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(1)

③  ②  ①  追

  ③  ②  ① 

大管区長官

帰還と植民 人種判別法廷

③  ②  ① 

母語と国家語

はじめに

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 , '  

}』〖説〗

7 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ,   9 9 9 9 9 9 9 9 ,   9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ,  

② ① 

③  ②  ① 

レジスタンス

自治主義

⑦  ⑥  ⑤  ④ 

コラボラシオン 徴 兵 制

ナ チ 占 領 下 の ア ル ザ ス

改 名

一四

J

ノ ー

14 3・4 635 (香法'95)

(2)

題を考察することは︑

﹁周

辺と

中心

﹂︑

﹁国

家と

地域

いたにすぎないからである︒

パリ中心史

なら

フランスの周辺にある併合地域の研究は︑ ドイツの併合地域となった︒

オー・ランとバ・ランの両県からなる これまでのヴィシー研究においても文字どおり周緑的位置を占めて

このような研究動向はウィシー時代に限らない︒

観的なフランス史の歴史叙述のベクトルがそれだけ怖いということである︒

フランス

f l中命から生まれた﹁唯一不

i l J

分の共和国ー それは︑言葉を換えれば︑

というスローガンの持つイデオロギー性が明らかとなった今︑

大戦期のアルザス研究は︑多様なフランス像の呈示に寮与することであろう︒

さら

に︑

フランスにおけるアルザス間 といった現代的重要性を持つ間題とリンクするはずである︒

本稿

は︑

アルザスは︑第

. .  

ー帝川のバーデン大応目区の.地方となり︑ナチの大竹区長官の文民行政のもとに統合されたのである︒

ナチス・ドイツに併合された戦時ドのアルザスの生活を明らかにすることを第一の日的としている︒

なぜ 本稿の対象である仏独川境沿いのアルザスは︑ 区︑それにドイツとイタリゾ︶の併合地区に: 1

され

た︒

一几

0

四年五月のドイツ軍による西部攻勢によって︑

l

政権がウィシーに誕生した︒六月一ート五日に発効した休戦協定によって︑

フランスは北部の占領地区と南部の自由地

は じ め に

第:こ共和政フランスは瓦解し︑

ペタン元帥ひきいる対独協力

一 五

0

14  :{‑4 636 (香法 '9:J)

(3)

ナチ古領ドのアルザス(渡辺)

一六

四八

年以

来︑

とも称されるように︑仏独両国の係争の地であった︒仏独の十字路であった︒そのよ ばれていた通りは︑普仏戦争後にドイツ限帝の名を取った﹁ヴィルヘルム一世通り﹂と変えられ︑

アルザスはフランス領となっていたが︑

フランス領にもどり︑第二次大戦でふたたびライヒスラント

( R e i c h s l a n

d ドイツ帝国の地︶となり︑戦後フランス領

このように卜九世紀以降︑ ル通り﹂となったのである︒

仏独が

r

父を交えるたびに︑

この地域の人々の国籍が四度も変わった︒三卜年戦争後の 普仏戦争でフランス領からドイツ領となり︑第一次大戦で

﹁共和国通り﹂に改められ︑

一九

0

年に﹁アドルフ・ヒトラー通り﹂となり︑

一九四五年から﹁シャルル・ドゴー 一九一八年からは うなアルザスの歴史は︑メイン・ストリートの名称の変遷に表れている︒

一八

0

年以前に﹁ナポレオン通り﹂と呼 アルザスは﹁兵士の通り道﹂

表れている︒ る地点であった︒アルザスの中心都市︑ トやゲルマンの民が大移動した通路であり︑中世には巡礼や遍歴職人や学生の通り道であった︒ 帯のアルザスは︑

まず

︶ 

i )

 

仏独係争の地

フランス名でアルザス︑

ドイツ名でエルザスと呼ばれるこの地域の文明論的若察から始めよう︒仏独国境地

﹁文明の十字路﹂と称される︒

アルザスの二重性

アルザスは︑歴史的には︑古代ローマ時代の交通の要衝であり︑

まさに文明が交錯す

ストラスブールの町名は︑﹁街道が集まる所﹂に由来することにもその歴史が ケル

14  3・4・637 (香法'95)

(4)

つ名オルガニストとして知られている︒

アルベルト・シュヴァイツァーは︑ 仏独両国が交錯したアルザスの歴史は︑

② サ ル ト ル と シ ュ ヴ ァ イ ツ ァ ー

史的コンテキストに償いたとき︑

その意味が明らかになるであろう︒

アン・フェーヴルとマルク・ブロックも︑ に復帰した︒

そのたびにアルザス人は政治に翻弄された︒国家への忠誠もフランスとドイツとの間で引き裂かれた︒

第一次大戦後︑

赤道アフリカ

フランス政府は︑

エール・ムレールの姿もあった︒ ドイツのために戦わねばならなかった︒

二十五万人のアルザス人が 外部の事情によって

﹁国籍喪失者﹂

さを感じざるをえない︒

の地位におとしめられるアルザス人は︑近代国家のなかでは︑

それだけに︑心理的外傷も深かったのである︒第一次大戦では︑

ール大学に一級の学者を集め︑

︵現在のガボン︶

このなかには︑後に自治派共産主義者となるシャルル・ユベールやジャン

Iピ アルザスの首邑ストラスブールをフランス文化の最前線と位置づけ︑

(5 ) 

ドイツ文化に対するフランス文化の一種のショーウィンドーとした︒歴史家のリュシ

ストラスブ ストラスブール大学の教授として赴任していた︒学際的かつ全体的な歴史

学をめざした彼らの﹃アナール﹂が叫々の声をあげたのが︑﹁文明の十字路﹂のストラスブール大学であったことは象

(6 ) 

徴的である︒また今日︑欧州議会がストラスブールに置かれ︑仏独和解のシンボルになっているのも︑

アルザス社会に文化的二重性を刻みこんだ︒

トルとアルベルト・シュヴァイツァーの二人の物語に示されている︒

それ は︑

このような歴

ジャンーボール・サル

一九五二年度のノーベル平和賞を授賞した医師である︒日本でも︑

フランス領 のランバレネで医療活動に従事したキリスト教的ヒューマニズムにあふれた医師︑

一八七五年生まれのシュヴァイツァーは︑医師になる前は哲学者であり神学

つねに居心地の悪 一

14-3•4--638 (香法'95)

(5)

ナチ占領ドのアルザス (渡辺)

を保存し芙しく話すことに閥いているからである︒ 地域言語は抑圧されていたのである︒なぜなら︑

フランス人はフランス人としてのアイデンティティを︑

フランス語

母語と国家語

一九四二年二月初め︑

法令

を︑

ヴィシー政府は学校で正規の授業時間外に︑地域言語を選択で教えることを表明した︒

ヴィシー派の新間は小さく扱っただけであったが︑

域言語の公認を意味した︒それまでフランスの教育現場では︑国家語であるフランス語化政策が意図的に進められ︑

ペタン政権というドイツ愧儡政権の手で︑授業時間外とはいえ母

一五 三

この

であ

る︒

しかもシュヴァイツァーが︑あのジャンーポール・サルトルと親戚関係にあることは︑

育てられた︒

士なのである︒

サルトル自身はアルベルト・シュヴァイツァーについて︑

(7 ) 

