キーワード 「復活」、芸術座、日活向島撮影所、新劇研究所、
本文校異
要 旨
林芙美子﹁放浪記﹂は︑カチューシャ︵トルストイ原作﹁復活﹂︶のイメージの周辺に︑自身の体験を構成したものである︒松井須磨子を引き合いに出しながら︑芸術座の俳優であった恋人とのいきさつを語ることで︑﹁私﹂の淪落は︑カチューシャ
になぞらえられ︑物語化されている︒芸術座の﹁復活﹂巡業や︑映画の﹁カチューシャ﹂を見たとされる年月は︑事実とは異な
る部分があり︑意図的な構成を証するものである︒また︑日活向島撮影所の﹁カチューシャ﹂台本を調査し︑映画への言及に
よって︑純情な女性の転落の物語が︑より強固にイメージづけ
られていることを述べた︒さらに︑本文校異によって︑初期の本文の方が︑その傾向が強いことを指摘した︒ 1.女優と芙美子
林芙美子﹁放浪記﹂︵﹃女人芸術﹄一九二八年一〇月〜一九三〇年一〇月︒新鋭芸術叢書﹃放浪記﹄改造社︑一九三〇年七月︒﹃続放浪記﹄改造社︑一九三〇年一一月︶は︑自身の体験を気が向くままに書き綴ったかにみえるが︑特定のイメージ
が連関するように︑意図的に構成されたものである︒その一つ
として︑カチューシャ︵トルストイ原作﹁復活﹂︶のイメージが
どのように使われているかをみてみたい︒テキストは便宜上︑流布している版として︑新潮文庫︵一九七九年︑二〇〇二年改版︶を用い︑引用では︑その頁数を示す︒
まず印象的なのは︑冒頭で﹁直方の炭坑町に住んでいた私の十二の時﹂︵九頁︶︑カチューシャの唄や髪形が流行し︑﹁私﹂も︑
カチューシャの映画を一人で見に行き︑カチューシャごっこを
するなど︑熱中したことが描かれた部分である︒ここでは︑島村抱月と相馬御風による歌詞も引用されている︒また成長後の日々でも︑﹁私は放浪のカチュウシャです﹂︵一二四頁︶と自ら
小 平 麻 衣 子
︿研究ノート﹀林芙美子 ﹁ 放浪記 ﹂ のカチューシャ
たことは確かである︒楢崎勤﹁愛情の触手 林芙美子さんへの手紙﹂︵﹃若草﹄一九三四年一月︶には︑十年以上前に﹁新劇研究会﹂で初めて出会った︑とある︒﹁新劇研究会﹂は︑楢崎も所属したことの
ある若月紫蘭の新劇研究所のことであろ
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う︒一九二一年一〇月︑若月が小石川駕籠町の自宅の二階を舞台に直し︑劇作家と俳優の養成を目的として設立したものである︒菅原寛﹁劇団交友記︵その十︶﹂︵﹃高志人﹄一九六五年三月︶には︑﹁この新劇研究所の研究生の中には︑まだ当時無名であった林芙美子も出入していたが︑二三回ほど顔を出したきり遂に姿を見せなかっ
た﹂とあり︑﹁放浪記﹂第三部にも︑ここでの朗読の様子が記述
にある︒また︑芙美子と近いダダイズムやアナキストの詩人たちの多
くが︑演劇・パフォーマンスを試みていることもいうまでもな
い︒﹁放浪記﹂に名前が挙がる五十里幸太郎や上野山清貢など
も︑何らかの形で演劇にかかわってい
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る︒楢崎は前掲文で︑数年後の﹁芝の協調会館で開かれたアナキスト達の講演会﹂での芙美子の詩の朗読の様子について伝えている︒﹁あなたは自作
の詩を朗読してゆくうちに︑声がふるへ︑やがて泣声にさへな
つていつた﹂︑﹁そして︑とうとう︑あなたは︑せきあげて来る感情に心がもつれて壇上に泣き伏してしまつた﹂︑﹁あなたの泣
いてふるへてゐる小さい肩がいぢらしかつた⁝﹂とある︒楢崎は︑﹃現代日本文学大系
