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与謝蕪村筆「奥の細道図」の場面構成

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(1)

その他のタイトル Scene Composition of The Narrow Road to the Deep North by Yosa Buson

著者 猪瀬 あゆみ

雑誌名 文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集 :

journal of the Graduate School of East Asian Cultures

巻 9

ページ 3‑26

発行年 2019‑11‑30

URL http://doi.org/10.32286/00023376

(2)

与謝蕪村筆「奥の細道図」の場面構成

猪 瀬 あゆみ

Scene Composition of The Narrow Road to the Deep North by Yosa Buson

INOSE Ayumi

Abstract

Yosa Buson (1716-1783) was an incredibly talented haiku poet and a painter during mid Edo Period. In 1702, he completed the unfinished works of Matsuo Basho (1644-1694) The Narrow Road to the Deep North. Towards the end of the Anei Era, he painted three scrolls and adorned a folding screen with his work.

In the late XVIII century the awakening of the Japanese Renaissance Period was evident, with Basho’s works becoming highly prevalent. This trend has also made Buson’s works very much in demand. Little is known however as to the extent of his works.

In this essay I am going to envisage Buson’s ability to incorporate Basho’s complete works into some of the scenes of his own work. In each of the existing works he compares the existence of the characters, certain objects, and scenes within the boundaries of any adopted extract. He then designates the incidence of any unanimity or distinctiveness. Furthermore this essay elucidates that Buson’s adopted scenes aren’t just mere illustrations of Basho’s famous works inserted into his own composition. Instead he presented them as a brilliant reconstruction of the entire masterpiece.

Keywords:与謝蕪村、松尾芭蕉、奥の細道、俳画、場面

(3)

はじめに

 江戸中期の画家であり、俳諧師でもあった与謝蕪村(1716-1783年)は、安永後期を中心に、

松尾芭蕉(1644-1694年)著『おくのほそ道』(1702年刊)に基づいた作品「奥の細道図」を制 作した。これらの作品は現在 4 点遺っており、蕪村の代表作として挙げられる作品となってい る。書簡などにより10数点制作されたことがわかっており1)、芭蕉回帰を目指す蕉風復興運動の 高まりとともに当時需要のある作品であった。蕪村は、どの作品にも『おくのほそ道』の全文 を写し、いくつかの場面を文章の間に略筆で描いた。この作品の全体を通してみると、蕪村は ただ有名な場面を描き、「奥の細道図」を制作したのではなく、挿画2)の構成をしっかりと練り 上げ、見る者が単調にならないように配慮したことがわかる。

 本研究では、蕪村が原作『おくのほそ道』の数ある場面の中から、どのような場面を採用し て描いたのかを考察していく。このことに関する詳細な調査は、藤田真一氏の研究のみとなっ ている3)。当時の風潮や注文主の意向だけでなく、蕪村がなぜその場面を選んだのか考えること は、「奥の細道図」の特質を理解にするために重要なことである。

 この研究では、現存する各作品において、採用された場面に登場する人物・物・場面内容等 を比較し、何らかの共通性、特異性があるのかどうかを考える。また、作品ごとに挿画数も異 なるため、蕪村が場面の取捨選択をなぜ行ったのかを考察していく。そして、これらのことに より、「奥の細道図」に描かれた挿画がどのような構成で成り立ち、原作『おくのほそ道』をど のような作品に仕上げたのかを明らかにすることを目的とするものである。

 この論文において、混同をさけるため松尾芭蕉の作品を述べるときは『おくのほそ道』(芭蕉が 原稿の清書の表紙中央に『おくのほそ道』と題したことより)とし、蕪村筆の作品を述べるとき は「奥の細道図」(作品の奥書が漢字で書かれているため4))とする。また「奥の細道図」のなかで も、画巻について述べるときは《奥の細道図巻》とし、屏風については《奥の細道図屏風》とする。

 1) 岡田彰子「蕪村筆奥の細道画巻について」『サピエンチア 英知大学論叢』22号、1988年、248頁。

 2) この研究で用いる「挿画」という言葉は、これまでの蕪村研究において、河東碧梧桐も使用しているが

[河東碧梧桐「蕪村新史料(八)」(『三昧』52号、1929年 6 月)他]、現在の研究では「挿画」、「挿絵」とい う言葉で表現されていることが多い。しかし、画家でもあり、俳諧師でもあった蕪村の「奥の細道図」に ついては、蕪村の写した書だけでなく、絵画にも需要があったはずである。そのため、「挿画」・「挿絵」と いう言葉では文章に絵画が添えられた印象を与え、「絵画」の立場が「俳諧」よりも下に位置すると捉えら れかねない。そこで、本研究では、「俳諧(書)」と「絵画」が対等であるということを明確に示すため、

「挿画」という言葉を使用し、蕪村の「奥の細道図」について考察していくことにする。

 3) 藤田真一「蕪村の『奥の細道』―『壺碑』のえがき方―」『國文學』89号、関西大学国文学会、2005年、

27-44頁。

 4) ただし蕪村の書簡では「おくのほそみち」とひらがなであったり、「奥の細道」、「おくの細道」と書かれ ていたりする。この論文では統一して「奥の細道」とする。

(4)

一 「奥の細道図」の場面構成

 「奥の細道図」に関して、現存する作品(画巻 3 点、屏風 1 点)と模本は以下のとおりである5)

図 1 、 《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、一巻、28.7×1843.0cm、安永 7 年 6 月、海の見える 杜美術館蔵、以下「海杜本」

図 2 、 《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、上下二巻、(上巻)32.0×955.0cm・(下巻)31.0×

711.0cm、安永 7 年11月、京都国立博物館蔵、以下「京博本」

図 3 、 《奥の細道図屏風》、紙本墨画淡彩、六曲一隻、139.3×350.0cm、安永 8 年秋、山形美 術館蔵、以下「山形本」

図 4 、 《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、上下二巻、(上巻)28.0×925.7cm・(下巻)28.0×

