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︵ 大 阪 府 立 今 宮 工 業 高 校 定 時 制 ﹀序
親驚は﹃嘆異抄﹄十三で、﹁うみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるもの﹂を﹁われら﹂と﹁おなじこ ① ② と ζ げ る い と となり﹂とし、﹃唯信抄文意﹄では﹁屠泊の下類﹂を釈して、﹁屠﹂は﹁れうし﹂で、﹁いし・かわら・つぶてのごと ③ くなるわれらなり﹂とした。当時も﹁れうし﹂は、漁民・猟民の両方を指した。 親驚の門弟は、﹃常陸国風土記﹄にも記された長い漁業の歴史を持つ常陸国霞が浦・北浦沿岸にも分布した。親驚 か し ま な め か た ④ の手紙に度々出る﹁鹿島・行方・南の圧﹂と、信太荘・信田東︵後の東条荘︶の門弟によって、この二つの湖は閉ま れる。これらの弟子や信者の中に漁民を想定しない方が、 む し ろ 不 自 然 で あ る 。 しかし、親驚と漁民の関係についての研究は、 まだない。他方、漁民が当時の被差別民であったという歴史的事実 も、まだ十分解明されていない。本稿では、この二点を明らかにし、親驚と被差別民の研究の第一歩とする。 殺 驚 と 海 夫親 驚 と 海 夫 北 浦 東 岸 の 鹿 島 神 宮 と 、 か つ て 北 浦 と 霞 が 浦 を つ な い だ 薗 浦 ︵ 寛 、 水 二
1
一 ﹂ ハ 二 五 年 記 ﹁ 湖 水 全 図 ﹂ に よ る ︶ 南 岸 の 下 総 国 ︵ 千 葉 県 ︶ 香 取 神 宮 と が 、 三 一 つ の 浦 の 漁 民 を 支 配 し て き た 。 か も み お や み く り ゃ あ ま が さ き な が す 神社と漁民の関係では、京都の鴨御祖神社と摂津園長州御厨︵兵庫県尼崎市長州︶の漁民との関係が、多くの史料に ⑥ より明らかである。長州御厨は、寛治四︵一O
九O
︶年に﹁田島有ることなし﹂と言われた地で、その漁民集団は、 土地︵猪名荘︶の領主東大寺とは別に、その人身が二条関白教通︵一O
七五年没︶の領となり、その娘皇太后職歓子 が伝領した。応徳元︵一O
八四︶年には、鴨御祖神社が、これと山城国の田地と﹁相博﹂︵交換︶し、神社の所有とな って御厨が成立した。﹁相博﹂は、当時における売買の一形態である。その人身が他人の財産として伝領・売買され た彼等は、﹁散所・下部・寄人・神人・供祭人﹂などと呼ばれ、 または自称した。神社は、この漁民に官役・国役免 除の﹁特権﹂を保障し、他との漁場争いでは宣旨を引き出して保護し、﹁浪人﹂を集めて人員をふやした。彼等は、 ひ つ ぎ の み に え ぐ き い ﹁日次之御賛﹂として鮮魚を京都の神社に属けた。︵彼等は水運にも携わったはずである︶。それは、﹁毎日朝暮の供祭、 い た だ し の 霜 を 戴 き 、 雨 を 凌 、 ぎ 、 つねに備進するものなり﹂という厳しい謀役であり、その他の﹁雑事﹂も勤めた。彼等は検非 違使庁の取締りを受けない﹁特権﹂の代償として、神社の私的警察権力によって支配され、追放される者もあった。 親驚がその著を引用した永観も、その地の領主東大寺の代表として現われ、鴨御祖神社と争う中で、彼等漁民の生業 を、﹁昼夜殺生を企﹂てる﹁悪業﹂だとののしり、差別意識を顕わにした。 関東でも、漁民のいた伊勢神宮の下総国相馬御厨・安一房国東条御厨があり、前者には親驚門弟が、後者には日蓮が い た ︵ 後 述 ︶ 。⑦ 霞が浦や北浦においては、鹿島神宮文書によると、親臨滞在世中の建長七︵二一五五︶年に、﹁先例に任﹂すべき﹁立 網・引網﹂の知行を記して、鹿島神宮の伝統的な漁業支配を物語り、﹁槍物等﹂の﹁備進・供祭﹂の伝統をも記す。 永仁四︵二九六四︶年には、地頭の﹁濫妨﹂により﹁日次の御供欠如し、すでに三ヶ年に及ぶ﹂として、時代は少し 下るが、﹁日次の御供﹂の伝統の古さを物語る。﹁備進・供祭﹂や﹁日次の御供﹂は魚の事と限らないが、長州御厨の ような魚の備進もあった事は、十分考えられる。また、治承四︵二八
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︶年の文書には、霞が浦に面し、漁民のい た︵後述︶﹁鹿嶋神領橘郷﹂で﹁先例に任せ、神領のため、国役・雑事を免除す﹂とあり、長州御厨に似た支配形態 が う か が え る 。 香取神宮では、明治四︵一八七一︶年頃の著書であるが、本宮録司代︵祭典奉行︶呑取豊敏著﹃香取官年中祭典記﹄ ③ が、神前への大量の魚や鳥の供え方を、図で詳細に記し、その伝統の古さをうかがわせる。中世では、﹁海夫﹂がこ う し た 魚 を 備 進 し た の で あ る ︵ 後 述 ︶ 。 ﹁ 海 夫 ﹂ の 初 見 は 、 ﹃ 権 記 ﹄ 長 保 一 万 ︵ 九 九 九 ︶ 年 十 月 二 十 六 日 の 次 の 記 事 で あ る 。 ︵ 肥 前 ︶ ・ ・ ⑨ 大弐奉ニ上九穴抱↓松浦海夫取出也云々。 け つ ﹁九穴のあわび﹂を採る海夫は漁民であった︵少なくとも、水運等とともに漁業もした︶。この肥前国松浦と霞が ⑮ 浦周辺の海夫の研究では、網野善彦氏の業績がある。それに依りながら、以下、海夫の社会的位置を検討する。 まず、松浦︵長崎県︶の海夫は、親驚在世中の寛一万四︵一二四六︶年の肥前伊万里文書﹁さいねん譲状案﹂が、次の よ う に 記 す 。 続 驚 と 海 夫親 驚 と 海 夫 四 ︵譲︶ハ与︶ ゆづりあたふみなもとのとむるがところに ︵ 肥 前 回 ︶ ︵ 宇 野 ︶ ︵ 厨 ︶ ひぜんのくに、うのの御くりやの御しゃうのうち、 ︵ 回 品 ﹀ ︵ 同 ︶ みゃうのうちのでんばく、おなじき、 ︵ 浦 ︺ い ま り の う ら の 四 郎 丸 、 ︵ 綱 場 ︶ たひらのうちのかまたのあみば、あをさきかいふらの事 ふ く し ま 、 な ら び に 、 み っ し ゃ け の ︵ 右 ︶ ︵ 件 ︺ ︿ 回 畠 ︶ み や き 、 く だ ん の : : : の で ん ば く 、 ︵ 先 祖 相 伝 ︶ ︵ 私 領 ︶ ⑬ せんぞさうでんのしりやうなり。 な ら び に 、 ふ く し ま か い ふ 、 ︵ 網 場 ︶ ︵ 沙 弥 ︶ あをさき・かまたのあみば午、しやみさいねんが、 ︵ 次 の 二 史 料 と と も に 濁 点 ・ ふ り 漢 字 は 河 田 ︶ 海夫は、先祖相伝の﹁私領﹂であり、譲渡の対象である。先に﹁あをさき海夫﹂と言い、次に﹁あをさき・かまた の網場︵庭︶﹂と言う。網場の海夫は、確実に漁民であり、 さらに、同じ地の網場と海夫の人身とが、それぞれ独立 した財産であった。﹁ふくしま﹂︵島名﹀と﹁ふくしま海夫﹂も同じである。他方、﹁田畠﹂と農民は並記しない。農民 と異なり、海夫が人身的に従属した事は明らかである。ここも﹁宇野御厨﹂と呼ばれたが、漁民の社会的地位も、前 出の長州御厨と同様である。 ⑫ 霞が浦周辺の海夫も、同様に譲渡された。香取文書﹁大禰宜長一房譲状﹂二通の中、至徳田︵一三八九年︶付譲状は、 次 の よ う に 記 す 。 ︵ 譲 ︶ ︵ 与 ︶ ︵ 下 総 国 ︶ ︵ 香 取 ︶ ゆづりあたうるしもっさのくにかんどりの御神領ならびに所職、 ︿ 私 領 ︶ お な じ き し り ゃ う 田 畠 等 事 ・
. . . . .
