『茨城大学人文社会科学研究科院生論集』 第 3
号2019
年度2018 年度茨城大学人文社会科学研究科 修士論文要約
本号掲載修士論文要約 文化科学専攻
15LM107T
伍 琳君 日本語における主語省略の条件について16LM108T
藤田 歩 日本語における関係節について─
Whitman(2015)による大主語関係節化分析の検証─
17LM101Y
大里 美穂 奈良時代・平安時代の墓制─北関東火葬墓を中心として─17LM102S
大山 恒 戦国期東国大名の水軍編成の特質17LM103L
作間 亮哉 河合栄治郎のナショナリズム─対中国観と「人格の成長」を中心に─
17LM104F
佐藤 海盟15
世紀後半におけるドナウ両公国の対外関係─アトス山修道院への寄進に着目して─
17LM105X
戸澤英理香 豊臣政権の大名統制─政権機構の構造的特質について─17LM106R
山田あづさ 木曽義仲と信濃国の武士17LM107H
ア リ マ 復興曲線からみる被災者の心の復興─平成
27
年9
月関東・東北豪雨による常総市での水害を事例にして─
17LM108A FU
保育教諭による子どものリーダーシップの捉え方TULEGEN
─日本と内モンゴルの幼児教育現場を通して─17LM109T GONG 『老子本義』から
見る魏源の「救世」思想LIXUAN
17LM110X
貫 海匯 二〇世紀初期における留日中国人女学生の思想─
『中国新女界雑誌』を中心
に─17LM111R
郭 樹燕 清末における李鴻章の「自強」思想についての研究─太平天国の乱と洋務運動を中心に─
17LM112H
李 昊洋 戦時期日本における官製女性団体の研究─ジェンダー秩序への影響─
17LM113A
張 興旺「十五年戦争」期における小山貞知とその思想
─
『満洲評論』を中心に─
社会科学専攻
16LM207R
徐 倩 顧客の生活世界におけるサービスの効果─連続したプロセスが生む新たな成果─
16LM209A
程 鈺BYD
競争優位性についての研究16LM211X
劉 哲甫 中国における産業政策の変動とそれによる経済効果─河南省に関する一考察─
17LM202G
木村 佳典 生活困窮者自立支援制度と自治体による生活困窮者把握の方法と課題
17LM203Y
櫻井 輔 空間の商品化理論を援用した涸沼地域の地誌学的研究17LM207X
増田 八重 データによる石岡市の現状分析と持続可能な地域づくりのための政策提案
─石岡市ふれあい交流施設 やさと温泉ゆりの郷を例とし て─
17LM208R
茂垣 諭「機能」する行政評価の構築
─茨城県鹿嶋市の行政評価を事例として─
17LM209H
渡邉 早葵 児童虐待の学校対応について─相模原市と西東京市の事例から─
17LM210L
宮 靖鈞 中国不動産バブルの二極化問題─地域ごとの比較研究─
17LM211F
劉 洋 大連市の高齢者福祉支援策に関する一考察17LM212X NI
戦後日本社会における歴史認識に関する一考察ZHIJIAN
─南京事件をめぐる新聞報道を中心として─17LM213R
申 風茂 産業構造転換に伴う農民工の労働と生活の変容─帰郷農民工を中心に─
17LM214H
申 雅璇 オーストラリアにおける中国女性移民に関する人文地理学研究─シドニーとメルボルンを中心に─
17LM215A
王 芬 中国における女性労働力率の低下要因と求められる政策・制度17LM216T WANG
上海市における産業間所得格差の実態とその要因に関する一MENGDI
考察17LM217N ZHANG
中比関係における経済と安全保障の交錯QIONG WEN
─南シナ海問題を中心に─日本語における主語省略の条件について
伍 琳君
本論文は、日本語の主語省略が可能になる語彙・統語・語用論的制約を、統語論の視点か ら統一的に説明したものである。
まず、第
1
章で、Ariel(2001)に基づき、省略を可能にする言語共通の普遍的条件につい てまとめ、日本語の主語省略の固有の問題点を明確にした。第
2
章では、成山(2009)
が提案した4
つの日本語の主語省略を可能にする制約、「語彙制約」、
「文の制約」、 「文章の制約」、 「省略の順序の制約」を詳述
したのち、それらを批判的に検証し、これらの制約は、主語省略が可能になる条件を記述的に示し、複数の制約が複合的に関わる ことを示しているものの、それらの制約がどのような場合にどのような優先順位でかかわる のかが明確にされていないという問題点を指摘した。
第
3
章では、主語省略のメカニズムを統語的に説明した長谷川(2007a, b)を詳述し、批 判的に検証した。まず、長谷川(2007a, b)が提案した日本語の空主語(省略)の認可条件(命題レベル(IP)の上位 Rizzi(1997)が提案した CP
構造があると仮定し、CP内の主要部 の人称素性との一致により可能)の妥当性を検証し、これまでの先行研究で示され主な主語 省略を説明できるものの、時制によって、主語省略が異なる場合を説明しきれないことを指 摘した。第
4
章では、主語省略を語用論的立場から説明した久野(1978)を詳述
し、第一人称主語 とその他の人称主語省略すべてを主題省略とみなす久野を、長谷川が示した第一人称目的語 が主題化できず、省略もできないことを根拠に批判し、久野の提案を修正する必要があるこ とを指摘した。第
5
章では、長谷川の提案したCP
構造を修正し、独自のCP
構造を提案し、成山で示さ れた個々の主語省略の条件は、このCP
構造で統一的に説明できることを示した。日本語における関係節について
─ Whitman (2015) による大主語関係節化分析の検証─
藤田 歩
本論文では、まず、第一章で日本語の関係節、及びその先行研究について概観し、第二 章で日本語の関係節についての
2
つの異なる考え方について紹介している。Comrie(1996,1998, 2010) による日本語の関係節は、他のアジア諸語と同様移動によって派生されないとい
う主張と、Comrieの主張に対する反論と新たな提案を行った
Whitman (2015)の主張をまと
め、それぞれの主張の問題点を指摘し、本修士論文の研究目的を明確にした。第三章では、これまでに行われた関係節に関する主な先行研究を
2
つの視点からまとめた。1つは、統語的観点からの先行研究
(久野 (1973)、
奥津(1974)、
寺島(1974
78)、
井上(1976))
であり、もう
1
つは、語用論的観点の先行研究(白川(1986)、松本(1993)、加藤(1999))である。
そ の う え で、第 四 章で は、第 二 章で取り上げ た
Comrie
とWhitman
の論 争に関し、Whitman