1092.7cm、安永 8 年10月、逸翁美術館蔵、以下「逸翁本」

図 5 、 《奥の細道図巻》(模本)、一巻、天保 4 年 5 月了川模写(安永 6 年 8 月蕪村筆)、柿衞 文庫蔵、以下「了川本」

図 6 、 《奥の細道図巻》(海杜本模本)、上下二巻、(上巻)26.0×597.5cm・(下巻)26.0×

1258.5cm、徳川美術館蔵、以下「徳川本」6)

図 7 、 《奥の細道図巻》(京博本模本)、一巻、横井金谷模写、17~18世紀、京都国立博物館 蔵、以下「金谷本」7)

 その他、蕪村は画巻・屏風以外でも、『おくのほそ道』に関連する作品を描いていることがわ かっており8)、制作年は現存作品による安永 7 ~ 8 年だけでなく、もう少し広げて見る必要があ ることは既に指摘されている9)。また、作品の依頼者は、関連する書簡によって、おおよそ推定 されている。依頼者は俳諧をたしなむ裕福な商人がほとんどであり、蕪村自身も高値で取り引

 5) (図 1 - 4 )の図版は、逸翁美術館・柿衞文庫編『没後220年 蕪村』(思文閣出版、2003年)、(図 5 )は 尾形仂・佐々木丞平・岡田彰子編著『蕪村全集 第六巻 絵画・遺墨』(講談社、2008年)、(図 7 )は「芭 蕉展」実行委員会編『芭蕉広がる世界、深まる心』(「芭蕉展」実行委員会、2012年)より引用。画巻は 全て「旅立ち」の場面を抜粋(図 6 のみ「飯塚の里」)。

 6) 加藤祥平「新出の与謝蕪村筆『奥の細道図巻』模本について」(『金鯱叢書』第42輯、2015年、55-66頁)

により、海杜本の精密な模本と指摘されている。図版もここから引用した。

 7) 藤田真一『蕪村余響そののちいまだ年くれず』(岩波書店、2011年、314頁)のなかで、京博本を忠実 に写したものとして挙げられている。

 8) 松尾靖秋ほか編『蕪村事典』(桜楓社、1990年、391-392頁)より。

 9) 山田烈「与謝蕪村筆奥の細道図屏風の解釈」(『東北芸術工科大学紀要』17号、2010年)のなかで、安永 7 年と翌年に集中的に描かれているが、関連作品の制作時期は少なくとも 5 年間ほどに広げて見る必要が ある、という指摘がある。

(5)

きされることを期待するような書簡が遺っている。これには、蕪村の作品を所有することが、

当時の資産家たちの間で一種のステイタスであったことも考えられる。模本が制作されていた ことや、蕪村の『おくのほそ道』関連作品が存在することから当時需要がある画題であったこ とは間違いないだろう。

 「奥の細道図」の挿画について検討すると、現存する「奥の細道図」の挿画の場面構成は(表 110))のようになる。この表を参考にすると、以下のことが判断できる。

一、 現存する全ての「奥の細道図」の中で、共通して描かれている場面が、「旅立ち」・「那須 野」・「須賀川」・「飯塚の里」・「末の松山・塩竈」・「尾花沢」・「酒田」・「市振」の 8 場面 である。蕪村がこれらの場面をなぜ毎回採用したのか考察することは、蕪村の絵画を考 えるなかでも非常に重要なことと思われる。

二、 屏風(山形本)は形態上の制約があるため、模本を含む画巻だけで共通する場面を見て みると、「旅立ち」・「那須野」・「須賀川」・「飯塚の里」・「末の松山・塩竈」・「尾花沢」・

「酒田」・「市振」・「福井」の 9 場面である。

三、 了川本は現在原本が確認されないため、忠実に写したのか、あるいは多少省いたりした のかはわからない。そのため真筆の画巻のみに共通する場面をみてみると、「旅立ち」・

「那須野」・「須賀川」・「飯塚の里」・「壺の碑」・「末の松山・塩竈」・「尾花沢」・「酒田」・

「市振」・「別離」・「福井」の11場面である。

四、 屏風を除いて、挿画は制作時期が後になるにつれ増加している。真筆の画巻に絞って場 面をみてみると、海杜本と比較して京博本では、「飯塚」・「尿前の関」が加わり、「全昌寺」

が削除されている。京博本と逸翁本との変化は、「平泉」・「全昌寺」・「大垣」が加わり、

「飯塚」・「松島」が削除されている。「大垣」は山形本から描かれ始めているので、山形 本で描いたこの場面を、蕪村は気に入って、以降描くようになった可能性もあり得る。

五、 「壺の碑」の挿画を除いて、全て何かしらの人物図を挿画として描いている。また人物図 が多い中でも、「壺の碑」の挿画が 1 場面存在することは、この場面が何かしら意味を持 っていたと考えられる。

 以上、表から判明することを挙げた。人物図が多いという点で、一つ気になることが、『おくの

10) 表は、前掲書 3 を参考に作成し、場面名は『新版おくのほそ道』(潁原退蔵・尾形仂訳注、角川学芸出 版、2003年)を参考にした。表の場面名の太字・網掛け箇所は全作品に共通する場面であり、金谷本につ いては詳細な資料がないため、今回は省いた。また、蕪村は「尿前の関」の場面でも山越えの挿画を描く が、次の「尾花沢」の場面でこの山越えの場面を挿画にしていることが多い。そのため山越えの挿画は、全 作品の挿画比較をわかり易くするため「尿前の関」に分類せず「尾花沢」の場面として分類する。よって

「尿前の関」の場面は、この論文では関守に怪しまれる場面のことを指す。

(6)

ほそ道』は芭蕉がそれ以前の作品よりも、人事句所収が急激に上昇した点である11)。また、「全行 数八四四行中七六%すなわち六四三行は人間関係の記述であり、二四%、二〇一行が自然の叙述 である、『細道』が、いかに人間に焦点を当てた作品であるかは、この調査で明らかであり……12)」 という指摘もあり、原作の『おくのほそ道』が人物について多くとりあげているところが、「奥 の細道図」の中でほぼ人物図を描いていることに何かしら関係があるかもしれない。これだけ を理由にして考えることはできないが、蕪村の「奥の細道図」について理解するうえでも、原 作『おくのほそ道』の場面の中で、蕪村が一体どのような場面を採用したのかを考察すること は重要なことである。そのため、次の章で詳しく分析していきたい。

