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右は︑﹃万葉集﹄巻十九の巻末に載せられた大伴家持の歌で
ある︒山本健吉・池田彌三郎﹃萬葉百歌﹄︵中公新書・一九六三︶︑中西進﹃万葉の秀歌 下﹄︵講談社現代新書・一九八四︶︑多田一臣編﹁万葉秀歌﹂︵﹃万葉集ハンドブック﹄三省堂・一九九九︶︑神野志隆光編﹃万葉集鑑賞事典﹄︵講談社学 術文庫・二○一○︶など︑戦後の多くの秀歌選に取られている
ものである︒現行の高等学校﹁国語総合﹂の教科書でも︑東京書籍︵国総
302・ 304︶・教育出版︵国総
309・ 310︶などの六社一二冊
と︑大修館書店の﹁古典B﹂︵古B
310・ 312︶二冊がこれを教材と
している︒家持の歌の中ではもっとも多く教材化されているの
だが︑高校生の頃︑私も古典の授業でこれを習った記憶がある︒明治書院の教科書だった︒さらには︑﹃日本国語大辞典 第 ︿研究へのいざない﹀万葉歌を読む
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梶 川 信 行 教科書 の 中 の 万葉歌 ︱ 大伴家持 の 春愁歌 を 読 む︱
廿五日に作れる歌一首 うらうらに 照
てれる 春
はる日
ひに ひばり 上
あがり 情
こころ悲
かなしも 一
ひとり人 し 思
おもへば
(巻十九・四二九二)にせよ︑﹁照れる春日﹂とされるので︑この日は暖かな日差し
も降り注いでいたのであろう︒昨今︑東京でヒバリの鳴き声を聞いた記憶はない︒しかし︑
かつて住んでいた奈良では︑春になると︑上空でピーチク・ピー
チクと︑せわしなく鳴くヒバリの声を聞いたものだった︒三句目の﹁ひばり上がり﹂は︑繁殖期のヒバリの生態を表わしたも
のだとされるが︑後に﹁揚げ雲雀﹂という形で春の季語ともなっ
ている︵角川書店編﹃新版俳句歳時記 春の部﹄︶︒この三句目
を読んだ時︑そうしたヒバリの姿が自然と目に浮かび︑その鳴
き声が耳に聞こえて来る人も多いのではないかと思われる︒通常ならば︑春の訪れは心弾むものであろう︒しかしながら︑家持は﹁ひばり上がり﹂で小休止した後︑なぜか﹁情悲しも﹂と
うたっている︒﹁も﹂は詠嘆を表わし︵﹃時代別国語大辞典 上代編﹄︶︑あたかも深いため息をついているかのような感じで
ある︒そこが区切れになっていて︑その後︑絞り出すかのよう
に﹁一人し思へば﹂という結句が示される︒
この四句目と五句目は︑倒置法である︒﹁情悲しも﹂という四句目が強調された形だが︑さらにその悲しみの原因が︑﹁し﹂
という助詞で強調された﹁一人﹂であることが示されている︒家持の悲しみが深い孤独感に基づくものだったということが理解できる︒
それにしても︑この時三十代半ばに差し掛かっていた家持
は︑いったい何を﹁一人﹂思っていたのだろうか︒いわゆる﹁春愁﹂をうたった一首だが︑その具体的な事情を歌の表現から読
み取ることはできない︒ 十七巻﹄︵小学館・一九七五︶︑﹃古語大辞典﹄︵小学館・一九八三︶︑﹃広辞苑︹第六版︺﹄︵岩波書店・二○○八︶など︑多くの辞書の﹁ひばり﹂の項目には︑その用例として︑わざわ
ざこの歌が引用されている︒このように︑右は現在﹃万葉集﹄
を代表する︿秀歌﹀の一つとして︑その評価を不動のものにし
ていると見ることができる︒
﹁廿五日﹂とは︑天平勝宝五年︵七五三︶の二月二十五日︒現在の暦で言えば︑四月七日にあたる︵岡田芳朗ほか編﹃日本暦日総覧 具注暦篇 古代前期﹄本の友社・一九九四︶︒現代は温暖化が進み︑桜の開花期も早くなって来ているが︑昭和の高度成長期以前の奈良では︑ちょうどヤマザクラが咲く頃であっ
た︵大後美保﹃季節の事典﹄東京堂・一九六一︶︒奈良時代にお
いても︑サクラの開花期を迎えていたものと考えられる︒
この年は二月十一日に︑平城京で遅い降雪があり︑﹁大雪﹂