の、日本語の関係節は他の言語同様移動によって派生されるという主張、特に、二重関係節も大主語からの移動によって派生されるという主張に異を唱えた。そして、日本語 の二重関係節は、自由に生起し、「深い節と浅い節とで動作主が別個に存在してならない」
という「同一動作主の制約」によって、その容認可能性が決まると主張した。ただし、この 制約には、例外もあり、他の制約も関わる可能性があることも示唆している。
奈良時代・平安時代の墓制
─北関東火葬墓を中心として─
大里 美穂
日本における火葬墓は、『続日本紀』の記述から
700
年の道昭の火葬を初源とする。以降、文献に記されている火葬例や、発掘調査による文字資料から埋葬年が知られる火葬例を検討 すると、そのほとんどが畿内の事例に限られる。703年の持統天皇、707年の文武天皇、721 年の元明天皇をはじめ、707年の威奈大村、723年の太安万侶、723年の道楽、729年の小治 田安万呂など、8世紀の畿内においては天皇、僧や貴族を中心に採用され、9世紀後半には 衰微していくという様相がみられる。
本稿は、関東における火葬墓の導入時期、及びその分布の様相、並びにそれらの時期ごと の変化を把握し、関東における火葬墓の造営集団にかかわる考古学的特徴を「墓域」の観念 に注目しつつ、火葬墓と古墳との関係、火葬墓と集落との関係について、詳細な分析をおこ なうことを課題とした。
まず関東における火葬墓の導入時期及び、その分布の様相並びにそれらの時期ごとの変化 を把握するための考古学的な実践を行った。火葬墓について指摘されてきた時期ごとの
「波」
が関東地方全域に見られるものであるのか、北関東の火葬墓の事例を集成し、巨視的な分布 を把握しようとした。そこから得た知見をもとに、茨城県土浦市田村・沖宿遺跡群と水戸市 赤塚遺跡の比較から、これまで考えられてきた造営者像の妥当性を再度検討することによ り、地域における「成立期」火葬墓の在り方が、決して一様でないことを指摘した。ここか ら、律令制の新規墓制に対応しつつも、地域への影響力や、経済力の問題から、それに完全 には対応しきれない集団を想定した
。茨城県土浦市田村・沖宿遺跡群の 9
世紀前半代の日常 什器転用骨蔵器の使用と、10世紀における灰釉陶器短頸壺使用骨蔵器使用の例からは、古 墳時代以来の優位性を持つ集団が奈良時代に引き継がれる様相ばかりではなく、地域におい て「一番ではない」
集団が律令制の下で成長していく様相をも想定できるのではいだろうか。しかし、本集成で扱ったのは火葬墓資料だけであった。本来であれば地域の墓制をすべて 体系立ててその傾向を表すことが必要であり、今回の検討だけでは奈良時代・平安時代の地 域社会景観を復元していくことはできない。本稿では触れることがかなわなかった火葬骨蔵 器の生産や流通のほか、土壙墓はもちろん、他の奈良時代・平安時代の墓制も、併せて観察 していくことが必要である。それにより、古墳時代からの地域において形成されてきた階層 性が、奈良時代・平安時代に新しい原理によって再構成されていく中で、どのような混乱や 競争があったのか、古墳時代から古代律令制社会への地域社会の変化の実像を描き出すこと が可能になると思われる。
戦国期東国大名の水軍編成の特質
大山 恒
本論文は、戦国期東国の大名権力の下で編制された水軍を取り上げ、その構造的特質を明 らかにしようとするものである。小田原北条氏と甲斐武田氏の水軍を対象とした。これまで の研究は、水軍の活動を「軍事」という限定的な視点から論じて来た。船舶での輸送や商人 との関わりといった側面からのアプローチにより、領国経営という大きな枠組みの中で、水 軍をとらえることを目的とするものである。
北条水軍の将・山本氏は伊豆国田子を本領としながらも向地の里見氏との対決に備え、江 戸湾で活動した在地領主的水軍である。山本氏は、房総半島への戦闘行為のみならず、半手 の徴集の現地統括役を担い、また水軍の拠点である浦賀において番銭の徴収を行うなどを業 務とした。山本氏の本領は田子である。父子で、本領の田子、主な水軍活動地の江戸湾と、
分業して役割を担っていた。それは山本氏の本領経営と、北条氏の水軍編成のあり方から受 けた制約であった。
在地の有徳人や商人も水軍の活動や領国経営のための政策に動員されていた。それは、彼 らの輸送や物資調達の能力の高さを利用するためであった。従事する業務の内容は、物資の 調達や輸送のみならず、船を使った浦の見廻りなどの活動である。北条水軍の活動を支え、
その構成要素とみることもできよう。
北条水軍は在地の勢力のみならず、他国から誘致した水軍勢力をも、その指揮下に加えて いた。在地の水軍勢力と同様
、里見氏に対する
対応であり、知行の宛行状況などからも北条 氏の誘致水軍への期待の高さがうかがえる。誘致水軍は紀伊国との関わりを維持し、商人的 性格をも備えていた。北条氏は彼らのそうした能力に注目し、紀伊半島の海賊勢力の誘致を 行ったのである。北条領国は、太平洋の駿河湾・相模湾・江戸湾という広範囲の海岸に面し ていることから、その軍事力配備には限界があった。北条領国内だけで水軍領主を調達する ことは困難であり、外部から水軍を誘致し、軍事力や運搬に関わる業務を補ったものと考え る。彼らは、みずから商人として活動し得る存在で、北条氏は、流通政策に活用することを も意図して彼らを誘致・編成をしたものと考えられる。武田氏は、永禄
11
年の駿河侵攻で、今川領だった沿岸部を領有するようになり、それま での領国経営・
軍事展開を変えざるを得ない状況になった。水軍の編成もそのひとつである。当初は旧今川領の水軍勢力を海賊衆として位置付けて動員していくが、水軍勢力の拡充のた めに伊勢方面からも水軍を誘致した。それと同時に、旧今川領の駿河国人らも新規に海賊衆 を取り立て、水軍の充実が図られた。つまり、武田水軍は、①旧今川水軍勢力、②新規取り 立ての駿河国人、③伊勢方面の誘致の水軍勢力の
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つから構成されたのである。武田水軍の知行地は、駿河
・遠江
の東西に広がって展開し、西駿河は対徳川氏を、東駿河 は対北条氏を意識していた。知行地は、さらに内陸部にも存在し、そこでは水軍活動に必要 となる木材の調達も行われた。知行地の貫高や知行地の展開域をみると、誘致水軍である小 浜氏・向井氏の知行地の範囲は広く、彼らが武田水軍の主力を担っていたことがわかる。誘 致水軍の小浜氏は軍事活動のみならず、商業活動も行うもしくは商人らと関係を持ついわば「海賊商人」であった。武田氏