代の生活を描いた自伝的作品のなかで簡単に触れているだけである︒

とも

あれ

︑ シュヴァイツァーというドイツ的なプロテスタント神学の哲学者と︑

表する実存主義哲学の唱道者の取り合わせの妙︑それを可能にしたのがアルザスという地域であった︒アルザスの﹁ニ

と幼年時

叔父に当たる︒いとこ同 この祖父はドイツ語の教師であった︒ ではなかろうか︒

二歳のときに海軍将校の父を失ったサルトルは︑母方の祖父シャルル・シュヴァイツァーのもとで

つまりサルトルの母アンヌーマリー・シュヴァイツァーとアルベルト・シュヴァイツァーは︑

それ以上に知られていないの

その後ヨーロッパでも︑

サルトルという戦後フランスを代

者であった︒ところで︑彼がアルザス出身であり︑第一次大戦中に︑ドイツ国籍ゆえにランバレネで短期間抑留され︑

一九一八年まで捕虜収容所生活を余儀なくされたことは︑あまり知られていない︒

シャルル・シュヴァイツァーはアルベルト・シュヴァイツァーの

﹁彼の経歴は周知の通りである﹂︑

ドイツ系のフランス語新聞は大きく扱った︒それは︑地

14--3•4--639 (香法'95)

(6)

であ

った

この二重性はアルザス人にとって︑ とは異質な状況をもたらした︒

それ

は︑

豊かさの源泉にもなれば︑たえがたい苦悩の源にもなる︒ たんに言語的二咀性にとどまらず︑

心理的︑文化的二重性にまでおよぶもの

ドイツ占領期のアルザスでは︑﹁ドイツ語を話すフランス人﹂という事情が︑

ドイツに占領された他のフランス地域 ドイツの地〗という本が出版され︑

ナショナリズムが強まる時代であった︒卜九世紀末から二十世紀初めにかけて︑

族衛生学や優生学︑遺伝学が流行した背景には︑社会ダーウィン主義の影郷四下で諸学がナショナリズムを色濃くまと

ったことと相関している︒

アルザス人がいかにドイツの血統であるかを証明するのに紙輻を費やしていた︒

たことは言うをまたない︒

一九四一年にも国務大臣オットー・フォン・マイスナーの

エルザスとロートリンゲン︑ これらの諸学が︑じ述の民族性の議論から︑

さらにはナチスの人種理論や民族観に貢献し

この

よう

に︑

十九世紀後半は︑

民 たアルフォンス・ドーデの

﹁最

後の

授業

二月耀物語ト岩波文叩︑所収︶

であ

る︒

とは

何か

という提言が︑ エルネスト・ルナンの

﹁国

アルザスがヴォージュ山脈によってパリ盆地から隔てられ︑

イツ語圏とより深く結びついているという地理的位附と関わるであろう︒

したがって︑仏独間に緊張が高まったときには︑必ず︑

をつうじて行われたフュステル・ド・クーランジュとモムゼンの仏独の歴史家論争や︑

そのことを示してい

5

︒アルザスのフランス性を強調した虚構が︑

普仏戦争直後に内かれ

民族性とか国民性の間題が議論された︒

普仏戦争後に雑誌

る︒

それ

は︑

フランスに背を向け︑J

ライ

ン︸

y p

しよ)てー シュヴァイツァーの名前からも窺うことができるように︑

母語とする︒

される言葉は︑中部ドイツ語のフランク語に含まれる︒

これらの地方は︑言葉の

L

からはドイツ語圏に属するのであ

アルザス語は︑・ロ語学的には高地ドイツ語の方

. .  

月に属するアレマン語の

つで

ある

(8 } 

語の復権がなされたのは皮肉なことである︒

アルザス地方の住民は︑ゲルマン系汀語のアルザス語を

ロレーヌ地方で話 但

.L  

‑﹈ 

14  3・4  640  (香法'95)

(7)

ナチ占領ドのアルザス

だと

つまりヴェガン将軍は︑ ランスの人種的堕落を特徴づける巾実の︱つは︑ 後述するアルザス人のゲルマン化の路線は︑

(渡辺)

ち ︑ フランス文明によって堕落したドイツ人の

﹁救済﹂に来たというのである︒ って幸福になりたまえ﹂︑ 味

深い

ヒトラーがアルザスに食指を動かす理由もそこにある︒

ドイツ軍の占領

ドイツとフランスの軍靴に踏みにじられてきたアルザスに︑

イツは占領当初から﹁諸君︑恐れることはない︒われわれは敵ではなくて解放者としてやってきた︒

という声明を掲げた︒

ここに用意された︒したがって︑

ンスヘの些細な愛着でもアルザス人が表明すれば︑牢獄行きであった︒

一九

0

年六月ド旬に休戦条約が調印されたとき︑ある新間がドイツを讃えフランスを椰楡する記事をのせた︒ロフ

フランス国民がその防衛のためにドイツの将軍を必要とする﹂こと

母がザール出身であり︑父がハプスブルク家の一員であったことと︑ ① 

ドイツのアルザス

あったこと以

t

の意

味︑

すな

わち

バッハ論が注目されなかったのに対して︑

ドイ

ツは

1^ L; L 

]1 4 

フラ

アルベルト・シュヴァイツァーの例にもどれば︑彼が一九

0

五年にパリの二流の出版社からフランス語で出版した 一九〇八年に出されたドイツ語版が版を屯ねたところにも︑対象が音楽で この時期のフランス国民とドイツ国民にとってのアルザスの位憤をぷしていて典

ドイツ軍は一九四

0

年に﹁解放者﹂として現れた︒ド

ドイツ人にもど

アルザス人という﹁フランス化されたドイツ人﹂︑すなわ

ドイツ占領ドのアルザスでは︑

ガムラン将軍が

14  J•4 ‑641  (香法'95)

(8)

ナー

は︑

たのと同じく次の四種類に分けられた︒第一に︑ 名

させ

フラマン家系の

f

孫であることを指摘していた︒両将軍とも︑第二次大戦突入時のフランス軍を指揮した司令官であ

った︒これも︑ゲルマン民族の優秀性とラテン民族の劣等生をぷす︑あのステレオタイプ化された宣伝の一っである︒

休戦協定にはアルザスとロレーヌに閃する規定はなかったが︑

であ

った

ヴィシー政府もアルザスについて口を閉ざしたまま アルザス人はフランスから見捨てられたという感情を抱く︒彼らの間には︑休戦協定には秘密条項があり

するのは一九四二年五月である︒﹁ドイツの勝利を切喜む﹂という有名な演説をラヴァルがしたのは︑翌月の独ソ戦一周

年の日であった︒

アルザス人は人種判別特別法廷で自己の戸籍を証明せねばならなかっだ︒こ のような事態は︑内地のフランスではユダヤ人にのみ課せられたものである︒バーデン大管区長官

( G a u l e i t e r )