二 場面の選定

 「奥の細道図」の場面構成について、作品に採用された場面に登場する人物・物、場面内容、

発句と季語、季節、登場する現存作品を以下にまとめてみる13)。現存作品全てに共通する場面名 は、わかりやすくするため、    で囲む。了川本については、書簡により制作年が最も初期の ものと判明している蕪村作品の模本であるため、当時蕪村がどの場面を描いていたのかがわか る重要な例として参考に挙げる。[( )をつけた人物は原作には登場するが、蕪村の作品には 登場しない人物である。[ ]は本文には登場せず、挿画に登場する人物のことを指す。また古 人を区別させるため、古人には[*古人]と記載する(『おくのほそ道』が記されたときの古人 という意味である)。]

1 . 旅立ち (図 1 - 414)

人物・物:芭蕉・曽良・見送りの人( 3 人、 5 人、 6 人と人数に差あり)

内容: 3 月27日夜明け、芭蕉と曽良の出発を、親しい友人たちが見送る旅立ちの場面。

発句:芭蕉「行く春や鳥啼き魚の目は涙」、季語-行く春 季節:春

該当作品:現存する全ての作品

2 . 那須野 (図 8 )

人物・物:芭蕉・曽良・(農夫)とその子供である少女かさねと少年 11) 金子義夫『奥の細道の研究』桜楓社、1973年、47頁。

12) 前掲書11、金子義夫、94-95頁。

13) 前掲書10(潁原退蔵・尾形仂訳注)を参考にした。

14) 図版は挿画数が一番多い「逸翁本」を参考に挙げた。逸翁本に登場しない場面、また比較が必要になる 場面については、「海杜本」(図14・21)と「京博本」(図11)より挙げた。(図 8 -17、19-24)の図版は、前 掲書 5 (図 1 - 4 分)より、(図18)は、『奥の細道画巻』(便利堂、1989年)より引用した。

(7)

内容: 「野越え」、「野中」など、野の付く言葉が多く使われた野趣あふれる場面から、「かさ ね」という雅趣ある少女の名で洗練された雰囲気に変化する場面。人情をわきまえた 田舎の男に馬を借りると、彼の子供たちが馬のあとについて走ってきた。言動が微笑 ましい、のどかな田園風景の場面。

発句:曽良「かさねとは八重撫子の名なるべし」、季語-撫子 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品

3 . 須賀川 (図 9 )

人物・物:(芭蕉)・(曽良)・栗の木の下に住む僧可伸とその庵

内容: 賑やかな宿場町近くにもかかわらず、大きな栗の木陰に庵を作り、静かに隠棲してい る僧可伸(栗斎ともいう)の清貧をほめたたえた場面。

発句:芭蕉「世の人の見付けぬ花や軒の栗」、季語-栗の花 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品

4 . 飯塚の里 (図10)

人物・物:(芭蕉)・(曽良)・佐藤継信、忠信兄弟の妻二人[*古人]

内容: 義経の忠臣として有名な佐藤元治の城跡にある、佐藤一家の墓碑を見た芭蕉は、その 息子である継信、忠信兄弟の妻たちが、戦死した兄弟を見ることができない母親のた めに、代わり鎧甲を身に付け、母親を慰めたという言い伝えを思い出し、感涙にむせ んだ場面。

発句:芭蕉「笈も太刀も五月に飾れ紙幟」、季語-紙幟 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品

5 .飯塚(図11)

人物・物:芭蕉・曽良

内容: 温泉場として有名な飯塚に来たが、そまつな貧家にしか泊まれず、雷鳴の轟く雨の夜 の中、体調を崩し眠れない夜を過ごす。一度は気分が沈んだが、朝には気を取り直し、

新たな気持ちで旅立つ場面。

発句:なし 季節:夏

該当作品:京博本

(8)

6 .壺の碑(図12)

人物・物:(芭蕉)・(曽良)・壺の碑

内容: 多賀城にある壺の碑は、他の名所と違い、時代が移り変わっても、名所の跡がはっき りしている。芭蕉はこの碑を詠んだ古人の気持ちを理解し、旅のご利益だと感激する 場面。

発句:なし 季節:夏

該当作品:海杜本、京博本、逸翁本の 3 点

7 . 末の松山・塩竈 (図13)

人物・物:(芭蕉)・(曽良)・琵琶法師・[聴衆三人(男・女・少女各 1 人ずつ)]

内容: 末の松山の後、塩竈の浦を訪れた芭蕉は、その夜盲目の琵琶法師が奥浄瑠璃を語るの が、うるさくて眠れなかった。しかし、こんな片田舎に伝わる古い芸能を守っている のだからだいしたものだ、と感心する場面。

発句:なし 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品。

     (ただし、琵琶法師に加えて聴衆 3 人が描かれる挿画は逸翁本のみ)

8 .松島(図14)

人物・物:芭蕉・曽良・[舟頭]

内容: 塩竈神社に参拝した後、藤原忠衡が奉納した宝灯を見た芭蕉は古人を偲んで、宝灯に 心をそそられる。そして日の暮れないうちに、船で松島へと渡る場面。

発句:なし 季節:夏

該当作品:海杜本、京博本の 2 点

9 .平泉(図15)

人物・物:芭蕉・曽良

内容: 奥州藤原氏の跡地を訪れた芭蕉は、戦場の跡が今や草むらになっていることに、杜甫 の詩の通りであると悲劇を回顧しながら、涙にくれる場面。

発句:芭蕉「夏草や兵どもが夢の跡」、季語-夏草

   曽良:「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」、季語-卯の花    芭蕉:「五月雨の降り残してや光堂」、季語-五月雨