文集﹄︵筑摩書房︑一九六九年︶月報では︑同じ内容を︑新潮社 69林芙美子・宇野千代・幸田
に入社してまもなく︑﹃文章倶楽部﹄の埋め草を書くために取 をなぞらえている︒カチューシャは︑言うまでもなく︑芸術座
の松井須磨子の当たり役であり︵一九一四年三月二六日初演︶︑折から芸術座が経済的基盤確立のために行った全国的な巡業公演と︑唄のレコード化︑さらには日活向島撮影所で女形の立花貞二郎主演にて製作された映画でも︑同じ劇中歌が使われ︑全国的な流行となったものである︒
﹁放浪記﹂では︑﹁青い表紙の人形の家︒ぱらぱらと頁をめく
ると︑松井須磨子の厚化粧の舞台姿の写真が出て来る﹂︵三六二頁︶など︑必ずしも﹁復活﹂と直接関係づけられないが︑須磨子についての言及が複数見られ︑彼女のカチューシャが連想さ
れるのは言わずもがなである︒芙美子が同棲していた田辺若男
は︑名前こそ出されないものの︑﹁このひとの当り芸は︑かつ
て芸術座の須磨子のやったと云う﹁剃刀﹂と云う芝居だった﹂
︵五八頁︶と述べられる通り︑芸術座で須磨子とも共演した俳優であった︒カチューシャの唄を︑芸術座公演前の講演会で初
めて歌ったのは︑彼であ
1
る︒芙美子が田辺と出会ったのも︑女優志望の彼女を︑小柳京二が田辺に引き合わせたのだとい
2
う︒
﹁放浪記﹂でも︑ベニという女性が地方行きの女優募集に関心をもったことにかかわり︑関係者の男性は﹁私﹂に対して︑﹁貴女も︑芝居をなすったそうですが︑芝居の方を少し手伝って戴
けませんか﹂︵二四〇頁︶と言っており︑第三部には︑そのベニ
の体験に類似する︑地方回りの女優を募集する﹁双葉劇団﹂な
る劇団の男の誘いをはぐらかしたエピソードがある︒自身の体験をベニのものとして脚色したのかとも考えられ︑﹁放浪記﹂
は事実の告白とは言い難いが︑芙美子が女優に関心をもってい
2.芸術座と日活向島撮影所のカチューシャ
ただし︑これは︑芙美子によって意図的に因縁づけられたも
のであると推測される︒というのは︑これまで明らかになって
いる他の事例同様︑このエピソードも︑正確な年月を特定でき
ないからである︒近年︑永峯重敏の労作によって︑芸術座の地方巡業の足跡が明らかになった︒同書は︑直方での一九一六年三月一六日から一七日の﹁復活﹂﹁剃刀﹂の公演を芙美子が見た
のだと断定してい
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る︒なるほど︑この前後の年で︑芸術座が九州地方を巡業したのは︑一九一五年一月二八日から三月三日︑
そして︑一九一六年三月三日から一九日である︒﹁復活﹂﹁剃刀﹂
の上演は︑前者では︑福岡︑熊本︑長崎︑下関︑佐世保︑鹿児島︑久留米︑佐賀で︑この時は直方では公演していない︒後者
では︑八幡︑門司︑大牟田︑直方︑小倉である︒芙美子は一九一六年春に尾道に落ち着いたとされるから︑見た可能性が
ないわけではない︒
しかし︑芙美子が直方にいたのは︑冒頭に記した通り︑一二歳の時と記されている︒現在の芙美子の年譜では︑芙美子の生年は︑一九〇三年一二月三一日だが︑生前︑彼女は一九〇四年生まれと語ってい
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た︒前述の公演時に一二歳になるのは︑本当
の年齢で︑しかも満年齢を使った時だけであり︑やや不自然で
ある︒﹁九州﹂で見たとしか書かれていないので︑転々とする生活の中で︑直方以外のどこで見ていても差し支えないが︑や
や不可解なのは︑田辺若男も︑平林たい子も︑芙美子が一二歳