かつア

ついでアルザス人をその祖先によって分類し身分証明書を発行した︒

ここ

でも

アルザス人の父母を有する者︒第二に︑

の母を有する者︒またはその逆︒第三に︑中立︵スイス人など︶︒第四に︑

ドイツ人の父とアルザス人

ドイツ人の父母を有する者︒さらにワーグ

アルザス人が市民権を得る四条件を提示した︒第一に︑同一人種への帰属意識を有すること︒第二に︑血族 共同体員であること︒第二に︑同じ感情を共有できること︒第四に︑集団への帰属意志に燃えること︒

もっとも︑後述する徴兵制導入後は︑市民権は召集兵とその家族にも交付された︒その他︑ゲルマン市民権が与え

まず公務員全員と帰還者に

一九一八年にフランスがし ルザス民政長官ロベルト・ワーグナーも︑﹁ゲルマン主義を信奉する﹂

という宣誓書に署

一九一八年と詞じ<

i 九四

0

年に

も︑

② 人 種 判 別 法 廷

自分たちは﹁売り飛ばされた﹂︑

という噂が絶えなかった︒実際に︑

ラヴァル首相がアルザスとロレーヌの放棄を声明

一五

14 ‑3·4~542 (香法'95)

(9)

ナチ占領下のアルザス(渡辺)

﹁不屈で無敵﹂という言葉で︑

一五

ヒトラーとナチ党を自画自賛する演説をしていたし︑翌年の

いが彼の運命を決した︒彼は︑

ワーグナーは︑

スの大管区長官に︑

ヒト

ラー

は︑

権を与えられた︒

大管区長官

ハイデルベル フランス時代からのゲルマン主義擁護者︑警察官︑親衛隊に入隊した者︑

に帰属したままであった︒しかしアルザスはドイツの︱つの州にされてしまった︒

 

¥

1

じ ー

/jtll 

ナチ党に入 この地方ないしドイツでしかるべき教育期間を経てゲルマン市民

一九

0

年六月の休戦条約にはアルザスの併合を正当化する条項はどこにもなく︑主権はヴィシー政府

一九

0

年八月七日にバーデン大管区長官ロベルト・ワーグナーをアルザス民政長官の資格でアルザ

ヨゼフ・ビュルッケルをロレーヌの大管区長官にそれぞれ任命した︒

政策で大管区長官同士を競わせる方針であった︒

一八九五年にアルザスの農家で生をうけたドイツ人である︒第一次大戦勃発時には︑

クの初等師範学校生徒であった︒復員後は共産党の蜂起を鎖圧する部隊に参加したりしていたが︑

一九二三年のミュンヘン一揆に参加してヒトラーとともに収監されていたこともあり︑

総統の信任は厚かった︒彼は総統に熱狂する兵士となる︒

﹁新世界の創造者﹂とか

四月二十日のヒトラー誕生日にも︑彼は総統を﹁全世界に対する英知と真理の調停者﹂ともちあげていた︒

それ

は︑

連合軍のノルマンディー上陸の一月半前のことである︒大管区長官はファナティズムの化身となった︒彼の政治の非

はい

え︑

ナチ指導部は︑ゲルマン化

ヒトラーとの出会

占領軍からドイツの文官にバトンタッチされた︒

アルザスの行政は

党したアルザス人たちである︒再教育可能な者も︑ られたのは︑自治派の指導者︑

一九四三年にミュルーズで開かれた集会でワーグナーは︑

14--3•4--643 (香法'95)

(10)

①  ワーグナーは︑同僚のストラスブール市長ロベルト・エルンストから︑

とんど独断的で融通のきかない思考方法﹂をする人物であると評されている︒ワーグナーは︑

終的勝利に貢献すべきだとつねに考えていたのである︒

して生きることを選択し︑﹁郷士居住権運動

(H ei ma t r e c h t b e w e g u n g

) ﹂を推進した︒彼は︑﹁帝国エルザスーロートリン

ゲン住民連盟

(B un d d e r   E l s a l 3

‑ L o t h r i n g e r   i m  R e i c h

) ﹂

ワイマール・ドイツでアルザスの失地回復連動の主要メンバーの一人となり︑

彼らは︑後述する徴兵制の尊人の議論にも見られるように︑本国のドイツ人以上にこの任務に邁進した︒それだけに︑

帰還と植民

ゲルマン化の諸形態

アルザス人は苛酷な運命を強いられたのである︒

ワーグナーやエルンストといったアルザス出身者によって︑

フランス人の捕虜収容所でド級兵士と

アルザスのゲルマン化と脱フランス化は促進された︒

援助を統括していた︒彼の活動は︑ っ

た︒

彼は

ヒトラーは十年でアルザスをゲルマン化すると言明していたが︑大管区 アルザスの牧師の息子として一八九七年に生まれた︒彼は︑第一次大戦後もドイツ人と

アルザスの自治運動への ドイツ外務省付属機関の﹁ドイツ韮金

( D e u t s c h S e t i f t u n g )

﹂から資金を得ていた︒

休戦を迎え︑戦争捕虜のアルザス人はドイツ系という理由で釈放されたり︑

の総裁を務め︑戦間期のゲルマン的アルザスの中心人物であ

ロベルト・エルンストは︑

アルザスがドイツの最

長官はそれを五年で実現すると豪語した︒

﹁ ほ 情さや直観に頼る手法はここから生まれる︒

一五

14  3・4  644 (香法'95)

(11)

ナチ占領ドのアルザス(渡辺)

えたり︑親への報復や財産の没収という脅しに移った︒ついにアルザス文民政府は︑

一五

一九

四一

1年四月に﹁アルザス難 ﹁祖国ドイツヘようこそ﹂とか

︵ 後

述 ︶

してドイツ軍将校と捕虜との通訳に当たったりした︒ヴィシー政府の大臣になるブノアーメシャンが︑

に入れられていたヴォーヴの捕虜収容所の通訳もアルザス人であった︒

戦争初期に南フランスに逃走した四十三万人ほどのアルザス人に︑帰郷が勧告された︒

にあたる住民の帰還は︑

一九

0

年の夏

アルザスの人口の三分の一

アルザス経済の再建という点からも屯視されたのである。「ナチ国民福利厚生団(NSVolks,  w o h l f a h r t )   j

が︑帰還者の食糧や住居などの支援に甘たった︒最初に帰郷したのは︑親独派ゆえにフランスで拘留され

ていたプロテスタントの牧師やアルザス自治主義者たちであった︒彼らを迎える式典が行われ︑

再建のために尽力するように訴えたが︑出席者の全員が服の折り返しにナチの鈎十字章をつけており︑演説はヒトラ

一九

0

年八月六日に第一次帰還者を乗せた列車が︑

旗や花で飾られた︒列車が到着すると︑

き街﹂という古歌を奏でた︒帰還者が列車から降りると︑

の青年が彼らの荷物を運び︑

ストラスブール中央駅に到着した︒駅のホールは︑鈎十字の ドイツ警察交欝楽団が

プラットホームに整列していた﹁帝国勤労奉仕隊﹂︵後述︶

﹁ナチ国民福利厚生団﹂の少女がスープや哺乳瓶を配った︒そのときスピーカーから︑

ルンストがアルザス語で歓迎の汀葉と︑彼が組織した﹁アルザス・ナチ協力奉仕団﹂

があるたびにこのようなセレモニーが演出され︑帰郷者は

しかし難民のアルザス帰還が進まなかったので︑

の宣伝を述べた︒帰還者

﹁偉大なドイツヘの帰還者

歓迎﹂というドイツ語の横断語︑演説︑国腹︑﹁世界に冠たるドイツ﹂やナチ党党歌﹁ホルスト・ヴェッセルの歌﹂に

迎えられた︒帰郷を拒んだアルザス人も一万五

r

人ほどいた︒

ーを讃える﹁ハイル﹂で締めくくられた︒

ドイツは帰還しないアルザス人に︑故郷に残った家族の窮状を訴

J::. 