だったと伝えられている︵巻十九・四二八五題詞︶︒しかし︑二十三日には春の野に霞が棚引き︑ウグイスの鳴いたことがう
たわれている︵巻十九・四二九○︶︒二十五日の平城京は︑すっ
かり春のたたずまいに包まれていたことであろう︒
﹁うらうらに﹂は﹃万葉集﹄中ほかに例がないが︑擬態語であ
り︑﹁うららかに︒のどかに﹂︵上代語辞典編修委員会編﹃時代別国語大辞典 上代編﹄三省堂・一九六七︶の意︒穏やかな春
の日の様子を表わしているが︑﹁明るさを含みながらも︑何か焦燥を誘う霞がかった世界を言い表わそうとしたもの﹂︵伊藤博﹃萬葉集釋注十﹄集英社・一九九九︶と見る説もある︒しかし︑
それは四・五句目を視野に入れた時の理解ではないか︒いずれ
られるが︑﹁梅﹂や﹁鶯﹂を詠むことも︑中国文化への関心の中
から現れた天平期の新しい文化であることが指摘されている
︵辰巳正明﹁持統朝の漢文学︱︱梅と鶯の文学史︱︱﹂﹃万葉集
と中国文学第二﹄笠間書院・一九九三︶︒ここは歌に詠まれた
﹁鶯﹂ではないが︑漢籍を踏まえたこの左注に家持の素養が窺
える点で︑注意をしておく必要がある︒ともあれ︑上空でヒバ
リが囀るばかりではなく︑近くの木の枝ではウグイスも鳴いて
いたのであろう︒
ここまでは︑うららかな春の日の景観である︒続く﹁悽惆﹂は︑諸橋轍次の﹃大漢和辞典﹄にない漢語である︒漢語として一般的なものではなく︑漢籍の中にもあまり用例が
ないと言う︵芳賀紀雄﹁家持の桃李の歌﹂先掲︶︒しかし︑﹁悽﹂
は﹁いたむ︒かなしむ﹂︵﹃大漢和辞典 巻四﹄大修館書店・一九五七︶の意︒﹁惆﹂も﹁かなしむ︒いたむ︒なげく﹂︵﹃大漢和辞典 巻四﹄︶の意︒したがって︑﹁悽惆﹂とは﹁痛み悲しむ心﹂
︵伊藤博﹃萬葉集釋注十﹄集英社・一九九八︶︑﹁憂い痛む心﹂︵多田一臣﹃万葉集全解
7﹄筑摩書房・二○一○︶︑﹁気落ちし悲し
む︑意﹂︵阿蘇瑞枝﹃萬葉集全歌講義十﹄笠間書院・二○一五︶
などと︑諸注の説明は異口同音である︒心が晴れず︑欝々とし
ている状態であろう︒そうした時は︑歌でも作らないと気を紛
らわすことが難しいと言うのだ︒
﹁締緒を展ぶ﹂とは︑その﹁結ぼれた心を解く︑の意﹂︵伊藤博﹃萬葉集釋注十﹄︶︑﹁鬱屈した心︒鬱情﹂を﹁解放する意﹂︵多田一臣﹃万葉集全解7﹄︶︒すなわち︑だからこそ︑この歌を作っ
て鬱屈した心を解放したのだ︑という意味となる︒ 2
当該歌の後には︑次のような漢文体の左注がある︒多くの注釈書等が認めているように︑それは家持自身の手になるものだ
と考えてよい︒
春 しゅんじつ日は遅々として︑鶬 うぐひす鶊正に啼 なく︒悽 せいちう惆の意は歌に非 あらずは撥 はらひ難し︒よりてこの歌を作り︑もちて締 ていしょ緒を展 のぶ︒
﹁春日遅々﹂という語は︑﹃詩経﹄に用例がある︒すでに三百年ほど前︑契沖が﹃萬葉代匠記﹄で指摘したことである︒現代
でもそれが通説︵小島憲之﹁萬葉集と中國文學との交流﹂﹃上代日本文學と中國文學 中﹄塙書房・一九六三︑芳賀紀雄﹁家持
の桃李の歌﹂﹃萬葉集における中國文學の受容﹄塙書房・二○○三︶だが︑慣用句として︑﹃広辞苑︹第六版︺﹄などの現代の辞書にも載る語である︒また︑﹁遅日﹂という形で︑春の季語と
もされている︒もちろん︑春の日ののどかな様子を表わしてい
る︒日暮れが遅くなった︵日が長くなった︶ことを言う︒
﹁鶬鶊﹂はウグイスのこと︵諸橋轍次﹃大漢和辞典 巻十二﹄大修館書店・一九五九︶︒これも﹃詩経﹄や﹃楚辞﹄などの漢籍
に用例のあることが︑諸注に指摘されている︒﹁正に啼く﹂と
あるように︑﹃万葉集﹄でも﹁うぐひす﹂は﹁鳴く﹂とうたわれ
ることが多い︒季節によって分類された巻十では︑﹁春雑歌﹂
の部の﹁詠鳥﹂とされる歌々の中で︑圧倒的に多く詠まれてい
る鳥が﹁鶯﹂である︒春を代表する鳥だと言ってよい︒後に︑﹁春告鳥﹂という異名とともに︑これも春の季語となっている︒