の時に︑芸術座の田辺の﹁剃刀﹂︵と﹁復活﹂︶を見ているとし 材した詩の朗読会として書いてい
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る︒楢崎の新潮社入社は一九二五年であり︑太田勇平が参加した講演会を︑﹁大正末期
の初夏﹂と書いているのと同一と思われる︒太田は︑登壇者を新居格︑辻潤︑松本淳三︑萩原恭次郎︑林芙美子︑野村吉哉と
し︑やはり泣き伏す芙美子を﹁なかなか演出をやるものだな﹂
と記述してい
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る︒秋田雨雀日記の五月三一日に記される講演会
と同じであろうか︑いずれにせよ︑パフォーマンスは身近な表現方法であったわけである︒
だから︑﹁放浪記﹂で︑﹁何の雑誌であったか︑最近松井須磨子の写真を見ました︒実に美しかった︒精練の美がにじみ出て
いた︒このひとの老いた顔を︑この写真から想像する事は出来
ない﹂︑﹁︱︱私は︑松井須磨子のような美貌も持っていなけれ
ば︑まして天才でもないのだ︒だけど︑私は︑何かしら老いて行く事をひどく恐れはじめています︒肉体のおとろえもさる事
ながら︑作品の上のおとろえはこれは敗惨と云うにはあまりに辛すぎる気持ちでしょう﹂︵三四八頁︶と︑文脈からすればやや唐突な述懐がつけたされるのも︑以上のような芙美子の女優へ
の思い入れによるものであり︑これらのイメージ連関は︑田辺
に女優の愛人がいたことで捨てられた﹁私﹂の破れかぶれを︑
ネフリュードフに弄ばれたカチューシャに仕立てることになる
だろう︒田辺若男については︑﹁私は少女の頃︑九州の芝居小屋で︑このひとの﹁剃刀﹂と云う芝居を見た事がある︒須磨子
のカチュウシャもよかった﹂︵五八頁︶ともあ
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り︑少女のころか
らの宿命のように描かれているのである︒
ボックなどを演じた森三之助の旧蔵資料の可能性があるとのこ
とであ
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る︒カチューシャの唄を歌う箇所が合計七回も指定され
るなど︑映画ならではの特色が顕著である︒﹁後のカチュー
シャ﹂﹁カチューシャ続々篇﹂も制作されているが︑正編だけで︑
アンリ・バタイユ脚色︑島村抱月再脚色の芸術座の台本﹃復活﹄
︵新潮社︑一九一四年︶全体のストーリーに対応している︒し
かしながら︑両者を比較すると︑かなり大きな違いがある︒抱月の台本では︑カチューシャとネフリュードフの復活祭の一夜の過ちと︑裁判での再会以後が場面としてあるが︑その間
の出来事は︑カチューシャの回想として︑監獄で囚人たちに語
られるのみである︒対して︑映画では︑それぞれの出来事が︑時間順に︑実際に演じられる︒雪の停車場のシーンは︑ネフ
リュードフが︑戦争後に︑カチューシャのいる彼の伯母の家に立ち寄ると消息を寄こしながら︑実現せずに去ってしまうエピ
ソードと推測される︒抱月の脚本では︑過去を回想する数行の
セリフだが︑映画台本では第一二景に︑﹁停車場︑発車の汽笛
なる︑所へカチューシャ狂気の如く駈来たり︑/カチューシャ
﹁若様︑若様/とネフリュードフを呼ぶマトリョーナ来たり遮
る︑汽車の速力次第に増さる︒﹂とある︒他にも︑カチューシャがネフリュードフとの子どもを出産
し︑養育院に預けられた子どもが病で亡くなってしまうエピ
