• 検索結果がありません。

教養・文化論集 第3巻 第1号

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教養・文化論集 第3巻 第1号"

Copied!
165
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第3巻

第1号 (通巻第4号)

2008年2月

現代日本学生の人生観

小 泉 健

私の人生

― 挫折から成功への道 ― 石 川 好

日本映画の現状

岡 田 裕 介

どうなる政治・経済・日本

― 参院選後の政局を占う ― 福 岡 政 行

大相撲と神

内 館 牧 子

女は不浄か?

― 大相撲における女人禁制 ― 内 館 牧 子

夏目漱石

を読む

― ニーチェ哲学の受容を視座として ― 橋 元 志 保

異化された語り物的演劇の<声>と<身体性>

― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 平 辰 彦 実践報告

地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った

住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上)

― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 高 橋 和 幸 願 法 廣 典 佐 藤 学 松 川 敬 照 井 理 香 ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ………

ノースアジア大学総合研究センター教養・文化研究所

教養・文化論集



(2)

現代日本学生の人生観 小 泉 健 (1) 私の人生 ― 挫折から成功への道 ― 石 川 好 (13) 日本映画の現状 岡 田 裕 介 (33) どうなる政治・経済・日本 ― 参院選後の政局を占う ― 福 岡 政 行 (47) 大相撲と神 内 館 牧 子 (63) 女は不浄か? ― 大相撲における女人禁制 ― 内 館 牧 子 (83) 夏目漱石 門 を読む ― ニーチェ哲学の受容を視座として ― 橋 元 志 保 (105) 異化された語り物的演劇の<声>と<身体性> ― 「語り」 と 「ドラマ」 の比較演劇研究 ― 平 辰 彦 (119) 実践報告 地域ぐるみの健康づくり活動機運を盛り上げるために行った 住民聞き取り調査と報告会の実施効果 (上) ― 横手市増田町西成瀬地域における 「健康の駅」 活動の普及に向けた取り組みを事例に ― 高 橋 和 幸 願 法 廣 典 佐 藤 学 松 川 敬 照 井 理 香 (151) ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ……… ………

(3)

北京外国語大学

北京日本学研究センター・

日本語学部共催 特別講演会

「現代日本学生の人生観」

講 師 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 健 日 時 平成19年6月15日 午後2時∼ 会 場 北京外国語大学

(4)

本日は北京外国語大学 北京日本学研究センターと日本語学部の共同主催による特別講演会 です。 講師の先生を紹介します。 学校法人ノースアジア大学理事長・学長の小泉健先生です。 (拍手) ノースアジア大学は秋田にありますが、 昨年から北京外国語大学との間に学術交流の協定が 結ばれて、 様々な交流活動を行っております。 今回も学長が北京外国語大学を訪問されること になりまして、 この機会に学長にご講演をお願いしているわけです。 本日の学長のご講演の演 題は 「現代日本学生の人生観」 です。 日本の若者は何を考えているのか、 今日はこれをぜひ、 先生に教えて頂きたいと思います。 簡単に先生の履歴を紹介しますが、 皆さんは先生の顔を見て、 お幾つになられると思います か。 何か昨日まで38歳と言われていたそうですが、 本当は今年還暦を迎えられておりまして、 60歳だそうです。 お若く見えますね。 先生には若く見える秘訣もぜひ、 教えて頂きたいと思い ます。 先生は東京のご出身で、 日本大学法学部をご卒業されております。 先生のご専門は法学です。 履歴としては、 仙台地方検察庁検察官、 秋田地方検察庁検察官、 そしてご自分で弁護士事務所 を開設されて事務所所長を務められております。 そして、 1999年から秋田経済法科大学、 つま り、 今のノースアジア大学の教授をされまして、 法律政治研究所長、 常務理事、 国際センター 長、 総合研究センター長を歴任され、 現在は大学の理事長・学長を務められております。 著書、 論文、 多数出されておりますが、 特に代表作としては 物権法概説 司法の実務 がありま す。 本来は先生のご専門の方から、 法律の話や最近の日本の社会問題となっているような離婚問 題等、 色々とお話を頂きたいところでしたが、 先生が事前に出して下さった3つのテーマの中 から、 おそらく今の若者に関心のある、 「人生観」 から1回目のご講演をして頂いて、 今後、 機会があればまた違う話をして頂きたいという風に考えております。 それでは、 さっそく先生にお願い致します。 (拍手) こんにちは。 ご紹介頂きました小泉です。 宜しくお願い致します。 この北京外国語大学が、 中国の大変優秀な人材を今までにたくさん出してきたということを、 私も良く分かっております。 この大学で、 しかも皆さんのように、 これから中国の、 そしてま た、 中国以外の国から来ている方もいると思いますけれども、 そういう国々の将来を背負って 立つような優秀な皆さんの前で、 こうやってお話が出来る機会を作って頂いたことを嬉しく、 しかも光栄に思っています。 今、 (司会の) 先生から私の専門が法律であるというご紹介がご ざいまして、 離婚とかそういう話であるべきかなという思いもありますけれども、 私にとって、 実は非常に難しいテーマなんです。 それを、 今日は少しだけ話しますけれども、 詳しくは次回 に話させて頂くということで、 お願いしたいと思います。 それで、 今日、 先生とお話した時、 「率直にお話して良いですよ」 と言われましたので、 現 代の日本の若者がどんなことを考えているのか、 ということを誤魔化さないで、 正直にお話さ せて頂きたいと思っております。 と言いますのは、 日本は今、 非常に難しい状態になっている んです。 それはどういうことかと申しますと、 大学に入っても、 将来、 自分が何になって良い か分からないという学生が非常に増えております。 これは学生のごく一部、 例えば10%とか20 %の学生がそういう考えでいるということではなくて、 かなりの学生がそういう気持ちでいる

(5)