﹁梅﹂と﹁鶯﹂の取り合わせは︑﹃万葉集﹄や﹃懐風藻﹄にも見
家持を待っていたのは︑大伴氏の敵手藤原氏︵仲麿︶のま
すます強化されてゆく独裁であった︒︵中略︶すでに父旅人の代に予感され出していた大伴氏の衰運はいよいよ決定的なところに来︑没落を前にそよいでいたのは確かで︑︵中略︶橘奈良麿の変︵中略︶などの惹起される予兆は︑すで
に身辺に怪しくうごめいていたはずだった︒︵西郷信綱﹁大伴家持﹂﹃萬葉私記 第二部﹄東京大学出版会・一九五九︶
と︑その原因を当時の政治的状況に求めている︒
また︑近年の解説書でも次のように説明されている︒
この時︑家持はすでに平城京に戻っています︒しかし越中
で夢見たような中央での活躍は実現せず︑世は大伴氏に
とって︑ますます不利になっていました︒皮肉なことに︑帰京がかえって希望を失わせる結果となったわけです︒
﹁絶唱三首﹂の孤独の根底には︑そうした政治的な苦境が
あります︒︵鉄野昌弘﹃大伴家持﹄創元社・二○一三︶
﹁絶唱三首﹂とは︑その二日前の二首︵巻十九・四二九○〜四二九一︶と併せて︑一般にそう評されているのだが︑当時の大伴氏を取り巻く状況は︑確かにその通りであった︵木本好信
﹃藤原仲麻呂﹄ミネルヴァ書房・二○一一︶︒﹁政界における閉塞感﹂︵阿蘇瑞枝﹃萬葉集全歌講義十﹄︶が︑家持をそうした気分にさせていたと見るのが︑現在でも通説である︒したがって︑
この歌を教材としている各教科書の教師用指導書にも︑台頭す
る仲麻呂と斜陽の大伴氏といった図式に基づく説明が見られ
る︒帰京の翌年の四月︑平城京では東大寺盧舎那仏の設斎大会が ﹃懐風藻﹄の詩でも︑﹁春日﹂は﹁愁情を暢ぶ﹂︵一○・葛野王︶
もの︑﹁此の時誰か楽しまざる﹂︵二四・美努連浄麻呂︶などと詠まれている︒したがって︑うららかな春の景色と欝々とした心情は︑やはり不釣り合いのように思える︒左注を読んでみて
も︑家持が欝々としている原因はわからないが︑二日前に詠ま
れた歌にも︑春の野に 霞たなびき うら悲し この暮 ゆふかげ影に 鶯鳴くも︵巻十九・四二九○︶
とうたわれている︒越中守として五年間ほど任地で過ごし︑従五位上の少納言として帰京して一年半ほどの家持だったが︑こ
の時期は欝々とした気分が続いていたらしい︒
それにしても︑高校生の時︑私はこの歌をどう教えられたの
か︒暗唱させられた記憶はあるのだが︑どんな説明を受けたの
か︒勉強嫌いの高校生だったからであろうが︑それについては
まったく覚えていない︒具体的な事情のわからない﹁春愁﹂の歌を︑その時︑高校の先生はどう教えたのだろうか︒否︑古い記憶をたどることよりも︑この歌を高校生に教えなければなら
ないとしたら︑いったいどう教えるのか︑ということの方が重要であろう︒しかし︑それはなかなか難しい問題である︒
3
せっかくのうららかな春の日なのに︑家持はなぜ︑欝々とし
ていたのか︒研究者たちは︑その点をどのように見ているのだ
ろうか︒やや古いものだが︑その代表的な見解を見てみよう︒
天平勝宝三年越中守をひきあげて︑奈良の都に戻ってきた
正四位上の兄麻呂がその跡を継いで参議となったが︑彼は家持
の父旅人の従兄弟であったと考えられる︒血筋的には︑やはり遠い存在である︒家持が太政官の一員となったのは宝亀十一年
︵七八○︶のことで︑遥か後のことであった︒天平勝宝元年︵七四九︶︑諸兄の息子の奈良麻呂が従四位上
で参議となっている︒父の力であろう︒しかし家持は︑親しい人たちと比べ︑昇進の遅れが顕著となっていた︵橋本達雄﹁悽惆の意︱︱その根底に潜在したもの︱︱﹂﹃大伴家持作品論攷﹄笠間書院・一九八五︶︒家持と奈良麻呂は青年時代から歌を通
じて交流があった︵巻八・一五八一〜一五九一︶が︑出世争いで
は︑年下の奈良麻呂に完全に水をあけられていたのだ︒家持が欝々とした気分になるのも仕方がないことのように思われる︒
