資 料》
松村美與子氏聞き取り調査の記録
三島母親の会・地方自治・コンビナート反対運動
沼 尻 晃 伸
は じ め に
この記録は, 2006年12月に, フランス・パリ において実施した, 松村美與子氏 (現在, フラン ス在住) からの聞き取り調査の結果を, とりまと めたものである。
住民運動によって県の開発政策が変更された事 例として有名な, 三島・沼津・清水二市一町石油 化学コンビナート反対運動の特徴の一つは, 町内 会, 婦人会, 商工会議所などの団体や, 農漁民, 教員, 医師が運動に参加するなど, 運動の担い手 が広範にわたる点にあった(1)。 運動の担い手のな かで女性が重要な役割を果たした点や, 女性の運 動への関わりは決して一様ではない点も, 先行研 究において指摘されている(2)。 筆者は, 高度経済 成長期における地域の社会経済史的変化のなかに 女性を位置づけ, 運動の論理を理解していく必要 を感じているが, 当該期の女性の行動を追える一 次資料は, 極めて少ない。 そのうえ, 運動から既 に40年以上が経過し, 当時のことを記憶しその 話を直接うかがうことができる機会も, 減少して いる。 このような現状においては, 聞き取り調査 を行い, その内容を歴史の証言として記録にとど めることが, 今後の研究を進めるうえで重要かつ 急を要する作業といえよう。
女性からの聞き取りの試みは, コンビナート反 対運動がおきた三島市において既に行われてい る(3)。 松村美與子氏の聞き取りの記録も, このよ うな試みにつらなるものだが, 以下の3つの点が, この聞き取りの特徴といえよう。
第一に, 松村美與子氏は, 三島母親の会に参加 し, コンビナート建設反対を主張したことで知ら れているものの, これまで氏自身からの聞き取り を記録としてとどめることは行われてこなかった 点である。 氏は, 1955年の世界母親大会の翌年 に, 世界各国からの母親を集めルーマニアで開催 された母親会議に, 日本代表の一人として参加す るという貴重な体験を有している。 そのほか, 三 島母親の会での活動や, 市の社会教育委員などの 自治体委員としての活動について, この聞き取り の記録からうかがい知ることができる。
第二に, 今回の聞き取りに際して, 松村氏が三 島母親の会の活動に参加し, コンビナート反対運 動に関わるうえで重要な意味をもった角田不二雄 氏 (元三島市市会議員)・裕子氏 (三島母親の会 に参加) 夫妻にも, パリまでご同行いただき, 聞 き取りに参加していただいた点である (松村美與 子氏, 角田不二雄・裕子夫妻の略歴については表 を参照)。 この聞き取りの記録には, 松村氏の証 言のみならず, 角田夫妻の話や, 松村氏と角田夫 妻の会話自体も含まれている(4)。
第三に, 松村美與子氏の夫, 松村清二氏 (1967 年死去) は, コンビナート建設反対を早い段階で 表明した国立遺伝学研究所の所員であり, コンビ ナート建設が環境に与える影響を調べるために, 三島市長が委嘱し結成したことで知られる 「松村 調査団」 の団長でもあった。 「松村調査団」 結成 の経緯を, 聞き取りの記録から読み取ることも可 能であろう。
この記録は, 2006年12月に実施した聞き取り の録音を, 松村氏がフランスに出発される1970
年までの内容について筆者が文章に起こし, その 文章を改めて松村氏と角田夫妻に確認していただ いたうえで, 加筆・削除・修正していただき, さ らに筆者が聞き取り内容について簡単な注釈をつ けることで, できあがった。 聞き取り調査とその 後の本記録の作成に御協力いただいた, 松村美與
子氏と角田不二雄・裕子夫妻に, 深く感謝の意を 表したい。 この聞き取りの記録が, コンビナート 反対運動の歴史的究明に, さらには, 高度経済成 長期の社会経済的変化を理解するための一助とな れば幸いである。
表 松村美與子氏、 角田不二雄氏、 角田裕子氏略歴 (1970年まで)
年次 松村美與子氏に関する事項 角田不二雄・裕子氏に関する事項 (その他聞き取りの内 容に関する事項)
1919 京都市に生まれる。
1924 不二雄氏, 横浜市に生まれる。
1930 裕子氏, 東京市に生まれる。
1939 松村清二氏と結婚。
1946 不二雄氏日大三島予科に入学 (後に学費値上げ反対闘争
に参加)。
1950 三島市へ移住。
1953 1月, 不二雄氏と裕子氏結婚。 不二雄氏, 日本農民組合 静岡県田方郡連合会常任書記に就任。
1955 松村美與子氏と角田裕子氏との出会い。 三島母親の会が結成される (この年, 第1回日本母親大会, 第1回原水爆禁止世界大会が開催)。
1956 ルーマニアでの母親会議に日本代表の一 人として参加。
1958 (東洋レーヨン三島工場操業開始)
1959 不二雄氏, 三島市議会議員に当選 (8期連続当選する)。
1960 この頃, 静岡県のモニターに就く。 (第一次石油化学コンビナート計画が発表,1962年に計 画は立ち消えに。 小浜池の水位が下がり始める)
1962 (渇水のため, 中郷地区農民が渇水対策大会を開催し,
東レ, 市長, 市議会議長に要請書提出)
1963 12月に, 第二次石油化学コンビナート計画を静岡県が発表。 松村美與子氏ら, 市長に反対の申し入れ。
1964
政府が公害事前調査を黒川調査団に委嘱したのに対し, 長谷川泰三三島市長が1964年4月に国立遺伝 学研究所松村清二氏ら6名の専門家に調査を依頼し, 三島独自の学術調査団 (松村調査団) が結成さ れる。 松村調査団は5月に, 公害の恐れが十分にあるとする中間報告を発表。 その後, 三島市・沼津 市・清水町各議会でのコンビナート反対(誘致断念)の決定によって, 第二次計画も破綻。
1965 この頃, 三島市社会教育委員に就く。
1967 松村清二氏死去。
1969 この頃, 三島母親の会の活動が終わる。
1970 1970年安保闘争の後, フランスへ移住。
出典) 三氏からの聞き取りをもとにし, 星野重雄, 西岡昭夫, 中嶋勇 石油コンビナート阻止 技術と人間,1993年 (原版は, 同前 「沼津・三島・清水 (二市一町) 石油化学コンビナート反対運動と富士市をめぐる住民闘争」 講座 現代日本の都市問 題 第八巻, 汐文社,1971年), 酒井郁造 見えない公害との闘い 「見えない公害との闘い」 編集委員会,1984年, 三島自 然を守る会編集委員会編 どこに消えたか三島の湧水 三島自然を守る会編集委員会,2006年を参考にして作成。
松村美與子氏聞き取りの記録
2006年12月8日〜9日フランス・パリ, 松村 美與子氏自宅にて。 角田不二雄氏, 角田裕子氏同 席, 質問者:沼尻晃伸。 以下, 松村=松村美與子 氏, 角田=角田裕子氏, 角田不二雄=角田不二雄 氏。 発言のなかで, 角田不二雄氏を指している場 合には, 角田 (不) と記した。
松村美與子氏の生い立ち
まず, 松村さんの生い立ちを聞かせてく ださい。
松村 大正8 (1919) 年生まれ。 京都生まれの 京都育ちです。 京都御所の近くに住んでいて, 遊 び場も御所でした。 父親は弁護士で, 兄と弟がい ました。 小学校は京都師範付属小学校に入学しま した。 友人の親は医者や大学教授, 会社の社長さ んとかで, 後になって自分は世の中を知らないと いうことがわかり, 自分の子どもたちはこういう ところには入れたくないと思いました。
角田 商店の娘さんは来なかったの?