んです。 実はこの話を、 私がヨーロッパ等に行って、 中国でもそうですけれども、 日本の学生 が将来何をやって良いか分からないという話をしますと、 ここのところは絶対に分かってもら えません。 「大学に行くというのにはそれだけの理由があるでしょう。 目的があるから大学に 行くのであって、 どっちに進んで何をやって良いか分からない、 というのはないでしょう」 と、 皆さん言うわけなんです。 しかし、 日本はそうなんですよ、 学生は何をやって良いか分からな い。 私はゼミを持っておりまして、 23名か24名のゼミ生がいるのですが、 成績は決して悪くはな いのに就職試験に受けて落ちるのではなくて、 受けないんです。 それで、 「就職試験はどうだっ た」 と聞くと、 「いや、 別に」 と言ったり、 「どうして受けないんだ」 と聞くと、 「いやあ」 と か言って。 そういう学生が何人も出てくるんですが、 どうしてこうなんだろうな、 という気持 ちを私はずっと持っております。 最近は、 大学を卒業するけれども、 卒業した後に職に就かな い学生、 職を持たない学生、 日本ではフリーターと呼んでおりますけれども、 そういう学生が 非常に増えています。 かなり、 何万、 何十万という単位でそういう学生がいる。 これを親は容 認している。 そういう風潮があります。 実は、 現代の学生がどういう意識を持っているかということで、 2007年4月に日本青少年研 究所というところでとったアンケートがありまして、 一部抜粋したものを皆さんのお手元に配っ ています。 これは、 日本、 アメリカ、 中国、 韓国の学生がどのような気持ちでいるかというア ンケートをとったものです。 これを要約して言いますと、 中国の学生は 「勉強して偉くなりた い、 一生懸命勉強する、 自分に自信がある」 と。 就きたい職業のベスト3は、 「法律家、 公務 員、 それから企業等の経営者」 で人の上に立ちたいという希望を持っています。 一方、 日本人は、 「会社に勤めてそれなりに過ごしていければ良い」 と。 お配りした用紙の 1枚目の裏に、 生活意識という項目がありますけれども、 「暮らしていけるような収入があれ ば、 のんびりと暮らして生きたい」 と答えており、 これが日本の平均的な学生の考え方なんで す。 その下にありますけれども 「やりたいことに、 いくら困難があっても挑戦してみたいと思 う」 と、 これは中国の学生の意識。 それから5番目に書いてありますけれども、 偉くなること について 「責任が重くなる、 自分の時間が無くなる、 だから私は嫌です」 と。 しかし、 これが 現代日本の若者だけの考え方かというとそうではなくて、 入ってずっとキャリアを積んできた 方でもそうです。 また、 この前、 新聞に載っていましたけれども、 女性が社会進出し、 幹部候 補生として、 キャリアとして入ってくる女性が多くなってきている。 ところが、 そういう社員 の半数近くが 「長に就きたくない、 嫌だ」 という風に考えているという、 アンケート結果が出 ております。 それから、 偉くなりたいかという6番目の質問がありますけれども、 そういうことについて、 日本は8%。 中国が34%、 これが一番ですね。 次が韓国の22.9%で、 その次が22.3%のアメリ カです。 これはたくさんの学生を相手に調査をした結果です。 こういうことになっていまして、 これに付け加えて言いますけれども、 自分自身に対して自信があるか、 これは出ていませんけ れども、 自分は自信が無いということについて、 「そうだ」 と、 「何をやっても出来ないんだ、 自信が無いんだ」 というような学生が、 日本では7割から8割くらい占めています。 自分を信 頼していないんですね。 これが中国、 韓国の学生は逆で、 自分に対して自信がある学生が7割 から8割くらいいるんです。 日本は一体どうなってしまうんだろうと思います。 ところで、 どうも中国側から見ると日本人の学生というのは国家意識が強くて、 団結してチー

(6)

ムでやることが得意なのではないかと見る方が多いとは思うんですけれども、 実は国家という ものに対しての意識はほとんどないんです。 日本では、 地方議員の選挙、 知事の選挙、 市長の 選挙、 国会議員等色々な選挙がありますけれども、 投票に行かないんです。 選挙に関心が無い。 それから、 これも調査の結果が出ているんですけれども、 大学生の中で、 今の日本の首相が誰 かということについて正確に答えることが出来ない人が結構いるんです。 今、 安倍さんで、 そ の前が私と同じ小泉という人でしたけれども、 名前が出てこないんです。 全然分からない。 そ ういう風に、 国家に対する関心がほとんど無くなっています。 大学教授になったのが今から10年くらい前で、 その前に弁護士をやり、 その前は検察官です けれども、 実はそれをやる傍ら、 大学でずっと講義をやってきました。 今から30年くらい前か ら大学で講義をやっていたんですけれども、 変わったところは一つもありません。 昔は隅で喋っ ている学生が多かったんですね。 親があまり行け行けと言うから大学に来ているけど、 勉強は やりたくない。 友達と何だか分からないけどよく喋っている。 ところが最近の現象は、 コミュ ニケーションが段々取れなくなってきている。 友達がいない学生が増えてきています。 つまり 私語をする相手、 喋る友達がいないので、 一人でぽつんと座っている。 大学の講義は非常に静 かになってきたんです。 ところが、 静かになってきたから大学の講義を聴いているかというと そうではなくて、 実はぼうっとして別のことを考えている学生が段々、 段々増えてきている。 日本でも女性が強くなってきています。 大学ではもちろん女性の方が、 成績が良いです。 こ れは私の専門なので、 ちょっとだけお話しますけれども、 日本は離婚が非常に増えています。 今、 1年に75万組くらい結婚しているんですけれども、 75万組のうち25万組くらいが離婚して います。 3組に1組は離婚です。 それで、 日本では 「成田離婚」 という言葉があるんですね。 これはどういうことかと言いま すと、 成田空港からハワイとかに新婚旅行に行きます。 帰ってきて、 成田に着いた途端に離婚 する。 これは何故かと言うと、 新婚旅行中にトラブルが起こるんですね。 それはどうしてかと 言うと、 それまで一人で暮らしていたので、 コミュニケーションが上手く取れない。 それで帰っ てきて離婚。 今は、 「成田離婚」 から、 「成田胃潰瘍」 に変わってきています。 (胃潰瘍になる と) お腹が痛くなって、 出血してしまったり、 胃に穴が開いてしまったりする。 新婚旅行に行っ て帰ってきて、 胃潰瘍でお腹が痛くて入院してしまう人がいるんですけれども、 「成田胃潰瘍」 になる人は、 男と女、 どちらが多いと思いますか。 そうなんです、 男なんです。 男は何割くら いいると思いますか。 何対何くらいだと思いますか。 (会場内から6対4との答え) 6対4く らいですか。 これは、 あまり正しくないです。 99%、 男です。 男は弱いんですね。 私は裁判所にも司法修習生として少しいたことがあるんですけれども、 日本では離婚事件は 家庭裁判所でやります。 調停をして、 話し合いをしてもらう。 裁判官の見習いとして、 司法修 習生としていたんですが、 お昼休みに外に出てきましたら裁判所の庭で男と女が喧嘩をしてい るんです。 女の人が男のネクタイを持って振り回しているんです。 最後に、 男の人が吹っ飛ん じゃったんですけど。 もう時計は割れて、 私が助けてあげたんですが、 女の人がファイト満々 で、 とにかくそういうことになっていまして、 もう大変なんです。 女の人が強いっていう話が 出ましたから話しますけれども、 調停の席で夫婦が喧嘩していますと、 「ここまで来て喧嘩し ないで下さい」 と止めに入ります。 その時は遠くから言わないといけないんですね、 興奮して いますから。 遠くから 「止めなさい」 って言わないと、 ちょっと間に入ってこうやったら、 「あんたなんか黙ってなさい」 ってぶたれたり、 顔を殴られたりすることがあるものですから、

(7)