の領国経営における課題となった海上戦力の編成とともに海 上輸送ネットワークの掌握の解決を意図して、武田氏は紀伊・伊勢の海賊勢力を誘致したも のと考えられる。北条氏・武田氏のいずれ水軍も、それぞれ紀伊・伊勢から水軍勢力を誘致し水軍の主力を 担った。誘致を受けた梶原氏・小浜氏は商人・商業的側面も持っていた。大名による積極的 な有徳人や商人の動員と合わせて、大名権力は軍事力のみならず、商人としての能力を期待 しての外部勢力の誘致であったと考えられる。
河合栄治郎のナショナリズム
─ 対中国観と「人格の成長」を中心に ─
作間 亮哉
本論文は、河合栄治郎のナショナリズムを中国に関する言論と「人格の成長」に代表され る理想主義・教養主義の観点から、検討するものである。対象時期は一九二〇年代後半から 四〇年代前半までという、河合が大学教授として活躍した年代を扱う。
河合栄治郎は、昭和初期を代表する社会思想家、経済学者であり、自由主義者である。
二〇年代後半から三〇年代後半にかけて、東京女子大学、東京帝国大学で社会政策について 教鞭をとるとともに、「自由主義・理想主義」を掲げ反マルクス主義・反国家主義の立場か ら学生の思想善導・教養主義に取り組んだ。また日中戦争中、いわゆる「河合栄治郎事件」
において教授職を休職処分となり、また著書の発禁処分、出版法違反による起訴・有罪など 言論弾圧を受けた人物でもある。
これまでの河合研究については、第一に、河合を民主社会主義者として、あるいは自由主 義的知識人として検討してきた。第二に、河合の「自由主義論」に関する研究は大幅に進ん だが、近年は停滞状況である。第三に河合の国際認識・ナショナリズムに関する研究はヨー ロッパ並びに中国大陸を含め先行研究が少なく、検討されてきていない状況にあるといえ る。また近年では源川(2007)や上田(2016)らの研究により、「自由主義者」と十五年戦 争との関係性について再考され始めている
。源川は自由主義者
に潜む経済的自由と格差是 正の相克課題とし、上田は「リベラル・
ナショナリズム」を提唱、戦前の自由主義にはナショ ナリズムが含まれるものとして、今まで描かれてきた「自由主義者」像を揺さぶっている。これらの研究動向を踏まえ、河合のナショナリズムを中国に関する言論、また河合が掲げる 理想主義の要点である「人格の成長」から検討した。
第一章では、三〇年代前後の河合の言論を対象とし、満州事変や満洲国建国、「一九三五、
三六年の危機」から、河合のナショナリズムを検討した。二〇年代後半から満州国建国頃ま で河合は日中両国のナショナリズムに理解を示し、日本の大陸政策の批判ならびに満州権益 の無益さを主張していた。しかし河合は「一九三五、三六年の危機」が叫ばれ、五相会議で の国策決定に沿う形で満州国承認、海軍戦力の増強を主張する。また戦争を防ぐために、国 際連盟の改革を主張し先進国と後発資本主義国間の経済的格差是正を主張した。また、この 期間、河合は戦争が「人格の成長」を妨害することから戦争反対の立場を採っていたが、そ の思考に裏には天皇の存在があり、天皇への自己犠牲が理想主義と結びついていることを明 らかにした。
第二章では、日中戦争前後の河合の言論や行動を考察した。日中戦争勃発直前はイギリス
・
アメリカ・ソ連・中国の包囲網により戦争が迫り、国民の精神を戦争へ統一する必要があっ た。その中で発生した日中戦争は、河合の思考に変化をもたらし、「人格の成長」の観点か らの戦争の肯定、満州国の正当化を主張した。また「北支文化工作」への関心の高さからか ら、「北支」視察を行い、大学の戦争協力、戦死の肯定を述べ、従来の姿勢を転換した。
第三章では、四〇年代前半の言論を検討したが、裁判期に日本国民に対して戦争貫徹を求 めた。そして一層の戦争貫徹を求めるため、『学生に与う』『国民に愬う』において同胞愛に 基づく自己犠牲を国民に求めた。それは天皇への奉仕、人格の成長という論理から説明され、
植民地支配の論理としても「武士道」という形で適用されていた。
以上から、河合の理想主義には
「天皇」という根幹が存在しており、
平時においてはナショ ナリズムへの理解や自国の置かれた国際情勢を客観視し、ナショナリズムを抑え大陸・満州 政策を批判していることが明らかとなった。それは人格の成長が天皇と分離して、個人に帰 しており、ナショナリズムと結節することがなかったからである。一方戦時では、天皇が前 面に押し出され、天皇の権威・権力
を背景としたナショナリズムが河合の思考に示され、そ
れを前提とした現状認識に移り変わる。そのため、人格の成長は天皇と結節し武士道は自己 犠牲という部分で天皇と関連するのであった。河合が求めた理想主義・自由主義は天皇を基盤としたために、戦時には完全に個人が天皇 の下に置かれることとなった。戦時にナショナリズムが高まった河合は、自ら個人主義を喪 失し、河合が求めた理想主義・自由主義から河合が批判した国家主義に転化してしまったの である。
15 世紀後半におけるドナウ両公国の対外関係
─アトス山修道院への寄進に着目して─
佐藤 海盟
本稿は、ドナウ両公国からアトス山修道院への寄進文書を分析し、それが当時の政治的コ ンテクストにおいてどのような意義を有していたのかを検討するものである。具体的には、
日本においてはオスマン帝国の拡大過程とみなされる傾向のある
15
世紀後半から16
世紀初 頭におけるバルカンの見取り図を描くことにある。そのために、ドナウ両公国の周辺地域に も目を向けながら、15世紀後半に至るまでの状況を確認し、ドナウ両公国における刊行史 料集内から、アトス山関連資料を抜粋し、その考察を行った。ドナウ両公国とは、14世紀半ばに成立したワラキアとモルドヴァの公国を指し、ドナウ 川北岸とカルパチア山脈に挟まれ、現在のルーマニアやウクライナ西部を構成する地域を含
んでいた。成立当初の両公国は、ハンガリー王国従属下からの独立を宣言したが、その後も ポーランドをはじめとする周辺諸国の間で、臣従、同盟、対立といった複雑な関係を取り結 んでいた。
両公国の成立と前後して、13世紀のアナトリアで勃興したオスマン勢力は、半島内外で 台頭し支配領域を広げていった。1362年にはビザンツ帝国の都市エディルネを征服、ヨー ロッパ方面への橋頭保とし、14-15世紀にかけてビザンツ帝国やブルガリア、セルビア、そ して黒海北岸部のクリミア・カン国などにも勢力を広げた
。ドナウ両公国はドナウ川でオス
マン領と接したこともあり、16世紀前半までにその従属下に入ることとなった。また、ドナウ両公国の君主号における国名と、支配階層の認識していた国号の違いには、
君主の「ビザンティン・コモンウェルス」への参入という権威的な理由が存在した。
15世紀後半のドナウ両公国ではオスマン帝国との対立が先鋭化し、特にモルドヴァのシュ テファン
3
世はキリスト教国の連携を訴え、精力的な援助要請などの外交活動を行った。そ
