英国保険行政の変貌
その他のタイトル Changes of Insurance Control in England
著者 亀井 利明
雑誌名 關西大學商學論集
巻 13
号 4‑5
ページ 367‑389
発行年 1968‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00021240
( 3 6 7 ) 55
英 国 保 険 行 政 の 変 貌
亀 井 利 明
は し が き
公示自由主義
{ f r e e d o mw i t h p u b l i c i t y )
を基調とし,紙に書かれた規制よ りも業界の自主性を高度に尊重するといった英国保険行政は1 9 6 7
年 会 社 法( C o m p a n i e s A c t , 1 9 6 7 )
の登場により,長年の伝統を改め,英国以外の諸国 が採用する実体的監督主義を導入するに至った。がんらい,英国保険行政は 他国のそれのように保険経営の全般にわたって規制監督するという方式を取 らず,単に財務的堅実性を欠いた企業を阻止すること,および保険加入者や 一般大衆が保険経営の良否を判断できるように会計内容を公開させることを 主眼としたもので,いわば,保険監督の実質的担当者は保険加入者および一 般大衆であって,国家はその補助者的立場に立つというものであった。ところが, 今回の
1 9 6 7
年会社法第二部保険会社に関する法律の改正(Amendments o f Law w i t h r e s p e c t t o I n s u r a n c e C o m p a n i e s )
により事情 が大きく変貌し,営業免許の創設,監督命令権の強化を打ち出し,今までの 保険事業経営に関する大幅な自由主義がいちじるしく後退するにいたった。その根本的原因ほやはり大英帝国の衰退,英国経済の斜陽化の投影といわね ばならないが,直接的には英国保険市場の自律性喪失,保険企業の収益性低 下,生産性向上に対する失敗等にあるといえよう。
「永遠に英国は滅ぴず,英国の自由は失われることなし」と高らかに唱われ ていた英国も,あらゆる面でその反動を露呈し,その地位が相対的に低下す るとともに,営業自由の原則や国家の経営活動不千渉主義が随所において後 退している。世界に冠絶し,国際収支上大きなプラス要因となっていた保険 事業にまでこの波が押し寄せ英国病対策が講じられたとなると,英国保険市
場に大きく依存している日本の保険事業も無関心でおれなくなるのは当然で ある。また,われわれのごとく英国保険事業に多大の興味を持つ者にとって
も静かにその動向を見つめ,事態の推移を分析せざるをえない。
私は
1 9 6 3
年までの英国保険事業について,その経営的側面を詳細に分析し,1 9 6 5
年5
月「英国の保険事業」という著作をものし,保険事業研究家の参考 に供した。ところが,1 9 6 4
年から1 9 6 8
年にかけ急激に英国保険市場は変化し,あい次いで大きな事件が起こった。その代表的なものは,
1 9 6 5
年のS u n ‑ A l l i a n c eと London
心s u r a n c eの結合, 1 9 6 6
年のF i r e ,Auto & Marine I n s . C o .をはじめとする自動車保険会社の連続倒産事件, 1 9 6 7
年のT o r r e yCan‑
yon
号事件,会社法の改正およびボンド切り下げ,1 9 6 8
年におけるL l o y d ' s
営 業会員の外国人への門戸開放,CommercialUnionと N o r t h e r n&Employers
の結合,およびRoyalExchange
とGuardian
の結合発表等であろう。以 上のなかで,英国保険市場に深刻な影響を与えたのは19 6 6
年の自動車保険会 社の連続倒産事件と1 9 6 7
年の会社法改正である。この両者の間にはもちろん 因果関係はあるが,本来,後者は前者とは無関係に1 9 4 8
年会社法の改正とし て,1 9 5 8
年保険会社法の改正を意図していなかった。それがため,商務省はJ e n k i n s
勧告に基づき,一般の会社を前提として,主として財務諸表公開に 関する改正を織り込んだCompaniesB i l l , 1 9 6 5を 1 9 6 6
年初頭国会に提出し た。しかし,これが国会解散により廃案となってしまったところへ,前者の 自動車保険会社の連続倒産事件が起こったため,商務省が再度改正会社法案 を国会へ提出する際に,保険会社法改正案を第二部として織り込んだのであ る。自動車保険会社連続倒産事件により,保険会社法も何らかの形で改正され ることは十分予想され,かつ,間もなくその内容が明らかになってきたので,
私はこの問題に多大の関心を払い,
CompaniesB i l l , 1 9 6 6を検討していた。
1 9 6 6
年11
月上旬,この法案は貴族院に上呈され,1 9 6 7
年7
月27
日女王の裁可 をえて,1 9 6 7
年会社法として成立した。この直後,私は関西の保険学者の研 究会である保険学セミナーで,この問題に関する研究発表を行なった。直ち にそれを論文化し,改正条文を紹介する予定であったが,他の問題に忙殺さ英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 6 9 ) 57
れていたため,それができ上ったのは本年6月であった。これを本誌に発表 しようと考えていたところ,保険学雑誌4 4 1
号( 1 9 6 8
年6
月)に米田己蔵氏 が「英国会社法の改正」を発表され,続いて生命保険経営3 6
の4 ( 1 9 6 8
年7
月)に古瀬政敏氏が「1 9 6 7
年イギリス保険監督法の改正」を発表された。い ずれも著名な生命保険会社の調査関係者の作品で,その内容は実に適格な研 究であり紹介であった。このような立派な論文が二つも発表されたため,そ れと同じ傾向の私の論文を更に発表することは蛇足以上のものになる危険が あるので,急逮大幅に書き改め,英国の保険行政に焦点をあて,保険法が改 正されざるをえなかった事情を分析し,その改正によって,保険行政がどう 変貌するかを考察することにした。1 .
