ンス,乗馬,剣術 (フェンシング) とい った,練習す る ことによ り大胆 さ, 自信,優雅 な身の こな し,洗練 された振舞 などが得 られ る身体運 動 が想 定 され るO気 晴 ら しは ま さに , 「 有用 な時 間 をっぶ して浪費 され る遊 び こと

」功

で 「 愚かなあ るいは有害な方法 」1 0で あ る トランプ, ダイス,飲食で その場 だけの喜 びや気楽 さ だけを得 ることで はな く,紳士 た る者 に 「 器用 さと技能」を増 ししか も 「 健康 に も役立つ」 よ う な戸外での気分転換 をす る手仕事がふ さわ しいので ある。

子供 の時期で は , 「 気晴 らしは労働 ,食事 と同 じくらい必要 な もの」であ り 「 罪 のない もので, 健 康 を害 す るよ うな もので ない」 な らば子供 たちに気晴 らしを楽 しませ るばか りでな く , 「自分

たちのや り方で気晴 らしをす ること」 を許 して や らねば な らないのみな らず 「どんな異常 な種類の 気 晴 らしを企 て て も」認めてや らな くて ほな らない し , 「 放任 して子供 たちが思 いつ く子供 じみ た遊 びをや らせ な くてはな らない」 とまで述べ る

。川

しか も子供 たちの気晴 らしを 自由にさせて お くことは,子供 の 「 生 まれつ きの気質,傾 向,性癖」を明 らか に し,教 師や両親 に 「 人生行路 と職業選択」‑の指示 を与 え,適切 な矯正方法 を知 らせ ることにな るとロックは指摘す る

01カ

結局 ところロックは,子供 たちのあ らゆ る遊戯 と気晴 らしは 「 良 い,役 に立つ習慣がつ くよ う 指導 されねばな らない 」1 頚 と考える。幼い子供 でも読んだ り綴 りや数 を憶 えた りす るため にはサ イ コ ロの様 な多面 体 に アル フ ァベ ッ トや数 をは った もとで遊戯が様 ざまに工夫 され ると , 「こうす れば,子供 たちは うま くだ まされて文字 を知 るよ うにな り,読み方 を習 うことを遊戯 にはかな ら ない と考 え る」 とも述べ る

。 14

遊具 も様 ざまな種類 を与え るべ きであ るが 「 乱雑で無駄遣 い さ らに浪費を させ ない」ためには, 一度 に一種類 だ け と し, この ことが心 の形成 に もけ っして小 さ くないと指摘す る。 さ らにで きる だけ自分の手 で作 るべ きかあるいは少 な くともそ うい う努力を しな くて はな らない と し, それが 範度 ある欲望 の手 引 とな り,満 ち足 りた幸福 な人間への近道 とな る。

こ こ

には魅惑的 な遊戯を注意深 く観察 し制限を加 え ることによ って 「 正直で有用 な」遊戯を計 画的 に用 い,子供 たちを遊戯で動機づ け意識的 に考察 され た一定の知識や経験 を媒介 させ,修練 によ って特定 の道徳 や技能を高め ることを可能 とす る遊戯が促進 され ることにな る。 この様 に遊 戯 の名 の もとに修 練 を行 なわせ るとい う策略

(Uberlistung)の動機づ けは, ま さにル ネサ ンス

と啓蒙 主義時代 の数 多 くの教育家 にとって繰 り返 し行 なわれ るのであ る,1 9との指摘 は後 の汎愛 派 に も変形 を とどめ ることにな る。

18

世紀 にはい り,遊戯 に対 して,あ らゆ る人為的な ことや策略な しに経験 の価値 や修練 の価値 を持つ とい うことが明 らか に示 され るよ うにな り,教育で遊戯が行 なわれ る際 に,何かを行 なわ ねばな らない とい うことな しに,感覚,能 力,性格 を遊戯す ると考 え られ るよ うになる。 しか も 強制 のないきわめて 自然的 な方法 によ って物質 的な世界 を知 ることを教 え,苦労 に耐え ることを 教 えた り,鍛 えた りす るとも考 え られ るよ うになる。

この事 実 は,ル ソー

(Rousseau

,

J.J.

)が遊 戯をただ休養 と して許す だけでな く,子供 の最 も 生得的権利 であ ると主張す ることに明 らかであ る。子供 が 「 一 日 じゅう,飛んだ り跳ねた り遊ん だ り走 りまわ って い るのが なんの意味の ない ことだろ うか。一生 の うちで こんな充実 した時 はま た とあ るま い

」 は

, 仕事 をす るに して も,遊ぶ に して もどち らもかれ に とって は同 じことだ。

かれの遊戯 はかれの仕事 なのだ

川 とル ソーは述べ, プ ラ トンの 『国家論』 にふれ 『もっぱ らお 祭 りや遊 びや歌 を うた うこと, な ぐさみ ごとを させて子 ど もを育てて いる。子 ど もにみずか ら楽 しむ ことを十分 に教 え ることがで きた とき, プ ラ トンはすべてをな しとげた

」 1

母とす ることを指 摘 して いる。 さ らに 「自然 の快活 さ」 を伴 な う遊戯で は子供 は 「 他 のばあいには涙をぽろぽろ こ ぼ さず には耐 え ることがで きない ことを,不平 もいわず, いや笑 いなが ら耐 え る」 ことがで き,

‑ 113‑

(4)

長時間の空腹 ,打撃,や けど,疲労 も 「 幼 い野蛮人の楽 しみ E :と」で あ るとす る。1 頚 この よ うに 遊戯を経験す ることは性格 を形成す ることにま して, 自分の手足 そ して感覚 を通 して 自分 と周囲 にあるものを見 くらべ,関係 をた しかめ る 「自己保有 に関連 した一種 の実験物理学」の連続で あ り 「 知的な理性 の基礎」 にな るので あ る

。2

しか しル ソーはただ遊戯す る ことや運動す ることによって 「 感官」が養われ判 断力や理性 が確 か な もの にな る とは考 えず,常 にまず 「 感官」を訓練す ることを強調す る。「 大 きさをほか った り数をかぞえた り重 さをはか った り くらべてみ た り」 して 「どの程度 の抵抗 を示すか」を推測 し た後 は じめて実際 に行 な ってみせ るよ うに させ, 自分の行 な うあ らゆ る運動の結果を予見 し,荏 験 によって誤 りを正す とい う習慣 をつ けさせば,行動す ることによ って感官を活用 させ理性 を養 うことはで きない と考 え る