(9)

季節:夏

該当作品:逸翁本のみ 1 点

10.尿前の関(図16)

人物・物:芭蕉・曽良・関守・(宿の主人)・道案内の青年

内容: 尿前の関を通り抜け、出羽の国へ山を越えて出ようとしたとき、関所の番人に不審が られて尋問を受ける。解放された後も、悪天候のため、山の中に 3 日間閉じ込められ た場面。その後出羽の国に出るため、道案内のたくましい青年と共に山越えをする。

不気味な雰囲気にうろたえながらも、無事山道を抜けた。だが、青年から「いつもは めんどうが起こるのですが、今日は何事もなくお送りできて、幸いでした。」という言 葉を聞き、胸の鼓動がなかなかおさまらなかった、という場面。

発句:芭蕉「蚤虱馬の尿する枕もと」、季語-蚤 季節:夏

該当作品:京博本・逸翁本の 2 点

11. 尾花沢 (図17)

人物・物:芭蕉・曽良・(清風)・[道案内の青年(原作では前の「尿前の関」の場面で登場する)]

内容: 尾花沢では、清風という俳人を尋ね、そこで何日も色々ともてなしてもらった。そう した清風の厚意に対して、挨拶句を 4 作贈った場面。

発句:芭蕉「涼しさをわが宿にしてねまるなり」、季語-涼しさ    芭蕉「這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声」、季語-蟾

   曽良「眉掃きを俤にして紅粉の花」、季語-紅花    芭蕉「蚕飼ひする人は古代の姿かな」、季語-蚕飼ひ 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品

12. 酒田 (図18)

人物・物:芭蕉・曽良・長山重行・図司左吉・(淵庵不玉)・[子供]

内容: 羽黒山から門人図司左吉と共に鶴岡の城下町に入り、長山重行という武士に迎えられ、

連句一巻作る。そして鶴岡から酒田へ移動し、淵庵不玉という医者の家に泊まる場面。

発句:芭蕉「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」、季語-夕涼み    芭蕉:「暑き日を海に入れたり最上川」、季語-暑き日 季節:夏

該当作品:現存する全ての作品

(10)

13. 市振 (図19)

人物・物:(芭蕉)・(曽良)・遊女 2 名・年老いた男

内容: 芭蕉の近くの部屋の遊女たちの、自分の身分を嘆いている会話を聞きながら眠りにつ く。翌日、その遊女たちに伊勢神宮まで同行することを頼まれたが、あっさり断った。

しかし後から、かわいそうなことをしたという思いが、しばらく消えなかった場面。

発句:芭蕉「一つ家に遊女も寝たり萩と月」、季語-萩・月 季節:秋

該当作品:現存する全ての作品

14.別離(図20)

人物・物:芭蕉・曽良

内容: 曽良が病を患い、先に親類を頼って長島に行くことになる、悲しみに満ちた別れの場 面。

発句:曽良「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」、季語-萩    芭蕉「今日よりや書付消さん笠の露」、季語-露 季節:秋

該当作品:海杜本・京博本・逸翁本の 3 点

15.全昌寺(図21・22)

人物・物:芭蕉・[北枝・図2115)]・修行僧

内容: 全昌寺という禅寺に、曽良と一日違いで宿泊した芭蕉は、寂しさに襲われる。そして 翌日寺を出ようとしたとき、若い修行僧が芭蕉に一句書いてもらおうと、紙・硯を抱 えて追いかけてくるという場面。

発句:芭蕉:「よもすがら秋風聞くや裏の山」、季語-秋風    芭蕉「庭掃きて出でばや寺に散る柳」、季語-散る柳 季節:秋

該当作品:海杜本・逸翁本の 2 点

15) 海杜本の挿画で描かれた芭蕉の隣にいる人物は、本文では記載がない(図21)。このとき芭蕉は曽良と別 れているので、曽良ではないことは確かであるが、描き方は曽良と類似して見間違えそうになる。おそら くこの人物は、芭蕉が全昌寺に行くときに随行したと『曽良随行日記』で判明している北枝(「金沢」の場 面で登場)と考えられる。蕪村は既に刊行されていた『曽良随行日記』を読んでいたことは間違いないだ ろう。後に逸翁本でこの北枝が描かれなくなるのは、曽良との混同を避けたためだと考えられる。

(11)

16.福井(図23)

人物・物:芭蕉・(等栽)・等栽の妻

内容: 芭蕉は福井で、久しく会っていない等栽という隠士を尋ねる。その家を訪れると、等 栽の妻だとすぐわかる、古代の物語の一場面を見ているような風情ある女が出てきた。

その後、等栽に会い、彼の家で二晩世話になる場面。

発句:なし 季節-秋

該当作品:了川本・海杜本・京博本・逸翁本の 4 点

17.大垣(図24)

人物・物: 芭蕉・曽良・路通・越人・如行・前川子・荊口父子・親しい友人(挿画は芭蕉と 曽良、路通は判別できるが、その他は断定しかねる16)

内容: 路通と大垣に入り、曽良と合流し、越人も駆けつけ如行の家に集まる。前川子や荊口 父子、その他にも親しい友人が芭蕉を訪れ、無事を喜んでくれた。しかし疲れもとれ ていないまま、伊勢神宮への新たな旅に出る終わりの場面。

発句:芭蕉「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」、季語-行く秋 季節:秋

該当作品:山形本・逸翁本の 2 点

 以上である。上記から判断できることをまとめてみると、

①  現存者が登場する場面が15場面であり、古人が 1 場面。そして人物図ではない挿画が 1 場面である。

②  発句がある場面は、12場面。発句がない場面は 5 場面となる。発句のある場面が半数以 上描かれているが、発句の内容も様々である。蕪村が以前から発句の内容を気に入ってい てこれらの場面を選んだ可能性もあるが、発句の内容だけで蕪村が決定したかは断定でき ない。