第 二 次 大 戦 ま で の 保 険 行 政英国の保険監督行政が始まったのは
1870
年生命保険会社法制定以後のこと(1)
である。当時は英国資本主義の発展ないし黄金時代で,いわゆる経済的自由 主義の時代であった。
1 8 3 2
年から60
余年にわたるヴクトリア女王治世下に,英国は日没することなき帝国に成長していた。すなわち,その植民地は全世 界にまたがり,産業革命以来豊富な鉄と石炭の産出によって重工業はますま す発達し,繊維工業もまた世界に冠絶し,いわゆる世界の工場として君臨し ていた。植民地と本国とを結合するため世界の船舶の半ば以上を保有し,そ の海運業も世界を支配し英語は世界のあらゆる航路において話されていた。
世界経済の中心は英国にあり,そのまた中心ともいうべき金融,保険はロン バード・ストリートによって支配されていた。
保険資本は英本国および植民地はもちろん,ヨーロッパ諸国や米国をはじ め,遠くアジア諸国にまで投下され,海上保険,火災保険,生命保険ほ急速 に質的量的に発達をとげ,近代的保険事業を確立して,世界の保険事業をリ ードしていた。契約自由の原則と営業自由の原則が文字どおり認められてい
(l)
これ以前の事情については,拙稿「英国における保険監督法の発展」生命保険 文化研究所所報第1 0
号1 8 4
頁以下,および拙稿「保険行政の理念と範囲」保険学雑 誌4 3 5
号1 0 9
頁以下参照。た当時においては,多数の保険会社が設立され,自由な契約条件と保険料率 をもって営業を行ない,自由な競争を通じて成長を続けていた。しかし,保 険事業の自由競争は必然的に排他的競争へと発展し,苛酷な自然淘汰の法則 が作用し,弱小企業ほ大企業によって駆逐されていった。その一つの形態が 大企業による弱小企業の併合という形であった。これは保険企業の最大利潤 獲得という内部的衝動と競争の外部的強制に対処するための経営規模の拡大 を意味した。
このような弱肉強食の企業結合は火災保険会社を中心として遂行されてい たが,生命保険会社もまたその例外ではなかった。ところが,企業結合や営 業譲渡の行き過ぎにより
1 9 6 9
年にA l b e r t: i ; , i f eが倒産し, EuropeanL i f e
が これに次いだ。その結果,1 8 5 0
年代までの生命保険会社の泡沫現象以来保険 立法の必要を感じていた商務省ほ,直ちに法案を起草し,1 8 7 0
年生命保険会 社法を制定した。かくて,英国の保険監督行政が始まったのであるが,それ ほ全く形式的なもので,商務省の監督権もまた極めて弱いものであった。1 8 7 0
年生命保険会社法が規制の対象としたのほ英国内で生命保険事業を営 む会社で,その規制内容は(1)2
万ポンドの供託,(2)生命保険契約準備金の設 定,(3)財務諸表の公開,(4)合併,営業譲渡および解散についての裁判所の関(1)
与であった。この規制内容は財務的堅実性と加入者保護を目標としたもので あった。すなわち,生命保険契約準備金を明確に計算設定させ,一定の書式 にて財務諸表を作成させ,これを公表せしめて財務的堅実性保持の努力を企 業に課し,他面,供託金の提出を要求して支払能力保持をはかり,加入者保 護を意図していた。また,
A l b e r tL i f e
事件の苦い経験からして,加入者無視 の組織変革に対処するため,裁判所に一定の権限を与え,加入者保護を貫い た。しかしながら,
1 8 7 0
年法は監督官庁たる商務省にほ見るべき権限を与えた ものでなく,単に,供託を要求することおよび財務諸表を形式的に検討する ことが,当時の保険行政の実質的内容であった。けだし,当時の産業界にお ける一般的風潮は自由放任で,企業に国家権力を介入させることは罪悪視さ(1)
この詳細についてほ,前掲拙稿,法の発展,1 9 2
頁以下参照。英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 7 1 ) 59
れていたからである。かかる思想を反映して,保険事業の経営に実質的監督 を加えるのは保険加入者および一般大衆であって,国家の保険監督はその経 営状態の正確な公示につき看視するにすぎなかった。したがって保険監督に 関する国家機能は安価なる夜警国家たることが期待されていたのである。産業革命以来工場制機械工業が発達し,大量生産に伴なう利益が一般に享 受されるようになったが,他面鉱山や工場における労働災害が多発し,使用
(1)
者責任に関する立法も行なわれ,
1880
年ごろから使用者責任保険会社が設立(2)
されるようになった。ところが,新しい保険事業には統計的基礎なく,とも すれば過少保険料での営業となり勝ちであった。それがため,この種の保険 会社の経営は不安定であり,弱肉強食の企業結合の好個の対象とされた。加 えて,この保険は形式的には雇主を保護するものであったが,実質的には労 働者を保護するものであった。それがため,会社の財務的安全性を保持し,
競争からきたる不健全性を防止するため,
1 8 7 0
年生命保険会社法と同様な立 法が必要となり,かくして制定されたのが1 9 0 7
年 使 用 者 責 任 保 険 会 社 法( E m p l o y e r s ' L i a b i l i t y I n s u r a n c e Companies A c t , 1 9 0 7 )
である。この法律は1870
年法とほとんど同じで,この種の会社に対する保険行政にも相違は見ら れなかった。しかし,やがてこの2
つの法律は1 9 0 9
年保険会社法(ふs u r a n c e Companies A c t , 1 9 0 9 )
に吸収されていくのである。1 9 0 1
年から10年間のエドワード7
世治下は英国にとって深刻な焦慮の時期 であった。すなわち,1 8 6 5
年に米国は南北戦争を終え,1 8 7 1
年にドイツは統 ーを実現し,ともに内政上の懸案を解決して,急速に国力を充実し,すばらしい経済発展を遂げ,工業を始めとして各種の分野において英国の強力な競 争相手として登場してきた。英国は栄光の座を守るべく,政治的にも経済的 にも現状維持の対策をとったが, ドイツの進歩的工業製品との競争上不利な 立場に立たされ,米国開発に投じられた資本は米国の工業を発達させ,やが て世界工業生産の首位は米国に移った。かくて,世界工業生産の二分のーな
(1)
その最初の立法はE m p l o y e r s ' L i a b i l i t yA c t , 1 8 8 0
であり,これが発展してWorkmen's C o m p e n s a t i o n A c t , 1 8 9 7
となった。(2)
この間の事情についてほ,拙稿「英国における責任保険の発展」自動車・責任 保険の諸問題(南出弘博士在職30
年記念論集)1 5 2
頁以下参照。いし三分のーを占め,世界貿易総額の四分のーを占めていた英国の独占的な 経済的地位も新興国の拾頭により急激に低下し始めた。
英国資本によって始められた米国の保険資本もその経済成長を背景として,
独自の保険事業を発達せしめ,これが英本国に進出し,ここに英国会社と米 国会社の競争が始まった。英国で営業を行なう米国の保険会社もそれが生命 保険を営むかぎりにおいて,
