その他のタイトル The Life and Works of Chen Chun sheng
著者 喬 昭
雑誌名 東アジア文化交渉研究 = Journal of East Asian cultural interaction studies
巻 14
ページ 249‑264
発行年 2021‑03‑31
URL http://doi.org/10.32286/00023016
喬 昭
The Life and Works of Chen Chun sheng QIAO Zhao
Chen Chunsheng was a translator of Aesop-related, like as “DongFangYiShuo” and
“YiShuoYiPing”, and was one of the famous scholars in the newspaper world at that time. But until now, there is little research on Chen Chunsheng and his writings. This paper investigates newspaper articles and materials such as social activities at that time, describes the career of a person from two perspectives: the life of Cheng Chunsheng and his writings. He founded an orphanage, promoting the relationship between missionaries and Christianity, the newspaper business. And participated in the early Chinese film business and was active in a wide range as a scenario writer. Especially, He worked for a long time in The Chinese Christian Intelligencer. There are many literary works, but most of them are collaborated with missionaries. Through studying Chen Chunsheng’s life and writings, I would like to examine the ideal form of the literary figures of the late Qing Dynasty and the characteristics of the times, “Western leaning spreading to the East”.
Keywords
:
Chen Chunsheng,
The late Qing Dynasty, The Chinese Christian
Intelligencer, Missionary,
The Commercial Pressキーワード:
陳春生、清末民初、通問報、宣教師、商務印書館はじめに
清末から西洋名作文学の翻訳は盛んになり始めた。特に、1840(道光20)年のアヘン戦争以降、多く の西洋宣教師が次々と中国にやって来て、宣教師の仕事や新聞の出版と並行して文化的な輸出活動を始 めた。イソップ寓話は宣教師たちがもたらす一つの宣教物として広がっていた。さて、陳春生はイソッ プ関係の『東方伊朔』と『伊朔譯評』の編訳者であり、当時の新聞界で名高い学者の一人であった。陳 春生に関する先行研究は管見の限り、以下の三つある。
まず、内田の『漢訳イソップ集』
1)には「中国人の編者は陳春生という人であるが、この人については
1 )内田慶市『漢訳イソップ集』(ユニウス、文化交渉と言語接触研究・資料叢刊 3 )、2014年、41頁。
よくわかっていないが、上述『伊朔譯評』の編訳者でもある」と陳について言及している。二つ目は佐 藤の「陳春生『東方伊朔』研究序説
―キリスト教的性格を中心に―」
2)の注釈部分で陳の情報を簡単に紹 介しているけれども、「多くの情報は未見」と記述していた。最後、戈寶權
3)『中外文學因縁』
4)において も言及があるが、細かい紹介はされていない。
まとめて言うと、先行研究では陳春生に言及しているが、詳しい経歴と陳の生涯については未解明の 部分が多い。清末における新聞界の重要な人物であり、イソップ寓話の編訳者でもある陳春生がどのよ うな人物であったか、検討する余地が多く残っている。また、陳春生のキャリアを分析し、そのキャリ アが翻訳に与えた影響についても考察したい。例えば、陳訳『伊朔譯評』の教訓の部分では、陳自らの 経験から世人への教訓を書いている。「知白子曰。人生在世。説話總要有信。倘若無信。後來他無論説甚 麽話。人皆不能取信。這様如何 舆 人交往呢。
5)」のように、単なる原文の諺を翻訳するだけではなく、見 解を加えて教訓になっている。さらに、陳春生の文学作品は『伊朔譯評』のようなもの以外にもたくさ んある。そこで本稿では、陳春生に関する今まで未解明の部分について、当時の新聞記事や社会活動な どの資料を調査し、陳春生のキャリアの復元と著作の再検討の二つの方面から陳の人物像を提示する。
陳春生の生涯と著作の研究を通して、清末民初の文人のあり方と時代の特徴「西学東漸」の一つの実像 を検討していきたい。
一 陳春生の生涯
先行研究では、陳春生に関する詳細な資料がなく、特に生没年は不詳とされている。以下これらにつ いて、当時の新聞記事や社会活動の記録などを調査し、生没年と職歴を分析し、陳春生のキャリアを描 き出す。
2 )佐藤一好「陳春生『東方伊朔』研究序説
―キリスト教的性格を中心に―」日本アジア言語文化学会(通号)1999年、