五 回
ケ 畠 せQ等 き巴の の 事 事︵ 内 海 ︺ ・ ・ ・ ︵ 供 祭 料 ︶ ︵ 書 ︶ てうちのうみのかいふ、ぐさひれうの文じょに見えたり ︵ 町 ﹀ 一当社まちの事 ︵ 重 代 相 伝 ﹀ ︵ 所 領 ︺ ︹ 嫡 子 ︶ 右 、 こ の 所 々 は 、 長 一 房 が ぢ う だ ひ さ う で ん の し よ り や う な り 。 : : : ち ゃ く し た る 問 、 っ て ﹀ ︵ 譲 ︶ ︵ 与 ︶ ぎんで、ゆづりあたうるところなり。::: ︵ 満 珠 丸 ︶ ま ん し ゅ ま る に 、 ︵ 限 永代をか 海夫に関する﹁供祭料の文書﹂とは、海夫支配で現地豪族との争いがあったために、呑取神宮の﹁所領﹂である事 の証明として掲げた文書と思われる。これで、海夫が長州御厨のように、魚を備進した伝統も明らかになる。 ︵ 常 陸 ︶ ︵ 下 総 ︶ ・ ・ ・ ︵ 重 代 また、至徳二︵一三八五︶年付譲状でも、各地の﹁田品等﹂と﹁ひたち・しもつきの両国のかいふ﹂を、﹁ぢうだひ 相 伝 ︶ ︵ 私 領 ︶ ︵ 譲 ︶ ︵ 渡 ︶ さうでんのしりゃう﹂として﹁ゆづりわたす﹂とする。 ここでも、海夫は田畠・関・町︵市場﹀と並記され、その人身が財産として譲渡された。九州松浦・長州御厨を含 めて、これは、漁民一般の社会的存在形態であったと思われる。 漁民の子日蓮は、自らを次のように語る。 ょ が き ノ ノ か た う み あ ま 日 蓮 は : : : 安 一 房 園 長 狭 郡 東 条 郷 片 海 の 海 人 が 子 也 。 ︵ ﹃ 本 尊 問 答 抄 ﹄ ︶ か た う み い そ な か 日 蓮 は 安 一 房 国 東 条 片 海 の 石 中 の 賎 民 が 子 也 。 ︵ ﹃ 善 無 畏 一 二 蔵 抄 ﹄ ﹀ せ だ ら ⑬ 日 蓮 は 日 本 国 東 夷 東 条 安 一 房 国 海 辺 の 栴 陀 羅 が 子 也 。 ︵ ﹃ 佐 渡 御 勘 気 抄 ﹄ ︶ この地は、伊勢神宮の安一房国東条御厨であったと思われる。すなわち、﹃吾妻鏡﹄一克暦一五︵二八四︶年五月三日の ⑭ 文 に ﹁ 外 宮 御 分 安 一 房 国 東 条 御 厨 : : : 在 安 房 国 東 条 ﹂ と あ る 。 せ ん だ ら 日蓮の文は、当時﹁齢ん﹂︵漁民﹀が﹁賎民﹂とも﹁献恥骨﹂とも言われた事を示す。﹁栴陀羅﹂︵チャンダ I ラ ︶ は 、 親 驚 と 海 夫 五
親 驚 と 海 夫 一 ︷ ハ ﹃マヌの法典﹄や仏典に出る古代インドの被差別民であり、実態は異なるが、しばしば日本の被差別民の呼び名に使 ト ッ ャ 、 、 ⑮ われた。日蓮と同時代の﹃塵袋﹄は、﹁天侍一一ニ栴陀羅ト云フハ、屠者也。イキ物ヲ殺シテウルエタ体ノ悪人也﹂とす る。江戸時代以後の同名の被差別民とは異なるが、当時の﹁エタ﹂も被差別民であった。﹁エタのような悪人﹂と言 われた﹁センダラ﹂の語が、当時、漁民に対しても使われたのである。 後白河法皇︵親鴛二十歳の二九二年没﹀編集の﹃梁塵秘抄﹄には、次の今様がある。 は か な こ す う み や ま か せ ほ ど よ る づ ほ と け う と わ み い か ⑬ 停き此の世を過ぐすとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん ここに描かれた漁民・猟民には、全く救いがない。 ただ絶望を叙情化するのみである。﹁後生﹂にも救いがないと する差別は、現代人の想像以上に重みを持ったはずである。貴族などが狩や釣をしても差別せず、﹁この世を過ぐす﹂ 生業としてそれをする者だけを差別する不合理さは、殺生が差別の原因でない事を物語る。彼等が被差別民であるか ら、その行為を救いのない悪だ、被れだとするのである。では、なぜ彼等は被差別民であったのか。それを探るのは 本稿の目的ではないが、本稿で明らかにした漁民の社会的存在形態ーーその人身が財産として譲渡され、国役等を免 除されて私的に支配された事等ーーーこそ、彼等が差別された原因と深く関わる筈である。 現 存 す る 香 取 神 宮 の 海 夫 文 書 は 南 北 朝 時 代 の も の で あ る が 、 貞 治 五 ︵ 一 一 一 一 六 六 ︶ 年 の ﹁ 大 繭 宜 長 一 一 安 堵 申 状 案 ﹂ は 、 ⑫ 香取神宮の海夫管領を平安末期の﹁応峠・長寛・治承﹂︵一二ハ一
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二八一年︶以来の伝統だとする。親驚が建保二 一 、 ゆ ︵三二四︶年に常陸固に来て︵恵信尼の手紙五︶、霞が浦・北浦沿岸に念仏集団を築いた時、そこには、確かに海夫が 、 − − G h u v φ 心親驚と海夫の関係を直接語る史料はないが、親驚門弟と海夫の居所の照合が、それを明らかにする。海夫のいた津 ⑬ を記す香取文書﹁海夫注文﹂八通の体裁は、次のとおりである。 一号は、首題﹁海夫注文下総国﹂で、仮名書きで二十四津を並べ、知行者名を注す。 一 一