16) 逸翁本をみると、曽良の左にいるのは、描き方からみて屏風でも描かれた路通の可能性が高い。芭蕉の 肩をたたくのは、宮崎荊口の子か。『曽良随行日記』に登場する長男・此筋と次男・千川はこの『おくのほ そ道』が描かれた頃長男17歳、次男はおよそ13歳であった。この挿画から見ると、この年齢に近いと断定 しづらい。前掲書11(102頁)では、荊口子は長男・此筋となっている。しかし、蕪村が年齢まで知ってい たのかはわからないので、荊口の子を想像で描いた可能性もある。また、荊口の子ではなく、ただ挿画の 構成として子供を描いた可能性もあるが、「荊口父子」と本文に登場するので、蕪村がそれを無視したとは 考えにくい。もしこの子供が荊口の子なら、芭蕉の右にいる武士は宮崎荊口の可能性が高い。

(12)

③  季節に関してみてゆくと、春が 1 場面、夏が11場面、秋が 5 場面となる。圧倒的に夏の 場面が多いが、原作の『おくのほそ道』自体が、夏の場面が多いので、季節を選定理由と して考えることは難しい。

④  人物について考えると、挿画において、原作で氏名・号などを明記された現存者が登場 する場面は 5 場面。蕪村が描いた人物の職種を分類すると、子供(かさね)、武士(長山重 行・如行・前川子・荊口父子)、浪客(路通)、商人(図司左吉・越人)である17)。かさねは 少女のため除外すると、描かれた場面に登場する氏名を明記された人物は全て俳人である。

すると蕪村があえて、俳人を選んだかというとそうではない。原作『おくのほそ道』に登 場する氏名を明記された人物は、「日光」の場面で登場する仏五左衛門以外、俳諧をたしな む人が大半であるからだ。そうすると、これも場面選定の理由から除外される。原作『お くのほそ道』で、氏名・号が明記された人物が登場する場面は21場面(全53場面18))であ り、上記の理由を蕪村が重視したかは判断できない。

 次に、氏名・号が明記されていない人物が登場する場面は、12場面である。職種を分類 すると、市井の人(「旅立ち」、「大垣」に登場する親しい友人たち)、農夫とその子、僧(可 伸を含む)、琵琶法師、舟頭、役人(関守)、若者(道案内人)、遊女、年老いた男(職種不 明、下僕か)、等栽の妻である。この職種だけみてみると、ここに何らかの関係性を見出す ことは難しい。

⑤  氏名の明記、古人または現存者関係なく、「奥の細道図」で女性(子供を除く)が登場す る場面は、「飯塚の里」(図10)、「末の松山・塩竈」(図13)、「市振」(図19)、「福井」(図 23)の 4 場面であり、子供が登場する場面は、「那須野」(図 8 )、「酒田」(図18)、「大垣」

(図24)の 3 場面である19)。原作に女性(子供を除く)が登場する場面は、「信夫の里」(発 句で登場)、「飯塚の里」、「市振」、「福井」の 4 場面、子供の場合は「那須野」、「信夫の里」、

「大垣」の 3 場面である。このことから、蕪村が原作『おくのほそ道』の数ある場面の中で も、女性と子供に注目して描いていることがわかる。原作に登場しない場合でも描いてお り、蕪村は女性・子供を挿画に描くことによって、何かしらの効果を狙っていたと考えら れる。

 その効果について考えるために、まず女性が描かれた場面の内容をもう一度考えてみると、

17) 職種分類は前掲書11を参考にした。「大垣」の場面(逸翁本)は、路通以外の人物を断定しかねるため、

登場人物の名を全て挙げた。

18) 『おくのほそ道(全)』(角川書店編、角川学芸出版、2001年)の場面数を参考にした。

19) 「末の松山・塩竈」の場面(図24)に登場する一番左の描かれた女性は、その右隣のおそらく母親と思わ れる女性と比較して、まだ成人していない若い女性にも見える。しかし幼い子供とは言い難いため、子供 の分類からは除外した。

(13)

「飯塚の里」-芭蕉が佐藤氏の石碑を前にして、忠義を尽くして戦死した佐藤継信・忠信兄 弟の妻二人が義母のために、鎧甲を身に付け、息子の凱旋姿を演じた話を思い出し感涙す る場面。

「末の松山・塩竈」-塩竈の浦で、人生の無常を感じた芭蕉は、その夜の宿で、盲目の琵琶 法師が、ひなびた調子で奥浄瑠璃を語るのがうるさくて眠れなかった。しかしこんな田舎 でも古い伝統芸能を守っていることに、たいしたものだと感心する場面(原作に女性は登 場せず)。

「市振」-宿のほかの部屋から、自分の人生を哀れむ遊女の会話を聞きながら、眠りにつく 場面。

「福井」-等栽の家から出てきた妻が、昔の物語を思い出させるような対応をしたことに、

芭蕉が情緒を感じる場面。

 ということになる。そして、その中でも女性がメインとして、描かれている「飯塚の里」、「市 振」、「福井」に注目して考えると、芭蕉が悲劇に感涙する、また哀れみや情緒を感じている場 面ということがわかる。もちろん他にもそのような場面はあり、『おくのほそ道』全体が情緒を 感じる内容であるが、蕪村は女性が登場する場面を描くことにより、その雰囲気を伝えるのが 効果的だと考えたのかもしれない。他の俳画系統の作品では、例を挙げると女性がメインの

《「花を踏し」自画賛》(図2520))、《「澱河曲」自画賛》(図2621))は、花見に浮かれる春の光景や 男女の色恋の洒落た場面を描き出している。よってこれだけでは、蕪村が女性を描くことによ り、さらに情緒的効果を狙っていたかは断定できないが、可能性として挙げられる。

 次に、子供が描かれた場面の内容を考えると、

「那須野」-人情をわきまえた農夫と馬のあとを追って走ってくる子供たちとのやりとりが 微笑ましい、なごやかな雰囲気の場面。

「酒田」-長山重行の屋敷で、連句巻を作る場面。芭蕉たちはここで象潟へと移る前の小休 憩をする。(原作に子供は登場せず)