02D

ル ソーの このよ うな訓練主養的な指導法 は,運動遊戯 についての 指摘 に も見 られ る。ハ ネ突 き, コマ回 し,右投 げなどだけで はな く,大人の行 な う, テニス,木 槌遊 び,球突 き, 弓, フ ッ トボール とい った 「 器用 な手」を必要 とす る遊戯をなぜ子供 にさせ な いのか とい う疑問で あ る

0 2

才換言すれば 目や腕 を正確 に動か した り,力を用 いた りす るハ ネ突 き や コマ回 しで も体 を丈夫 にす るか も しれ ないが, ただの 「 機械的な運動

」 2

頚で あ り,何 も学ぶ こ とにな らな い し, なん の危険 もない運動で は 「いつ も散漫 な態度 」で行 な うだけで あ る。「 頑を 守 らなければな らない時 ほど,腕 を働 かせ ることはない。 目を守 らf jければな らない時 ほど, 冒 を正確 にす る ことはない」のだか ら 「 空 中にあ るボールの飛 びかたを判 断 し,強い確 かな手で投 げかえす」 よ うな連動 こそ子供 にふ さわ しい といえ る

,24

とル ソーは強調す る。

このよ うな遊戯を十 分 に行なわせ健康 や体力,性格 や知性 を訓練 してゆ くと, 自分を十分 に知 ることにな り 「 仕事 と遊 び との ちが いが感 じられ,遊 びは仕事の骨休 み と しか考 え られないよ う にな る

」 2

9と述べ, ここにル ソーが,遊戯 を常 に人間成長のための修練的及 び休養的な価値 を も つ ものだが,あ くまで も二義的な もので あるとす る理解 が見 られ る。

ル ソーの教育論 に多大の影響 を受 け,学校組織の中で具体化 したのが汎愛派で あるが, その中 で も特 に グー ツム ー ツ

(GutsMuths)は遊 戯 に関心 をよせ 「

遊戯教育論」 と呼べ る,1

8

世紀後 期 の時代 の担 手 で あ った中産 市民 階層 の子 弟 の育 成 の ため の遊 戯 の教育 学 的有 用性 を展開 し た

。 2

ゆダー ツム ー ツほ,人 間 に遊戯 を行 なわせ るものは 「 活動衝動」(

Tatigkeitstrieb)と 「

休 養」(

Erholung)で あ る と して,遊戯 とは 「

我 々の活動の協定 された形態や活動的な ことか ら汲 み取 られ る休養 のための楽 しみ」2 市で あ ると定 義づ ける。 さ らに国民性 と遊戯 との関連 の考察か ら,国民が遊戯を選択す ると同時 に遊戯 が国民 を洗練 しうる ことを理解す る。特 に青少年の身体 的諸能力の形成や性格 の陶冶 には欠 くことので きない効果 を もた らす と して,道徳的,身体的そ して精 神 的特 性 を もつ 「教育 的遊 戯

」 (Padagogische Spiele)

を精選 し指導法 に言及 して い る

。 2

遊戯を教育 の重要 な柱 とす ることは,バセ ドゥ (

Basedow,J.B.

)に も見 られ るよ うに汎愛派 の一貫 した指導法で あ るが, ダーツムー ツはア リス トテ レスの 「 働 くために遊ぶ ことは正 しい」

と した ことを受 けて 「 勤勉 であろ うとす るな らば,遊 ばねばな らない」 と述べ 「ま じめ に労働 そ れか ら遊戯」 とい う原則を打 ち立てた。

2

9 1 ここには, ロックの遊戯論 の影響 も見 られ る訳 だが, 遊戯の教育 的手段化 ,実践化 とい う時代 と結 びつ いた遊戯論の展開が あ らわれ る

またル ソ‑の教育論 に強 い関心 を もち,バセ ドゥの汎愛学校での教育実践 に共 鳴 した哲学者 カ ン ト

(Kan

り . )は,啓 蒙 主 義 的教 育 観 を色 濃 くとどめて い る。 自然的教育 の積極的部分で あ る

「 教 化 」で と りあ げて い る子 供 が積 極 的 に練 習すべ き有意運動 は, デ ッソウの汎愛学校 の体育

(Gymnastik)を模 範 と し,遊 戯 には 「

子 ど もの一種の 自然衝動」が根底 にあ り

,「

強健,練達

性,機敏 , 自信」 の形成や 「 距離感,方 向, 目測」 などの感官の訓練 に結 びつ くものが遊戯 に見

(5)

い出 され るとす る。3 坤走,跳,投,運搬 ,射的,す もう,球戯, 目隠 し遊戯, こま回 し, ブラン コなどの遊戯 に十分 に満足す る ことによ り他 の欲求を捨 てて 「 持続 して仕事 に従事す るよ うに習 慣づ け られ る」 よ うになる。まず子供 は働 く習慣 をつけな くてほな らない し,人間 は我 を忘れ る 程仕事 に専念 しなければな らないので,最上 の休息 は仕事の後の遊戯である,細 とカ ン トは考 え る。

しか し啓蒙主義 に固執 しなが らも一方で 「 表象力の 自由な遊戯」 を美的 な心 の状態の理論 的基 礎づ けと して いる。 この意味で は遊戯概念 をただ子供 や気晴 らしをす る大人 の多 くの活動 におい て特徴づ けたに終 らず,啓蒙主義か ら一歩踏み 出 し,遊戯概念 を哲学 的原理すなわ ち美的な もの にとっての基本的 なカテゴ リーへ と止揚 した といえ る。

しか しなが らロックか らル ソー,汎愛派 さらにカ ン トを含 めて もまだ遊戯 の功利主義 的機能, す なわ ち診断的,休養的,知識関連 的 そ して修練 的価値 が関心 の中心 をな して いる。 そのため, 例 えば美的側 面か らの遊戯 の把握 はまだ兄 い出 されて いないか,兄 い出 され つつあ って も, この 時期の価値観か らは有用性が理解 されず,現実的 に無用 な思考であ った り見せか けの もの と見な された。啓蒙主義 は,色濃 い中世 的教育 の払拭 のために,遊戯 に対 して実践的 に強 い関心 を引 き 起 こ したが, その遊戯 とは本来何であ るのか とい う疑問 について は十分 な解答 も統一 の とれた解 釈 もあ らわ して いな い。子供への遊戯の教育的実践が試み られ る一方で,遊戯 の本質 ,起源 ,意 味 などの理論的考察 は貧 しいままで あ った といえ る。

(2)

ロマ ン主義 に基づ く遊戯論

グ ー ツム ー ツの誤 った シラー

(Schiller,F.