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四 号 は 、 いずれも首題﹁海夫注文﹂で、それぞれ六・二・二一津を仮名で記し、知行者名なく、すべて一号の一 部 を な す 。 五 号 ﹁ 海 夫 注 文 常 陵 国 ﹂ は 、 一号と同様に、仮名書きで四十五津を並べ、知行者名を注す。 六号﹁鹿島都内﹂、七号﹁東条庄内一方﹂、八号﹁行方郡内﹂は、漢字でそれぞれ十八・五・十六津を記し、知行者 の注はない。五号と重複しないものは計八津。 これらに日付はないが、一・五号の一一に﹁在判安富殿、在判山名殿﹂とあり、他のすべてに安富道轍・山名智兼の 花 押 が あ 旬 。 そ こ で 、 こ の 二 名 が 連 署 し た 応 安 七 年 の 香 取 文 書 ﹁ 安 富 道 轍 等 ︵ 連 署 ︶ 奉 書 写 ﹂ 一 一 一 品 、 が 注 目 さ れ る 。 第一の九月二十七日付﹁千葉介殿﹂宛文書は、﹁下総国香取社大繭宜長一房申、当国津宮津以下、浦々海夫事﹂で始 まり、﹁注文一通、これを遣はす﹂と、﹁海夫注文﹂を付した事を一不し、﹁度々仰せられし処﹂を実行してないと非難 し、﹁知行分﹂・﹁庶子等分﹂ともに厳重に処置されたしとして、海夫支配をめぐる争いを物語る。最後の注記に、﹁国 分三郎入道・同与ごなど十名を記し、﹁以上十一通﹂を宛名だけ変えて﹁同文章﹂で出したとする。この十名の氏、 @ 国分・海上・木内・東・神崎・多田・莱飯原は、すべて本文宛名の千介葉を惣領とする千葉一族である。﹁海夫注文﹂ つ の み や の つ 一号は右文書冒頭の﹁津宮津﹂を含み、知行者の注には、右の七民中五氏を含み、他に八氏を記す。小竹森淑江氏は、 ⑧ その全てを右文書の人物やその家人に比定した。その論に問題は残るが、右文書の冒頭に﹁庶子︵支配下の一族︶等 の 分 ﹂ と あ り 、 一号の全知行者が右文書の人物の影響下にあった可能性は強く、これに付した注文が一号と考えられ 親 驚 と 海 夫 七親 驚 と 海 夫 A る 。 第二の同日付﹁地頭殿﹂宛文書は、﹁注文﹂の語はないが、﹁常陸国大枝津・高摺津以下、浦々の海夫の事﹂で同趣 旨の文があり、最後の注記に、﹁大極・麻生・宮崎・小高・鹿嶋・東条・小栗・小田・同兵部少輔入道・吉原・難 波・山河・鹿嶋大繭宜﹂の名を挙げ、﹁以上十コ一通﹂を﹁同文章﹂で出したとする。初めの七者は、代々常陸国の大 だ い じ よ う @ ︿ だ い じ よ う ﹀ いわゆる常陸大嫁一族も、最初の﹁大極﹂はその惣領家と思われる。﹁海夫注文﹂五号は右文書冒 擦 を 勤 め た 平 氏 、 頭 の ﹁ 大 枝 津 ・ 高 摺 津 ﹂ を 記 し ︵ 後 掲 の 表 二 一 1 ・ 表 二 回 参 照 ︶ 、 知 行 者 の 注 に は 、 右 注 記 の 最 後 の 二 名 以 外 の 名 が あ り 、 他に十五氏を記す。その中、﹁玉造・中むら・たけだ・てが・島崎﹂は常陸大嫁一族であり、その他も、右注記の十 三名の、この文書にも記された﹁庶子﹂であったと思われる。以上の事から、右文書に五号を付したと考えられる。 なお、右文書注記中の﹁鹿嶋大繭宜﹂は、鹿島神宮と海夫の関係を示す。﹁海夫注文﹂五号にこの名がないので、 @ 五号の知行者何名かの上に立っていたと考えられる。鹿島神宮関係文書によれば、海夫の津があった麻生・大生・延 方・大賀・大枝は、鹿島神宮領であり︵表二・三﹁史料・考﹂欄の﹁鹿﹂参照︶、特に大賀は﹁日次御供料加納﹂であっ ⑦ C た。また、前出の﹁鹿嶋神領橘郷﹂には、海夫の﹁はねうふなつ﹂︵表二印︶があった。江戸時代初期の霞が浦四十八 ⑧ 津に属した八十蒔・沖州も橘郷にあり、中世も漁民がいたと思われる。 第三の、五月二十五日付﹁地頭殿﹂宛文書にも、下総国の﹁浦々海夫事、注文一通遺之﹂と、﹁海夫注文﹂を付し た 事 を 示 す 。 以上で、﹁海夫注文﹂のいくつかは応安七︵二ニ七回︶年に成立した事がわかる。他も、花押のある智兼・道轍の活 ⑫ ・ 躍期であるが、江戸時代の﹃常陸国郡郷考﹄は、﹁香取応安海夫注文﹂、﹁香取貞治五年海夫注文﹂と呼び、﹃下総国旧 ⑫ 事考﹄も﹁海夫:::ソノ古書、貞治・応安の比マデ数通存ス﹂とする。﹁応安﹂に根拠があった以上、﹁貞治︵五年﹀﹂
⑫ にも注目すべきであろう。その年には、平安末期以来の香取神官の海夫管領を記した前出の文章闘があった。その時の 豪族との争いでも﹁海夫注文﹂が作られた可能性がある。 したがって、現存﹁海夫注文﹂の成立は貞治・応安︿ごニ 六 二
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七五︶の頃と見るのが適当である。 さて、親鷺門弟の居所と照合する上で重要な﹁海夫注文﹂常陸国五十三津の位置の検討を、表にまとめると、次の とおりである。 ﹁ 海 夫 注 文 ﹂ 記 載 の 津 の 現 在 地 比 定 仮 名 書 き 津 名 の 清 濁 立 日 考 は 保 留 す る 。 凡 例 番 号 日 以 下 の 引 用 で 照 合 す る 番 号 寛 永 図 日 寛 、 氷 二 ︵ 一 六 二 五 ﹀ 年 付 ﹁ 湖 水 全 図 ﹂ ︵ 注 5 ﹀ 天 保 図 日 天 保 一 四 ︵ 一 八 四 一 ニ ﹀ 年 刊 常 陸 国 ・ 下 総 国 図 ︵ 注 お ︶ 網 野 説 日 網 野 善 彦 氏 が 海 夫 分 布 図 で 比 定 し た も の ︵ 注m g
津 名 の 上 の 数 字 は 、 そ の 文 書 に お け る 記 載 順 を 示 す 。 ﹁ 史 料 ・ 考 ﹂ の 凡 例 私 日 私 見 弘 日 弘 安 二 ︵ 一 二 七 九 ︶ 年 ﹁ 弘 安 田 文 ﹂ ︵ 注ω
︶ 嘉 ニ 嘉 一 克 四 ︵ 一 一 二O
六 ︶ 年 ﹁ 嘉 元 田 文 ﹂ ︵ 注 目 出 ︶ 郡 日 万 延 元 ︵ 一 八 六O