135頁。陳春生についての紹介は以下のように述べられている。
「陳春生の記者としての経歴は、『辛亥以來人物傳記資料索引』(上海辞書出版社、一九九〇年、一二七一頁)が指摘 する「新聞界名人介紹・陳春生(生年不詳)」中国新聞年鑑(一八九三)第五一九頁」が参考になろうが、本稿では 未見。ただ、曾虛白編『中国新聞史(上冊)』(国立政治大学新聞研究所、一九六六年、二〇七頁)には、『中国日報』
の主筆として陳春生の名が見える。一方、吳板橋については、王立新『米国宣教士与晚清中国現代化』(天津人民出 版社、一九九七年、五一六頁)の「英雄姓名對照表」にもその名は見えず、記者としての活動は未詳である。」
3 )戈寶權(1913.2.15-2000.5.15)は、江蘇の東台で生まれた。彼は1932年に上海大夏大学(現在の華東師範大学)を 卒業した。有名な外国の文学研究者、翻訳者、そしてソビエトの文学専門家であり、ニューチャイナの設立後、初 めて海外に派遣された外交官でもあった。プーシキン(Pushkin)を中国に紹介し、ロシア作家マクシム・ゴーリキ ー(MaximGorky)による有名な作品『海燕』を翻訳した。中国の中学校の教科書に導入した。
4 )戈寶權 『中外文学因縁』、2013年、446頁。
5) 陳春生『伊朔譯評』「牧童說謊」上海協和書局 1909年。
1 陳春生の生没年と家庭状況
陳春生は一八六七年四月六日
6)に鎮江市潤州に生まれた。潤州という出生地については『通問報』の 記事で「潤州陳春生」と署名したところが多いため確実に確認できる。1902(光緒28)年から上海に転 居し、五人の息子と一人の娘がいる家庭を持っていた
7)。また、先行研究では陳春生の詳しい逝去時期は 不明とされるが、調査したところ、『聖報』
8)の中には「通問報主筆陳春生先生,於六月一日壽終滬寓,享 壽七十四歲。六月四日下午四時,在膠州路大眾殯儀館行大殮喪禮。」との記述があった。要約すれば、陳 春生は鎮江市潤州に生まれて、上海の家で、七十四歳で逝去した。また、『聖報』によると、陳春生の家 庭状況は、以下のように書かれている。
1867年 出生於 镇 江潤洲(妻王氏,長先生一歲,生五子一女。)
1892年 年廿六歲,生長子,名福文,習醫,現(1940年)任蘇州福音醫院主任。
1896年 生次子名富章,之江大學預科生,(1940年)任華人青年會體育幹事。
1898年 生第三子,名富忠,畢業於滬江大学,經商,(1940年)任班達公司經理。
1902年 遷居上海。通問報出版,先生來上海,佐理報務,日臻上理,終成偉業。
1903年 湖南辰州教案激起,上海基督徒, 剙 立華人自傳,自養,自治,的教會團契,先生實默相之,
兼促基督徒報刊的出版,开華人自主言論的首創,先生之豐功也。
1905年 生四子,名富信,畢業于上海國立醫學院,現(1940年)任南洋醫院醫生。龍華孤兒院成立,
先生之隱德也。
1907年 五子富明生,肄 业 金陵大學,(1940年)任某公司職。
1940年 今卧病在床,已越一年。
上記は「希明」
9)という人が陳春生を偲んで新聞に発表した内容である。以上の情報から見れば、陳春 生には一歳上の妻王氏と六人の子供(娘に関する情報は不明である。)がいる大家族であった。長男と四 男は医者であり、他の子はそれぞれ社長や幹事などを勤めていた。こちらの情報により、子供の何人か が医者であり、社長であるが、子供たちは社会の重要な分野で活躍したことがわかった。さらに、「通問 報主筆陳春生先生、是一位耐勞的文人、一天到晚做工、不知道喫力、他的兒子們也都在社會上做事、很 受人們的稱讚。」
10)のように、陳春生の家庭は当時、社会的地位が高く、『平民月刊』
11)でも称賛するよう な存在であった。このような家庭があるため、陳春生は文学創作に力を入れ、新聞の編集長、キリスト 教の業務と孤児院などの事業を支えられたと考えられる。
6 )(希) 「小傳:陳春生小史的一斑」『明灯(上海1921)』1940年、第276期、10-11頁。
7 )陳春生「請求代稿」『興華』1930年、第27期、37頁。
8 )「教会消息:通問報陳春生出筆逝世」『聖報』1940年、第30巻 第 7 期、12頁。
9 )希明については詳細不明である。フルネームではないと推測する。『真光雑誌』で発表した文章が多いらしい。
10)「通問報主筆先生」『平民月刊』第十巻 第五期、 8 頁。
11)『平民月刊』は上海広学会が民衆のために発行した読み物である。内容には時事政治、思想訓練、言説や物語、詩、
常識、健康知識、社会ニュースなどが含まれ、またキリスト教の教義を宣伝しているものである。
2 陳春生の職歴について
陳春生は子供の時、江蘇近辺で生活していた。19世紀80年代から宣教師たちとの接触があり、中国語 教師として活躍していた
12)。そして、20世紀から新聞界で大変活躍した。ここでは、詳しい履歴を整理し て分析する。
( 1 )宣教師の中国語教師
陳春生「五更鐘再版自序」
13)には宣教師との接触に関する情報が以下のように述べている。
予在教会,与西教士往来,已二十余年期間作教習十餘年(後略)
20世紀初期まで陳春生と宣教師たちとの交流は20年間以上あり、そして、中国語教師をしていた期間 が10年以上であった。この「私は教会に入り、宣教師たちとの接触はもう20年あまりであり、この間に 教師を10年以上やっていた。(自序)」から見ると、陳春生は20代の頃から宣教師たちと接触し、高度な 言語能力を持っていることがわかる。宣教師と親密な接触があり、英語能力の高さは推測できるだろう。
( 2 )『通問報』の編集長である時期
宣教師たちの中では、陳春生は特に呉板橋
14)(英:Woodbridge、日:ウッドブリッジ)との関係は深 い。呉板橋は
Fifty Years in China15)の中で以下のように書かれている。
“Iwilloverturn,overturnit:anditshallbenomore,untilhecomewhoserightitis;andIwill
giveithim.” -Ezek.21:27.