して、1470年代のワラキアはオスマン帝国と周辺キリスト教国の係争の地となり、公位が 頻繁に入れ替わるなど不安定な状況にあった。またシュテファン3
世の活動も結実せずに終 息した。そこには、ドナウ両公国が周辺のカトリックの国からは、宗派の違いやオスマン帝 国と接する「境界」的地域として認識されていたという理由があった。また同時期のオスマ ン帝国側からも、イスラームの二極的な領土認識の枠外に設けられた「境界」的な存在とし て認識されていた。一方アトス山は、現在のギリシャ共和国北東部のカルキディケ半島の北岸に位置し、正教 修道制の一大中心地として現在でも名高い聖地である。9世紀ごろから史料に現れ始め、当 初は、神との交流を目指し静寂の地を求めた隠修士によって、小規模な修道共同体が成立し ていた。その後、ビザンツ皇帝や周辺有力者から、領土や金銭などの寄進を通じて共住形態 の大規模修道院が発展していった。
アトス山は、キリスト教国の有力者の他、オスマン帝国へも自発的に臣従し、その支配制 度内では聖職者徴税請負という役割で位置づけられた。
ドナウ両公国とアトス山の関係においても、起点となるのは上記のような寄進活動だっ た。所領の寄進も行われたが、形態としては金銭的なものが主要だった。その目的としては 宗教的発心、またはビザンツ皇帝などの有力者の行為を模倣し、その権威性上昇や、名声獲 得など権威主義的な理由が通説的である。またアトス山との関係構築は、両公国における修 道院制度普及につながった。
前述のように
1470
年代にかけて、ワラキア公位は周辺国からの干渉を受け著しく不安定 な立場にあった。これまでの研究では、15世紀後半において、ビザンツ帝国、ブルガリア、セルビアなどの有力なアトス山後援者がオスマン帝国の拡大によって消失していった。そ のため、ドナウ両公国とアトス山の関係においては、以前の後援者の模倣による権威上昇が 目的だったことが前提であり、それぞれの時代における国内外の状況が加味されていなかっ
た。
そして、1482年に再即位したワラキアのヴラド
4
世は92
年に、かつてセルビアが影響力 を持っていたヒランダル修道院に対して寄進を行った。その寄進文書からはセルビアの有力 諸侯ブランコヴィチ家に連なるマーラから、その後援者の地位を引き継いだということが確 認できた。これによって正式な修道院後援者としての振舞いを見せるようになり、それは後 継者のラドゥ4
世にも継続された。このようなアトス山修道院への寄進は、ワラキアが
15
世紀後半の不安定な立場にあった ことを踏まえれば、ワラキアにとっては聖地として未だ影響力のあったアトス山と関係を構 築することで、その権威性向上による地位の安定化という差し迫った目的があったと考えら れるのである。豊臣政権の大名統制
─政権機構の構造的特質について─
戸澤英理香
本稿では、独裁政権と一括されがちな豊臣政権の内実について明らかにするため、政権の 運営方法や実情を検討し、政権におけるいずれの局面にも関わっている奉行の行動を取り上 げ検討する。奉行を軸に据え大名統制のあり方を段階的に追うことで、政権機構の構造的特 質を解明したい。奉行らは、ときに政権の決定をするための判断材料を自らの裁量によって 取捨選択し、秀吉に上申していたとされる。この点で、政権運営は奉行によって左右される こともしばしばあったと想定されるため、奉行らの活動を検討することで、豊臣政権の性質 を見定め、政権機構の解明につなげられると考えるのである。
第一章では、豊臣政権の奉行らを表すことの多い「取次
」に関して研究史を整理した 。取
次とは、大雑把にいえば、豊臣政権と大名の関係を取り結ぶ行為、またはそれを担った人物 を指す。奉行を介した大名統制や、奉行と大名とのかかわりを考える上で重要なポストとい えるが、その概念については意見が分かれる。ここでは奉行の多様な役割の一部に取り次ぎ 行為が含まれるものと考える。取次概念を拡張
し、政権機構を考える素材としての方向性を 提示した。第二章では、豊臣秀吉が天下統一に向かう第一歩と位置付けられる九州出兵において、ど のように大名を統制したのか、検討した。軍事力による制圧とともに、島津氏が石田三成を 頼って指南を申し入れてきたことで、奉行による取次が開始されたことが確認できた。また、
それによって大名毛利輝元による「九州取次」は頓挫し、かわりに奉行にその任務が移行し
たことから、豊臣政権の大名統制における官僚優位という側面の萌芽を見出した。その過程 で、名代・豊臣秀長との対立が発生するが、奉行はそれをも乗り越えうる存在となりつつあっ たことを指摘した。本来であれば、秀長は大名への取次行為まで担っていたのであり、奉行 を差し挟まない方が余計な対立を生まず円滑な大名統制を行いえただろう。しかし、隣国と の調停とは次元の違う「全国統一」過程において、実務を担う奉行の存在は不可欠であり、
全国統一を目指す豊臣政権は、そのために官僚の登用を推進したものと考えられる。
第三章では、東国に対する大名統制に検討を加えた。東国は、比較的順調に制圧できた九 州とは異なり、北条氏・伊達氏・徳川氏と、その周辺の諸将による対立など、複雑な様相を 呈していた。「東方之衆」など反北条氏の連合組織の存在も指摘されている。そのため、奉 行による取次だけでなく、軍事力を背景とした大名による取次も合わせることで、豊臣体制 を確立しようとした。しかし、その過程では、奉行が秀吉の指示の無いところで自身の裁量 によって取次を行う「庄内問題」のような事例も見受けられた。
第四章では、全国統一後の豊臣政権が、どのように大名統制を行っていくかを検討した。
今まで大名統制を担ってきた豊臣秀長などの重要人物を失った豊臣政権は、支配体制を再考 せざるを得ない段階に差し掛かった。この状況を受け、官位を利用して対応にあたるだけで なく、大名権力を抑え、側近である奉行を中心とした官僚的な政治体制を目指すことが明確 化されたことを指摘した。単に取り次ぐという行為以上に、奉行は、大名領国の政策に深く 関与していく「指南」という形で一層強力に大名を統制しようとしている。しかし、結果と して奉行による競合が存在したことも見えてきた。取り次ぎ行為の対象であった大名を自ら の指揮下に囲い込むため、本来、政権のために協力して大名統制にあたるべき奉行らが競合 する結果を招いてしまうのである。
全国統一過程においては大名による取次なども手段として用いることが必要であった。そ の後、各大名の支配領域が確定していくに従って、奉行を中心とした支配秩序が構築されて いく。奉行を重用した政策の実施に、この時期の政権機構の構造的特質があった。しかし、
奉行らが着実に大名統制を行う一方で、それが制度として確立できなかった点に、豊臣政権 としての不備があった。秀吉の存在を前提としながらも、奉行らは自らの判断によって行動 することも多くあった。これを組織化せず個人の裁量に任せた結果として、奉行間での対立 もみられ、政権運営に支障が出る事態となったものと評価したい。