遠くから止めなさい、 と声をかけるのです。 エキサイティングな話になっています。 そういう ことで段々日本が混乱して、 学生は何をやって良いか分からない。 どうしてこういう話をするかというと、 そういう私は理事長として大学を経営しているもの ですから、 経営の方が8割で学長としてはほとんど講義をやっておりません。 今は1つゼミを 持っているくらいで、 後はやっておりません。 大学の先生方には学生が一生懸命勉強に取り組 めるような指導をお願いしておりまして、 そういうわけでこういう問題について関心を持って いるわけなんですが、 非常に大変なんです。 私一人だけではなくて、 全国的にも本当に大変な ことだと思います。 実は私自身も偉そうなことを言っておりますが、 学生時代は何をやって良 いか分からなかった時代があるんです。 ですから私の体験も踏まえて、 私が如何に立ち直った かということを踏まえてお話してみたいと思います。 私の親は、 東京の下町、 ダウンタウンのようなところで、 本当に貧しい人達が住むところで 小さな工場をやっておりました。 従業員の数は多くて3名、 少ない時は2名でやっていたんで す。 名称は社長になっていますけど、 家に帰ったらこんな掘っ建て小屋の中で汗まみれになっ て自動車の部品を作っていたんですね。 私の親というのは学歴に対して非常にコンプレックス を持っていました。 大学に行っていなかったんです。 昔で言うところの高等小学校、 今で言う と中学校しか出ていなかったんです。 最下級の公務員になって消防署にいましたが、 偉い大学 を出た人が後からたくさん入ってきて、 いずれ若くても自分より上になってしまいますから、 それで辞めてしまって工場を始めたんです。 そのため、 酒を飲むたびに、 「大学へ行け」 ということをしょっちゅう言われていたんです ね。 だけど、 私は勉強が嫌いで親がやっている工場をもらったほうが楽かなと思っていたんで す。 長男ですから、 親の仕事をやろうかなと思っていまして、 高校の時はずっと勉強をしてい なかったんですよ。 それで、 親が途中で病気か何かで倒れてしまって、 私がその後を2代目社 長か何かでやっていれば、 もしかしたらバブルの時に上手く乗って、 金持ちになってベンツか 何かに乗っていたかもしれませんけれども、 どうも役所を出てきた人というのは商売が下手な んですね。 あまり上手くいかないんですよ。 それでちょっと倒産のような状態に段々なっていっ て仕事をどうするか、 「とにかく、 お前は大学へ行かなかったら、 これから生活が出来ないだ ろう」 と母親が言いました。 この母親というのは看護婦をやったり、 それから映画会社のフィルムの編集の仕事等に勤め たりしていました。 それで、 中国に関心を持っていて、 司馬遷が書いた 史記 の易しく日本 語訳されたのをかなり読んでいた人でした。 学歴はない人でしたけれども、 漢字が好きでした。 それで 「勉強が大事なんだよ」 ということを言われましたけれども、 こっちは勉強したくなく て、 不良の学生と一緒に音楽を聴いたり、 何か色々やっていたんです。 ただ、 絵が好きだった ものですから、 美術部に入って絵を描いたりしていましたけれども、 勉強は全くやっていませ んでした。 成績は悪かったです。 それで、 親が倒産したものですから、 母親の妹がお金を工面してくれることになったんです。 大学に行くのにお金が掛かるものですから、 お金を工面してくれるということでやっと大学に 行けたのです。 私は文学をやりたいということでフランス文学、 それからロシア文学等をやっ てみたいなということで3つ願書を出していたんです。 しかし、 父親は 「法律も受けろ」 と言っ たんです。 法律に対して非常にコンプレックスを持っていました。 「とにかく、 日本は法律を 勉強した人が役所でも何でも上に行く。 文学は駄目だ、 法律をとにかく勉強して、 法律の試験

(8)

を受けて上に行け」 と。 「そうでなかったら大学に行かせない」 ということを言われまして、 大学に入ったんです、 しょうがなくて。 「もう法律やるものか、 どうせどこに行ったってやら ない」 という気持ちでいました。 それでとにかく入りまして1年間は、 日本ではクラブ活動と か色々ありますので、 文芸部に入ってやっていました。 いよいよ専門課程の2年に入った時に、 大学が紛争になりまして、 大学の経営方針を巡って学生と大学当局とのトラブルが起こった。 学生が占拠してしまったんです、 大学を。 これはもう警察も出まして、 2年間近くそういうト ラブルが起きていたと思います。 私は本当のことを言うと、 出版社に入りたかったんです。 出版社に入って何か文を書く仕事 をしたかった。 ところがうちの大学にはそういう求人が来なかったんです。 「あそこは駄目だ、 トラブルばっかり起こしているし、 ろくに勉強もしていない」 ということで、 もう募集も来な かった。 それで、 そういう親が何であれ、 何の学部を出たのであれ、 とにかく試験で就職出来 るものを探そうと思って考えたのが、 司法試験だったんです。 司法試験は、 当時は7科目をやらなければいけなかったのですが、 本当に大変な試験でした。 友達がやるというので、 何人かで試験勉強が始まったんですけれども、 全然面白くない。 1冊、 これくらいの本を、 民法 (Civil Law) というとこれくらいあります。 民法総則、 物権法、 債 権、 総論、 債権各論、 身分法。 1科目でこんなにある。 商法、 会社法というと会社法、 手形法、 手形小切手法、 商法総則。 こんな、 このくらいある。 だから、 試験に出る科目だけで覚えなく てはいけないのが、 ここからこのくらいの分量です。 ほとんど取り組んだけれども全然分かり ませんでした。 とにかく外国語を読んでいるような気持ち、 感じなんですね。 全然分からない。 そういう中で勉強していったんですが、 ある時、 法律が面白いなという時が来たんですね。 刑法、 刑事罰の法律なんですけれども、 この分野に共犯理論というのがあります。 共犯理論と いうのは、 何人かで悪いことをしたとして、 他の人の分についても全部連帯責任を負うという 規定です。 ここの中で何故、 人がやったことを仲間が責任を負わなくちゃいけないかという問 題に関して、 ずうっと考えていたことがあったんです。 教科書に書いてあるんですけれども。 1日10時間、 12時間と勉強する中で一つの問題に対してずうっと考えていました、 3日も4日 も。 そしたらあるヒントに出会ったんです。 そのヒントに出会って、 そこから、 日本では 「目 から鱗が落ちる」 と言うことわざがありますけれど、 ぱっと一瞬にして見渡せるように分かり ました。 その分野だけですけれども分かりました。 「なるほど」 という風に思いました。 それ で、 今まで一生懸命ただ読んできたけれども、 分からないものは分からないままに勉強してき ましたけれども、 「この先生は一体どういうことを言おうとしているのか、 文章には無いけれ ども、 彼の言わんとしたことはどういうことだったのだろうか」 ということを考える勉強に変 えた時に、 嫌でたまらなかった法律学が少しずつ好きになってきたということで、 私は今の生 活があるのかなという風に思っています。 司法試験に受かってから検察官になって、 日本の検察官というのは捜査と裁判と両方やるん ですね。 毎日、 やくざとか強盗犯とか、 殺人犯とかそういう犯人達を夜まで取り調べする。 そ れで、 裁判所で裁判に関わる仕事をやっていた。 そういう中で、 昔は勉強したいという思いが あったんですけれど、 段々、 段々また人間が堕落してしまった。 取調室で検察官として調べを 終えた後で、 部下達と一緒に毎日酒を飲むような生活になってしまって、 これが10年以上も続 きました。 それから弁護士になってもそうですね。 忙しくて、 終わった後、 お酒を飲むくらい の仕事しか出来ない。 私は 「これではいけない」 と思って、 勉強を始めたんです。 そういう意

(9)