) 批判

3

頚や カ ン トの意図 しない考察 の一部 には, 遊戯 と生命 の関連 づ げの萌茅を見て ることがで きるが,美的 カテ ゴ リーを遊戯理論 と して展開 し て い くのは 『 人間の美的教育 につ いて‑ 連続書簡』を著 わ した シラーであ る。 シラーは, カ ン ト美学 を背景 に して感性 と理性, 自然 と精神 とを融合 させ る人間の美的性格 を養 い,美的人間 に ょる自由で美的 な国家形成 を構想 した

。3

頚 人間が本来 もつ感性 と理性 とい う相反す る力か ら,時 間 と共 に変化 し生命 を対象 とす る 「 感性衝動」(

sinnliche Trieb)と永遠不変の法則 を求 め形態

を対象 とす る 「 形式衝動」(

Fo,mtieb)

とい う根源的対立が生 じる

。34

この両者 に調和的 な従属 関係 を もた らす のが ,第三 の衝 動 「 遊 戯衝 動

」 39 (spieltleb)で あ り,「

生 きた形 態

」 姻 (1e bendeGestalt)を対象 と して感性 と理性 ,素材 と形成,偶然性 と必然性が両立す る。

シラーが 「 遊戯衝動」 とい う名称を ひかえめ に用 いた 3 月ところには美 に対す る 「 遊戯」評価 の 低 さを考慮 しなが らも,ま った く強制 や制 限のない ところは,現実をはなれた遊戯 の世界 のみで,

そ こで こそ自然で無限の 自由 さが可能 で あ ると考 え る。 そ して 「 人間が神的な ものに近づ く無限 の道 が,遊 戯 とい う美 的 な世界の なかで実現 され る」 とい う美的教育論の基本思想があ り

,

「 遊 戯」衝動で なけれ ばな らないのであ る

姻 さ らに 「 人間は美 とただ遊戯すべ きであ り, また美 と のみ遊戯すべ きであ る」3 銀と述べ る時 に 「 人間 は語の完全な意味 において人間で あるときにのみ 遊戯 し, また人 間 は彼が遊戯す るところにおいてのみ完全 に人間であ る

」4

佃 とい う命題 を生起 さ せ る。遊戯衝動 によ り支配 され た美的 な状態が人 を本来的 に人 た らしめ るのであ る。

この シラーの遊戯概念 は,相 当に不体裁 な もので あ ると,彼の批判家 たちに非難 され ることに なるが,遊戯の意味を源を哲学的 に把握 しよ うとす るこの試みは 「おびただ しい新 しい思考の足 ど りへの戸扉

叫 とな り1

9

世紀末 の実証主義理論か ら現代 まで影響 を残 して いる

。4オ

このよ うに遊戯概念 の哲学的拡大 と深遠化 は,教育学 にとって狭義 には 「 啓蒙主義的な懐疑が 克服 された

」 4

頚と言 えよ う。 そ して美や美的外観 とい うロックやル ソーが遊戯 における無用 で有 害で さえあ り自制 に値 す るものであ ると考 えて いた ことが,関心 の中心 に引 き出 され たので あ る。

その一 方 で ,子 供 らしい遊戯 の豊 か な想像性

(Phantasiereichtum)に関 して, ジャ ン ・ポウ

‑ 115‑

(6)

(Paul,J.

)が注 目 したO遊戯 において十 分 に堪能 させ られた時の旺盛 な活力

(Lebensftille)

は子供の生活 において将来の心要 に対す る彼 らの個有の権利を有す る

,44

とい う指摘 を行 な うo また, シュ ライエルマ ッ‑‑ (

Schleiermacher,F.

)は,遊 戯 に, ま さに子供の生活 における契 機

(Moment)

と将 来

(Zukunft)の間 の仲 介者 を兄 い出す。仕 事 は将 来 に関係 づ け られ修練 (Ubung)で ある。 しか し, は じめは修練 も遊戯 に結びつ いて い るもので,両者 はお互 いに子供

の修練‑の意識 を発達 させ,修練 を喜 び とす る。 このよ うな修練 は真剣 さと共 に遊戯 と特徴づ け られ る。遊戯 における仕事 は,修練 され繰 り返 され ることによ り各活動 は楽 にされ, その結果 さ らにむず か しい こ とに取 り組 む よ うにな る。 このよ うに考 え る遊戯 は進歩的

(progressive)皮

ものであ り,修練 と見 な されて もよい。遊戯 は修練‑の手 はずで あ り,子供 の現在 におけるその 意識の完全 な充足 を促す ものの他 な らない し,遊戯 において子供 の諸能力の発達が意 識 され うる のであ る

49

さらにフ レーベル

(Fr占bel,F.

)で は,莱,豊かな知識 と して旺盛 な活力が一つ にな った遊戯 において実現 され る全面的調和 とい う観点が考察の基調 とな って い る。遊戯 とは幼児期で は 「内 な るものの 自由な表現」 と見 な され, この段階での 「 最 とも純粋 な精神的所産」で あ り,事物 の 内的 な ものや 人間や 自然 の生命 の原型

(Nachbild)で あ り模写 (Vorblld)で あ ると もいえ る。

それ故 に 「喜びや 自由や満足や 自己の内外 の平安 や世界 との和合」を生み出 し,あ らゆ る善 の源 泉が遊戯の中 にあ り, またそ こか ら生 じるので ある

04

唾 遊戯 に没頭 してい る子供 に こそ 「 生命 の 最 とも美 しい現われ」を兄 い出 しうる し,発達の最高の段階 と見 ることもで きる。遊戯 は きわめ て真剣で深 い意味 を持つ もの とな る。

「内的 な もの を外 に あ らわす」 とい う幼児期か ら少年期 に入 ると , 「 外的な ものを内面化す る 段 階 に進 み ,幼 児 の活動衝動が 「 形成衝動」(

Bildungstrieb)ない し 「

形成衝動」(

Gestaltung‑

strieb)に発 達 し,4カ

両 親 や大人の従事 してい る仕事 な どを体現 しよ うと試み るよ うにな る。遊 戯が 「 一定 の意識 された 目標」を表現す ることに向け られ るよ うになるが,遊戯 その もの は 「 生 き生 きと活動 して い る旺盛 な生命力や生命 の喜 びの所産