﹁シュトラスブルク︑

シュトラスブルク︑汝うるわし エルンストが故郷の

14‑3・4 ‑645 (香法'95)

(12)

大管区長官は︑

きたる七月三ト一日以後︑引き揚げ願いは受理されず︑難民の財産は没収される

と通告せざるをえなかった︒一九四二年から四四年にアルザスに帰還した住民は︑四千四百九十二人でしかなかった︒

ドイツはアルザスからアルザス人を追い出して︑

の具体化であった︒故郷を追い出されたアルザス人は︑

は植民地化に取りかかり︑

ールに組織され︑ ドイツでの労働に駆り出された︒

四月には生粋ドイツ人

( V

o l k s d e u t s c h e

) の﹁入植事務局

( A n s i e d l u n g s s t e l l e

) ﹂がストラスブ

その事務局長にはカトリック自治派のヨゼフ・ケッピが就いた︒多数のドイツ農民が送り込まれた︒

モロ

ッコ

人︑

ポーランドやベルギーの農業労働者から調達された︒ドイツ移民侶託会社が︑東欧に住むドイツ

人を入植移民として︑

出身者が多かった︒南チロルは︑

戦前の日本が︑満蒙開拓団を組織して東北地方の貧農を送り込んだのと同じ現象が繰り広げられていたのである︒

ドイツの諸制度の導入 ドイツ人の植民を企てる︒

ロレーヌ地方に送り込んできた︒

﹃わ

が闘

争﹂

それ

は︑

八十万人ほどのドイツ人がこれらの地を踏んだ︒

とくにベッサラビア

のなかでヒトラーが政治的に重視していた地域である︒

一九

0

年六月十九日︑ストラスブール大聖堂に鈎十字の旗が掲げられた︒それから約一カ月後の七月十六日には︑

務員は追放された︒ アルザス全域にドイツの民政が整備された︒上級と中級の公務員はバーデン出身の公務員で占められ︑

アルザスの諸制度や諸組織は︑既存のドイツのものへと再編されてゆく︒

一九

0

年六月までに︑郡長に相当する十三人の中管区長官

( K r e i s l e i t e r

) を任命したが︑

②  アルザスの最初の入植者は︑第一次大戦の結果︑オーストリアがイタリアに割譲した南チロル︑

このなか アルザスの公

アル

ザス

ア 人

その穴埋めとしてドイツで必要な労働力は︑一般フランス人と強制労働を課された解放フランス人捕虜︑アルジェリ 一九四一年一月末にドイツ

﹁生

存圏

( L e b e n s r a u m )

﹂思想 民の帰郷に関する政令﹂を出して︑

一六

14  3・4  646 (香法'95)

(13)

ナチ占領ドのアルザス(渡辺)

新郎新婦は市長から口わが闘争﹂を受け取った︒

祝いになっていた︒ ヽ~こ。カ ︸

t

ドイツでは一九三五年以来︑

. 

‑』‑‑

﹃わが闘争﹂は国家からの結婚 とくに結婚と離婚は︑以後ドイツ法に従った︒

つま

り︑

六月から七月にかけてドイツ家族法が導人された︒

( 2 2 )  

三年一月四日であった︒ 刑法の全面適用は四二年一月:一十日︑

商法と民法の全面適用は四

にはフランスからの分離を求めるアルザス人リーダーも含まれていた︒中管区長官は︑市町村長に当たる小管区長官 ( O r t s g r u p p e n l   e i   t e r )

を支配し︑小管区長官の下に細胞長

( N e l l e n l e i t e r )

︑細胞長の下にブロック長

( B l o c k l e t e i r ) が

いた

十五\二十軒の家を擁した︒ブロック長は配ドの人びとの動向を調介し︑細胞長に報告する義務を負った︒こうして︑

ナチの地方行政組織が移植された︒

そこでは︑内地フランスと同様に密告が奨励される︒ラ・ブリュシュ渓谷のシー

ルメックに強制収容所が作られ︑相互監視システムが張りめぐらされた︒

一九

0

年七月にストラスブールに誕生した︒十月にこの組織は大管区へと拡大され︑

二千人のアルザス人が入党を認められた︒入党の動機はさまざまであり︑筋金入りのナチ党員は少なかった︒

一九

0

年八月十六日の法令によって︑四

実施が予告され︑

ドイツ語が行政用語として導入される︒同年の十月二十五日にドイツ法の

四一年から四二年にかけて順次適用された︒四一年一月十日にドイツ刑法の一部が適用されたし︑

一九三五年のニュルンベルク法が適用されたのである︒

ュルンベルク法とは︑公民を定義づける帝国公民法とユダヤ人との結婚を禁ずる血統保護法のことである︒ナチの人

種政策が日常生活に導入され︑配偶者がアーリア人であることを示す証明書がなければ結婚式をあげることはできな 最初のアルザス突撃隊が宣誓をしたのは︑一九四一年五月二十四日のことである︒一九四二年六月の時点では︑

一 万

ナチの最初の地方支部は︑ 全地域が﹁細胞﹂と﹁ブロック﹂に区分されたのは︑

一九

0

四年十一月である︒各ブロックはブロック長の監視下で︑

14  3・4  647 (香法'95)

(14)

教育制度もドイツのそれが移柏された︒ と誇示している︒ グ

ナー

は︑

一九四四年六月に︑

アルザス住民の六十

^ ^1

パーセントに刈たる約六十五万人が何らかの組織に属していた

ワー

一九四一年十月には︑アルザスのド級指導者養成学校が開設される︒女性のためには︑

の学校が作られ︑軍事

f

備教育が行われた︒ ルザスのサン・トディール僧院や︑ダッハステン︑それにモーゼル地方のリヒテンベルクに︑

一九

0

年九月に導人されたヒトラー・ユーゲントは︑

L e i b e s t i b u n g e n ) ﹂

に ︑

音楽家の団体は﹁国民音楽帝国協会

( R e i c h s v e r b a n d f i . i r  

V o

l k s m u s i k ) ﹂

に ︑

の愛好家は﹁ドイツ釣人帝国協会

( R e i c h s v e r b a n d D e u t s c h e r   S p o r t f i s c h e r ) J   四二年一月から義務化される︒修道士が追放されていたア