1870
年法が適用されたのであるが,何分ゆるや かな規制であったため,米国会社は保守的な英国会社に比ぺて相当思い切っ た営業政策を取った。そのため,1906
年から1 9 0 7
年にかけて米国の生命保険 会社の財務状態および経営状態についてきびしい批判が生じ,一部には米国 会社規制の声が上がった。しかし,米国会社を規制することは英国会社の監 督強化にもつながる問題を含むがゆえ,この処置は取られなかった。ところが保険監督の対象を拡大しなければならない要因が他の分野に存在 していた。それは前世紀中ごろより細々と営業を続けていた傷害保険とボン ド・インベストメントであった。これらの保険を営む会社ほいずれも経営の 基盤が弱く,経営を誤って倒産したり,財務的堅実性を欠いて独立の営業が 不可能なために他社に併合されるものもでてきた。したがって,使用者責任 保険会社法と同じような必要が一般に認められるようになった。
(1)
さらに,単種会社から兼営会社への企業結合が一般化してきた。そのため,
海上保険や火災保険のごとき損害保険を営む会社が生命保険を営むことも珍 しくなくなってきた。このような生・損兼営会社の場合には,その生命保険 部門について
1870
年法が適用され,損害保険部門も付随的に監督されるという跛行的な監督行政が当然のことながら批判の対象となってきた。
以上のような事情の下に新しい保険立法が要請され,その結果として制定 されたのが
1909
年保険会社法である。本法の適用範囲は,生命保険,火災保 険,傷害保険,使用者責任保険およびボンド・インベストメントの5
種目の いずれかを営む会社とされた。供託,保険契約準備金,財務諸表,合併・営業(1)
この問題の詳細については,拙稿「英国保険事業における企業集中」保険の近 代性と社会性(久川教授退官記念論文集)2 5 2
頁以下および拙稿「自由競争時代に おける英国海上保険事業の変遷」保険学雑誌4 3 2
号,6 1
頁以下参照。英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 7 3 ) 61
譲渡・解散等に関する規則は実質的には18 7 0
年法の踏襲にすぎず,商務省に 対してほこれといった権限強化の処置は講じられなかった。これは英国政府 の経済活動に対する可能なかぎりの不干渉主義と企業経営に対する最大の確(1)
信からきているもので,伝統的な英国の政策そのものであった。
このような自由放任主義はあゆらる分野において破綻を起こし,第一次世 界大戦の直接的打撃によって産業組織が弱体化し,多くの海外市場を喪失し た。すなわち,輸出が漸減し,輸入が漸増した結果入超の増大となり,貿易 外収支をもってしてもその決済を困難ならしめ,経済優越性の象徴であった ボンドに対する内外の不安は高まった。その結果,遂に
1 9 3 1
年金本位制を停 止するとともに,第一回のポンド切り下げ(対ドル平価を5
ドルから4.03ド ルに)が行なわれた。かくて,ポンドは世界通貨の地位から転落し世界金融 市場として君臨したロンドンも昔日の面影を喪失するに至った。変って拍頭 してきたのはドルおよび米国であることはいうまでもなく,この時期にすで に世界ーを誇った英国の保険事業は米国の保険事業に追い越されてしまっ た 。 ・ところで,前世紀後半ごろより一般大衆に簡易保険を利用することが定着 し,友愛組合
( f r e i n d l ys o c i e t y )
が生長してくるとともに,保険会社も専業ま たは兼業でこれを取り扱うようになってきた。簡易保険は生命保険以上に公 共性や大衆性が強いにもかかわらず,1 9 0 9
年法の適用範囲外にあり,商務省 の管轄外であった。そのため,1 9 2 3
年簡易保険法( I n d u s t r i a lAssurance A c t , 1 9 2 3 )
が制定され,簡易保険監督官( I n d u s t r i a lAssurance Commissioner)
を 創設して,それに商務省と同様の権限を与えた。これは保険監督拡大の一つ の形であったが,これが他の形をとって拡大された。それほ相次ぐ交通事故対策として自動車損害賠償責任保険の強制を織り込 んだ
1 9 3 0
年道路交通法の制定である。本法は1 9 0 9
年法の追加立法的意義を有 し,保険監督の対象となる法定種目の一つとして自動車保険が追加された。1 9 3 0
年法の制定は自動車事故の被害者救済と自動車保険事業の発展に大なる 貢献をしたのであるが,本法制定直後若干の小規模な自動車保険会社が破綻(1) H o f f m a n , F . L . , I n s u r a n c e S c i e n c e and E c o n o m i c s , 1 9 1 1 , p . 3 3 1 .
した。しかるに既存の法律では商務省に保険会社の破綻を防止するための十 分な権限が認められていなかった。
そこで,商務省は,支払不能を根拠として保険会社の解散を裁判所に申請 しうる権限,ならびにこの目的のため保険会社に対し事情聴取および調査を なしうる権限を付与した保険会社解散法
(Assunmce Companies (Winding
(1)
u p ) A c t s , 1933 1 9 3 5 )
が制定された。以上のごとく,
1870
年法制定以来,保険監督の対象は拡大され,商務省の 権限も若干拡大されたが,監督の中味はあくまで財務的堅実性の保持と加入 者保護を目的とした会計的な側面だけを問題とする形式的監督主義ないし公 示自由主義の立場であった。したがって,保険行政はいわば弱い政府(weak government)
の基盤の下に遂行されたにすぎなかった。1 9 3 5
年から第2次大戦までの間には戦時的一時的な戦争遂行上の保険行政 が行なわれたが,それは本来の保険行政とは無関係であった。かくて,1 9 0 9
年法の伝統がそのまま第二次大戦直後まで持ち越された。2 .
第 二 次 大 戦 後 の 保 険 行 政第二次大戦によって英国は直接間接にその国富の四分のーを失ったといわ れるほど絶大な損害を被った。とりわけ
1 , 8 0 0
万トンに上る商船を失うとと もに,海外投資の売却・金およびド)レ貨準備の喪失・戦時借款等により巨額 の在外資産を喪失したのみならず多大の債務を負うことになった。がんらい,英国は入超国で運賃,海外投資利子および保険料等の貿易外収入による補填 が絶対に必要であるにもかかわらず,戦争によってこの二大源泉を喪失して しまった。したがって,国際収支の入超を是正する道は輸出激増しか方法が ないわけであるが,これまた第二次大戦による植民地市場を喪失しているう え,国内産業の疲弊と低成長性によって無理な注文であった。そのため,必 然的にポンドの地位は不安定たらざるをえなかった。
海運および貿易が振わずして,海上保険が成長するはずがない。海上保険
(l) D i n s d a l e , W. A . , H i s t o r y o f A c c i d e n t I n s u r a n c e i n G r e a t B r i t a i n , 1 9 5 4 . p .
3 2 4 .