とは言え︑時代背景を確認すれば個人の心情が理解できる︑
というものではない︒かつてはそうした形の研究も盛んに行わ
れていたが︑現在では歴史的状況と歌の読みとを短絡する形の理解は過去のものとなっている︒したがって︑歴史的状況に関
する確認はこの程度にしておこう︒
4
当面の歌を教材とする場合︑いかに扱うべきか︒それを考え
る前に︑もう一つ事実確認しておきたいことがある︒研究者た
ちの間ではよく知られていることだが︑この歌は大正期以後に
︿秀歌﹀の誉れが高くなったものだという点である︒
たとえば︑藤原俊成の﹃古来風躰抄﹄は︑﹃万葉集﹄の中から
︿秀歌﹀としてこの歌を選んでいない︒また賀茂真淵の﹃萬葉新 大々的に挙行された︒聖武太上天皇の悲願と言ってもよい大仏
の開眼供養である︒﹃続日本紀﹄︵天平勝宝四年四月条︶に︑﹁仏法東に帰りてより︑齋会の儀︑嘗て此の如く盛なるは有らず﹂
と特に記されたほどの盛大な催しであった︒ところが︑それに参列した孝謙女帝はその夕方︑大納言藤原仲麻呂の田村第︵平城京の田村の里にあった邸宅︶に﹁還御﹂したとも記されてい
る︒正一位左大臣という首班の橘諸兄を差し置いて︑孝謙女帝
を後ろ盾に︑従二位大納言の仲麻呂が辣腕を振るう姿が顕著に
なって来ていたが︑それを象徴するかのような出来事であっ
た︒
それだけではない︒家持の父旅人が天平三年︵七三一︶︑従二位大納言で薨じた後︑大伴氏の代表として太政官の一員の参議となったのは道足であった︒家持と道足の血縁関係について
は不明だが︑伝統ある大伴氏の宗家の嫡男として生まれた家持
が︑この時一族の主流から外れたことは間違いあるまい︒その道足は天平十三年︵七四一︶に没しているが︑その跡を継いだ
のは牛養︒壬申の乱の功臣と称えられた吹負︵﹃日本書紀﹄天武十二年八月条︶の子で︑家持から見れば祖父の従兄弟であった︒同じく大伴氏とは言え︑一族の主流はこの時も︑家持から遠い
ところにあった︵阿蘇瑞枝﹁大伴坂上郎女﹂古代文学会編﹃シ
リーズ古代の文学1 万葉の歌人たち﹄武蔵野書院・一九七四︶︒天平二十一年︵七四九︶に牛養が没した時︑家持は遠い越中
の国庁︵富山県高岡市伏木古国府の勝興寺境内に比定される︶
に勤務していた︒まだ従五位下の地方官だったこともあって︑
とだったが︑当該歌はそうした評価の蓄積によって高校の古典
の教材とされている︒換言すれば︑生徒たちは必ずしも﹃万葉集﹄そのものを学んでいるわけではない︒近代の歌人や学者の眼鏡に適った家持の歌を学んでいるのだ︒
とは言え︑それは一人この歌に限られたことではない︒教科書の﹃万葉集﹄の単元はどれも︑後世の歌人や学者の眼鏡に適っ
たものの集合体であって︑歌ごとに推奨した人物が異なってい
る︒時代も区々である︒すなわち︑異なる価値観の寄せ集めで
あり︑それは︿秀歌選のパッチワーク﹀にほかならない︵梶川信行﹁古すぎる教科書の万葉観﹂﹃おかしいぞ!国語教科書﹄笠間書院・二○一六︶︒
かと言って︑それぞれの歌がどの時代の︑どのような︿秀歌﹀観に基づいて教材とされたのかと詮索していたら︑通常の高校
の古典の授業としては深入りし過ぎであろう︒高校生にはやは
り︑歌そのものをしっかり読むことを学習の中心に据えてほし
いと思う︒とすれば︑やはり通説に基づいて教えることが無難
だということになってしまう︒
ところが︑そうした近代的な︿秀歌﹀観を前提として当該歌
を読むのは誤りだ︑とする説がある︒結句には﹁一人し思へば﹂
とうたわれているが︑﹃万葉集﹄の中の﹁一人﹂という語は︑恋人と一緒にいない時と︑官人でありながら︑官人集団から離れ
ている時に用いられる︒したがって︑この﹁一人﹂は﹁じつは諸兄といっしょにいないことだった﹂︵中西進﹃大伴家持
6も
ののふの残照﹄角川書店・一九九五︶とする説である︒すでに述べたように︑諸兄とは時の左大臣だが︑家持も頼みとしてい 採百首解﹄も︑百首の中にこの歌はない︒当該歌の中に︑﹁素朴﹂