Mr.ChengChun-sheng, theChineseeditorofTheChineseChristianIntelligencer,wasonce askedthequestionwhytheManchuDynastycollapsedsosuddenlyandcompletely.
“Itisthisway,”
saidMr.Cheng.
“Hereisalightedlamp.Thechimney,whosetextureisflimsyandimperfect,isveryhot,buttheatmosphereoftheroomapparentlyisofeventemperature and nothing happens. But suppose you suddenly throw open the window and let in a rush of coldair!Thechimneywillprobablybesmashedintopieces.” Threefactorscontributedtothe downfall of the Imperial Government of China in the year 1911: Misgovernment, unrest of the Chinesepeople,andtheinfluxofnewideas.
(拙訳:「ああ破滅、破滅、破滅、わたしはこれをこさせる。わたしが与える権威をもつ者が来る時 まで、その跡形さえも残らない。」
16)―
『エゼキエル書』21章27条
12)陳春生「五更鐘再版自序」『五更鐘』1907年、 5 頁。
13)同上。
14)呉板橋(英:Woodbridge、日:ウッドブリッジ)はアメリカ宣教師であり、『通問報』の創設者兼編集者である。
15)Woodbridge(1856-1926)Fifty years in China PrincetonTheologicalSeminaryLibrary 1919,pp.210.
16)『エゼキエル書』第21章27条、日本聖書教会、1955年。
The Chinese Christian Intelligencer
(『通問報』)の中国人編集者である陳春生(ChengChun-sheng)
氏は、満洲王朝がなぜ突然かつ完全に崩壊したのかと尋ねられた。「それはこのようです」とチェン 氏は言った。「これは照明付きランプです。質感が薄っぺらで不完全な煙突はとても暑いですが、部 屋の雰囲気は温度が均一で何も起こりません。しかし、突然窓を開けて冷たい空気を大量に入れた とします。煙突はおそらく粉々になるでしょう。」1911(宣統 3 )年の中国政府の没落に寄与した 3 つの要因:誤統治、中国国民の不安、および新しいアイデアの流入。)
このように、呉板橋は陳春生を「Mr.ChengChun-sheng,theChineseeditorofTheChineseChristian Intelligencer
17)」(陳春生、『通問報』の中国人編集長である)と紹介した。呉板橋はエゼキエル書を引用 して陳春生とのディスカッションを進めたため、陳春生の観点を非常に賛美したのではないだろうか。
ディスカッションの内容は満洲政府の崩壊など政治についてまで及んだ。そこで、二人の関係はとても 親密だと推測できる。
呉板橋は1856(咸豊 6 )年10月16日にヘンダーソンで生まれ、清末民初における「西学東漸」風潮に 従い、1882(光緒 8 )年に外国の伝道者として叙階された後、中国に移住した。彼は残りの人生を中国 で米国の長老派教会の宣教師を務めた。中国では、彼は1902(光緒28)年まで20年間鎮江で働き、その 後1926(民国15)年に亡くなるまで上海で働いていた。一方、陳春生は鎮江出身であり、呉板橋と同じ 年1902(光緒28)年から上海に転居した。その後一緒に『通問報』に関する業務をしていた。『通問報』
はキリスト教の宣教物であり、『中国基督教情報員』とも呼ばれている。したがって、二人の活動範囲は ほぼ同じであったと思われる。その間、陳春生は編集者として他の新聞や雑誌などにも大量の文章を発 表し活躍していた。
(左:呉板橋;右:陳春生)
図 1
17)Shanghai Christian Intelligencer, also called the
Chinese Christian Intelligencer, a magazine with both EnglishandChineseeditions。中国語名:『通問報』又は『中國基督教情報員』である。
陳春生は自分の仕事を評価して、「二十五年來之中國教會報」
18)の中に「回溯廿五年前所有老前輩之各 報。或已停辦。或已改組。而僅存之碩果。惟真光通問二兄弟而已。此則大可慶幸者。且通問報自出版至 今。皆鄙人一手編輯。」(二十五年以来の新聞を振り返ると、主に中止されたり、再編されたりである。