︶ 年 ﹃ 常 陸 国 郡 郷 考 ﹄ ︵ 注 お ︶ 誌 日 江 戸 末 期 成 立 、 明 治 増 補 ﹃ 新 編 常 陸 国 誌 ﹄ ︵ 注 必 書 ︶ 鹿 日 鹿 島 神 宮 領 。 二九一l
一 三 四 二 年 、 注 M A I D 文 書 風 日 ﹃ 常 陸 国 風 土 記 ﹄ ︵ 注 目 制 室 回 ︶ 親 驚 と 海 夫 九親 驚 と 海 夫 四 0 和 日 ﹃ 和 名 抄 ﹄ ︵ 注 担 ﹀ 天 日 天 福 二 ︵ 一 二 三 四 ︶ 年 ﹁ 畑 田 秀 幹 私 領 譲 状 ﹂ ︵ 注 出 ︶ 正 日 正 中 ニ ハ 一 三 二 五 ﹀ 年 ﹁ 最 勝 光 院 散 状 ﹂ ︵ 注 担 ︶ 廿 日 正 慶 二 ︵ 一 二 三 一 一 一 ︶ 年 ﹁ 二 十 四 輩 牒 ﹂ 願 入 寺 本
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﹁ 史 料 ・ 考 ﹂ 中 に ﹁ 比 定 ・ 推 定 ﹂ と し た の は 、 そ の 史 料 で 比 定 さ れ た も の 。 他 は 、 海 夫 の 津 と 無 関 係 に 室 田 か れ た 地 名 。 表 一 、 常 陸 国 鹿 島 郡 ︵ 現 、 茨 城 県 鹿 島 郡 ︶陛
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一 一 郷 。 誌 、 逢 鹿 郷 大 賀 。 一 一 一 表 三 、 常 陸 国 南 野 荘 ︵ 現 、 茨 城 県 新 治 郡 ︶ 五 ↑ 一 網 野 一陣
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四 ﹁親驚面授﹂の門弟︵直弟子と一部の孫弟子︶とその弟子を、本稿で﹁親驚門弟﹂と呼ぶ。その居所を知る史料と して、これまで主に使われた﹃交名牒﹄は、康永三︵二三四四︶年の奥書を持つ妙源寺本と、その系統に属する光明 寺本・光薗院本・万福寺本等であった。ところが、大した理由もなく退けられてきたが、最も高い価値を持つのは、 ⑨ 親驚在世中の寛元三三二四五︶年の奥書を持つ別系統の江戸時代写本、西念寺本である。この本には、弟子の中に、 建長八三二五六﹀年に親驚から義絶された慈信一房善驚がいて、後世、コ一代伝持、本願寺二世とされた親驚の孫如信 がいない。このように、後の真宗の権威や伝承を損うものが、宗内で偽作されるはずはない。明らかに普驚義絶以前 に成立し、直弟子の書き足しは、如信が成人して一人前の弟子となる以前︵ほぼ親驚没年以前︶に完了した事を示す。 しかも、鎌倉時代に消滅した地名を多く記載し︵後述︶、その史料的価値の高さは動かし難いものがある。詳しい検 ⑧ 討は別稿に譲るが、その史料的価値は本稿の論証の正否にも関わるので、以下で、いくつか触れる。 西念寺本は、直弟子は勿論、全門弟の居所をつぶさに記し、親驚門弟の地理的分布の研究では、欠く事のできない 貴 重 な 史 料 で あ る 。 西念寺本によって初めて、親繍鳥の子紙にもあり、海夫の津が密集する市児島・行方の、親鷲直弟子を長とする次の五集 団 !!原旦が I
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常州手賀ノ 常州トミタノ 常州ヰタクノ’
F 常州鳩道ノ 常州荒井ノ 常州大行方ノ ︵﹁同面授﹂は親驚面授の意。仮名書き地名の清濁音考は保留する。以下も同じ︶,
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長の順信房の﹁鹿嶋﹂は、唯浄の﹁荒井﹂と並ぶので、﹁鹿嶋郡﹂ではなく、それぞれ、﹃和名鈴鹿島郡の鹿島郷 ︵ 現 、 鹿 島 郡 骨 鮎 町 ︶ ・ 新 居 郷 ︵ 同 郡 大 野 村 賠 拘 ﹀ と 思 わ れ る 。 鹿 島 郷 は 鹿 島 神 宮 が あ り 、 ﹁ 海 夫 注 文 ﹂ の ﹁ 大 船 常 ﹂ ︵ 前 掲 表 一 M H ﹀ も あ っ て 、 海 夫 が い た 。 ︵ 表 一 1 ・ 二 9 ﹀ 。 境願・真言の﹁嶋崎﹂は、鹿島・行方両郡のいずれの島崎とも決め難いが、 親 驚 と 海 夫 いずれであっても海夫の津があった 四 五親 驚 と 海 夫 四 ノ、 順性の﹁トミタ﹂も、両郡に富田があり、 い ず れ か が 海 夫 の 津 で あ る ︵ 表 一 幻 ・ 二 時 ︶ 。 順慶・妙性の﹁ヰタク﹂は、行方郡の海夫の﹁いたくの津﹂に当たる︵表二 U ︶ 。 真信の﹁手賀﹂は、行方郡の海夫の﹁ひらはまの津﹂に近い霞が浦沿岸である︵表二 7 ︶。網野氏がその成立は中世 ⑨ ハ い た ︿ ﹀ にさかのぼれるとした江戸時代初期の霞が浦四十八津に、﹁富田・板久﹂とともに属す。親驚当時も漁民がいた可能 性が強い。手賀には、他に慧光もいた。 来性の﹁嶋道﹂は不明である。 信浄・信証の﹁大行方﹂は、﹃和名抄﹄行方郡の行方郷︵現、行方郡麻生町行方﹀であり、霞が浦に面す。﹁大行方﹂ @ ⑨ の呼称は、﹁弘安田文﹂︵行方郡を欠く︶と並んで鎌倉時代の重要な地名史料である﹁嘉元田文﹂と、室町初期とされ ⑧ る無年記の税所文書﹁常陸国行方・鹿島郡切手郷注文﹂の二史料のみに残る。﹃常陸国郡郷考﹄は、後に﹁八甲村﹂ @ と呼んだと伝え、江戸時代の﹃一冗禄郷帳﹄は﹁行方村﹂とする。西念寺本が、鎌倉時代から短期間だけ使われた呼称 を 記 専 里 す