﹁率直﹂﹁純粋﹂といった古いステレオタイプの万葉観とは別の︑近代的な感性と通底する孤独感を見出すのが一般的である︒中
には﹁近代の詩人萩原朔太郎の憂愁にも通い合うような詩境を開拓したもの﹂︵中西進﹁﹁絶唱三首﹂の誤り﹂﹃万葉集の時代と風土﹄角川書店・一九八○︶とする発言すら見られる︒それが伝統的な和歌の世界の価値観と一致しなかった理由であろう
か︒
そうした中で︑︿秀歌﹀としてのこの歌を﹁発見﹂したのは︑歌人であり︑国文学者でもあった窪田空穂だったとされる︵橋本達雄﹁秀歌三首の発見︱︱窪田空穂顕彰︱︱﹂﹃大伴家持作品論攷﹄︶︒大正二年︵一九一三︶一月発行の文芸雑誌﹃文章世界﹄
︵博文館刊︶に掲載された﹁大伴家持論﹂であると言う︒窪田通治という本名で公表された評論だが︑﹁家持の歌は情熱である︒彼の生命は深く無いが︑不純な分子を含んで居ない﹂とする︒
そして︑その﹁代表作﹂として一一首を選び︑﹁うらうらに﹂の歌もその一つとしている︒
その後︑大正の末頃になると︑東京帝國大學助教授であった久松潜一の﹃萬葉集の新研究﹄︵至文堂・一九二五︶や︑アララ
ギ派を代表する歌人であった島木赤彦の﹃萬葉集の鑑賞及び其
の批評﹄︵岩波書店・一九二五︶などでも︑︿秀歌﹀として評価
されている︒そして︑現在も版を重ねている斎藤茂吉の﹃万葉秀歌 下巻﹄︵岩波新書・一九三八︶などに取られたこともあっ
て︑その評価は不動のものとなって行った︒
このように︑当面の歌が︿秀歌﹀とされたのはこの百年のこ
した形の教材は︑上級学年で学ぶ選択科目で︑といった形も︑確かに一理あろう︒
それよりも不思議でならないのは︑左注を含めない教科書に
はいずれも︑﹁二十五日に作れる歌︵一首︶﹂という題詞がある
ことだ︒
たとえば東京書籍︵国総
302・ 304︶など︑七社が教材としてい るが︑天皇の蒲生野に遊 みかり猟し給ひし時に︑額田王の作りし歌
︵巻一・二○︶
という題詞ならば︑なるほどそういう時に作られた歌なのか︑
ということで︑確かに歌の理解の役に立つ︒しかし︑﹁二十五日﹂
に作った歌だと言われたところで︑何のヒントにもならない︒
それには︑各教科書とも横並びの形で︑天平勝宝五年︵七五三︶二月のことだとする脚注がある︒しかし︑作歌時が正確に示さ
れたところで︑どのような心情をうたっているかを理解するこ
との︑役に立たない点では同じである︒
また︑各教科書は﹃古今和歌集﹄以下の勅撰和歌集の形式で︑
大伴家持 うらうらに照れる春日にひばり上がり情悲しも一人し思へば
というように︑歌の右下に作者名を入れている︒その点も横並
びである︒つまり︑必ずしも﹃万葉集﹄の本文の形を尊重して
いないということだが︑歌によって題詞をつけたり︑つけな
かったり︑統一性のない教科書も見られる︒
しかし︑﹃万葉集﹄の本文がどのようなものだったかという
ことよりも︑教材としてどのように提示するかということを優 た反仲麻呂勢力の総帥と言ってよい人物である︒
すなわち︑三句目までは﹁天皇の政治がよく行なわれている状態であり︑これは家持が理想とする︑橘諸兄を中心とした天皇親政の風景であった﹂︵中西進﹃大伴家持
当然︑万葉歌は古代の歌の表現の論理で読まなければならない 照﹄︶と見るのだ︒一見︑近代的なものにも見える一首だが︑ 6もののふの残
という主張である︒
これに従えば︑︿秀歌﹀鑑賞的な態度の中で形成された通説
を基にした授業は︑必ずしも適切ではないということになろ
う︒
5
当該歌を教材とする高等学校﹁国語総合﹂の教科書には︑二種類ある︒それは左注を含めて教材としている教科書と︑左注
なしの教科書である︒具体的に言えば︑東京書籍︵国総
302・ 304︶は左注も載せているが︑教育出版︵国総
309・ 310︶・明治書院
︵国総
318・ 320︶・筑摩書房︵国総