」4

頭で あ る。遊戯 に この点が防げ られた り欠 けた りす ると, フ レーベルが求 め る全面的 に調和 した人間が育成 され な くな る。

啓蒙主義が,普遍性,有用性,合理性 を基盤 に して いるの に対 して, ロマ ン主義 は生命 や美, 感性や感情 の 自由な発現を求 めよ うとす る。 そのために唯美主義的,叙情主義的傾 向,感受性 の 強調 ,主観 主 義 的 にか たよる面 もあ らわれ るo しか し時代の流れが

,

「 不変の諸原理 に基づ く静 的な世界観 に代 って人間および文化を永遠 の進化,生成の過程

」4

功 と見 な され るよ うにな り,人 間本来 の 自己の解放や個人 の 自律性が は じめて問題 とされた ともいえ る。

遊戯論 も, シラーに代表 され るよ うに, よ り哲学的に美的 にそ して象徴 的傾向が見 られ る。 そ の意味 では,遊戯を包括的 に受けとめ,総合的な解釈 を試み よ うと して いる。 また遊戯す る者の側 か らの遊戯の把握 とい う点か らも注 目され る

柾 個別諸科学の解釈 による遊戯理論

(1

) 生物学 を基盤 とす る遊戯論

19

世紀の後半 には諸科学や哲学 は実証的 な個 々の資料 の収集 と分析 に集 中す るため に全体的解

釈や体系的把握か ら背 を向 けることにな る。 そのために ロマ ン主義 に基づ いた遊戯論の包括的な

把握 も同様 に退 いて い くことになる。合理的 に調査で き,因果律 的 に明確であ る個別機能を組み

合わせ るとい う作業が,例 えば 「 本質 」 と 「 存在」あるいは 「人間の全休性」のよ うな概念 を引

き下 げ ることにな るばか りか, そのよ うな箇所 にはいかな る興味 あ る問題や完全 に解決で きる問

(7)

題を兄 い出 さないか,それ らを問 う ことは , 「 非科学的思弁」 と見 な されたのであ る

。5

遊戯 の形而上学 的背景や意味解釈 につ いての哲学的設問が減少 し,諸科学の関心 , と りわ け生 物学 と心理学 の関心 が遊戯 の 「 すべての観察で きる事実 を記録す ること,収集す ること,分類 す ることそ して信頼 で きる物理学的,心理学 的解 明の関係 に還元す る」 ことに向 け られ る

。5

カその 結果,理論的考察 は

18

世紀か ら知 られて い る思弁 的な水準 と同 じで あ りなが ら,機能的,部分的 観点 に先鋭化す ることにな り,結局単一 の機能 に全体解明原理 を求 め ることにな る。

イギ リスの 自然哲学者, スペ ンサ ー

(Spencer,H.

)の勢力余剰 と補償 的な相対衝動の思考 は, シ ラーの遊 戯解 釈 と比較す るな らば,科学 的な視点が特徴づ け られ る。「力の豊 さが原動力で あ るとき,即 ち過剰 な生命が活動‑ と自分 を刺激す るときは遊戯す る

」5

才 と述べ る シラーの解釈 に 対 して, スペ ンサ ーは生物 学 的仮 説 に よ り遊戯事象を因果律 の関連 において分析 し,各器官が

「 普通以上 に長 い期間休止状態」 にあ る時 「それ に関連す る感情 を異常 な程覚醒 させ」すすんで 活動 しよ う と して 「 格 別 な準備」が行 なわれ , 「 環境 の刺激

によ り容易 に実現 され る

,5

と考 え る。 その時,精神力の一つ一 つは この法則 に従 って いると して 「 神経系 の分子運動 あ るいは大 脳皮質 の放電準備」5 4を提示す る

スペ ンサ ーの理論的関心 は,罪‑ に解 明が困難で決定的 には正 しい把握が不可能 と思 われ る遊 戯現象を,解明で きるよ うな, いわば遊戯的でな い,心理‑生物学 的単一過程 に還元す ることそ して個 々の機能 を縮小 的 に分析解 明す る ことに向 け られ た と考 え られ る。 この ことによ り従来 の 遊 戯理論 の一 部 は, よ り明確 な科学 的定義が認識 され , 「 休養,補充,本能的強要の反応経験 の 練習的構成

」5

日などが有効性を もっ ことがで きるよ うに,精神‑物理的機能の経過 が関心 の対象

となる

20

世紀初頭 にか けて は,遊戯 の経験 で きる側面,つ ま りその主観 的 に知覚で きる過程,緊弓 副犬 態, イマ ジネー シ ョンなどは, ただ空想,錯覚,虚構 の世界であ るとされ た。 しか し,それ らが

どこか ら生起 し, どんな現実の物理的,精神 的緊張をそれか ら表現す るかが明 らか となれ ば,遊 戯の最 とも重要 な問題が解 明 され るとい うよ うに考察が進 め られ る。

ダー ウ ィンの進化論 を行動 の説 明 に拡大 して, アメ リカの心理学者, ホール (

Hall,S

. )が 「 反 復論」絹 をそ して ア リス トテ レスの 「カ タル シス」を応用 した,ホールの同僚, カー

(Carr,H.)

が 「 浄化 論」5 刀をあ らわす。

ヘ ーゲ ルの弟 子 で哲 学者 シ ャラー (

Schaller,J.

) は, その分析か ら今 日 「 現象学的」 と呼 ば れ る方法で,包括 的な遊戯 の意 味解釈 に努 め,遊戯のすべて可能 を 「 精神 の 自己表現」 と して全 精神生活 に組み入れ ることを試み る。 しか しこの遊戯概念 は, シラーの豊 かな哲学 的評価 に対 し て,つ ま り生の真面 目さに対 して, は っき り区別 された楽 しさや気 晴 らしを強調 し休養的 な活動 形式 に遊 戯を限定 して いる,5 頭 といえ る

さ らに言 語学 者 ラツ ァル ス (

Lazarus,M.