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ノ門" ノ 常州大生ノ H H 桓ノ岡ノ 常州金丸ノ 常州コタカノ ﹂ の 集 団 は 、 前 の 順 信 一 房 の 息 子 を 長 と す る 。称念の﹁延方﹂、誓信の﹁大生﹂は、行方郡の海夫の洋の名であった︵表二
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− U ︶ 0 道信の﹁桓ノ岡﹂は不明である。 道 円 の ﹁ 金 丸 ﹂ は 、 両 国 文 ︵ ﹁ 弘 安 田 文 ﹂ と ﹁ 嘉 元 回 文 ﹂ 、 以 下 同 じ ︶ に 出 る 在 庁 名 ﹁ 金 丸 ﹂ ︵ 石 岡 市 石 岡 若 松 町 金 丸 町 ︶ と 思 わ れ る 。 順慶の﹁コタカ﹂は﹁嘉元田文﹂行方郡の﹁小高﹂︵現、行方郡麻生町小高︶で、海夫の﹁橋門津﹂︵表二時﹀があった。 この地の﹁おたか﹂氏は、橋門のほか海夫の船子津・山田洋・西蓮寺船津も知行した︵表二 5 ・ 6 ・ げ ︶ 。 ここに記された門弟の下には、更に信者がいたはずである。﹃消息集﹄六によれば、﹁オホフノ中太郎﹂の下に﹁九 一 一 ン ⑪ 十ナム人﹂がいた。﹃交名牒﹄他本は、右のような集団の長のみに居所を記すので、その下の門弟は皆、同じ場所に いたと考えられて来た。西念寺本で初めて、これらの門弟が一人一人別の地で活躍した事が明らかになった。彼等は それぞれ、周辺の信者を組織していたと考えられる。︵中太郎の﹁オホフ﹂は、前出海夫の津大生の可能性があるが、 、 ⑤ 別の門弟がいた﹃親驚伝絵﹄の﹁常陸国那珂西郡大部郷﹂の可能性も残る︶。 以上の父子二集団は、確実に海夫の津があった四地に六名︵富田と、海夫の津を含む鹿島・小高を加えると七地に 十名︶の門弟がおり、漁民がいた可能性の強い手賀等も含めて、これら門弟自身や、彼等が組織した信者の中に海夫 等 の 漁 民 が い た 事 は 、 ほ ぼ 確 実 で あ る 。 第三の﹁富田﹂の明教房順智の集団は、﹁冨田﹂の明信、﹁鹿嶋﹂の智濯・随智がいた。 第四の﹁鹿嶋﹂の真快一房随念の集団には、﹁トミタ﹂の了念のほかに、﹁片岡﹂の明智、﹁イナヒサ﹂の是信がいた ︵ 抄 出 ︶ 。 ﹁片岡﹂は、両田文の北郡の に い は り や δ ーとかたれか ﹁ 片 岡 ﹂ ︵ 現 、 新 治 郡 八 郷 町 片 岡 ︶ で 、 国 府 の 北 西 方 に あ る 。 親 驚 と 海 夫 四 七親 驚 と 海 夫 四 八 ﹁イナヒサ﹂は、両国文の在庁名﹁稲久﹂で、現在地は不明。国府近辺と思われる。在庁名は、国府在庁官人の給 与とされた団地を、その官人の名で呼んだ地名で、両田文記載の十三の中二つしか現存しない。両国文以外に稽久を 記す唯一の史料西念寺本の価値は高い。 第五の﹁鹿嶋﹂の真浄房乗然の念仏集団は、﹁田木・小井戸・大谷・荒張・イナサ・ヰナヒサ﹂︵抄出︶の地名が並 みなみどおり び、﹁田木﹂が﹁白木谷﹂なら、前回つは両国文の南郡に見える。 正信・妙願の﹁田木﹂は、両国文の﹁田木谷﹂︵現、新治郡玉里村田木令﹀である可能性が強い。海夫の﹁大ゑたの 津 ﹂ ︵ 表 一 一 一 1 ﹀のすぐ北、霞が浦に注ぐ園部川の河口である。 一円・西円の﹁小井戸﹂︵石岡市小井戸︶も、その北、すぐ近くの沿岸にある。 み の り お お や 実妙の﹁大谷﹂は、その上流西北方の沿岸、東茨城郡美野里町大谷、または小井戸・田木谷の西方、霞が浦に注ぐ お お や づ 山玉川沿岸の石岡市大谷津である。後者の﹁津﹂は注目される。 ち よ だ に い は り 寂円の﹁荒張﹂︵現、新治郡千代田村新治﹀は、霞が浦西岸に注ぎ、康治二︵二四一二︶年の文書に旧南野荘の北限と @ み な み ど う り か み っ ち た し も っ ち た ある荒張川︵現、天の川︶南岸。対岸の両国文南郡﹁土田﹂︵同村上土田・下土田﹀に門弟道円房本明がいた。 念信の﹁ヰナヒサ﹂は前出の在庁名で、順智の﹁イナサ﹂も、両国文に稲久と並ぶ在庁名﹁稲貞﹂である可能性が 強く、注目される。現在地は不明であるが、国府の近くであろう。 なお、法衝房教念の集団には、﹁常州鹿嶋・信田東・馬渡﹂︵抄出︶がある。 唯観の﹁鹿嶋﹂で、海夫の大船津があった鹿島の門弟は計七人となる。他に聞転もいる。 証安の﹁信田東﹂は、霞が浦南岸の東部で、海夫の津が密集する後の東条荘である︵表五︶。 ⑫ D ま わ た り 仏道の﹁馬渡﹂は、海夫の津がある山田︵表二6︶の中、﹁康永鹿島領﹂行方郡の﹁馬渡﹂︵行方郡北浦村山田馬渡﹀と
む ま わ た し の 思 わ れ る ︵ ﹁ 信 回 東 ﹂ と 並 ぶ の で そ の 中 の ﹁ 馬 渡 津 ﹂ ︵ 表 五 2 ﹀ は 採 ら ず 、 こ の 集 団 中 に 常 陸 北 部 の 地 名 が な い の で ﹁ 嘉 元 田 文 ﹂ 士 日 田 郡 の ﹁ 馬 渡 ﹂ も 除 く ︶ 。 以 上 、 鹿 島 ・ 行 方 郡 を 中 心 に 見 て 、 専 光 一 房 ・ 真 快 一 房 ・ 真 浄 一 房 の 集 団 は 、 霞 が 浦 北 岸 を 経 て 国 府 、 旧 南 野 荘 に 至 り 、 法衝一房の集団は、霞が浦南岸へと広がった点で注目される。 五 次は、南野荘・信太荘・信太束を中心に見る。 @ 直弟子教忍は﹁南圧田中﹂に居た。もと霞が浦沿岸の石岡市東田中︵﹁元禄郷帳﹂・﹁天保図﹂の﹁田中﹂︶と思われ る。︵霞が浦に注ぐ桜川沿岸の土浦市田中は、﹁元禄郷帳﹂にもないので採らず﹀。