322・ 323︶・第一学習社︵国総
325・ 326︶・桐原書店︵国総
330・ 331︶・大修館書店︵古B
310・ 312︶とい
う各社の教科書は左注を教材としていない︒すなわち︑現在の教科書では︑左注を含めない方が圧倒的多数派である︒
それでは︑左注がある場合とない場合とでは︑学習内容にど
のような違いが出て来るのだろうか︒もちろん︑学校差を無視
するわけには行かないが︑通常一年生で学ぶ﹁国語総合﹂の教材としては︑この漢文体の左注はやや難易度が高い︑というこ
とか︒まずは左注のない形で古代和歌だけを学び︑漢文と融合
るいは百人一首カルタの影響か︑学生たちは何も考えずに︑短歌を上の句と下の句とに分けて読んでしまうことが多い︒どこ
が句切れなのか︑しっかり意識しつつ音読することを習慣づけ
たいが︑教科書には頁数の制約がある︒一〇首余りの歌をすべ
てその形で提示することがスペース的に難しいのならば︑せめ
て︑ うらうらに 照れる春日に ひばり上がり/情悲しも/一人し思へば というように︑句切れの存在を視覚化する工夫︵梶川信行﹃万葉集の読み方 天平の宴席歌﹄翰林書房・二○一三︶があって
もいいように思われる︒現行の高等学校学習指導要領でも音読
を推奨しているが︑句切れなどを意識して音読させることに
よって︑その意味が自然とわかって来る生徒も多いのではない
か︒少なくとも︑品詞分解するよりも︑句切れによって歌を分解した方が建設的であろう︒
6
古典に親しむことが目的ならば︑品詞分解はやめるべきだ
が︑音読を通した︿秀歌﹀鑑賞が目的ならば︑必ずしも題詞・左注は必要あるまい︒いつ作られた歌かという細かい事実は抜
きにして︑脚注などで︑奈良時代の大伴家持という人物の歌だ
ということだけを伝えておけばいいのではないかと思われる︒
﹃万葉集﹄の歌は﹃古今集﹄や﹃新古今集﹄の歌々よりも︑相対的にわかりやすい︒当該歌の場合も︑意味を取るだけならば︑生徒たちもそんなに苦労をしないのではないか︒したがって︑ 先するならば︑﹁二十五日﹂という題詞を削ったところで︑特
に問題にならないのではないか︒歌の理解に役立つ左注を削除
してまで︑意味のわからない題詞をわざわざ残した意図は︑
いったいどこにあるのか︒当該歌についても︑教材としての提示の仕方を改めて考えてみる必要があろう︒
すべて漢字で書かれている﹃万葉集﹄を漢字仮名混じりの形
で提示するのは︑教育的配慮として当然であろう︒しかし︑そ
の本文に極力忠実な形で︑しかも原文をも活かしつつ教材化す
るならば︑以下のようにするしかない︒その点では︑東京書籍
︵国総
302・ 304︶があるべき姿にもっとも近いと考えられる︒
二十五日に作れる歌一首 うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 一人し思へば 春日は遅々として︑鶬鶊正に啼く︒悽惆の意は歌に非ずは撥ひ難し︒よりてこの歌を作り︑もちて締緒
を展ぶ︒現在刊行されている﹁国語総合﹂の教科書は︑小学館の新編日本古典文学全集の﹃萬葉集﹄に準拠したと明記しているもの
が多い︒しかし︑新編は右のように︑句と句の間にスペースを入れて歌を提示しているが︑現行の教科書にスペースを入れた
ものはない︒せっかくわかりやすいテキストを使用しているの
に︑なぜ︑わざわざわかりにくい形に改変して教材化している
のか︒意味不明だと言うしかない︒本当は︑本稿の冒頭にも掲げたように︑句切れを意識して改行した形で提示したい︒七五調が多い童謡や唱歌の影響か︑あ
目では知識重視型の教科書にするということも考えられよう
︵梶川信行﹁こう教えたい﹃万葉集﹄﹂﹃おかしいぞ!国語教科書﹄︶︒音読重視型の教科書ならば︑まずは生徒たちの自由な鑑賞に任せたい︒もちろん︑作者について︑
大伴家持 一般に﹃万葉集﹄の編者とされる︒延暦四年