松村 いなかった。 小売り商店の娘さんなど全 く来なかった。 母の代から付属小学校で私も付属 小学校。 全くの世間知らずでした。 その後, 京都 府立第一高等女学校に進学しました。 女学校に入っ たら, 大店 (おおだな) のお嬢さん方がいっぱい おられて世の中にはこういう人たちもいるのだな とびっくりしました。 1937年に卒業しました。
卒業した年の7月, 夏休みに北海道旅行に連れて 行ってもらったのですが, 汽車に乗っていたら, 兵隊さんがいっぱい乗っている反対向きの汽車に 何度もすれ違いました。 そのころはまだピンと来 なかったけど, 日中戦争が始まった直後だったん ですね。 卒業後は, 日仏学館でフランス語を学び ました。 母は映画が好きで, 子供の頃から外国映 画ばかり連れて行ってくれました。 アメリカ映画 はずっとあったけれど, あの頃はドイツ映画も盛 んだった。 女学校に入る頃からはフランス映画が ずいぶん入ってきたので, すっかりその愛好者に なりました。
昭和14 (1939) 年2月に, 19才で, 松村清二 氏と結婚しました。 家族の親しい知人で, 私は何 も出来ないから, もらってくれる人があるうちに と追い出されたようなものです。
主人は京都室町の絹物問屋の次男坊でした。 子 どもの頃は番頭さんや丁稚さんと一緒に店で育っ たから, 主人は反物を巻くのがうまかったです。
商人として育つべく, 中学は京都第二商業学校で したが, 高校進学する頃に商人より学者になりた いと思うようになり, 大阪高等学校 (旧制) へ行 きました。 そこから京都帝国大学へ行き, メンデ ルの遺伝の法則に興味を持ち, 植物の木原均先生 のもとで学ぶことになったのです。 卒業後も大学 に残り, 結婚した当時は助手でした。 結婚してす ぐ, 11月に一番目の子どもが生まれた。 私は満 20歳。 今頃の若い人なんて, 遊びまわっている 年頃でしょう。 昭和17 (1942) 年に2番目の子, 昭和19 (1944) 年に3番目の子が生まれた。
ずっと京都にいて, 昭和20 (1945) 年4月に 疎開しました。 鳥取の大山原野のすそのに京都大 学の木原生物学研究所ができたので, そこを頼っ て, その下の名和村(5)に疎開した。 名和村には足 かけ5年いました。
兄が, 昭和19 (1944) 年に太平洋で死にまし た。 ラジオで勇ましい軍歌が流れ, 勝ったような 話をする。 でっかい話。 それで勝ったんだとおもっ ていましたよ。 ずっとそう思っていた。 太平洋戦 争が始まったときは, ラジオで真珠湾攻撃の一報 を聞いた。 私は陸軍が嫌いで, 兄に海軍がいいわ よといった。 いわなければよかった。 でも兄は海 が好きだったのです。 潜水艦に乗せられた。 最後 の出撃だったのです。 次の船は, アメリカの封鎖 で, もう広島湾から出られなかった。 末っ子が生 まれてあくる年 (1945年) の1月はじめに, 公 報が入りましてね, 箱に紙切れ1枚が入っていま した。
8月に戦争は終わったけれど, そのまま名和村 に残りました。 食料疎開先です。 でも, 百姓がお 米を売ってくれなくてね。 たんすが空になりまし たよ。 お金はぜんぜんだめ。 衣類も京女の絹物は あまり値段よく買ってくれない。 しょうがないか
ら一生懸命ワイシャツ縫ったりしたりしてね。 私, 自分は何もできないと思っていたけれど, 米も担 げたし, 田んぼも耕せたし, 少しずつ自信がつい てきた。 稲刈りも麦刈りもした。 開墾もした。 お 芋の供出もしたし。 一番初めに大八車で買っても らったときはうれしくてね。 田舎は結構苦しかっ たけれど。 「疎開さんはすいとんばっか食べてい るのか」 と笑われるし。 それが去年60年ぶりに 行ったら, 10キロの米をくれました。 疎開はき ついですよね。 なんでもくることくること全部受 け入れていかねばならない。 その場その場で。 嫌 だっていってられないですもんね。
戦後, 主人の職場は京都繊維専門学校 (1949 年より京都工芸繊維大学, 現在に至る) にうつり, 教授になりました。
三島に移ってから 角田夫妻との出会い 松村 京都に帰ってきて, そのころ木原先生が, 学閥のない自由な意見のだせる研究所を作りたい と国に提案され, できたのが国立遺伝学研究所(6) で, 日本の各大学から人を集めました。 木原先生 に誘われて, 私達も昭和25 (1950) 年に三島に 行きました。
そのうち末っ子も小学校高学年になって, だい ぶひまになりました。 何もしないで家でぶらぶら していてもしょうがないから, 点字でもやって目 の不自由な人のために本をつくろうと習い始めた の。 ちょうどその時に友達を通じて角田裕子さん から 「丸綿会館(7)で会合があるから来て下さい」
という誘いかけがあって, 行ったんです。
いつごろですか?
角田 昭和30 (1955) 年。
松村 これが角田夫人との出会いなんです。 角 田夫人から, 炭鉱の大災害の話?
角田 あのね炭鉱の大災害があって。
松村 私が田舎にいるときは, 炭鉱が栄えてい たのね。 たまに京都に帰ると, 盆踊りの 「炭坑節」
が聞こえてきた。 なんでああなったの?
角田 戦争中に石炭掘れ掘れで。 戦後石油に変 わる時代が目の前にあったときに, 大災害があっ て。
松村 いっぱい悲惨な話を聞かされてね。 びっ くりしてね。 「私, ひまになったから, 私のでき ることが何かあったらお役に立ちたいと思います」
と, いったら最後です (笑)。
丸綿会館での会合は, どういう会合です か。
角田 世界へ母親をという呼びかけを, 東京か ら作家の松田解子さんが来て, いわゆる共産党系 ですよね。 全国の母親, 世界の母親よ手をつなご うというアピールが出ていて, 4月に三島で市会 議員選挙があって, 私は三島に来て間もないので, 選挙の運動は嫌だと, でもお手伝いしたいという ので, そこで子供を生んだばかりなのでこれでや ろうとして, 松村さんを呼んだ。
松村 ずいぶんあなた長いことやってたのね。
それまで運動としては。
角田 結婚したのが, 昭和28 (1953) 年。 28 年1月に三島に来ている。 29年に一番目の子供 が生まれている。 夫は農民組合をやっていました。
松村 丸綿会館は何年?
角田 昭和30年3月, 夜の雨の降った日に丸 綿会館で集会やった。 そのとき, 松村さんと小野 清子さん, 風間正江さん, 田中婦美子さん, 四條 悦子さんが佐々木さんを連れてきた。 30年母親 大会の地方の呼びかけ人になってやって, 30年6 月に東京で第1回日本母親大会があり, 8月に第 1回原水爆禁止世界大会でした。
皆さんでいかれたのですか?