木曽義仲と信濃国の武士
山田あづさ
治承・寿永の内乱期に信濃国で挙兵した木曽義仲は、北陸道を攻め上がり、反乱勢力とし ていち早く入京し京を占拠した。しかしながら、後白河法皇との不和や、粗暴なふるまい、
狼藉などにより混乱を招き、平家都落ち後の京の治安を回復することができなかった。その ため、朝廷や貴族からも見放され、入京からわずか半年ほどで鎌倉軍により滅ぼされるに至っ た。平家の都落ちを扇動し、頼朝による鎌倉幕府成立に繫がるはたらきを果たしたとも言え る義仲だが、京での支配が短命であったことから、従来、義仲の無知さや反権威的な面が強 調され、その原因は義仲個人の器量の問題とされ、深く追究される機会がなかった。平清盛 を中心とした平氏一族や、源頼朝や源義経など同時代の武士に比べて、その研究蓄積は圧倒 的に少ない。先行研究により、義仲の入京時の様子、京での動向については明らかになって きたものの、挙兵時の合戦の詳細や、義仲軍に従った武士たちの参戦理由といった点につい ての研究は、十分とは言えない。そこで本稿では、木曽義仲の率いた信濃国の武士の動向に 注目し、彼らが義仲に従った理由を解明し、鎌倉幕府成立期の信濃国の御家人制に、義仲の 存在がどの様な影響を与えることになったのか、明らかにすることを目的とした。
まず第一章では、義仲軍に参陣する武士たちの前提となる、信濃国における武士の成立に ついて検討した。伊勢神宮御厨の停廃に関する事例から、土地の開発にあたり「本領主」と 呼ばれる存在が開発において重要な役割を果たしたことなどが浮かび上がった。そして、そ うした開発領主が、荘園内における利益をめぐって武装することが、武士成立の萌芽と認め られると結論付けた。荘園内では下司職などの利益をめぐる武士同士の戦いが発生し、それ が京武者の進出を導いたことも明らかになった。信濃国内では、伊勢平氏が一族の受領就任 をきっかけとして所領を拡大したが、それを河内源氏の関東進出と同様の事例と捉えた
。
治承寿永の内乱期、木曽義仲は多くの信濃国の武士を従え上洛したが、信濃国では、在地 における武士同士の対立の解決のために、多くの武士が義仲軍へ参加する選択をしたことが 明らかになった。そしてこうした参戦理由が内乱期における義仲への従属の仕方を規定する ことになった。入京後に義仲軍の中にあった京武者村上信国は、義仲の京支配が危うくなる と、後白河院方へ鞍替えしているが、それは自身の利益や院の意向に敏感に反応する京武者 らしい行動といえるだろう。一方で同じく京武者の仁科盛家は、上洛中に義仲軍に加わり、義仲に最後まで従った。この二人の差は、参戦理由に差があると結論付けた。盛家をはじめ とする信濃国の地域社会に密着する武士たちは、在地の利害を背負って参戦したため、最後 まで義仲に従う以外に選択肢はなかったのである。
義仲滅亡後、信濃国に対する頼朝の政策は、義仲与党の一掃から始まり、自身の側近の小
笠原遠光、島津忠久、比企能員らを配置した。信濃国に対する警戒心がうかがえる。しかし、
新恩給与の数は少なく、義仲時代の所領支配をそのまま受け継いだ者が多かったと考えられ る。そして、信濃国御家人たちを鎌倉幕府体制に組み込んでいくに当たり、義仲与同を理由 に成敗された者はおらず、義仲以来の人間関係を崩して作り変えるのではなく、そのまま利 用する傾向がみられる。こうした施策は、義仲滅亡後の信濃国における支配をスムーズに開 始することを目的としていたと思われる。
さらに頼朝死後の鎌倉幕府における信濃国の御家人の姿を明らかにするため、建治元年
(一二七五)の六条八幡造営における御家人交名を検討した。社殿造営に伴い、御家人役と
して造営料が賦課されたが、それは惣領制的な公事徴取の方法であり、この交名は十三世紀 中葉からの幕府の御家人制の全貌を表している。その中で、信濃国の御家人は、義仲軍に従っ た武士たちのうち、義仲の乳母子以外の家のほとんどが存続していた。これは義仲時代を容 認した政策と考えられる。また、信濃国内の武士のうち、義仲滅亡後に殺されたことが確実 な武士は、一条忠頼に与同した井上光盛のみと考えられる。内乱期までの信濃国には、義仲 以外に国の武士を糾合しうる存在がいなかったことを示している。信濃国における鎌倉時代 の御家人制の基盤は、義仲により作られたと言えるだろう。復興曲線からみる被災者の心の復興
─平成 27 年 9 月関東・東北豪雨による常総市での水害を事例にして ─
アリマ
2015年(平成
27
年)9月7
日に台風18
号が発生し、9月9
日から9
月10
日にかけて関東 地方北部から東北地方南部を中心に豪雨とそれに伴う多大な被害をもたらした。この豪雨に よって鬼怒川では、常総市三坂町地先において約200m
にわたって堤防が決壊したことによ り、大規模な浸水被害が発生した。これにより、常総市では死者2
人、負傷者40
人以上と 建物被害は全壊53
件、大規模半壊1581
件、半壊3491
件、床上浸水150
件、床下浸水3066
件という甚大な被害になった。本研究が目的とする常総市において水害が起きてから被災者の心の復興はどう変わってき たのか、そのような出来事によっていかに影響されてきたのかを明らかにすることである。
復興曲線インタビューを用いながら被災者の災害後の復興過程についての語りを引き出し、
被災者の心の復興を分析する
。本研究では、心の復興とは
被災者の気持ちを元に戻すだけで なく、被災者がよりよい生活を送れるようにすることである定義する。2016年から
2018
年9
月にかけて、筆者は常総市での災害ボランティア、復興イベント、水害記念日の集まり、防災訓練ワークショップなどに参加しながら、「平成
27
年9
月関東・東北豪雨」による水害で被害を受けた被災者たちとかかわり、フィールドワークを行ってき た。鬼怒川の決壊地である常総市三坂町上三坂地区および越水地区である常総市水海道の水 害後の様子などに参加し観察をしながら被災者たちに復興曲線インタビューを行い、水害後 の復興や心理的な変化について調査をしてきた。
以上の調査を通して以下の
2
つのことが明らかになった。1つは、水害という出来事は被 災者の生活や心理に大きな影響を与え、水害後の復興過程の中で被災者は今までの人生の中 で体験しなかった出来事を体験し、心理的に大きく影響を受けた。水害から2
年後の時点で 多くの被災者の心理状態は水害当時よりは改善できているが、水害以前の状態あるいは以前 よりも改善した状態にはなっていないことが明らかになった。もう1