︵七八五︶没︒六十八歳か︒この歌は天平勝宝五年︵七五三︶二月作︒
といった程度の︑ごく簡単な脚注は必要であろう︒古典の授業
である以上︑奈良時代の歌だということは︑最低限知っておく
べきことだからである︒
その際︑生徒たちには︑自分自身の問題と重ね合わせて考え
させてもよい︒普通ならば︑春の訪れは歓迎すべきものであろ
うが︑高校生ともなれば悩みも多く︑気候はいいのに心が晴れ
ないということもあろう︒この﹁春愁﹂の歌を通して︑家持は
いったいどんな悩みを抱えていたのか︑と考えてみる︒
もっとも︑この時の家持は権謀術数の渦巻く政治の世界に生
きていた︒しかも︑奈良時代の政争では︑敗者が命を取られる
こともしばしばであった︒したがって︑現代の高校生が共感で
きるような心理状態ではなかったことは間違いない︒しかし︑
その点はひとまず度外視して︑三句目までの景と四・五句目の情との距離感を考えつつ︑一首の表現を注意深く読み解くこと
を促したい︒古典が自己の心を見つめる鏡となることに気づい
てほしいからである︒一方︑知識重視型の学習は︑そうした個人的な心の問題とは 繰り返し音読し︑暗唱することを通して︑生徒たちがそれぞれ
の歌をどう感じ取ったのか︒文章に書いたり︑話し合いをした
りすることによって︑理解を深めて行くこともできよう︒
その場合は︑教科書は行間を少し広く取り︑味読できるよう
な紙面構成にした方がよいだろう︒東京書籍︵国総
歌を二首に限定し︑大岡信の﹃折々のうた﹄︵岩波新書・一九八 301︶は万葉
○︶の解説を添える形だが︑このように歌数を絞り︑適切な解説文とともに教材化することも一つの方法であろうと思われ
る︒一方︑ある程度の文学史的な知識も与えようとするならば︑題詞と左注を含め︑句切れの存在をも視覚化する形で本文を提示することが望ましい︒充実した脚注も必要であろう︒その場合は︑調べ学習を促すことも一つの方法となる︒
しかし︑通常の高校の図書室の書架にある文献は限られてい
る︒古い文献と新しい文献が区別なく並んでいる書架も多いの
ではないか︒インターネットを通じた情報も︑不確かなものが多い︒その中から信頼性の高い新しい情報を生徒たちに集めさ
せるのは︑困難なのではないかと思われる︒調べ学習について
は︑さまざまな参考図書が市販されているが︑情報の集め方や注意事項などに関する教師の指導が絶対条件となろう︒現在も︑レベルの違いなどに基づく複数の教科書を発行して
いる教科書会社はあるが︑音読重視型と知識重視型という区別
があってもいいのではないか︒高等学校は多様なので︑それぞ
れの学校の実情に応じて︑選択できるからである︒あるいは︑必修の﹁国語総合﹂では音読を重視し︑上級学年で学ぶ選択科
読重視型と知識重視型に分けて学習できるわけではない︒しか
し︑そこから何を学ばせるかということを考え︑四千五百余首
という膨大な﹃万葉集﹄の中から適切な歌を選び︑生徒たちに教材として提供しなければならない︒その際︑学習指導要領の趣旨にも配慮しつつ︑どのような歌を選んで︑それをどういう形で提示するのか︑ということを考えなければならないのだ︒
ところが︑現行の教科書の中には︑従来︿秀歌﹀とされて来
た歌々が︑ただ定番教材として並べられているだけ︑というよ
うにしか見えないものもある︒確かに︑四期区分説という戦前
の学説︵澤瀉久孝・森本治吉編﹃作者類別年代順 萬葉集﹄藝林社・一九三二︶に基づいて︑歌風の変遷を学べるようにはなっ
ているが︑︿秀歌選のパッチワーク﹀では七︑八世紀の文学史の実態とは言い難い︒もっと明確な学習目標を立てて︑教材とす
る歌を選び直す必要があろう︵梶川信行﹁こう教えたい﹃万葉集﹄﹂﹃おかしいぞ!国語教科書﹄︶︒
とは言え︑﹃万葉集﹄はセンター試験に出題されたことがな
いという理由で︑授業では取り上げない高校も多いと聞く︒し