田中の、山王川を隔てた西南が国 あまおとめ 府の津、高浜︵石岡市︶である。江戸時代は霞が浦四十八津に属し、﹃常陸国風土記﹄には﹁漁嬢﹂が集まり、商人等 こ ぶ ね さ を か よ ⑬ が﹁舶艦に梓さして往来ふ﹂とあり、漁民も居る上、この港を中心に古くから霞が浦水運が発達した事も一示す。高浜 神社の側に、親驚の遺跡瓜書阿弥陀堂がある。伝説の内容は別にして、地理的には、親驚が高浜に来た可能性は強い。 なお、﹁南庄田中﹂のほか、西念寺本の﹁奥郡田中﹂、﹁弘安田文﹂の﹁田中庄﹂のいずれか不明の﹁田中﹂の門弟 六 人 を 保 留 す る 。 か み よ し か げ 乗 念 房 願 智 は ﹁ 常 州 南 庄 上 士 口 影 ﹂ に 居 た 。 両 回 文 ・ ﹁ 康 永 鹿 島 領 ﹂ の 南 郡 ﹁ 上 士 口 影 ﹂ ︵ 現 、 東 茨 城 郡 小 川 町 上 士 口 影 ︶ で @ ある。北浦に注ぐ巴川沿岸、前出鹿島郡富田の西北方約二キロで、江戸時代には巴川水運の河岸であったという。 右の三史料は、上士口影を﹁南郡﹂とした。前出の﹁南庄田中﹂も、その東南に接する﹁高浜﹂を両国文が﹁南郡﹂ とするので同様である。西念寺本が、これらを﹁南圧﹂としたのは重要である。﹁弘安田文﹂は、﹁南野牧千百九十 親 瞬 間 と 海 夫 四 九
親 驚 と 海 夫 五
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丁九段大﹂︵南野牧と南野荘は向じ﹀とし、続いて﹁南郡・在庁名・別名﹂計約五三O
町を記す。この南郡以下を﹁南野 ⑬ ⑬ 牧﹂の一部と読む事も可能である。﹃常陸国郡郷考﹄や﹃新編常陸国誌﹄はそう解釈し、吉田東伍民も同様に、﹁中世 田府東南を南郡と云ひ、又南野牧、南野庄とも呼ぴたり。今の士口影、竹原、︵東茨城︶石岡︵国府︶土浦の聞の広域 にわたる﹂とし向。ところが、﹁嘉元田文﹂は﹁南庄﹂と﹁南郡・在庁名・別名﹂の聞に別の地名まで入れて明確に 別項目とし、南郡以下の回数に近い約五四O
町を差し引いて﹁南庄六百五十町﹂とする。両国文のこの回数の差は、 ﹁弘安田文﹂が南部等を南野牧︵荘︶に含め、﹁嘉元田文﹂が除いた事を明瞭に一市す。両旧文の問、弘安二︵一二七九︶ 年から嘉元四︵二二O
六︺年の聞にこの変化、が起きたのである。しかも、前出康治二︵二四三︶年の文書は南野荘の ⑫ 北限を荒張川︵現、天の川︶とし、南部を含まなかった。南郡の上士口影や田中を﹁南庄﹂とするのは、鎌倉時代の一時 期︵ほぼ、親驚の時代に当たる︶にのみ存した地名表記であり、それを使う点でも、西念寺本の史料的価値の高さが 確認できるのである。私の知る限り、西念寺本は、右の両田文記載の変遷を裏づける唯一の史料である。 さて、海夫の津がある信太荘、更に狭い地に津が密集する信太東︵表四・五︶の門弟は、海夫と関わった可能性が 強い。そこから国府近辺に渡る集団が多く、当時、漁業と未分化であった霞が浦水運との関係を予測させる。 前 出 南 野 荘 上 士 口 影 の 乗 念 一 房 の 集 団 に は 、 ﹁ 信 田 ﹂ の 来 応 ・ 最 信 、 国 府 の 得 因 が い た 。 ﹁ 信 田 ﹂ の 入 願 一 房 随 信 の 集 団 に は国府の信念・護法がいた。﹁信田﹂の西願の集団には国府の法光がいた。真仏一房顕性の集団には、﹁信口東﹂の教善、 国 府 の 信 願 が い た ︵ 以 上 抄 出 ︶ 。 また、﹁片岡﹂︵前出、国府西北方︶の証真一房法性の集団には、﹁信田東﹂の慶了・了観がいた。西念寺本の前部に ⑮ ある直弟子の名列では、この証真︵信︶一房の居所を﹁信用﹂とし、妙源寺本・光薗院本等は﹁南圧﹂とする。こうし た居所の違いは例が多く、安易に誤りだとすべきでない。転々と移住したと思われるが、弟子の居住地を含めてその活動範開が、国府西北方から南野荘、信太荘、信太京と、霞が浦周辺を巡っているのは興味深い。 以上のほか、国府に浄願・唯了・道性が、﹁信田﹂には願信・覚性・教明がいた。 ﹁信出︵太︶東﹂は、両国文と西念寺本の三史料にしか見えない地名である。この地は、信太郡の中、信太荘に合 まれない東部を指し、後に東条荘となる c その初見は弘安一
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︵一二八六︶年の紀伊熊野速玉神社文書﹁善海戸帳送 ⑬ 文案﹂であり、遅くとも、それ以後は東条荘と呼ばれたのである。古い地名た使う事はあっても、せいぜい一t
二 世 @ 代の間にすぎない。弘安以前の国検問を基にして、その内容は嘉一万以前の実態を示すとされている﹁嘉元田文﹂︵一 コ ズ U 六︶が最後の例であり、南北朝時代の﹁海夫注文﹂は﹁東条庄﹂とする。鎌倉時代に消滅した事が確実な﹁信田 東﹂を記す西念寺本の史料的価値は決定的である。 これまでに指摘した﹁大行方﹂・在庁名﹁イナヒサ﹂・﹁南庄上吉影﹂・﹁信回東﹂等を記載する西念寺本は、親驚研究 は勿論、地名研究の上でも欠く事のできない重要な史料である。これらの地名表記には触れてないが、明治三三︵一 九OO