味ではかなり遅い。 10年、 15年間も勉強をしないでやくざを相手に、 人を殺した人を相手に、 毎日こうやっていた時代があったんです。 それから 「もう1回勉強をしてみたいな」 と思って、 勉強を始めたんですけれども。 論文を書いて大学の研究誌に載せるようになって、 大学との関 係を持つようになったのは、 ここ10年くらい前からだと思います。 そのくらいです。 本物の意 味の学問をやったというのは、 もしかすると皆さんより遅いのかもしれない。 9年くらい前か ら大学の教授となって、 それから大学の経営者ということでやっています。 私は今年の大学の入学式で、 こんな話をしているんです。 日本では孔子の影響を受けている 学者が非常に多いんです。 また、 学生や一般の人も孔子の 論語 から相当な影響を受けてい ます。 京都に伊藤仁斎という学者がおりました。 この人は孔子の影響を受けて、 孔子の教えを 皆に広めた。 それで、 この人は材木屋の息子なんですけれども、 一生懸命に孔子の勉強をして 孔子の教えを色々な人に教えた。 この人には4000人の教え子がいましたけれども、 色々な人が いました。 今から200年くらい前の人なんですけれども、 教え子の中には当時の武士、 支配階 級もいますし、 それから農民、 町民もいます。 それから神官、 神社、 神に仕える方ですが、 そ ういう人もいました。 こういう人達が日本中から当時、 歩いて集まってきたんです。 今から200年前というのは、 当然義務教育ではありませんから勉強する義務はないんです。 昔、 学問がなくても武士の子供は武士になる、 大名の子供は大名に、 将軍の子供は将軍になる という時代に、 全国から4000人もの人達が集まってきた。 当時は江戸時代ですけれども、 町人 の中には大変なお金持ちがいました。 そのような、 当時のお金で千両以上のお金を持っている 人を 「分限者」 と言いました。 この分限者というのは今のお金でいうと200億円、 元にすると8 00万元くらいのお金を持っている人ということになります。 大変なお金持ちです。 この人達は、 とにかく色々なことをしたんです。 いつも遊んで、 今でいう別荘のようなものを造って、 大変 立派な豪邸や庭を造ったり、 芸者さんを上げてドンチャン騒ぎをしたりした人達がたくさんい ます。 それで、 実はこの人達がやったことの無いことが一つあったんです。 それは何かという と、 学問をしたことが無かったんですね。 学問をしたことが無かったのですが、 伊藤仁斎のと ころに入門して弟子になって、 「こんなに面白いものはない、 学問とはこんなに面白いものな んだ」 と言っている、 そんな記録があります。 また、 当時の記録で、 伊藤仁斎のところに200キロ離れたところから通って、 勉強した百姓 がいました。 その人は農村に帰って、 そこで勉強したことをまたおさらいして、 復習してきて、 「今まで勉強してきたことは間違っていた。 仁斎先生が言ってたことは、 こうだなあ」 と毎日 言いながら勉強していました。 ところが、 その村の村長さんが 「勉強というものは大事だけれ ども、 勉強すると大体ああいうことになるから、 気違いだ」 と言われていたんですね。 「この 村で勉強してはならん」 と。 しかし、 その人が死んで、 時間が経って段々、 段々偉い人だって いうのが分かるんですね。 今、 その人はその村で偉人として祭られています。 この人も農民で、 それまでは全く勉強していなかった。 この伊藤仁斎という人は、 生活に役立たないような学問は学問でないと言い出したんです。 論語 の中にこういう孔子の言葉があります、 「子曰く、 之を如何、 之を如何と曰わざる者は、 吾之を如何ともする末きのみ」 伊藤仁斎は小さい家で弟子に教えていたのですが、 「(そこに通 う) 弟子達がとにかく勉強して、 考えて悩んで、 先生、 自分はこういう風に思いますけれど も、 ここはどういう風に思いますか というようなことを言って来なかったら教えられないよ」 と彼は本の中で述べています。 これも孔子の教えですね。 また、 孔子はこんなことも言ってい

(10)

ます。 「之を知る者は之を好む者に如かず、 之を好む者は之を楽しむ者に如かず」 孔子の本家 本元の皆さんにこういう話をするのは恐縮ですけれども、 「学問というものは、 知っている人 より、 学問を好きな人の方がもっと上だし、 学問を好む人より、 もっと学問を楽しんでいる人 の方がずっとすごい」 と孔子は言っています。 私は伊藤仁斎の書いたものをずっと読んできま して、 まさしくそうだなと思いました。 学生諸君が勉強する動機は、 たぶん 「偉くなりたい、 勉強してこうなりたい」 という思いが あるからでしょう。 だから、 勉強はつらくてもやる。 でも、 私は本当の意味ではそうであって はいけないと思います。 勉強は辛いものだということではなくて、 本当は楽しい。 勉強ほどこ んなにエキサイティングなものは無いと思います。 私は大学の先生方に、 「本当は学生諸君と いうのは、 学問に対する好奇心、 探究心、 そういうものを本能的に持っていると思います」 と 言っております。 こういうものに火を付けてくれる先生がいるならば、 私は、 「(あなたは) 十 分に給料分の仕事はしたから、 ボーナスは倍くらい出してもいいよ」 ということを常々言って おります。 どうも学問が、 若者の本能で無くなってしまったのは、 つい最近のような気がしま す。 昔の若者は、 「これは一体どういうことなんだろう、 何故なんだろう、 どうしてこういう ことになるのか」 という疑問を持っていました。 本を読んで著者がどういうことで何を言わん としているのかということを、 若者には本能的に追求したいという気持ちがあると思うんです。 本当は学問とは楽しいものなんだと思います。 ところが、 我が大学もそうなんですけど、 日本の大学の学生のこの回答を見てみますと、 ど うも自分に自信が無い。 ちょっとこの3枚目を見てもらうと、 非常に悲しくなります。 8番の よく疲れていると思うか、 という質問ですね。 日本人はもう50%、 疲れていると答えています。 それから、 いらいらしているというところに書いてあるんですね。 いらいらしているのと疲れ ているのを合わせると、 もう80%くらいですよ。 お爺さんが言っていることでしょ。 私等の年 代が言うんだったら分かるんですけれども、 10代の若い人達が疲れているし、 いらいらしてい る。 こういう状態になってしまっています。 本当は、 私は月曜日の朝が一番楽しい時だと思います。 しかし、 日本人の働いている人達は、 「早く金曜日になれ」、 あるいは朝から働いていて毎日3時頃になると時間を見て、 4時にも見 て、 5時にも見て。 とにかく朝が来ると 「早く夕方になれ」 と、 月曜日に行くと 「早く金曜日 になれ」 と、 とにかく1番貴重な時間が早く過ぎることを願っています。 それは、 今やってい ることが嫌いだからなんです。 学生の時は 「勉強嫌い」 だし、 働くと 「仕事嫌い」 だし、 結婚 すると 「奥さん嫌い」 だし、 死ぬまで 「嫌い、 嫌い」 で全部駄目なんですね。 日本はそういうことになっていまして、 ぜひ皆さんのような、 張りきって輝いている顔をさ れている方に言って良いものかどうか分かりませんけれども、 お隣の国がそういう病んだ状態 になっておりますので、 皆さんもぜひ他山の石として、 そういうことにならないように頑張っ てやって頂ければという風に思っております。 私は 「仕事は楽しいし、 勉強も楽しい」 と、 そ ういう気持ちでいます。 今からもう1回勉強してみろと言われれば、 一番になる自信がありま す。 頭は良くないですけれど、 一番になる自信はあります。 どこを探したって自分と同じ人は いないんですから、 様々な分野でぜひ頑張ってやって頂ければと思います。 せっかく来たので、 ご質問等あれば後15分くらいあると思いますので、 お話をお伺いしたい と思います。 日本のことでも、 若者のことでも何でも結構です。 私のことでも結構です。 どう ぞ。

(11)