「大垣」-無事に旅を終えた芭蕉たちに、親しい友人が再会を喜ぶ。そしてまた新たな旅へ 20) (図25、27)図版は、前掲書 5 (図 5 分)より引用。

21) (図26)図版は、佐々木丞平編『與謝蕪村 日本の美術109号』(至文堂、1975年)より引用。

(14)

向かう最後の場面。

である。蕪村が描いたこの 3 場面の挿画は、全てなごやかな印象を与える。原作の内容もその 雰囲気を伝える場面であり、芭蕉の穏やかな心情を伝えるために、子供も一緒に描き、全体を 明るい場面として仕上げたと思われる。他の俳画系統の作品では、《小鼎煎茶画賛》(図27)に 小童が登場しており、友情をテーマに道士が客と閑話する作品を制作している。こちらも、「奥 の細道図」の 3 場面と全体的に同じ印象を受けるといってよい。原作では、「那須野」以外子供 が中心となる場面ではない。そのため蕪村が、場面選定を行うとき子供を重視したとは言い難 い。だが、蕪村が子供を挿画に描くとき、どのような場面に仕上げようとしたかを、この傾向 をみて理解することができる。

⑥  画巻に共通する場面について、なぜその場面を選んだかを考える(了川本は忠実に写し たかどうかがわからないため除外する)。屏風は形態上の制約があるため、屏風も含めた共 通場面でなく、画巻の共通場面について考察することにする。

「旅立ち」(図 1 - 4 )-今から奥州への旅が始まろうとしている場面を描くことは、画巻を 制作していく上で必然であったと思われる。また「月日は百代の過客にして…」で始まる 有名な冒頭の部分より挿画が描きやすかったこともあるのではないか。

「那須野」(図 8 )-「旅立ち」の場面から、この「那須野」まで 4 場面隔てる。それまでの 場面は、少し絵画化するには取り上げにくいような内容のため、描くのを控えたのかもし れない。この「那須野」は子供たちが追いかけてくる場面を想像しやすく、また蕪村自身 が、ほのぼのとしたこの場面を好んでいたことも考えられる。

「須賀川」(図 9 )-「須賀川」の可伸とその庵を描いたのは、芭蕉も評価し、おそらく同じ 俳人である蕪村も憧れた生き方を、可伸がしていたからに違いない。また画巻を注文した 人物たちも俳諧をたしなむ者であったから、この可伸の挿画を好むことは、蕪村もよく理 解していたはずである。芭蕉の憧れの人物・西行(平安後期の歌僧)をイメージする人物 として登場する場面であるが、他の場面の挿画では、芭蕉が描かれていることが多いにも かかわらず、この場面ではあえて芭蕉を描かずに、僧・可伸と彼の家を描いている。

 この前に等窮という芭蕉の先輩が登場するが、同じ俳人である彼を描かなかったのはな ぜだろうか。それはおそらく可伸が、にぎやかな宿場町の近くに住みながらも、静寂な空 間の中で悠々自適な生活をしているからであろう。これは俗世界に身をおきながらも、俗 を離れるというまさに蕪村の離俗論に通ずるのもがある。

(15)

「飯塚の里」(図10)-蕪村は28歳(寛保 3 年)のころ奥羽に旅に出て、この二体の女武者人 形を見ている。そのときの心情を「甚懐旧之情に堪ぬ所にて候」(安永 6 年 9 月 4 日付季遊 宛書簡22))と伝えている。蕪村も芭蕉と同じように涙し、目の当たりにすることで一層感動 を深めたのであろう。そのため挿画に描くことは自然なことであったと思われる。いくつ かの書簡の中で蕪村がこの女武者人形について述べていることから考えても、蕪村がこの 場面を好んでいたことがわかる。また、河東碧梧桐がこの女武者人形が行脚人に注目され ていたことを指摘していることからも23)、この場面を描くことは注文主にも、蕪村にも重要 な場面であったと考えられる。芭蕉が書いた「嫁がしるし」の「しるし」とは、墓標か木 像ことか当時でも諸説あったが、蕪村は木像として理解していたようである。挿画や書簡 に、 5 月 5 日の門戸に飾る木像と見間違わないようわざわざ注を加えるくらいなので、よ ほどの思い入れがあったに違いない。

「壺の碑」(図12)-この場面は、唯一人物図ではない挿画が描かれている。この壺の碑は古 来さまざまな歌人によって詠まれてきた有名な場所であり、蕪村もこの地を若年時訪れて いる。行脚俳人もよく訪れる場所だったため、この場面を選定した可能性が考えられる。

人物を描かず、この石碑のみを正確に写し取っているこの挿画は、この画巻を読む者に対 して、自らも奥州を旅するような気分にさせる狙いがあったように思える。この石碑のみ 描くことで、見る者がその目の前に立って眺めているような気持ちにさせる。

 逸翁本には、碑の右部分(文と石碑の間の余白部分)に小さな文字で、「石高六尺五分」

とあり、少し間が空き「幅三尺四寸」と書かれている。また挿画の後に、原作にはない文 章が添えられている。この頃になると、さらに多賀城の研究が進み、蕪村が新しい知識を この画巻に入れ込んだことが考えられる。挿画に写した文章に関して、蕪村が参考にした と考えられる文献についても既に研究がされている24)。こうしてこの壺の碑の挿画を見る と、蕪村が他の挿画と異なり、絵画というよりも、名所絵のように場所を紹介するような 感覚で描いていたことがわかる。なぜなら目で見て楽しむだけの挿画なら、大きさや説明 文は必要ないからである。このように詳細に大きさや原作にない文章まで書くということ は、当時の注文主や蕪村を含めて、この壺の碑は非常に注目する場所だったと思われる。

実際に行ったことがない注文主が、壺の碑について詳しく知りたいという要求があったの かもしれない。

22) 大谷篤蔵・藤田真一校注『蕪村書簡集』岩波書店、155頁。これ以降の書簡についても、ここから引用し た。

23) 河東碧梧桐「蕪村奥の細道畫卷に就て」『國華』497号、国華社、1932年、98頁。

24) 前掲論文 3 、藤田真一、41-42頁。

(16)