わずかに残れたのは『眞光』と『通問報』だけである。これは幸いだろう。そして、『通問報』は創刊か ら私の手によるものである。)と述べている。この内容から見れば、陳は自分の編集者としての仕事に対 する高い認識を持っていたと言える。彼は『通問報』の業務に人生の力を尽くしたと言えるだろう。
( 3 )龍華孤児院について
1905(光緒31)年に龍華孤児院が創立され、その成立について「小傳:陳春生小史的一斑」
19)では以下 のように述べられている。
先時馬路當中,間多流淚兒童,先生惻然憐憫,教養孤兒(中略)龍華孤兒院因而成立。(中略)吾國 孤兒院事業,龍華居首,創孤兒院之動機,陳謝
20)口筆之陰功也。
この情報により、陳春生のおかげで龍華孤児院が創立されたことがわかった。そして、『通問報』
21)の 中では、陳春生が龍華孤児院の会員になり、「中文書 啟 」の職務を発表した記事が載せられている。それ と同時に龍華孤児院には「英文書 啟 」という職務があるが、西欧人の参加については疑問が多かった。
中国人の事業に西欧人の職務を設定する必要があるかについて反論する人が少なくない。それは当時の 文化流入に関する「中西合璧」の状況が反映されているのだろう。また、陳春生は孤児院で働いていた 時期にも西欧人との接触が日常の業務であったと考えられる。
( 4 )映画事業に関する
孤児院で仕事をするだけではなく、他にも陳春生が商務印書館で映画関係の仕事をしていたことが明 らかになった。この情報は『張元濟日記』
22)に以下のように記入されている。
第633頁,1919年 8 月21日:
用人告翰翁、擬調蓮溪任存貨科儀器股。又擬延用王( 应为“陳” ,疑笔 误 )春生。翰謂、渠亦有來 意、但恐通問報 难 得脱身、教會西人亦未必肯允。然實在必欲羅致、亦可与商。薪水現在約不足百元
18)陳春生「二十五年來之中國教會報」『眞光』第二十六卷第六號第三頁。
19)(希) 「小傳:陳春生小史的一斑」 『明灯(上海1921)』 1940年、第276期、10-11頁。
20)即ち、陳春生と謝洪賚である。謝洪賚(1873-1916) 清王朝後期と中華民国初期の有名な中国人クリスチャンの翻 訳者、作家である。当時稀に科学分野の作品を翻訳する人として有名である。1906年以前、商務印書館で働いた。
『青年会會報』の副編集長でもある。
21)『通問報』第二百二十八回の「教務」欄、1906年。
22)『張元濟日記』は商務印書館の1912年から1923年までの庶務を記録する日記である。張元濟(1867-1959)また張菊
生と呼ぶ。1902年から商務印書館に入り、編集部部長、マネージャー、監督者、会長などを担った。
云。俟王仙華病愈、托伊轉達。
第651頁,1919年 9 月19日:
用人……余告仙華、前商準翰翁、擬延陳春生、亦乞轉詢。……
第653頁,1919年 9 月23日:
用人……陳春生可來、擬先約来試辦半月、月薪約六七十元。……
第669頁,1919年10月27日:
用人……与 鲍 先生商定陳春生坐位。 鲍 云、在照相部。餘言、業務科亦可兼設、以便與總務處接商。
……
第670頁,1919年10月28日:
用人……商定陳春生半日 办 事、月薪六十元。
第677頁,1919年11月19日:
文具翰翁交陳春生活動写真說明一册。
第698頁,1920年 1 月 2 日:
儀器文具製造影片事。余函知陳春生、可與美国某公司接洽。系郭生所介紹。
……
上記の「儀器文具製造影片事。余函知陳春生、可與美国某公司接洽。系郭生所介紹。」から見れば、
陳春生は商務印書館に入ったばかりに、アメリカとの業務をこなし、言語能力をもう一度証明したと言 える。前文で論じた陳春生が宣教師の教師を務めたことと相まって、陳春生の英語能力が明らかに表れ ている。したがって、映画関係というと、当時中国の映画事業が始まったばかりである。『張元濟日記』
の情報によれば、1919(民国 8 )年10月27日に陳春生が商務印書館に入った時、まだ映画部ではなく、
写真部門という所に入職したことがわかった。この情報は楊小仲の「憶商務印書館電影部」
23)という文章 にも指摘されている。その後、1920(民国 9 )年 7 月15日に、同館は写真部門を「活動影片部」(イベン ト映画部)に変更し、映画関係の活動を行い始める。この変更について筆者は『本 馆 四十年大事記
(1936)』
24)の記載を発見した。内容は以下のように述べられている。
民国八年(1919年) 4 月 創制活動影片呈准教育農商兩部及稅務處特許免稅。
民国九年(1920年) 7 月15日 通過活動影片部簡章,設立活動影片部。
よって、陳春生の在任期間に関する一般的な状況は次のとおりである。陳春生がコマーシャルプレス
(商務印書館の映画部門)に入る前に、鮑慶甲
25)がイベント映画の責任者であった。イベント映画部門
23)楊小仲「楊小仲:憶商務印書館電影部」商務印書館館史資料(新三期)2014年。
24)商務印書館『本