つは、復興曲線インタ ビューを用いながら被災者の災害後の復興過程についての話を引き出し、そこから被災者の 心の復興を分析する過程で、復興曲線は一つの曲線で被災者の災害後の心理状態の変化を示 せないため、複数の曲線が描きうるケースがあることが明らかになった。本研究の残された課題としては以下の
2
点である。1点目は、水害という大きな出来事が 被災者の水害が起こる前までの人生あるいは将来にどう影響を与えるかについて今後検討す べきである。また2
点目は、被災者たちは今回の大きな水害を経験して何か変わったことが あるかどうか、またこのような災害がおきたときにどう対応すればいいのかという点であ る。保育教諭による子どものリーダーシップの捉え方
─日本と内モンゴルの幼児教育現場を通して─
FU TULEGEN
本研究では、日本の保育教諭は子どものリーダーシップをどう捉えるかを明らかにするこ とを目的とする。筆者は留学生で、出身地である中国・内モンゴル(以下、「内モンゴル」
とする)の教育制度は日本と似ているが、教育方針は大きく異なっている。そのことを踏ま え、子どもの成長にとってリーダーシップは重要なスキルであると考え、ほぼ毎日子どもと 接している保育教諭が子どものリーダーシップをどう捉えるかを本研究で明らかにする。ま た、日本の保育教諭のリーダーシップの捉え方を内モンゴルの幼稚園教諭がどう考えるか。
出身地である内モンゴルの幼児教育現場にも触れながら内モンゴルの幼稚園の教諭は子ども のリーダーシップをどう捉えているかも検討する。本研究では、社会心理学の視点から
、筆
者が留学生としてフィールドワークを行う際に抱いた疑問点を中心に研究を進める。筆者は
2017
年9
月23
日から2018
年9
月27
日までの期間に週1 〜 2
回、茨城県のK
認定 こども園(以下、「K子ども園」とする)に通い、保育教諭たちと交流をし、子どもたちと 一緒に遊びながらその集団生活のできごとについて参与観察を行った。その上、保育教諭は どのような仕事をしているかを理解する。そして、今の内モンゴルの幼児教育の状況を知る ために、春休みや夏休みの期間を利用して、一時的に帰国し、内モンゴルのM
幼稚園(以下、「M
幼稚園」とする)でも参与観察を行った。文化の異なる状況で子どものリーダーシップ の捉え方が同じであるかを調査するため、日本の先生たちに行ったインタビュー内容(モン ゴル語で翻訳したもの)を内モンゴルの先生たちに読ませて反応を得た。保育教諭たちへのインタビューを
KJ(質的データの整理方法のひとつ)法により分析し
た結果、捉えた子どものリーダーシップとして「保育教諭になった動機」「保育教諭になっ てからの気持ちと感想」、「リーダーシップを発揮している子どもへの印象 」、 「園児にリーダー
シップ能力を持ってもらいたい理由」、「子どものリーダーシップについての認識」、「保育教 諭の子どもの時のリーダーシップと今の子のリーダーシップの違い」の6
つの中カテゴリー が得られた。それによって考察を行った。結果から、筆者のフィールドワークを行った
K
子ども園の保育教諭もM
幼稚園の教諭も 子どものリーダーシップの発揮を非常に重視している。子どもの時からリーダーシップを発 揮し、グループの中でリードできる子は社会に出た時の忍耐力、努力、協調性が発揮できる と捉えられている。内モンゴルでは 自発的なリーダーシップ をもつ子がいると指摘した先生がいた。本 研究では、日本の茨城県
K
認定こども園の保育教諭と中国・内モンゴルのM
幼稚園教諭の インタビューを通して子どものリーダーシップの捉え方を明らかにした。また、リーダー シップのほかはフォロワーシップという組織・集団の目的達成に向けてリーダーを補佐する 機能・能力も考察した。『老子本義』から見る魏源の「救世」思想
GONG LIXUAN
本論では、清朝の思想家である魏源(1794-1857)の著『老子本義』を対象に、その中の「救 世」思想を検討していく。
従来、彼の著作中、
『老子本義』
は殆ど注目されておらず、それは単なる『老子』注であって、魏源独自の思想が反映されているとは考えられてこなかった。しかし、今般、精読してみた 結果、そこには魏源独自の思想が含まれており、特に書中に何度も見える「救」、「救世
」と
いう言が特に重要な意義をもっていると考えられよう。つまり、魏源は、老子が「時を憫れ みて世を救う」という思いからこの五千言に注を附したのであった。彼の著作において、
「救
世」の言を用いた章節は少なからずあり、これもこの注の特徴と指摘できよう。そこで本論 では、『老子本義』中の「救世」を基軸として、魏源思想における「救世」の重要性を明ら かにした。つまり本論は『老子本義』における「救世思想」の解明を旨としているが、その 成果が、魏源思想研究に新たな一頁を加え、魏源思想の全容解明において『老子本義』が極 めて重要であることを強く主張しておきたい。第一章では魏源の生涯と各時期における彼の学問の様相について概説し、第二章では
、最
初『老子本義』を含む清朝期の『老子』注釈の特徴について論じ、また成書時期を考証した。第三章では、
「救世」
思想を中心に『老子本義』
の上下編を分析し、第四章は「救世」
思想に拠っ て「論老子」の内容を分析し、最終的に魏源の前期と後期における救世思想の変遷、また儒 教に対する見解の違いを比較した。筆者は、『老子本義』は魏源の一生の縮図と考えるが、それは注の完成まで、彼のほぼ半 生を費やしていることからも知れる。この書は『老子』注としては完成されたとは言えない かもしれないが、同一書でありながら作成された時期に拠り、その思想が一変してしまう著 作は、魏源の他著作ではあまり見られないことである。今回、この書を考察したことにより、
彼の思想を局所的ではなく全面的に捉えることが可能となり、これは魏源思想の研究におい て非常に重要な意義をもつことになった。筆者は、本論で『老子本義』の「救世」思想を考 察することによって、魏源思想の研究を余すことなく補足、完備した。本研究が、今後の『老 子本義』研究にとどまらず魏源の思想研究全体に非常に重要な意義をもったと確信する
。
二〇世紀初期における留日中国人女学生の思想
─ 『中国新女界雑誌』を中心に ─
貫 海匯
清末民国初めの日本に留学する学生の中には、女子の派遣留学生の数が少なく、近代留日 史上において学界に重視されていなかったが、中国全土の近代化において重要な地位を占め ている。留日女学生の思想が活躍し、積極的に各種の部活、様々な組織、愛国運動に参加し、
さらに同盟会の繋がりによって、留学中、彼女たちが雑誌を創刊し、著書を発表し、『中国 新女界雑誌』は当時、多少の影響をもたらし、留日女学生は留学期間中、近代女子教育を受 けて、帰国後は当時の中国の政治、経済、文化などの分野に対して重要な影響を与えた