)は一 歩論 を進 めて,人間の体験 の全体 における遊

戯世界の包括的秩序 を成 り立 たせ るために詳細で豊富 な観察事実を もた らそ うと試み る。 しか し

その解釈 は,労働 の後で は回復 を完全 な もの とす る休息が必要 とな るが,中味のない,何 もしな

い休息 は疲労 の回復 にとって は十分 な もの とはいえず,活動的 な遊戯 によ って持続的反応 の有害

な副産物が非常 に うま く取 り除かれ る,5 功 とい うもので あ る。 この理解で は,遊戯の休養の価値

と楽 しさの利益 を伴 な うすで に啓蒙主義時代 に知 らされ た機能説明の繰 り返 しであ ると批判 され

よ うo Lか し一方 で は,遊戯の語源的意味か ら, 本来 「 軽やか に目的 もな く揺れ動 く自己 自 ら行

きつ戻 りつす る」運 動

(Bewegung)の意味を含 んで い ることを明 らか に して いる。6

ゆ 半世紀後

にポイテ ンデ ックによ り再 び解釈 され ることにな る,揺 れ動 く不安定 な釣 り合 いが多様 な形態 に

おいて遊戯 の ダイナ ミックな構造 に属す るとい う発想を先取 り して いる。

(8)

その意 味で は シャラーや ラツ ァルスの解釈 は,科学 的で はあ るが強調点が限定 され, ま った く 一面的な絶対的な因果律説 明のみ に終 る解釈が多 いなかで,豊富 な観察 と綿密で入念 な調査 によ

る叙述 を指摘で きる点で注 目され る。

さ らに グ ロー ス

(Groos,K,

) 紘,1

9

世紀末 に遊戯 に関 して包括的で科学的な認識 に もとず い た二大著作 紬を著 わ し, そ こで蓄積 され た豊富 な経験 を分類,整理 し多様 な理論 と個 々の仮説 か ら一つの総括 を引 き出す ことにな る。慣 用的な休養論 に対 して,子供 は大人 と同 じよ うに,時 に は動物 さえ疲れ はて るまで遊戯す る, と批判す るのをは じめ と して,従来か ら知れ渡 って い る遊 戯理論 は明 らか に遊戯 のただ可能 な部分観点 を解 きあか し説 明 して い るのみであ る。 いわば可能 な事だが不可欠ではない遊戯の動機や役割 を調査 しその際 に異 な った因果律系の解 明を得 るとい っ た もので,遊戯 を全体現象 と して説明す るには, まった く不十分 な ものであ る。 そ こに,因果律 的に多種多様 に解釈 されて いる遊戯論 を統一 的原理 によ って基礎づ ける試みが必要 となる。

グ ロー スは多様 な遊戯論 を,遊戯 の本来 の動因 と考えた 「 生命価値」(

Lebenswert)とい う視

点か ら統一 を試み るo「 生命価値」 とは,「 練習」(

Einiibung),「

補充」(

Erganzung)

および 「 休 養」(

Erholung)が 意 味 され る。6

カ その 中で特 に 「 練 習」に重点 がおかれ,「 後の生活 に とって必 要 不可 欠 とな るよ うな活動の ま・ じめな意図 を もたない本能 的な練 習

6

頚 と遊戯 を定 義 し

,

「 無意 識的目的論的先準備」論を確実 にす るため に勢力余剰論 と休養論 の調和 の可能性 を さ ぐりなが ら, 模倣本能の遺伝的資質 を加 え るとい う古 い修練思想を押 し出 しなが ら体系化 を試み ることにな る

また グ ロース は , 「 動 物 は若 いか ら遊戯す るので はな くて,動物 は遊戯せねばな らないか ら若 い時代 を もつので あ る

」 6

4と生物学 的意義 を述べ るよ うに, 自然 は不完全 な状態で遺伝 され た行 動様式を練習 させ るため に,生存闘争 や強制 的な要求や危険の比較的軽 い子供 たちを こそ,遊戯 へ とか りたて ると説 明す る。 このため グロースは半生 を 「 すべての大陸すべての種族 と年齢層の 人 間 と動物 の遊 戯 に関 す る記 録 と観察」の収集 とその時 々の修練機能 に応 じて 「 感覚的」 (

sen‑

sorische),「

運動的」 (

motorisch)そ して 「よ り高次の精神的」(h8herer geistig)諸機能 に分

類す ることに費 いやす

,69

ことになるo グロースの二大著作 は遊戯の心理学 のよ り広 い発展 に影 響を与 え ることにな り,彼 の 「 生命価値 」を軸 と した先準備論 とい う一般原理がか な り時代遅れ であるとの批判 にもかかわ らず,人間 と動物 の遊戯行動 に関す る幅広 い情報を入手 を望 む者 に とっ て は欠 くことので きない基礎資料 とな って い くことも確 かであ る。6 領

19

世紀後半か ら

20

世紀 にかけての遊戯理論 は, ロマ ン主義的な思考 を空虚 な もの と否定 し,個 別諸科学 の台頭 に沿 うよ うに, まず合理的基盤 に立つ生物学 を中心 と した理論が,因果律 的関係 において展 開 され,遊戯 を一面 的 に把握す ることになる。 その結果,勢力余剰論,反復論,本能 請,休養論,準備論 な ど多種多様 な理論が あ らわれ ることにな る

これ らの理論を統一 しよ うとす る試 みが グロ‑スの貢献を見 られ るが,その成果 はむ しろ,克 服 され るべ き諸問題 を明 らかに し

,20

世紀初頭への多大 な影響 とい う点で注 目され る。

(2)

心理学的,社会学的解釈 による遊 戯論

グロースの遊戯 に関す る研究の成果 は,個別諸科学 の さまざまな学派が特 に遊戯 に関心 を寄せ ることを導 き始 め る。 その結果

,20

世紀 の第一 四半世紀 には数 え られない程 の著作が著 わ され る ことにな る。 しか も各視点が互 いに交流 な しに部分的関心 に向い,特 に問題設定の間 に連 関が ま す ます希薄 とな り, 当然 のよ うに相互 の くい違 いが激 しい論争 を呼 び起 こす結果 とな る。 その相 違 は, しば しば学派や研究の見解 における専門の言語が限 られた概念 や現象の特徴 のみ に用 い ら れ るとい うことに基づ いてあ らわれて いる

06

なかで もグロースの理論 を修正深化発展 させ るよ うに継承 して い く数 多 くの心理学,特 に児童

(9)

心理学が遊戯論をあ らわす。 グロースの 「準備論」を クラパ レー ド

(Claparede,A

. )が受 けつぎ, そ して カール及び シャロッテ ・ビューラ‑ (

B'dhler,K.&Ch.

)や ピア ジェ

(Piaget,J.)に引 きつ

がれ るO また 「 無意 図的 目的論」は シュテル ン

(Ste

r n

,W.