馆四十年大事
记(1936)』、1936年。原載『同舟』第四卷、第12期。
25)鮑慶甲は、コマーシャルプレス(現映画部門)の初期の創始者である鮑咸恩の息子である。そして、印刷局長の鮑 咸昌の甥であり、教会の大学を卒業した。元は印刷会社の特定部門の部長であった。アメリカに印刷事業を視察し、
ハリウッドに行き、映画業界について調査したが、当館は当初、彼の提案によりアメリカの写真機材を購入したと
は、最初に写真部門の設立の前後に設置され、その後すぐに印刷事務所の下に置かれ、そして総務事務 所に変更された。結局、イベント映画部門の増設まで陳春生が担当し、1922(民国11)年 9 月頃にイベ ント映画部門の増設に向けて準備を進めていた。1926(民国15)年初、陳春生は商務印書館を辞任し た
26)。その後、鮑慶甲が主任に就任し、「國光映画会社」設立後に鮑慶甲がマネージャーを継続した。し かし、当時映画産業の発展が不十分なため、1928(民国17)年に閉鎖された
27)。陳春生が当館の映画事業 の始末を経験したため、中国の最初の映画事業に参加したと言える。さらに、映画は当時の社会背景に おいて、新鮮で新たな挑戦ではないだろうか。陳春生はアメリカから流入した映画事業に力を入れ、い わゆる外来文化の受容を行ったと言える。
( 5 )その他
20世紀30年代に入り、陳春生はおおよそ1926(民国15)年頃から、医薬関係の文章を大量に発表した。
例えば、『通問報』の「醫藥叢談」
28)欄でいくつかの文章を掲載している。『通問報』はもちろん、他にも 主に『廣濟醫刊』など「知白子」で文章を発表していた。これは子供達が医者であることと関係がある か、それとも陳春生自身が医薬関係の勉強などをしたかと考える。
また『通問報』の中に「陳春生迁移启事、新住址在上海膠州路膠州坊一弄三號」
29)とのお知らせがあっ たため、陳春生は1936(民国25)年に再度転居したことがわかった。逝去の時間から推測してみれば、
転居する原因は体調関係ではないだろうかと考えられる。だが、『通問報』が不完全なため、1936(民国 25)年の通問報社の住所は未見である。
以上の詳しい職歴や家庭事情を整理すると、陳春生のキャリアは以下のように総括できる。
1867(同治 6 )年 鎮江市潤州に生まれた。
1880(光緒 6 )年 宣教師の教師を務める。
1892(光緒18)年 26歳、長男「福文」が生まれた。蘇州福音病院の主任を担っている。
1893(光緒19)年 『中国日報』主筆になる。
1896(光緒22)年 次男「富章」が生まれた。(之江大学の別科生である。華人青年会体育幹事を担っ ている。)
1898(光緒24)年 三男「富忠」が生まれた。(滬江大學卒業。ビジネス関係の仕事をしている。班逹 会社の社長である。)
1900(光緒26)年 上海に転居する。
1902(光緒28)年 『通問報』の編集長になる。『通問報』が創刊され、陳春生は編集長を務める。そ して、逝去まで『通問報』で働いている。大量の文章を発表した。
1903(光緒29)年 上海のキリスト教徒は中国の「自伝、自立、自治」の教会を創立した。キリスト
いうことである。
26)楊小仲「楊小仲:憶商務印書館電影部」商務印書館館史資料(新三期)2014年。
27)同上。
28)「醫藥叢談」は『通問報』の一部分であり、医薬関係のことを掲載する欄である。
29)「陳春生迁移启事」『通問報』第1712期、1936年、第32頁。
教の新聞の出版を促進し、中国人の自主的な言論を開拓した。
1905(光緒31)年 四男「富信」が生まれた。(上海国立医学院卒業。南洋病院の医者である。)
同年、龍華孤児院を創立する。
1906(光緒32)年 孤児院正式会員、「中文書 啟 」を務める。
1907(光緒33)年 五男「富明」が生まれた。(金陵大学を中退、その後の仕事は会社員である。)
1916(民国 5 )年 「金陵神學一份子」との経歴がある。(「陳春生先生之根本救國談」 『社會星報』1916 年,第16期,12-13頁。)
1919(民国 8 )年 商務印書館活動影事部(その後、映画部門と改名した)に入り、シナリオライタ ーと中国早期のディレクターになる。
1926(民国15)年 国光映画会社成立 商務印書館を辞職する。
1929(民国18)年 「知白子」の名前を使用し、医薬関係の文章を発表している。
1936(民国25)年 二度目の転居をした。(住所:上海市、胶州路、胶州坊、一弄、三号である。)
1940(民国29)年 上海で逝去した。
二 陳春生の著作
1 文章類
陳春生は上海に行く前から宣教師との接触があった。そして、新聞や雑誌などに大量の文章を発表し 始めた。本稿は陳春生が発表した文章を1867(同治 6 )年から1950(民国39)年までの時間帯に設定し 分析する。それから、第一章で生涯分析をした結果、陳春生の経歴は主に上海であるため、上海図書館 に収録した貴重な『晚清期刊全文數據庫』、『民國時期期刊全文數據庫』、『字林洋行中英文報紙全文數據 庫』のデータを集めて分析する。また、陳春生訳『伊朔譯評』には「知白子曰」からの教訓があったた め、陳春生の署名はフルネームに限ったことではないと推測できる。他にも陳春生が編集した『通問報』