角田 原水禁は松村さんが三島市代表で行った。
第1回日本母親大会には私が行った。 三島から, 私と夫が沼津の東芝の課長だった青木さんがいて。
その時の幻燈に私が映っているんです。 そのあと, 原水禁の募金運動もやった。 谷田でも幻燈会をや りました。
松村 幻燈をもってあっちこっち集会をやった。
そのうち, テレビが始まると集まりが悪くなった。
みんなテレビをみていて来ない。 テレビができて, ああ, またやられる, 庶民はまたやられると思っ た。
角田 でも1年くらいは続いた。 松村さんをルー マニアに送るといって。 昭和31年です。
松村 この年, ハンガリー事件が起きて, たく さんの人がハンガリーから河を渡って逃げたと日 本の新聞は書いた。 あの時, 私はある程度までは 共産党シンパだった。 ソ連は恐いぞっていう宣伝 にハンガリーのことなんかを利用した, そういう 人に腹たてていた。
ルーマニアには, 水爆実験の船の写真を持って 行って, みなさんに見せて, 原水爆は絶対に禁止 しなければいけないと訴えるつもりだったけれど, アクセプトされなかった。 私の力が足りなかった と思ったけれど, 考えれば向こうの国の事情もあっ たわけ。
ちょうどルーマニアは大飢饉の最中だった。 自 動車が珍しくて, 子供たちが集まってくる。 そう いうなかで私たちが車を連ねて行くことに, なん か心が痛んで, つらかったの覚えている。 こんな ことでいいのかしら。 お金を使って, 私らみたい な役にたたいないものを呼んで, いったい党は何 をしているのだろうと思いました。 本当に。 でも, 代表で行ったんだから, そんなことはいえなかっ た。 ルーマニアには1ヶ月いて, イタリアも回っ た。
日本からルーマニアへは3人だけ。 会合のとき でもエジプトのご婦人は編み物をしていた。 それ で私, やはり母親の会だなあと思って, 感心した。
一緒にいった上田さんは山口県の児童文学作家だっ た。 宮原さんは東大教授の奥さん。 この方が団長 さん。 林つや子さんは通訳, この方を入れて4人。
つや子さんは, その後, 平和委員会本部で知り合っ たアンドレ・トレさん, フランスの有名なレジス タンス闘士だった人と結婚して, パリで暮らすよ うになりました。
後につや子さんに誘われて2, 3年と思ったの が, パリに来た始まりです。 私は貧乏後家になっ てたけど, 行くなら, ゆっくりその国を知ること ができるようならといったら, アパートを探して くれて。
ルーマニアで具体的に何をしたのですか?
松村 世界大会が開かれて, そこで演説したの
です。 お母さんたちが一生懸命働いている, 子供 のために働いていると, 三島の宣伝をした。 世界 の母親大会の各国の代表の人がそこで演説しまし た。 演説したって, 私は日本語で, つや子さんが 通訳した。 私はフランス語ができるということで, 行かせてもらったけれど, できるといってもそん なものです。
会議は何人くらいあつまったのですか。
松村 大きな会場で, ラジオの取材も来ていま した。 全部で1,000人くらいでしょうか。 何しろ 世界中のお母さんですから。 イタリア, エジプト, ベトナムなどさまざまな国からきていた。 その後 は, 各国のグループに分かれて, ルーマニアのあっ ちこっち見学です。 海岸のホテルへつれていって もらった。 初めて黒海の海岸のホテルへ行ったの です。 海岸線があるけど, なにもないの。 岬もな ければ, 島もない, 船も浮いていない。 水平線が かまぼこ形に丸いんです。 海つばめがちらちらと 鳴くだけでね。 ああこういうところで, 思想が生 まれるのかなと思ったですよ。 日本では, あまり に周りが美しすぎて気が散って。
角田 トルコに行ってもそう思います。 あの広 さのなかで思想というか人間の生活の営みが続い てきたというのを感じます。
松村 ルーマニアで, 私も36歳にして初めて 感じました。 一神教という気持ちもわかりますね。
日本の人はしょうがないから, 聖人なんか山の上 に行って修行しはるはね。 それでも日本は美しす ぎる。 山の上に行っても, 美しい山脈が連なって 見える。
ママイアといったか, その黒海沿岸に行ったと きに, 今でいうアパートみたいのがあって, それ がホテルでした。 向こうの人は, 「これはみんな 働く人のために建てた」 という。 王様の離宮といっ た建物も, 全部ホテルみたいになっていた。 でも, 庶民には安ホテルなんです。 申し訳ないから, あ んまりそういうこといえません。 私たち, 自動車 3台か4台連ねてあちこち行くわけです。 ほかに 自動車なんて走っていない。 貧しい国だと思いま した。 それでも, 日本はひき肉しか食べられない 時代だったけど, ビフテキ食べさせてもらった。
ルーマニアでの母親会議への参加(8)
塩も何にもないの, ボンと焼いて出てくるだけで した。
イタリアの人は, 小さな鞄一つしか持っていな いのだけれど, しょっちゅうきれいにしている。
まるで手品のようでした。 靴の色まで違う。 革命 の歌をいつもみんなで歌いながら歩くので, 耳に ついてしまいました。 今でもよく覚えています。
ベトナムの人はベトナム服着たきれいな人たちで した。
大会が終わって, ウイーンに行って, 当時, 近 衛さんが日本の代表をしていた平和委員会を訪問 して, ウイーンの母親の会の人に町を案内しても らって, 二晩かそこらいました。 そこから飛行機 で帰ってきました。
日本に帰ってから, 報告会をやられまし たか?
松村 報告会はやりました。 よく覚えていない けれど, 宗主国の搾取から解放されて, これから の発展を夢見ているお母さんたちのことなどを話 したように思います。
角田 東京でも静岡でもやりました。
当時書かれた報告向け文書などは残って いますか?
松村 何しろ, パリに来る時に全部捨ててきた から。 日本に 草の実 という本があった, それ に報告を書いたと思います。 新聞の人も来たりし ました。
思い出すのは, ともかく貧しい国だったという 印象。 その当時私は共産党のシンパでしたから, 善意に善意に一生懸命解釈してましたけれど, 私 どっかプチブル根性がある。 みんなもそうじゃな いですか。 いうことが矛盾ばっかりしている。 私 も頭の中がもやもやすることがたびたびでした。
ルーマニアの通訳の人が, 時々ちらっと見せる, 党の委員たちに対する反感など感じられましたし ね。
報告書は作らなかったですか。
松村 母親の会というきちんとした組織がある わけではないから, つくらなかった。 提出する場 所がないから。 フリー活動です。
三島母親の会の活動
ルーマニアから帰られたあとの, 三島母 親の会の活動は?
松村 その頃みんな生活が苦しかったから, 内 職しなければやっていけない人がたくさんいまし た。 私達で何か内職をつくってあげようと。 それ でまず, 旅館の丹前の仕立て直しを引き受けてき た。 角田さんや私が重たい丹前をもらってきて, それを内職の人達が作りなおして, 賃金払って, できたのを旅館にもっていって収めた。 大観荘(9) が主でした。
角田 駅の北側に今でもあります。
松村 私らは全部ボランティアでした。
角田 内職としてお裁縫をした人は10人くら いいました。
松村 ともかく重い反物を背負って, エッチラ オッチラ熱海の坂道を上ったり下りたりしたのを 覚えています。 あれはきつかった。
角田 古いのでオムツつくって二日町の保育所 にあげたこともあります。 二日町の託児所を共同 して作ったのです。 それは田福寺というお寺の戦 争未亡人が園長さんで, 私たちが中心ではないん ですけれど, うしろで支援した。 段取りを一緒に した。 障害者も受け入れていました。0歳時を扱っ たのが, はやかったのではないか。
松村 三
み
四
よ
呂
ろ
人形はアメリカに輸出したんです よ(10)。
角田 姉妹都市のパサディナ(11)の方が交流で くるときのお土産は, いつも三四呂人形でした。
内職の収入はどのように使ったのですか。
角田 (人形を) 張っている人たちや絵付けを する人たちには工賃をきちっと払った。 私が会計 やっていたから, 知っているのだけれど, 私があ とから三四呂人形やり始めて方々に売り行って, 四條さんには毎月家賃を3,000円くらい払った。
それでほとんど終わり。 仕入れは現金でした。 和 紙も買わねばならない。 桐の箱を頼むとか材料を 頼むとかそのお金がきちっとないといけないから, 使えなかった。 私は最後に, それまでの報酬とし て1万円を受け取りました。 三四呂人形をつくり
始めたきっかけは, お金をもうけるためではない。
松村 みんなで内職の機会をつくろう, 探すの は大変だから自分達でつくってしまおうというこ とでやり始めたのです。 内職をする人のために。
角田 それは松村さんの商才なのです。 京都か ら来てみて, 三島はお土産がなさ過ぎる。 三島の お土産を作れば仕事になるんじゃないかというの が松村さんの発想でした。 そして三島に人形作家 がいるじゃないか。 あの人のものを複製したらど うだろうということで, 松村さんと四條さんが野 口家と交渉した。 絵の先生, 遠藤先生の指導を受 けました。 野口家からは, なかなか許可が出なかっ たのですが, まあそういうものならよいだろうと いうことで許可を得た(12)。
実際に働きに来ていた人には工賃を払っ たわけですね。
角田 もちろん。 結構ちゃんと払いましたよ。
お裁縫から始まって。
松村 それで, 旅館の売店なんかに, 担いで売 りに行きました。 暑い夏の中ね, 角田さんの一番 下の子供がまだ幼稚園生だったか, 連れて行かね ばならないのでつれていったのですよ。 べそかき ながらついてきて。 帰りにね, お仕事済んだらア イスクリーム買ってあげるからねとなだめながら。
やはり母親の仕事ですから。 ずっと, 子どもを守 る会(13)にも協力していましたしね。
平和運動以外に, 内職の場を作る活動を した理由は?