はい、 ありがとうございました。 今、 先生の方から特に今の日本の若者の考えていること、 これを調査したデータを元にして大変詳しくご紹介頂きましたが、 予定の時間が後15分ありま すので、 ぜひ皆さんの方より聞きたいことを聞いて下さい。 センターと学部の両方から学生が 来ているので、 質問する前に所属、 名前を言ってから質問して下さい。 何かありますか。 はい、 どうぞ。 質問者 こんにちは、 先生。 私は日本語学部1年生のケイと申します。 先生が以前は検事をなさって いたことがあるそうで、 実はつい最近 HERO という日本のテレビドラマを見たのですが、 それも検事を巡っての話でした。 先生にお聞きしたいのは、 検事を長年やっていて一番印象に 残った事件とか、 その後にどうして弁護士になると決意したのか。 この2つの質問です。 お願 いします。 知能犯もやりましたけれども、 やはり贈収賄ですね。 贈収賄の事件をやりまして、 贈収賄と いうと県レベルの役人の上の方がお金を貰いまして、 芋づる式に一人が逮捕されるとどんどん 喋っていく。 そういうことで7、 8人逮捕したことがありました。 これを逮捕した時の取調べ はそんなに難しくないんです。 それで、 賄賂を貰う場合は、 領収書を出すっていうことは絶対 無いんです。 「領収書下さい」 って。 ただ、 証拠を探そうと思えば探せなくないし、 彼らは非 常に捕まり慣れしてないものでショックなんです。 捕まってしまうと大体喋っちゃうんですね。 だがら、 贈収賄というものはそれほど難しくないんです、 実は。 ところで、 日本の検察官というのは、 自衛隊の警務隊、 公安調査庁、 警察、 鉄道公安これは 今はありませんが、 色々な組織の指揮権を持っています。 ですから検察官というのは、 それを 総動員して、 総指揮して捜査出来るので非常に強い権限を持っています。 それで、 やはり殺人事件というものが、 非常に印象に残っています。 私が受け持った殺人事 件で、 団地で主婦が殺されたという事件がありました。 これは37歳位の女性で、 鋭利な刃物で、 長さが (刃の部分が) 18センチくらいの刃物で首から2ヵ所さされて、 畳の上で死んでいまし た。 子供は長男が小学校6年生で、 次男が小学校4年生。 その2人が帰ってきて、 午後1時頃 お母さんが死んでいるのを見つけて、 子供が人工呼吸の知識があるものですから、 お母さんに 一生懸命人工呼吸して、 それから親戚のところに電話をかけていますね。 その親戚の人が駆け つけて、 警察に連絡がついたのが午後3時くらいです。 私のところに連絡があったのが午後3時30分、 40分くらいで、 私は秋田県全域の県境の道路 全部に検問をかけました。 車両全部にストップをかけて、 全部の車両について確認するように という指示を出しました。 それから後は、 雨が降ってきていましたので、 庭に全部大きなビニー ルシートをかけるように指示を出しました。 足跡が消えてしまうからですね。 それで、 全部入 れさせないように、 立ち入り禁止にしました。 私が着いたのが大体午後5時30分くらいですか ね。 警察の人が100人くらい来ていましたけれども、 鑑識課というのがその段階で大事なんで す。 鑑識の人に何をやってもらったかというと、 全部の畳をそれぞれ1メートル四方で担当者 を2人決めて、 分けまして、 畳1枚で4人が配置。 それで虫眼鏡を持ってその範囲内で全部の 毛 (体毛) を集めたんです。 それがどこから出たものかということで。 それから裸にしました。 女の人でしたけれども、 裸にして外傷が無いかどうかを調べました。 恐怖のまま死んでいると、 手をぎゅうっと握って死後硬直が起きています。 早い段階で起きる

(12)

んです。 普通だと、 死んで一定の時間が経たないと死後硬直が起きないのですが。 それで、 何 が欲しかったかというと、 手を開かせて、 全部開かせて、 爪の中の垢を採りたかったんです。 相手を引っ掻いていないか、 これが DNA 鑑定をやると有力な証拠になるんですね。 しかし、 これはなかなか大変なんですね、 ぽきぽきと音がするくらい硬くなって恐怖で死んでいますの で。 それで、 これを皆さんの前で話して良いかどうか分かりませんけれども、 性的な関係が無 かったかどうかを調べました。 これは、 例えば相手の性的な目的による殺人事件というのもあ りますから。 次に、 こんな長い体温計をお尻の中に入れまして体温を調べたんです。 脇の下なんかでは絶 対駄目ですからね。 体温を見るんです。 そうすると、 体温が例えば36度として外気温を26度と すると、 段々、 段々外気温に近づいていくということになりますよね。 そうすると、 統計で1 時間に体温が何度下がるか分かりますから、 死後何時間経っているかを知ることが出来ます。 そして、 早くこれを医学部の法医学教室に連れて行って解剖しました。 私も法医学の大学教授 を助けてやりました。 何故、 私がこれをやらなくちゃいけないかというと、 警察では駄目なん です。 それは公判で証拠を証明する当の本人が分かっていないと反対尋問に耐えられないとい うことで、 私が解剖をやりました。 まず、 電気ノコギリで頭を切って、 外して調べました。 例えば、 殺そうとした時に脳溢血で 死んでいるということもあるんですね。 脳溢血で外傷が出てきた場合に、 どっちが本当の死因 か分からない。 そして、 心臓も切ってみました。 心臓麻痺であったかもしれない。 そうすると、 刺したのと死んだのと因果関係が無くなってしまう。 心臓麻痺は無かったと証明しなければい けない。 ですので、 もう2時間くらいかけても調べます。 それで、 一番最初に知りたかったのは何かというと胃の中の物でして、 胃を切ってみたんで す。 この人は中華料理を食べていましたので、 中華料理屋さんを地図で調べました。 そして、 死後何時間というのが出てきておりましたから、 その範囲内で行ける距離の中華料理屋さんに 警察官を何名かずつ行かせて、 こういう人が来なかったかと尋ねさせました。 来ていたとすれ ば、 一人で来たか、 誰かと来たか、 そういうのを聞きますね。 そうやって取調べをしました。 そして解剖が終わって、 縫合しました。 遺族は廊下で待っていました。 ちゃんときれいに洗っ て、 脳を外していますから、 脳を入れてもべろべろになっちゃうのでこの中に固い新聞紙を詰 めて縫合して、 脳はお腹の中に詰めてあげて縫って、 棺桶に入れて引き渡すんです。 その間、 ずっとビデオと写真を撮っています。 終わるのが明け方の3時とか4時でした。 日本では悪い習慣で、 捜査をやったり、 何かしていると一杯飲むという癖がありまして、 お 清めと称してそこで飲みます。 今まで遺体があったところで飲んでいるんです。 それで、 飲ん で部下を連れて外に行くんですが、 夜がちらちらと明けてくる時にまだお店がやっています。 そして、 部下をそういうところまで連れて行ったので、 一杯飲ませてやります。 帰って家に着 いたら午前6時くらいなんですが、 その日も決して法廷は待ってくれません。 別の法廷が入っ ているわけで、 そんなことがあったから今日は休みます、 というわけにはいかないんです。 親が死んだ時も法廷を休んでいないんです。 母親が死んだ時も裁判のために休んではいませ ん。 出来ないんですね。 だから、 例えば (司法解剖を行った翌日) その日は法廷が10時から始 まっているんであれば、 お風呂に入って洋服を着替えて、 着替えないと臭くてたまんないんで すね、 臭っていますから。 (遺体の) お腹の中でガスが発酵しているんですね、 そのガスの臭 いがしますので、 着替えます。 女房は嫌がるので、 玄関で全部着替えて、 真裸になっておいて、

(13)