英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 7 5 ) 63
会社は必然的に混乱と狭監化した海運および貿易市場に立ち向かわざるをえ ず,それは過当競争,低収益,財務的不堅実性と志向することは明らかであ った。しかも,海上保険は1 9 0 9
年法の適用除外になっている保険種目であっ た。そこで,政府は海上保険会社の財務的堅実性保持とそのような会社の乱 立を防止するため,新らしい保険立法を決意し,保険業界の協力をえて,1 9 4 6
年保険会社法( A s s u r a n c eCompanies A c t , 1 9 4 6 )
を制定した。これは従 来の回復的事後的行政とは異って,多分に予防的事前的行政といった性格を 持つものであった。1 9 4 6
年法は1 9 0 9
年法の追加立法であるが,保険監督の対象拡大とその内容 の拡充という側面を有している。すなわち,保険監督の対象として海上・航 空・運送保険を追加し,他面において従来の供託金制度を改め,最低払込済(1)
資本金制度
(5
万ポンド)と支払可能剰余金制度を創設した。後者は損害保(2)
険事業に対して適用される制度であって,負債の金額に
5
万ポンドまたは保 険料収入の10%のいずれか大きい方の金額を加えた金額を越える資産を有し ていなければならないとする規制である。この規制に反する事実は支払可能 剰余金なきもの,すなわち支払能力を欠如するものとして,商務省によって 解散を申請されることになった。ところで,
1 9 3 1
年以来の英国の対米為替レート4.03
ドルは第二次大戦後も 採用されていたのであるが,それは1 9 4 9
年の時点において英国の経済力を正 確に表現するものでなく,明らかに評価高になっていた。すなわち,戦時中 以来米国の生産性向上が英国のそれより相当大であったため,第二次大戦後 の英国商品はコスト高になっていた。かかる低生産性と賃金高によって英国 産業の国際競争力は低下していたため,1 9 4 9
年の経済危機に際し,ポンドの 切り下げが行なわれ,対米2.8ドルとされた。ポンド切り下げで一息ついた
(1)
この詳細については前掲拙稿,法の発展,222
頁以下参照。(2) 1 9 4 6
年法の目的上保険事業は長期保険事業( l o n g s t e r mb u s i n e s s )
,損害保険事業( g e n e r a l b u s i n e s s )
およびその他の保険事業の三つに分類されるようになった。長 期保険事業には生命保険,簡易生命保険,ボンド・インベストメント,損害保険事 業には火災,傷害,使用者責任,自動車,海上・航空・運送が含まれ,これ以外が その他保険事業とされた。英国も朝鮮動乱の反動で
1 9 5 2
年には国際収支が悪化し,以後今日にいたるま で10回以上に上る国際収支危機をくり返している。英国政府ほ国際収支危機 を乗り切るためにストップ・ゴー政策を取り,一貫して国内総需要を抑制し,輸入の減少と物価上昇を押え,輸出競争力を強化しようとしてきた。しかし,
この政策は反面国内需要の減少による生産の停滞をもたらし,産業界におけ る長期的需要予測を困難なものとし,その結果設備投資意欲は減退したうえ,
設備の陳腐化,輸出競争力が低下してしまった。さらに,その背後にほ英国 病という社会的風潮,構造が存在し,ために英国企業の成長をいちじるしく 妨げることになった。加えて,保守的かつ消極的な経営者,強力かつがん迷 な労働組合,無気力な一般大衆と三拍子そろった英国市場へ強力かつ積極的 な米国資本が流入し,英国産業を混乱におとしいれた。
第二次大戦後の英国保険事業はその経営の低成長性や国際収支上の弱さの 反映として一般に振わず,増収率は毎年1
0
%を下廻り,損害率,経費率が上 昇し,営業利益率は毎年のようにマイナスを示してきた。これは,頼みとす る英国保険事業のドル箱であった米国市場およびカナダ市場において累積的 に赤字を出していること,国内市場では外国会社の進出,競争の激化,事故 の激増,賃金上昇や事務機械化に伴う経費増等の結果である。このような保 険事業の不振を打開する方法としていろいろな対策が講じられたが,そのう ちで最もいちじるしいものは企業結合であった。すなわち,1 9 5 2
年から1 9 6 1
年までの間に20に上る企業結合が行なわれ,かつての親会社方式から純持株(1)
会社方式が採用されるようになった。
1 9 6 1
年 に は 史 上 最 高 と さ わ が れ たRoyal
とLondon& L a n c a s h i r e
の企業結合が実現し,1 9 6 5
年には純持株会 社拡大方式ともいうべきS u n ‑ A l l i a . n c e
とLondonA s s u r a n c e
の企業結合が 実現し,巨大への追求が一層はげしくなった。このような事態の下においても,英国保険行政は
1 9 4 6
年以来変ることなく 続けられてきた。しかし,1 9 5 8
年に至って,既存の保険監督法であるA s s u ‑ r a n e e Companies A c t s , 1 9 0 9 t o 1946が相互に複雑に入り組んだものであっ
(1)
これらの詳細については,拙稿「英国における巨大保険企業の結合」生保文化 研究所所報9
号参照。英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 7 7 ) 65
たためこれを1 9 5 8
年保険会社法( I n s u r
皿c eCompanies A c t , 1 9 5 8 )
として整 理した。これは既存の法的状態になんらの修正を加えたものではなかった。したがって,英国の保険行政は公示自由主義という最少限の監督規制と業界 内の自主規制を建前としていたわけである。
ところで,保険行政を担当するのは商務省保険・会社局第一課であって,
ここにA係と
B
係とが設置されていた。A係は英国の海外業務を管轄する係
で,海外の保険行政や法制を調査し,英国保険事業の利益を擁護するためB. l. A.などと協力して行動する。 B
係は英本国における保険業務一般を 司るもので,その中心的な活動は1 9 5 8
年法に係る財務諸表の審査と年次保険 事業概要報告や長期保険契約統計の作成であった。すなわち,
B
係は既設会社から会計年度終了後6
カ月以内に会計報告書の 提出を受け,この審査を行なう。それはあくまで会計報告書だけについての 形式的審査であって,会社の支払能力に疑義を生じた場合を除いて,会社の 会計帳簿を検査したり,営業方針に干渉する権限ほ与えられていなかったの である。新設会社については登記後,その会社の資本構成,主要株主,営業 種目等について会社登記所からB
係に連絡が入る。保険会社の設立は19 5 8
年 法上完全に自由であったから,商務省はいかなる理由をもってしてもそれに 干渉することはできなかった。ただ,次項で述べる自動車保険事業の不振下,新設の自動車保険会社については,法律上の権限はないが,その自発的協力 によって,各四半季ごとに会計報告を求めたとのことである。
B
係に属する係官約10
名は英国保険市場で営業する約5 5 0
の保険会社の割 当てを受け,財務的堅実性保持という観点から財務諸表の各勘定科目の審査 を行なっていた。その場合,損害保険事業については支払可能剰余金について,生命保険事 業についてほ責任準備金が主たる審査の対象とされるが,もちろん,それ以 外の勘定科目にも及ぶ。審査の結果,法に違反して好ましくない状態にある ときは,他部門の協力をえて詳細に監査がなされ,検査官が調査のため派遣 され,会社と接しょうしたり,準備金の積増しか,投資物件の分散を命じた り,支払能力なき場合には解散の申請が裁判所に対してなされた。法に違反
してはいないが危険だと判断される場合にほ,商務省は会社に対して希望意 見を出したり,勧告を出したりすることがあるが,それを強制する権限ほ与
(1)
えられていなかった。
3 . F.A.M
.事件と英国保険市場英国保険市場においては英国会社
350
社,外国会社200
社がそれぞれの営業 方針で自由に競争しながら営業を続けてきた。保険会社の設立は全く自由で あり,毎年20
に余る会社が新設されてきた。英国市場は通常,協定会社,非 協定会社,相互会社,L l o y d ' s
の四つにグループ分けされており,これらの グループ間に競争が行なわれるとともに,それぞれのグループ内においても 競争が見られた。最近の英国保険市場はその経済の低成長性に比例して大した拡大もしてい ないにもかかわらず,多数の会社がひしめき,過当競争が一般化していた。