。さ
らに、中国近代史上に、彼女たちは重要な活動と変革をもたらした。近年、二十世紀初の中国女子日本留学史、中国近代女子教育、辛亥革命期中国女性参政権 運動、中国女性新聞史と女性観の変化などに関する研究は徐々に注目を集めている。しかし、
清末留日女子学生が日本で創刊した新聞や雑誌を検討する研究の中で、女性独立思想を深く 論じたものはあまりない。さらに、女性の独立という意識の覚醒、女性の経済独立の獲得と いう呼びかけ、本当の女性主義の伝播、特に『中国新女界雑誌』(以下、『新女界』と省略す る)の先進性と制約性についての先行研究は存在していない。
それらの問題を明らかにするために、本研究は、第一章で『新女界』の誕生の背景と清末 の留日女学生の派遣状況を探究する。第二章では『新女界』の出版、発行、内容及び思想の 主旨については分析を行う。『新女界
』と同時代の女性誌『女子世界』、『天義報』雑誌の異
同点を分析する。これらを通じて、『新女界』には、科学的な伝播、文学芸術、各国の紹介 などの面での歴史的な役割、先進性があることを明らかにしている。第三章では『新女界』における女権主義がナショナリズムに対しての妥協、すなわち制約性を探究したい。
以上のことを踏まえ、『新女界』という雑誌の中で、当時の中国人留日女学生は女性主義 という先進性とナショナリズムに対しての妥協からみる当時の主な中国人女性の思想を明ら かにした。
清末における李鴻章の「自強」思想についての研究
─ 太平天国の乱と洋務運動を中心に ─
郭 樹燕
十九世紀中期、清朝がアヘン戦争
(1840)
で敗北を喫して以降、太平天国の乱(1851)、
アロー 戦争(1856)などが次々に生じた。西洋列強の侵入と内乱の勃発・拡大に刺激され、清朝と いう政権が終焉に向かって深刻な危機に瀕した状況に陥った。内憂外患に業を煮やしていた 清朝は西洋諸国と交渉し、太平天国などの内乱の鎮圧を始めた。その主要人物として、李鴻 章の役割は極めて大きかったといえよう。1860年代、李鴻章の主導により経済、文化面で の改革運動、いわゆる洋務運動が開始された。彼は軍事工業、海防建設、文化教育、商務企 業、外交などに取り組んで、科学技術に基づいて新式教育を興し、西洋の軍事と産業を導入 し、中国の近代化を推進した。
李鴻章に関する研究は、二十世紀初、梁啓超『李鴻章伝』を嚆矢として、日本でも吉田宇 之助と早田玄洞は李鴻章研究に力を入れた研究者として注目されている。しかし、上記三種 の伝記は、同時代人の伝記として価値があり、李鴻章に対しては、政治、軍事、外交等に関 する評価は共通しているものの、李鴻章の「自強」思想については論じられていない。近年、
日中における李鴻章の思想と関連する論文研究については、様々な視点からの分析が進んで いるが、李鴻章の書簡から「自強」思想の形成と実践の究明については、まだ検討されてい ないのが現状である。
そのため、本論文は清末における李鴻章の「自強」思想がどのような境遇と社会環境に基 づいて形成されたのかを考察する。また、李鴻章の「自強
」思想
が洋務運動の推進にどのよ うな示唆を与えてくれるのか、彼が全力を注いだ洋務運動の結果に対して、現在の研究者が どのような評論しているのかを検討する。最後に、李鴻章の「自強」思想は中国近代化にど のような影響を与えたのかということを明らかにする。本論文は年代順に分析を進めており、第一章「道光年間から咸豊年間における李鴻章の生 い立ち」、第二章
「咸豊年間から
同治年間における李鴻章「自強」思想の形成」、第三章「同 治年間から光緒年間における李鴻章「自強」思想の実践」の三章から成っている。第一章では、李鴻章の家族環境と成長境遇について考察する。儒教の知識を問う官僚登用 試験である科挙を受験するまでの経歴を探求する。そして、咸豊年間における太平天国の乱 を喫し、李鴻章は翰林院から戦場に転換してから登場していた原因を解明する。
第二章では、李鴻章は太平天国の乱を鎮圧すると同時に中国へ進出してきた西洋諸国の先 進的な技術との接触と展開を分析する。そして魏源、馮桂芬ら知識人が「自強」の提起を発 端として、李鴻章の「自強」思想の形成を検討する。
第三章では、洋務運動の展開を中心に、その
「中体西用」思想
から検討し、軍事海防、新 式教育、商務民生の三つに基づき、李鴻章の「自強」思想の実践過程を究明する。この洋務 運動の結果に対した評価をめぐり、李鴻章の思想という側面から分析していく。以上、李鴻章の「自強」思想によって推進された改革は、中国の軍事工業、海防建設、文 化教育、商務企業、外交などに取り組んで、科学技術に基づいて新式教育を興し、西洋の軍 事と産業を導入し、中国の近代化を推進したことが窺える
。しかも、李鴻章の「自強」思想
によって推進された改革は、伝統的な中国の王朝体制を維持するための「自強」であって、近代化国家の形成を目指す改革ではなかったことが理解でき、これが李鴻章の「自強」思想 の限界であったということを明らかにした。
戦時期日本における官製女性団体の研究
─ ジェンダー秩序への影響 ─
李 昊洋
本研究は、戦時期における女性団体を検討対象とし、特に官製女性団体の正の側面と負の
側面から、官製女性団体のジェンダー秩序への影響を検討するものである。
戦時期の日本官製女性団体には主に愛国婦人会、大日本国防婦人会、大日本婦人会などが ある。これらの官製女性団体は民間女性団体と異なり、明確なファシズムの特徴を持ってい る。戦前の自由、民主を求める民間女性団体と比べて、本質的な違いがある。だが、このよ うな官製女性団体の中に意図せずしてジェンダー秩序を変えた活動がいくつかあった。
従来の研究では、官製女性団体はファシズム化の形成過程という視点で扱われることが多 い。官製女性団体のジェンダー秩序への影響は無視され、批判的な研究が多く、その中で愛 国婦人会は「金出し団体」、大日本国防婦人会は「白い軍団」という評価で書かれている。
しかし、これらの官製女性団体の中に女性たちの実際の困難を解決した活動がある。実際に、
戦時体制下に当時の女性が「内」、男性が「外」というジェンダー秩序を変えた側面があり、
戦時期の官製女性を完全に批判することは不十分であると考えられる。
そのため、本研究では、官製女性団体を三つの段階に分け、研究する。愛国婦人会、国防 婦人会、大日本婦人会は官製女性団体の三つの段階を表していた。一番早い時期に成立され た愛国婦人会は第一段階、戦時中に急速に拡大した国防婦人会は第二段階、官製女性団体の 第三段階は大日本婦人会である。各段階で官製女性団体のジェンダー秩序に対する影響は異 なっている。しかし、これまでの研究は単一の女性団体の成立、発展、活動については取り 上げられてきたが、官製女性団体の全貌を捉える、各段階におけるジェンダー秩序への影響 を言及しておく必要があると思われる。以上の観点から、愛国婦人会、大日本国防婦人会、