松村 これは社会の問題でした。
角田 あれはやっぱり, 四條さんのところがア パートになっていて, 生活に困っていた人がいた のです。 子どもはいるし, 外にはいけない, お裁 縫くらいならできるという人たちが, 身近にいま した。
松村 時間はあった。
角田 そういう意味で, 松村さんを中心に遺伝 研職員の奥さん達の中にも, 母親の会に入ってき た人がいました。
松村 私らみんな貧乏でしたよ, ぎりぎりで。
角田 ある奥さんは器用な方で, お裁縫をやっ てくれたり, 満州引き上げ組だったので餃子つく
りを教えてくれたり。 遺伝学研究所の人類遺伝学 の松永さんの奥さんが北海道から来て仲間に入り, 筋萎縮症の子を千葉の専門病院に入院させたり。
橋の下の家を建てたこともありました。
松村 谷田川の橋の下に, 今でいう 「宿無し」
さんが夫婦ですんでいて, 子ども三人が, みんな 筋萎縮症だった。 そこに大水が出て, 流れた。 そ の人達, いくところがないので, 角田さんに 「む こうの大きなコンクリートの橋, あの下だったら 流れないから, あそこに家をつくってあげよう」
と相談して, つくったのです。 うちの長男とその 友達を動員して。 市役所に行って, 楽寿園の古畳 をもらってきて, 敷いて。 そのころビニールがま だ新しかったんです。 窓をつくって, ビニールを 張ったんです。 そうしたらながめがよいのね。 川 の流れが (笑)。
角田 不法建築をやったんです。
松村 そこの旦那は戦争の後遺症で, マラリヤ か, 働けないんです。 それでも言われましたよ。
あの橋は国道の橋だから, あれは違反だと(14)。 角田 相当言われたね (笑)。 そこの子供を保 育所に入れたんです。
松村 無駄な時間を無駄には過ごさなかった (笑)。 なんかそんなことばっかり, みんなで考え て。 考え出しては, ほいきた, やろうって, 皆気 が合ってたのです。
角田 1958年の狩野川台風は, 花見さんの保 育園 (二日町保育園) を作ったすぐ後でした。 あ そこに子供を預けて, 救援に行って, 医療物資を もらいました。
母親の会で物資をもらったのですか。
角田 ええ, その物資を配って歩いたのです。
松村 こういう運動は婦人会じゃやらない。
婦人会との関係はどうですか?
角田 婦人会, 全然知らない。
全く交流はないのですか?
角田 ない。
それは成り立ちが違うからですか? 母 親大会に婦人会から出る場合もありますよね。
角田 それはね, やっぱり地域別ですよ。 地域 のなかの指導者が婦人運動に目覚めている農協や
婦人会もありましたから。 だから婦人参政権の問 題でやっていた人が婦人会を中心に運動していた 人もいますよね。 自民党にもなっちゃっています けれど。 そういう人たちの動きがあるところは, 母親大会に最初は出ました。 本当によく出てきま した。 三島は全然そうではない。 母親の会は地元 の人もいましたけれども, よそ者半分。 だからし ばりがなくてできたのです。
新生活運動はどうでしたか。
角田 それは, 農民の方で, 町の中ではほとん ど姿を消しました。 すぐに姿を消しました。 婦人 会は自主的なものではないから, つくられた組織 の中でよい指導者がいれば多少やったけれど。
母親の会は静岡市にもあったようですが, 県内の横のつながりはあったのですか?
角田 ないです。 しませんでした。 共産党の内 紛を抱えていますから。 そういうほうから働きか けはないから。 自由にやっていました。 残ってい るのは教員組合の婦人部。 これは共産党系で今で も残っています。
松村 母親の会では, 会長を決めるのはやめよ うと話した。 会長なんか決めると会がおかしくな るから。
角田 肩書きは何にもありませんでした。
松村 肩書き全部なしで集まっていたのです。
私は単なる松村美與子という, 一主婦として参加 しているつもりでした。 でも, 松村夫人, 遺伝研 の先生の奥さんだからというので, 共産党といわ れなくて, 安心してついてきた人もあった。 この ことは, ずっと後まで気がつかなかったことです が。
角田 そういう面もあったと思います。
松村 主人が死んでから, 松村夫人も松村先生 が死んじゃったらただの松村さんだよね, と言わ れているとどこからか耳に入ってきました。 どう いう意味なのだろうと思いました。 主人は政治運 動とか一切関係のない人だから, 松村美與子自身 がやっていると思っていましたけれど。 そういう のがひらひらと後ろについているのは, 自分では 知らなかった。
私は, 社会党の楠半兵衛さんの選挙運動をやり
ました。 同じ町内だったのです。 研究所の近くで 車に乗って 「皆さん〜」 とやった。 それを主人は 全然知らない, 関係ないのです。 うちの主人が何 で私のいうことを素直に聞いてくれたかというと, 学生のときからずっと砂糖会社の委託研究で, ビー トの研究をしていたのです。 台湾に行ったり, 北 海道でビートを作ったり。 私も子供をつれて夏休 み北海道にいったりしました。 そういう風にして, ずっと何十年もやってきたのです。 ところが戦後 に貿易が盛んになって, オランダからビート糖が 入ってくることになった。 それでオランダから農 学博士でビート関係の人が来るというんです。 そ れでうちの主人は, 会社から日本の案内してくれ といわれた。 だけど松村さん, あんたの研究の話 はせんで下さいといわれた。 それで, くさってま した。 「お父さん, それが資本主義というもんな のよ」 といった (笑)。 そのころ私は, 角田さん のおかげで 空想から科学へ とかの勉強会やら されたりいろいろしていたから。 ただそれだけな んだけれど, そういうことがあったから資本主義 に対する疑問は少しは持っていたんです。 何もい わない人でしたけど, 私が角田 (不) さんの話を 持っていったときも (後述), 日西化学のとき も(15), すぐにわかったらしいです。
母親の会はいつまで活動していたのです か?