一九四二年からは︑卜五歳の団員は防空任務についた︒

s c h a f t

) ﹂や﹁ドイツ少女同盟

(B un D d e u t s c h e r   Ma d e l )

﹂があった︒

ヒトラー・ユーゲント

「ナチ婦人団(NSFrauen, 

﹁少女同盟﹂は幼稚園の管理を引き受けた︒

フランスにはなかった実業的な韮幹学校

( H a u p t s c h u l e

の制度が導入され)

もした︒国民学校

( V o l k s s c h u l e

) の四年間の課程を修了した生徒で上級学校

( O b e r s c h u l e )

に行かない生徒が︑基幹学校

で四年間︑農業・工業・商業・上芸などを学ぶことになった︒ アルザスの鱒釣り

3 :2  

に所属せねばならなかった︒

組織は解体され一元化が迎められた︒

その他にも︑

スポーツ団体は

﹁ナチ体育帝国連盟

(N S‑ R e i c h s b u n d  

f t i r  

慈善団体から趣味の団体にいたるまで︑ 人たちを待っていた︒

この例外ではなかった︒﹁ナチ国民幅利厚生団﹂によって︑アルザスの慈拷 義退役軍人会に︑十歳から十八歳の少年はヒトラー・ユーゲントに組織された︒

ドイツのキャンプでの軍事教練が杓

ドイツと同様に諸組織の一元化が押し進められ︑

アルザスは全体主義的機構に組み込まれてゆく︒職能別の組織が 導入され︑農民は農民団

( B a u e r n s c h a f t )

に︑労働者は労働戦線

( A r b e i t s f r o n t ) に︑退役軍人は︑

t

ライン国民社会主

ー今

14  3・4  648 (香法'95)

(15)

ナチ占領ドのアルザス (渡辺)

ら︑保有する株式数を申告するように脅迫されすらした︒

/¥ '~

︵合

併・

買収

が︑株式

また

すでに一九四

0

年七月に︑ドイツ帝国郵便局

( R e i c h s p o s t )

の窓口が開設されていたが︑四一年五月からアルザスの

郵便事業はライヒのそれに併合された︒郵便箱の色もドイツの色に塗り変えられた︒

部を置くゲシュタポによって補完されてゆく︒

に置

かれ

る︒

警察組織もストラスブールに本 アルザス経済をドイツ経済に結合することがもくろまれた︒資本と株式の市場は︑民政長官の支配ド

アルザスの銀行は︑ドイツ銀行

( D e u t s c h B e an k)

やバーデン銀行

( B a d i s c h B e an k)

に吸収された︒最初

にアルザスに設けられた帝国信用金庫

( R e i c h s k r e d i t k a s s e

) が臨時の支払い手段として紙幣を発行したが︑

年秋には︑帝国銀行

( R e i c h s b a n k )

がアルザスの中央銀行として登場し︑フランス銀行の業務を引きついだ︒ドレスデ

ン銀行

( D r e s d n e B r an k)

がフランスの国立廂工銀行アルザス支店を吸収し︑

アルザスの地方銀行は消滅し︑

( 2 7 )  

ツの大銀行によって捨て値に近い額で買い取られたのである︒

フランスの保険会社の清算を担判する中央事業団が組織され︑企業もドイツに乗っ取られた︒それは︑占領 下のフランス企業が遭遇した運命と同じであった︒ドイツ企業によるフランス企業の

M&A

や金融に関するドイツ商法をアルザスにもたらすことはコロラリーであろう︒

以上のように︑

アルザス人は株を没収されたくないな

日常生活の隅々にいたるまでドイツ色が染み込んだのである︒ 民政長官府の経済金融局によって任命された︒

かく

して

パリの大銀行の支店もドイ テ・ジェネラル﹂は︑バーデン銀行と合併させられて﹁バーデンーエルザス銀行﹂を名のった︒この銀行の経営陣は︑ アルザス最大の地方銀行である﹁ソシェ

一九四〇

経済

面で

は︑

14 3・4 ‑649 (香法'95)

(16)

アルザスのユダヤ人の多くは︑ には逮捕されるとその場で銃殺された︒ ー政権支配下の自由地区に逃亡した︒しかし自由地区も︑ 追放は︑﹁民族性

( V

o l

k s

t u

m )

﹂の議論とパラレルであった︒非同化者は排除され︑フランスの自由地区に追放された︒

ユダ

ヤ人

︑ ロマ民族︵ジプシー︶︑外国人︑

こ五年以内の前科者︑社会生活不適応者︵乞食・放浪者・無職︶︑

一九四二年九月には︑黒人・ジプシー・ユダヤ人︑外国人︑方言を話す住民︑

社会的不適応者︑治癒不能の精神病者の五つのカテゴリーに整理された︒この五カテゴリーに︑人種主義の高まりや 民族衛生学や優生学的見地の強化を窺うことができる︒アルザスからの追放は︑パリの﹁中央移住事業団

( B

u r

e a

u

c e n t

r a l   d '

I m

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g r

a t

i o

n )

﹂と連携して行われた︒

占領地区のフランス同様に︑真っ先に排除されたのはユダヤ人である︒彼らは︑

四日分の食糧を含む三十キロの荷 物と数千フランの所持金のみ許された︒こうして︑約三千人のユダヤ人がアルザスとロレーヌから追放され︑

ヴィシ

一九四二年十一月のドイツ軍による全土占領後はユダヤ人

にとって安全な場所ではなくなった︒彼らは︑逮捕されてドイツやポーランドの強制収容所に送られたり︑戦争末期

いつか故郷に帰れる日があるという希望からヴォージュ山地に移り住んだが︑大半 はそこで捕らえられ怖制収容所へと送られた︒またゲシュタポとフランス民兵団の協力によって︑ブールジュ周辺の 七十一人のユダヤ人が逮捕されたことがあった︒男二十七人︑女三十五人︑子ども九人からなるユダヤ人のうち︑三

十六人が射殺され︑死体を井戸に投げ込まれ︑上から五十キロの石やセメントで埋め込まれたという︒井戸に投げ込 国を非難攻撃するアルザス人である︒ 一九一八年以後に移住してきたフランス人︑第三帝 追放すべき八つのカテゴリーがあげられた︒スペイン戦争時の義勇兵︑

③ 追

1

nT

一ブ>

14--3•4 ‑‑650 (香法'95)

(17)

ナチ占領ドのアルザス(渡辺)

国的結社の代表︑人権同盟や左翼の活動家︑ 実際の追放者は︑ユダヤ人のほかには︑アルザス以外の出身の官吏︑ 公証人などのブルジョア有産階級が選ばれた︒ ン

した

追放の脅しをちらっかせつつ︑﹁総統への と不動産は︑﹁ユダヤ人財産整理局﹂で清算された︒ いた︒それは︑ ドーニュ県のペリグーに移住し︑ ま

れた

とき

され

た︒

9

:2 ] 