)が,「 準備論 および日的論」は シャ トウ

(Ch^atead,J.

)が,そ して 「 補償理論」はフロイ ト

(Freud,S.

)が受 けつぎ深化 させ ること になる

。絹

ジュネ‑プの医師で心理学者の クラパ レー ドは,子供をまさに 「大人の候補者」 と特徴づ け, 常により新 しくそ して増大 して い く遊戯修練

(Spiel'tibungen)‑の子供の疲れを知 らない愛着 を,

その生得的な 「 大人 になることへの願望」6 頚 によって明 らかに しよ うとす るOそ して遊戯 は 「あ たか も何 々のよ うな」世界 そ して 「フィクション」の世界 にあ らわれて くる。 ここか ら遊戯 と幻 想の役割の問題か らイマ ジネー ション,錯覚,暗示 とい った もの と現実 との関連 も解明 され うる

と心理学的論議が生 じて くる。

精神分析学派 も子供の遊戯を彼 らの問題領域 に取 り込む ことになる。 フロイ トは,子供が無意 識 に 「 快感原則」(

Lustprinzip)7

畑 こ支配 されて遊戯す るのみな らず遊戯 において明 らか に楽 し くない事柄 も繰 り返す とい うことをさ ぐりあて る。遊戯す る者 は,以前 に楽 しくない もの として 消極的に経験 した ことを遊戯 において彼 自身の積極的な産物 として体験す る。遊戯す る者 は,遊 戯 において その場 を自由に支配す ることがで き,可能 な仕返 しの衝動,権力の欲求,幼稚 な好色 的な欲望 を消散 させた りまた同時 に遊戯 を通 して欲求不満,怒 り,葛藤か ら解放 され る

。川

っ ま り欲求 の蓄積 や その紛争 が圧倒 的 になると無意識の 「反復強迫」(

Wiederholungszwang)7

カ が 子供を して楽 しくない ものをいわば遊戯 において少 しづつ自分の もの として,心情の静止状態が 回復 され るまで それを克服す るよ うに しむけるとい うのである。

フロイ トの この考えは,遊 び手がなん らかの方法で不快 な感情 を取 り除 こうとす るカタル シス の考え と似かよ って いると,見 ることもで きる し , 「同化」 というメカニズムか らも理解 され る。

フロイ トは子供 の遊戯をその機能 によ って夢や偽 りの行為のよ うに精神分析的 に十分理解 され た 形態 と見 な している。エ リス

,M.

.

が言 うよ うに,精神分析理論 は

,

「 子供 たちは現実 と非現実 とを 自分たちの遊 びの中に混ぜ合わせ ることによって, 自分たちの空想 に, 自分たちの環境 に由 来す る現実の諸要素 を意識的に加 えて い く, と主張 して いる

」7

頚 と要約 され よう。精神分析家た ちは,子供 の生活や遊戯の世界 に診断や治療 としての欲求の力学の確かなモデルを吟味す るよ う になる。 この ことは, フ ロイ トが精神 分析 的解釈 の内部 の学 派対立を越えて遊戯治療

(Spiel therapie)への議論 を引き出 し,その方法やモデルに大 きな影響 を もた らす ことになる。7

同時代 には,心理学的問題設定が多様 に展開 され, フィッシャー

(Fischer,A.)紘,遊戯 と労

働 に関す る解釈 を 「 遊戯 している者」が 「その場の主人」になること,少な くとも一部 に 「主権 を有す る」(

S。uvenan)よ うになることか ら進めている。 7

9真面 目に労働 し生産 し闘争 している 人間 は

,

「禁欲 的 に」彼 の 目標の職務 を行 な っているのに対 して,遊戯の場合はすべての手段や 目的に対 して,彼の 「 優越的」な態度 によ って特徴づ け られ るとす る。そこには一つの行為が,

「 遊戯」であるか 「 労働」であ るかは,一般の定義 によっては決定 され ることはで きず,む しろ

「そこにはめ込 まれた関係やその活動を彼の行為に取 り入れ る態度か ら心理学的」に結論 されね ばな らない

。相

っま り遊戯 と真面 目さは表面的なメル クマールによっては分け られず,同 じ活動 が ,その活動 の裏 にあ る態度 に従 って両者 のどち らに もな りうることを指摘 して いる。「すべて の ことは, まった くすべて遊戯 され ることがで きる

印 とい うのである。

しか し遊戯す る者の主観が,ただそれだけでは十分に明 らか にされないよ うな態度 と活動形態 の外的要素や程度 もあ り,精神の豊かな解釈の試み も限定 され ることになる。

‑ ッセ ン

(Hessen,S.

)は,子供 の発達 のさまざまな段階 における遊戯,労働,創作 とその実現

‑ 119

(10)

化 な どの活 動 形 態 を 明 らか にす るため に,遊戯 における 「 無律 的」(

anome)で,主観的願望 の

法 則 の ない気 まま さ

(Willkiirlichkei

t ) と労働 における 「 他律 的」(

heteronome)で,他 によ っ

て規 定 され た任 務 成 就 と さ らに創 造 過 程 における 「自律的」(

autonome)で, 自己選択 され た

独創的な活動を理論的 な構成 と して導 き出す。 しか しこのい くらか図式的な概念構成‑ の動機 は, 遊戯教育 の領域で の異 な った改革教育 学 的傾 向の間の,例 えば フ レーベル学派 とモ ンテ ッソ リー 学派の間の論争のように

,20

年代半 ば に硬化 した論争であ る,7

8と見 ることがで きる。 その結果,

各論証 は改革教育学 的理念 の異 な った程度 や多様 な傾向 に関連 して いる幼稚 園や学校 の制度化 さ れた教育での遊戯評価 と して導かれ る ことになる。

しか し他 方 で は, ビュー ラー

(Biihler,K.

)のよ うに,極端で強烈 な形態従属,つま り多 くの 子供 の遊戯の形式 ぼ った経過の直接 的で儀式化 された 「 厳密 さ」を示 した心理学 的考察 もあ らわ れ る。

ビューラー

,K.

,

「 社会的受 け継 ぎ」が大人か らはるか に独立 した子供 の遊戯 の伝統 を まった く免れて生 き残 ることはで きない ことを指摘 し

,7

頚 遊戯で兄 い出 され る多様 な規則性 や構造化 は, ま さに実験 的,統計的,発達心理学的,社会学 的,民族学的,歴史的調査研究‑ の刺激 を与 えて い るとす る。 同様 に シュル ツユ・(

Schultze,W.