角田 三 四 呂 人 形 を や め る ま で 。 昭 和44 (1969) 年くらいでした。
松村 三四呂人形を続ける人がいなくなって, 会自体も自然消滅。
その頃, 私は市の社会教育委員になって(16), 権 力側に着いたという人もいた。 反対ばかりいって てもしょうがない, 中はいってみたら, もっとい ろいろなことがわかるんじゃないかという考えが ありました。
社会教育委員になってやったのは, 学童保育く らいなのです。 あの頃, ほうぼうへ働きに出るお 母さんが出始めていましたが, 今のように女の人 が働きに出るのが当たり前の世の中じゃなかった。
女の権利だとか, 男女同権など, まだまだ一部の 人達の問題意識として取り上げられている段階で
した。 働きに出るお母さんは, ただ, 貧乏からの 脱出が目的だった。 小学校にもあがるようになっ た子供達の面倒など, 考える暇もなかったのね。
子どもたちは 「カギっ子」 として, 町に放り出さ れていました。 今のように 「オタク族」 になるニ ンテンドーどころか, テレビさえそれほど普及し ていなかったし。
それで, そんな子供達を集めて面倒を見る施設 をと思ったわけです。 東京の世田谷区にあると聞 いて, わざわざ行ってみたけれど, 区役所の人は, 母親が子供を預けて映画に行ったり, パーマに行っ たりするのだと, あまり良い話は聞けませんでし た。
三島市の社会福祉事務所の人達は, 施設をつく るお金はあるけど場所がないと言うので, 考えて みて, 小学校の片隅にプレハブを一つ建てる場所 があるだろうと, まず錦田小学校の校長に掛け合っ てみまたけど, ケンモホロロの返答。 それで, PTAの会合を利用して父兄に相談したところ, 良いだろうという事になったけれど, 校長はうん と言ってくれない。 それでも何回かの会合の末, 運動場の片隅に建てることができました。 社会福 祉事務所の人は喜んでプレハブを建てて, 子供達 の昼寝用の布団類などまで揃えてくれました。 校 長は最後まで反対で, 私の顔を見れば横を向いて しまった。 この後, 三島じゅうの小学校に学童保 育が設置されたそうです。
第一次コンビナート計画の頓挫と 合併計画・第二次コンビナート計画 松村 その頃 (1960年代に入って), 第一次コ ンビナート計画が来ました。 私はどういう経緯だっ たか, 県のモニターになっていて, その中に大岡 博 (歌人。 詩人・大岡信の父) さんもいました。
角田 当時, 静岡県の教育委員長だった大岡博 さんが, 松村さんを推薦したのです。
松村 私はコンビナート計画には最初のときか ら反対でした。 海水浴場を取り上げるなんて, 子 供たちがかわいそうじゃないですか。 夏休みに泳 げなくなる。 大岡さんは, 各学校にプールを作り ますからそれは大丈夫ですよと言った。 校長さんっ
てのは, だいたいが体制派なんですね。 まだ環境 ということをぜんぜん考えていなかった。 だけれ ど, あの時は漁民の人たちが, 冷却水を放出する と海水温が上がって魚がいなくなる, 魚が取れな くなるから, 東電が来たら困るという。 それで, その人たちと一緒に反対していました。 そうした ら, そのうち話が立ち消えになった。 なんでだろ う, 日本の経済の事情なのだろうかと疑問でした。
私もモニターでなくなっていた。 ところがやっぱ り何となくおかしい。 どうおかしかったのか思い 出せないのだけれど。 コンビナートはくすぶって いた, ゼロになったわけではない。 そうしたら, やっぱりまたきたのです。
角田 まず都市合併が出てきました。 コンビナー ト推進の戦略として。
松村 それで角田 (不) さんが合併反対を始め た。 ついに昭和38 (1963) 年12月にコンビナー トが正式に姿を現す。 それで12月に市議会が開 かれて, 角田 (不) さんが 「松村さん, ひでえん だよ, 聞きに来てくれよ」 という。 それで市議会 に行って, 角田 (不) さんの報告を聞いていたら, これはえらいこっちゃなと思いました。 ところが, 自民党の議員はみんな本気で聞いてない。 角田 (不) さんの報告には知らん顔で, 誘致賛成。 こ れは大変なことになると思うのに, なんであの人 達は思わないのか, そこがわからなかった。
角田 発展すると言えば何でもよかったのでしょ う。
松村 角田 (不) さんの話聞いていたら, 本当 に大変なことだと, 誰でも, よく聞けばわかるは ずなのに。 そのときは, まあ一応, 決定はしない で流れた。 それでそのすぐ後, 小出正吾先生が会 長をしていた三島文化協会の連中が集まって, 佐々 木高幹さん (高校教師) を中心に, ぞろぞろ市長 室に行ったのです。 もちろん, コンビナートに反 対するためですよ。 でも, みんな坐ったまま, 黙 りこくっている。 とうとう市長が 「私の身にもなっ てくださいよ, 県からやいやいとね, きつい圧力 かけてくるんですよ」 と, 情けなさそうな顔して 言った。 それでも皆, 黙っているのよ。
角田 それ何月ごろでした?
松村 昭和38 (1963) 年12月の市議会のすぐ 後。 それで私は 「でも市長さん, あなたは市長さ んなんでしょ, 私たちがなってもらったんですよ ね」 と言った。 前の松田市長を落とした選挙戦を, 私達は必死に闘ったんです。 だから私達にしてみ れば, 私らの市長さんなんです。 「市長さん, あ なたは私達市民を背に負うて, 県と対峙してくだ さるのが本当じゃないんですか」 と言ったの。 み んな黙っていたけど, あんまり当たり前の事だか ら口に出す気にならなかったのでしょう。 そして, また, ぞろぞろと市長室を後にしました。
その前に議会で角田 (不) さんの演説を聞いた とき, 私は遺伝研もこのままじゃめちゃくちゃに なると思いました。 それで, 私はきちんと説明で きそうにないので, 角田 (不) さんに, 主人に説 明しに来てくださるように頼んだら, 年明けたら 時間ができるから行くよと言ってくれた。
年が明けてすぐに角田 (不) さんが来てくれて, 私の主人に諄々と話してくれました。 主人は驚い て, それは大変だ, ここにいられなくなると。 そ れならば, 遺伝研から反対を早速市に申し込まな ければならないと判断しました。 前に日西化学の ことがありましたから。 ただ, うちの主人はその 頃病気で, 東京の病院に行かなければならなかっ た。 だから遺伝研の他の先生に会って話して, 翌 日, 早速市役所に遺伝研は反対だって申し込んで もらったんです。
その時, NHKのテレビの取材がちょうど市役 所に来ていて, 遺伝研がコンビナート計画に反対 だと, その日の夕方のニュースで流したのです。
それを見た市民が, そんな大変なことなのかと, それが, 市民の反対のきっかけになったのです。
その前後, お正月過ぎ頃でしたか, 斎藤県知事 が自ら三島に乗り込んで来ました。 さすがに市長 も 「はいはい」 と言いかねて, その会合を結論な しで流しちゃった。
その時, 県が持って来たパンフレットには,
「心配ありません」 という内容でした。 「公害はあ りません」 というんじゃない, ごまかしの表現。
長谷川市長は, そのパンフレットを市役所の地下 室に放り込んで, 結局は配らなかった。
市民も, 遺伝研が反対しているって, それはえ らいことじゃないかな, ということになってきた の。 そのあと松村調査団ができる(17)。
遺伝研反対と松村調査団の結成
角田 松村調査団ができたことが運動を大きく 変えました。 それは事実です。
遺伝研の反対はどのように取りまとめた のですか?
松村 先生方はすぐにわかります。 反対だって ことわかります。 事務の人はその時点ではあまり 関係がなかった。 あとで, あんまり盛り上がって きたので, 事務の人はちょっと具合が悪かったら しい。 国立の研究所ですから, 事務の人は馘首さ れるかもしれない。 それから松村調査団に県の測 候所の所長さんも入ってくれたのですが, 公式に は入っていない。 国からの圧力がかかってくるな かでえらかったのが, 沼津の高校の先生方でした。
西岡さんたちが市民教育に力を貸してくれたのは とてもよかった。 大きな効果がありました。
県は, 反対運動を拡散させるために, 合併の話 を持ってきた。 ある日, NHKが私の家まで来て,
「町村合併をどう考えますか」 と聞いた。 私は
「反対です」 といった。 町村が大きくなったって, 市民のために何もなりませんよと。 不便になるだ けですから。 市役所に行くにしても, どこに市役 所おくんですか。 電車とバスに乗って行くんです か。 だいたい住民の数というのはこれくらいの程 度である町が一番いい。 それをラジオが取り上げ たかどうか, 私は知りません。
それはいつの話ですか?