﹀年に吉田東伍氏がこの西念寺本に注目し、﹁其細注の地名の如き、決して、近世文録慶長以降の、好事者の想 ひ及ぶ所にあらず、最考古の資料に益めり、学者之に由りて、親驚附一市の諸門出の行実、化導の跡に参考する所あら ③ ば、発明する所多からん﹂と評価し、その著﹃大日本地名辞書﹄の各所で使った。しかし、その後継者は、親驚研 究・地名研究の中に発見できない。最新の平凡社版日本歴史地名大系八﹃茨城県の地名﹄も、これを黙殺した。この 史料を使えば﹁発明する所多からん﹂とした八十年前の先学の予言は、本稿に至るまで宙に浮いていた。 親驚門弟が居た北浦・霞が浦周辺の地をまとめると、次のようになる。︵ ︶内は門弟数、太字は海夫の津または そ れ を 含 む 地 名 で あ る 。 鹿島郡 九 人 : : : 鹿 嶋 ハ 八 ︶ 、 荒 井 ︵ 一 ﹀ 親 驚 と 海 夫 五親 驚 と 海 夫 五 − M F 片 o h 神 oX \ 持 3 ﹄ 7 h ∼ 州 、 ﹁ @ ι 5 3 ふ 2 4 F 戸凶ヨ﹁ f51~,刊← し 匂 4 i A 弘子吐 A O 、 ι t
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行方郡 十 人 : : : 馬 渡 ︵ 一 ︶ 、 大 生 ︵ 一 ︶ 、 延 方 ︵ 一 ﹀ 、 ヰ タ ク ︵ 二 ︶ 、 コ タ カ ︵ 一 ︶ 、 大 行 方 ︵ 二 ﹀ 、 手 賀 つ 一 ︶ 鹿島郡または行方郡 六 人 : : : 嶋 崎 ︵ 二 ﹀ 、 富 田 ︵ 四 ︶ 南 野 荘 二 十 一 人 : : : 上 古 影 ︵ 一 ﹀ 、 田 木 ? ︵ 二 ︶ 、 小 井 戸 ︵ 二 ︶ 、 大 谷 ︵ 一 ︶ 、 田 中 ︵ 一 ︶ 、 士 田 ︵ 一 ︶ 、 荒 張 ︵ 一 ︶
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以上南郡。金丸︵一︶、イナヒサ︵二︶イナサ?︵一︶||以上在庁名。国府︵八︶ 信 太 荘 八 人 信 太 東 ︵ 後 の 東 条 荘 ﹀ 四 人 以上で、親驚念仏集団と、海夫その他の漁民が関係を持った事は、 ほ ぽ 確 実 と 言 え よ う 。 地図を付し、右の地と海夫の津で現在地がわかるものを記す。なお、下総国の常陸川︵現、利根川︶・キヌ川︵現、 島島川・小貝川︶や周辺の沼の沿岸にも、親鷺門弟が分布する。その検討は、紙数制限のために割愛して別稿を期すが、 その結論も地図に記入する。中でも特に、平安時代末期から伊勢神宮に鮭等を備進し、﹁海船﹂もあり、その中の横 須賀に海夫がいた可能性もある常陸川・手賀沼沿岸の相馬御厨が注目されるが、その中の﹁布川﹂︵茨城県北相馬郡利 根町恥附︶には、教名房真阿を初め九人の親驚門弟がいて、相当大きな親驚念仏集団が栄えたことをうかがわせる。む
す
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ここに一つの伝説がある。ーl
霞が浦の﹁海中﹂に光るものがあり、漁夫が騒ぐ所に親驚が来て、﹁トモニ網ヲヒ﹂ ⑧ ・ くと、﹁御長一尺八寸ノ弥陀ノ尊像﹂があがったと言う︵元禄二ニH一七OO
年 刊 ﹃ 据 茨 抄 ﹄ 下 ﹀ 。 霞 が 浦 を ﹁ 海 中 ﹂ と す る点、まだ塩水で、そこの漁民を﹁海夫﹂と呼んだ古い時代を思わせる。その場所は、或いは信太東の地、稲敷郡桜 が b う き し ま ⑧ み ほ き は ら ⑧ 川川村浮島、或いは信太荘の地、同郡美浦村木原︵いずれも霞が浦四十八津に属きとし、また、不明地﹁三ツマタ山崎﹂と 親 驚 と 海 夫 五親 驚 と 海 夫 も 言 う 。 これを史実とする根拠はないが、漁民とともに網を引き、 ある。差別を受けた漁民の生、き様や親驚の日常は、 五回 われわれが実証の手段に使う史料が伝えるごく限られた世界の外 その中で新たなアミダ仏を見出した親驚の姿は象徴的で で脈打っていた。これは、 そうした史料外の世界をかいま見させる点で興味深い。 親驚と海夫・漁民との関係は、同時に、親驚と被差別民の関係の一端でもある。この事実の確認は、単に門弟や信 者の中に被差別民もいた事を付加するにとどまらず、親驚思想形成の根幹に関わる新しい問題を提起する。 当 時 、 センダラは﹁エタのような悪人﹂とされ、漁民はセンダ一フとも呼ばれて差別された。親驚は、その﹁悪人﹂ を思想の中軸にすえ、悪人なるが故に熱烈な信心を得て往生するという悪人正閏思想を確立した。被差別民の生き様 の中に、﹁悪人﹂なるが故に持ちうる人類普遍の輝きの典型的な姿を見出したとすれば、被差別民の世界こそ、親驚 が真のアミダ仏と出会った場となるはずである。 ① 注 本稿で史料を活字本から引用する場合、原史料にない句 読 点 や ﹁ ﹂ 等 を つ け 直 す 。 傍 点 は 、 論 文 も 含 め 、 す べ て 河 田 が 付 し た 。 ﹃ 親 驚 聖 人 全 集 ﹄ ︵ 其 刊 行 会 刊 ︶ 一 言 行 編 一 部 ベ l ジ o 同 前 、 和 文 編 附
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ベ l ジ 。 同 前 、 書 簡 編m
・ 山 −m
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ベ I ジ 。 未公開、寛永二三六二五︶年付﹁湖水全図﹂、茨城県 新 治 城 郡 玉 虫 村 の 鈴 木 源 太 左 衛 門 氏 蔵 。 寛 、 氷 以 後 の 転 写 カ ⑤ ④ ③ ③ ⑥ 以 下 の 長 州 御 厨 に 関 す る 文 は 、 ﹃ 平 安 遺 文 ﹄ ︵ 東 京 堂 刊 ︶ 四i
七 巻 の 一 一 一 一O
九 ・ 一 六 六0