新契約のほとんどは代理店やプローカーを通して獲得されており,必要以上 に料率を割引いたり,手数料を引き上げたりする傾向が強かった。そのため,
損害保険事業は一般に延び悩んでいた。さらに,損害保険事業を取り巻く環 境も悪く,損害率,経費率が高騰し,営業損失が累積し,憂慮すべき事情の 下にあった。とくに
1963
年から1965
年までの3
年は最悪であった。このこと は英国保険市場の80
%以上を占めている十大グループの成績を示した第一表(2)
を見れば明らかである。
損害保険事業の低調性の中でも自動車保険が最もひどかった。すなわち,
自動車台数の増加,賠償額の高騰化傾向によって,自動車保険は他の種目よ り伸展が大であるため,各社とも収益率拡大をめざして,自動車保険市場分 野に進出し,法定資本金
5
万ポンドぎりぎりの過少資本で営業する自動車保 険会社が乱立されるに至った。F i r eAuto & Marine I n s u r a n c e Company
も またその一つであった。このような事情の下にあった自動車保険市場では保(1)
保険行政の実際については,保険毎日新聞(損保版)昭和4 2
年4
月3
日〜4
月/6
日号にくわしい。(2) P o l i c y H o l d e r , v o l . 8 5 . No. 2 7 ( J u l y 7 , 1 9 6 7 ) p . 9 8 5
より作成。英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 7 9 )
67第一表十大グループの事業成績 年 度 損害
1 , 000
保ポ険ン料ド 増収% 率() 損(害%)率 経費% 率() 滓準備(金%積)増営業(%利益)率
1 9 6 1 7 3 9 , 4 1 5 5 . 5 6 0 . 9 3 7 . 2 1 . 1 . 0 . ‑ 8 1 9 6 2 7 6 9 , 0 2 0 . 4 . 0 6 1 . 8 3 7 . 2 . 1 . 7 ‑0.7 1 9 6 3 8 1 0 , 4 1 9 5 . 4 6 5 . 3 3 7 . 1 1 . 6 ‑4.0 1 9 6 4 9 1 5 , 6 1 3 1 3 . 0 6 2 . 9 3 6 . 0 2 . 8 ‑1. 7 1 9 6 5 9 8 8 , 7 3 9 8 . 0 63.4 3 5 . 5 2 . 5 ‑1.4 1 9 6 6 1 , 0 5 2 , 7 4 0 6 . 5 63.4 3 5 . 2 2 . 3 ‑0.9
険料のダンビング,手数料の引き上げ,自転車操業による経営が行なわれて きた。さらに悪いことにはプローカーの行動が加わった。すなわち,プロー カーは自動車保険契約をどこでも一番手数料の高い会社へ廻すだけで利得す ることができ,手数料の高い会社へ契約が集中する傾向があった。また,ブ ローカーは安い保険料の方が保険の発売がしやすいため,新設会社への契約 をすすめる傾向があった。
自動車保有台数の増加,賠償額の高騰化傾向によって確かに英国の自動車 保険市場は平面的に拡大したのであるが,契約者側は賠償額の高騰化傾向に 対処する必要上高額の付保をしなければならず,その保険料負担に苦しみ,
危険な会社と知りながら安い商品に手を出す消費者心理が働き.つい安い保 険料の新設会社に手を出した。その結果,損害率や経費率が悪化し,営業量 に比例した増収率も得られず,保険会社の営業収支状態が悪化し,多くの保 険会社は赤字を累積していった。保険会社としては保険料を引き上げたいと ころなのであるけれども,競争のためそれができず,
Underwriting
の面で引(1)
受規制や物件選択を強化する以外に方法がなかった。これがまた契約を新設 会社に追いやる結果となり,英国自動車保険市場はどろ沼にはまり込んでし まった。
この事態の改善を考えた
B.I . A.は 1964
年に経営コンサルタントのMc‑
Kinsey
に依頼して,自動車保険を分析し,あるべき姿についての勧告を求め た。その結果,マッキンゼー報告なるものが発表された。この報告の骨子は(1)
この理論的根拠については,拙稿「U n d e r w r i t i n g
の意義とその原則」損害保険論集第二巻(損害保険事業研究所創立
3 5
周年記念)参照。(1)将来とも保険金額の高騰は続く,(2)保険料率は欧米諸国と比較して相当低
(1)
ぃ,(
3
)保険料率の引き上げが必要であるという三点である。その場合の保険 料率の引上げは危険要素,例えば車種,使用種別,地域,運転者の職業,年 令,運転技術,運転歴等の組み合わせによって個々のリスクを正確に反映し たものたらしめよという点にあった。マッキンゼー報告に基づき協定会社は
1966
年11月から自動車保険料率の改 訂と引き上げを行なったが,その実行前にF.A.M.
事件が発生してしまっ た。もちろん,これは非協定会社の出来事であったが, トラファルガル島の 要塞にもたとえられる誇りを持つ英国保険業界にとっては大きなショックで あった。すなわち,1966
年7
月F i r eAuto & Marine
社が破産し,過去25
年 来の不詳事件として騒がれ,その後若干の会社が同様な運命をたどり,英国 自動車保険業界は深刻なビンチに立たされた。そこでこの事件を取り扱う以 前に,損害保険のうち35
%を占める自動車保険の業績を一べつしておく必要(2)
があろう。これは第二表によって明らかなとおり,損害率は毎年
65
%を上廻 第二表 自動車保険の事業成績比 率
1961 1962 1963 11964 1 9 6 5
増 収 率8 . 4 4 . 9 1 1 . 1 1 3 . 8 7 . 8
損 害 率6 5 . 8 6 5 . 6 6 8 . 0 6 6 . 8 6 7 . 0
経 費 率3 3 . 7 3 3 . 6 3 3 . 5 3 3 . 1 3 2 . 4
準備金積増率2 . 0 2 . 4 2 . 6 4.4 3 . 1
営業利益率‑1.5 ‑1. 6 ‑4.1 ‑4.3 ‑2.5
り,営業利益率はマイナスを示し続け,事業成績は全く好ましくない状態に あった。
F i r e Auto & Marine
社は1963
年2
月払込済資本5
万ボンドで海上保険を 営む会社として設立されたが,間もなく,自動車保険を専門に営む会社とし て変質した。そして,自動車保険市場に対して派手で高価な宣伝広告をなし,(1) P o l i c y H o l d e r , v o l . 8 3 No. 2 0 , 2 1
およびP o s t M a g a z i n e , v o l . CXXVI No. 22
参照。(2) P o s t M a g z i n e , v o l . CXXVI No. 1 2 ; v o l . CXXIX N o . . 1 5
より作成。英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 8 1 ) 69
通常の保険料の
50
%にも及ぶダンビングで顧客を引きつけ,不良物件につい てもアンダーライティング理論を無視して引き受け,さらに高手数料によっ てプローカーや代理店を抱き込むなど強引きわまる政策をつぎつぎに打ち出 した。その結果,1964
年には一やく自動車保険市場で有名な存在にのし上り,1964
年4
月の同社決算時には50
万ポンドを上廻る保険料収入を収め,未経過(1)
危険準備金の設定も
45
%基準で行なっていた。ところが,その後も強引な営業政策を続行し,
1965
年9
月ごろから支払不 能の傾向が現われてきた。これは一方において高損害率を露呈し,他方にお いてプローカーや代理店に対する未収が累積してその取立てに苦しみ,かつ 派手な広告で経費がかさんだためである。しかるに同社はかかる傾向を十分 了知しながら,ますます派手な広告で保険料を獲得しようと力めた。たとえ ぱ,私の調べた範囲では1 9 6 5
年1 0
月から1 9 6 6
年3
月まで,週間保険雑誌P o l i c y Holder
の毎号に4
ページから5
ページにわたる他に類を見ない誇大 広告を出し読者を引きつけ,甘言を用いた訴求方法を取っている。たとえば
1 9 6 5
年1 0
月7
日付のP o l i c yHolder
の広告を見ると,その第1
ペ ージには「いかにしてF . A .& M.社はモータリストに安価な保険料を提供
できるか」というキャッチフレーズを最大の活字で印刷し,その説明として 選択的アンダーライテングの採用と事務の機械化を強調し,機械化アンダー ライテングの世界的リーダーと宣伝している。さらに,プローカーを勧誘す るために,「当社と未だ取引のないプローカー各社におかれてほ,F . A .& M.