まだ息たえていなかった者もいた︒

ペリグーは

人口も少なく出生率も低かったからである︒

一九

0

年七月卜

1

五日

の政

令は

アルザスから強制移住させられたアルザス人は一九四

0

年だけで三

十万人とも言われ︑彼らは僻遠のフランス南西部に追いやられた︒

﹁ストラスブールのミニチュア﹂となった︒この地域が選ばれたのは︑

ドイツ﹁国民と帝国の敵

I

リーメーソン︑第一次大戦の休戦以後︑

スペイン戦争の義勇兵︑親仏的な名士︑3

ぷ教

人︑

金持

ち︑

するために取り上げようと叶画していた土地の持ち主などであった︒こうして︑

一六

ドイツ人にステイタスと財産が与え

レジオン・ドヌールの侃用者︑ ストラスブールの住民の多くと行政組織は︑

すな

わち

︑ ドイツと交戦中の敵国民︑反ナチ政党やフ アルザスで財をなしたユダヤ人やフランス人の財産を没収することを述べて 一九一八年に親独派のアルザス人が被ったものと同じであった︒今度は親仏派のアルザス人が対象と

﹁国民の敵﹂概念は曖昧であり︑﹁好ましからざる人物﹂とされたアルザス人は追放された︒

一九四二年四月二十日政令によって︑

アルザス人やアルザスに帰還しようとしないアルザス人の財産も没収の対象となった︒

ロレ

モーゼル県では︑

ドル

ユダヤ人の動産

アルザス居住を拒否された

ロレーヌでは︑住民がフランス語を話す村の無人化が企てられ︑全村人の集団追放がなされた︒

い﹂に署名することが求められ︑住民五十三万人のうちの五十万人がサイ

ロレーヌの大管区長官ビュルッケルの追放政策は︑言語に重点を置いたものであった︒

アルザスでは︑

ーヌのような徹底した町村の無人化は行われなかったが︑排除すべき人間として︑企業︑E︑商店主︑阪者︑弁護士︑

フランスの愛

ドイツが植民

14  3・4  651 (香法'95)

(18)

ルナーに変えられた︒ の姓のみ許された︒

しかしこの作業が事務的にも膨大なものであったことや︑改名願いを自発的に出すアルザス人 が多くはなかったこともあり︑改名作戦も期限までには終えることができなかった︒

たと

えば

一九四三年一月十五日にも︑ ニコル・ペルネはニッケル・ベ の法規に明示されていた︒ に命じられた︒現金数

f

フランと荷物ニーキロしか持っていくことができなかった︒残りの家財は没収された︒大婦 出発前にアルザス人は次の誓約内に冴名させられた︒ー許

なくアルザスの地︑または帝国の地には一一度ともどれなn J

採石場での強制労働刑を受けても︑

異議ありません

L°

一九四一年からは︑追放先はフランスからドイツに変えられた︒労働力という考附が働いたのであろう︒故同を追 ゲルマン化は日常生活にも人りこんできた︒ゲルマン化の第二弾は改姓であった︒

それ

は︑

フランス語の姓名がアルザスから泊滅すべく改名願いを提出させられ︑

クロード・ベルナールはクラウス・ベルンハルトに︑

以後

︑ ドイツ語形

一九

0

年八月十六日

④ 改

われたロレーヌ人は

l i l J J 人 ︑

アルザス人は四十万人と推定されている︒

いことを︑今日ここに通告されたことを認めます︒沿安腎察の巾飢

r t f l

l J

なく帰還した場合には︑年間の強制収容か︑

l

で妻がドイツ人の場合には︑夫だけ追放された︒ 追放の状況は次のようであった︒アルザス人は︑

突然

︑ 祝衛隊員の訪間を受け

. . .  

卜分以内に出発の準備をするよう

数は

まで

で︑

アルザス人﹇の一割に%たる卜万五

f

人が追放されたり帰郷を阻止されたが︑

約四万五

f

人で

ある

真にアルザスを追放された人

られ

た︒

一九

0

年夏だけで︑追放されたこの種のアルザス人は一~s:Jj人におよんだ。

一九

0

年ヒ月から十二月 .. 

‑.  J.. → 

/¥ 

̲ ̲j 

/¥ 

1,1  :3・4  6S2  (香法 '95)

(19)

ナチ占領下のアルザス

がなされた︒歴史の内き換え︑ジゴージ・オーウェルの i

し\

日ド

一 [‑

︸ JV Il

︵ハ

ヤカ

ワ文

庫︶

一六 七

の間界が現出する︒三色旗は

フランス人の感情やフランス人の集合的叫惚を消す試みい

⑤ 脱 フ ラ ン ス 化

う﹁言葉狩り﹂は︑脱フランス化の始まりでしかなかった︒

(渡辺)

その

他︑

このような改名とい ミュルーズでは︑グアージュ

ソ ー

月一日までに改名するよう屯ねて命じられている︒十五年戦争ドの日本が︑

宮前のトロカデロ広場の景色のある文鎖などが持ち去られた︒

( k a l

t ) ﹂と ドイツ語化されているか調べられたし︑蛇口の﹁冷

( f r o i d )

﹂ ︑

に変えられねばならなかった︒

﹁ 温 ( w a r m )

町や村の名もドイツ名に変えられた︒ビトシュ

( B i t c h e )

はビッチュ

( B i t s c h )

に変えられたし︑

﹁ヒトラー・プラッツ

理髪師の職業名も︑ ︵広場︶﹂や﹁ゲーリング・リング

︵野

蛮人

フランス語の︽

c o i f f e u r

s ︾からドイツ語の︽

F r i s e u

r s ︾に代わった︒

ゲルマン化と対偶の関係にあるのが脱フランス化である︒

L

 

甫︶

り︱

﹁ヒ

トブ

ー勇

り一

1 }

L と命名されたのは︑

﹁ 温 ( c h a u d

) ﹂のフランス語は削り取られ︑

コルマール

( C o l m a r )

住民のウィットであろう︒

った

し︑

︵広場︶﹂という名称が雨後の竹の子のように現れた︒ は︽

Ko lm ar

に変えられた︒通りや広場の名前も同様であった︒﹁平和通り﹂は﹁ヘルマン・ゲーリング通り﹂とな

ドイツ語の﹁冷 さらに台所の

﹁ 塩 ﹂ ︑

﹁ 胡

椒 ﹂

﹁小

麦粉

などの文字が がアルザスの広苫塔に掲げられ︑家庭のなかまでチェックされた︒エッフェル塔の模型や絵佑仕r ︑パリのシャイヨー

であ

る︒

一九四一年五月には︑﹁あらゆるフランスの汚れから︑ドイツ・アルザスを清めよう﹂と呼びかけるポスター ホテル名もドイツ名に変えさせられた︒例えば︑ れていたのである︒

﹁メゾン・ルージュ﹂

は﹁ローテス・ハウス・ホテル﹂

という具合

朝鮮や台湾でしたことと同じことが行わ

14  653  (香法'95)

(20)

一九

0

年の占領と同時に︑

や ︑ もちろんのこと︑フランスを想起させるすべてが否定された︒この任務を担当したのは︑諜報部

(S

i c

h e

r   h

e i

  t s d

i e

n s

t )

公安警察

( S

i c

h e

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p o

l i

z e

i )