かし︑古典の学習が受験対策に偏っている現状は︑高校教育と
して歪んでいると言うしかない︒
﹃万葉集﹄は現在まで多くの人に読み継がれて来た︒とりわ
け︑貫之・紫式部・定家・仙覚・真淵・信綱といった著名な歌人や学者たちにも熟読され︑大きな影響を与えている︵小川靖彦﹃万葉集と日本人﹄角川書店・二○一四︶︒﹃万葉集﹄の享受史は︑日本の文学史の柱の一つであると言っても過言ではな
い︒ 別なところで行なった方がよい︒その時は︑むしろ左注が重要
となる︒家持という人は︑歌を作ることによって鬱屈した心を解放することのできる人なのだ︑ということが明確に示されて
いるからである︒奈良時代の文人的な貴族にとって︑歌を作る
ということがどのようなことだったのか︒それを理解するきっ
かけとなろう︒また︑奈良時代の文人貴族の中に︑自己の心情
を漢籍︵外国の文献︶の知識を前提として表現できる人がいた
ということは︑生徒たちにとって新鮮な驚きではないか︒家持
も歌を作ることのみならず︑漢文︵外国語︶でも自己の心と対話のできる人だったのだ︒
もちろん︑すべての万葉歌がこうした形で生まれて来たわけ
ではない︒しかし︑短歌という形式が今日まで生き永らえて来
た秘密の一端は︑五音・七音という形に整序された言葉を紡い
で行くことを通して︑自己との対話ができる︑という点にあろ
う︒別の言い方をすれば︑定型があるからこそ︑心の中で浮か
んでは消えるたくさんの言葉の中から︑適切な表現を凝縮され
た形でつかまえることができる︑ということである︒それに
よって自身の心を相対化することが可能なのだ︒
ともあれ︑当該歌は単に︿秀歌﹀とされた歌を覚えるためだ
けの教材ではない︒漢籍の知識の浸透を前提に︑自己の心と向
き合う五音・七音を基本とした歌が作られたという︑奈良時代
の文化の一端を知るための教材とすることもできるのだ︒
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﹃万葉集﹄の歌々は多様である︒必ずしも︑すべての歌を音
ようだが︑本当は︑何となく鬱々として春を過ごしている家持
と︑心を通わせることのできる若者も多いのではないか︒私は
そう信じたいと思う︒
︵かじかわ のぶゆき︑本学教授︶ その一方で︑五音・七音という音数律も︑以来千数百年にわ
たって日本人の心を捉え続けている︒まさに伝統文化の粋であ
る︒現行の高等学校学習指導要領も﹁我が国の文化と伝統に対
する関心や理解を深め︑それらを尊重する態度を育てる﹂︵﹁国語総合﹂
十八年に施行された教育基本法との関連だとする指摘もある 3内容の取扱い︶ことを求めている︒それは︑平成
︵高橋大助﹁古典教育の現在性﹂﹃國學院雑誌﹄一一六巻六号・二○一五︶が︑法律に規制されるまでもなく︑伝統の踏襲は大切なことであろう︒家持も︑そうした形式があったからこそ︑言葉の世界に自己
を解き放つことができたのだ︒﹁政界における閉塞感﹂があっ
たにもかかわらず︑﹁悽惆の意は歌に非ずは撥ひ難し﹂と言い切れたのは︑幸いなことだったと思われる︒近年︑俳句を作る外国人が増えていると言う︒英語では
﹁HAIKU﹂︑中国語では﹁漢俳﹂と呼ぶのだそうだ︒試みに︑イ
ンターネットで﹁俳句﹂﹁海外﹂というキーワードで検索してみ
ると︑さまざまな言語の俳句が登場する︒音数律の心地良さが︑海外の人たちをも惹きつけているのだろうか︒
もちろん︑﹃万葉集﹄もさまざまな言語に訳されているが︑五音・七音のリズムと言えば︑短歌や俳句のみならず︑標語や
キャッチ・コピーなど︑現代の日本でもさまざまな形で生きて
いる︒そのリズムを無意識のうちに受け継いで来た日本の若い人たちにとっても︑伝統的な音数律によって紡ぎ出された世界
には︑心に響くものがあるに違いない︒残念ながら︑現代の若者たちにとって﹃万葉集﹄は縁遠いものになってしまっている