松村 そ れ は 昭 和39 (1964) 年1月 で す 。 NHKのテレビが来た前後でした。 ちょっと後だっ たかもしれません。
角田 時期としてはほぼ同じ頃でしょう。 1959 年に角田 (不) は選挙に出て, 1963年に二度目 の選挙でした。 二度目の選挙事務所を開くときに, 合併反対のキャンペーンをやっていくわけです。
その時, 合併問題はまだみんなのところにおりて いなかった。
松村 本当にね町は小さいほどよいですよ。 こ
れは文化クラブの小出先生からも伺いました。 経 済も透明ですしね。 いろんな問題もみんなにまる ごとはいってくる。 大きくなると, なんか自分の ことじゃないような気がして, みんな考えない。
当時の三島の人口はどのくらいでした?
角田 7万人。
松村 7万人くらいが一番いいですよ。
角田 1963年4月以降の市議会議事録を見て いただくと, 合併問題というので議題に載ってい ると思います。 コンビナートはどこかで影を潜め ているけれど, 合併問題の裏にはある。 ともかく 合併で, 沼津市長が市長になるのか三島市長が市 長になるのかを巡って, 会議をどれだけやったか。
ともかく1963年の選挙は三島中合併反対で勝っ ていくんです。 1964年1月に, 県が具体的にコ ンビナート計画のアドバルーンをあげました。 そ の時に, すぐ運動が燃えつく素地というものが, 合併問題を通して, ある意味できていたのです。
松村 三島民報の小西さんなんかがずいぶん頑 張りました。 四日市見学のバスを作ったり。 そう したある日, 黒川調査団(18)が来るという話が耳 に入った。 驚いて主人に 「黒川調査団が, 公害の 心配はないという説明をしに来る」 と話しました。
主人は 「それはえらいこっちゃ。 せっかくみんな 反対反対というてるのに」 と言います。 それで私 は 「今, 三島の人はみんなまとまっているから, 中間報告という形にしていっぺん市民大会したら どう」 と提案したのです。 そうしたら主人も同意 してくれた。 ともかく先に耳に入れた方が勝ち。
誰でも, 先に耳に入った情報が残る。 だから大丈 夫というのを入れられる前に, だめだというのを しっかり入れておかなくてはならない。 それで主 人が, 松村調査団の中間報告というのをやること にして, 沼津の高校の先生たちと一緒になって発 表する内容をつくりました。 先生たちは教育委員 会に馘首にされるかもしれないのですから, 参加 すること自体も大変でした。
角田 西岡先生は首切られなかったけれど, 長 岡先生は首切られました。
松村 ともかく危ないのに協力してやってくだ さったのです。 松村調査団はその人らのおかげで
調査団の値打ちが高まったのです。 若くて立派な 方たちです。 西岡先生は今回環境大臣賞をもらわ れた。
中間報告という言葉, 今はよく使われますが, 当時はほとんど例がなかったと思います。 必死だっ たのです。
松村調査団と長谷川市長との関係は?
松村 長谷川市長が松村さんに依頼したという 形でした。
角田 角田 (不) が市長に勧めたのです。
角田不二雄 市長は遺伝研がコンビナート反対 の抗議に来て困ったといった。 それなら遺伝研に 頼めといった。
松村調査団が, 角田 (不) さんの提案で 遺伝研の中でスムースにつくられた理由は?
角田 松村さんのお宅に正月に説明に行って, ご主人が大変なことだとわかってくれたという土 台があって, 長谷川市長に遺伝研に頼んだらどう だろうということを角田 (不) が言った。 それで 市長がOK, 前のこともあるし, 黒川というのが くる, だから, こちらも陣営をそろえなきゃいけ ないといって, 松村先生にお願いした。 それから 田島先生のところへ行ったりした。
遺伝研は全員の賛否を取ったわけではない。 遺 伝研でまとまるというよりも, それぞれの先生が 独立した考え方で参加した。 だから, 遺伝学が一 つにまとまるという表現をすると, 間違いです。
学者さんは自分の意見をきちんと持っていますか ら。
松村 それで黒川調査団と松村調査団が, 東京 で討論会をやったんです(19)。 それで黒川側が負け た。 それで一応終わった形になった。
もともと遺伝研に反対の動きがあったわ けですよね。
角田 そうではなくて, 松村さんが御主人に大 変なことになったといったのが発火点になったの です。 感じた人が, 行動を起こすことの大事さと いうか, わたしそれをいつも松村さんに思うので す。 ああそうかと, 聞き流したらそれはおしまい になる。 聞き流さないから, キャッチしたから御 主人にいう。 御主人も学者だから, きちんと受け
止める。
松村 本当にあの闘争を考えると, 薄氷を踏む ような闘争やったことをつくづく感じます。 遺伝 研の動きがなかったら, やっぱりよその都市と同 じように負けていたのではないかと思います。
角田 松村調査団がなければ勝てなかったです よ。
松村 木原所長が, 遺伝研は引っ越せばすむけ れど, 市民のあなた達はここに残るのですと言わ れた, その一言も大きかったそうです。
ところが, 昭和40 (1965) 年。 市長選挙に自 民党は松田前市長を立ててきた。 東レ誘致で, 三 島の水を枯渇させた当人です。 自民党もようそん な人たてると思いました。 三島の水がなくなった, そういうことがあったから, コンビナートに勝て た。 選挙の結果は, 3,000票足らずの辛勝だった。
だからこの闘争も薄氷を踏む思いの闘争だったわ けです。 三島民報で必死に闘った小西さんも偉かっ たですよ。
東レ工場誘致と水問題
東洋レーヨン三島工場の誘致に関しては, 覚えていることはありますか?
角田 東レはうちが選挙に出るときに始まって いました。 始まったのは1958年ころ。 工事とし ては, 選挙が始まって, 1957年には幸原に飯場 ができていた。
昭和31 (1956) 年に用地問題に関して 妥結していますね (農民と市と商工会議所)(20)。
角田 その前に, 売れるとか売れないとか北上 の人が耕作権持っていましたから, 話題になって いたのです。 だけれど1956年のメーデーでは東 レ反対は出ませんでした。 市民が問題を意識し始 めたのは, 水の問題, 工場操業の後の問題です。
角田 (不) が1959年に市会議員になってすぐに, 水問題を取り上げて, 市会議員が呼ばれるのです。
議会の議事録でも, 反対はないですね。
角田 1955年に母親大会をやっているから, 1956年のできる前に反対運動というのはほとん どなかったと思います。
松村 私は, こんな広い工場が来ても働く人は
そこらへんに2, 3人いるだけで, 機械は回るの で, 雇用が増えることは絶対ないよといったので す。
角田 角田 (不) はそれを言っていました。 北 上の人たちにそれは言ったのです。 土地を持って いる人たちに, 土地を売ったら, 働かしてやると いう約束がありました。 だけど, そんなに北上の 人たちを採用してくれることはないと, ずっと言っ てきた。
松村 機械は勝手に動くんだから, 雇用は増え ない。 絶対そんなの発展しないといった。
角田 誘致が決まったら, 割合早い段階で工事 しました。 一気ですよ。 駅のまん前でどんと工場 ができた。 耕作地といっても練兵場のあとですか ら, のっぱらで, 造成の必要はなかったのです。
松村 引込み線ねを三島市がお金を出してつく りましたね。
角田 そうです。 何年間か税金はいってこなく てもよかったんですから。
松村 保育園が足りないか, つくらなければい けない。 学校もクラスが増える。 税金は入らない。
だけど, そのとき, 私達母親の会で, 「ポストの 数ほど保育園を」 ってやったのです。 女の人が働 けるように。 そういう意味では, 工業の発展を後 押ししていたことになってしまうのですけれど。
角田 工場がくるのに反対するより, 保育所を 作るほう先やっていましたね。
松村 つくらなければいけないという頭があっ た。 東レのためにお金がいる。 そうでなくても足 りないのに, よけいに作らなければいけない。
角田 引込み線だけではなくて, 工場のために, 湯水のようにお金を使ったんです。
日西化学の反対もあったのに, 東レのと きは, なぜ簡単に決まったのでしょうか?