社の進歩的なマーケティング・アプローチによる利益を享受されたし,ご希 望の向きは代理店部長まで連絡ありたし」と書いている。
また,その広告の第
2
ページにほ,1 9 6 5
年9
月30
日に閉催した株主総会で 株主に対してなされた事業報告の内容を記載し,低保険料のため増収率が400
%に達していること,選択的アンダーライティングのため保険金支払は 平均以下に収っていること,ならびに準備金は創業時の171,203
ポンドから661,611
ボンドに達していることを強調している。(1) Board o f T r a d e , I n s u r a n c e B u s i n e s s ; Summary o f A c c o u n t s and S t a t e m e n t s ,
H.M.S.D . , I n s u r a n c e B u s i n e s s , 1 9 6 7 . p . 3 3 , p . 1 8 2 , p . 1 8 6参照。
さらに,その広告の第
3
ページには懐中時計の挿絵を入れ,「6 7
秒で」とい うキャッチ・フレーズで,E a r l s Court Motor Show
のF . A . & M.
のコー ナーで実演されているt e l e p r o c e s s i n gs y s t e m
を見よと訴えている。そしてそ の説明として計算機が危険を選択し,保険料を計算し,保険情報を与えるが,これらは保険証券を印刷するテレプリンターと連結した電話を通じてなされ るので,これは正に世界最初の方式であるとしている。
また,その広告の第4ページには近代的な英国女性を派手なスポーッカー に乗せた挿絵を入れ, 「
F . A . & M.
社の特別安全ベルト計画」と題し,B r i t i s h Standard I n s t i t u t i o n
によってテストされ,承認された安全ベルトの 割引販売を宣伝している。最後のページでは,「当社は拡張中」と題し,求人 広告に利用している。そして,「当社の成長率は500
%を越えている。これは われわれの機械化アンダーライテングが一般大衆に認められた証拠である。そのためわれわれの拡張はたえず新しい有為の人材を探し求めている」と説 明している。
このような広告が妥当な広告でないことはいうまでもなく,財務的ヒ゜ンチ 打開の逆宣伝であったと考えられる。しかしこれはあくまで表面的観察であ って,その裏面において
F . A .& M.社はセイロン国籍で同社の支配者であ
ったD r .Savundra
と同社の業務執行取締役であったWalker
等の詐欺的意 図が秘められていた。1 9 6 6
年7
月2 5
日F . A . & M.社はかねて出されていた商務省の申請に基づ
き高等裁判所の強制解散によって消滅するに至った。その直接的理由はいう までもなく,支払能力なきものとの判定にあった。事実,同社は46,000
ボン ドによる保険金支払の遅延があり,とかくの世評を買っていた。40
万人に上 る同社の保険証券所持者は完全に一片の紙片所持者と変り,運輸大臣によっ て同社の自動車保険証券は1 9 6 0
年道路交通法の要件を充足するものでないこ(1)
とが告示された。
F . A . & M.社の倒産事件は多分に詐欺的倒産であると見ていた官憲はそ
の首謀者たるSavundra
とWalker
の刑事責任を追求することになった。そ(1) P o l i c y H o l d e r , v o l , 8 4 N o . 3 0 ( J u l y 2 9 , 1 9 6 6 ) p . 1 1 1 6 .
英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 8 3 ) 71
(1)の捜査の過程において,両名の詐欺が実証され,処罰されるに至った。
F.
A . &
M.社の倒産事件を契期として,英国の世論および英国議会はこ ういう事態になるまで監督できなかった商務省の無能をはげしく批判した。しかし,これに対し,商務省は現行の保険会社法の下では事前に調査指導す るにほ余りに監督権が制約されている事実を主張し,保険会社法の不備を指 摘して,これに答えた。 F.A.M.事件はほからずも公示自由主義というゆる やかな保険監督行政の批判となって現われ,労働党政権下産業に対する国家 の直接的介入の風潮の下で,保険行政のあり方が問題とされるに至った。こ れは勢い保険会社法の政正に伴なう保険行政の強化を意味するが,それが実 現しないうちに,自動車保険を主力とする
B r a n d d r i s
とLondonand Che‑
s h i r e
等が経営破綻を起こし,F . A .&
M.社の倒産に次いで合計6
社が連続 して支払不能におちいった。自動車保険会社の倒産は単に契約者に損害を与 えるのみならず,彼らに損害賠償を請求している第三者をもその渦中に巻き 込むことになり,第三者賠償責任保険の社会性にもとることになるゆえ,こ のような経営破綻を防止するためにはいかに公示自由主義の伝統があるとは いえ,新しい立法でこれを修正せざるをえなくなった。かくて,商務省がB. I. A ・
の協力をえて起草したのがCompaniesB i l l , 1 9 6 6
である。(2)(1)
この詳細については,P o s tM a g a z i n e , v o l . CXXIX N o . 1 1 , p . 4 6 5 .