) は,規則的な 「 構成体」 と して空間 と時間 にお いてさまさまな構造 を もって いる子供 の遊戯 の 「 形態的統一」(

Gestaltungseinheit)で あ る 「

形 態の拘束力」を取 り上 げて いる

。8

ビューラー, K.は, 遊 戯 の心 的経験 の側 面 を明 らかにす る際 に,再度心理分析 的傾 向を伴 な う 原則的な議論 にいた る。つ ま り, グロースにとって は遊戯 は将来‑の準備 された行為であ り, フ ロイ トとその学派で は遊戯が緊張 と解 繁の平衡 の領域 にあ った。 この両視点 はいわば遊戯を外部 にあ る前 提 か ら解 明 す る ことを求 め る ものであ るのに対 して, ビューラ‑,

K

. に遊戯す る者 自身 に とって,遊 戯 の快 感

(Lust)が結 局 の と ころ彼 自身 に生 じ, しか もその 「

現在 的役割 を軸 と す る機能的快楽」叫を求 め る。す なわ ち,過去 の欲求の充足 と同時 に完結 され示す 「 享楽 の快感

(Genusslust)

によって,さらに同 じく将来 に向け られた 「 創造 の快感」(

Schaffenslust)によ っ

て ,遊 戯 の楽 しみ は 「 機 能 快感

」(FunktlOnSlust)と して 明 らか に区別 され ることがで きる,8

とい うもので あ る。 また フロイ ト批判 の核心で あ った 「充足が緊張の撤廃 と しで 決感 を生 み出す だけで はな く,む しろ緊張や活動の程度 の創作や保持 も快感 と結 びつ いてい る」 とい う観点 は, 約4

0

年後 へ ック‑ ウゼ ン

(Heckhausen,H.

) によ り改めて取 り上 げ られ ることにな る

。8

ビューラー,

K.

に よ って始 め られ た精神分析学 派 との論争 の継続で, シュテル ン

(Ste

r

n,W.)

は,青 年期 にお け る目標 と して 「 真面 目な遊戯」(

Ernstspiel

)解釈を行 ない,「あたか も何 々の よう」 という形態 を問題 とす る。 シュテル ンは,グロースと同様 に 「 過去 の意味」 , 「 現在 の意味

そ して 「 将 来 の意 味 」の間 の遊 戯 の生 命 価 値 を 区別 す る。 そ して無 意 識 で 目的論 的 な先準備

(Vorubung)

と並 んで, よ り強力 に個人的で 目的 に適 した契機

(Moment)を兄 い出 して いる。

つ ま り人 は , 「 生 成 し」 そ して 「 発達す る」だ けで はな く,む しろその個有 の成長 に積極 的 に関 与 して いるので あ る。遊戯 は客観的 には,十分 に真面 目な生活で はな くとも,主観的 には,非常 に神聖 で真面 目 さを もって体験 され,手探 りを しなが ら自己同一性

(Identlflkation)の獲得が

企て られ る

。8

4 ここに遊戯 と真面 目さの間の連関が生 じ,青少年 の遊戯姿勢 が考察 され る。

フ イ ツシ ャ‑が , 「 禁欲 的」労働 の姿勢 に対 して,遊戯す る者 の姿勢 を主体の 「自己任意性」

と 「自主性」 によ り区別 したが, シャ トウ

(Chateau,J.

)は,包括的な調査 と観察 によ って次の

よ うに解釈す る。 さび しく時お り厳格 さや残酷 さと接す る 「 禁欲主義」が多 くの子供 の遊戯を特

徴づ けると し, さらに適切で不動の形態 の断固 さ,幾可学化,規則, リズムなどが子供 の遊戯の

形態 に含み こまれた豊か さを示す

。絹

そ して いわゆ る 「 破壊的遊戯

綿 な ども,遊戯 の完全な世

(11)

■tl‑一・‑.1‑111T.

界を支配す る 「 秩序の愛」(

amourde1(ordre)に帰せ られ るとす る。遊戯の楽 しさは, シャ ト

ウによれば率直な道徳的楽 しさとされ るので,無規則で拘束を受 けないような遊戯の行為が兄 い 出され るとい う見解 には厳 しく批判を加 え る。

上述の一連の心理学的な遊戯理論 においては,遊戯は常 に本能のダイナ ミックな過程を通 して

「 遊戯す る者の自我 におけるはっきりした生起の心的,内部主観的体験様式 または心構 え

」 8

句と して考察 されて きたと考え られ る。場合 に応 じて遊戯す る者は,外部主観的な対象,遊戯規則, 遊戯仲間 も利用す るが,結局の ところ自我の内部主観的楽 しみの獲得のためである

この内在的 なかたよ り打開の手がか りが,形態,構成,分類の相対的 自立性 や持続性か ら模索 されたが,遊 戯が個 々の遊戯す る者の魂の内的現象 と してはほとんど十分 には描出 され得 ないことであ り,主 体 を越 え た 「対話 的」ない し 「 相互作用的」(

interaktional

) と して考察 されねばな らないこと を示唆 している。

ここで新 しい解釈 へ の試 みを行 な った一人が,アメ リカの社会哲学者 ミー ド

(Mead,G.H.)

であり,社会学的な考察か ら遊戯を 「シンボ リックな相互作用主義」か ら明 らかに しよ うとす る。

自我の獲得 には 「同 じ状況内に自分 自身が置かれていると認め る人」にな ら誰で も 「 他 の個人 に 生 じさせ るものを 自分 自身のなか にも生 じさせ る」ような 「シンボ

ル」

によ りコ ミュニケー ショ ンを行 な うことが必要 となる o 細 さらに自我の発生 に際 しての背景 には,遊戯や遊戯行為が存在 す る。例 えば何 か の模倣をす る遊戯

,

「こ' っこ遊 び」で子供 は目に見えない 「 空想上の友だち

をその経験 の中で生み出 し,他人 に呼 び起 こす刺激 に対す る自分の反応を利用 し, 自我の形成 に 活用す ることになる。 さらに規則のある遊戯では 「 他人たちの反応がみ こ、 とに組織 だて られてい るので,誰かのあ る態度 は,それ に見合 った他人の態度 を呼び起 こす」 ことにな り, 自我意識 の 形成‑ と導かれ ることになる