部屋の中に入って着替えて行きます。 そんな生活をやっていました。 ですから、 そういう殺人 事件は大変だと分かっていますので、 私はそういう事件が起きると、 今日一日つぶれるなと思っ ていましたね。 最初が大事なんです、 始まってから勝負は10時間くらいで決まるでしょう。 そ こを下手にしてしまうと捕まりません、 犯人は。 捕まっても裁判で負けます。 それである時、 「刑務所の中で囚人同士が喧嘩して、 これからパトカーと検察庁の車が迎え にいきます」 ということで夜中に電話が来て、 (その囚人が) 死ぬのかどうかを今か今かと待っ ていたことがありました。 死んだら出動なんです。 生きている間は (待っていなければならず) お役目が長いんです。 段々、 待っているうちに 「もう死ぬのか、 どうなのか」 ということになっ てきまして、 変な気持ちになったことがありました。 「早くはっきりして欲しいし、 寝させて 欲しい」 という気持ちがありましたね。 そんな生活をやっているうちに、 「自分は、 本当は勉強がやりたいんだ、 文学がやりたいん だ、 あるいは学生に教えたいんだ」 と思うようになりました。 もうやくざの様な生活を毎日、 毎日やってきまして、 アカデミックな生活から段々遠ざかってきたので、 私はこの辺で足を洗 おうという風に思って、 今は未来のある若者達と一緒に暮らしております。 (拍手) ありがとうございました。 何か小説を聞いているような感じでしたね。 先生にはお忙しい中、 こういう風に時間を作って頂きましたけれども、 今後もまた、 北京外国語大学との関係で訪問 して頂けることもあると思いますので、 続きを楽しみにしていきたいと思います。 本日は先生 から、 日本の学生、 今の若者の話をして頂きましたが、 実は我々もそんなに他人事のように聞 くことが出来ないと思います。 よく、 「日本の今日は中国の明日である」 というような言葉が あります。 発展段階から言うと色々な現代病であったり、 あるいは近代化したために、 歪みと か色々な悩みが出てきたりして、 同じような発展の道を辿らないといけないのですが、 我々は、 既に発展した日本の色々な経験を教訓として、 なるべくそういうような同じ失敗をしないよう に発展していくことが、 おそらく発展途上国の皆さんの最低限、 気をつけなければならないこ との一つだと思います。 そういうことで、 さらに皆さんも若者ですから、 同じように今の日本 の若者は何をしているのか、 そういうことを知った上で、 自分の人生をこれからどのように歩 んで行った方が良いのか、 大変参考になったと思います。 大変短い時間でしたけれども、 先生 の貴重なご講演に感謝したいと思います。 ありがとうございました。 (拍手)

(14)
(15)

ノースアジア大学

総合研究センター主催

新生ノースアジア大学記念講演会

「私の人生

―挫折から成功への道―」

講 師 前秋田公立美術工芸短期大学学長 ノースアジア大学総合研究センター客員教授 石 川 好 対談司会 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 ノースアジア大学総合研究センター長 小 泉 健 司 会 ノースアジア大学総合研究センター副参与 橋 元 志 保 日 時 平成19年4月20日 午後1時∼ 会 場 カレッジプラザ講堂 (秋田市中通)

(16)

本日は新生ノースアジア大学記念講演会にお越し頂きまして誠にありがとうございます。 前 秋田公立美術工芸短期大学学長、 本学総合研究センター客員教授石川好先生のご講演に先立ち まして、 学校法人ノースアジア大学理事長・学長 小泉健先生がご挨拶申し上げます。 どうぞ ご静聴下さいませ。 (拍手) 小泉でございます。 今日はこんなにたくさんの方においで頂きまして、 本当にありがとうご ざいます。 この総合研究センターができてから丁度3年になりますけれども、 本当に皆さんの ご支援に支えられてここまでやってきたという気持ちでいっぱいです。 ぜひこれからも色々な 行事、 あるいは著名な先生方の講演会を開催したいと思っておりますので、 ご支援をお願い致 します。 今日は、 今年度に入りまして第1回目の講演会でございまして、 新生ノースアジア大学記念 講演会、 こういう名が打ってあります。 そこで非常に著名な作家であります、 石川好先生をこ の会場にお招きすることが出来ました。 先生はご承知のように秋田公立美術工芸短期大学の前 学長でありまして、 新日中友好21世紀委員会の日本側代表の委員の方でございます。 日本のこ の政治あるいは安倍政権との関係は極めて深いものがありまして、 指導的な立場におられる先 生でございます。 そういったことも踏まえて色々とこの後の講演会でお話して頂けると思いま すので、 ぜひ最後までお聞き頂きたいと思います。 また、 講演会の後で、 先生が大宅壮一ノンフィクション賞をとられた ストロベリーロード の作品の映写会を、 先生のご好意によりまして実施出来ることとなっております。 この映画に は国際的なスターがたくさん登場しておりますので、 ぜひ期待して頂きたいと思います。 宜し くお願い致します。 それでは続きまして、 対談形式のご講演会に移りたいと思います。 司会は本学理事長・学長 小泉健先生。 講師は本学総合研究センター客員教授石川好先生です。 それでは先生方、 宜しくお願い致します。 それでは続きまして、 先生との対談形式での講演ということで入らせて頂きたいと思います ので、 宜しくお願いします。 先生は色々な著書がございまして、 テレビ、 新聞等々でも先生の お考えを、 色々知る機会がおありと思いますけれども、 実は私は今日、 先生の個人的な生活と いうか、 ある意味では挫折の時、 至福の時というようなことや、 ちょっと話せないようなこと も是非お話して頂ければ嬉しいなという風に思っております。 また、 学生の今後の糧に、 人生 の糧になるとも思いますのでお願いしたいと思います。 私も色々な方を存じていますけれども、 経歴という意味では先生のような経歴をお持ちの方 はほとんどいないのではないか、 極めて異色の経歴を歩んでこられたのではないかと思います。 その辺のところを率直に聞きたいのですが、 先生は伊豆大島の生まれでしたね。 伊豆の大島の波浮の港です。 「波浮の港」 というと歌で有名ですから、 大概の人は知ってい ると思います。 高校を卒業してから、 お兄さんを頼ってカリフォルニアに渡米されたということを聞いてお

(17)