であ

る︒

一九四一年初め︑追悼記念碑湘清事務局がストラスブールにできた︒事務局は市町村の記念碑や記念プレートを修

正する任務を帯びた︒第一次大戦のモニュメントの碑文は泊しさられ︑

フランスを想起させるものは︑

員からなる﹁アルザス・ナチ協力奉仕団﹂

( E

l s

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s i

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h e

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s d

i e

n s

t )

であった︒﹁奉仕団﹂

られ︑避難民のアルザス帰還への協力︑公務員の政治態度や諸組織の調脊︑反仏プロパガンダ︑

捕 虜 や 収 容 中 の 親 独 派 の 解 放 な ど を 任 務 と し て い た

﹁ 奉 仕 団

﹂ は

︑ ロ ベ ル ト

・ エ ル ン ス ト

によって創設されたものである︒初期のメンバーは︑自治︑任義派の﹁青年団(J

un

gm

an

ns

ch

af

t)

﹂からリクルートされた︒

タンの町では︑

語を話しなさい﹂ ﹁ドイツのために死す﹂というドイツ語に変え

すべて抹消された︒十八棋紀から石に彫られていた通りの名前が泊され︑

フランスの栄光を偲ばせる記念碑は破壊された︒その実働部隊となったのが︑

ジョッフル元帥の姿を描いた戦没者追悼記念のレリーフが壊されたし︑

フランス語を話す者は処罰されるという決定がなされた︒ 古戦場からは︑ ランス語の墓碑名も削り取られた︒ ら

れた

﹁アルザス人よ︑母 ワーグナーも﹁アルザス人 ストラスブールでは︑

一九

0

年六月二十日に︑ アルザス出身の戦争 はナチ党の先鋒と位置づけ

0

年九月に町の大広場の中心にあったフランス革命期のクレベール将軍の彫像が倒された︒

パストゥールの記念像

アルザスでフランス国歌が生まれたことを偲ばせる﹁ラ・マルセイエーズ﹂の記念碑も取り壊された︒ジャンヌ・

ダルクの彫像︑両但界の英雄であるラファイエットの彫像は︑ダイナマイトで爆破された︒

よ︑諸君は今後︑自由かつ純粋に母語を話すことができる﹂と述べたし︑占領軍のポスターにも︑

と書かれていた︒標準ドイツ語が強制され︑標準ドイツ語の無料講習会のポスターがアルザス全域

アルザス人のナチ党 1

ごヽ

‑f /j  

14 ~3•4 654 (香法'95)

(21)

ナチ占領下のアルザス(渡辺)

同様

﹂に

が公共広場に現れ︑ ンのヒトラー・ユーゲントが家々を訪れて︑

一六

マルクス主義︑亡命者などの汚辱の文学と

フランス書の引き渡しを要求した︒ ベレー帽は︑﹁ガ

一九

れた

︒ 一九四二年八月︑

それで︑﹁公共の場でフランス語を話す者は強制収容所送りになるであろう﹂と威嚇せざるをえなかった︒これに従

一九四三年からはシルメックの収容所が待っていた︒実際︑

ドイツ語の方言にあたるアルザス語も禁止され︑

アルザス語での演劇の上演やアルザス語の本などが槍玉にあげら ストラスブールに﹁ドイツ語協会・上ライン県支部﹂が設立された︒しかし︑

員だけに標準ドイツ語の使用を強制しえたにすぎなかった︒

一九四一年五月十六日には︑

バスク・ベレー帽をかぶる者は誰であれ強制収容所送りにするという法令がコルマー

ルで出された︒これに違反したアルザス人は︑

そこで焚書が行われた︒

七カ月の禁固刑に処せられる︒その年の十二月には︑文民政府長官の

政令によってアルザス全上でベレー帽が禁止された︒ワーグナーは︑ベレー帽は脳を軟弱にすると考えていた︒

品 ︶

三六年のベルリン・オリンピックの開会式でフランス選手団がベレー帽をかぶって入場したように︑

リアの雄鳥﹂や﹁ジャンヌ・ダルク﹂と同様にフランスのシンボルであったからである︒

フランス文化を一掃すべく家庭からヴィクトール・ユゴーの本などが集められ︑燃やされた︒

フランスの小説は︑﹁ユダヤ︑

アルザス地方の書棚から消えてなくならねばならなかった︒

ドイツは公務 ナチ突撃隊やバーデ

フランスの書物を満載したトラック

はめになった︒ マールの薬剤師と理髪師が強制収容所に人れられたし︑ストラスブールの四名の女子高校生は︑

二週間獄中で過ごす

わない者には︑フランス語を話したことを理由に︑ 置も効果はあまりなかった︒ に貼られる︒夜間講習や映画︑音楽︑歌︑ヒトラー・ユーゲントの活動が︑その手段であった︒しかし︑

コル

これらの措

14‑-3•4   655 .. (香法'95)

(22)

じ義の精神をたたきこんだ︒ 教育の理解力をためされた︒

それ

で︑

公務員︑企業家︑教師などの指導者の再教育がなされた︒公務員はドイツで数力月の政治教育の講義を受けなけれ ばならなかった︒教員は八トパーセントがドイツに送られ︑教会よりも﹇家を卜に憤くことをたたき込まれた︒ドイ

フランス時代に学んだそれより店い教師は半年間の再教育を受けねばならなか

った︒修了後︑年長教師はすぐにアルザスにもどったが︑ザ右い教師はバーデンの小学校で教鞭を取らされ︑

バーデンからドイツ人教師が代わりにやってきて︑

アルザスの学竜に国氏社会

一九

0

年に再開された小学校とじ級学校には︑教会系の学校はなかった︒

ツ時代に学んだ年長の教師は六週間︑ の時間に行われた︒

ょ ︑

日耀の朝の礼拝の時間に行われた︒大人も日耀日に労働奉仕に動員されたり︑

ドイツ的

食糧切符の配給が日曜日の礼拝

され

たが

ロレーヌ人が多数の所では暴動となった︒

H

曜に教会に行かせないように︑

ヒトラー・ユーゲントの集ま

l:•1ーこ、

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一ー

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公布され︑家教系の新間の多くも廃刊に追い込まれた︒

を追放すべきと苔えていた︒ロレーヌだけで二百人以上の聖職者が追放された︒

日曜ミサが繁止

ワーグナーは︑

カルメル派などの観想修道公

tf

六百

ーー

ート

人 カトリックもフランス的なるものとして退けられた︒心ぷ教系の慈善団体の解散デクレ

︵一几四一年三月十七日︶が に堕する恐れがあったしと語っている︒ た︒大管区長官ワーグナーは︑-Luこド'1•1i

‑ f

u

l I r ]

rl i 

﹁フランス支配ドにあって︑

アルザスはヨーロッパの最貧国の水準

ランスはアルコール中毒︑離婚の頻発︑ 図書館からも反ナチの仕贔切が没収され︑ドイツ文化の窪伝がなされた︒﹁フランスは叩落︑荒廃している﹂とか︑﹁フ

スラム街︑結核で腐っている﹂︑といった反フランスのプロパガンダがなされ

一 七

0

14  ;~ • 4 656  (香法'95)

(23)