「末の松山・塩竈」(図13)-「壺の碑」の次に描かれたこの場面は、藤田真一氏によって比 較的目立たない場面であると指摘されている25)。ではなぜ蕪村はそんな場面をあえて選んだ のであろうか。しかも蕪村は琵琶法師以外にも、原作には登場しない聴衆 3 人も描いてい る(逸翁本のみ)。これもまた蕪村が好んだ場面のためだろうか。琵琶法師が語る奥浄瑠璃 は、源義経の東下りを題材にした作品が多かった。蕪村の俳画作品の中でも、弁慶や義経 を描いた作品がいくつかあるため、義経関連を想定させる題材は当時需要があっただけな く、もとから蕪村が好んだのかもしれない。

「尾花沢」(図17)-危険な山越えで芭蕉がうろたえながらも進んで行く場面を選んだのはな ぜか。これは画巻を制作していくなかで、全体的に情緒を感じる場面だけでなく、見る者 も緊張させるような場面を描くことにより、画巻のひきしめの効果を狙ったためと思われ る。蕪村は画家でもあり俳人でもあったので、ただ有名な場面を描くのではなく、このよ うに挿画の構成に気を配ることは当然のことである。この場面は実際原作では「尿前の関」

として分類されるが、京博本からほのぼのとした場面の「尾花沢」の中にあえて描いてい る。この挿画は尾花沢に着いて清風という俳人の厚意に対して、 4 作贈った挨拶句のうち

「涼しさをわが宿にしてねまるなり(わが家にいるような気分でこの涼しさを味わいながら 気楽にくつろいでいます)」という始めの句の後に描かれる。この挿画の後に残りの 3 句が 写されているわけである。これ以降の逸翁本も同様の構成になっている。海杜本では「尿 前の関」の挿画として描かれていたのにもかかわらず、後に「尾花沢」の場面の中に挿画 を描くようになったのはなぜか。これは海杜本では「尿前の関」の関守に怪しまれる場面 が描かれていないため、尾花沢の挿画として描く必要はない。しかし京博本と逸翁本は、

関守に怪しまれる場面を挿画として採用しているため、「尿前の関」のなかで 2 つ挿画が描 かれることになり、少し画面が重たくなると考えたのだろう。あるいは「涼しさをわが宿 にしてねまるなり」の後に、あえて芭蕉がうろたえている挿画を描くことによって、危険 な場面を乗り越え、今は安心してくつろいでいるという状況を想起させる狙いがあった可 能性もある。

「酒田」(図18)-俳諧興行の場面は、「尾花沢」の緊迫した場面から、旅の小休憩をする場 面へと一段落ついたことを示すためであろうか。現存する全ての「奥の細道図」が、「尾花 沢」の次に、この「酒田」が描かれている。実際この「酒田」の場面まで、芭蕉は出羽三 山を巡礼していたため、なかなか体力的にも辛かったと思われる。この酒田の後、北陸道 へ向かうことになるため、この酒田は旅の折り返し地点のような、一時の休息の場所だっ 25) 前掲論文 3 、藤田真一、29頁。

(17)

たのである。その一息ついてほっとしている場面を描くことで、「尾花沢」の挿画のように 旅の浮き沈みを示したのではなかろうか。

「市振」(図19)-蕪村には、遊女を題材にした作品がいくつか遺っているが、この遊女も挿 画の題材として、好んで描いた可能性が考えられる。この場面は実際芭蕉の創作の場面であ り、原作で最も物語的趣致に富んでいる。人生のみじめさを嘆く遊女を描くことにより、見 る者にどうすることもできない人生の悲しさ、あわれを感じさせる狙いがあったのだろう。

「別離」(図20)-病気の曽良と別れることになる苦渋に満ちた場面であり、終盤に向けて進 んでいく話の中で、起承転結の転の部分に相当する。原作『おくのほそ道』の中でも、重 要な場面であるために、挿画として採用したと考えられる。またこの挿画を描くことによ り、見る者を別れの悲しみへと誘う蕪村の狙いを感じる。この場面について、暁台が「夫 が中にも離情の切なる曽良がわかれ、見る者涙をのみて、精神を感ぜざるはなし。」(安永 7 年12月16日付蕪村宛書簡)と絶賛していることからも、俳人たちに好まれた場面だった のかもしれない。

「福井」(図23)-物語が終盤へ向かう中、離別の寂しさに対して、友との再会を物語的筆致 で叙している場面。この場面は『源氏物語』の「夕顔の巻」を下敷きにして綴られた、と りわけ飄逸軽妙な俳味を感じる内容であり、俳人に好まれた場面であると推測される。ま た、その前に描いた「別離」の悲しみの場面と対比させるために選んだことも考えられる。

以上、画巻に共通する場面がなぜ選ばれたのか推測した。

 次に、画巻において共通ではない場面について考察する。ここで藤田真一氏が論じた意見を 挙げる。それは「飯塚」(図11)、「松島」(図14)、「尿前の関」(図16)の場面は、他の場面とま ぎれかねないという懸念から 1 、2 本にしか描かれなかったという意見である26)。しかし逸翁本 では「平泉」(図15)と「別離」(図20)の挿画が似たような構図で描かれていて、挿画のみを 見ると混同される恐れがある。制作年次が後になる逸翁本で、このような場面構成で制作され ていることを考えると、藤田氏が指摘するような考えを持って蕪村が制作していたとは言い切 れない。懸念して描かなかったのではなく、むしろ制作年次が後になるにつれ挿画を増やして いったと考えられる。他にも形態上画面が制約される屏風を除いて、後期の作品である京博本・

逸翁本に「尿前の関」(図16)が描かれている。もしまぎれかねないという懸念があるなら、修 練を積んだ後期になるに従って、描かれていかなくなるはずである。蕪村は「奥の細道図」を

26) 前掲論文 3 、藤田真一、30頁。

(18)