ソードなどが典型的で︑映画台本では︑子どものために必死で金を工面し︑危篤を聞くと駈けつけ︑﹁あなた︑〳〵おねがい
です私の命はいりませんから子供の命を助けて下さい子供の
︱
﹂と絶叫する︵一八景︶︒逆に︑ネフリュードフ以後の男性 ていることであ10
る︒冒頭に示した通り︑﹁放浪記﹂で一二歳の夏の出来事として描かれているのは︑映画の﹁復活﹂なのであ
る︒田辺と平林が︑﹁放浪記﹂の記述をもとにしているものか︑本人からそのような話を聞いたのであるかはわからないが︑い
ずれにしろ︑﹁復活﹂の周囲に自身の来歴を因縁づけようとす
る芙美子の意図があると考えた方がよいのではないか︒
そのとき︑一方で考えなければならないのは︑映画のカ
チューシャである︒日活向島撮影所の﹁カチューシャ﹂︵監督細山喜代松︑脚本桝本清︑主演立花貞二郎︶の封切りは︑一九一四年一〇月三一日である︒彼女の一二歳を︑生年を詐称
した数え年とすれば一九一五年︑﹁放浪記﹂の情景描写から︑映画を見たのは夏と考えられる︒﹃九州日日新聞﹄などで確認
すると︑一九一五年夏の北九州の各都市では︑すでに﹁カチュー
シャ﹂の続編である﹁後のカチューシャ﹂もかかっており︑こ
の年立てにも曖昧さは残る︒これらのフィルムは見つかってい
ないため︑早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵の正篇の台本
で確認すると︑﹁放浪記﹂の﹁異人娘が︑頭から毛布をかぶって︑雪の降っている停車場で︑汽車の窓を叩いている﹂絵看板は︑今のところ︑続編ではなく︑正編のことだと考えられるからで
ある︒実は初出時には︑﹁八月である﹂とあったのが後に消去
されており︑つじつまを合わせようとした芙美子の作為という
こともありうる︒
3.︿一直線に堕落した女﹀を演出する
演劇博物館蔵の﹁カチューシャ﹂台本は︑この映画でシェン
が度重なる書きかえをしていることについては︑別稿で書い
た
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が︑少女期のカチューシャへの入れ込み方も︑実は初期本文
の方が強い︒例えば︑現在の新潮文庫﹃放浪記﹄では︑﹁なつか
しい唄である︒この炭坑街にまたたく間に︑このカチュウシャ
の唄は流行してしまった﹂︵一三頁︶とある部分は︑この箇所の初出︵﹃放浪記﹄改造社︑一九三〇年︶では︑﹁なつかしい唄で
ある︒好ましい唄である︒/此炭坑街に︑またゝく間にカチウ
シヤの唄は滲透してしまつた﹂とあり︑主観的な親しみと︑そ
れによる﹁滲透﹂の深さがあり︑一時的・皮相的なニュアンス
のある﹁流行﹂とは異なる︒同様に︑﹁ロシア女の純情な恋愛は
よくわからなかったけれど︑それでも︑私は映画を見て来ると︑非常にロマンチックな少女になってしまった﹂︵一三頁︶という部分は︑初出では︑﹁ロシヤ女の純情な愛恋︑私は活動を見て来ると︑非常にロマンチツクになつてしまつた﹂と︑カチュー
シャへの共感が︑反対といえるほどに異なっている︒一方︑﹁私﹂については︑複数の男性との性的交渉の遍歴が︑初出﹃女人芸術﹄や初刊︵改造社︑一九三〇年︶では︑はっきり
と﹁男に放浪﹂することと書かれているが︑後には︑細かな書
きかえにより︑︿放浪﹀は生活一般のことに変化す
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る︒同様に︑初出や初刊では﹁美しい街の舗道を今日も私は︑
︱
女を買つてくれないか︑女を売らう⁝⁝と野良犬のように彷徨した﹂︑