に掲載された記事には、「知白子」と「知白」の署名がたくさんあるため、検索対象を「陳春生」、「知白 子」、「知白」と三つの名前に選定した。名前と時間を設定しデータを検索すると、新聞や雑誌などに発 表した文章は以下のようにまとめられる。
表 1
(年)時間
署名 1889 1890-1899 1900-1909 1910-1919 1920-1929 1930-1939 1940-1941( 4 )・
(1940-1950)(35)
(76陳春生30)) 『新社』
合計 1
『中西教會報』
( 3 )、『畫圖新 報』、『萬國公報』
合計 5
『通問報』( 2 )、
『中西教會報』
合計 3
『通問報』( 7 )、
『青年進步』、
『社會星報』
合計 9
『小朋友』、
『真光』、
『新民報』、
『興華』合計 4
『建國月刊(上 海)』( 7 )、『商業 月報』( 3 )、『通 問報』( 3 )、『東 干月報』、『實業 界專刊』、『錢業 月報』、『興華』、
『中華半月報』、
『石室公教月刊』
合計19
『組織』(15)、『三 民主義半月刊』
( 5 )、『當義研 究』( 8 )、『大風
(香港)』( 3 )、
『革命文獻叢刊』
( 2 )、『明燈(上 海1921)』、『經 緯』合計35
30)カッコの中にある数字は発表した文章の数を示す。ただ、 1 文の場合は数字を省略する。
(69)知白子 『通問報』( 3 ) 合計 3
『通問報』( 2 )、
『天聲週報』
合計 3
『通問報』(47)、
『廣濟醫刊』(16)
合計63
知白(289)
『杭州商業雜誌』
( 4 )、『通問報』
( 4 )、『新民從 報』( 4 )、『牖 報』、『江浙潮(東 京)』合計14
『通問報』(19)、
『大共和日報』
( 2 )、『憲政新 志、』、『小說月報
(上海1910)』、
『銀行週報』、『新 中華』、『禮拜 六』、『盐政雜誌』
合計27
『通問報』(36)、
『暨南半月報』
( 2 )、『真光』
( 2 )、『卷筒紙畫 報』( 2 )、『戲劇 週報(蘇州)』、
『國際公報』、『女 鐸』、『紫羅蘭』、
『興華季刊』、『婦 女雜誌(上海)』
合計48
『通問報』(55)、
『風月畫報』
(28)、『民眾教育 半週刊』(26)、
『現代中國(上海 1939)』( 3 )、『會 聲(上海1931)』
( 2 )、『女鐸』
( 2 )、『真光雜 誌』( 2 )、『家庭
(上海1931)』、
『天津商畫報』、
『戲劇畫報(上海 1937)』
合計132
『通問報』(114)、
『風月畫報』
(28)、『民眾教育 半月刊』(26)、
『新德善刊』
(22)、『中華週報
(北京)』(15)、
『新民聲』( 3 )、
『新疁月刊』
( 2 )、『戲劇畫報
(上海1937)』
( 2 )、『國民體育 季刊』( 2 )、『勞 動者』( 2 )、『立 言畫刊』( 2 )、
『中央週刊』
( 2 )、『復蘇』
( 2 ) 合計68
表 1 から分かるように、発表した文章は数多い。署名の違いから見れば、「知白」で発表した文章が一 番多い。合計289作ある。次は「陳春生」、「知白子」の順番でそれぞれは76作と69作である。そして、最 初の文章は1889(光緒15)年で発表したが、当時は22歳であった。さらに、1940(民国29)年以降の作 品が一番多いが、逝去した後でも大量の文章が発表された。
陳春生の文章が掲載されている新聞や雑誌などを整理すると、およそ以下の 5 種類に分けられる。
① 教会類:『通問報』、『中西教會報』、『畫圖新報』、『萬國公報』、『真光』、『興華』、『興華季刊』、
『石室公教月刊』、『新德善刊』
② 政治・経済関係:『憲政新志、』、『杭州商業雜誌』、『 盐 政雜誌』、『中央週刊』、『建國月刊(上 海)』、『商業月報』、『革命文獻叢刊』、『三民主義半月刊』、『實業界專刊』、『銀行週報』、『天津商 畫報』、『大共和日報』、『組織』、『新民從報』、『新民報』、『現代中國(上海1939)』、『勞動者』、
『新中華』、『中華半月報』、『中華週報(北京)』、『錢業月報』、『黨義研究』、『新疁月刊』、『牖報』
③ 文学・戲劇:『紫羅蘭』、『小説月報(上海1910)』、『禮拜六』、『戲劇週報(蘇州)』、『戲劇畫報
(上海1937)』、 『立言畫刊』 (児童・青年・婦人文学:『小朋友』、 『青年進步』、 『明燈(上海1921)』、
『婦女雜誌(上海)』、『女鐸』、『大風(香港)』、『風月畫報』)
④ 民衆生活:『國民體育季刊』、『民眾教育半週刊』、『民眾教育半月刊』、『新民聲』、『復蘇』、『會聲
(上海1931)』、『家庭(上海1931)』、『廣濟醫刊』