りますけれども。 何というんですかね、 大島に住まれる方というのは、 そういう風な新進気鋭 というか外に行って。 小泉さん、 さすがに良いこと聞いて下さいました。 島というところは、 学業を終われば必ず どこかへ出るしかないわけです。 仕事があるわけじゃないですから。 高校を出れば大概の人は 東京の方へ出て、 就職する、 あるいは大学に行く。 ところが、 私なんかは通例の高卒とは違っ て面白いことがありましてね。 兄貴がすでにアメリカに渡って百姓をやっていた。 私が生まれた時伊豆大島には米軍の基地があったんですよ。 第2次世界大戦が終わった後、 北方四島がまだ返ってきていませんね、 あれは日本領。 それから沖縄諸島、 奄美諸島、 そして 伊豆諸島。 伊豆大島も含めて伊豆諸島もアメリカの占領区にあったということを知っている人 はほとんどいないんです。 沖縄、 奄美諸島、 伊豆諸島、 小笠原諸島、 これが戦後からしばらく は日本じゃなかったんです。 最初に返還されたのが伊豆大島とか伊豆諸島。 戦争が1945年8月 15日に終わり、 9月にミズーリ号で降伏調印してすぐに伊豆大島及び伊豆諸島はアメリカの占 領下に入った。 しかし、 わずか9ヵ月も経たない間に返還されているものですから、 あの大島 がアメリカの領土だったということは記録から忘れ去られてしまった。 その期間中に、 大変なことがありましてね。 その時、 大島の人達はどんなことを考えていた かというと、 もう日本へ戻れないだろうということで、 何と独立国を作ろうと考えたのです。 突拍子もないですけれども、 憲法を作ったんですよ。 今年は奇しくも憲法ができてちょうど60 年ですね、 施行が1947年の5月3日でしたけれども。 その憲法の一番大事なところは主権在民 ですが、 あの戦争が終わって9月17日以降に進駐軍が入って来て、 それから2ヵ月の間に大島 に残っている人たちが、 主権島民という言葉を使った大島独立憲法を作ったんです。 まだ戦後 の憲法、 平和憲法というのができない、 主権在民という言葉が日本の中にない時に、 大島の島 民はガリ版で作った憲法の草稿には主権島民という言葉を使い、 島の防衛は自分達、 島民が集 まって警察を作るという条文を書いていた。 敗戦直後の私の生まれた大島にはそういうことが あったんです。 それで、 私がアメリカに渡った理由はなんであるかというと、 すでに米軍の基地があったも のですから、 そこに私らの兄貴は働きに行っていたんですね。 私も子供の頃からよくその米軍 の基地に行って、 何か食べ物をもらいに行くわけです。 その食べ物をもらいに行く途中で落ち ている写真を見つける。 プレイボーイ のヌード写真みたいなものです。 それを見ただけで アメリカに行きたくなっちゃうわけです。 昭和27、 8年頃の話です。 ここに居らっしゃるお客 さんの誰よりも早く、 私はアメリカの金髪の美人のセミヌード写真を見ていたわけです。 先生の人生が、 その写真で変わったんでしょうか。 8才頃に、 金髪のそのヌードの写真を見ちゃったわけです。 そこが私の人生の過ちの第1歩 であったと思います。 それで分かりました。 私は、 先生が島を出て東京へ行くのかなという風に思ったのですが、 アメリカの方へ行ってしまったと。

(18)

だから選択肢は、 東京湾の方に行くか、 それかアメリカへ行くか。 もうどっちに行くかとい うことで。 ですから、 私は兄貴がもう行っていたということだったのでアメリカへ行きました。 それから、 私の兄貴の友人たちがニューカレドニアという、 昔、 森村桂が書いた 天国に一番 近い島 という小説がありましたが、 そこに出掛けていました。 大島には、 漁港ですから氷を 作る良い工場があって、 そこの製氷技師がニューカレドニアに呼ばれて行くなど、 もうそうい うことやっていたんです。 また、 戦前にはシアトルへ移民で行った人もいたんです。 つまり、 私の生まれた島とはそういうところなんです。 移民でアメリカに行かれて、 農園で働かれたということなんですが、 その時の模様はこの後 に上映される映画 ストロベリーロード で、 その内容がちょっと分かるんですけれども、 大 変な、 辛い厳しい思いをされたと。 高等学校を出てアメリカに渡ったのは、 東京オリンピックが終わった翌年、 1965年の、 4月 7日。 高等学校の卒業式が終わってほんの直後です。 それで、 当時はまだ移民が主にブラジル 移民とか中南米移民でしたね、 パラグアイとかウルグアイとか。 私は横浜から三井大阪商船の アメリカ丸っていう船に乗り、 17日かけて行ったんです。 貨客船の船底でした。 1964年、 東京 オリンピックがあった時に、 日本は海外旅行の自由化になったんです。 東京オリンピックがあ るからということで、 日本人も戦後初めて外国に行って良いと。 ところが、 持ち出し金額は300ドルが限界なんです。 当時1ドル360円でしたけれども、 300 ドルしか持たせなかった。 その翌年なんです、 我々がアメリカへ行ったのは。 当時、 大卒の月 給が2万円ぐらいでしたが、 船底に乗って17日間で4万円でした。 これは向こうの畑に着いて から払う、 働いて返すという条件で4万円の船の切符を送ってもらって出掛けてたんです。 こ れでも厳しい思いをしているんです、 皆さん同情して下さいね。 厳しいと言いながら、 今日上映する映画で先生の恋人役が桜田淳子でしたか。 映画ではね。 私生活は別ですけれども。 そういうような、 色々な話もあったようようですけれども。 そうなんですよ、 そういう話がちょっと。 アメリカに渡った時に向こうで知り合った年上の 女性がいまして、 むにゃむにゃがあるんですけれども、 その役を桜田淳子がやるわけです。 そ れでこの映画の中では、 ロケの時にすごいラブシーンがあったんです。 私は原作者っていうか 特権がありまして、 そこのラブシーンの場所にいて良いことになったわけです。 のけぞりまし た、 きれいな肌で。 ところが、 映画になったらお蔵入りになっちゃったんです、 そのラブシー ンだけは。 そういう桜田さんのラブシーンを見ている人は、 そうはいないんですよ。 悔しいで しょ、 こういうのを役得と言うんです。 そうでしたか。 初めて分かりました。 それで、 先生はそこで大体4年くらいおられたんです か。

(19)

ちょうど4年と3ヶ月です。 それで、 日本にいったん戻られて、 大学に行かれたということでしょうか。 ですからこういうことです。 アメリカには、 1965年から1969年の9月くらいまでの約4年余 りいたんです。 それで、 その時のアメリカというのはどういう状況かっていうと、 ベトナムの 反戦運動とかヒッピーとか、 学園紛争です。 もう全米の大学の大半がそのベトナム戦争反対運 動、 公民権運動とかで騒がしい時代でした。 それから、 1967年、 ロバート・ケネディ。 J.F ケネディの弟がロサンゼルスのアンバサダーホテルで暗殺される。 私はたまたまその頃、 その 近くにいたんです。 ケネディの弟の暗殺って後でわかるんですけど。 そして翌年、 マーティン・ ルーサー・キングがメンフィスで殺されるとか。 とにかくそんな無茶苦茶な時代です。 それで、 4年経ったから1度帰ってみようかと思っただけで。 本当はいったん日本に帰って、 またアメリカに戻るつもりだったんですよ。 何故かと言ったら、 4年間もアメリカにいたもの ですから、 時々同級生たちが手紙を寄こすんですが、 何か日本も学生運動で明日にでも革命が 起こりそうなことを書いているわけです。 今でこそインターネットや携帯電話でやりますけれ ども、 当時は、 国際電話を掛けるのに、 例えば私にしたら畑から伊豆大島に掛けるのに半日待 たなきゃ駄目なんです。 国際電話を申し込んで繋がるまで。 それでお金も高いですから、 4年 間行っている間に1度だけしか掛けたことがないんです。 信じられないと思うんですけど。 で すから、 日本の事情は全く分からないんです。 そして、 手紙もエアメールじゃないんです、 船便。 船で大体2週間ですから、 こちらから出 して2週間、 帰り2週間。 こちらが出した手紙について、 友達から返事をもらって読むのが1 ヵ月後なんです。 だから、 週刊誌なんか送ってもらっても大変なんです。 ある時に、 ある俳優 と女性が結婚した。 しかし、 週刊誌を回し読みしているものですから、 離婚したやつを先に読 んでいると、 この俳優はまた再婚したのかと思うわけです。 どれも皆が回し読みするから、 何 月何日号と記された週刊誌の表紙がない、 中身しかないような週刊誌を回し読みしている。 そ んなことで、 浦島太郎なものですから、 1回日本に帰ろうと思ったんです。 それで、 帰ってし ばらく日本で生活してから、 またアメリカに戻って百姓を続けようと思ったんです。 だから、 そこが私の間違いを犯しちゃったところなんですね。 そのまま帰ってその土地で百姓をやって いれば、 私は大金持ちだったんですよ、 皆さん。 そこが、 アメリカの大金持ちになるか、 現在のような小説家になるかの分かれ目だったので しょうか。 我々はすごく安いと思っていた土地が、 後に数十億円で売れたんです、 本当に。 その時に私 がアメリカに帰っていれば、 今のように秋田の大学の学長なんかやってはいないんですよ。 向こうは、 もちろん税制が非常に安いですから。 ほとんどはもう売却益が出て、 懐に入ると いうことで、 今頃大変な大財閥 石川好が出来ていたのかも知れませんね。 冗談めいて言えば秋田、 なんだそりゃという感じでしょうね。 運命って不思議なものです。