参照。(2)
この法案に対する保険業界側の意見はまちまちであって,新聞,雑誌に現われ た各種の意見を類別すると,賛成型,消極的賛成型,不満型の三つになろう。賛成 型の意見を要約すると次のとおりである。 「会社ほ絶対につぶしてはならない存在 である。そのような可能性ある会社は事前に排除しなければならない。それに新た な保険立法ほ当然であり,保険監督の強化をはかるべきで,悪だくみをうかがって いる悪徳企業家が活躍しにくい環境作りが必要である。今回の事件は会社側にもプ ローカー側にも責任があるのだから,今後かかることの起こらないよう双方を免許 制にすべきである」。また,消極的賛成型の意見は「保険事業の自主制と自由を尊重 する英国にあっては伝統的に市場自律性を保持してきたが,自動車保険市場の持つ 宿命的な性格からして,ある程度の監督強化はやむをえない」というものである。また不満型の意見を要約すると次のとおりである。 「自動車保険ほその潜在する責 任が広範囲にわたるため
u n d e r w r i t i n g
とr a t i n g
が大変むつかしい。そのかぎりに おいて新設会社が倒産するのは止むをえない。また,資本主義経済法則が作用する かぎり,競争の結果倒産するのは止むをえない。これを徹底的に防止しようとする4 . 1958 1 9 6 7
年 保 険 会 社 法 と 新 し い 保 険 行 政1 9 6 6
年会社法案は19 6 7
年会社法として成立したが,その第二部およびその 付則は1 9 5 8
年保険会社法を修正するとともに,追加規定を設けるという構成 をとっている。したがって,1 9 5 8
年保険会社法が廃止されたのではなく,そ れは1 9 6 7
年法の主法( p r i n c i p a la c t )として存続されている。したがって両者
は統一体をなしているわけで,これを合わせて1958 1967
年 保 険 会 社 法( I n s u r a n c e Companies A c t , 1 9 5 8
ー1 9 6 7 )
といわれている。本法の詳細については前述の米田氏および古瀬氏の論文にゆずるが,本法 の基礎をなしている保険行政の理念と範囲について若干の考察を行ない,英 国の保険行政がいかに変貌したかを明らかにしよう。
がんらい,保険監督行政の必要性は保険事業の正常機能維持という点にあ るわけで,これが自律的な市場を背景として自主的に維持されているかぎり,
保険監督は余計な干渉となるわけである。しかし,保険事業には本来技術的 数理的な制約があるにもかかわらず,その生産循環の転倒性や生産拡張可能 性を内在しており,これがため財務的不堅実という次元にまで過当競争を行 ない,遂にはその正常機能遂行困難となる可能性がある。したがってこの可 能性を財務的堅実性保持という観点から補正することこそ保険監督の必要性 の根拠である。英国の保険監督は古くから,国家は私企業の経営内部に立ち 入らず,全面的に企業の創意と工夫に委ね,国家は単に財務状態の契約者へ の公閉が忠実になされているかどうかの看視をなすにすぎなかった。保険事 業側は業界の協調と自主規制によって健全な自由競争が行なわれ,これによ って永遠に発展していくという満々たる自信があった。それゆえ,企業経営 の内部を詳細に公開する必要はなく,最低限を規定している法的要件を満た せばよいと考え,伝統的な英国的保守主義が支配的であった。
のは現行経済体制の自殺である。せいぜい競争の行きすぎを防止するのが限界であ る。これを越えて監督を強化してみても,周到かつ巧妙な手口の詐欺事例を防止す ることはできない。今回の法案は保険事業に認められていた営業自由が一歩後退し た遺憾な立来事である」。その他各種の意見があるが,以上が英国保険業界の三つ の最大公約数的意見といえよう。
英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 8 5 ) 73
ところが,このような保守的な保険監督理念は保険市場の自律性喪失と私 企業の公共性増加により修正せざるをえなくなった。その直接的契機はF.
A.M.事件であるが,これは先に考察したごとく被害者救済という社会性の 強い自動車保険市場における過当競争と支払能力を無視した契約の過剰引き 受け,ならびにアンダーライテングを無視した契約のかき集めという完全な 市場自律性の喪失にある。これがため,伝統的な保険監督理念であった公示
自由主義を大幅に修正せざるをえなくなるのは当然である。
その修正の方式は,子守的な商務省の監督権を親権者的な監督権に改める ことであろう。事実,
1 9 6 7
年法では商務省の監督権は強化されているが,日•独・米に見られるような絶対主義的なあるいは支配者統治的な監督権の付 与ではなかった。すなわち,今回の改正によって商務省に与えられた権限は 営業認可権と監督命令権の新設および解散請求権の強化であるが,それは日 本におけるような完全かつ無限の自由裁量に基づくものでなく,法定範囲内 の自由裁量に止まっている。そのかぎりにおいて,今後の英国の保険行政は 完全な実体的監督主義の採用といい切れない面を有し,なお根本的には業界
の自主的活動を維持する理念は失われていない。
(1) 営業認可権
従来,英国においてほ保険会社法またはその他特別法の規定する要件を具 備するかぎり,国家の営業認可を必要とせず,自由に営業をなしえたのであ って,商務省は何らの干渉をなしえなかった。しかし,今回の改正により保 険事業を閉始する場合や事業範囲を拡大する場合には商務省の認可を要し
(60
条),商務省が認可してはならない場合が法定されている。それは( a )
認 可 申請者の財務状態が不健全な場合,(b
)再保険機構が不完全な場合,(c)不適当 な人物の関与である。これらの三つの事項に該当しないかぎり,商務省は事 業免許を与えねばならないわけであるが,商務省が必要と認めた場合には投 資制限や英国内資産保有を課してもよいことになっている( 6 5
条)。 認可申 請者が法定要件を満たし,かつ商務省の要求を充足しているかぎり,市場動 向の官僚的な配慮から,それに事業免許を与えないということはできない。ところで,財務状態が不健全であるということは,支払可能剰余金が不足
(1)
している場合,および
1 0
万ポンド未満の払込済資本しかない場合を意味する( 6 2
条)。 これは明らかに財務的堅実性の基準を強化している。すなわち,1958
年法の下では支払可能剰余金の制度は損害保険事業に対してのみ適用さ れていたが,今回の改正ではその額の引き上げを計るとともに,生命保険事 業にまで拡大している。また,払込済資本についてほ1958
年法の5
万ポンド からその倍額の1 0
万ポンドに引き上げている。次に再保険機構が不完全な場合とは,十分な再保険契約を締結していない か,または締結しようとしていない場合をさすが
( 6 3
条),もちろん,これほ(2)
単に再保険契約の存在だけでなく,それが適切なものであることを要する。
しからぼ何をもって適当とするかという問題は結局保険種目によって異るわ けであるが,市場の取引慣行に照応して商務省の判定するところであろう。
次に不適当な人物の関与とは若干ばく然としているが,「不適当な人物」と
「関与」に分けて考える必要がある。最初の「不適当」に関する法律の定め なく,商務省の自由裁量に委ねられるが,これは一般的にすこぶる危険であ ろう。 「関与」とは不適当な人物が,(
a
)役員( o f f i c e r )
になっている場合,(b )
業務遂行につき命令または指示を与えることになっている場合,(c)議決権の 三分のーを支配している場合である( 6 4
条)。 この規定はなかなか用意周到 であるが,これはおそらく,Dr.Savundra
をモデルにしたものと考えられる。(2) 監督命令権
今回の改正のうち,保険行政の最もいちじるしい変更は監督命令権の商務 省への付与であろう。その中味は,(a)一定の要求をなしうる権限と(b)契約の
(1)
支払可能剰余金制度は今回の改正により初年度から適用される。すなわち,許 可申請時に損害保険事業を営んでおり,かつ最初の事業年度が終了している場合に ほ,直前の事業年度の支払可能剰余金が一定額を越えていなければならない。その 一定額とは( 1 )
保険料が2 5
万ボンド以下の場合は5
万ポンド,(2
)保険料が2 5
万ボンド を越え,2 5 0
万ポンド以下の場合は,保険料の2 0
%相当額,(3
)保険料が2 5 0
万ポンド を超過している場合には,5 0
万ポンドと2 5 0
万ボンド超過額の1 0
%との合計額である。生命保険事業を営む場合にほ,一律に
5
万ポンドとされている。なお,ここで損害 保険事業といっているのほ,g e n e r a lb u s i n e s s
のことであり,生命保険事業といっ ているのほ,6 2
条1
項(b )
にあるその他の場合をさす。(2) Magnus & E s t r i n , The Compaines Act 1 9 6 7 , 1 9 6 7 p . 3 1 6 .