大日本婦人会の構成と活動を分析しながら、これらの官製女性団体が戦時期におけるジェン ダー秩序への影響を検討するのが本論文の趣旨である。
そして、それらを明らかにしていくため、第一章では日露戦争に成立した愛国婦人会を官 製女性団体の代表として研究する。第一節ではジェンダー秩序への影響を分析し、一九三二 年の本部規則及び支部規則の改正による組織が二段階に分かれたということを述べた。第二 節は愛国婦人会の活動方面から分析し、活動を三つの段階に分け、愛国婦人会の講演は女性 たちの外出を増やし、社会事業である女子学校や夜間学校の開設は女性たちの実際の困難を 解決した、本来のジェンダー秩序が揺らいだことを明らかにした。
第二章では、満州事変により成立した国防婦人会を官製女性団体の中心として研究する。
第一節ではジェンダー秩序への影響を分析し、国防婦人会の趣意書、事業細目、特色、会員 の大衆化とユニフォームの大衆化が本来のジェンダー秩序を変えたことを明らかにした。第 二節では、昭和十(一九三五)年度と昭和十一(一九三六)年度に実施された事業から分析 する。陸軍省をバックとする国防婦人会はこの段階で急速に拡大し、庶民女性が軍事援護の 活動で外出の機会を増やし、講演会、映画会などで視野を広げた。このことにより、さらに 本来のジェンダー秩序が揺らぐことになる。
第三章では、戦時体制が確立した後に成立した大日本婦人会を代表として分析する。第一 節では、大日本婦人会の定款と綱領からジェンダー秩序への影響を明らかにした。第二節で
は、大日本婦人会の活動から分析する。このように、官製女性団体は女性の社会参加、社会 的地位の向上を引き起こし、「解放欲求」を生み出し、男性が「外」、女性が「内」のジェン ダー秩序を変えた。本論は時間を軸として官製女性団体の形成、発展、統合の順番で、愛国 婦人会、国防婦人会、大日本婦人会がジェンダー秩序への正の側面と負の側面から、官製女 性団体のジェンダー秩序への影響を検討するものである。
「十五年戦争」期における小山貞知とその思想
─ 『満洲評論』を中心に ─
張 興旺
本研究は、小山貞知とはどのような人物であるかについて、とくにその中国における四〇 年間近くの政治的・文化的活動に注目しながら、その身分を検証することを踏まえて、小山 貞知の「十五年戦争」期における軍国主義思想を検討するものである。
まずは山本秀夫氏の『満州評論解題・総目次』(一九八二)を基に小山貞知という人物に ついて確認をしておきたい。小山貞知とは(一八八八年一一月一日─一九六八年一月五日)
長野県出身である。上田中学校を卒業した後、一九一〇年に日本の租借地となった大連
(関
東州の一部)に渡り、満鉄大連埠頭に勤務しており、一五年済南駐在武官貴志弥次郎の下で、一七年より北京坂西利八郎公館(略称:坂西公館)で中国研究を始め、二二年山東省炭田の 日中合弁魯大公司に入った。一九一七年四月から二二年一〇月までの間には、土肥原賢二、
板垣征四郎をはじめ多くの軍人と知り合い、自分の政治的な得点を稼いで、後に関東軍の支 持と援助を得つつ、遂に三一年八月一五日に『満洲評論』を発行した。一九二八年五月、小 山は一人前の政客として大連に戻り満鉄嘱託となり、同年一一月に満洲青年連盟に参加し、
三一年同連盟の理事となった。『満洲評論』創刊直後の一カ月余りの満洲事変の渦に飛び込 んでいったのである。その後、三二年七月の協和会設立にも尽力した。関東軍の先棒として、
『満洲評論』及び協和会を通して、「満洲国」の「建国精神」─民族協和 ・
王道主義を宣伝し、特筆した。『満洲評論』は「満洲国
」時代の重要な時事週刊誌である。小山は同誌の創設者
の一人で、創刊から廃刊までの一四年間の唯一の法人代表及び発行人でもあった。そのため、今日まで、一貫して小山はジャーナリスト即ち文人と位置づけられてきた一方で、関東軍と 緊密な関係をもつ政客としての身分が見落とされてきた。小山その人、その生涯に関する資 料はバラバラで、その政治的身分を検証するもの、とくに彼が『満洲評論』で発表した評論
・
文章を分析する研究はまだ不十分で、殆んど存在しないのである。彼の特殊な身分により、小山に関する資料や記載などが極めて少なく、その身分は以来謎に満ちている。本論は主に
小山晩年の著作『原子時代とベトナム』の「まえがき」、山本秀夫(一九八二)『『満州評論』
解題・総目次』などを基に検証し、小山は文人
(ジャーナリスト)及び政客
の二重身分をも つことを明らかにした。小山貞知の思想を知るには、彼が拠点とした『満洲評論』誌がほとんど唯一の手がかりで ある。小山貞知は『満洲評論』を中心に文章を発表した。彼は各欄に亘って多くの文章を発 表し、数量上では、大したものである。また、個人発表の数量においても、『満洲評論』の 執筆者のうち、小山は最も多かった。筆者は山本秀夫(一九八二)を基に調査した結果
、そ
のうち評論七三篇、時評九八篇、論説六三篇、雑纂五六篇、雑録一九篇、寄書一五篇がそれ ぞれを占めており、計三四三篇を数えられ、他に小山貞知の署名のない壁報も多数あると思 われる。そのうち、最も代表的な文章は「満洲新国家の内容と使命」、「満洲建国とその理想」、
「協和運動
の根本精神」、『満洲帝国協和会とは何ぞや』、「第三戦争論」、「第三組織論」、「第
三文化の概貌」、「最後の段階に立てる世界安定の方向」、「新世界観と新体制」などである。
本研究は、これらの文章を分析し、小山の王道思想から八紘一宇に依拠する皇道思想へ発展 するのを象徴するものであることを明らかにした。また、それら文章の内容からすれば、帝 国主義を鼓吹し、日本の中国及びアジア諸国に対する侵略戦争を正当化させる軍国主義思想 が明瞭だといえる。
本論は大別すると、はじめにでは先行研究について概観し、その問題点、特徴を指摘した 上で、本研究の課題、研究方法を述べた。また、本論で使用する用語について定義した
。
第一章では、小山貞知の概観、『満洲評論』創刊における役割、系統的に小山貞知の新し い歴史像を描いた。第二章では、
「十五年戦争」
期における小山貞知の「民族協和 ・
王道主義」思想の起源、特徴、「王道」から「皇道」への発展を検討した。
第三章では、アジア太平洋戦争期の大東亜共栄圏論と戦後における小山貞知の思想の動向 を検討した。
おわりに、本論のまとめ及び今後の課題について述べた
。
顧客の生活世界におけるサービスの効果
─連続したプロセスが生む新たな成果─
徐 倩
サービスの効果の追求は、企業にとって重要な課題である。本研究は、これを解明するう えで、サービスの効果が顧客に及ぶことを念頭に、その範囲や内容を正しく理解する必要が