(20)

1969年の9月くらいに帰ってきまして様子を見ていると、 日本がもう大学紛争で大変な時だっ た。 東大紛争だ、 東大の入試がないとか。 これはえらいことになっているなと思いまして。 そ の頃、 ちょうど同級生たちが私と入れ替わりに大学を卒業するわけですね。 そこで、 私もよせ ば良いのに、 試しに日本の大学を受けてみようかということを考えてたわけですね。 大学入試 は2月くらいにありますから、 9月くらいから受験勉強を始めました。 もう受かる自信なんか ない、 とにかく試しにやってみて、 落っこちて、 それで納得してアメリカに帰って百姓続けて 金持ちになろうと思ったわけです。 ところが、 運悪く受かっちゃったんです、 大学に。 これが 私の人生の最初の挫折なんです。 大学に受かっちゃったことが。 それで、 大学時代と言いますと、 他の学生とは世代が違いますね。 他の多くの学生は18才で 入学し、 先生は23歳で入学されました。 だから、 本来、 大学に入学する年から5年経っているわけです。 その時の同級生が、 今、 広 島県知事やっている藤田雄山とか、 俳優の中村雅俊。 それから、 日本医師会会長の武見の息子 で参議院議員の武見敬三。 これらが同期にいたんです。 それで、 卒業されて、 またアメリカに戻られたということでしょうか。 卒業する時は28歳になっているわけです。 そうしますとね、 当時は大体大学に入るのに5年 もかかっていると雇ってくれないんです。 もうキャリアが全然だめだと、 28歳で大学卒業とは。 それで、 もう僕は4年もアメリカで百姓やったり、 ぷらぷらしていたものだからほとんど馴染 めないでしょ、 日本に。 同級生には馴染めないし。 馴染めないから、 慶応大学を卒業する時に 就職活動も実際しなかったんだけど、 しようと思っても無理だった。 どこも雇ってくれるとこ ろがないから、 しょうがないから、 また出稼ぎにアメリカに渡ったわけです。 今度は、 仕事を少し変えて。 2つやりました。 草刈りともうひとつは漁師。 高校時代4年間は百姓をやって、 今度は漁師 もやりたいと思ったからメキシコに行ったんです。 バハ・カリフォルニア半島の最南端にサン・ カルロスという小さい町があって、 海老とか獲れるんです。 そこで3ヵ月間漁師をやりました けど、 またメキシコからアメリカに戻って、 今度は草刈りをやったわけです、 ガーデナーとい う仕事を。 大体5年間くらいはそういうようなことで。 2回目に行った時には、 2年弱ですね。 2年くらいですね。 元祖フリーターと自分では言っていますが、 ろくなものじゃないですよ。

(21)

経歴書を読みますと、 日本に戻られて銀座のクラブのマスターになったということで、 その あたりのことを特にちょっと聞きたいと思うのですが。 これを本当にしゃべったら、 今の政権2つ、 3つ飛んじゃいますけど。 どういうことかとい うと、 帰ってきた当時すでに子供がいたわけです。 そうしますと、 とにかく食わなきゃいけな いでしょ。 それで、 何をやったかというと、 まず皿洗いから始めたんです。 1981年くらいです けれども。 私の友人達がアメリカから来た時、 アメリカから日本に戻って皿洗いをやって、 逆 じゃないかと言われました。 普通、 日本人はアメリカに渡ってまず皿洗いやって金稼いで, 小 銭を儲けていく。 だから、 アメリカにいたやつが日本に戻って皿洗いからスタートするなんて、 あんたの人生どうなっているのと言われて批判されたことがあるんですけれども。 いずれにし ても六本木で皿洗いをやっていたんです。 皿洗いやって時給当時680円でした。 女房、 子供は 養えません。 そこで、 私はちょっと競馬が上手なので競馬の予想屋をやって、 府中競馬場と中 山競馬場の入り口で予想を売っていたんです、 1枚300円で。 あと何をやって飯を食ったら良いのかと思って。 たまに、 大学の友人達とかが、 何ならどっ か就職先を紹介するぞという話は持ってきてくれるんですけれども、 ここまでずれたんですか ら今更あんた達と同じように会社に入りたいとは思わないと。 35歳近くになっても皿を洗った り、 競馬の予想屋をやったりしているわけですから断固フリーターに徹するしかないと。 そう いう時にたまたま新聞を見ていたら、 募集があったんです。 漢字で 「倶楽部あぽろん」 と書い てありまして、 大卒、 英語少々分かる方、 営業部長を求む。 そうすると、 俺、 大卒で英語が少々 分かる。 それから、 35歳くらいの人って書いてあるんです。 もうそれだけに引き寄せられてね、 何だって良いから行ったんです、 ちょうど35歳だったから。 ところが、 行ったら飲み屋だったんですよ、 クラブ。 それで、 これはもうはしょらなきゃな らない話がいっぱいあるんですけど、 それが実は伝説のクラブでして、 初代のママが女優の嵯 賀美智子。 これはもう本当に2度とできないようなクラブだったんです。 それで、 そこのお客 さんが若き日の小泉の純ちゃん、 今の総理。 森さんとか中川秀直幹事長だとか、 堤義明とかの 財界人、 全部そういう人ばっかりだったわけですね。 そして、 私がたまたまそこの面接に行っ たら、 社長が私の履歴書を見て気に入ったわけです。 高等学校を出てアメリカ移民5年って書 いている。 慶応大学を卒業して、 またメキシコで漁師だの草刈りだの書いてある。 それから、 競馬の予想屋だとか。 僕は正直ですからみんな書いて持って行った。 その私の履歴書を見るな り、 「こんなろくでもない履歴書を見たのは初めてだ」 と言うんです。 そこが気に入ったと言 われ、 この店で働かないかと言うんです。 そこは銀座の、 私は知らなかったんですけど、 超一 流のクラブだったんです。 そこでちょうど2年半くらいホステスのスカウトをやってみて、 80名くらいスカウトしまし た。 ですから、 歩いている女性をスカウトしてホステスにさせちゃうのはすごく得意なんです。 それで、 私が心配だったのは、 秋田公立美術工芸短期大学の学長引き受けた時に7割くらいは 女子学生ですから、 癖が出るんじゃないかと思いまして、 6年間自制するのは本当に辛かった ですね。 やっと今、 開放されたという気持ちがしておりますけれども。 それで、 政権の2つくらい飛ぶような話があったということですが。

参照

関連したドキュメント

この 文書 はコンピューターによって 英語 から 自動的 に 翻訳 されているため、 言語 が 不明瞭 になる 可能性 があります。.. このドキュメントは、 元 のドキュメントに 比 べて

 音楽は古くから親しまれ,私たちの生活に密着したも

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

そのほか,2つのそれをもつ州が1つあった。そして,6都市がそれぞれ造

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

システムであって、当該管理監督のための資源配分がなされ、適切に運用されるものをいう。ただ し、第 82 条において読み替えて準用する第 2 章から第

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o