角田 やはり県の力が大きかった。 長泉が土地 としては半分以上で, 税金はほとんど長泉に入る のです。 三島に入ってきません。 そういう意味で, 単独ではなかった。 長泉は大賛成だった。 1959 年に市議会にでて, すぐに角田 (不) は水問題を やりました。 それから東レの問題は市民に大きく クローズアップされていく。 開業してすぐでした
からね, 水問題が出たのは。 1959年にうちが市 会議員になって, しょっぱなから水問題がでてき たわけです。 東レは, 議員を呼んで井戸を見せる というときに, 「角田だけはきてくれるな」 といっ て, 来た議員たちに洋服の生地を配った。 東レと してみれば, 議会で東レのことが問題とされたの は初めてで, びっくり仰天して, 角田 (不) だけ は来るなといった。 それが, 1959年のことです。
遺伝研の官舎で水不足になったのを覚え ていますか?
角田 県営住宅と官舎で水がなくなった。 何し ろ三島で水がないといって給水車を呼んだのはあ そこがはじめてでした。
松村 それから新しく水源地をつくった。 なん でよその会社がもうけるために, 市が負担しなけ ればならないのか, それが不思議でしょうがなかっ た。
コンビナート建設計画と東レの問題は, 時期が重なっているけれども, コンビナートにつ いては記録が残っているし運動も盛り上がったけ れど, 東レの問題はあまり皆さんの記憶も残って いない。
角田 くみ上げる量の問題が出て来て, そこか ら反対したのです。 三島市民にしてみれば, 小浜 池の水がなくなるというのは, あまりにひどかっ たというのは, 石油コンビナート反対運動に影響 しましたよね。 松村さんは三島に初めてきて, あ の水を見てどう思いました?
松村 きれいな水だなと思った。 茶碗も洗える, きれいな水でしたよ。
角田 私は1953年1月に結婚して, そのすぐ 後に東京から友達がきてくれた。 1月だから寒い のです。 東京の友だちに水生園をみせたら, 水か ら湯気が出ていると, みんなびっくりした。 夏に なると, あそこに子供連れて行って, 涼みにいっ たものです。
松村 子供たちは結構水に入って楽しんでいま したね。
角田 だから野口三四郎さんの 「水辺興談」, 水辺で遊ぶ子供たちのお人形ができてくるのです。
三四呂人形。 海ではなくて川なのです。
コンビナート反対運動とべ平連・安保 松村 コンビナート闘争のことを今こうやって 考えてみると, きつい闘争でした。 紙一重で。 ま あよく勝てたと思います。 本当に婦人たちはよく やりました。
市議会の議事録を見る限りでは, 最後自 民党もコンビナート反対に歩み寄っていますよね。
角田 しぶしぶです。 巻き返せるかもしれない という期待もあった。
松村 まだくすぶっていました。 この場は一応 通しておこうという感じでした。 それで, 翌年の 選挙に松田さんを持ってきた。 夢よもう一度とい うわけです。
角田 県知事だって巻き返したいという腹はあっ たでしょう。
松村 その市長選がたった3,000票の差だった のは, どういうわけなのかと思いました。 反対し た庶民はどこに行ってしまったのでしょう。
角田 半分の市民が運動したのでもなかったの です。 北上, 幸原あたりは反対していない。 中郷 の人たちは自分のことだけれど, 坂だとか北上の 人は直接的に被害者にならない。 旧来の自民党の 農村の票は, 自民党候補にいくわけです。
あのコンビナート反対闘争がこれだけなってい るのに, 共産党がいえないのは, 本心はやってな いから。 角田 (不) はやったけれど, 共産党自体 はあまりやっていない。 角田 (不) の手柄にもし たくない。 角田 (不) のほうにしてみれば, これ は大事だから党の名前を借りてもなんとか研究会 みたいな形で, 誰のための都市合併か という のをつくっていく(21)。 あれは本人が書いているの だけれども, 本人の名前で出していません。 いか にも共産党が出したみたいになっていますけれど。
沼津にも三島にも配られた。
松村 本当に町は小さい方がいいです。 小さい ほうが, お金の問題だってガラス張りの市政がで きる。 「なあなあ」 はいっぱいあるけれど見える。
あれ 「なあなあ」 でやっているとわかる。 大きけ れば大きいほど, お金がどこにどういっているか わからない。 もっと県とか地方自治体がしっかり
した方がよいと思うけれど, 合併はしない方がよ いと思います。
角田 今の市長の小池さんは一生懸命反対して いる。 三市三町の合併が県の方針で, やれやれと いってきている。 他の市はやる気だけれど, 三島 の市長は合併反対で2006年11月の選挙で通った。
だから, 県は困っている。 三島の 「小さければい い」 というのは, 三島の歴史ですね。 市民全体の 感情でしょう。 市民としてはどうしてか 「小さい ほうがいい」 というのだけはしみこんでいる。
松村 小さいほうがいい。 フランスの市町村は みんな小さい, それぞれがキャラクターをもって いる。 それぞれの文化を大切にするのです。
角田不二雄 三島には, 庶民大学の流れもあ る(22)。
角田 三島の場合, 地下水脈がいろいろな形で あるのです。 文化人や偉い人がいても, 庶民の中 に入らないのでは, 力になりません。
松村さんが目の前の生活の問題だけでな く, 地方自治全体にまで関心が及ぶ理由は?
松村 自分の家族 (両親) が威張ったりしてい るのをみて, あまりいい気持ちがしませんでした。
今から思うと, 私は, 弱い立場の人に同情心を持 つようなところがあったようです。 でも, そんな ものが家族のなかで薄められて。 今でも家族のそ ういう態度は嫌です。 運動している頃, 「あんた, そんなんゴマメの歯ぎしりや」 と, 母によく言わ れました。 でもやっぱり三つ子の魂百までで, 私 はプチブルにすぎないと思います。 でも, それが 嫌だ。 そういう矛盾したものが, 自分の中にあり ます。 それを一番はじめに私から引き出したのが, 角田夫人です。 合併反対だとかそういうのは, 自 分の考えで, 「それはこっちの方がええ」 とか, 自分で思うだけですよ。
そういう情報は, 角田さんから入ること が多かったんですか?