。姻

他人の役割 を通 して 自我のアイデ ンテ ィテ ィー発見へ と進む こ とになる。 ミー ドは,遊戯 には達成すべ きはっきりした目標 もあ り, さまざまな個人 たちの行為 もこの 目標 との関連で互 いにすべて結 びつけ られ る論理が あり,それ故 に自我の組織化 も可能 と なる, と考 え る。 さらに遊戯の もつ重要 さは,子供 自身の経験 の内部 にす っか り含 まれ る点 にあ り,遊戯の規範が,子供が属す る共同体のよ り大 きな規範 よ りもその子供を包み込む

。9

Q 遊戯を 始めると子供 は完全に投入できる 「 社会状況」につつまれ,現実の社会組織の中で 「 機能で きる 人間」への不可欠な土台育成が行 なわれ る。

遊戯は この観点か ら社会現象 と してそ して社会化の要因 ない し社会化の媒体 として明 らか にさ れ る。 さらに文化比較論的,文化人類学的,民族学的視点か らの分析のために意義ある価値を示 す ことになる。

この意 味で ,サ ッ トン ・ス ミス

(Sutton‑Smith,B.)

は遊戯研究の新 しい文化的拡大の代表者 の一人であろう。規範体系 と行為基準の社会的機能 の認識のために,経験的に密接な学際的な資 料受容 と問題の収集 を前提 として いる。サ ッ トン ・ス ミスは, さまざまな文化 における養育の実 際はその文化 の本質的な特徴を反映 して いるとい う仮説 に立 ち, その養育形式 自体が,子供 たち にス トレスを生 じさせ,それ故 に遊戯す ることによ ってそのス トレスの代償を得 るのであ ると考 え る。 こ う して生 じる遊戯は社会の 目標である子供の文化化の過程を助けるもの として

,「葛藤

‑文化化 の仮説」州 と名づ け られ る。

長 い人間の文化の発展 においてほ,何 ら遊戯を生み出 さず,養育 は単 に滋養物を必要 とす る段 階か ら義務 と しての養育の型がみ られ,子供 は言われた通 りに正確 に繰 り返す生活では,個性や 創造的問題解決の余地 もな く,環境の改善 は運 にまか され ることになる。 それは 「 責任 ある扶養 者の勤勉 な役割 とは対立」す るものであるが , 「社会がその成員の生活を組織化する方法の反映」

と して偶然性の遊戯が広まる

。昭

次 に達成や遂行を重視す る社会での養育では,子供 たちに常

121‑

(12)

「 で きばえ」への圧力がか け られ不安がつの ることにな る。 この ことの反映 と して 「どち らが う ま くや ったか とい うことが審判 され る技術的」遊戯への参加 によ って不安が緩和 され る。第三

服従を強調す る養育 の型の社会で は,養育す る側 の権威や厳格 さによって子供 の願望や攻撃性が お さえ こまれ る。 この葛藤 は,他人を統制す る機会 のあ る遊戯や攻撃性 を一定 あ らわせ る遊戯 に おいて置 き変 えがで きると考 え る。

サ ッ トン ・ス ミスは,養育 の型 と遊戯 との関連 を単純化 したため,養育 の型 を義務,達成,脂 従 と し, それ に対 応 す る子供 の遊戯を,運 ( 偶然性) ,技術,戦 略の各遊戯 とす るとい った,形 式的な もの とな った。 しか し葛藤‑文化化 の仮説 は,遊戯す る者 のパ ーソナ リテ ィと遊戯‑の動 機 と しての養育環境か らの要求 との相互作用を指摘す るもので あ り,従来 の遊戯理論 を社会的機 能 と して統合 しよ うとす る試み と考 え られ る。

科学 は一方で は常 に厳密 な限定 され た問題設定 において,詳細 な解答 を求 め るとい う点が先行 し,他方で は, その同様の ことが個 々の資料 の複雑 さと増大す る孤立化 を招 き,際限のない特殊 化や細分化 の過程 にまよい込んで しま う。 その結果,同 じ一つの対象で あ って も各 々の理論 は多 くの異 な った解答 を提 出す ることにな る。個別諸科学の解釈 による遊戯理論 も,遊戯の客観的な 規則の構成や遊戯 の構造 などで は,分化 された個有の専門用語を発達 させ, しば しば互 いにほと ん ど関連 な く,部分理論 と して独立す る。 この多 くの個 々の理論 を再 び全体解釈の試み と相対 さ せることや遊戯 を学際的 に同一化 しうる対象 と して明確 にす るためには,従来の学問体系 を離 れ, 新 しい方法論 を必要 とす る。

脚註及引用文献

1)Scheue

r

l,H∴TheoriedesSplels.1955,Weinheim,10.Auflage,1975,S・5ff 2)ElllS,M.J∴WhyPeoplePlay.1973.

大塚思剛他共訳 :人間はなぜ遊ぶか。繁明書房,昭和

52

,199‑200 3)Ellis,M.J

∴前掲書

90

4)Scheuerl,H∴TheorledesSpiels.a.a.0.,S.13

アリエス

,P∴

<子供>の誕生 みすず書房

,1984.

アリエス

,P∴

<教育>の誕生 みすず書房

,1984.

5)Scheuerl,H∴ebenda,S.14.

6)Scheuerl,H∴ebenda,S.15.

7)Locke,J∴SomeThoughtsConcernlngEducatlOn,1693・

服部知文訳: 教育に関する考察,岩波書店,昭和

49

,31 8)Locke,J:

前掲書

320

9)Locke,

:

前掲書

322 10)Locke,J:

前掲書

322 ll)Locke,J:

前掲書

160 12)Locke,

:

前掲書

161‑162 13)Locke,

:

前掲書

208

14)

サイコロの様な多面体にアルファベットや数を工夫してはりつけ,しかもいかにも大人の遊びのよう に思わせなが ら,子供たちの前で行なうという工夫も考える

。(Locke,J

∴前掲書

239‑240頁) 15)Scheuerl,H∴ebenda,S.15

16)Rousseau,J.J∴Emlle,oudeleducation,1762.

今野一雄訳: エ ミール 岩波書店,昭和

45

,162

参照

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状態を指しているが、本来の意味を知り、それを重ね合わせる事に依って痛さの質が具体的に実感として理解できるのである。また、他動詞との使い方の区別を一応明確にした上で、その意味「悪事や欠点などを

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しかし、近年は遊び環境の変化や少子化、幼 児の特性の変化に伴い、体力低下、主体的な遊

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

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