﹁生きる事が実際退屈になつた︒/こんな処で働いてゐると︑荒さんで荒さんで︑私は万引でもしたくなる︒女馬賊にでもな
りたくなる︒インバイにでもなりたくなる﹂のように︑娼婦と
の近さも書きこまれている
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が︑田辺の浮気を目撃して︑﹁ああ 遍歴が語られることはなく︑娼婦となってからの事件が描かれ
る︒総じて︑映画の方では︑純情なカチューシャの姿が多く描か
れ︑他人にだまされて転落した後のカチューシャとの落差が際立つといえる︒幕切れでも︑カチューシャはネフリュードフを退け︑シモンソンの妻となることを選ぶが︑彼女の﹁貴郎︑私
は貴郎を愛して居ます誰よりも誰よりも愛して居ます愛して居
ればこそ貴郎との結婚をお断り申したのです﹂というセリフに対して︑ネフリュードフは﹁カチューシャ私は始めてお前の愛
が解つた︑私はもうこれ以上の満足はない﹂と答え︑カチュー
シャのシモンソンと共に社会運動に身を投じる側面よりは︑愛
ゆえに身を引くけなげさで収まりがつく︒
さらに芙美子の映画への思い入れを裏書きする事柄として︑映画台本の冒頭にある設定があげられる︒﹁カチューシャの母
は露国によくある浮気な女であつた︒そして彼れは五人の父無
し子を生んだ︒カチューシャは其最後の子であつた︒カチュー
シャの父は欧羅巴を旅から旅へと漂ひ歩く放浪者であつた︒カ
チューシャが生れた時には彼れの父は既に母の側には居なかつ
たのである﹂というもので︑これは︑明かに芙美子の経歴に重
なるところがあるといえる︒﹁放浪記﹂においても︑父が﹁複数﹂
であるこ
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と︑養父が行商で各地を転々としていることなどが描
かれているのはいうまでもない︒
とすれば︑﹁放浪記﹂におけるカチューシャは︑映画のイメー
ジを重ねることによって︑より構成意図が明確になるのだとい
える︒さらにそれは︑初期本文でみる際に明確になる︒﹁放浪記﹂
注 ︵ 一九六三年︒ 1︶戸板康二﹃松井須磨子女優の愛と死﹄河出書房新社︑
︵
2︶田辺若男﹃俳優舞台生活五十年﹄春秋社︑一九六〇年︒
︵
美子︑楢崎勤︑映画監督の豊田四郎がいた﹂︵北見治一﹃鉄笛 3︶﹁ここ︵注・新劇研究所︶の研究生には︑のちの作家の林芙 と春曙 近代演技のはじまり﹄晶文社︑一九七八年︶︒楢崎は︑後にムーラン・ルージュなどで演劇にかかわっている︒
︵
4︶五十里は田辺若男の市民座にかかわり︑その後︑カジノ・
フォーリーに参加している︵中野正昭﹁カジノ・フォーリーと
モダン・栄治のアナキストたち﹂︵﹃文学研究論集﹄二〇〇一年二月︶︒上野山は︑新劇研究会・国民座の第五回公演に出演し
ている︵日高昭二﹁表象としての〝光〟
︱
生田長江の戯曲﹁円光﹂をめぐって﹂﹃人文研究﹄二〇一二年︶︒︵
一九七〇年︶︒ 5︶﹃作家の舞台裏一編集者のみた昭和文壇史﹄︵読売新聞社︑
︵
想と生涯﹄オリオン出版社︑一九六七年︶︒ 6︶太田勇平﹁辻潤断片﹂︵松尾邦之助﹃ニヒリスト辻潤の思
︵
7︶この二作品は︑セットで上演されることが多かった︒
︵
吉川弘文館︑二〇一〇年︒ 8︶永峯重敏﹃流行歌の誕生﹁カチューシャの唄﹂とその時代﹄
︵
和書房︑一九六五年︶︒佐藤公平﹃林芙美子実父への手紙﹄︵K 9︶例えば︑板垣直子﹃林芙美子の生涯
│
うず潮の人生│
﹄︵大TC中央出版︑二〇〇一年︶に詳しい︒
︵
10 ︶田辺前掲書︒平林たい子﹃林芙美子﹄新潮社︑一九六九年︒