松村 角田さんからも入るし, 新聞や雑誌,
「改造」 や 「世界」 「中央公論」 だとかからも入る し。 あちこちから入りますわね。 あの頃は, 母親 大会や母親の会のエネルギーが, ずっと続いて燃 えていたわけです。 角田夫人に誘われて, 母親の
会で動き出したのが始まりです。 それまでは, 別 にそこまで社会的な願いはなかったんです。 いろ いろ考え始めて, 朝鮮戦争もおかしな戦争だった, ベトナム戦争なんて絶対反対。 ベトナム戦争反対 はようやりましたよね。
それはいつごろですか。
角田 べ平連のころです。 べ平連の運動を三島 でもやりましたから。 アピールを出して。
松村 みんなでベトナム戦争反対, 三島でやり ました。
角田 共産党よりべ平連の動きが大きかった。
そういう動きは, 三島は 「共産党くずれ」 がいま したから, べ平連にはすぐとびついたんです。
松村 1960年安保で, 東京にも行きました。
デモに。 私がなんで1970年にパリに来たかとい うと, せめて1970年の安保反対を最後にやって から, 日本を離れようと思ったのです。 だから 1970年の夏。 1回目の1960年安保と違って, ひ どいものでした。 第1回は樺さんが亡くなったり して, テレビも新聞もさんざん同調して報じたけ ど, それが年明けたらころっと安保に肯定的になっ た。 それから10年たって, 1970年。 デモの通り 道は, 人のなるべくいない官庁街みたいなところ を通るように決められていた。 人がいるところは おまわりさんが並んでいた。 時代が変わっていま した, 10年たったら。
デモの前夜, 車に若い新聞記者を三, 四人乗せ て, 国会議事堂へ行ってみたんです。 門の前でお まわりとダボシャツに腹巻きのお兄さんが仲良く 話しながら立っていて, 私たちの車はピッピッと 止められました。 乗っていた若い人が記者の腕章 を見せたら 「ライトがついてないぞ」 と言う。 国 会議事堂の廻りがあんまり明るいから, ライトを つけてなかったのです。
70年安保のデモを最後にやって, 私はパリに 来たのです。 今でも文句ばっかりいっていますけ れど。 大分変わっているみたいですね, 日本もね。
浦島花子さんですよ。 「この道はいつか来た道」
という歌が, 時折口をついて出るのですが, そう なりませんように祈るばかりです。
母親の会とのかかわりが重要なのですね。
松村 それがなかったら, 私は何をしていたで しょう。 本の点訳くらいしていたかもしれません。
聞き取りの最後に, 松村さんから一言お 願いします。
松村 今回のご研究のご趣旨, 人間社会に於け る思考と行動の変遷の有様を, その原因と結果と 照合させながら歴史の中に残そうとされるご研究 は, 大変貴重なお仕事とぞんじます。
私も, 今回の聞き取りで多くのことを勉 強いたしました。 長時間, 聞き取りに応じてくだ さいまして, 本当にありがとうございました。
付 記
本稿は, 平成18 (2006) 年度日本学術振興会科学 研究費補助金・基盤研究 (C) (課題番号:18530253) の研究成果の一部である。
《注》
(1) 運動の概要に関する代表的文献として, 星野重 雄, 西岡昭夫, 中嶋勇 石油コンビナート阻止 技術と人間, 1993年 (原版は, 同前 「沼津・三 島・清水 (二市一町) 石油化学コンビナート反対 運動と富士市をめぐる住民闘争」 講座 現代日 本の都市問題 第八巻, 汐文社, 1971年)。
(2) 平井和子 「関根壽子」 静岡県近代史研究会編 近代静岡の先駆者 静岡新聞社, 1999年。
(3) みしま女性史サークル 聞き書き三島の女性史 静岡新聞社, 2007年など。
(4) 但し, 角田不二雄氏は, 健康上の理由から, 筆 談での内容を記した。
(5) 現在の西伯郡名和町に位置。
(6) 以下, 遺伝学研究所, あるいは遺伝研と略記す る。
(7) 三島市中央町にあった民有の建物。 集会場とし て利用されていた。
(8) 1955年の第一回世界母親大会開催後, ルーマ ニア母の会の呼びかけで行われた世界会議。 婦 人文化新聞 1956年5月12日では, 「去る二月, 河崎なつ女史がローザンヌの常設委員会に出席し た際, ルーマニアの婦人会から是非来て欲しいと の招待をうけたのが実現したもので, アメリカか ら三人, 日本からは東京, 宮原貴実子さん (子供 を守る会, 宮原誠一氏夫人), 宇部市教育委員上 田芳江さん, 静岡県から松村さんの三名がえらば れ, 初のお母さん交流となったわけです」 と報じ ている。 三島市でも, 松村氏の歓送会が, 久保田
豊代議士, 松田三島市長や婦人会幹部などが参加 して実施され, 松村氏は8月18日に羽田から出 発の予定と報じられている ( 婦人文化新聞 1956年8月19日)。
(9) 熱海駅北側に位置する旅館。
(10) 三島母親の会の活動の一つが, 三四呂人形を作 ることだった。 このことに関しては, 同時代の新 聞で, 以下のように報じられている。 「女のグルー プ⑪・三四呂人形を創る人たち 三島母親の集い 三島市母親の集いではこの頃三島市田町駅前に 事務所をもち人形作りの会を初めました。 現在十 五名ほどの会員が毎日 (日曜を除く) 朝は九時か ら夕方は六時迄人形の製作にうち込んでいます。
事務所兼仕事場ときには座談会場ともなるこの部 屋の一隅にはガラス張りの戸棚に出来上った人形 が並んでおります。 発足以来今日まで約二カ月余, 出来上った製品は四百個。 東京の高島屋からも注 文があり熱海あたりにも予約が出来ており販売ルー トも人形のよさが認められて目安がついて来まし た。 (中略) 「三四呂人形」 がここ迄育って来たの は会員全体の熱意もさることながら, これにはあ らゆる困難と犠牲を惜しまずたゆまざる努力をし た松村さん四條さん田中さん等の大きな抱負と希 望があったからです。 まず四條さんが持ち家を提 供し, 松村さん田中さんが資金の心配をして, 更 に一カ月程は人形造りの勉強に専念漸く芸術品と しての香りをもった商品として世に出したのです。
これには元三島北中学の先生である遠藤春雄氏 (美術学校出身) の専門的指導がありました。 こ の人形はもともと三島に古くから伝わる張子人形 ですが, 野口三四郎先生のその作品を複製して, 先生の遺された作品の持ち味を生かして, 郷土の 産物ともし, 更に根本のねらいは家庭婦人の内職 賃金を少しでもよくしようというところにあるの です。 この会では, 現在家政婦の斡旋又ミシンの 内職などにも力をそそいでおり, 家庭婦人の内職 問題を解決し度いとの念願からの出発であってゆ くゆくは内職センターを作り度い。 又人形製作と 販売が軌道に乗りうんと稼げたら会員に金の融資 もしたい。 母子寮も設け度い託児所も作り度いと 虹の様な気焔をあげております。 工賃は一個三十 円, 一日平均五個, 熟練すれば七個は出来る。 内 職賃金の理想は, 一日五時間労働で, 一カ月収入 三千円といったところです」 ( 婦人文化新聞 1957年7月26日)。 なお, 三島母親の会につい ては, 前掲 聞き書き三島の女性史 の角田裕子 氏の聞き取りもあわせて参照されたい。
(11) アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市。 三島
市の姉妹都市。
(12) 野口三四郎 (19011937) は, 三島市出身の人 形作家。 野口三四郎と三四呂人形について詳しく は, 三島市郷土資料館編 三四呂人形 野口三 四郎の芸術 三島市郷土資料館, 2005年を 参照されたい。
(13) 1952年に設立した全国組織。 正式名称は, 日 本子どもを守る会。
(14) この家庭については, 1962年の年末に三島市 社会福祉事務所が民有地を提供してもらいバラッ クを二世帯分建て, うち一戸をこの家庭に贈った ことが当時の新聞でも報じられている ( 静岡新 聞 1962年11月25日)。
(15) 1955年に, 三島市が遺伝研に隣接する市立東 中学校敷地に, 日西化学株式会社の過酸化水素製 造工場を誘致しようとしたものの, 遺伝研がこれ に反対し, 誘致計画が中止されたもの。 その経緯 は, 辻田光雄 「東中学校の工場転換騒動記」 国立 遺伝学研究所編 遺伝研三十周年記念 創設の 頃の思い出 国立遺伝学研究所, 1979年に詳 しい。
(16) 聞き取りでは時期は特定できなかったが, 三 島の教育 昭和40年版 三島市教育員会, 発行
年不明, 36頁に記載されている社会教育委員に, 松村美與子氏が含まれている。
(17) 長谷川市長が, 政府が委嘱した黒川調査団に対 抗して, 三島市独自の学術調査団を作るため, 昭 和39 (1964) 年4月6日に松村清二氏をはじめ, 6名の専門家に調査を依頼し結成される。
(18) 政府が発足させた黒川真武元工業技術院長を団 長とした調査団。
(19) 昭和39 (1964) 年8月1日東京虎の門東洋ビ ルにて。 このときの記録は, 沼津三島地域にお ける石油コンビナート進出問題についての二つの 調査団報告とその会見録 (第7回社会医学研究 会討議資料, 1966年) に記載されている。
(20) 三島自然を守る会編集委員会編 どこに消えた か三島の湧水 三島自然を守る会編集委員会, 553頁。
(21) 同書は, 昭和39 (1964) 年2月に合併問題研 究会編集・発行と記され刊行。
(22) 敗戦後の数年間, 三島市で行われた教育文化運 動のこと。 川口和正 「庶民大学三島教室の成立」
(一) (二) 静岡県近代史研究 第16, 17号, 1989, 1990年を参照。