} ーチ占領ド(})アルザス (渡辺)

る﹂︒立口鮒に耳を傾けないことは︑人間に耳をかさないこと︑

すな

わち

ー ・ →

14  他 者 に 心 を 向 け な い こ と を 怠 味 す る

︒ 他 者 に い

アルザスでは︑ラジオは騒行を製造する装附となった︒ラジオの騒行は︑[;口菜に耳を傾けないように人間を教行す

ートは次のように述べる︒ 様のことがアルザスでもおきた︒各自治休やレストランの部屋︑大きな卜字路︑広場などに拡声器が取りつけられたけを受信できる小型ラジオが配られた︒

また宜伝カーが町や村の通りに出没した︒

ーの演説が一日中︑人びとの耳に届けられたのである︒

マックス・ピカートは︑

こう

して

︑ ドイツの宣伝やヒトラ

し ︑

ストラスブール近郊に︑ 宣伝相ゲッベルスが︑

大情のラジオをはとんど無料に近い値段でアルプス地方い山のなかまで普及させていたか︑同

宣伝省を持っていたドイツは︑

フランスよりラジオの利用に

日の長があった︒

オーストリア併合に際してドイツ ラシオ放送の監祝役を担う杓者のための学校が作られた︒貧しい人びとに︑地方放送だ

ナチの時代のラジオの社会学的意味を苔察している︒ラジオはごつの意味で害毒をまき散 らした︒なぜなら︑第一にラジオは外界への関心を失わせ︑第一

1に理性的な判断を奪うからである︒そのことをピカ

応答

( A

n t

w o

r t

) しないことは︑責任

( V

e r

a n

t w

o r

t u

n g

) を負わないことを怠味する︒ここから︑他者への無関心や待機

を説明し

f

占する全知全能の神性を得た

L

から発せられたことは象徴的である︒

また

ヴィシーの佑報大臣を務めたフィリップ・アンリオも︑

と詔っている︒

うに︑心理戦や軍事作戦に使われた︒

︳九

0

年六月卜八日のドゴールの抵抗を呼びかける放送が︑

大戦下のヨーロッパでは︑

ジ オ

フジオが重要な役割を油じた︒

ラジ

オは

﹁ラジオはすべて

BBC

のマイク

宣伝扇動の機能や賠号による連絡といったよ

657 (香法'%)

(24)

年八月に徴兵制が施行される前には︑ 翌年の八月ニト五日に徴兵制がしかれたのである︒

それ

では

そのプロセスを追ってみよう︒

アルザスを金権支配とボルシェヴィズムとの戦いに参加させるために︑

ルザス青年を武装親衛隊に編入するキャンペーンを行っていた︒これ以前には︑補助警察

( H i l f s p o l i z e

i ) や一般親衛隊

( A l l g e m e i n e  

SS

)の募集がなされていただけであった︒ニカ月で︑武装親衛隊員は一二十二人しか補充できなかった︒そ

こで︑大管区長官は補充キャンペーンを強める︒親衛隊部隊長になっていた自治主義者のヘルマン・ビックラーも︑

ヨーロッパ再編のためにドイツが進める

口由の大闘争﹂に

子息を一人送り出すことはゲルマン家庭の務めであると述べたが︑独ソ戦が始まった一九四一年六月の募兵ポスター には︑﹁運命は今日︑アルザスがドイツの偉大な歴史を自覚しかつその歴史に値することを示す固有の機会をアルザス

に与える︒⁝⁝青年の場所は鉄兜の前線にある﹂︑ アルザス人に志願するよう呼びかけた︒

と印刷されていた︒しかし︑その結果は微々たるものであり︑四一

1

ワーグナーも約二千人の国防軍兵士と武装親衛隊員しか集めることができなか

ワーグナーは︑

一九

0

年十月一日からワーグナーは︑

徴兵制は段階を跨んで実施された︒

一九四一年一月に志願兵の募集が行われ︑

⑦ 徴

べて

いる

が︑

ここにメディアと大衆操作の関係が

い尽くされている︒

ラジオが人間を作るかのようであった︒人間のあらゆる感情︑意欲︑

ある︒﹁ラジオ人﹂ 生

じ︑ 第二の点は︑

ラジオが事件を報道するだけでなく︑出来事を作り出す点に関わっている︒

という﹁新しい人種﹂が生まれるとか︑ 主義が生まれるのである︒

ア 五月に帝国勤労奉仕隊が布告され︑

まるで万事はラジオから そして知識は︑ラジオから発生するので

t t t

界は実にラジオから生まれるかのよう﹂だと︑彼は述

一 七

14  3・4・658 (香法'95)

(25)

ナチ占領ドのアルザス(渡辺)

一九四二年八月ニト五日に︑ 四二年十一月までに︑

アル

ザス

独ソ戦の一カ月前の四一年五月に大管区長官は︑十七\二十五歳の男女を対象に義務的な﹁帝国勤労奉仕隊

( R e i c h

, s

a r b e i t s d i e n s t )

﹂の創設を布告した︒これは︑ドイツでは一九三三年に導人されていた組織である︒

であった︒アルザス﹁奉仕隊﹂の創設によって︑アルザスの若者はドイツの準軍

この制事キャンプでのこ\六カ月の強制的訓練を課せられた︒

度は︑内地フランスでは四三年一一月から実施されたものである︒強制労働に従わない若者はシルメック収容所に入れ

られ

た︒

アルザスの政治は︑内地フランスよりつねに一歩先を行っていたのである︒

﹁帝国勤労奉仕隊﹂が軍隊への編入の前段階にすぎないことが分かると︑青年たちは故郷から集団で逃亡した︒

所送りになり︑財産は差し押さえられた︒徴兵制布告後には︑ヴォージュ山脈からスイスにかけての国境警備が強化

ンスに逃げこんでも︑ され︑警察犬を従えたパトロール隊が組織された︒国境警備隊に逮捕されて銃殺された青年たちもいた︒運よくフラ

フランス憲兵隊によってドイツに引き渡された青年もいた︒徴兵を忌避して逃亡する若者はあ

とを絶たない︒幸運にもロンドンまで逃げのびて︑自由フランス軍に参加した青年もいた︒

包まれたが︑

一九

二年から二四年生まれの若者に動員令が下った︒

0

アルザス人にはどうすることもできなかった︒多くの若者はドイツ国防軍に召集され︑親衛隊に加わる 者は九百人弱であり︑とくに武装親衛隊に加わる者は三十人ほどであった︒ラヴァル首相は︑九月上旬に徴兵制に抗 議し︑ヴィースバーデンの休戦委員会に覚書を手渡したが︑首相は五月にアルザスの放棄を声明しており︑ヴィシー

の抗議も形式的で内密のものとみなされた︒ 者を迎えたのはドイツの

3)  

っ た

﹁奉

仕隊

ロレーヌ両地区で一万二千人の青年が逃亡した︒報復として彼らの両親が強制収容 ﹂

アルザスはドイツヘの憤りに

一七

一九

1.年五月一ご卜日には強制労働徴用が始上るが︑

一 九

一九

0

年に帰還

14‑3•4-659 (香法'95)

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