・ 一 一 一 一 一 了 二 六 二 八 ・ 二 六 三 二 ・ 一 二 二 一 三 号 文 書 に よ る ︵ 全 て 漢 文 ︶ 。 ﹃ 茨 城 県 史 料 ﹄ ︵ 茨 城 県 刊 ︶ 中 世 編 一m
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ベ l ジ 所 収 、ω
建長七年﹁摂政太政大臣家政所下文﹂、倒永仁四 年 ﹁ 関 白 左 大 臣 家 政 所 下 文 L、制治承四年﹁常陸国南守 所 下 文 ﹂ ︵ 全 て 漢 文 ︶ 。 ﹃ 呑 取 群 書 集 成 ﹄ ︵ 香 取 神 宮 刊 ︶ 二 拙l
制 ベ l ジ 。 史 料 纂 要 ﹃ 権 記 ﹄ ︵ 続 群 書 類 従 完 成 会 刊 ︶ 一 川 ベ 1 ジ 。 網野善彦著||ω
﹁ 霞 ヶ 浦 の 魚 介 ﹄ 、 ﹃ 日 本 産 業 史 大 系 ① ⑩ ⑨ ⑧⑫ ⑬ 四、関東地方編﹄所収︵一九五九年︶。同﹁青方氏と下 松浦一授﹂、﹃歴史学研究﹄二五四号︵一九六一年三制 ﹁ 日 本 中 世 に お け る 海 民 の 存 在 形 態 ﹂ 、 ﹃ 社 会 経 済 史 学 ﹄ 三六の五号︵一九七一年︶。帥﹁海民の社会と歴史
ω
ーー 霞 ヶ 浦 ・ 北 浦 ﹂ 、 ﹃ 社 会 史 研 究 ﹄ 二 号 ︵ 一 九 八 三 年 ︶ 。 ﹃ 鎌 倉 遺 文 ﹄ ︵ 東 京 堂 刊 ︶ 九 町l
拙 ベ l ジ 。 ﹃千葉県史料中世編香取文書﹄︵千葉県刊︶ml
山 ペ ー ジ 。 ﹃ 湖 一 刊 日 蓮 聖 人 遺 文 ﹄ ペ 久 遠 寺 刊 ︶ 二 湖 、 一ω
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ペ ー ジ 。 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ ︵ 国 書 刊 行 会 刊 ︶ 一 釘 ベ 1 ジ 。 日本古典全集﹃塵袋﹄︵複製版、現代思潮社覆刻︶上加 ベ l ジ 。 日本古典文学大系﹃和漢朗詠集・梁塵秘抄﹄︵岩波書店 刊 ︶ 揃 ベ 1 ジ 。 前掲﹃千葉県史料香取文書﹄伺ベlジ。 ﹃親驚聖人全集﹄書簡編四ページ ﹃千葉県史料香取文書﹄ml
山 ベ l ジ 。 同前m
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ベ l ジ ︵ 漢 文 ︶ 。 ﹃ 続 群 書 類 従 ﹄ ︵ 其 完 成 会 刊 ﹀ 六 上m
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ベ i ジ所収﹁千 葉 系 図 ﹂ ・ ﹁ 千 葉 系 図 別 本 ﹂ に よ る 。 小竹森淑江﹁中世香取における津の支配i
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海夫注文の 分 析 か ら ﹂ 、 ﹃ 斌 時 日 本 文 化 研 究 ﹄ 二 号 ︵ 一 九 八 一 年 ︶ 。 前掲﹃続群書類従﹄六上c
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印 。 へ lジ所収﹁常陸大隊系 図 ﹂ に よ る 。 ⑬ ⑮ ⑬ ⑬ ⑫ ⑫ ⑬ ⑬ ⑫ ③ ⑫ 親 驚 と 海 夫 @ ﹃ 茨 城 県 史 料 ﹄ 中 世 編 一m
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四 ペ ー ジ 所 収 、 凶建久一一︵一一九一︶年﹁摂政前太政大臣家勢一政所下 文 ﹂ ・ 剛 弘 安 五 ︵ 一 二 八 二 ︶ 年 ﹁ 鎌 倉 将 軍 家 糊 一 地 寄 進 状 写 ﹂ ・ 制 文 保 二 ︵ 一 一 一 一 一 九 ﹀ 年 ﹁ 関 白 前 左 大 臣 一 転 政 所 下 文﹂・倒皮永二︵一三四二一︶年写﹁鹿嶋神宮領回数注文 案 し 。 ﹁霞ヶ浦四拾八津旋書﹂慶安一二三六五O
︶ 年 七 月 晦 付 、 茨城県土浦市立図書館蔵本︿柏書房刊﹃古文書に歴史を 読む﹄一日l
符 ベ I ジ写真版︶、元禄一六︵一七O
一 二 ﹀ 年九月十六日付、茨城県行方郡立花村の舟串圭一氏蔵本 の 津 名 に よ る 。 以 下 同 じ 。 ﹃ 常 陸 国 郡 郷 考 ﹄ 大 阪 府 立 中 之 島 図 書 館 蔵 、 万 延 一 万 ︵ 一 八 六O
︶ 年 刊 本 。 以 下 同 じ 。 弘化二︵一八四五︶年序、清宮秀堅﹃下総国旧事考﹄、 指書房刊本田ベ I ジ 。 天 保 一 四 ︵ 一 八 四 二 ︶ 年 刊 ﹁ 富 士 見 十 ゴ 一 州 輿 地 全 図 ﹂ 、 昭和礼文社刊の写図による。 網野善彦﹃東と西の語る日本の歴史﹄︵そしえて一九八 二年刊︶四ページ海夫分布図。 弘安二︵一二七七︶年付税所文書﹁常陸国作目惣勘文 案 ﹂ の 略 称 。 ﹃ 茨 城 県 史 料 ﹄ 中 世 編 一ml
問 。 へ lジ。以 下 同 じ 。 嘉 一 万 四 ︵ 二 二O
六︶年八月十日付佐竹古証文﹁常州回 文﹂の略称。﹃東京大学史料編纂所蔵佐竹古証文﹄︵発行 所 不 明 ﹀ 115 ペ ー ジ 。 以 下 同 じ 。 ⑧ ⑧ ⑫ ⑧ ⑬ ⑩ ⑨ 五 五親 驚 と 海 夫 @ ﹃ 倭 名 類 底 抗 紗 ﹄ ︿ 二 十 巻 本 複 製 版 、 風 間 書 房 刊 ︶ 巻 五 ・ 六 に よ る 。 以 下 閉 じ 。 ﹃ 鎌 倉 遺 文 ﹄ 七 川 −