︵
時代展﹄二〇一一年︶︒ 内博士記念演劇博物館企画展図録﹃日活向島と新派映画の 11 ︶上田学﹁﹃カチューシャ﹄撮影台本について﹂︵早稲田大学坪 淫売婦にでもなった方がどんなにか気づかれがなくて︑どんな
にいいか知れやしない﹂︵五六頁︶と漏らすように︑それは︑捨
てられた﹁私﹂が辿るはずの転落なのだ︒
そしてこれらは︑東京に出てきたばかりの﹁私﹂が︑まだ肩上げを下していなかったことが何度となく描かれるのと対照さ
れるであろう︒その後︑岡野軍一にあたる男性の子どもを宿し︑墓石に腹をぶつけて堕胎を試みたことは︑年立てを無視して複数回書かれ︑強調されている︒つまり︑清純な若い女性が︑カ
チューシャ同様︑度重なる男性の裏切りによって︑複数の男性
を放浪していく性的な淪落の物語として構成されているのであ
り︑それは初期に近い本文ほど︑色濃いのだといえ
16
る︒
﹁放浪記﹂にも使われている﹁一直線に堕落した女﹂というフ
レーズは︑芙美子が詩のタイトルにしようと思いつめた︑お気
に入りのフレーズでもあっ
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た︒芸術座と映画のカチューシャの輻輳されるイメージは︑自身の遍歴を︑堕落した女の物語とし
て構築するために︑特に配置されたものであったと言えるので
ある︒スキャンダラスな女の堕落の物語に︑人々は無関心では
いられない︒﹁放浪記﹂が貧しさを売り物にする︑あるいは涙
が多過ぎる︑というような中傷は︑何回となくされている︒た
だし︑どのような加工によって︿売り物﹀になりえたのかの分析が︑これまで十分になされたとは言いがたい︒今回明かにで
きたのは︑些細な一例に過ぎない︑具体的な積み重ねが︑今後
も必要だといえるだろう︒
*資料調査にあたり︑早稲田大学坪内博士記念演劇博物館のご協力
に感謝を表したい︒
︵おだいら まいこ︑本学教授︶ ︵
本では﹁今の父は複数である﹂とある︒ 12 ︶﹁今の私の父は養父である﹂︵九頁︶という部分は︑初出単行
︵
13 ︶小平麻衣子﹁生き延びる﹃放浪記﹄︱︱改造社版と新潮社版
の校異を読み直す﹂﹃藝文研究﹄一〇九号︑近刊︒
︵
14 ︶新潮文庫版の﹁私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ﹂
︵七六頁︶︑﹁何も満足に出来ない私である︒ああ全く考えてみ
れば頭が痛くなる話だ﹂︵一五五頁︶は︑それぞれ初出・初刊
ともに﹁男に放浪し職業に放浪する私︑あゝ全く頭が痛くな
る話だ﹂︑﹁私はもう男に放浪することは恐ろしい﹂であった︒
︵
15 ︶新潮文庫版では︑前者が﹁私を買ってくれないか︑私を売
ろう﹂︵五七頁︶となり︑後者の﹁インバイにでもなりたくなる﹂
︵一一九頁︶は無い︒廣畑研二校訂﹃林芙美子 放浪記︵復元版︶﹄︵論創社︑二〇一二年︶にも︑検閲への配慮として︑︿淫売﹀
に関連する事項が消去されていく具体的指摘がある︒ただし︑本書の︿復元﹀に関しては︑異論がある︒
︵
16 ︶すでに引用した﹁︱︱私は︑松井須磨子のような美貌も持っ
ていなければ︑まして天才でもないのだ︒だけど︑私は︑何
かしら老いて行く事をひどく恐れはじめています︒﹂の前後部分は︑﹃林芙美子選集﹄第五巻︵改造社︑一九三七年︶で追加
された﹁追い書き﹂である︒初出・初刊と選集では︑同じ須磨子のイメージを使っても︑性的淪落の物語から︑表現者とし
ての物語に変化していると言えるだろう︒(
17)平林たい子前掲書。