⑤ その他:『新社』、『社會星報』、『東干月報』、『經緯』、『天聲週報』、『江浙潮(東京)』、『 暨 南半 月報』、『卷筒紙畫報』、『國際公報』
以上のように陳春生が発表した文章は数多く、主に「教会」、「政治・経済」、「文学・戲劇」、「民衆生
活」と幅広い分野で活躍していたといえる。特に、『真光』で発表した「二十五年来之中国教会報」
31)と
いう文章では、当時の教会新聞(『郇山使者』、『月報』、『畫圖新報』、『萬國公報』など約20種類以上の新
聞)について詳しく評価したり、新聞社の倒産原因まで指摘したりしていた。史料の散逸などが原因で
31)陳春生「二十五年来之中国教会報」『眞光』第二十六巻第六號、 1 - 6 頁。
全部の文章は残されていないが、陳春生が発表した文章で現在に残された数は少なくない。その大量の 文章は清末民初における文学作品の盛況を分析する研究に、いずれも有益な資料を提供できると考える。
2 書籍類
陳春生は宣教師と共作した著作が多い。その中、関西大学図書館に所蔵された『清末民初小說目錄』
は主として1902(光緒28)年から1918(民国 7 )年の間に発表された小説の目録である。しかし、内容 についての説明が以下のようにある。
ただし、例外がある。A,阿英「晩清小説目」に採られた作品は、上記の期間を外れていてもこ れを採録する。B,商務印書館説部叢書、林訳小説叢書などのうち1920年代以降に発行されたもの も収録する。C,『中国近代期刊篇目彙録』は、1857-1918年間に創刊された雑誌を収録している
32)。
『清末民初小說目錄』の中には『獄中花』(上海廣學會、光緒29年、1903)、『小英雄』(美華書局光緒 29、1903)、『貧子奇緣』(上海廣學會、光緒29年、1903)、『東方伊朔』(通問報社、光緒末年、1908)、『五 更鐘』(上海美華書館、民国 4 年、1915)、『伊朔譯評』(通問報社譯、美華書局、光緒末年、1908(二百 節))、『強盜洞』(上海美華書館、光緒34.6年、1908、再版)などのデータが含まれている。大量の作品 が収録され、陳春生は清末民初の文学分野で非常に影響力を持っていたと言えるだろう。
その中、個人で完成した著作は幾つかあるが、イソップ関係の『東方伊朔』と『伊朔譯評』の他には
『滿洲聖教奮興記』、『新日記故事』がある。そして、連載の形である『孽海光』と『以古方今』は『通問 報』に載せられている。『孽海光』は小説であり、『以古方今』は寓話のような短編物語であろうかと思 う。『以古方今』が寓話だと考えられるのは、『東方伊朔』と『伊朔譯評』のように物語を記述し、その 後ろに「知白子」からの評論文があるからである。例は以下の図 2 と図 3 を挙げる。
第一千一百二十八回、「家庭講話」欄、
1924年11月、第五頁。
図 2
第五百三十一回、「小説」欄、
民國元年十二月(1912)、第一頁。
図 3
32)『清末民初小說目錄』 清末小說研究會編、中國文藝研究會、1988年、 5 頁。
また、キリスト教性長編小説の編訳や聖書関係の翻訳、民間伝説などの著作について考察する。関西 大学図書館所蔵の陳春生編『中國民間神話與傳說』
33)が興味深い。その中には12話の物語がある。しか し、『中國民間神話與傳說』は一般的な神話の内容とは違い、特に「嫦娥と羿」に関する話は特別な叙述 であろうかと考える。というより、普通に伝えられてきた「嫦娥と羿」の愛情ではなく、むしろ反対側 の恨みの視点で述べられている。最後の部分では「男女の社会地位は男性が第一位であり、女性は第二 位である」と書かれている。それは当時の社会背景とふさわしい時代性を持ちながら作られたのかと考 えられる。
一方、陳春生の『五更鐘』を代表とする宣教師との共作は有名である。『五更鐘』についての研究は近 年学界に徐々に重視されるようになった。そして、「ホワイトとの共著者である多くの助手の内、陳春生 は注目に値する人物である。」
34)と宋莉華の『傳教士漢文小說研究』にも言及された。さらに詳しく分析 すると、『五更鐘』の名前は元々『五次召』であり、「凡例」の「書原名『五次召』、盖書寓有上帝五次召 人回頭之意、故名。惟此名用在中國、未免深晦、人不易明、故改為今名。盖五更清鐘、寓有驚醒世俗之 意、與原名雖微有不同、而意實一也。起淺顯易明、較之原名多多矣。」から見れば、陳春生は中国文化に ふさわしい書名を考慮し、『五更鐘』に変更したことがわかる。このような文学創作における文化交流の 表れは見逃されるべきではない。しかし、清末民初に関する多くの研究は宣教師に重視しているが、漢 文翻訳作品は文化交流の産物だと言えば、その共作者である中国人は大きな役割を担ったのではないだ ろうかと考えられる。
以上の研究を行い、陳春生の書籍類の作品を以下の表 2 のようにまとめている。
表 2
作品 作者 出版社 時間 所蔵
『獄中花』 亮樂月譯
陳春生述 上海廣學會 1901年 上海圖書館
『小英雄』 亮樂月譯
陳春生述 上海廣學會 1902年