英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 8 7 ) 75
締結および更改を禁ずる権限である。一定の要求をなしうる権限は第80
条に 詳細に規定されている。それを要約すると,営業認可を与えるに当たって商 務省が課しうる一定の要求( 6 5
条)と同一の要求とそれ以外の要求となる( 8 0
条(l ) ( a )
。) これらは,保険会社が支払不能になるおそれのあるような方 法で事業を営んでいると認められるような場合,(1
)特定の投資をしてはなら ないこと,および,既にそれを行なっている場合には指示された期間内に換 金すること,(2)英国内負債総額を上廻る資産を英国内で保有しなければなら ないこと,(3
)抵当権が設定されておらず,かつ債務の引当となっていない特 定種類の資産を英国内負債総額の一定割合または5
万ボンドのいずれか多い 額を英国内にて保有すべきこと,(4
)要求が課せられてから28日以後の一定期 間内に収入保険料の総額または負債の総額が一定額を越えないようあらゆる 手段を講ずべき旨の要求,(5)一定の時または一定の期間ごとに特定の事項お よび人に関する報告の提出を求めることである。以上の(1)から(3)まではいう までもなく投資規制である。英国保険行政は遂に投資規制にまで及び,しか も商務省に大幅な自由裁量の余地を与えた。しかも,それは商務省が速かに(3)
介入しやすい形を取っている。また,(
4
)はF . A . &
M.社のごとく,経営基 礎の弱い会社が無茶なアンダーライテングで急速に拡大していくことを防止(4)
するために設けられたものである。最後の(5)はいわば報告聴取権に関する規 定である。年度末に営業計算書,貸借対照表および損益計算書の提出を要求 できること
( 7 1
条),および傷害保険以外の保険事業にも拡大されているが,毎年事業報告書の提出を要求できること
( 7 4
条)は従来どおりであるが,必 要と認められる場合には年度の中途において会計や人事に関する報告を求めることができるようにされているのである。
次に,契約の締結および更改を禁ずる権限は次の場合に認められている
( 6 8
条)。 すなわち,(1)19581967年保険会社法に定められた義務に違反し ている場合,(2)損害保険事業を営む会社の支払可能剰余金が法定額を下廻っ たとき,(3
)生命保険事業を営む会社の資産が負債額を下廻ったとき,(4
)会社(3) Magnus & E s t r i n , o p . c i t . p . 3 4 4 .
(4) Magnus & E s t r i n , o p . c i t . p . 3 4 5 .
が適当な再保険取引を行なっていない場合,(5)不適当な人物が関与している とき,(
6
)営業認可申請に対して,商務省の判断を誤らしめるか,あるいは事 実に反する情報を提供したときがそれである。この規定は保険会社創設後の 監督命令権の一つであるが,事前的予防的な行政理念に基づくものである。すなわち,財務的に少しでも不健全な要因があると認められる場合にほ,保 険会社側の生産拡張を遮断してしまおうという考え方が底流に存在するもの
と思われる。
(3) 解散請求権
商務省が会社解散の請求を裁判所に対してなしうるのは次の場合である
( 8 1
条)。すなわち,(1
)損害保険事業を営む会社の支払可能剰余金が法定の最 低額を下廻った場合,(2)主法 4条(改正法71条にて修正)に違反して営業計 算書および貸借対照表の法定要件を備えなかったり,作成しなかった場合,主法
5
条(改正法78
条にて修正)に違反してアクチュアリー評価をしなかっ(5)
た場合,主法
7
条(改正法74条にて修正)に違反して事業報告をしなかった 場合,主法 8条(改正法75条にて修正)に違反して計算書類を商務省に提出 しなかった場合,(3)適正な会計帳簿の設置に関する義務( 1 9 4 8
年会社法1 4 7
条)に違反した場合である。以上のうち,(1
)に関しては支払可能剰余金の全 額が増加されているとはいえ,従来から認められていたものであるが,(2)(3) ほともに会計報告義務の違反であって,これが解散事由とされたことは保険 行政の一大変革といわねばならない。それは伝統的な英国的秘密主義を公開 主義に改め,もって情報欠如の弊害を改めようとしたものといわねばならな い。それとともに,商務省はもほや保険会社の解散を申請する以前に裁判所(6)
の認可を必要としなくなったことは大きな変革であろう。
む す び
実体的監督主義の保険監督行政ほ一般に,(
1
)法律上の問題(免許,約款),(5)
アクチュアリー評価は従来,5
年評価( q u i n q u e n n i a l v a l u a t i o n )
でも,3
年 評価( t r i e n n i a lv a l u a t i o n )
でも差し支えなかったが,これが3
年評価に改められた。(6) Magnus & E s t r i n , o p . c i t . p . 3 4 6 .
英国保険行政の変貌(亀井)
( 3 8 9 ) 77
(2)財務上の問題(資本,投資),(3)会計上の問題(財務諸表,事業報告),(4) 技術上の問題(保険料率,準備金の計算),(5)経済上の問題(競争の規制,代 理店),(6
)経営上の問題(役員人事,子会社支配)の6項目にまたがっている のが普通であるが,英国の保険行政ほ今回の実体的監督主義を導入したとほ いえ,その全部に及んでいない。すなわち,全然ノー・タッチの分野として,(4)と(5)とが残されているわけであって,監督される項目についても他国のそ れと比べると比較的軽度である。これは完全に実体的監督主義に踏み切って いない証拠である。
英国保険行政の発展ないし変貌ほ
1870
年生命保険会社法以来,(a)監督保険 種目の拡大,(b
)商務省の権限強化,(C)財務・会計規定の拡充を通じてなされ てきた。今回の政正はとくに(b)がいちじるしくクローズ・アップされ,事前 的予防的保険行政へその理念が変質してきている点に留意する必要がある。また,(C)についてもそういった理念が如実に反映されている。 (a)についてほ,
今回の改正によって,すべての保険種目が監督の対象とされるようになり,
監督保険種目の拡大という問題ほ一応終止符を打つ結果となった。すなわち,
それほ,簡易保険
( i n d u s t r i a la s s u r a n c e )
,責任保険( l i a b i l i t yi n s u r a n c e )
,海 上・航空・運送保険( m a r i n e ,a v i a t i o n and t r a n s p o r t i n s u r a n c e )
,自動車保険( m o t o r v e h i c l e i n s u r a n c e )
,普通長期保険( o r d i n a r yl o n g ‑ t e r m i n s u r a n c e )
,金 銭的損失保険( p e c u n i a r y l o s s i n s u r a n c e )
,身体傷害保険( p e r s o n a la c c i d e n t i n s u r a n c e ) .
および財産保険( p r o p e r t yi n s u r a n c e )
とされたため,この中に事 実上あらゆる保険が包含される結果となったからである。英国保険行政の変貌はその経済的地位の低下と全く比例して強化されてき ている。これほかつて世界第ーを誇った保険事業の国際的地位の低下,国際 的競争力の相対的低下,市場自律性の部分的喪失の投影といわねばならない。
英国の保険行政,それはかつての失われることなき自由であったかも知れな いが,今後ますます自由という栄光の座ほ失われていくことであろう。これ は前述の(4)と(5)の問題へも規制内容が拡大され,その他の分野にも強化処置 が講じられ,遂に実体的監督主義の完全な採用も遠くないことと考えられる。