描くにつれて、挿画に対する意欲がさらに増し、後期の作品になるに従い画巻の挿画が増える 構成になった。しかし「飯塚」(図11)や「松島」(図14)の場面は京博本以降描かれていない ため、他の場面との混同を避けるため描かれなくなった可能性はある。また前述したとおり、

逸翁本に「大垣」(図24)の場面が追加されたのは、蕪村が屏風の山形本で描いたこの挿画を気 に入り、以降描くようになったことが考えられる。山形本で唯一追加して描かれているのは、

この「大垣」の場面であるが、全体のバランスを考え「福井」を描かずに、最終場面である「大 垣」を挿画にした可能性がある。画巻では、「全昌寺」が京博本のみ描かれていないが、これは 全体の流れを考慮したからであろうか。いずれにしても、全体を通してみると、蕪村はただ有 名な場面を描き、作品を制作したのではなく、挿画の構成をしっかりと練り上げ、見る者が単 調にならないよう配慮したことがわかる。

おわりに

 「奥の細道図」の場面構成において、蕪村はただ有名な場面を描いたわけではなく、全体の構 成を考え、場面の取捨選択を行っていたことが理解できた。そして、描かれた挿画について考 察すると、「人物」・「女性」・「子供」というキーワードが浮かび上がってくる。

 蕪村の俳画はおおむね人物画であるといわれているが27)、《「岩くらの」自画賛》(図2828))、《「若 竹や」自画賛》(図29)のような作品も制作しており、俳句の内容によって画題を選んで描いて いたはずである。「奥の細道図」の挿画が、蕪村は自分が得意という理由で人物図を描いたとい うよりも、原作内容を考慮したために、人物図を描くことになったのではないだろうか。第一 章で、原作『おくのほそ道』が「人間に焦点を当てた作品」と指摘されていることからも、ほ ぼ人物図で制作された理由は、原作との関係に依るものであったと考えられる。形態上、画面 の制約があった屏風において、全て人物画が描かれたことを考えると、蕪村が人物の挿画にこ だわった側面がみえてくる。また、この作品において、「女性」と「子供」を描くことにより、

画面に情緒あるいは明るさをもたらす効果を狙っていた可能性を指摘することができた。

 蕪村は松島・平泉・羽黒・象潟など、かつての芭蕉の足跡を訪れたにもかかわらず、ほとん ど挿画を描かなかった。「奥の細道図」の挿画と原作『おくのほそ道』の関係を考えたとき、「平 泉」「象潟」のような注目される場面をあえて描かないか、あるいは挿画をあっさりと描く方法 をとり、「須賀川」の目立たない場面においては29)、有名な場面と比較して目立つように背景と 共に描いたこと、またそこにあえて芭蕉を描かずに、挿画と原作が合わさることで相乗効果が

27) 岡田利兵衞『俳画の美―蕪村・月渓』豊書房、1973年、191頁。

28) (図28・29)サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編『生誕三百年 同じ年の天才絵師 若冲と蕪村』(読 売新聞社、2015年)より引用。

29) 前掲論文 3 、藤田真一、29頁。比較的目立たない場面と指摘されている。

(19)

得られ画面に深みが得られることなど、さまざまな趣向を凝らしていることがわかる30)。これは 目立つ・人気のある場面は、絵を控えて文章を読むことで場面を堪能できるようにし、目立た ない場面は絵を描くことにより場面に情緒を与え、作品全体に抑揚がつくように仕上げていた と考えることができる。

 「奥の細道図」が類をみない作品と評価される所以は、芭蕉の傑作『おくのほそ道』と、画家 として大成期を迎える蕪村の絵画という 2 つの才能が重なり合って傑出した作品だからである。

蕉風復興運動の盛行、蕪村の画家としての画風の確立、これらの時期が少しでもずれていれば、

このような作品は完成していなかったかもしれない。このように、十分に構成された場面で成 り立つ「奥の細道図」は、芭蕉と蕪村という秀でた才能を、同じ画面上で堪能することができ る特異な作品として、いまもなお鑑賞者を魅了し続けているのである。

30) 拙稿[与謝蕪村筆「奥の細道図巻及び屏風」の挿画について]『東アジア文化交渉研究』関西大学大学院 東アジア文化研究科、第11号、2018年、127-146頁。

(20)

(表 1 ・場面構成)

場面 了川本

(模本) 徳川本

(模本) 海杜本 京博本 山形本

(屏風) 逸翁本

1 .旅立ち

2 .那須野

3 .須賀川

4 .飯塚の里

5 .飯塚

6 .壺の碑

7 .末の松山・塩竈

8 .松島

9 .平泉

10.尿前の関

11.尾花沢

12.酒田

13.市振

14.別離

15.全昌寺

16.福井

17.大垣

9 13 13 14 9 15

(21)

<図版>

(図 1 ・海杜本) (図 2 ・京博本)

(図 3 ・山形本)

(図 4 ・逸翁本) (図 5 ・了川本)

(図 6 ・徳川本) (図 7 ・金谷本)

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(22)

「飯塚の里」(図10・逸翁本) 「飯塚」(図11・京博本)

「壺の碑」(図12・逸翁本) 「末の松山・塩竈」(図13・逸翁本)

「那須野」(図 8 ・逸翁本) 「須賀川」(図 9 ・逸翁本)

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(23)

「松島」(図14・海杜本) 「平泉」(図15・逸翁本)

「尿前の関」(図16・逸翁本) 「尾花沢」(図17・逸翁本)

「酒田」(図18・逸翁本) 「市振」(図19・逸翁本)

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(24)

「別離」(図20・逸翁本)

「全昌寺」(図21・海杜本)

「全昌寺」(図22・逸翁本) 「福井」(図23・逸翁本)

「大垣」(図24・逸翁本) 《「花を踏し」自画賛》(図25)

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(25)

《「澱河曲」自画賛》(図26)

《小鼎煎茶画賛》(図27)

《「岩くらの」自画賛》(図28)

《「若竹や」自画賛》(図29)

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