『貧子奇緣』 亮樂月譯
陳春生述 上海廣學會 1903年
『東方伊朔』 陳春生演話 上海美華書館 1906年 台灣大學圖書館
『五更鐘』 亮樂月譯
陳春生編輯 上海美華書館 1907年 ケンブリッジ大学ニーダム研究所東アジア科学史 図書館
『滿洲聖教奮興記』 陳春生 上海美華書館 1908年 オーストラリア国家図書館
『西史通俗演義』
(別称:『十孩童』)
陳春生
吳板橋夫人共譯 上海美華書館 1908年 カリフォルニア大学バークレー図書館/北京大学 圖書館
『伊朔譯評』 陳春生演話 通問報社 1909年 香港中文大學圖書館
『講道要訣』 陳 春 生萬 應 遠 等
譯(同輯) 上海美華書館 1912年 台灣東海大學圖書館
『孽海光』 陳春生 通問報連載 1912年
33)陳春生『中國民間神話與傳說』香港僑光書店、1956年。
34)宋莉華『傳教士漢文小說研究』上海古籍出版社2010年、251頁。
『以古方今』 陳春生 通問報連載
『強盜洞』 吳板橋訳意
陳春生演話 上海美華書館 1914年 台灣東海大學圖書館
『新日記故事』 陳春生輯評 上海協和書局 1916年 華東師範大學
『聖經百科全書』
(英)俄珥(Jemes Orr)撰;楊海峰等 譯;陳春生等校
台灣東海大學圖書館
『中國民間神話與傳說』 陳春生編 香港僑光書店 1956年 關西大學圖書館
3 映画作品
第一次世界大戦を通じて中国の民族資本はようやく著しい成長を見せ、民族資本による映画製作が試 みられるようになる。その口火を切ったのが、教科書や辞書で知られ、現在も中国出版界の重鎮である 商務印書館だった
35)。陳春生は商務印書館での活動について、 「憶商務印書館電影部」
36)で以下のように述 べている。
当館の映画部門の設立の初めから、キリスト教教会新聞(つまり『通問報』)の編集長である陳春生 を雇った。夏粹芳(即夏瑞芳)、高 凤 池、 鲍 咸昌などの商務印書館の創設者はすべてクリスチャンだ ったが、このとき、高 凤 池が当館の社長(マネージャー)に任命され、 鲍 咸昌が印刷所の所長を務 めた。その時、陳春生は映画や関係のことを一切知らないが、人事の関係でこの仕事を担っていた。
最初、いくつかのニュースリールや風景映画を撮影することに必要なのは、より有能な写真家だけ であった。そこで、陳春生はビジネスの仕事をし、写真家の葉氏と一緒に仕事をフォローした。そ の後、小さな長編映画を撮影しようとしたとき、陳春生は博物館の印刷所製本部門の同僚である任 彭年に出会った。二人は同郷であり、話し合いが上手くできる。任さんは、印刷所労働者クラブの エンターテインメントグループの確固たる地位を築いている。京劇(北京オペラ)に興味があり、
舞台によく出て行ったり、新しい文明劇のリハーサルをしたりすることがよくある。そこで、陳春 生は印刷所に任彭年を転勤させて強力な助手になるよう依頼した。
それと同時に、1920(民国 9 )年ころ、商務印書館はいわゆる「新劇映画」を撮影した。『上海キネマ ポート』
37)によると、陳春生シナリオ、任彭年監督のコンビがほとんどで、内容から以下の三つに分けら れている。
第一は、滑稽短編もの、「憨大捉賊」(二本)、「呆婿祝壽」(三本)、「死好賭」(二本)、「得須彩」など。
特に、「呆婿祝壽」 は民間の笑い話を脚色したもので、ばかな女婿が妻の父の誕生祝いの席で演じる行 動を、存分に誇張した作品である。
35)佐藤忠男 刈間文俊「民族資本による映画製作」『上海キネマポート』シバシン文庫②、凱風社、1985年、229頁。
36)楊小仲「楊小仲:憶商務印書館電影部」商務印書館館史資料(新三期)2014年。
37)佐藤忠男 刈間文俊『上海キネマポート』シバシン文庫②、凱風社、1985年。
第二は封建道徳における「警世」を持ち上げたもので、この種の映画は「新劇映画」の主力になり、
「節」「孝」などの伝統観念を宣伝した。「猛回頭」、「柴房女」やいわゆる警世喜劇の「李大少」(二本)、
「拾遺記」(二本)などがある。
第三は、神仙妖怪に立回りを加えたものである。たとえば、当時流行していたアメリカの長編連続探 偵映画を模倣した「車中盜」、『聊齋誌異』の「勞山道士」を脚色した「清虛夢」(三本)などである。い わゆる、古典小説を脚本として映画に改編する先例である
38)。そして、「清虛夢」では中国で初めての特 殊撮影を用いている
39)。
そして、『上海電影志』
40)の「影片目錄」(故事片:「即ち物語映画」1909−1927)を参考にして、陳春生 の映画作品を以下表 3 に整理してまとめた。しかしながら、以上の調査を行う中で、『中国映画史』
41)の 記録は 1 箇所の間違いがある。「荒山得金」の上映時間は1923(民国12)年ではなく、1920(民国 9 )年 である。そして、『中国早期電影史事考證』
42)には「蓮花落」の上映時間を1923(民国12)年と記述した が、実際は1922(民国11)年に上映したのである。
表 3